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やっぱり音楽は素晴らしい! [クラシック雑感]

今週は、諏訪内晶子さんの国際音楽祭NIPPON2024と茂木大輔さんののだめクラシックコンサートを拝聴してきた。まったく方向性は違うけれど、両者ともとてもクオリティが高く、劇的なクライマックスでいまだに興奮冷めやらぬというところである。


年明けてから、気持ちの持ちようというか、長年張りつめていた緊張感が切れた感じで、将来の不安も含め朝から気持ちがどんよりと優れない日々が続いている。


でも2日間続けてこの音楽会を通って、心底明るくなった。

救われた、と感じた。


やっぱり音楽は素晴らしい!


音楽は人生を救ってくれる。


人生、ずっと音楽とともに生きてきた、音楽のある人生に自負のある自分にとって、しみじみとそのことを実感した。またその信念を確かなものと感じさせてくれた演奏会であった。


みなさん、ほんとうにご苦労様でした。


●国際音楽祭NIPPON2024 シューマン室内楽マラソンコンサート 


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ブラームスの室内楽は、東京・春・音楽祭で10年以上に渡って、川本嘉子さんのプロジェクトを聴き続けているので、ブラームス・ソナタってこんな感じというのがよくわかっている。ブラームスってやっぱりドイツ音楽らしく男らしい。きっちりとした骨格感があって厳格な旋律で、その進行の中でふっと垣間見る美しい旋律が、いかにもブラームスって感じなんですよね。


それに対してシューマンの室内楽って、その対極にあるような柔らかい旋律の美しさがあるように思う。シューマンの旋律って、女性らしくて優しくてすごい美しい。ほんとうに癒されるような優しい美しさに包まれていて、聴いていて曲としての構成の妙を感じる。


シューマンの音楽には、”春の訪れ”を感じる。

春という季節がよく似合う作曲家だと思う。


アルゲリッチは、私はやっぱりシューマンが好き。シューマンの音楽がいちばん私に合っていると感じる・・・そのように断言している。


ブラームスの成功はやはりシューマン夫妻なくしてはありえなかった。そしてその後のブラームスの人生、創作活動についても、シューマンの妻・クララとの関係を抜きにして語ることはできない。


でもこの3者でその音楽性がとても明確に違いがあってとても興味深く感じるところであった。


この日は、シューマンの室内楽を、ピアノ三重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲、そして幻想小曲集、ピアノ四重奏曲、ピアノ五重奏曲、とフルに堪能できるマラソンコンサートであった。朝11:00から終演が20:30。まさに1日シューマンづくしである。


シューマンの音楽を、こんなに1日で満遍なく聴き込めるのは極上の贅沢であり、自分もこんな経験はほとんど記憶にない。最高の音楽体験であった。


諏訪内晶子さんは、最後の大曲、ピアノ五重奏曲のみで、若手が主役の演奏会であった。普段なかなか若手演奏家のコンサートに足を運べていない自分にとって、なんとも新鮮でそしてそのレベルの高さに驚嘆を感じざるを得なかった。


詳細なレビューは専用に日記で書きます。



●のだめクラシックコンサート


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”のだめカンタービレ”は、連載開始20周年を記念して2022年にはサントリー・ホールとオーチャード・ホールで3公演「のだめクラシック・コンサート」が開催され、23年にはフェスとミュージカルも開催された。


大変不覚なことで、自分はこの2022年ののだめクラシックコンサート、まったく気づいていなかったです。2022年の年末に調布グリーンホールで、のだめコンサートのクリスマスイブコンサートには行ったのは覚えています。この年の聴き納めコンサートで大感動しました。のだめコンサートの東京版といえば、大体調布グリーンホールで行われるのが常。


そのときいつも思っていたのが、のだめコンサートをサントリーホールで聴けたらな~、最高の華なのにな~と思っていたのでした。


だから、連載20周年記念の節目の年にサントリーホールでのだめコンサートが開催されていたなんて!もう地団太踏んで悔しく思いました。まったく気づいていませんでした。駆けつけることができず、申し訳なかったです。こんな大イベントにまったく気づいていなかったなんて。。。SNS普段よく見ていますが。。この日記を書くときにネットで調べて初めて知りました。いま知りました。


今回ののだめクラシックコンサートは、東京国際フォーラムで新年ガラコンサートという位置づけ。茂木さんの投稿で知りました。


東京国際フォーラムという5,000人は入るであろう大会場が満員御礼。これだけたくさんの人が集まってくれるなんて、しかも毎回のことながら、客層がすごく若い!


のだめコンサートは、もうこれだけのみんなに周知されるところになったんだな~と感慨深く感じました。


春日井で初めて聴いて、そして東京初進出のときも調布にかけつけた。そこから長年ずっと見守ってきたので、もうこれだけみんなの知るところになったんだな~これだけビッグな存在になったんだ!うれしく感じました。


のだめコンサートは、クラシック音楽を分かりやすく、初心者でも簡単に入りやすいように。。そのコンセプトは極めてシンプル。年配者、そして難しい、高尚な趣味と思われているクラシック音楽の敷居を低くするべく、クロスオーバー含め、いろいろな試みが行われている昨今の中で、もっともシンプルでわかりやすいコンサートで大成功している筆頭格が、こののだめコンサートなのではないでしょうか。


とにかく名曲のオンパレード。アンコールピースのオンパレードとも思うくらい、美しいいい曲が全編に並ぶ。フル楽章でなく、単楽章のみなどの疲れさせない工夫も。


こういうアプローチが本当の意味で分かりやすいクラシックコンサートなのだと思います。


聴いていて、ホッとするし、暖かいし、いい曲ばかりなので満足感がたっぷりです。


この日は、12曲という大サービスで、みんな珠玉の名曲ばかり。


あまりにいい曲ばかりで、家に帰ったら思わずストリーミングで聴き返して、お気に入りに追加しておきました。(笑)それだけ頭の中でループしてずっと鳴っていて強烈なインパクトでした。


茂木さんもN響首席時代から指揮者に転向してからずっとその指揮姿を見てきましたが、もういまや完璧な指揮者に変貌です。ベテランの指揮者と間違うくらい堂に入っていてカッコいいです。


若手演奏家主体で、そのフレッシュな演奏、みんな素晴らしかった。

ブラボーでした。


諏訪内さんも茂木さんも、主役は若手。自分は総監督の立場で、自分の世代から若手の世代へ受け継がれていくように誘導しているように思いました。


茂木さんののだめコンサートも、後日詳細レポートして日記にします。







人生の生き方、人それぞれの考え方があって正しい、正しくないはないけど、老後のことを考えて定年までいっさい我慢して貯蓄に励み、それで定年になって第二の人生になってから人生楽しみましょう、ってそんなにうまくいくもんじゃないんですよね。


若い頃からひとえにいろいろ人生を楽しんできた人は、その都度、その瞬間、瞬間にいろいろ学んで、人間的な成熟があって、長い人生で見たときに、その時代、時代でのその積み重ねが、その人の人間性、教養を形成しているものなんですよね。


定年になってから、さっ始めます・・・と自分が思っても、事は起きないんだよね。(笑)

そんなに簡単なことじゃない。そんなに自分に都合よく事は起きないです。


やっぱり一期一会なんですよ。自分の長い人生の中で、その瞬間、その出会いが一期一会と思って、そのときに楽しんで学んでいかないと、そしてそのときにお金をかける、投資していかないとダメなんだと思う。


人生では、若いときから自分に投資していくことが一番大事。


将来のことを考えて、老後の不安のためにいまは一生懸命貯蓄して、したいこともいっさい我慢して生きていくというのは、結局人生として、すごくつまんない人間になっていると思う。人間性も磨けず、教養も学べず、そういうチャンスをことごとく自分で潰してきて、定年後に安定した人生との引き換えに結局得たものというものは、至極つまんない人間になっていた事実だったということだと思う。


音楽はまさにそうだと思う。


音楽は若い頃から、子供の頃から親しんで聴き込んでくることがやっぱりいいだろう。スズキ・メソードではないけど、自分の子供に音楽を自然と親しませるような教育も重要だろう。もちろん自分も含め、そういう環境下になかった人でも、別に聴き始めたのが遅くてもいい。いまからでもいい。


音楽はすべてを救ってくれる。


朝方からずっと悩み事、将来の不安などで鬱々とした気分で過ごしてきて気分が冴えなくても、その日の夕方に演奏会、コンサートがあって音楽に身をそのまま授けると、音楽家、演奏家のみなさんに一気に天国、夢見心地の別世界へ誘ってもらい、終演後は、いままでの朝方の気分がまるで嘘だったかのように、高揚して最高の気分になっている。


音楽は、そういう陰の気を一気に粉砕して、すべてを陽の気に変換してくれるエネルギーを持っているのだ。音楽は強力な魔法なのだ。


また音楽には歴史、流行りがある。その時代、時代の音楽を学んでいくこと、ずっと聴いてくることが、音楽の素養を学んでいく上で大切である。録音、レコード演奏という革命でいまの時代でも昔の音楽を楽しめるようになった。でもやはりリアルタイムで、その時代に聴いた経験のほうがやはり自分の身の中に深く沁み込んでいるものである。


定年になってから、歳をとってから、まとめていままでの時代の音楽を勉強するのではダメだ。自分がいままで生きてきた何十年というスパン、感覚のものさしの基準は、縮められないのだ。その時間のスパンの感覚は、そのままの尺だから意味があるし、その尺の長さそのものの長さで自分の中に存在しているその時間感覚が自分という人間を構築しているその証なのだ。


自分が聴いてきた音楽は、その自分が生きてきた尺の長さの感覚で生き続けているし、その人の人間性を形成している大きな要因になっている。だから、音楽は、もう子供の頃から、若いときから、そのとき、そのときで、たくさんのお金をかけて、投資をして、勉強していかないといけないし、聴いてこないと。


定年になってからやります、じゃダメな世界だと思う。(もちろんそれを否定している訳でなく、早ければ早いほどいいということを言ってます。)


クラシックはとくにそうだ。いかに経験を積むか、いかに場数を踏むかだ。若い頃からのその経験の積み重ねが、その後の自分のクラシック人生を形成するといって過言ではない。たくさんの作曲家の曲、たくさんの演奏家の演奏、声楽家の声をリアルで聴くこと。そしてヨーロッパに行かないとダメだと思う。クラシックの本場、ヨーロッパで演奏を聴かないとダメだ。インターネットが普及している現在、ネット空間、VRでいかにも現場にいるかのような仮想体験ができるので、日本に居ながら、ヨーロッパで聴くことも可能な時代だ。


でもそれじゃダメなんだよね。自分という存在が、そのベルリン、ウィーンでもいいけど、そのヨーロッパの街並み、ヨーロッパ人の歩いている喧騒の中に埋没している感覚、あの感覚、あの空気を自分がリアルで体験しないとダメだ。


この街でベートーヴェンが過ごした、モーツァルトが作曲をしていた、ショパンがピアノを演奏していた、そういう由緒あるところを自分でその跡を追うように同じ道を歩いてみないとダメだ。そして自分がベートーヴェン、モーツァルト、ショパンの気持ちになってみる、その当時のことに想いを馳せてみる。そういう行為がクラシックの場合、とても大切なのだ。


感性を磨くこと。この行為は、やはりヨーロッパの現地に行かないとダメだと思う。その街、その場所を自分が歩いてみないとダメだ。インターネットを通しての体験ではダメだ。


もちろんコンサートホール、オペラハウスもそうだ。日本のコンサートホールは音響も素晴らしく世界でも最高峰レベルのホールであろう。でもクラシックの場合、やはりヨーロッパの現地のホールを体験しないとダメだと思う。外国人聴衆、そしてあの雰囲気。あの現地体験を経験しないと絶対ダメだ。


音楽祭、定期公演ふくめ、自分はここに莫大な投資をしてきた。


クラシックは金がかかるのだ。(笑)


