ヤノフスキ&N響 定期公演 [国内クラシックコンサートレビュー]
よかった~~~。すっすごかった~~。(大滝汗)
ヤノフスキ&N響の音が戻ってきた。この音、このサウンドを待ってました。
やっぱり前回はお疲れだったんですね。(笑)
トリスタンにあまりに完全燃焼し過ぎてガス抜きだったんですね。
ていうか、ワーグナーにガラは合いませんよね。(笑)
余計消化不良でストレスになるだけだと思います。
このコンビは、やはりこういう音を出してもらわないといけない。
聴衆もそれを期待していると思います。
じつにひさしぶりのNHKホール。ここはステージの音が客席に飛んでこないことで有名なのですけど、2階席でしたが、全然そんなに気にならず。十分楽しめました。すごい迫力でした。
ヤノフスキが指揮をするN響はドイツのオーケストラの音がします。まるでドイツの楽団のようです。厳格で男らしい。無駄を排除した淡調感とは無縁のきっちりと骨格感のある音。
ヤノフスキはもともとドイツ音楽を専門として指揮者として極めてきたところがあるので、その遺伝子をN響にインプリして後世に伝えようとしている感じがします。
オーケストラは、ほんとうに指揮者によって出てくる音が全然違ってくる。いつも自分が思うのは、オーケストラの団員さんってすごい大変なんじゃないかということ。首席指揮者はもちろん、客演指揮者など、海外からたくさんの指揮者を招聘してくる。とくにN響のような資金力の安定している楽団は、その招聘力は凄いものがある。
そのたくさんの指揮者1人1人に、自分たちのサウンド作りを委ねるのだ。
リハーサル。
その指揮者、指揮者で、いろいろなアプローチ、音作りがあって、それを叩き込まれて、その指揮者の数だけ、自分をカメレオンのように変幻自在に変化させていかないといけない。自分のような不器用な人はついていけませんね。
そのオーケストラをはじめて振る指揮者の場合、”ファーストコンタクト”と言って最初の30分だったかな(時間はよく覚えていない。)、この30分の間のリハーサルでの指揮者とオーケストラのやりとり、相性で、その後のすべてが決まってしまうのだそうだ。最初の30分間で両者間でしっくりいかない場合は、結局最後までその指揮者とオーケストラはうまくいかない。逆にすんなりうまく溶け合えば、その後がミステリーなサウンドを作り出すことができる。オーケストラの団員たちにとって、演奏していて自分を天国の境地に連れてってくれるような指揮者が最高なのだ。逆にこりゃあかん、と見限った場合、もうその指揮者の言うことは、そのまま右耳から左耳へスルーしながら、いっさい構わず自分たちで勝手にサウンドを作ってしまう。
そんな感じなんだろう。
指揮者ってつらい稼業だ。あの指揮台に立って、大勢のオーケストラと面と向かって対話しながら、外国オーケストラであれば英語かドイツ語で説得していかないといけない。オケのみんなは受動態だから、指揮者ってツラいと思うな。孤独な職業だ。
この最初の30分のファーストコンタクトですべてが決まってしまうのだ。
このファーストコンタクトは、自分は佐渡裕さんが初のベルリンフィルに客演ということで、NHKが連携取材してドキュメンタリーにした番組を見て知った。
佐渡さん、ドイツ語堪能なんですね。自分がずっと憧れていたベルリンフィルをはじめて振ることができる。ドイツ語で丁寧に一生懸命説明する佐渡さん。そのファーストコンタクトでじりじりと焦りが・・・
結局ベルリンフィルの団員たちからコンマスの樫本大進氏を通して、結局どういう音が欲しいのか、ダイレクトに端的に言って欲しい。そうすれば、その望み通りの音を作り出して提供する。
そんなことを言われてしまう佐渡さん。あわわ・・・ベルリンフィル怖ぇえ~。(笑)
佐渡さんを客演として招聘しようという動きはベルリンフィル内部のメンバーが発起人として動いたことだそうなので、やはり佐渡さんにはうまく行って欲しい、という願いからなのだろう。
指揮者とオーケストラの関係は、我々が想像している以上に難しい神経の磨り減る関係なのだ。もうお互い長年のパートナーでよく知っている間柄だとすごくやりやすいでしょうね。日本のオーケストラはみんなそういう良い関係が多いような気がします。
逆にN響のような海外からの招聘の客演指揮者が多い場合、オケの団員たちは大変である。良好な関係を築けるかどうか、ファーストコンタクトがうまく行くかどうか。。。
ほんとうにその指揮者によってどんな音を作りたいか、全然違うし、その作法も全然違う。その都度、その指揮者に自分たちを合わせる作業というのは大変ではないか、と思うのだ。とくに招聘指揮者の数が多い場合は。
ヤノフスキのリハーサルは非常に厳しいそうだ。
かなり厳しいという話を聞いている。
オケがうまくできないときは、事務所に怒鳴り込んでくる剣幕らしい。
いっさいの妥協がない巨匠なのだ。
自分がヤノフスキの指揮でなにがいちばん素晴らしいかというと、オーケストラから大きな大音量を出し尽くせる指揮者だということだ。これだけオーケストラを鳴らせる、これだけオーケストラから大音量を引き出せる、その手腕というのはなかなかそうはいないと思う。
指揮者にはほんとうにいろいろなタイプがいて、音楽の解釈に拘る、その解釈の仕方に自分の意見を反映させる、曲の最初から最後に至るまでの抑揚のつけ方、ドラマをいかに造るかに拘る人、その音楽の作り方、もういろいろである。
でもオケから大音量を引き出せる、オケを鳴らせる、ハードボイルドである、という基本は、なかなかできてない難しいところではないか。
もちろんヤノフスキの場合、ワーグナーを中心にドイツ音楽主体でやってきた人なので、もともと畑が違う人からすると違和感でしかないかもしれないが、自分は、ヤノフスキのそこが大好きである。
自分は聴いていて、オケをガンガンに鳴らして、自分を陶酔させてくれる指揮者が好きだ。終わった後もその余韻が続き、興奮が冷めやらない、そんなトリップさせてくれる男らしい指揮をする指揮者が好きだ。
指揮者によっては、カラフルな色彩感を強調したく、抑揚を大きく、全体をこう膨らませるような音作りをする人も多い。ヤノフスキはその反対で、非常に引き締まった音作りをする人で、全体がビシッとこう締まった感じで、どちらかというと機能的でシンフォニック的な音作りだ。そしてとにかくテンポが早い。すごい高速な人で、もうサクサク進んでいくという感じである。
もっと叙情的に歌い上げるようにやってほしい、という声もあるが、自分はヤノフスキのワーグナーを聴いている限り、もう十分すぎるくらいドラマティックで陶酔感があると思うし、かなり酔える。それでいて高速でハードボイルドで引き締まったサウンドである。
もうヤノフスキのワーグナーに身を沁みつかせてしまうと、昔のワーグナー録音や演奏には戻れないような気がする。古臭く感じてしまい、とても聴いていられないような気がする。
東京・春・音楽祭、そしてN響定期と長年のヤノフスキとN響との共創作業で強固なパートナーシップと信頼関係に結びついている両者。
すっかりヤノフスキの音造りのノウハウを叩き込まれているN響。
その鉄壁のコンビで繰り広げられた今日の公演は圧巻だった。
シューベルト 交響曲第4番「悲劇的」とブラームス交響曲第1番。
シューベルトの4番は、軽やかさと重厚さが相まみえた不思議な曲調で、でもそこにヤノフスキらしい厚い重厚なサウンドに光るものがあって絶品だった。この曲は、あまり自分は経験の記憶にないのだが、なかなか素晴らしい曲だと感じた。
そうしてなによりも本命は後半のブラ1だろう。まさにドイツ音楽そのものというカラーのブラ1。自分は昔、2011年頃のベルリンフィルのヨーロッパコンサートで、バレンボイムが指揮したブラ1が名演で忘れられない。ヨーロッパコンサートなので、イギリスの教会のようなところでの特別演奏会なのだが、なかなか理想に近い演奏だった。
ブラ1というと、自分の頭の中にはその演奏のイメージが強くこびり付いているので、最初にヤノフスキのブラ1を聴いた瞬間、速すぎるよ~。(笑)あまりにサクサク進むので、速過ぎると思ってしまった。ブラ1の冒頭は、あの歌い上げるような腰のある、というか、そういう演歌のこぶしのような粘りが必要だと思うのだが、ヤノフスキのブラ1は、かなり機能的でサクサク感満載で、あっけない感じでどんどん進んでいく。
でも第2楽章、第3楽章では美しく歌わせるところは、美しく歌わせ、充分に緩急を示していた。決して一本調子ではない。やはり最終楽章が見せ場、最高のクライマックスであろう。
あれだけ速かったテンポを若干緩め、重厚感たっぷりに鳴らすその音のさまは、まさに圧巻そのものであった。この第4楽章を聴いただけでも、ヤノフスキは速いだけではない、充分歌わせるだけの緩急はあると確信できる。
まさに酔えたブラ1であった。
自分はブラームスの交響曲第1番は、ブラームスがその着想に20年かけたというだけあって、曲の構造や音階の進行がかなり大仰な感じで、ちょっと大げさだよな~という印象を昔からずっと持っていた。もっとさりげない軽さというのがあったほうがいいと思っていた。とにかくブラ1は大仰なのだ。
でもこの日の最終楽章を、このヤノフスキ&N響の重厚なサウンドで聴けて、やはりこれくらいじゃないと大作とは言えないなと思い直したところである。
シューベルトとブラームス両方において、首席オーボエ奏者の吉村さんが大活躍だった。ソロパートが多く、すごい目立っていて素晴らしい大活躍だと思いました。ブラボー!
(c) NHK交響楽団 NHKSO Facebook
2024年4月 N響定期公演
2024年4月14日(日) 14:00~
NHKホール
指揮:マレク・ヤノフスキ
妥協なき巨匠と拓くブラームス<<第1番>>の新たな世界
NHKホール<Aプログラム>
シューベルト 交響曲第4番 ハ短調 D.417「悲劇的」
ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 作品68
川本嘉子 ブラームス室内楽 11年間ありがとう! [国内クラシックコンサートレビュー]
ついにこのときが来た、という感じである。なにごとにも終わりがある。東京・春・音楽祭の看板公演だったブラームス室内楽が、11年目の今年をもって終了である。
ほんとうにご苦労様、そしてブラームスの室内楽のことをいろいろ教えてくれてほんとうにありがとう!である。ひとつのテーマについて掘り下げていき、それを11年間も続ける、ということはなかなかないのではないか。
自分もずっと最初の頃から聴いてきて、ブラームスの室内楽とは、ということでほんとうに勉強させてもらった。ブラームスの室内楽に対して、広く大きな外枠のイメージを抱くことを可能にさせてくれた。心から感謝いたします。そしてその労を心から労いたいと思います。
その最終公演となった今日。凄かった~~~。(笑)とくに音!こんなにすごい音。。。やっぱり生演奏はスゴすぎる。音量が桁違いだ。この音量感はなかなか実演でないと無理だろう。そして弦の厚み、ハーモニー感、和声感のある重厚な響き、そしてもう毎度おなじみの圧倒的なD-Range。すべてにおいて桁違いのスケールだった。
弦楽四重奏だった訳だが、各々の4人が輝いていた。
ひとりひとりがスター的な存在で、とくに若手2人が素晴らしかった!