音楽には、その時代、その時代で、その流行、形式があって、それをなるべくリアルタイムで実演で体験すること。そのとき、そのときが一期一会の出会いで、それを逃したら、もう二度と巡り合えないかもしれない。そのチャンスをいましっかり掴んでおかないといけない。


そのとき、そのときに、投資をしていく。その投資を惜しまないこと。


音楽とは経験と場数、そしていかに投資をするか。

その投資の度合いで、音楽の世界に深く関われるかどうか決まってくる。

その投資の額によって、その深さが決まってしまうような気がしている。


これは音楽のことばかりではない。

人生すべてにおいてもあてはまると思う。


人生もそのとき、そのときで、いかに投資していくか、その投資した額で、その世界への関わり方の深さが決まってくるような気がしている。定年になるまで、その投資を惜しみ、すべては老後になってから生きていく上で困らないレベルの生活ができればいい、という考えでは、結局できあがった人間の器としてつまらない人間になっているのではないか、と思うのである。


定年になってから、老後になってから始めますじゃ、そんなに都合よく事は起こらないと思うんですよね。


人生って金がかかるもの。

ほんとうにいったいいくら金があればいいんだ、というくらい無尽蔵にあっていいもの。


人間の悩みって、ほとんどお金が解決してくれるものかもしれませんね。(笑)

お金があれば大抵の悩みは解決してしまうものなのではないでしょうか。(笑)


でも自分のようにお気軽な1人生活じゃ偉そうなことは言えないことも事実。家族がいる場合、お子さんを育てていかないといけない場合、マイホーム購入で住宅ローン返済。現実はより厳しい。子供が独り立ちするまで、そして住宅ローン完済、そして定年になってから悠々自適にゆったり人生を謳歌する。これがふつうの人の人生の考え方、ふつうの人の感覚なのだろう。


正解はありませんね。人それぞれの考え方ですね。人生の組み立て方の問題ですね。


自分が言うのもなんなんですが、人生なんとかなるんじゃないかな、と思います。

そのときそのときで、なんとかなる、切り抜けて生きていけるのではないか、と思ってたりします。


人生綿密に計画を立てて生きていこうと思っても、まずその通りになりませんね。

かならず想定外のことに出会うのではないでしょうか。


自分もそうですが、人間って先行き不透明な未来、将来のこと、とくに老後の問題はとても不安になって心配してしまいます。いまの自分なんかまさにそれです。


でも95%の確率で、心配しているようことは起こらないらしいですし、なんとかなる、と考えて生きていく方がいいのではないでしょうか。


還暦を迎えたら、もういままでのようにはいかない。行きたいコンサートはどれでも行くというのではなく、取捨選択をしていかないといけない。筋肉質の予算体制で生きていかないといけない。


そう誓ったばかりですが、3月以降も、新国オペラ トリスタンとイゾルテ、東京・春・音楽祭のトリスタンとイゾルテ、ヤノフスキのワーグナー・ガラコンサート、川本嘉子のブラームス室内楽、そしてヤノフスキのN響定期。。。


ととどまることを知りません。現役時代とほぼ変わらぬペース配分です。


このペースでいくと、最初自分の方で予想していたのは、老後資金が枯渇して、路頭に迷う、老後破綻が襲い掛かってくるのが大体70歳以降かな~と読んでいたのですが、このペースだともっと早まって60歳代に来るかもしれません。(笑)


危機、リスクはもうすぐそこまで忍び寄っています。偉そうなことを言っていても、じつはしっかり老後対策をして、定年以降も安泰な生活をしていくのがやっぱり無難なのかもしれません。













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文(ふみ)の便り [雑感]

平安・鎌倉時代から江戸時代に至るまで日本の古来から、文(ふみ)というのは特別なコミュニケーション手段で、対面で語り合う以上になんか特別の意思伝達ができるものだったに違いない。


よく恋文(こいぶみ)というのは、男女間でお手紙というあくまで文面でやりとりをすることで、お互い想像を膨らませていって、相手の方はどんな方なんだろう、その文面からさらに激しく相手に想いを寄せるようになって、恋心が燃え上がる。そして長い間、文のやりとりをして、そうしてとうとう念願の対面となる。


昔の日本の恋人同士は、まず最初は文(ふみ)でやりとりをすることが常だったらしい。想像の中でその文の文章の中から、相手への想いがどんどんエスカレートしていく。文というのは、そういう前哨戦的な役割をはたしているものなのだ。だから男女間のお付き合いは、まず文のやりとりから始まる。


文(ふみ)、お手紙というのは、ある意味、自分を脚色できるところもあるのではないか。

人間誰でも他人に対して自分をよく見せたいという気持ちはあるものだ。自分の姿を知られない状態で、文の中で、その言葉の綴りの中だけで自分の心の移ろい、美しさ、純情さ、そして架空想像上のよりよく見せたい自分を相手に表現できる手段でもある。


ある意味、文ほど自分の心の真の姿が出てしまうものもないのではないか。


対面での会話が苦手な人でも、文のやりとり、文通だと自分を出せる人はこの世の中たくさんいるだろう。


文、お手紙で書くということは、リアルな対話以上に、なんか感情的にグッとくるような重いものがある。また文章での疎通はかなり重い、相手への正式な通達みたいな側面もあるのではないか。


ライセンスの世界では、”レター”や”訴状”という形式に則った文面が相手への公式な意思表示になる。決して長文ではないが、まさにオフィシャルな公式の文調でピリっとくる緊張感が漂う。この書面のやりとりからバトルが始まるのだ。(笑)


文章は重いのだ。


いまの軽い時代では、お手紙は重い、としか思われないだろう。スマホのLINEで気軽にワンショットの吹き出しでやりとりをしたり、スマホのテレビ電話でお話しするいまの時代。


お手紙は重すぎて勘弁、というくらいにしか思われていないだろう。


家族で長年に渡って一緒に暮らしている間柄だと、お手紙でやりとりをすることなどほとんどない。家族ほど自分をよく知っている者はいないし、普段日常会話でなにげなくやりとりしている家族。


その家族から手紙をもらうということはほとんどないに違いない。


両親の実家から独り立ちして上京してから、オヤジから手紙をもらったことは、自分の記憶では2回ある。1回は、上京したての頃、ホームシックにかかってしまい、毎晩寮の公衆電話から実家に電話を入れて親の声を聞いていた精神不安定だった頃。オヤジが励ましの言葉とそんなことで、これからの長い社会人生活どうする?やっていけるのか?という叱咤激励の手紙だった。その手紙は紛失してしまって、いまは手元に残っていない。


あとの1回は、自分が大病を患ってしまい、長い間北海道の実家で静養して、そして東京に戻って来て復職したときだ。会社に復職したものの、3年間も不在にしていれば自分の復帰場所も存在しないのはあたりまえだ。


結局早期退職となった。42歳の時である。まさに人生での厄年1回目である。そして1年間は失業保険で暮らしていく。会社都合での退職なので保険給付も長期間で手厚かった。


生活をダウンサイジングする必要があった。高級マンションからもっと手頃なマンションに引っ越し。その引っ越しした自分の新しい住居に、両親が偵察ということで来てくれたのだ。


そして、その帰りに両親を駅まで送るときに、自分が普段愛用しているお寿司屋さんでオヤジ、オフクロにお寿司を御馳走したのだった。


それが大層嬉しかったらしく、その後、オヤジからお手紙をもらった。お手紙の1番の目的は、妹夫妻やオヤジ、オフクロの近影の写真を贈るというものだったが、そこにオヤジのいろいろな想いが綴られていた。


自分がオヤジ、オフクロにお寿司を御馳走したことをそんなに嬉しく思ってくれていたとは思いもよらず、自分は驚きだったが、「帰りにお寿司を御馳走になり、有難う。就職以来何回目かなと思いながらも少しは成長したかなと、ママと話しながら帰りました。」


確かに社会人になって両親が何回か上京して食事をともにしたこともあったが、自分が御馳走したことってそんなになかったっけ?(笑)


まさに無職の時代。これから新しい第2の人生を歩むべく、その第一弾としての引っ越し。これから職探し。そんな人生苦境の時期に、両親が陣中見舞いに来てくれた。


手紙の中には、「四十過ぎの高齢者(特に無資格者)には厳しい事と推察しています。」・・・が頑張れ!という激励であった。


3年間北海道の実家で静養していたときは、毎月1回北大病院で診察を受けていた。オヤジが車で送迎してくれて、診察のときもオヤジ同伴である。


オヤジは大層嘆き悲しんでいた。こんな病気になってしまい、もう普通には働けない体になってしまったんだぞ。お前これからどうやって生きていくんだ?お父さん、お母さんのほうが早く死んでしまうんだぞ!その後、お前どうやって生きていくんだ?


毎回の診察でも、オヤジは北大の主治医の先生に、息子の将来、この病気の場合のその後の人生の生き方について毎回食い入るように相談していた。


自分ははっきり言ってそれが憂鬱だった。


自分にとって、そんなに重い病気、症状だとはまったく思っておらず、全然楽勝で復帰できる。絶対元の生活の戻れるという確信、自信みたいなものがあったので、全然心配していなかったのだ。他の患者さんは、障害者としてその後の人生を歩まれている人も多い中、自分は全然その方々とは違うと思っていた。まったく心配していなかった。自分はせっかくもらったお休みだから、じっくり3年間、会社のことを考えずゆったり楽しみますよ、くらいにしか考えていなかった。


でもオヤジからすると、病気のことを勉強していくにつれてそういうケースを学んでしまうため、息子もそうなってしまう、と深く嘆き悲しんだのだ。そして北大の主治医の先生に、毎回そのことについて真剣に相談するのだった。


それが自分にとって嫌で嫌で堪らなかった。気分が暗くなるからだ。一気に自分も不安になってしまい、そんな気持ちになってしまうからだ。


オヤジからもらった手紙の最後には、そのときに、土曜日が都合が悪く、いまの自由が丘の主治医の先生にご挨拶して面談の機会を逃してしまったのがすごく残念と書いてあった。


そうか~!そんなこともあったな~と思い出した。


病気を甘くみてはいけないが、その後無事今の会社に再就職出来て、第2の人生を再スタートすることができ、まさに人生の幸福度としては最高潮に達したのだ。海外旅行へは行きまくり。(笑)クラシックとオーディオ、そしてグルメ、旅行をメインにした趣味に生きることを自分の人生軸に置いた人生が大成功となり人生を謳歌し続けた。


まったくこんなに人生が好転するとは思ってもいなかった。オヤジが毎日、自分にお前この後どうやって生きていくんだ?と毎回怒られていた毎日を過ごしていた実家静養時代。


自分の子供のことを真剣に心配してくれる親は当然だろう。だからそれも当然だったと自分は思う。でもそういうオヤジの心配をよそに、無事、オヤジを安心させることができて、まっ子供心によかったと思っている。


ほんとうに人生なにがあるかわからない。人生どうなるかわからない、なのである。


オヤジが亡くなったのが2014年である。ライプツィヒ・バッハ・フェスティバル真っ最中のときであった。そしておフクロは、いま施設に居る。


オヤジとオフクロにお寿司を御馳走したお店がいまのおらが街の駅のすぐ傍の栄寿司である。


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昭和32年創業で66年の伝統ある寿司店で、自分はいまでこそご無沙汰しているが、その昔はかなり贔屓で通っていたお店である。回転寿司が多いこの時代の中で、このように昔ながらのいかにも日本伝統のお寿司屋さんという雰囲気が好きでよく通っていた。


ご主人は二代目だそうで、お母さん、お嫁さんと思われる女性の方が給仕さんなどお手伝いをしている。やはり地元密着型のお店で常連さんが通うお店だ。


大学のときに取った自動車運転免許だったが、自分のチョンボで免許失効してしまったことがあって、このおらが街の自動車学校にもう1回通い直して再取得したことがあった。それがいまの会社に転職したその頃だったので懐かしい想い出だ。


会社をフレックスで早めに退勤して自動車学校に毎日通う。もちろんいまのこの時代でも取る免許はMT車の自動車運転免許です。車の運転はマニュアル、MTに限ります。あれから自動車運転免許証もグリーン、ブルー、そして3期連続ゴールド免許である。ペーパードライバー強し!です。


でも仕事はカービジネス関連ひと筋です。(笑)


その自動車学校に通っていたとき、授業、演習が終わったら、毎日この栄寿司でお寿司をいただくのが楽しみだったのだ。なんか毎日通っていた記憶がある。それでこのお寿司屋さんを知ったきっかけになった。


それからオヤジ、おフクロをこのお寿司屋さんで御馳走したのだった。



店内はカウンターとテーブルとがある。


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このテーブルでオヤジ、オフクロにお寿司を御馳走したのだった。


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栄寿司には、もうここ10年くらいご無沙汰で不義理をしていた。超久しぶりに入ったら、なんら変わっていなかった。ご主人もほとんど変わっていない。


ここに来たら、おまかせ寿司。オヤジ、オフクロにもこのおまかせ寿司を御馳走した。

見栄えも美しく、相変わらずの美味でした。


体育会系というよりは、品のある上品なお寿司ですね。


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セカンドステージ、セカンドライフという第二の人生をこれから再スタートする。まさに人生2回目の厄年の60歳である。あのときも厄年の42歳であった。これからどんな人生が待っているのか・・・。


そんなときにふっと思い出し、オヤジの手紙を読み返してみた。普段、一緒に居ることが多かった自分のことを一番知っている家族が、こうやって手紙という文章で想いを綴ってくれるのは、これまたなんか一種独特の感覚がある。文を読めば、あ~まさにオヤジそのものだな~と分かるし、相変わらずオヤジらしいなと思うけど、やはり文(ふみ)、手紙が相手に与える独特の感覚は襟を正すというか、折り目正しさを相手に与えるし、重い感覚があり、しみじみと感傷に浸るものである。


オヤジは九州男児そのもので、短腹(短気なこと)ではあるが、よく笑うし、男らしい性格でいい男であった。まさに九州男児という感じであった。息子の自分にとってはよく怒られていたという記憶が圧倒的ではあるが・・・(笑)。


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矢場とん 東京店 [グルメ]

去年の12月のなごやめしツアーで、じつは1番美味しいと感動したのが矢場とんの味噌カツであった。戦前の予想では、その写真からとんカツに味噌ダレなんて超ヘビーで腹もたれするような感じで勘弁してください、という予想だったのだが、実際食べてみると1番美味しかったし、なによりも食べた~~~という満足感があった。


シン・なごやめしでは、堂々と1位を授けさせていただいた。


1番予想外なところは、味噌ダレがトロミのあるこってりした感じではなく、完全な液体状のサラサラした味噌ダレでこれが予想外にさっぱりしていて美味しかった。それがカツをバクバクいけてしまう美味しさの原動力になっているんじゃないかな、と思ったほどだ。


矢場とんって東京にも支店があるんだろうな、と思っていた。

東京に帰ったら、もう一度矢場とんの味噌カツを食べてみたい。

そう思っていた。


自由が丘の定期クリニックのあとに、矢場とんに寄ってみようと考えた。


前回の”シン・なごやめし”の日記では、矢場とんは、なごやめしの中のOne Of Themという形でサラッと紹介しただけだが、今回は矢場とんにスポットをあてる、ということで、ちょっと矢場とんについて詳しく紹介してみます。


情報引用元:


「矢場とん」の名物「みそかつ」は偶然生まれた?美味しく食べられるこだわりの裏技も紹介!





昭和22(1947)年に創業した矢場とん。当時はなんと小さな屋台だったそうです。「みそかつ」は、ある1人の客がつまみで食べていた串かつを、名古屋の味噌文化の一つである「どて煮」のたれに浸して食べたという些細なきっかけから始まりました。それからというもの「少し贅沢なご馳走」として名古屋を中心に名物として認知されるまでに。



最初は矢場町の本店1店舗のみでしたが、今や約30店舗を展開する人気店。2004年は東京、2016年には大阪と徐々にスケールアップしていきました。東京銀座店の2階奥には伊勢神宮の御神木の一部がまつられており、御利益にあやかれると知る人ぞ知るパワースポットとしてとして親しまれています。



矢場とんの味噌だれは、1年以上熟成させた豆味噌を使った秘伝のレシピで作っており、さらっとしていてとんかつと好相性。老若男女問わず愛され続けています。また、秘伝の味噌だれは矢場とんの中でも限られた職人しか作ることができないと言われています。こだわりは味噌だれだけではありません。豚肉はやわらかくて美味しい南九州産を使用。矢場とん用に作られた油を吸収しすぎないパン粉やしつこくならないために植物油を使用しています。


店員がお客さんの目の前まで料理を運び、そのあと味噌だれをかけるのが矢場とんのお決まり。そうすることでお客さんが食べる直前に味噌が鉄板に流れていき、湯気と香りが立ち上がることで視覚と嗅覚にも強い旨さをイメージさせます。シズル感溢れる演出も矢場とんならでは。また矢場とんではみそかつにさらに「追いみそ」ができるのをご存じでしょうか。これは冷めてしまったみそかつに熱々の味噌だれを後から追加することで、最後まで美味しく食べられるようにと配慮されたもの。食べる直前の演出から最後まで考え抜かれたところに矢場とんの魅力が詰まっているのではないでしょうか。




東京には2店舗あるんですね。

東京銀座店と東京駅グランスタ八重洲店。


自分は東京駅グランスタ八重洲店のほうに行ってみようと思いました。

東京駅って普段まず行かないですね。山手線でも遠いです。


東京駅構内、八重洲口のほうを歩いていると、やっぱり都会だな~と思います。

ほんとうに都会の駅という感じ。


自分はずっと渋谷、新宿の人だったから、あういう感じが駅のホーム、構内という感じですが、その雰囲気と比べるともう東京駅八重洲口はすごい洗練された都会という雰囲気で別世界に感じます。


東京駅構内をよく見ながら歩いたことがなかったので、今回矢場とんを探すために東京駅八重洲口構内をずいぶんウロウロと歩きましたが、新たな発見も多かったです。


なんかサブカルのお店というか人形グッズなどのお店が多く驚きました。東京三大オタクの街、池袋、秋葉原、中野でいうところの中野の中野ブロードウエイに近いな、と思いました。


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東京キャラクターストリートです。東京駅構内にそういうオタク専門のストリートがあるんですね。テレビ局のオフィシャルショップのほか、ポケモンやリラックマ、ウルトラマン、プリキュアなど、人気キャラクターのショップが大集合している感じです。すごい人だかりで外国人も多かったです。日本の誇る文化ですね。


そのほかにも東京駅ラーメンストリートというのもあって、たくさんの人気ラーメン店が所狭しと並んでいました。ラーメンストリートというスタイルは、もう王道ビジネスというか、どこにでもあるひとつのパターンですね。


矢場とん 東京駅グランスタ八重洲店は、このラーメンストリートのすぐ傍にあります。


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本場の名古屋のお店の規模と比較すると、かなり小さめな店舗ですが、間違いなく矢場とんです。席数にして24くらいでしょうか。カウンターがメインのお店です。いかにも駅チカの中にあるお店という装いです。店内の天井近くには、矢場とんの歴史というかその写真が掲載されていました。


自分は名古屋で食べたときと同じ”わらじとんかつ御膳”にしようと思いました。わらじとんかつ御膳は矢場とんのメニューの中でも1番人気だそうですよ。


矢場とんの特徴は、最初は味噌ダレがかかっていない素の状態で提供される、ということですね。今回はその前の写真撮影に成功しました。


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まずこの状態で提供されてから、店員さんが味噌ダレをジャ~ととんかつの上にかけます。

これが矢場とんスタイルですね。


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矢場とんの味噌ダレは、一般的などろりとした黒に近い色のものではなく、さらりとした茶色に近いクドみのないもので、載せるというより浸ける、という感じですね。みその旨みが豚の身や脂の甘さを引き立たせる。名古屋の地元の人が他店などで日頃よく食べるみそかつよりずっとライトな味わいだそうですよ。


自分は矢場とんのうまさは、この液体状の味噌ダレにあるんじゃないかな、と思うのです。このサラサラした液体状というのがあまりに予想外だったし、ほんとうに豚肉が浸る(ひたる)という感じなんですよね。浸る(ひたる)感じなので、噛めば噛むほどじゅわ~とジューシーというか、さっぱりした美味しさがあってウマいな、と思うのです。


そしてこの味噌ダレの甘くて香ばしい独特な深い美味しさ。なかなか言葉で表現するのが難しいウマさですが、この秘伝の味噌ダレ、矢場とんの中でも限られた職人しか作れないんだそうです。そうなんですね・・・。まさに秘伝のタレですね。


矢場とんの味噌カツを食べて美味しいと思う一番の味の決め手となるのが、この秘伝の味噌ダレの味だと思うのです。一年半熟成させた天然醸造の豆味噌を使用して、時間をかけ丁寧に作っています。


もちろん肝心のとんかつのほうは、南九州産の豚肉を使用し、オリジナルのパン粉でふんわり感とカリッと感を演出しています。


これと液体状の味噌ダレの相性が抜群なのです。

豚肉が上質で柔らかくとてもジューシーです。味噌ダレとよく合います。


これはほんとうにご飯が進みますね~。

日本人に生まれてきてよかったと思います。


今回食べて2回目の経験ですが、やはり美味しいと思いますね。自分のイメージ中にあった味噌カツはヘビーすぎる、勘弁というイメージが180度ガラ変です。


味噌カツは味噌ダレをカツにかけたシンプルな食べ物と思われますが、実は”美味しい味”を出すことが難しい食べ物なのだと思います。というのも、トンカツそのものがくどく、味噌ダレもくどいため、一歩間違えると味噌カツは「くどさのカーニバル」になりかねない食べ物だからです。


自分が食べる前で写真で見る限りはずっとそのイメージを抱き続けてきました。もう食べる前にギブというか勘弁して、という感じです。


HbA1cが急上昇して血糖コントロールが悪くなる代表格のような食べ物だと思っていました。


でも実際は全然そんなイメージを覆すような美味しさでした。


名古屋の矢場町の本店が1番ウマいらしいですよ。本店と支店ではやはり違うらしいです。東京店でも銀座店に今度行ってみますね。


銀座店には伊勢神宮の御神木の一部がまつられており、御利益にあやかれると知る人ぞ知るパワースポットなのだそうです。自分はこういうのに弱いです。


美味しいけどもう1回行きたいか、というと、やっぱり東京駅遠すぎます。

もう移動だけでヘトヘトな感じです。


矢場とんは、名古屋ということでプロ野球の中日ドラゴンズとも深い関係にあるそうです。


矢場とんに通った歴代の中日選手が寄贈したユニフォームが店内に飾られているそうで、ドラゴンズがナゴヤ球場を本拠地としていた時代には同球場で矢場とんの「みそかつ弁当」が販売されていたこともあるそうです。いまのナゴヤドームでも販売されているそう。


巨人ファンにとって中日という球団はある意味、宿敵のライバルの阪神タイガースより嫌な存在で親会社が同じ新聞社ということもあって、なかなかライバル視する度合いに特別な感情があります。1984年はいまだに忘れられないし、ずっと自分のメモリアルの中に居続けています。












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音楽通り [街歩き]

神奈川県立音楽堂。
                                       
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日本初の音楽専用コンサートホール。そして木造ホールである。
1954年(昭和29年)創建ですよ。いまから70年前。もう自分が生まれるずっと前にできたまさに伝説のコンサートホールである。
                             