この11年間を振り返ってみて思うのだが、川本嘉子さんはNHK大河ドラマの主役だったのではないか。
NHK大河ドラマは1年間の長丁場である。その長丁場を視聴者に飽きさせずに乗り越えていくには、ある意味、ドラマ自体が群像劇的な要素を持ったほうがいいのではないか。
その時期、その期間で、魅力的なキャラクターが光るサブの主役たちが登場して、話題をさらい番組を盛り上げる。そういうサブの主役がたくさん登場すればするほど結果として番組は盛り上がり、1年間という長丁場では成功するのではないか。
オレが、オレが、という主役主導型だと1年間持たせるのは大変だろう?
そういう群像劇的スタイルのキャラクターの立たせ方が肝を握っていると思う。
もちろん主役としてつねに中心軸をしっかり掴んだまま、そのときのサブの主役たちを縁の下の力持ちのように下から支えて暖かく見守る。そういうサブの主役たちがたくさん登場して、活躍すればするほど、結果としてそのドラマは大成功する。主役にはそういう大人の器量というのが必要なのではないか。
そして終盤になって行くにつれて、どんどんドラマを締め上げていき、最後はきちんと主役として圧倒的な存在感を示して終了する。それが長丁場の主役の在り方なのではないか。
なんか、東京春祭のブラームス室内楽を11年間に渡って見てきて思うのは、そんな主役の在り方が川本嘉子さんの立ち位置だったような感じがする。
11年間の間、昔は同じ釜の飯のサイトウキネン、水戸室などの小澤ブランドの仲間で占めることが多かったが、後半の近年はもう積極的に若手を登用し、いかに若手が話題をさらっていくか、そんな暖かく見守るそんな主役の立ち位置だったように思う。
これって簡単に言うけど、結構大変なのではないでしょうか・・・。
11年間に渡り、毎年つねに新しいメンバーを立たせながら、自分はホストとしてずっとシリーズを支えていく、というのは大変な重責だったと思います。
ほんとうにご苦労様としかいいようがない。
なかなか誰にでもできることではないと思います。
自分にとって、ブラームス室内楽は、N響ワーグナーと並ぶ東京・春・音楽祭の看板公演だった。東京春祭では、かならずこの2公演は必須である。それに興味のある公演が出てこれば、それをアドオンしていく。そんな手法である。
ブラームス室内楽の存在を知ったのは、2015年の頃かな?ミューザ川崎のホール空間を設計なされたACTの小林洋子さんの自由が丘事務所でおこなっている室内楽に参加したときである。川本嘉子さんと三舩優子さんのデュオでヴィオラリサイタルだった。ブラームスのヴァイオリン・ソナタをヴィオラ版にした譜があって、それを演奏されていた。
それに大層感動して、そして東京春祭でブラームス室内楽をやってます、という紹介で知った。ブラームス室内楽は2014年からだから、ちょうど2年目からずっと聴いてきたのである。(途中チョンボでスッポかしたこともありますが。。笑笑)
その自由が丘事務所で川本さんとツーショットの写真も撮りましたよ。(笑)10年以上前だから、いま見返してみるとお互い若い!(笑)自分はとてもシャイな性格なので、アーティストとツーショットの写真を撮ることはまずない。というかお願いできない。
いままでツーショットの写真があるのは、川本嘉子さんと小澤征爾さんだけである。
自分のクラシックの鑑賞歴においても、たとえば、ブラームスの室内楽だったら、それを11年間も聴き続けるという経験はなかった。自分にとっても初めての経験であった。
長いようであっという間で短かったように思う。
ヴィオラは、オーケストラの中では内声の役割で、縁の下の力持ちだ。
ところがヴィオラ奏者がソリストとしての立場になることが多くなった。
日本クラシック界のヴィオラ奏者のレジェンドである今井信子さんの功績も大きい。
ヴィオラの地位を上げたのが、まさに今井信子さんだ。欧米でソロ奏者、指導者として尊敬される存在で、小澤征爾さんらマエストロたちからの信頼もあつい。
まさに日本のクラシック界にとってヴィオラのレジェンドである。
自分の世代だとタベア・ツィンマーマンが好きだったな~。自分はファンでした。大好きなヴィオリストでした。myrios classicから出る彼女のSACDは自分の愛聴盤でした。彼女もヴィオラという楽器を内声的役割ではなく主旋律として使って、ヴァイオリンの曲を、どんどんヴィオラで演奏するというようなチャレンジをしていった奏者で革命的だったと思う。
ソリスト用のヴィオラ専用の曲というのは、当初はなかなかなかったが、タベア・ツィンマーマンのようないわゆるヴィオラ版という形で編曲して演奏するというアプローチが多かったように思う。
今上天皇さまも学習院大在籍のときオケでヴィオラを弾いていらっしゃったのですよ!
ヴィオラは何といってもその暖かい音色、人を恍惚とさせる周波数帯域のその音色がなんといっても魅力的だ。まさに懐の深い倍音である。
この心地よさ、気持ちよさはチェロの音色にも通じるところがありますね。
そんなヴィオラという楽器で、いまやソリスト級としての扱い、ヴィオラをひとつの独立した存在の楽器として扱う演奏家、まさにいまの時代のヴィオラの顔なのが、川本嘉子さんだ。
川本嘉子さんというと、自分にはずっと謎がある。それは音楽家仲間や裏方さんは、みんな彼女のことを、”いねこ”さん、”イネコ”さんと呼ぶことだ。
どうして「いねこ」さんなのか。
まったく想像つかない。
なんか、東京都下で女子高なのに、なぜか男子生徒までいるという奇抜な学校(笑)で、ヴァイオリンを習っていたときのこと。なんの拍子か、先生だか友人だかが、「嘉子」を「いねこ」と読む、と信じ込んだんだな。その方たちは嘉子さんのことを、それからというものの「いねこ、いねこ」と呼び続け、一向に直してくれようとはしなかった。そしていつのまにか、まわりの友人も学友もそれを面白がり、「いねこ~」やら「いねちゃん」と呼ぼれるようになったそうだ。
この神話のルーツはたぶんそういうことらしい。
長年の謎がいまようやく解けた。
川本さんのインタビューでこんなことを言っていて、自分はなかなか興味深く拝読した。
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「私がバイオリンからビオラに転向した二十数年前、親は悲しくて泣いていた」。
ヴィオラの場合、ベートーヴェンの作品でも、しばらくは音にどんな意味があるのかわからなかったです。というのも、指揮者もメロディを弾くヴァイオリンなどにはきちんと指示をするのですが、ヴィオラをどうするかを考えていない人が多いからです。私は周りの息遣いや動作に合わせて引いていました。最近はヴィオラの内声としての意味が考えられるようになり、指揮者も上手く操作してくれる人が多いです。またオケのヴィオラ奏者も個性が多様化したように思います。
ヴィオラ奏者はヴィルトゥオーゾというよりは音色のよさが求められます。私は前に出るのが苦手なので、ヴィオラの転向によって前に押し出されるのを回避できました。両親は始め理解を示しませんでしたが、ここまでくると転向してここまでやってきたことがえらいという風に変わってきました。わたしとしては楽しみながらやってきました。
ロシア生まれの世界的ヴィオラ奏者、ユーリ・バシュメットが日本でリサイタルをした記事があり、ヴィオラでもソリストとして生きていけることを知り、衝撃を受けました。ベートーヴェンがそれまでの作曲家と違い、パトロンの庇護を受けずにフリーランスの音楽家として成功したのと同じくらいのイノベーションを感じ、興奮したことを覚えています。
プリムローズという天才の活躍後は、バシュメット、カシュカシアン、今井信子さんたちが世界を駆け巡り活躍していたので、ヴィオラの可能性はITで起業に挑むような心持ちでした。
・・・・・・・・
今日の公演の弦楽四重奏第3番の第2楽章だったかな?
いままでヴァイオリンが主旋律で、ヴィオラが内声という役割が反転して、ヴィオラが主旋律を担い、ヴァイオリンが内声というスタイルでヴィオラが朗々とメロディを歌うというところがあって、これがめちゃくちゃカッコよかった!川本さん、最高にカッコいいと思いました。
そんな世間が言うほど、ヴィオラは地味だとは思いませんけどね。
11年目でついに最終章となったブラームス室内楽。
最後は弦楽四重奏だった。
ヴァイオリンに周防亮介、小川響子といういま最高に注目の若手を起用し、チェロ:向山佳絵子という長年の親友パートナー。
周防亮介、小川響子というホットな2人は最高に楽しみだった。
もうこういう機会でないと自分の場合、なかなか聴くチャンスがない。
小川響子は、先日のシューマン室内楽マラソンコンサートで堪能した。葵トリオ、そしてデュオと鑑賞したが、すごく目立っていてレベルが高くいい奏者だな~という印象だった。
自分が驚いたのは、弦楽四重奏第2番の第3楽章だったかな?自分の座席からはこのとき1stだった小川の姿を直視する感じなので、一心不乱に観ていた。とにかくすごい熱演で、激しいボーイングに、演奏に興を高じて、椅子から体を浮かすアクションを何度もするくらいの激しい演奏で、それも4人全員が同じテンションの激しさ。
これは痺れました~~~。
小川響子すごいよ~。オガキョ、凄い!
彼女はほんとうにすごいヴァイオリニストだということが、この時点でしっかり自分の頭の中に刻み込まれました。やっぱり印象は最初が肝心。彼女に対しては、このイメージをずっと持ち続けることになるでしょう。
日本のクラシック界の未来は明るい。
ヴァイオリンは、1stと2ndは、周防亮介、小川響子が交代で務めた。
自分が最高に楽しみだったのが、周防亮介。ご活躍はずっと存じ上げていましたが、いつかは実演に接してみたい、とずっと思っていたので、念願かなって最高にうれしかったです。
見た目、中性的で性別不詳なのですが(名前からすると男性なのかもですが、よくわからないです。)、それがかえって、ミステリアスな感じがして自分は昔から気になっていた存在でした。
非常にスマートで、端正な奏法で、なんか外見のエレガントな感じとよく合っていて、カッコいいな、と思いました。男である自分から見ても、なんかちょっとカッコいい、惚れてしまう、そういう魅力があります。なんか魔訶不思議な魅力ですよね。
一度、ヴァイオリンソナタでじっくり演奏を聴いてみたい感じがします。
すごい気になっていたヴァイオリン奏者だったのでした。(笑)
川本嘉子ブラームス室内楽のチェロと言ったら、もう向山佳絵子さんしか思いつかないですね。若手じゃ無理です。(笑)まさに川本さんの親友パートナーで、ずっとこのシリーズでチェロ、そして川本さんの相棒として重責を果たしてきました。まさにこのシリーズの顔と言っていいのではないでしょうか?