JR桜木町駅から紅葉坂の交差点をずっと登っていく訳だが、これがすごい心臓破りの坂で、今日は神奈川県立音楽堂でコンサート、という日はもう前の晩から憂鬱である。(笑)この坂をずっと登っていくときのあの足の辛さ、そして息も絶え絶えの心臓の辛さはもう誰もが知っている難所であろう。
                         
この紅葉坂の交差点を昇っていく途中に、”音楽通り”というストリートがある。
                                        
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なんという洒落たネーミングの通りなのだろう!と自分は感動してしまった。
かなり素敵なネーミングだと思う。
                                        
”音楽通り”は、なんでも、神奈川県立音楽堂で公演した人々が、帰り道に歌を歌い、その歌声が響く通りという理由で名付けられた愛称なのだそうだ。
                           
やはり神奈川県立音楽堂と「音楽通り」は関係があったのだ!最初は愛称だったけれど、横浜市が市民から募集した「愛称道路」事業で1976年に正式に認定されたそうだ。
                                 
「夜寝ていると通りから歌声が聞こえてくるんです。その歌声が鼻歌ってレベルじゃないんですよ。子ども心にとても上手だなと思いました」
                      
今は聞こえてくることはないそうだが、ぜひプロの鼻歌を聞いてみたいものである。
                                 
1988年 第32回 岸田國士戯曲賞受賞者大橋泰彦さんが月刊『すばる』に執筆されたエッセイにこの通りを題材にした『音楽通り』というエッセイがある。昭和30年代末頃の「音楽通り」の様子が文章から偲ばれる。大橋さんのご実家は、音楽通りで貸本屋さんを営まれていたそうである。
                       
                  …【略】…
                                  
沿線に日吉、田園調布、自由が丘、代官山を置く、日本でもハイソサエティーな私鉄、東横線の横浜よりの終点、桜木町に、私の実家がある。線路と平行に、国道県道を間に置いて、一方通行の小さな商店街、花咲町は、「ハナザキチョウ」と読むのが正式らしいが、私はいつも「はなさきちょう」と言う。
                           
一直線に五百メール程続く商店街は、通称「音楽通り」と呼ばれていて、パン屋、お菓子屋、靴屋、薬屋に始まり、油屋、八百屋、お茶屋、ハンコ屋、乾物屋と続く。通りの中ごろにある私の実家は、小さな貸本屋をやっていた。通りの終点は、なだらかな坂道になっていて、登りきると、今度は直角に、紅葉坂という坂がのびていて、その先には、横浜でもかなりの老舗の県立音楽堂がある。
                                
昔は、クラシックの演奏会が盛んで、十二月にもなると、演奏会帰りの人達が、第九や賛美歌を合唱しながら家の前を通りすぎていった。おそらく「音楽どおり」という名前も、そんなとこから付けられたらしい。私が幼い頃、子守唄替わりに聞いた「もろびとー、こぞりてー」が日本語だったという事を知ったのは、ずい分後だったと思う。  
                              
                 …【略】…
                                 
少年の頃、よく屋根に登り、瓦に腰かけ見下ろした風景は、今、この屋上からは見られない。回りをいくつもの高層ビルやマンションに囲まれて、花咲町「音楽通り」も、時代の波に取り残されまいと、古い家は、五階、六階のビルに建て替えられ、木造の家は、もう、数える程になってしまった。
                     
                       
☆集英社『すばる』1988年7月号 <フォーラム・すばる~町の顔・屋上>より
                   
                                         
                      
                                   
では、この”音楽通り”というストリートは、本当に音楽と関係がある、そういう情緒ある眺めなのか興味が湧くところである。
                       
実際、この”音楽通り”を歩いてみたい、と思ったのである。”音楽通り”をそのまま歩いてみて、自分がなにか感じること、それはやはり音楽的にインスピレーションを与えてくれるものなのか、そういう独特の雰囲気があるのか、自分は感じ取ってみたいと思ったのである。
                                    
ネットでいろいろググってはみたものの、音楽通りの標識の写真はあるけど、そのストリートの様子の写真はほとんど皆無だ。これは実際取材してみれば希少価値があるのではないか、と考えた。
                        
                               
”音楽通り”は、地図上では、この赤い区間のストリートである。
                                    
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では、さっそく”音楽通り”を歩いてみる。
                                          
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う・・・~む。なかなかなんの変哲もないふつうの細道の道路で、ここから”音楽”というインスピレーションはまったく湧いてこない。(笑)結論からいうと、およそその通りの風情から、音楽という感じが湧き出てくるようなそんな特別な景色ではなかった。いたって普通の細道、通りである。なんの変哲もないふつうの通りである。
                          
”音楽通り”の写真が、ネットにほとんど掲載されていないのも、おそらくこれじゃ絵にならない、ということだけなのだろう。
                              
なんと!素敵なストリートなんでしょう!というテンションで盛り上げたかった自分としては、正直困ったな~、どこを売りにしよう?と悩んだりしたが、余計な脚色をするよりも、そのままありのままの姿をご披露するのがいちばんいいだろう、と考え直した。
                      
たぶん、桜木町、神奈川県立音楽堂の”音楽通り”の全景の写真を掲載している記事は、この私の日記しか存在しないであろう。まさに日本一、世界一貴重な写真記事だと考える。(笑)
                     
                         
キリスト教の本屋さんもあります。
                                       
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たしかに一見すると、なんら変哲もないふつうの道に見えるんですけど、ところどころに小洒落た素敵なスポットも確かにあります。ここは素敵だな~と思います。
                       
                              
ここは、セレクトショップのAonoha アオノハさん。
                                     
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セレクトショップというのは、いわゆる店主さんのお目にかなった商品を販売するという独自路線のお店。店主独自のセレクトで選ばれた商品は衣類から雑貨、お花と幅広く取り扱っているそう。
                       
                    
                                     
そして、ここにも”音楽通り”の標識が!
やっぱりネーミングが素敵ですよね~。すごいセンスあると思います。この標識を見るとなんかドキッとしますね。
                                               
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・・・そしてまたしてもなんの変哲もない景色が続きます。(笑)
                                        
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ここはDog Space。ここはペットサロン、犬の美容室ですね。
                                      
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手づくりパンのコティベーカリー。
                                         
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横浜港にほど近い町・桜木町。
                                        
この町で1916年(大正5年)創業以来、
毎日ていねいにパンを作り続けてまいりました。
町の様子は移り変わりましたが、
当店は今日も昔と変わらぬ製法で
じっくり時間をかけてパンを作っております。
                               
港町の小さな小さなパン屋です。
                         
横浜桜木町シベリアのコティベーカリー
                            
自家製のパン屋さんです。
自家製のパンのみ販売というのは、街のパン屋としては、当時画期的で斬新な試みだったそうでこのパン屋さんが、まさにこの”音楽通り”の中の1番の見せ場というかスポットだと思いますよ。
                             
県立音楽堂ができる前、まだ音楽通りというネーミングもなかった時代からこの通りにあるパン屋さんで、大正創業ですから。。。まさにこの通りが”音楽通り”と名付けられる前からずっとこの通り沿いにあって、この音楽通りの生き証人、ずっとその姿を見守ってきた重鎮なのです。
                       
まさに
                                      
「夜寝ていると通りから歌声が聞こえてくるんです。その歌声が鼻歌ってレベルじゃないんですよ。子ども心にとても上手だなと思いました」
                        
これはコティベーカリーの御主人の記憶のひと言なのです。
                                    
音楽通りのことを聞きたかったら、ここの御主人に聞け!です。音楽通りのことで、このお店より詳しい人はいないと思います。お店のHPには、”音楽通り今昔”と題して、昭和20年、30年、50年の頃の音楽通りの写真や想い出がいろいろ綴られており、大変興味深いです。
                        
音楽通りの情報はネットで探してもほとんど皆無で、一番詳しいと思うのが、このパン屋さん”コティベーカリー”のHP内の記述だと思います。
                             
当店の歴史・音楽通り今昔
                        
                             
店内はこんな感じです。ほんとうに狭い小さな手づくりパン屋さんという感じです。商品の棚には、このお店の看板商品のシベリアが見えます。
                                             
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コティ・ベーカリーのパンといえば、シベリアです。
                                          
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『シベリア』というお菓子が生まれたのは明治後半から大正初期頃です。当時のパン屋では、どの店でも、このお菓子が作られていました。パン焼きがまの余熱を利用して焼いたカステラと、あんぱんに使うあんを使って作られました。
                                          
和菓子のような製品ですが、パン屋で作られたのには、この様ないきさつがあったのです。シベリアパン、シベリアケーキと呼ばれることもあります。しかし、製造に手間と時間がかかることから、いつの間にか、シベリアはパン屋の店先から姿を消していきました。さいわい当店のシベリアは、お客様に愛され続け、大正5年(1916年)創業以来、製法も当時のまま、今日に至っております。
                        
                                      
音楽通りの生き証人、コティベーカリーといえばシベリアということで、自分もひとつ買いました。お味はとてもシンプル。真ん中のあんの部分はツルツルした食感で、なんか食べるとペロンという感じで食べれてしまい、その両側のカステラはもっとモッチリした感じで、なんか全然別次元の不思議な組み合わせの味わいです。不思議なパンだな~と思いました。
                             
シベリアパン、シベリアケーキはいまやこのパン屋さんでしか食べられませんね。コティベーカリーのシベリアは、お客様に愛され続け、大正5年(1916年)創業以来、製法も当時のまま・・・です。
                             
貴重なパンが食べられて一生の想い出になりました。
                         
このコティベーカリーのシベリアは、NHK Eテレやそのほかいろいろなテレビ番組、雑誌などの特集でたくさんのメディアから取材を受けています。
                        
自分は”音楽通り”の取材を行く前から、このパン屋さんは生き証人ということで、絶対ここに寄るぞ~!、シベリアを食べるんだ!と誓っていましたから念願かなって本望でした。
                        
”音楽通り”といえば、このお店ということで、自分もメンションできて一安心です。
                     
                            
横浜桜木町シベリアのコティベーカリー
                   
                    
                               
音楽通りの中でいちばんオシャレで素敵なお店構えだと思ったのがここです。
ハナサキ・ブッチャーズ・ストア HANASAKI BUTCHERS STORE。
                                   
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アルゼンチンBBQ料理やブッチャーズフードをワインやクラフトビールで楽しめるお店。インダストリアルな内装でポートランドのフードカルチャーとアルゼンチンの豪快な食文化”アサード”からインスパイアされたメニュー。
                                
BUTCHERS(ブッチャーズ)というのは、英語で肉屋のことです。
昔、プロレスラーでアブドラ・ザ・ブッチャーというレスラーいましたね。(笑)
                           
アルゼンチンの”アサード”というのは、注文したお肉が豪快に焼かれるところを見ながらワインと前菜やソーシャルの愉しむ食文化を取り入れた料理のこと。お肉以外のメニューはほぼ手作りだそうです。
                                          
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アサードではないですけど、ブラジルの料理でシュラスコというのがあるじゃないですか?
ブラジル生まれの肉料理「シュラスコ」。長い串に刺したブロック肉を炭火でじっくりと焼きあげる、お肉好きにはたまらない一品のあれ、です。
                                               
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昔、渋谷にこのシュラスコを食べさせてくれる有名なブラジル料理のお店があって、大学同期のフジテレビの友人から教えてもらったんですけど、まさにテーブルにお店の人がやって来て、大きな長い串に刺さったシュラスコを、ナイフでそぎ落として、お客さんのそれぞれのお皿に盛っていくんですよ。あれは最高でしたね。ウマい、美味しい、ということはもちろんだけど、その豪快さの絵柄が堪らんかったです。
                          
そして宴たけなわになっていくと、みんなテーブルから立ち上がって、行列を作って、前の人の両肩に両手を乗せて、行進を始めてお店内をグルグル廻のです。ブラジル音楽全快でノリノリです。横浜オクトバーフェストのときのようなあんな感じです。
                                        
あのブラジル料理屋さん、シュラスコは堪らんかったです。自分の数少ない合コン幹事でもこのお店よく使わせてもらい大好評でした。(笑)
                        
                      
この音楽通りでは、このハナサキ・ブッチャーズ・ストアがいちばん惹かれました。思わずスルスル~と入ってしまいそうでした。
                       
                       
                                      
ここのオレンジコンセプトもなかなかよさげでした。イタリアンのバルです。そう、あのスペインのバルと同じ、そのイタリア版です。バルというのは、バーのことですね。25年の経歴を持つフレンチ出身のシェフがやっているそうですよ。
                                     
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ここはヘアサロンですかね。
                                           
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ほんとうに極めて普通の通りなのです。(笑)
                                   
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ここが終点ですね。大きな通りに出ます。
                                      
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宮崎料理のいっちゃがさんも発見しました。
                                        
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神奈川県立音楽堂に因んだ”音楽通り”。
                                           
まさにそのストリートを端から端まで歩いて、その全貌を明らかにした記事は、この日記が初めてだと思います。(笑)極めて普通の通りそのもので(笑)、その風景からは音楽というかけらも微塵に感じないのですが、でもそこの通りは、県立音楽堂のコンサートを楽しんだ方々がそのハイになった気分から、ついつい鼻歌、口笛を口ずさみながら、その通りを歩いていく・・・そういう所縁からそのように名付けられたそういうストリートなんですね。
                        
この名付けセンスに自分はやられました。
とても素敵だと思います。
                   
こういうセンスがとてもいいと思います。
                         
”音楽通り”素敵なストリートでした。

                   

                                    

                     

                     

                                     

                                      



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巨星墜つで考えたこと。 [クラシック指揮者]

”世界のオザワ”、指揮者の小澤征爾さんがご逝去なされた。そう遠いことはではないとは思っていたけれど、いざそうなってみるとなんともいえない虚脱感、喪失感が大きい。ついに来たか、という感じで一時代の終焉といえるのではないか。


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昨日世界中に小澤さんの訃報が流れ、世界各所から追悼の意の表明が続いた。それがなお一層悲しさを冗長させる。この気持ちなんとも言えない気分である。


ふつうの訃報や追悼は、自分の人生との関与具合からそれなりの距離感を保つことが可能だが、小澤征爾さんの場合、なかなか自分にはキツイものがあった。小澤さんでそれをやられるのがかなり悲しかった。


なんかいまだに信じられないような・・・その現実を受け入れるのが難しい自分があった。


そしてその訃報に接して、咄嗟に自分が考えたことがあった。


これも時代の終わり。一時代が終わった。もちろん指揮者として、日本、海外のクラシック業界に残した業績のこともある。でも自分が言いたいのは、自分が考えたのは、なんか自分の人生においてもこれでひとつの区切り。時代が終わったんだな、ということである。


先月1月に還暦、定年を迎え、新しい人生、セカンドステージ、セカンドキャリアを歩むことになった自分。

当然いままで趣味として深い関係にあったクラシック音楽。


今後の新しい人生において、クラシック業界とどのような距離感で接していけばいいのか、正直自分はよく見えていなかった。考えてはいるんだけど、正解が見えないというか。


現役時代は、もう自分はクラシックに対してもう膨大な費用を注ぎ込んできた。音楽は自分の人生そのものという指針みたいなものがあった。物欲などでは到底得られない感性の豊かさ、心の感動が得られるからである。


もう毎回が一期一会なのである。


高額なチケット代、そして地方遠征の場合はホテル代、交通費、食費、雑費。さらには海外遠征にも及び世界中のコンサートホール、オペラハウスを制覇したいという夢を語り、実際実現してきた。


これもその一期一会の感動、音楽が人間に与える無形資産、無形価値。こういうものはモノの購入では実現できないのだ。その場にいて、そのときのあの感動。その積み重ねなのである。それが人生を豊かにしていくのである。クラシック音楽においては、経験が財産なのである。いかにたくさんの経験を積むか、この数でその後のクラシック人生が形成されると言って過言ではない。そこにいかに投資するか、である。


お金がもったいないから、お金を出して結局モノとして自分のところに入ってこないものにお金を投資するのは勿体ない、そう考える人も多いだろう。それも正解である。人、人生それぞれの考え方である。


自分はクラシックを自分のモノにするには、もう経験を積むしかない。そして海外、とりわけヨーロッパに行かないとダメだと考えた。箔がつくじゃないけど、海外でのホールでの鑑賞の経験がないとクラシックはダメだと思う。その経験の数でその後のクラシック人生が決まると思う。


自分はそのスローガンのもと、徹底的に国内・海外のコンサートに投資してきた。また自分は絶対正しいという確信みたいなものもあった。自分はいまがそのときだ。徹底的に投資して自分の経験値を上げよう。そこにお金を惜しむようなことはしていけない。


自分にとって新しい世界をどんどんその場でリアルに経験して自分の熟成度を上げよう。

それが自分のクラシック人生においての修行だと思っていた。


それが、2007年あたりから2024年の17年間の自分のやってきたことではなかったか。。。


前職時代は完璧な仕事人間だった。興味が仕事しかなかった。最新の新しい技術の登場に胸ときめいた。でも病気で退職することになっていまの会社に転職した。転職した当時は、やはり人生の張りというかやりがいみたいなものが見つからなく、どこか人生の脱落者的な感覚もあって、人生に生き甲斐を感じなくて鬱だった時期だった。


そのとき自分が思ったのは、人生の自分軸を会社に置かずに、自分の内側に持とうと思ったことである。会社に置いてしまうと、定年になって仕事を失ったあとが哀れである。老後にみんな自分の存在価値が感じられなくなって、鬱になったりする。また仕事しかない人生というのもなんか偏っている人間のように感じられた。


もっといろいろなところにアンテナを張って、総合的にいろいろなことに興味を持ち、トータルの人間性として豊かなバランスのとれた人間を目指した方がいいのではないか、と考えるようになった。


自分は技術者だったので、いかにハード設計スキル、ソフトウエア・プログラミングスキルに優れていても、結局人生それだけの人と言うのは、極端すぎる。偏り過ぎていると思うのである。


技術系の人間だからこそ、逆に芸術の感性、芸術の世界という正反対の世界をたしなむということが人間的にバランスのとれた人間になれると思うのである。


自分は転職する前からクラシックやオーディオの趣味を1人でやっていた。当時は、SNSとかなかったので、皆で共有するということができなかったのである。1人で黙々と楽しんでいた。孤独だけれど、自分が楽しいんだからそれでいいじゃんである。クラシックに関しては、ときどきアムスの同期友人とメールで情報交換するくらいだった。


自分にとって人生の転機になったのは、mixiをやり始めたことかな。NHKの音楽デレクターの小林悟朗さんと出会えたことだ。そこから同じオーディオを趣味とする、そしてクラシックを趣味とするいろいろ仲間達と知り合えたことだ。SNSってなんか楽しいな、と感動だった。(笑)


自分の興味の持ったこと、好きなことを書けば、友人は読んでくれる。誰かに読まれるというのは文章を書く側からすると、ずいぶん励みになるものである。自分の好きなクラシックやオーディオの世界で共通に好きな友人たちと楽しめる。SNSってなんて楽しんだ!ここから人生が変わったような気がする。


自分の会社とはまったく関係ない異業種な人たちと新たに出会い、趣味というひとつのジャンルで繋がるのである。


これは画期的だった。


なんか新しい自分軸を作れそうな気がした。自分の内側にである。会社の仕事は、お金を稼ぐためと割り切っていた。そこで稼いだお金を全部趣味につぎ込んでいたのである。(笑)将来のこと、老後の貯蓄とか、そんなレベルを考えられる訳でもない。


いまを生きる。

いまを楽しむである。


である。なんかそれで精一杯だった17年間だったと思う。


でも自分の人生の幸福度、幸せ、いかに充実していたかを振りかえってみると、もう段違いレベルで仕事オンリーだった前職時代と比較していまの会社で勤めていた17年間のほうが幸せだった。いまの会社で過ごしていた人生のほうがすごく充実していたし楽しかった。楽しい想い出しかない。


人間の幸福として、やはり仕事以外に自分の打ち込める対象を作ったほうがいいと思う。会社に勤めている間は、人間として2面性を持っているのである。仕事の自分と、趣味の世界での自分。分人主義である。


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小林悟朗さんと出会ってから、小澤征爾さんの存在を強く意識するようになる。もちろんもう大昔から世界的指揮者であるから、もちろん知ってはいるが、クラシックを聴き込む、自分のモノにするというレベルになって小澤征爾さんを本格的に意識し、たくさん聴くようになった。オーディオそして実演などに足を運んだ。


自分の場合、小澤征爾さんは、ゴローさん抜きでは考えられない。

小澤さんのキャリアでは、ウィーン国立歌劇場監督を務めていた頃からである。そしてベルリンフィル、ウィーンフィルと世界のオーケストラをまたにかけて、クラシック音楽界でもっとも成功した日本人指揮者となっていった。


西洋社会、西洋文化のクラシック音楽界で、アジア人の指揮者の存在を世界に認めさせたのは、小澤さんが初めてで、計り知れない大きな功績だ。


自分の人生最高だった17年間は、まさに小澤征爾さんは自分のクラシックを楽しむ人生の象徴アイコン的存在だったといえる。オザワブランドともいうべき、松本でのサイトウ・キネン・オーケストラ、水戸での水戸室内管弦楽団、そして新日本フィルハーモニー管弦楽団。もうこれは通いまくった。まさにいまこのときに投資しないとダメだろう、である。湯水のように惜しげもなく費やした。


松本、水戸は、小澤さんがいなければ自分から行こうとは思わなかった街ではなかったか。真夏の暑いミ~ン、ミ~ンとセミが鳴いている時期に、松本市内を歩き回っていたのをいまでもはっきり思い出す。


オザワブランドは一種独特の雰囲気を持っていた。

小澤さんのあの鋭い目力でぐっと睨まれると、もう空気がガラ変して、出てくる音も全然違ってくる。


小澤さんの推進力で引っ張られるサイトウ・キネン・オーケストラ、水戸室内管、そして新日フィルは、独特のブランド、格好良さがあった。団員達も自分がそのメンバーであることに限りない誇りを持っていたと確信する。


それがヒシヒシと感じられるほど、演奏に感動と爆発力があった。


小澤さんのすごいところは、目線の高さが我々と同じ高さにある、ということだ。大巨匠ともなると、どうしても威厳と尊厳が付きまといがちだが、小澤さんはつねにフレンドリーで人間的に親しみやすい暖かい人でもうその人間性が表に滲み出ているのである。話し方も単刀直入でシンプルでわかりやすい。


世界のマエストロでありながら、そういう印象を与えるのは、やはりそのもともとの人間性にあるんだと思う。


でも仕事では厳しいらしいですよ。


小澤征爾さんのクラシック音楽界に残した偉大なる業績、遺産は、もうこれから日本を始め、世界中のメディアから記事、追悼番組などでどんどん紹介されていくだろう。だから自分の日記ではそのことに触れない。自分の小澤さんに対する想い出のみに注力する。


そんな小澤征爾さんがご逝去なされた。

これはクラシック音楽界で一時代の終わりであることは間違いなのだが、自分の人生にとっても一時代の終わりなのかな、と薄々感じ取っていたのだ。小澤さんの訃報を知ったとき、まず自分が考えたのは、自分の人生にとっても一時代の終焉を意味すると思ったのである。


これからセカンドステージ、セカンドライフという経済的に制約された環境で生活していかないといけない中で、いままでのように経験のために投資していくというのは難しくなると考えている。


それが自分が今後のクラシックとの距離感をどうしていくか、の悩みである。もう現役時代のようにどんどん湯水のように経験のために投資していくのは無理だと思っている。海外含め。いままでのようにはいかないと思っている。


そこは取捨選択をしていかないといけないだろう。

興味あるコンサートはなんでも全部駆けつけるということも今後はできなくなるだろう。


まさにクラシック音楽を学ぶための修行、いかに経験をたくさん踏んでいくか、の象徴的なアイコンだった小澤征爾さんのご逝去は、そういう無尽蔵にクラシックを楽しむ自由なスタイルへとの決別なのかな、と感じたのだった。


セカンドステージ、セカンドキャリアの人生になっても、やはり過去の栄光や快楽が忘れられず、まだまだオレは頑張るぞ~と思っていた節もある。でも小澤さんのご逝去で一気に萎えたというか、現実を見ろ、いままでのスタイルを見直すべきところに来ている。


そのことを小澤さんが自分に引導を渡したように感じてしまった。


なんかオレの人生にとってもひとつの終焉なのだな~。

もう修行、経験を積むことに莫大な投資をする時代は終わったのかな。


この17年間でもう充分過ぎるくらい濃厚な経験を積んできたので、もういいだろ?