自分の記憶ではレギュラー出演だったような気がします。チェロで若手というのは、曲に応じてそういうこともあったかもですが、基本は、毎年のレギュラー出演だったと思います。まさにこのシリーズでなくてはならない存在だったと思います。
今回の座席は、向山さんのチェロの音色が飛んでくる方向に座っていたので、いつもより低弦のゾリゾリ感が凄く迫力がありました。
演目は、ブラームスの弦楽四重奏の第1番、第2番、第3番。
まさにこれぞブラームスという重厚な旋律で、ホールの響きも素晴らしく、生演奏ならではの迫力サウンドだったので、もう圧倒されました。
11年間、毎年名演で、優劣つけれませんが、優秀の美ということで、この最後の公演をベストとして推挙しても許されるのではないでしょうか。
誰も文句は言わないと思います。
それだけ素晴らしい公演でした。
来年から東京春祭でブラームス室内楽を聴けないと思うと、なんかさみしいな~とは思います。
この11年間の歴史、歩みは、川本嘉子さんの演奏家人生の中で、揺るぎない金字塔、キャリアとして永遠に語り継がれていくことでしょう。そしてもちろん、これだけのチャンスを与えてくれた春祭実行委員長の鈴木会長には、まさに感謝しかありませんね。
(c)東京・春・音楽祭 Facebook
東京・春・音楽祭2024 ブラームスの室内楽 XI
2024年4月13日 [土] 18:00開演
東京文化会館 小ホール
ヴァイオリン:周防亮介、小川響子
ヴィオラ:川本嘉子
チェロ:向山佳絵子
ブラームス:
弦楽四重奏曲 第1番 ハ短調 op.51-1
弦楽四重奏曲 第2番 イ短調 op.51-2
弦楽四重奏曲 第3番 変ロ長調 op.67
東京春祭ワーグナー 「ニーベルングの指環」ガラコンサート [国内クラシックコンサートレビュー]
オペラアリアコンサートというのは、オペラの見どころ、聴きどころであるアリアを中心に編成するプログラム。CDやコンサートの両方でよく使われる手法だ。
オペラは全曲、完結編を観るとすごい長いので、そのいちばん美味しいところのアリアだけを抜粋して楽しみましょう、というコンセプト。
自分はいままで、このオペラアリアコンサートをすごい愛用してきた。たとえばベルカントオペラを親しみたいと思ったら、グルベローヴァさまのCDでオペラアリア集のCDを聴く。ほんとうに素敵なアリアだけで編集されているので、いわゆるベストアルバムみたいなもので、飽きないし、楽しい。そしてイタリア、ベルカントオペラの演目を網羅して、ベルカントオペラなるもの、その全体を俯瞰できるメリットもある。1から全曲、オペラ完結編を観るより、ずっと効率的で楽な手法である。コンサートについてもしかり。オペラアリアコンサートというのはよく使われる手法である。自分なんかオペラを観るよりも、このオペラアリアコンサートのほうが好きかもしれない。
先日のトリスタンとイゾルデで、まさに世紀の大名演を演じてくれたヤノフスキ&N響。
今回は、ワーグナーの最大の大作「ニーベルングの指環」のガラコンサートである。
いわゆるリングのオペラアリアコンサートである。
これは当然もうすごい期待するに決まっているじゃないですか!
リングのオペラアリアですよ!
トリスタンのときと同じあの感動、震えがもう一回味わえる。
あの熱量をもう一度。そう考えるのがあたりまえじゃないですか。
自分はもちろんトリスタンと同レベルの感動を求めて会場に行きました。
結果としては、もちろん素晴らしいコンサートで感動もしたし、いわゆるガラコンサート、”祝祭”という観点からその役割は十分果たしたと思います。
素晴らしかったです。ブラボー!
詳細な公演レポは後述。
じつは、正直なところを申しますと、自分はこのリングのガラコンサート。いろいろ思うところが多かった。まず聴いていた瞬間、トリスタンのときのような熱い感動は得られなかった。そしてヤノフスキ&N響もトリスタンのときのようなキレッキレの演奏とはかなり程遠く、かなり散漫で緩い演奏だったように思う。オーケストラが引き締まってなかった。筋肉質の引き締まったサウンドが真骨頂のヤノフスキ、おそらくN響をリハーサルのときから締めに締めあげて徹底的に追い込んで作っていくヤノフスキサウンド。その片鱗が見られなかった。かなり緩い演奏だったように思われた。
トリスタンがあれだけキレッキレだったので、さすがのヤノフスキ&N響もお疲れだったのかしら?(笑)人間なんだから、そんなに連日連夜、緊張を持続させるのは難しいですよね。波があって当然です。こういうときもあるさ。。。自分は聴いた直後はそのように思っていた。
でも、そうじゃないんだよね。なんか自分の中でしっくりくるものがない。頭がこれだっ!という感じでロックしない。なんかモヤモヤしている。真理をついていないからだ。
そうして終演後6時間後経ってからかな。ずっともやもやを続けながら考え続けて、昨晩の23時頃。自分はようやくたぶんこういうことなんじゃないかな、という真実に辿り着いたような気がする。
その真実とは・・・
ワーグナー音楽は、ガラコンサート(オペラアリア)とは合わないのではないか?
ということである。
昨日、自分がいちばん違和感を感じたのは、短すぎる、あっという間すぎる、ということである。1アリアにつき、もう20分くらいで終わってしまい、そしてその都度拍手である。
自分はこの拍手が、すごく精神を集中させているときに邪魔になるもの、阻害するものだと、このときほど感じたことはなかった。ふつうのワーグナーオペラのように、1時間から2時間くらい1幕をびっちりやって、聴衆はずっと沈黙を守り続け、そしてそれから拍手ならわかるのだけど、20分間隔で拍手はもうその都度、ブツブツと切れる感じなので、緊張が続かず、散漫な印象を受ける。
やはりワーグナーは、長くないとダメなんじゃないか。
なぜワーグナー音楽は陶酔するのか?酔えるのか?
それは旋律とか、ライトモチーフとか、いろいろな要因はあるけど、じつは長いから、というのも大きな要因のように思う。まさに長いオペラ、4時間から5時間かけてずっと聴いてきているからこそ、そういう想いがどんどん内部に蓄積されてきて、そういう想いがあるからこそ、最後のエンディングは、いままでずっと聴いてきた、そういう到達感というか、そういう想いが一気に胸に込み上げてきて、最後は万来の気持ちで感動する、いや感傷的になると言ってもいい。ワーグナーのオペラが長い、というのは、じつはそういう作用効果を生むポイントにもなっているのではないか。
そういう長い尺の中で、出てくる素敵なアリアも、そういう助走の部分があってこそ、そこのアリアの素晴らしさが際立つのであって、そのアリアだけを抜粋してポンと持ってきました、というだけでは、感動できないのではないか、ワーグナーの場合。
クラシック音楽というのは、交響曲なら1時間という枠組みの中の作品構成でそのシナリオ考えながら作曲されているので、その美味しいところの一部分だけを抜粋して持ってきても、感動具合からすると、減少してしまうのではないか。
完成体な枠組みの中で捉えないと、その感動具合はかなり減るのではないか。オペラアリアは確かに美しい素敵な箇所で、それだけでも魅力があるのだけど、じつは作品全体としてのフレームの中で捉えられる方がその本質の素晴らしさが損なわれないのではないか。クラシックはもともとそのように設計、作曲されているのではないか。
自分はいままであまりこのことを意識したことはほとんどなかった。いやまったく考えていなかった。こういうことを問題提起したこともなかった。
でも昨日のリングのガラコンサートを拝聴して、結局なにかどこか満たされない、欲求不満のようなストレスみたいなもの、そういうモヤモヤを感じていたのは、そこが原因なのではないか。
自分はトリスタン全曲演奏のときのような、昇天して逝ってしまう。あの突き抜けるような感動。。そういうものを期待していただけに、昨日のコンサートは、どこか消化不良のようなモヤモヤみたいな満たされないストレスがずっとつきまとった。
それは誰が悪い訳でもない。ヤノフスキ&N響が悪い訳でもない。
ワーグナーには、ガラというのが合わないんじゃないか?
ここに行きつくのかな、とようやく解脱した。
ワーグナーはやはり4時間~5時間の長編のドラマをずっと聴いてきて、そこにうねるような毒のある音楽性に身をゆだねながら、そこに陶酔していく、そういう長い前ぶりがあるからこそ、その見せ場のアリアで、その快楽は頂点に達する。
そういう仕掛け、前ぶり、助走が必要なのではないか。そういう全体のフレームの中で捉えないと酔えない、うまくその魅力を伝えるのが難しい音楽なのではないか、ワーグナー音楽というのは。
いくら美しいアリアでも、そこだけをポンと抜粋して持ってきて並べてみても、いっこうに酔えない、感動できないのは、ワーグナー音楽にはもともとそういう特徴、構成美があるからじゃないか。
このことは実際演奏しているN響にも大きな影響を与える。なにせ20分くらいで1アリアが終わってしまうので、団員たちはどこにピークを持っていけばいいのか、そういうストーリーが見えないので、なんかこうぐっと集中できない。わずか20分で、エンジンがかからなううちに終わってしまう。なんか昨日の演奏を聴いていると、ずっとそんな印象を受けた。オケが乗れない、というか、乗っていけないというような感じ。どこか消化不良なのである。
N響も前半よりも後半のほうが圧倒的に良かった。前半あまりに散漫で緩い演奏で、引き締まってないので、これがヤノフスキの音か、と自分は耳を疑ったし、座席が悪いのかな、とも思ったりした。後半になり、最後の神々の黄昏のブリュンヒルデの自己犠牲のところは、さすがであった。これだよ、これ!ようやくヤノフスキ&N響のサウンドが戻ってきた。
一糸乱れぬ調和のとれた弦の厚いハーモニーで、もうグイグイ攻めてくる。高速でハードボイルド。まさにあの鍛え抜かれた、ヤノフスキがN響に対して徹底して追い込みに追い込んで作り出していくサウンド。やっぱりN響は、ヤノフスキに鍛えられるようになって以来、その音がよりドイツの楽団の音がするようになったと思います。
それが復活してきた。
こうでなくっちゃ、である。
それを感じたのが、後半。とくにラストの大団円である。
4時間なら4時間、5時間なら5時間という長い尺の中で、その物語性を音楽絵巻物語のように表現しながら、そのところどころでピークに持っていく、そういうバイオリズムというか波があるものなんじゃないか。そういう波があるからこそ、そしてそれが長いからこそ余計その反動でピークは大感動するのではないか。それがワーグナー音楽なんじゃないか。
そのピークだけを抜粋して、並べてもなんか消化不良的なモヤモヤがあって感動できない。
ワーグナー音楽には、そういう罠があるんじゃないか。
ワーグナーは、ガラが合わないのではないか。
自分は、昨日ずっとモヤモヤとしながら考え続けて、ようやく到達した解脱ポイントはここであった。
こういうことっていままで考えたこともなかったです。まったく露にも考えたことがない。オペラアリアは美しくて、楽しい。その一点張りで、そういうもんだと思っていました。
また、先日ののだめクラシックコンサートの日記でも書いたように、結局若い世代の人が、なかなかクラシックに入れ込めないのは、長いからでないか。若い人は、そのサビの部分だけ、美味しいところだけを望んでいる。若者が耐えられる時間は3分である。
と現在のクラシックが若い世代に普及して行かない理由を分析したりした。
でも、その見解もクラシック音楽のほんとうの魅力を伝える上では、間違っているというか、暫定処置、応急処置みたいなもので、本筋ではないのかな、と思うようになりました。
はっきり言いますと、もう自分はなにがなんだか、よくわからなくなってきました。(笑)
じゃあ、どうすればいいのか、とか。
やっぱり世の中、クラシックの世界は深すぎますね。
そんなに簡単に世の中の真理は見通せないですね。
また迷い道の迷いネコ(犬ではない)のようになってしまいました。
自分は、リング、いやワーグナー作品のガラコンサートという経験は今回が初めてでした。昔、リングのアリアを自分のものにしたくて勉強したくて、そういう名もなき指揮者、オーケストラのコンピレーション・アルバムのようなアリア集を買ったりしたけど、やはり感動しなかった。というかあくまで勉強のため、という位置づけなので、それでポイだったな~。ワーグナー音楽にはそういう罠がある、ということは、実演に接してみて、今回初めて理解できました。クラシック人生での初体験です。自分もまだまだ勉強するところが多いと思いました。
もちろん企画する側もまったくそのようには思っておらず、自分と同じ、ワーグナーのニーベルングの指環ですよ!リングですよ!それのアリア集ですよ!もう最高に感動するに決まっているじゃないですか!
という多大な期待を寄せていたに違いない。
自分も間違いなく、そのように期待していましたから。
誰も責められないです。誰が悪い訳じゃないです。
思ってもいなかったことだった、ということだけじゃないでしょうか。(笑)
もちろんこれは自分の気持ち、自分の解釈ですので、人はいろいろな感性で感じるので、一概に正しいとは言えないです。みなさんが正直に自分の感性に感じられたことがいちばん正しいと思います。それが一番だと思います。
ガラコンサートというのは、そもそも”祝祭”の意味を持つコンサート。今年で東京・春・音楽祭も20周年ということで、その祝祭もかねて、こういう特別企画のコンサートを催したということなのだと思います。
またガラコンサートとしては、もう充分過ぎるくらい素晴らしいコンサートで、もう充分その役割を果たしていたのではないか、と思います。
ワーグナーのガラコンサートって、世界中でも頻繁に開催されるものなんでしょうかね?
そういう事例はたくさんあるんでしょうかね?
自分は、今回初めて体験しました。大変貴重な経験で、いろいろな発見もできて、自分の認識も新たになり、そういう意味でも自分のクラシック人生の中でも忘れることのできないコンサートとなりました。メモリアルなコンサートだったと思います。
東京・春・音楽祭20周年を記念とするアニバーサリーコンサート。
ワーグナーの大作「ニーベルングの指環」四部作のアリアで構成された贅沢なガラコンサートとなった。
採用されたアリアは、
序夜《ラインの黄金》より第4場「城へと歩む橋は……」~ フィナーレ
第1日《ワルキューレ》より第1幕 第3場「父は誓った 俺がひと振りの剣を見出すと……」~第1幕フィナーレ
第2日《ジークフリート》より第2幕「森のささやき」~フィナーレ
第3日《神々の黄昏》より第3幕 第3場ブリュンヒルデの自己犠牲「わが前に 硬い薪を積み上げよ……」
まさにリングのアリアならここ!というほどの贅沢な選択で、ワーグナーファンにとって文句のつけようがない満足のいくものであったであろう。
歌手陣は大変充実していたと思う。
とくに自分がいちばん推しというか素晴らしいと感じたのは、神々の黄昏のブリュンヒルデのエレーナ・パンクラトヴァ(ソプラノ)。
先だってのトリスタンとイゾルデでは、イゾルデ役にいっせいに批判が集まり、もう可哀そうな感じであった。(笑)たしかに声量控えめで、あまりワーグナー歌手という感じでない優しい感じなので、そこに主役を張るだけの存在感を感じずに、そういう評価になったのだと思うけど、自分は最初こそたしかにちょっと不安定な要素が多く、不満にも思ったけど、その後、喉が温まってきたらヒートアップしてよく健闘していたと思うけどな。最後の愛の死もよく頑張ってくれて自分は大感動しました。
なんか、SNSの投稿って誰かが口火を切ると、それに畳みかけるように同じように批判する傾向があるので、なんか可愛そうだな、と思いました。みんなと違う意見を言うことも勇気だと思います。
今日のこのエレーナ・パンクラトヴァは、声量も抜群で、深いヴィブラートがかかり、声色コントロールもなかなかなもので、いい歌手だなと思った。いかにもワーグナー歌手という感じで、彼女がイゾルデ役だったらよかったかもな~、とも思ったりもした。
やっぱり圧巻は、ラストのブリュンヒルデの自己犠牲。まさにリング、神々の黄昏でもっとも感動するアリア、大団円であり、その荘厳な終結は、その余韻含めほんとうに美しい。自分が今回のコンサートでもっとも感動した場面であり、文句のつけようがなかった。N響のサウンドも重厚で雄大なスケール感の大きいサウンドがここに来てようやく復活してきた。これこれ、この音。こうじゃなきゃいけない。。。この音を聴きに来ました。。そう確信した最高の出来栄えであった。
ブリュンヒルデは歌い終わった後も、N響があの感動的な旋律を奏でる中、役にそのまま入り込む続けるその熱演ぶりで、その余韻をずっと維持し続けてくれた。素晴らしかったと思う。
ローゲとジークムンド、ジークフリードの3役をこなしたヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
甘く、深い声帯の幅を持った器感のある余裕のあるいい声をしていて、いい歌手だと思った。1人3役という難関もなんなくこなし、それぞれの役割に華を添えるだけの歌い手としての余裕があったように思う。自分は個人的にジークフリードのアリアが好きなんですよね。ジークフリードはあまり女声がでてこない男声中心のオペラですが、そんな男声の魅力をじゅうにぶんに伝えてくれるのがジークフリードなのです。このジークフリードを歌っているときのヴォルフシュタイナー氏は素晴らしいと思いました。
その他に、ヴォータンを歌ったマルクス・アイヒェ。相変わらず彼は素晴らしい。もう宝物のようないい声していますね。彼が発声するだけで、いちだんとエネルギー感が違うというか、かなり目立つ声をしていると思います。東京春祭ワーグナーシリーズの常連さんです。毎年ありがとうございます。
日本人歌手も健闘した。フリッカの杉山由紀さんは、はじめて体験しましたが、なかなかVividな声の持ち主でインパクト大きいな、と思いました。岸浪愛学氏も柔らかいマイルドな声の印象で好印象。やはりいちばん印象に残ったのは、森の鳥の中畑有美子さんではないか。バンダのように2階席から歌う場面、そしてジークフリードとのやりとり、魅力的だと思いました。その他の日本人歌手もみなさん健闘しました。素晴らしかったです。
トリスタンのときは、その悪質なフライング拍手、ブラボーに心底嫌な思いをしたが、今回はまさにパーフェクト。マエストロや主催者側の意を汲むように、終演後、しばらく数分間の沈黙。やはりクラシックのコンサートはこうでないといけないと思います。終演後の余韻ってすごく重要だと思います。これでそのコンサートの重みが違ってきますね。
東京・春・音楽祭で、2014年のラインの黄金から始まって、2017年の神々の黄昏まで、東京春祭ワーグナーシリーズでN響とリング四部作を振ってきたマエストロ・ヤノフスキ。今回、その同窓会とも言えるべき顔合わせと懐かしい調べに涙しましたし、あの当時から10年経ったんだな~です。
あの当時のこと、よく覚えてますよ。毎日が無我夢中でした。
今年の東京春祭20周年に相応しいアニバーサル・コンサートだったと思います。
ヤノフスキ、4月13日、14日のNHK定期演奏会にも指揮をしてくれます。自分は13日だけだと思って、チケットを取ったら、なんと!川本嘉子さんのブラームス室内楽の日と被っていました。残念!今回は諦めかな、と思いましたが、なんと4月14日も同プログラムであるんですね!N響のFBの投稿でそのことに気づき、急いでチケットを取りました。14日の日、ひさしぶりのNHKホールに見参します。シューベルトの交響曲と、ブラ1です。楽しみ~。
今回の来日で話題になっているヤノフスキ先生のおやすみポーズ、自分のカメラで撮ることができました。(笑)まさにトリスタンからずっと日本滞在しているヤノフスキ先生。日本食を十二分に楽しまれているのでしょうか・・・きちんと洗濯していますか?(笑)
Copyright:NHK交響楽団 Facebook
Copyright:東京・春・音楽祭 Facebook
The 20th Anniversary
ワーグナー『ニーベルングの指環』ガラ・コンサート
2024年4月7日 [日] 15:00開演(14:00開場)
東京文化会館 大ホール
出演・曲目
舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』より
序夜《ラインの黄金》より第4場「城へと歩む橋は……」~ フィナーレ
ヴォータン:マルクス・アイヒェ(バリトン)
フロー:岸浪愛学(テノール)
ローゲ:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
フリッカ:杉山由紀(メゾ・ソプラノ)
ヴォークリンデ:冨平安希子(ソプラノ)
ヴェルグンデ:秋本悠希(メソ・ソプラノ)
フロースヒルデ:金子美香(メゾ・ソプラノ)
第1日《ワルキューレ》より第1幕 第3場「父は誓った 俺がひと振りの剣を見出すと……」~第1幕フィナーレ
ジークムント:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
ジークリンデ:エレーナ・パンクラトヴァ(ソプラノ)
第2日《ジークフリート》より第2幕「森のささやき」~フィナーレ
第2場「あいつが父親でないとは うれしくてたまらない」―森のささやき [試聴]
第3場「親切な小鳥よ 教えてくれ……」〜第2幕フィナーレ [試聴]
ジークフリート:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー(テノール)
森の鳥:中畑有美子(ソプラノ)
第3日《神々の黄昏》より第3幕 第3場ブリュンヒルデの自己犠牲「わが前に 硬い薪を積み上げよ……」
ブリュンヒルデ:エレーナ・パンクラトヴァ(ソプラノ)
指揮:マレク・ヤノフスキ
管弦楽:NHK交響楽団(ゲスト・コンサートマスター:ウォルフガング・ヘントリヒ)
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン
のだめクラシックコンサート [国内クラシックコンサートレビュー]
諏訪内晶子さんの国際音楽祭NIPPONにしろ、茂木大輔さんののだめクラシックコンサートにしろ、共通していたことは、主役は若手だということだ。自分はあくまで総監督という位置づけ。
自分の世代から若い新しい世代へ。
これからの日本のクラシック界を考えて、若手を育成していく。
どんどんチャンスを与え、お披露目の場を与えて、世間のみなさんに認知してもらう。
そういうプロデュース的な立場に自分を置いていたように思う。
でも、それは誰でもができることではないんですよね。
まず自分が凄くないといけない。それだけいままでクラシック界で名を馳せてきた人でないといけない。そういう実績、功績のある人が、じゃあつぎに、ということで若手を育てていく、自分の経験値、スキル、ノウハウを後世に伝えていく、そういうステップがあるように思う。
諏訪内さんにしろ、茂木さんにしろ、現役時代(いまもバリバリの現役ですが。。笑笑)、もう名声の名声を得てきた人ですから、それだけの資格というか、誰しもが認めるところなのだと思います。
漫画”のだめカンタービレ”に基づいた茂木大輔さんの”のだめコンサート”。自分は、何年前だったかな。まさにのだめコンサート発祥の地、愛知県春日井市まで詣でをしたことがある。やはり聖地巡礼。これはある意味、1番最初の訪問のときの礼儀、マナーでもある。