これから現状維持をモットーにやっていくべきではないか。


そんなことを考えたのである。


小澤征爾さんのご逝去で後任は誰?というほど愚問はないだろう。後任なんて作れるわけない。これだけの業績を積み上げてきた人と同じことをやれ、と言っても無理である。もうこの一時代で終わり。一時代の終焉。ただそれだけである。


1970年代は、一般的には「爆発しない」タイプの演奏様式が 特にレコード録音では、主流だったと思う。 時代の風潮なのだが、当時の70年安保闘争や学生運動の嵐が去った後の「しらけた」雰囲気というのは、独特のものがあった。 ヨーロッパでも 第2次世界大戦の熱気が冷めて 東西冷戦が続いている中で 「パッション・パッション!」「根性だ!爆発だ!」みたいな起伏の激しいロマンティックな演奏は前時代の様式となり、ある種脱力系というか ローカロリーで起伏がなだらかで精緻な演奏がモダンだとされた。 


当時のスター演奏家を眺めてみても もはやバーンスタインもベートーベンやブラームスといったクラシック交響曲では、爆発しないし、ベームは オーケストラの持ち味によりかかった晩年のスタイルになっているし、カラヤンは、爆発というよりも響きの豊潤さを重視した、流麗で古典的な演奏スタイルだ。 それに続くアバドや小澤征爾さんといった中堅もある種優等生的精密な演奏スタイルだった。 


戦後の日本のクラシック音楽界を築き上げてきた、日本人にとって全く道のないところに切り開いていった、まさにいまの日本のクラシック音楽界の礎を築いた小澤征爾さんは、カラヤン、バーンスタイン、ベーム、そしてアバドと同じ時代を生きてきたまさに”生き証人”なのだ。


そのクラシックの伝統を生き証人として生きてきて、多大な貢献を日本のクラシック界にもたらした。


そういう意味で、小澤征爾さんのご逝去は、一時代の終わり、終焉なのである。


2014年に成城学園の小澤さんが贔屓にしているお蕎麦屋さん、増田屋さんをぜひ体験したく、行ったことがある。そのとき、なんと!その後に小澤さんがお店に入ってきたのだ。なんといううれしいサプライズ。


きっと音楽の神様が、自分と小澤さんを引き合わせてくれたに違いないと思うことにしている。


小澤さんとサシでちょこっとだけど、お話させてもらったかな。

ゴローさんの話だったような・・・


そのときにツーショットも撮っていただいた。

そのときの小澤さんである。


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世界中で唯一無二のアイコン、”成城学園前のお蕎麦屋さんで小澤征爾さんにバッタリ!”である。











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ラーメン二郎 中山駅前店 [グルメ]

ラーメン二郎は、"総帥"山田拓美さんのラーメン人生をかけて築き上げてきた財産である。慶應義塾大学三田キャンパスの交差点のところにあった時代。慶応大学三田キャンパス東南の角に当たる慶應仲通りに通じる交差点脇である。自分は慶應出身のアムス同期友人から二郎の存在を教えてもらったのだが、まさに慶大生のソウルフード的な存在であった。


自分もあの交差点のところにあったとき、本当によく通っていた。こんなに中毒性のあるラーメンは食べたことないというくらいハマったものだ。最高にウマいと思った。


やっぱりあの交差点の時代の二郎がいちばん美味しかったのではないか?


どの名店でもやっぱり時代とともにラーメンの味は変わっていく。とくにスープである。


何十年も変わらぬ味を保ち続けるというのは、やはりラーメンの世界では難しいということが最近わかってきた。


「二郎はラーメンではなく二郎という食べ物である」といった価値観を持っているジロリアンたち。自分も負けず劣らず立派なジロリアンである。いまもジロリアンであることに誇りに持って生きている。


あの交差点にあった頃は、"総帥"山田拓美さん一代限りのお店であった。その後、交差点脇にあったお店は立ち退きで閉店してしまうのだが、その後いまのところに移転し再出発する。それがいまの三田本店である。


この移転してからの三田本店になってからお弟子さんを育てていき、のれん分けするようになり、東京都内を中心に全国にラーメン二郎ののれん分けのお店がどんどん増えていった。


いわゆる直系といわれるお店。山田拓美さんの下、本店で修行した直接の弟子が営業時間中に責任者として厨房に立つ店。いわゆるのれん分けである。


そして亜流、弟子、孫弟子の派生店である。




2023年度現在で44店舗あるそうだ。


いつも"総帥"山田拓美さんの三田本店で食べられればいいのだけれど、自宅から東京都心の三田まで行くのがすごい大変である。たまにしか行かない。


これだけいろいろな場所で二郎が食べられるようになったなら、その近場の店でもいいのではないか、と考えるようになった。


ところが、この二郎ののれん分けのお店。1店舗1店舗でずいぶん味が違うのである。確かに二郎ラーメンであることは間違いなのだけれど、微妙にスープや食べた食感の味わいとかかなり違う。これは美味しいと思うところもあれば、う~ん、なんか違うな~というところもたくさんあった。


二郎はやはりときどき無性に食べたくなるときがある。そのときに自分の行きつけのお店、自分の好みの二郎ラーメンを食べさせてくれる、そういう行きつけのお店を作りたいものである。


東京三田の慶応大学交差点脇にあった三田本店が閉店したのが、1996年である。それから自分はどこにお店を贔屓にしていたのか、ブランクの期間があった。


そんな中で自分の好みに合う二郎を見つけることができた。

それが高田馬場店である。


当時高田馬場は、自分にとってあの札幌味噌ラーメンの名店、さっぽろ純連の東京店があることで通っていた街だった。純連(じゅんれん)・すみれのお兄さんの村中教愛さんのほうのお店である。


弟の村中伸宜さんのすみれが新横浜ラーメン博物館で鮮烈な大ヒットデビューを飾り、全国区の知名度となって、その勢いに乗って、お兄さんの純連(じゅんれん)も東京進出となったのだ。


さっぽろ純連 東京店である。


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ここはほんとうに通ったね~。東京で純連(じゅんれん)が食べられる、ということで、本当に最高にワクワクものだった。なんか毎週土曜日に通っていたんじゃないかな。前職時代では同じ山手線上にあるから、平日の終業してから通っていたときもあったかも。


自分にとって高田馬場という街は、さっぽろ純連 東京店と同義語、それで通っていた街であった。


そのさっぽろ純連 東京店の数軒となりに、なんとラーメン二郎があったのだ。

それがラーメン二郎 高田馬場店である。


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店内はすごく狭い小さなお店であった。当時の自分は、さっぽろ純連 東京店とペアで、ラーメン二郎 高田馬場店を楽しんでいたのだ。


その後、2010年1月頃に同じ高田馬場内に移転した。


移転後のラーメン二郎 高田馬場店


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移転後は、店内スペースが広くなり、大きなお店になった。移転前は大きな通り沿いにあったので、家賃も高く、広いスペースがとれない感じだったが、移転後はそんな縛りもなくゆとりのあるお店構えとなった。


自分にとって蜜月の関係になったのは、この移転後の高田馬場店であった。


ラーメン二郎高田馬場店は、自分の好みに合う二郎の味だった。特徴は、スープがすごいしょっぱいこと。あの二郎独特の豚骨ベースの醤油味が猛烈にしょっぱかった。


二郎は、やはりスープ一滴も残さず完飲しないとダメである。このしょっぱい二郎の味が自分の好みとジャストフィットした。毎回この高田馬場の二郎を食べ終わると、もう喉がカラッカラッになるほどであった。


東京三田の交差点脇にあった頃のあのハマった味を思い起こさせる感じで美味しいと思った。自分は高田馬場店の二郎の想い出というと、このしょっぱいスープという記憶が圧倒的である。


以来、自分のラーメン二郎人生の中で、この高田馬場店の味は妙に自分の好みにあい、ここの二郎を食べると二郎を喰った~という感覚になり、自分が満足できるのだった。


ここも毎週土曜日に通っていたんじゃないかな。

長蛇の列に並んでいたのをよく覚えている。


そのラーメン二郎高田馬場店も2013年に閉店となってしまう。


結構ショックだった。


当時は、二郎はもういまやどこにでもたくさん存在するから、代わりの馴染みのお店はすぐできるだろう、ぐらいにしか思っていなかった。


・・・ところがこれが見つからないのだ。(笑)


このときである。二郎って、いまやたくさんのれん分けのお店が存在するけど、どれもみんな味が違うことを知ったのは・・・。


確かに二郎ラーメンであることは間違いないのだけれど、なんかちょっとこう違うというか、うまく表現できないのだけれど、特にスープの味がかなりお店によって違うような感じがした。


どの店舗で食べてもおいしいラーメン二郎。しかし、店舗によって微妙に個性があり、その個性こそ、ラーメン二郎の魅力だと思うのである。


それ以来、自分の好みに合うラーメン二郎を探して、自分の馴染みの二郎のお店を開拓したく食べ歩きました。


目黒店、新宿歌舞伎町店、品川店、池袋東口店、横浜関内店、桜台駅前店・・・


いろいろ食べ歩いたな~。


新宿歌舞伎町店は、新宿歌舞伎町を歩いていたら、偶然通りかかりで見つけたお店で、入って食べたら、ウマい、これこそ二郎だと思った。ちょうど自分が病気で北海道の実家で療養する前だから、2000年より前だと思う。


実家にいるときは、もう二郎禁断症状で二郎喰いたいな~と夢に出てくる感じで、東京に戻ったら、新宿歌舞伎町店の二郎に行こうとず~っと思っていた。


いったん東京に戻ったときに、その念願かなって新宿歌舞伎町店で食べた二郎のうまかったこと!

二郎サイコ~と叫んだくらいである。


でもそれから新宿歌舞伎町店は遠いし、味も変わっていったので、足が遠のいていった。そんなときに出会ったのが、高田馬場店である。


自分の二郎はここだな、と直感で閃いた。


高田馬場店の閉店にともない、自分の行きつけのお店を見つけるべく、いろいろなお店の二郎を食べたのだけれど、なかなか難しんだよね~。美味しいけど、確かに二郎ラーメンなんだけど、自分の好みにフィットする感じにはなかなか至らない。


目黒店は二郎のれん分けのお店としてはすごく有名店で、超人気店である。

でもなんかちょっと違うんだよね~。通い詰めたいと思うほどでもない。


ラーメン友人にここの二郎は美味しいよ、と勧められた横浜関内店も、なんか違った。スープが薄い感じで、全体的にあっさりした二郎で、ちょっと違う。自分はもっとしょっぱくてコテコテの二郎が好みなのである。


そうして理想の二郎を求めつつさ迷い歩いて辿り着いたのが、ラーメン二郎 中山駅前店である。


ラーメン二郎 中山駅前店


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JR横浜線の中山駅から徒歩で2分くらいのアクセスのよい近場である。横浜線は、自分のいまの会社の通勤路の電車なので、自分の通勤経路に存在していたのだ。(笑)理想の二郎はすぐ自宅から目の前の近くにあったとは!