高橋多佳子さんのラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番だった。
鮮烈でした。いまでもはっきり覚えている。
その当時、関東では、のだめオーケストラというのが、茂木さんのオーケストラとは別組織で存在していて、権利関係で、なかなか関東圏で活動できなかったのであるが、その権利もクリアになり、首都圏でも”のだめコンサート”ができるようになった。
東京ののだめコンサートは、大体、調布グリーンホールを使うことが多かった。初東京上陸のときも、かけつけましたよ~。
そんな紆余曲折の歴史があるので、それがいまやこんなに知名度があって、ビッグなコンサートになったなんて、感慨深いものがある。兵庫県ののだめコンサートはかならず販売即完売となる人気スポットで、定番のイベントとなった。
そしていまや全国各都道府県でのだめコンサートが開催されるようになった。
のだめコンサートは、自分が知るようになるずっと前から、地道な努力を続けてこられてきたが、自分が知るようになってからも、まさに長い道のりだったな~と思います。
成功は一夜にしてならず、ですね。
のだめコンサートに行くと、毎回驚くことが、客層が驚くほど若いということだ。年配者もいるが、もう圧倒的に若い人。やっぱり客層が若いということは、その場にいる自分にとってもすごく嬉しい。
自分はクラシックのコンサートのいつもの客層を知っているので、あの高年齢層化した客層には、正直あまり未来を感じにくいし、暗い気持ちにもなる。というか、自分も含め、この方たちが鬼籍に入ってしまった後、クラシックコンサートってビジネスとして成り立つのかな?という不安をいつも感じる。このままじゃダメじゃないか、とか。
これはいまのクラシック界が抱えている大きな問題の一つで、クラシック音楽は難しいし、敷居が高い、というハードルがある。結局かなりの専門知識が必要で、経済力のある、ちょっとブルジュア的な階層の楽しむ趣味、高学歴・高教育、そんなイメージがつきまとう。そして公演評などの筆クオリティの壁。
やっぱりクラシックはお高いのだ。(笑)
そのハードルの高さの要因となっているのは、クラシック音楽って、長いよね、ということだと思う。交響曲で40分~60分くらい。協奏曲でも30分~40分ではなかろうか。しかも第1楽章、第2楽章、第3楽章、そして交響曲の場合は第4楽章まである。
長いよ~~~。(笑)
しかも、冗長的だ。この長い曲は、いわゆる絵巻物語で序章から中盤にかけて、そしてコーダときちんとした物語になっている場合が多く、いわゆるもっとも人の心を掴むキャッチーなメロディって、そのピークのところのごく一部だったりする。
そこの感動を味わいたいから、物語を序盤から聴いていき、徐々に自分のピークを持っていって、その見せ場に来たら、キタ~~~という感じである。
クラシックを長年キャリアを積んでいくと、そのピークまでいく過程の物語を楽しみ、そしてピークで昇天して、作品トータルとして捉える楽しみ方ができるようになる。いきなりピークを持ってきて来られても唐突過ぎる、という感じかもしれない。
まっ大人の楽しみ方と言えるのかもしれません。
でもクラシックに馴染みのない若い世代の人は、そのピークだけを楽しみたいんですよね。(笑)いわゆるポップスなどのヒット曲にあるフックの仕掛けというか、大ヒットする曲というのは、かならずそういう秀逸なメロディを持っている。若い人はそこだけを聴きたいです。あるいはその連続が聴きたいです。
あまり長い前ぶりの過程は飛ばしたい、という感じではないでしょうか。。
ポップスの曲は、1曲あたり大体3分です。その中で、聴いていたら、ピークがやってきて、気持ちいい、となる。そういうパターンしか慣れていないと思います。若者の限界は3分なのです。(笑)
だから全部聴くのに1時間もかかるクラシック。しかもそのピークに行くまでの過程が長過ぎて、若者は待ってられないというかくたびれちゃうのではないでしょうか。
でもそれは仕方がないことです。古来から伝承されてきているクラシックの曲というのは、そういう構造なのです。
クラシック音楽を若い世代の人たちにもその魅力を伝えたい、ということで、業界あげていろいろな工夫がされている。まさにクラシック界が抱えている大きな問題なので、この高年齢層しかお客がいないという現実をいかに回避して、いかに若い世代に魅力を伝えていくか。みんな大まじめに考えている。クロスオーバーだとかいろいろやっている。
そういうクラシック音楽界の抱えている大きな問題点を、そのものずばり解決して、その解を提示しているのが、のだめコンサートの手法なのではないか、と自分は思うのです。
のだめコンサートの手法は、じつに明快。
クラシックの初心者にもわかりやすい、取っつきやすいキャッチーなメロディのその楽章だけを演奏する。それはいわゆるクラシックの名曲、名旋律と呼ばれる有名な曲から、そのメロディを抜粋みたいな、その楽章だけの抜粋。そしてコンサートの始めから、終わりまで、そういう素敵なメロディが、次々と現れて、飽きることがない。とにかく美しい、素敵なメロディばかりが流れる。楽しい。
そんな印象で埋め尽くされるように選曲、プログラミングされているのが、のだめコンサートである。クラシックだけではない。あるときはジャズだとか、ポップスとかも取り上げる。
当初はのだめカンタービレに関わる楽曲に限定されていたところもあったが、いまはもうほとんどそんな縛りがない。茂木さんがいいと思ったものは、どんどん取り入れていくフレキシビリティがある。
とにかくずっと聴いていて楽しいし、ウキウキする。
そうして、そういうプログラミングである、ということは、コンサートの告知をしたときに、若い世代の人が食いつきやすいのだと思います。のだめコンサートに行けば、ほんとうに楽しいいい曲がいっぱい聴ける、という先入観があって、若い人はチケットを買ってくれる。もうそういう概念ができあがっている。
ここがミソなんじゃないかな、と思います。
茂木さんは手の込んだ、巧妙な、そんなに画期的な戦略を考えながらという訳でもなく、ほんとうにシンプルそのもので、のだめカンタービレに関わる曲で、初心者の方に飽きさせないようにするには、どういう楽しみ方をさせればいいか。
そこを考えて、自然とこういうスタイルになったのではないでしょうか。ほんとうにあまり深刻に考えずに、とてもシンプルに考えて行きついた境地なのだと思います。
自分のようなある程度クラシックを聴いてきているファンにとっても、のだめコンサートがある、チケットを買ってみようか、ということになったときに、どんな素敵なメロディがたくさん聴けるのだろう、となんかウキウキします。自分のような者でもすごい楽しみだったりします。期待してしまいます。
そして大きなことは、外れがないことですね。
絶対外れがない。
別にそんな目新しいことをやっている訳でもなく、ほんとうに真髄を考えて行ったときに、ここに行きついた、という感じではないかと思うのです。
のだめコンサートは、いわゆる選曲だけじゃないです。茂木さんのスピーチや、ゲストとのトーク、スクリーンの投影などで、その曲の成り立ちや知識などをわかりやすく、説明してくれます。これもとても初心者にやさしい感じがします。
コンサート全体として、すごい暖かい雰囲気がありますね。漫画、アニメ、実写の”のだめカンタービレ”を中心のシンボルとして置いているのも、そういう温かみを助長していると思います。クラシックの敷居の高い雰囲気とは、もう全然違う世界です。クラシック音楽につきまとうハードルの高さを、こういう点を解消して、初心者、若い人にもわかりやすい雰囲気を作って導入しやすいようにする。。。ここにのだめコンサートの真髄があると思います。
だからいつも客層は、圧倒的に若い層が多く、なんか明るい感じがするのです。
そして人気があり、いつも満員御礼なんだと思います。
これが自分がいままでのだめコンサートに通い続けてきた経験の中で悟った解脱の境地です。
たぶん間違いないと思います。合っていると思います。
クラシック音楽をいかに若い世代の方々に興味を持ってもらうか。いろいろなアプローチをされている中で、のだめコンサートがやっていることは、もっともいまの現状の延長線上にあるシンプルなやり方で、難しくもなんともなく、簡単に実現できる方法なのだと思います。
自分はいつもそう思っています。
昔、カラヤン&ベルリンフィルが出したアルバムで、”アダージョ・カラヤン”というCDがあり、世界的な大ヒットとなった。文字通り、クラシックの有名曲のいちばん素敵なメロディの部分の楽章を選りすぐり集めたコンピレーション・アルバムみたいなもので、これが初心者層に大受けした。スペインを中心としたヨーロッパで驚異的な大ヒットをはたし、日本でも一世を風靡した。世間、普及世帯にクラシック音楽を浸透させるのは、意外やこんなアプローチが常套手段なのかもしれない。
さて、今回の”のだめクラシックコンサート”ですが、自分は茂木さんのFacebookでの投稿で知ったのですが、もちろんそのときにネットで調べてちょっとショックなことがありました。
”のだめカンタービレ”は、連載開始20周年を記念して2022年にはサントリー・ホールとオーチャード・ホールで3公演「のだめクラシック・コンサート」が開催され、23年にはフェスとミュージカルも開催されたのだそうです。
大変不覚なことで、自分はこの2022年ののだめクラシックコンサート、まったく気づいていなかったです。2022年の年末に調布グリーンホールで、のだめコンサートのクリスマスイブコンサートには行ったのは覚えています。この年の聴き納めコンサートで大感動しました。のだめコンサートの東京版といえば、大体調布グリーンホールで行われるのが常。
そのときいつも思っていたのが、のだめコンサートをサントリーホールで聴けたらな~、最高の華なのにな~と思っていたのでした。
だから、連載20周年記念の節目の年にサントリーホールでのだめコンサートが開催されていたなんて!もう地団太踏んで悔しく思いました。まったく気づいていませんでした。駆けつけることができず、申し訳なかったです。こんな大イベントにまったく気づいていなかったなんて。。。SNS普段よく見ていますが。。ネットで調べて初めて知りました。いま知りました。
今回ののだめクラシックコンサートは、東京国際フォーラムで新年ガラコンサートという位置づけ。
ただの”のだめコンサート”ではないです。”のだめクラシックコンサート”なのです。
東京国際フォーラムという5,000人は入るであろう大会場が満員御礼。これだけたくさんの人が集まってくれるなんて、しかも毎回のことながら、客層がすごく若い!
東京国際フォーラムはもともと音楽ホール用という訳ではないので、やはり広すぎますね。PAが薄っすら入っていたと思います。でもこれだけの人数が収容できて、満員御礼ということであれば、1度きりの公演での収益率がすごいですね。(笑)大ホールでやる魅力はビジネス的にはそこに魅力がありますね。のだめコンサートは、いつもはステージ背面に大きなスクリーンをぶら下げて、そこに投影します。でも今回は、ステージ両側横にテレビモニターを設置して、そこに映し出していました。のだめカンタービレの漫画の投影ももちろんですが、ピアノなんかはそこにカメラを設置して、指回りの様子をそのモニターに映し出したりして、臨場感を出したりしていました。
とにかく名曲のオンパレード。アンコールピースのオンパレードとも思うくらい、美しいいい曲が全編に並ぶ。フル楽章でなく、単楽章のみなどの疲れさせない工夫。
この日は、12曲という大サービスで、みんな珠玉の名曲ばかり。
あまりにいい曲ばかりで、家に帰ったら思わずストリーミングで聴き返して、お気に入りに追加しておきました。(笑)それだけ頭の中でループしてずっと鳴っていて強烈なインパクトでした。
ちょっとこの中で印象に残った曲を簡単に自分の印象含め、紹介していきますね。
最初の小林萌花さんのベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番の悲愴の第二楽章。いわゆる悲愴ソナタ。のだめカンタービレでも重要な立ち位置の曲です。
このメロディは誰でも泣くでしょう!(笑)あまりに美しいメロディ。
自分はベートーヴェンのピアノソナタの中では最高に好きなメロディです。
小林萌花さんは初めて拝見しましたが、とても指回りが素晴らしく、とくにつぎに弾いたショパン エチュードも圧巻ですごいピアニストがいるもんだな、と驚きました。
のだめコンサートでは、まさに定番であるガーシュウインのラプソディー・イン・ブルー。
ピアニストは、シークレットゲストとなっていました。
いざステージ上手から登場したのは、いま若手男性ピアニストで人気の角野隼斗氏。客席から黄色い声が飛んでおりました。(笑)角野氏が弾くラプソディー・イン・ブルーは、まさにジャズ色のアレンジいっぱい。こうちょっと崩した感じの弾き方とか。いわゆるクラシックピアノにおけるカデンツァにあたるアドリブが随所に現れて、凄かったです。
ピアノの上にトイピアノというのかな。それを置いて、ピアノ本体の速射連弾と、トイピアノの速射連弾と、右手、左手の方をうまく使って、片手づつ、それぞれハンドリングして、すごいアクロバティック。何度も現れるオリジナル独創のジャズ風アレンジと相まって、それはそれはすごいラプソディー・イン・ブルーとなりました。
角野隼斗、カッコイイよ、オマエ!(笑)
のだめコンサートの手法は、大きなスクリーンにアニメ画像を投影するという手法がメインなのですが、この日は、ステージ横に大型テレビモニターを壁に掛けて、カメラで演奏中のピアノの手元も映し出して、そのモニターに映し出すというもので、それはそれはすごい格好良かったです。
こんなラプソディー・イン・ブルーは聴いたことがなかったですね。
その後、茂木さんと角野氏とのゲストトークで、お互いこのラプソディー・イン・ブルーは毎回共演している回数が多いそうですが、毎回このジャズ風アレンジが共演するたびに、全部違うアドリブなんだそうです。まさにそのときに瞬時に思いつきながら弾く即興演奏ですね。いまNYに住んでいるらしくて、夜な夜なNYのクラブに現れては、ピアノで参加して即興のジャムセッションに加わって演奏している、そんなクラブ回りの毎日を過ごしているんだそうです。まさに若いときの武者修行と言おうか、一番鍛錬を積むときですね。
東大在学中にピティナ・ピアノコンペティションで特級グランプリを受賞!
まさに異色のピアニストです。
つい先だって、ソニークラシカルとのアーティスト契約も発表されて、ますますのワールドワイドな活躍が期待されますね。頑張ってほしいです。
休憩を挟んで、Budoによるショパンの幻想即興曲と、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ熱情・第三楽章。
Budo、ぶどうと呼ばれるピアニスト。自分は存じ上げませんでした。ネットで調べてもあまり詳しい情報は出てきません。YouTuberピアニストだということくらいです。神秘のベールに包まれたピアニストで、なんとYouTuberピアニストとして初のサントリーホールでコンサートを開くそうです。そして浜離宮朝日ホールでも。
桐朋学園大学ピアノ科を卒業後、単身カナダに渡り、ストリートピアノとの運命的な出会いを果たしたそうです。帰国後、YouTubeにストリートピアノの演奏動画を投稿し始め、独特の世界観、”怪しい風貌の男”が超絶技巧のクラシック音楽を奏でる動画が話題を呼び、YouTube登録者数が8万人を超え、数か月で100万回再生を超えた。
そんな異色のピアニストでした。(今回のパンフレットに書いてありました。)
自分は当日誰なのだろう?と思いましたが、ルックスが男性で長髪で、ゴローさんそっくりなのです。(笑)なんかゴローさんに似ているな~とずっと思っていました。
ゴローさんに似ているので、確かに”怪しい風貌の男”です。(笑)
で、で、ですよ。。。ピアノがめちゃくちゃウマいです。驚きました。まさに全盛期のポリーニばりに均等でコンピュータのような精緻な打鍵で、パワーもある。あまりにピアノがウマいので、この方誰?という感じになってしまいました。
茂木さんとも親しいらしく、ゲストトークでも弾んでいました。
のだめカンタービレのミュージカルで劇中ピアノ演奏を務めたそうなので、その縁ですね。
いぁあ、自分はこのピアニストがすごい衝撃でした。かなり怪しい雰囲気なのですが(笑)、とにかくめちゃめちゃピアノがうまくて。。。
まさかYouTuberピアニストとは思ってもおらず、こういう出会いがあるのも、のだめコンサートの素晴らしいところではないでしょうか。
高松亜衣さんによるモンティのチャールダッシュ。
チャールダッシュはこれは聴けば必ず燃える曲ですよね~。まさに高速弾きのこれぞスタンダード曲とも言うべき有名な曲で、すごく興奮しました。
新倉瞳さんによるドヴォルザークのチェロ協奏曲も素晴らしかったですね~。まさにチェロ協奏曲の定番、名曲ですね。その恍惚の旋律、そしてチェロの暖かい恍惚感のある周波数帯域の音色に酔いしれました。新倉さんはご無沙汰していました。昔ののだめコンサート以来でしょうか。
やっぱり締めは、のだめカンタービレの主題歌、ベートーヴェン 交響曲第7番ではないでしょうか。第一楽章と第四楽章でした。
今回、自分のツボだったのは、アンコールのプッチーニのお父さん。
もうこれはオペラアリアの名曲中の名曲ですね。ひさしぶりに聴きました。ほんとうに素敵なアリアです。てっきりオペラ歌手がそのアリアを歌うのか、と思いましたが、そのメロディは、コンサートマスターがヴァイオリンで奏でるというサプライズでした。
オーケストラは、のだめオーケストラとのだめユースオーケストラ。
茂木さんもN響首席時代から指揮者に転向してからずっとその指揮姿を見てきましたが、もういまや完璧な指揮者に変貌です。ベテランの指揮者と間違うくらい堂に入っていてカッコいいです。
若手演奏家主体で、そのフレッシュな演奏、みんな素晴らしかった。
ブラボーでした。
いつ来ても、何回通っても飽きさせない、そのときのサプライズ、企画が用意されていて、そしてお馴染みの根幹をなすスタンダードの曲ももちろん披露して、ほんとうに楽しいコンサートです。
なによりも聴いていて気持ちいい。
音楽って、この要素が結局原点というか、いちばん大切なことなんじゃないでしょうか。
このファクターさえ、つねに心掛けていれば世代の壁など関係なく、お客さんは集まってくれるのだと思いました。
のだめクラシックコンサート、次回は京都ですよ~。ロームシアター京都。2024年5月4日(土)&5月5日(日)です!!!