2010年創業で三田本店出身、神奈川県には『京急川崎』『相模大野』『関内』ほか5店舗が存在し、この中山駅前店は、横浜市緑区の中山駅近くにある、神奈川県に5店舗ある直系二郎の内の1つで、神奈川屈指の名店と言われている。


こちらの『中山駅前店』は、非常に人気が高く、二郎の中でも屈指の人気を誇っていると言われているそうだ。


二郎ファン大絶賛の二郎ラーメンなのである。


自分は中山駅前店がそんなに名店、美味しいという評判をいまこの日記を書くまで知らなかった。偶然自分の通勤経路の途中にあって、試しに入ってみて食べてみたところ、これはウマい!まさに自分が追い求めていた究極の二郎だと確信した。


スープが猛烈にしょっぱいのだ。

高田馬場店に相通ずるところがある。


特に野菜がシャキッとしていて二郎の中でも群を抜いていると思う。キャベツの青い部分を細めに切って多めに使っているので、野菜の見栄えが良くキャベツの甘味を感じる旨いヤサイ。ヤサイ量に応じて、タレをかけていて、程よい味付けバランスで評判が良い。


二郎では、完成すると”ニンニクいれますか?”と聞いてくる。これは無料のトッピングをどうしますか?という二郎のしきたりの問答である。


自分はいつも”野菜マシマシ、ニンニク辛め”である。


そしてなによりもスープが猛烈にしょっぱくてコテコテの二郎であるということだ。二郎はやはりこうでなくてはいけない。


自分が探していた二郎にようやく巡り遭えた、と思った。


ここの二郎ラーメンはウマいと思う。


いろいろな二郎のお店を食べ歩いた中でも群を抜いて美味しいと思う。

これぞ!ラーメン二郎という感じである。


あ~なんか二郎喰いたいな~という禁断症状が出てきたら、この中山駅前店で食べれば、その欲求を満足で満たしてくれるのだ。


以来、自分のラーメン二郎の行きつけのお店は、中山駅前店となった。


もう15年くらい通い続けているかな~。


中山駅前店がこんなに人気が高く、屈指の人気を誇っているとはまったく知らなかった。


でもこの評判は本当である。自分が長年探し求めてさ迷い食べ歩き、これだ!と確信したお店で、自分の二郎に対する味覚の正しさを証明されたような気分で最高にうれしい。やっぱりジロリアンのみんなが思うことは同じなのだ。


それだけ美味しいのだ。


お店の外には、黒烏龍茶の自動販売機があるのが特徴の中山駅前店。


ここの二郎を食べたら、他のお店の二郎は食べられないと思う。


東京三田の慶應大学交差点脇にあった、"総帥"山田拓美さんと奥さんが2人かかりでやっていたあの頃のウマさ、ハマり具合を再現してくれる、そういうお店だと自分は思います。


これ、野菜辛めニンニク、です。



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こちらは、さらに野菜マシマシ、辛めニンニクになります。野菜倍量!!!


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浅草洋食ヨシカミのビーフシチュー [グルメ]

自分は普段洋食は自らあまり食べないというか、どちらかというと洋食は子供の食べ物というイメージが自分の中にはあって、あまりにわかりやすいその味、単調でシンプルな味、お子様向けの味だよな~という印象をずっと持っている。


大人になったら、まず食べないし、もっと高級な料理、ご飯を食べようよ、と思ってしまう。自分にとって、洋食と言ったら、やはりB級グルメのイメージであろうか。洋食は子供が好きな食べ物である。


でも、その中でも浅草にある老舗洋食食堂である”ヨシカミ”はずっと行ってみたいと思っていた名店である。なんといっても、ここのビーフシチューは絶品であまりに有名だ。めちゃくちゃ高いけど。


浅草の正統派老舗洋食店としてよく雑誌やテレビにも登場する人気の「ヨシカミ」。


ヨシカミと言ったらビーフシチューだ。


浅草洋食ヨシカミのビーフシチューを食べたい。


ずっとそう思っていながら、まだ1回もヨシカミには行ったことがなかった。


浅草洋食ヨシカミはもうみんな知っている超有名な洋食屋さんですよ。


この浅草洋食のヨシカミ。

ヨシカミのビーフシチュー。


ちょっとここで紹介してみよう。




●観光地・浅草で昔ながらの味を守る洋食店「ヨシカミ」。



東京を代表する観光地の浅草。雷門を総門に構える浅草寺は、約1400年の歴史を持つ都内最古の寺院で、今も昔も国内外からやって来る大勢の観光客でにぎわっている。その浅草寺から徒歩5分ほど、六区ブロードウェイ商店街に「うますぎて申し訳ないス!」の軒先テントが目を引く洋食店。


昭和26年(1951年)創業の「ヨシカミ」だ。今ではビーフシチューが名物の洋食店だが、その前には別の商売をしていたという。


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そう語るのは3代目代表取締役の吾妻弘章さん。昭和59年(1984年)に18歳でコックとしてヨシカミに入社した。29歳で2代目社長の娘と結婚し、店長を経て令和元年(2019年)に社長に就任した。


「大正から昭和にかけて、この辺りは劇場などが建ち並び、日本一の娯楽の中心地として栄えていました。創業者は大正時代からここで洋品店などいろんな商売をやっていましたが、戦争で焼け野原になってしまった。戦後、闇市などから食材が少しずつ手に入るようになり、ご近所の方から『食べ物屋をやるのがいいよ』と、行き場を失っていたコックを紹介されたのがヨシカミの始まりです」



創業当時は客席数わずか10席の店舗だったが、昭和35年(1960年)に建て替え、カウンター20席を含む60席の店となった。新たな店舗になった矢先、初代社長が病に倒れ、まだ大学生だった2代目が店を任された。この頃、近所の旦那衆がヨシカミに集まったときに生まれたのが「うますぎて申し訳ないス!」というキャッチコピーである。


「2代目は初代社長を見て、商売には波があることを知ったのでしょう。波があってもつぶれないためには店の名前を売るしかないと、このキャッチコピーを使ってヨシカミを広めていこうと考えたようです。今でいうブランディングですね」


店は高度経済成長期という好景気の波に乗って繁盛した。昭和50年代後半になると、バブル経済で景気のいい常連客ばかりがカウンター席に座り、ステーキを食べていたという。だが、バブル崩壊後は常連客が減り、客単価も下がって、厳しい時代が続いた。




その厳しい時代に名物となったのが、ビーフシチューである。「昔ながらの洋食店」として店がテレビや雑誌で取り上げられるようになり、一時期、ハヤシライスがクローズアップされた。しかし、ハヤシライスは1日限定50食しか出していない。そこで、同じデミグラスソースを使ったメニューとして紹介したのがビーフシチューだった。


「うちのデミグラスソースをゼロからつくろうと思ったら、一週間かかります。毎日、朝6時から夜10時頃まで煮込みますが、トマトの匂いが抜けるのに丸1日かかる。その後、牛筋や野菜を煮込み、エキスを凝縮しないとあの味にはならないんです。手を抜くとバレてしまうから、手は抜けません」と笑う。厨房では常にソース用の鍋を3本仕込み、一週間かけた味を絶やさないようにしている。



手間暇かけたコクのあるデミグラスソースが、数時間煮込まれてやわらかくなった牛肉にからむヨシカミのビーフシチューは、パンはもちろん、ごはんにも合う。



「お客さんが『いつ来てもいつも同じ味』と思えるような味付けにしています。実は少しずつ変えているんです。時代や年齢によっても味覚は変わりますから。だから20年以上経っても『あの時と同じ味』といわれたら、こちらはガッツポーズですよ」


ヨシカミの味を約40年守ってきた吾妻さんに、店を長く続ける秘訣を聞くと「ブレずにやり続けること」と答えた。「うちのメニューは1970年代後半から、値段以外は変えていません。僕らは変わっていないけど、世の中の飲食店が淘汰されたり、まちや人が変わったりした。時代がヨシカミに追いついてきたんです」



常連客の中には、温かみのあるこの店舗が好きだという人も少なくない。しかし、吾妻さんが今後取り組みたいことが店舗の建て替えである。


「常連さんの中には、この窓から見る風景がすごくいいから建て替えないで、という人もいるんですが、建て替えないと危ない。台風が来ると、天井から水が降ってくるんですから。やるとなると仮店舗も必要になるし、ハードルは高いけれど、あと3年以内には建て替えたいんです」


ヨシカミは味も建物も変わらなかったが、浅草のまちは変わり続けている。近年では外国人観光客が増え、ホテルが複数建設され、「遊ぶまち」から「泊まるまち」になっている。「浅草寺に人を呼ぶ力がなければ、我々の商売は成り立っていません。やっぱり観音様あっての浅草です。では浅草とは何かというと、王道がない。江戸の風景が浅草らしさというけれど、うちがある六区は雑多。何でもありで、カオスになっているところが浅草のいいところです。時代とともにまちが変わり、人が集まってくるから盛り上がる。周りから支えられているまちなんですよ」。コロナ禍を機に代替わりした店も多く、吾妻さんは「これからがターニングポイント」と次なる変化に期待を寄せた。


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情報引用元:


ヨシカミ【台東区・浅草】<うますぎて申し訳ないス!>老舗洋食店の大定番「ビーフシチュー」  ~ぐるり東京 名品さんぽ~






浅草洋食ヨシカミは、浅草ROX、浅草演芸ホールのある方面のつくばエクスプレスの浅草駅の近くの六区ブロードウエイ商店街にある。同じ浅草駅でも通常の銀座線などの東京メトロの浅草駅とは違うのでご注意を。自分は間違えました。


浅草洋食ヨシカミ


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うますぎて申し訳ないス!の洒落のきいた軽快なキャッチフレーズの看板が目を引くし、なんとも微笑ましい。一つは「下町の酒落」として、今一つは調理人の「ここまで口に出したからにはそれなりの料理を」という戒めとして、このキャッチフレーズを採用しているとのこと(笑)。コックのマークとともに、このお店のトレードマークでありますね。


あと3年以内に建て替えたいとのこと。建て替える前にこのヨシカミのお店を体験できてよかったと思います。一生の想い出になりました。やはり常連さんはこの時代の建物のお店がいいのであって、ここだから、この建物だからヨシカミって言えるのだと思います。


店内に入って、男性のおじさんスタッフに名前を言って、はい、20分待ちね。と名簿に名前、人数を書いてもらいそこで予約する。だから、とくにお店の前で行列で並ぶ必要はない。20分後にやってこればいいのだ。時間になったら名前を呼ばれるので、それで入店という段取りになる。


店は古いけれど綺麗な洋食店で、雰囲気がある。老舗店ならではの懐かしいレトロな雰囲気というか、いかにも昭和の香り漂う名店という感じの装い。浅草で愛され続けてきている昔気質のこだわりの名店という感じである。そしてアットホームで温かみのある空気感。窓際は明るい。テーブル席も小グループでのお食事にも最適なサイズだ。赤いチェックのテーブルクロスがかけられている。


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キッチンはオープンキッチンで、とにかく驚くのはカウンター内の厨房に所狭しと7~8人のコックさんがいてそれぞれ忙しそうに動き回っていて活気がある。カウンターに座っているとコックさんの調理の様子の所作が色々見れてこれはじつに面白いだろうなと思った。ここのカウンターはある意味特等席というか、ヨシカミの名物景色だろうね。このオープンキッチンの様子は。


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店内は、2か所の客席エリアがあり、さきほど紹介したところメインの方。こちらは、さらに奥に入ったところのサブのもうひとつの客席エリアである。


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カウンター。自分はここに通された。

こちらはバーカウンターのようでした。


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バーカウンターだから、ボトルも入れることができるんですね。


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これは巨人時代の王貞治選手のサインではないだろうか・・・間違いないです。1980年とあるから王さんが現役時代の最後の年ですね。王さんもここヨシカミに来たことがあるんですね。


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とにかく客層は、見た目、浅草の下町の人たちという庶民的な常連さんが多く、お店の人とのいかにも馴染みの深いアットホームな会話のやりとりは温かみを感じるし、やはりここは常連さんで支えたられているお店なんだな~と思う。



メニューはほんとうに豊富な品数だ。ありとあらゆる考えられる洋食のメニューがある。オムライス、ハヤシライス、ビーフシチュー、タンシチュー・・・まさに洋食の世界だ。(笑)


自分は、さっそくビーフシチューを注文。

ヨシカミといえば、やっぱりビーフシチューだ。

これを食べたいがために、ヨシカミに来た。


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意外や小皿というか、底が浅い小さなステンレスのお皿に盛られたヨシカミのビーフシチュー。でも、ウマソ~~~。


これがヨシカミのビーフシチューか~という感じである。


良く煮込まれた濃厚デミグラスソースは予想していたよりコクが深くてとろみがあって美味い。まさにビーフシチューはこのデミグラスソースが命というか、ここで決まる。まさにヨシカミのビーフシチューはこのデミグラスソースが最大の美味しさの源泉だ。


そしてナイフを使わなくてもフォークでもすっと切れるほど煮込まれていて柔らかい。ホロリと切れてしまう牛肉の柔らかさ。その牛肉もゴロゴロと入っている大きめなブロックのホロホロ柔らかなビーフなのだ。


堪らんぜよ。この大きなビーフのブロック、3個くらい入っていたかな?