のだめクラシックコンサート
2024.2.24(土) 17:00~ 東京国際フォーラム ホールA
ベートーヴェン" ピアノソナタ第八番 悲愴 第二楽章"(小林萌花)
ショパン" エチュード 作品10-4"(小林萌花)
グリンカ" 歌劇「ルスランとリュドミラ」より序曲"(のだめユースオーケストラ)
ガーシュウィン" ラプソディ・イン・ブルー"(角野隼斗&のだめユースオーケストラ)
ラフマニノフ" ピアノ協奏曲第二番 一楽章"(石井琢磨&のだめオーケストラ)
- 休憩 intermission –
ショパン" 幻想即興曲 "(Budo)
ベートーヴェン" ピアノソナタ第23番「熱情 」第三楽章"(Budo)
ヴェルディ" 歌劇「椿姫」より「乾杯の歌」"(のだめオーケストラ、REAL TRAUM、川越未晴)
モーツァルト"歌劇「魔笛」より、パパゲーノのアリア「俺は鳥刺し」(のだめオーケストラ、堺祐馬)
モーツァルト"歌劇「魔笛」より、タミーノのアリア「なんと美しい絵姿」(のだめオーケストラ、鳥尾匠海)
モーツァルト"歌劇「魔笛」より、「夜の女王のアリア」(のだめオーケストラ、川越美晴)
レハール"喜歌劇「微笑みの国」から「君は我が心のすべて」"(のだめオーケストラ、REAL TRAUM)
モンティ" チャールダッシュ"(のだめオーケストラ、高松亜衣)
ドヴォルザーク" チェロ協奏曲 から第一楽章"(のだめオーケストラ、新倉瞳)
ベートーヴェン"交響曲第七番 第一・四楽章"(のだめオーケストラ)
プッチーニ"歌劇「ジャンニ・スキッキ」から「私のお父さん」"(のだめオーケストラ)
シューマン室内楽マラソンコンサート [国内クラシックコンサートレビュー]
とにかく2024年辰年。年男の自分であるが、まさに人生最大の試練の年。公私ともにすごい大変なストレスにさらされている。とくに3月に入ってプライベート面でどん底で、それでも予定していたクラシックのコンサートは行くので、もう精神状態が下げたり、上げたりでまさしくジェットコースターのようで気分が悪くなる。(笑)
そういう状態なので、コンサートレビューの日記がなかなか書けなくて申し訳なかったのだが、徐々に書いていきたいと思う。
諏訪内晶子さんの国際音楽祭NIPPON2024。シューマン室内楽マラソンコンサートに行ってきた。
まさにシューマンの室内楽を、朝11:00開演で、20時頃終演になるまで、まさに1日フルマラソンのコンサートである。シューマンの室内楽を、ピアノ三重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲、そしてピアノ四重奏曲、ピアノ五重奏曲とおおよそ、すべての作品をフルに聴くという機会はなかなかないのではないだろうか。
大変貴重な経験をさせていただいたと感謝している。
この日の演奏会の目玉は、なんといってもやはり若手演奏家中心であること。これがなんと言っても新鮮だ。諏訪内さんは最後の大トリのピアノ五重奏曲だけの出演だった。
やはり若手の演奏家、これからの日本のクラシック音楽界を継いでいくその俊英たち。なんともフレッシュな顔ぶれで、聴いていても見通しの明るさ、可能性を感じて、その場がふっと明るくなる感じがする。演奏家のルックスを見てもあどけさなが残って可愛い感じがするし、自分の気持ちもとても若返った気持ちがする。なんか自分の子供の晴れ舞台の演奏会を親として観ている感じだ。(笑)
そしてなんといっても、技術的にハイレベルであること。自分が普段聴いている自分の世代の演奏家とまったく遜色ない、素晴らしいパフォーマンスを魅せてくれたこと。日本のクラシック界の将来は明るいな、と安心しました。
とくに一度聴いてみたいとずっと思っていた若手音楽家が何人も登場していて、この機会を逃しては絶対いけないな、と狙っていた。
国際音楽祭NIPPON2024のシューマンづくしの企画としては、このように東京オペラシティコンサートホールのホワイエで、ロビーコンサートと題して、シューマンの室内楽について、ちょっとしたレクチャーコンサートも催されていた。司会進行は、音楽評論家の舩木篤也さんが務められていた。
そして国際音楽祭NIPPONは、単なるコンサートだけではない。若手音楽家の育成も大きなテーマだ。諏訪内晶子さんなどの講師陣を迎えマスタークラスも開催された。写真は、ヴァイオリン部門。講師は諏訪内晶子、ベンジャミン・シュミット。
(c) 国際音楽祭NIPPON Twitter/X
シューマンの室内楽というのは、じつはあまり自分は実演で経験したことがなく、ブラームスの室内楽のほうはもうベテランだ。(笑)東京春祭の川本嘉子さんのプロジェクトでもう10年以上聴き続けている。ブラームスの場合は、いかにもきっちりとした骨格感があって厳格な旋律で、ドイツ音楽らしい男らしいメロディで、硬派な音の紡ぎの中でその合間にフッと現れる美しい旋律がなんとも効果的。そういう男らしい硬派~美しいのバランスが絶妙に交互に現れるので、そこはかとなく秋の季節が似合うそういう哀愁帯びた音楽。
ブラームスの音楽って大体そんな感じではないだろうか。
でもシューマンの音楽は、とても優しい女性的な美しいメロディでほんとうに癒される。音階の進み方やメロディの構造がとてもわかりやすく、とても親しみやすい、わかりやすい音楽だ。すごく優しくて女性的で叙情的な調べ。聴いていて浄化される、というか、精神が綺麗になるようなそんな爽やかな感じがする。
シューマンの音楽は、春の季節が似合うと思う。ブラームスが秋の哀愁とすると、シューマンは春の訪れである。
クラシック初心者の方にも入りやすい作曲家ではなかろうか。
アルゲリッチが、やはり私はいちばんシューマンが好き。シューマンがいちばん自分に合っている、と告白しているくらいだ。アルゲリッチが愛したのはピアノ曲と室内楽だ。アルゲリッチとシューマンといえば、子供の情景とかクライスレリアーナ。あとシューマンのピアノ協奏曲があるじゃないですか!もうピアノコンチェルトの中でも名曲中の名曲ですね。ほんとうに明るいいい曲です。
ブラームスの成功はやはりシューマン夫妻なくしてはありえなかった。そしてその後のブラームスの人生、創作活動についても、シューマンの妻・クララとの関係を抜きにして語ることはできない。
でもこの3者でその音楽性がとても明確に違いがあってとても興味深く感じるところでもある。
自分は、シューマンの室内楽が大好きだ。
心温まる旋律で、どちらかというと春の訪れというイメージがあり、春の季節にぴったりな素敵な調べだと思う。でもその一方でシューマンの音楽は、明るいだけじゃない。ほの暗くロマンティックなところも特徴で、シューマン自身が精神障害を患い始めてからは一層内向的になり、心の奥底へ沈み込んでゆくようになる。情熱的な曲ですら、何か焦燥感にかられるようであり、心の不安定さが拭いきれない、という一面も持っている。けれども、ファンにとってはそれが魅力であり、強く惹かれるのではないか。
シューマンの時代。すなわち19世紀の前半。室内楽は、作曲家が「本気で」取り組むべきジャンルとなっていた。もはや王侯貴族の館やアマチュア家庭でのみ奏でられる娯楽作品ではない。公衆が集まるコンサートで、書き手の能力がシビアに問われ、交響曲と同様のステイタスを有していたとみなされていたのだそうだ。
それまでに公表したのは、もっぱらピアノ曲と歌曲だった。1841年に交響曲を、翌1842年に室内楽曲を集中的に書いている。私人としても公人としても「社会的承認」を得ねば、というわけだ。室内楽に関しては、以後ドレスデン時代とデッュセルフ時代にも書き継いでいる。
今回、そんなシューマンの室内楽をもうほとんどすべてを網羅するという感じで聴かせていただいて、自分はシューマンが紡ぎ出すそのメロディへの自分の印象、認識を新たに確実にした、という感じだった。
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●<第1部>11:00開演
ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調 Op. 63(葵トリオ)
ピアノ三重奏曲 第2番 ヘ長調 Op. 80 (辻/佐藤/阪田)
ピアノ三重奏曲 第3番 ト短調 Op. 110 (シュミット/マインツ/福間)
ピアノ三重奏曲というのは、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの室内楽だ。
妻クララへの誕生日プレゼントのために作曲された第1番。メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番ニ短調に影響を受けて作曲され、この2つの作品はロマン派を代表するピアノ三重奏として広く認知されている。第2番は、1847年に第1番と同時期に作曲された。次第にシューマンを苦しめる心の病から逃れるかのように、明るく前向きな内容で、シューマン自身「甘やかで生き生きとした印象」としており、後にクララはこの作品について「私の魂の深いところをあたたかく包み、最初から最後まで私を喜ばせる作品」であり「大好きで何度も演奏したい」と述べた。そして第3番は、シューマン家でクララのピアノで初演されたのち、1852年に公開初演された。クララ自身、この作品を情熱的で創意に満ちていると非常に気に入っていたようすの日記が遺されている。
シューマンの室内楽はあまり経験がないと思っていたのだけど、調べてみると、シューマンのピアノ三重奏曲は、2011年にベルリンのコンツェルトハウス・ベルリンの室内楽ホールで生体験した経験があり、素晴らしい感動体験だった。素敵なホールでした。シューマン室内楽と言えば、ピアノ五重奏曲やピアノ四重奏曲が双壁だと思うが、ピアノ三重奏曲もじつに素晴らしいのだ。
ピアノ五重奏曲とピアノ四重奏曲は名曲なので、比較的コンサートやFM放送などでも取り上げられる機会も多いが、それに比べてピアノ三重奏曲、あまり耳にする機会は多くない。そういった意味ではある意味渋い選曲かもしれない。
自分がかねてより聴きたかったのは、葵トリオだ。小川響子(ヴァイオリン)、伊東裕(チェロ)、秋元孝介(ピアノ)のトリオ。
ドイツのミュンヘン国際音楽コンクールで2018年に堂々の1位を獲得し、ドイツを拠点に活動する。ベルリン、ミュンヘンなどで研磨をしているときから注目していて、ぜひ一度実演に接してみたいと思っていてようやく念願が叶った。フレッシュなアンサンブルで、切れ味鋭い鋭敏さとハーモニーの美しさが両立しているような抜群のコンビネーションを魅せてくれた。ベテラン並みのかなりハイレベルなアンサンブルで舌を巻いた。特に小川響子のヴァイオリンが目立っていた。
辻彩奈(ヴァイオリン)、佐藤晴馬(チェロ)、阪田知樹(ピアノ)の第2番。辻、阪田は実演の経験済みで、佐藤晴馬が初体験で注目。チェロというもっとも人間の聴覚に恍惚感を与える帯域の楽器。ボーイングがサマになっていて、格好良かった。1度拝見してみたかった。
シュミット(ヴァイオリン)、マインツ(チェロ)、福間洸太朗(ピアノ)の第3番。自分はもちろん福間を初体験で狙っていた。予想外にシュミット、マインツの押しが目立ち、いい奏者だな、と感心した。とくにこのあとのヴァイオリン・ソナタでも活躍するシュミットが素晴らしく、自分はヴァイオリニストはやっぱり女性奏者がいい、というところもあるのだが、男性ならではの切れ味、パワフル、弓が弦に吸いつくような安定したボーウイングなど、さすが男性奏者だなと舌を巻いた。
●<第2部>14:00開演
ヴァイオリン・ソナタ 第1番 イ短調 Op. 105(中野/秋元)
ヴァイオリン・ソナタ 第2番 ニ短調 Op. 121 (シュミット/福間)
ヴァイオリン・ソナタ 第3番 イ短調 WoO 27 (辻/阪田)