そして大きめなマッシュルームや人参、インゲン、フライドポテトらも良く煮込まれていて美味い。


これは確かに最高のビーフシチューですね。


でも、この看板のビーフシチュー、なんとお値段は3,000円!もうびっくりしてしまいました。3,000円もかけてビーフシチューを食べるか!という感じではあります。


みなさんは、この看板メニューのビーフシチューにライスやパンのセットでお召し上がりになることが多いようですが、食いしん坊の自分は、ビーフシチューは単品で、さらにご飯ものとしてオムライスをいただきました。


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まさに洋食を絵に書いたようなオムライスそのもので、期待を裏切らない正統派のオムライスでした。美味しかった。これで1,500円。


ビーフシチューとオムライスで、合わせてなんと!4,500円と、もうめちゃくちゃ高い!


ヨシカミに対する不満としては、あまりに高すぎるというところですね。めちゃくちゃ高いのに、結局B級グルメなので、味は大したことない・・・などという風評もネットには転がっているようです。これも高いことが原因になっていますね。


まっお値段が高いという不満はありましたが、噂にたがわず名店の洋食屋さん、名物メニューのビーフシチューではございました。


美味しかったです。

とても満足です。


さて、さっそくじつにひさしぶりに浅草まで出てきたので、浅草をぶらぶらしてみました。


今回、このヨシカミがある六区ブロードウエイ商店街というのは自分は初めて来ました。浅草と言えばいつも浅草寺のあるあの観光スポットのところばかりですから。


浅草演芸ホール


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タイガー餃子なんていうのもあります!(笑)


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浅草ROX


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やはり昭和の雰囲気が漂うなんともレトロな街並み、雑多な感じがする商店街だな~と思いました。六区というところは・・・



つぎに浅草の最大の観光スポットである浅草寺に向かいます。


まず銀座線の駅構内からして、もう完全に浅草ムード満載です。こういう日本の雰囲気が、まさに浅草ですよね。こういうのに外国人のお客さんが喜ぶのだと思います。


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そして浅草といえば、やはり浅草寺ですよね。ここがまさに浅草というところだと思います。もう外国人でいっぱいです。


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浅草寺の仲見世もすごい賑わいでございました。


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浅草寺は何回も来ていますが、この浅草寺の通りを横に横断する伝法院通りは自分は経験がなかったです。ちょっとプラプラと歩いてみましょう!


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なんか、通りの両側に立っているオレンジ色の立て看板みたいなものが、京都の祇園の花見小路を思い起こさせる風情がありますね。なかなか素敵だと思います。


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浅草は人力車も盛んです。まさに浅草の観光名物ですね。


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この大変な行列ができているお店は、大黒屋天麩羅。創業明治20年、浅草名物、天丼のお店だそうですよ。一度食べてみたいです。


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自分的には、このLISZT(リスト)というお店にオッと思ってしまいました。名前がいいですね。(笑)チョコレート&スィーツや絵&アートのお店なんだそうです。


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そして浅草寺の観音さま、ご本尊さまにお参りしてきました。セカンドステージ、セカンドライフ。豊かな老後を無事に過ごせますように。。。


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浅草といえば、浅草一丁目一番一号の神谷バー。


電気ブラン(デンキブラン)のお店ですね。以前も日記で紹介しました。ひさしぶりに電気ブラン飲みたくて・・・たまらず寄ってみました。


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電気ブランと煮込み。


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デンキブラン(電気ブラン)


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明治の頃から浅草の代名詞として親しまれてきた電気ブラン。デンキブランはブランディーをベースにしたカクテル。あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気。ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度。


デンキブランは、アルコール30度ですよ!(デンキブランオールドは40度)


お酒のアルコール度数ってこんな感じです。


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デンキブランってウイスキーくらいの度数があるんです。



でもデンキブランはブランディ・カクテルなので、すごく飲みやすいですよ。フルーティで甘くてジュースみたい。あまりお酒を飲んでいるという感じがしないです。でもその真の正体はすごく強いお酒なのです。


でもあとでカッカッと火照り上がって来て酔ってきます。

自分は帰りの電車の中で真っ赤になって眠くなりました。(笑)


でもひさしぶりのデンキブラン。

最高でした。


また神谷バーに来たいと思います。












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節分会 [神社・仏閣]

毎年年初は、川崎大師で護摩祈祷していただく。ここ2年くらいは、1月21日の初大師に祈祷していただくことに拘っていたが、今年はもろもろ忙しく、今日の2月3日と相成った。


川崎大師の大本堂


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川崎大師は、いまから18年前の42歳の厄年のときに、厄除けということで初めてお参りしたのがきっかけであった。それ以来、ずっと18年間毎年年初にお参りしていて、自分の心の拠り所のお寺である。


川崎大師は、平間兼乗(ひらまかねのり)が42歳厄年のとき、夢のお告げに従い海中から引き揚げたお像をお祀りして供養を続けると、兼乗はそのご加護ご利益をいただき自身の厄が除かれた。以来、川崎大師平間寺(かわさきだいしへいけんじ)は「厄除けのお大師さま」として親しまれ、全国から篤い信仰を集めています。御本尊厄除弘法大師のご宝前で厄除けをはじめ家内安全、商売繫昌など諸願成就の護摩祈祷を毎日修行している。


自分が42歳のときは、前職を退職した歳であった。

まさに厄年であった。


今年は、自分の社会人人生のゴールの年。この歳も厄年なのだそうだ。


毎年、護摩祈祷しているが、願いはいつも”心願成就”。


無事人生をゴールできたことに感謝の気持ちを伝え、そしてこれから新しいセカンドキャリアとしての人生を歩むことに対して見守っていてください、無事全うできますように、とお祈りをしてきた。そして母親の健康、長生きももちろんお祈りだ。


毎年年初に、この護摩祈祷をするのだが、気持ちが清々しく清められるような気がする。

これを年初にやらないと1年が始まらないし、気持ちが悪い。


護摩祈祷をすると、お護摩の木札をもらえる。3万円、1万円、5千円とその祈祷料にともなってお護摩の木札の大きさが違う。自分は昔は3万円でお願いしていたが、近年はもっぱら1万円だ。そのうち5千円になるだろう。(笑)


そして仲見世通りの達磨屋さんで、達磨(だるま)を買って、目を入れる。

部屋の中にこのお護摩の木札と達磨を飾って、それで儀式は終わる。


この日は、それでお終いのつもりだったが、今日はじつは節分の日であることに気づいた。


川崎大師では、節分の日は、節分会(せつぶんえ)と言って、当山の由緒ある「節分会・豆まき式」では、貫首大導師のもと、除災招福、開運満足が祈願され、境内特設舞台において篤信の年男・年女によって追儺(ついな)の豆まき式が行われるのだ。貫首の「福は内!」の第一声につづいて、福豆がいっせいにまかれる。


この節分会(せつぶんえ)に偶然遭遇したのだ。

そして今日が、じつは節分の日であることに気づいた。


今年は辰年。

辰年の年男、年女の方々が節分会、豆まき式に参加するのだ。

この節分会、豆まき式は年男、年女の方々のためにあるのだ。


自分も辰年生まれ。今年は年男である。


なんという偶然!今日が節分の日であることをまったく知らずに川崎大師にやってきて、巡り合わせがよかった。


せっかく神様が巡り遭わせてくださったのだから、この節分会、豆まき式にぜひ参加しないとダメだろう、ということで参加してきた。


川崎大師平間寺では令和6年2月3日に節分会(せつぶんえ)を執り行います。当日は、大本堂にて「除災招福・開運満足・家内安全」大護摩供の後、境内特設舞台において豆まき式を行います。御篤信の皆様には、是非この節分会の豆まき式にご参加され、「福は内・福は内」と豆をまき、大過無い一年をお過ごしなされますようご案内申し上げます。



参加すると言っても、正式に参加するということではない。

正式に参加するということは、豆をまく側になるということである。


和服、洋服どちらでもよいが、当日は、裃(かみしも)を川崎大師のほうで用意してくれるとのこと。白足袋であることが必要だ。


1日3回おこなうのだが、1回につき50名まで。

なんと冥加料(祈願料)は、70,000円である!(驚)


大本堂にて「除災招福・開運満足・家内安全」大護摩供をおこなうんだな。


参加資格は今年の年男、年女であること。


正式に参加された50名の方々には、このような授与品があるそうだ。


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そして大本堂で大護摩供が終わったら、大本堂前で記念撮影である。


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参加者の年男、年女のみなさんは、こうやって名前を書かれて掲示される。


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そして、”やすらぎ広場”といわれる広い広場でいっせいに豆まき式がおこなわれる。自分は川崎大師にこのような広場があるなんてまったくつゆ知らず、お寺の端の方にあるのだが、初めて足を踏み入れた。かなり広いスペースだ。


自分の大護摩修行のときに、住職さんの法話で豆まきの話をされていた。ふつうは、”鬼は外、福は内”と言うと思われているが、それは間違いであるとのこと。正しくは、”福は内、鬼は外、福は内”なのだそうだ。福は内から始めるのが大事なのだそうだ。


そして家の中の鬼門である北東の方向に向かってやるのが大事。そのように法話で仰られていた。


このやすらぎ広場では、もう鬼は外はないのだ。

福は内しか言わない。ひたすら福は内を連呼するのである。


やはり縁起ものなんですね。福しかやらないということなのでしょう。


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このように70,000円の冥加料を払って節分会、豆まき式に参加された50名の方々。


この高台の上に乗って、いっせいにここから豆をまくのである。


自分は広場に集まった年男、年女の方々といっしょにその豆を拾ったのである。自分が豆まき式に参加した、ということはそういうことである。(笑)


なんか、福をたくさんおそそわけいただいたような気がする。


川崎大師に来て、生まれて初めて参加した節分会、豆まき式。

偶然めぐり合わせたとはいえ、縁起がよかった。


やすらぎ広場という場所をまったく知らず、足を踏み入れたこともなかったので、帰りの道すがら、川崎大師に、このような美しい庭園の風景があることも知らなかった。


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新しい人生の始まりとはいえ、平均寿命と言われる歳まで20年以上もある。


人生長すぎるよ。(笑)


なんとか生きながらえていますように。。。


もちろん奈良漬の町田屋さんのカフェ、川崎大師松山で、お茶漬け7種盛り合わせを2膳お替り。そして川崎大師カレー大盛を平らげたことは言うまでもない。


お店の方から、たくさん食べてくれてすごく嬉しい。たくさん食べるのに痩せているね、と言われ、嬉しい気分になりました。(笑)











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