シューマンの第1番のヴァイオリン・ソナタは1851年に着手され、たった16日間で完成されたという曲。まだまだ活動的で、情熱に溢れる時期の作品であり、全体的に緊密に書かれた名作なのだが、シューマンはこの曲に満足していなかったようで、第1番の完成後、約1か月ほどですぐに第2番に着手、たった1週間で完成させるという超人的能力を発揮。第1番よりも更に円熟の作品を作り上げたのであった。第3番のソナタはほとんど知られていない作品で、これはかのヨアヒムに献呈された「F.A.E.ソナタ」のシューマンが作曲した部分(第2楽章と第4楽章)に、新たに2つの楽章を加えてソナタとして完成させたもの。完成度は高いものの、ほとんど注目もされず、没後100年目の1956年になってようやく楽譜が出版されたという秘曲である。
中野りな(ヴァイオリン)、秋元孝介(ピアノ)の第1番。中野りなもぜひ聴いてみたい、実演に接してみたかった若手ヴァイオリニストで、可愛らしい優しいルックスに似つかないパワフルなテクニシャンで驚いてしまった。(笑)将来かなり有望であろう。
シュミット(ヴァイオリン)、福間洸太朗(ピアノ)の第2番。かねてより福間洸太朗のピアノを聴いてみたいと思っていた。やっぱりいま若手男性ピアニストは熱いし、超人気だ。ルックスの良さ、スタイルの良さ、そして堅実だけど光るものがあるテクニック。人気なのはよくわかるな~と納得だった。
辻彩奈(ヴァイオリン)、阪田知樹(ピアノ)の第3番。辻、阪田のコンビは、もう普段でも数多くの公演を重ねてきており、もうお互いあ・うんの呼吸というか、よくお互いを知っている絶妙のパートナーであろう。もうすっかり名コンビだ。辻彩奈は、自分にとっては、スイスロマンド100周年記念コンサートで東京芸術劇場で、ジョナサン・ノット指揮でメンデルスゾーンのコンチェルトにて初めて実演に接した。将来有望と目をかけているヴァイオリニストである。いまもっとも公演数が多く、弾けている旬な奏者ではないか。初めて実演に接したときと比べ、より音量が大きく、奏法もすごく安定してサマになってきた、というか貫禄が出てきた。一流ヴァイオリニストの仲間入りという感じだ。経験の数がモノを言ってますね。
阪田は相変わらず素晴らしい。ラフマニノフ全曲演奏会でその実力に舌を巻き、ピアニストとしての実力はそのときに詳細にレポートした。まさにその通りだ。若手男性ピアニスト・知性派ピアニストの筆頭株としてこれからもどんどん精進していってほしい。応援している。
●<第3部>16:00開演
弦楽四重奏曲 第1番 イ短調 Op. 41-1 (米元/小川/鈴木/伊東)
弦楽四重奏曲 第2番 ヘ長調 Op. 41-2 (中野/米元/佐々木/佐藤)
弦楽四重奏曲 第3番 イ長調 Op. 41-3 (カルテッド・アマービレ)
”弦楽四重奏は、クラシックの基本である。”
小澤征爾さんが解脱して得た真実である。それをもとに小澤国際室内楽アカデミー奥志賀、そしてスイス国際音楽アカデミー、とこの真理をもとに若手を育成してきた。
「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」と同時に、奥志賀で若い音楽家を集めて講習会をやっていて、それとまったく同じアイデアをスイスに持ってきた。日本では日本人が主で、スイスではヨーロッパ人が中心だ。
小澤さんの解脱した真実とはこういうことだ。
要するに四重奏をやってソリストになるのと、やらずになるのとでは( その人が作り出す )音楽に違いが必ずあるということですね。音楽の本当の芯を作るのは、弦楽四重奏の主なる特徴なんですね。弦楽四重奏というのは、飾りがないんですよね、全然。オーケストラというのは飾りが割りと入っているけど。
飾りがまったくなくて、純粋な音楽作りを4人でやるというのが、歴史的にも弦楽四重奏の特徴で、作曲家もみんなそういうつもりで書いているからね。そこには純粋な音楽だけがあるのです。
そういう経験があったほうが、オールラウンドで、全体としていい音楽家になれると思います。「音楽作り」には四重奏が大切だと信じています。細かく言えば、音楽の語法とか、論法とか、そういうものを習うのにも四重奏はすごくいい。
音をただ並べるだけでは音楽にならないわけで、どうやって作曲家が紙に書いたものを音楽に戻すかと、ここのことですよね。もちろんソロの曲でもそういうことはあるのですが、四重奏の場合はそれがもろに出てくるということです。
シューマンが作曲した弦楽四重奏曲は、この作品41の3曲のみである。
1840年に結婚した妻クララが、1842年に結婚後初めての長い演奏旅行に出ている間、シューマンはライプツィヒの自宅で一人暮らしを余儀なくされ、極度のスランプに陥っていた。1840年の歌曲 (「歌曲の年」)、1841年の交響曲 (「交響曲の年」)に続き、新たに室内楽に目を向け、1842年6月4日に第1番の作曲を開始し、約2か月の間に3曲の弦楽四重奏曲を完成した。これらは、シューマンにとって最初の室内楽曲作品である。
シューマンの弦楽四重奏は、シューマンが重んじた先人たちの様式とロマン派の表現が高い次元で融合した作品ともいえる。
これは第1番だったか、第2番だったか覚えていないのだけど、たぶん1番。もうものすごい美しい軽やかなメロディで、まさにシューマンらしい春の訪れを感じさせるような明るくて優しい曲。自分はもう一発で虜になりましたねぇ~。この日のフルマラソンコンサートの中で1番驚いて、1番シューマンの音楽って素敵だ!と思った瞬間です。弦楽四重奏だから、弦の合奏の美しさ、ハーモニーの美しさが、この曲に際立って合っていて、もうじつに軽やかに軽快に弾くんだよね~。弦の厚いハーモニーってほんとうに美しいです。
ホールに響き渡る倍音の美しさ。
ふっと自分の頬に春のそよ風があたる・・・、みたいななんとも言えない軽やかさ。もう自分はベタ惚れ。自分がこの日一番反応したときでした。
米元響子さんは、ずいぶんご無沙汰。数年前にイザイの無伴奏のリサイタル以来。あとは前回の諏訪内さんの音楽祭以来かな。なんか、より女性らしく美しくなったんじゃないでしょうか?(笑)なんかあか抜けて綺麗になったな、と思いました。
カルテッド・アマービレは、2015年桐朋学園大学在籍中のメンバー(Vn. 篠原悠那、北田千尋、Va.中恵菜、Vc.笹沼樹)により結成された。勉強不足で存じ上げなく申し訳なかったですが、素晴らしかったですね~。なんかふつうに自分が聴いているベテランのカルテッドと全然遜色ないんだよね。もう驚いちゃいます。自分が差を認識できないアマチュアというだけなのか、それともほんとうに上手いのか。たぶん間違いなく後者です。自分はそれなりに経験を積んできたという自負があるので、そこら辺の識別には自信があります。
ほんとうにすごいよ。驚くばかりであった。
●<第4部>19:00開演
幻想小曲集 イ短調 Op. 88 (葵トリオ)
ピアノ四重奏曲 変ホ長調 Op. 47 (シュミット/鈴木/マインツ/阪田)
ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op. 44 (諏訪内/米元/佐々木/マインツ/ガヤルド)
やっぱりシューマンの室内楽の名曲、王様と言ったら、ピアノ四重奏曲、ピアノ五重奏曲であろう。もう名曲中の名曲で、室内楽コンサートではかならずお目にかかることの多い曲だ。
とくにピアノ五重奏曲はその頂点に立つと言ってもいい珠玉の名曲、秀逸な作品で、とくに最終楽章のあの盛り上がりのところは、まさに春の訪れである。もうシューマンと言ったら結局ここなんだよね~。(笑)
シューマンのピアノ五重奏曲と言ったら自分は想い出がある。東京オペラシティコンサートホールのリサイタルホールのほうで、ゴローさん存命のとき、ゴローさん、みつばちさん、そして島田真千子さん、などのメンバーで、このシューマンのピアノ五重奏曲の演奏会を披露したことがあり、ゴローさんがmixiの日記でぜひ応援に来てくれ~、というお誘いに、自分はかけつけたのであった。
懐かしすぎる~。(笑)何年前のことだ?少なくとも2012年より前のことだから、12年以上前のことだ。
ヴァイオリンは1stが島田さんで、2ndがゴローさんだった。ピアノがみつばちさん。
これから開演、いざ始まる、というときに、ゴローさんがふっと立ち上がり、この期に及んで椅子の高さを調整していた。もっと始まる前にやっておけよ(笑)、と思ったものだ。図太い神経だな、ゴローさんらしいとも思いました。
それはそれは素晴らしい演奏で、”シューマンの曲は春の訪れ”というのは、そのときにこの曲を聴いて、自分の中に深く刻み込まれたフレーズだった。シューマンのピアノ五重奏曲が室内楽の名曲中の名曲である、ということも、このときにしっかり自分の中に刻み込んだ。あの公演は忘れられないです。
シューマンのピアノ五重奏曲と言ったら、あのコンサートのことを思い出すし、自分の中ではあの公演がナンバーワンの位置づけです。
個人にとってのメモリアルなコンサートの想い出というのは、じつはプロの演奏でない場合が意外と多いんですよね。
幻想小曲集と言ったら、もともとピアノ曲集で、ふつうシューマンのアルバムでは、子供の情景とカップリングで、この幻想小曲集が入っているアルバムが多いですね。これを葵トリオで聴く。素晴らしかった。なんか懐かしい感じがした。自分が一生懸命クラシックを勉強していたときのことを思い出すというか。。。
ピアノ四重奏曲もスタンダードな名曲。もちろん素晴らしい演奏だった。
そして最後の大トリ。ピアノ五重奏曲。諏訪内晶子さんが満を持してついに登場。
朝11:00からずっと聴いてきたシューマンの室内楽コンサート。もう夜の20時近くだったかな。なんか最後の大見せ場にふさわしいゴージャスなアンサンブルで自分はついに来たか~という涙がうっすらと・・・。もちろんこのとき自分のメモリアルのあの公演のこともオーバーラップした。最終楽章のあの盛り上がる、昇天して行ってエンディングに入る、あの感動の進行は相変わらず痺れました。
1日かけてのフルマラソンコンサートにふさわしいエンディングだったと思います。
最後は、芸術監督の諏訪内さんが、御礼のご挨拶とアンコール、クララ・シューマン 3つのロマンス Op.21より第1楽章で締めたのでした。
若手の演奏家のみなさんは、その実力の期待値通りの抜群のアンサンブルの精緻さと色艶のある表現力で、シューマンの味わい濃いテイストを十分に醸し出していたと思います。やはり室内楽って、聴いている聴衆からすると、各楽器のこまやかなフレージングやニュアンスが手にとるようにわかるもんなんですよね。そういうすごい生々しさがじかに感じ取れるのです。
突っ走らないし、ちょっと呼吸する、ちょっとフレーズを歌う、ちょっと息を抜くといったところがシューマンの曲のやんわりとした幻想的な感覚に妙にマッチしていてお見事としか言いようがなかったと思います。
音程の安定感と音の柔らかい伸びが素晴らしく、繊細な心の動きやふるえが感じられる表現はみんな若いのにベテラン並みだと感服しました。
室内楽の素敵なところは、音数の少ないことに起因する、そのほぐれ感、ばらけ感、隙間のある音空間を感じることで、音が立体的でふくよかに感じ取れる感覚になれるところだと思います。
大編成のオケの重厚な音では絶対味わえない豊潤なひとときだ。
そんな素敵な「音のさま」がこの音響の素晴らしい東京オペラシティコンサートホールに響きわたるのを聴けたのは本当に最高の幸せ。
これから未来の日本のクラシック界を背負って立つべく、経験、大舞台をどんどんキャリアを積んでいって大きくなっていってください。
私も最初は優しく包容あるように論評しましたが、これからは厳しいです。(笑)
やっぱり演奏家にとって、音楽評論は優しいだけではダメだと思います。お互い両者にとって伸びていく、学んでいく、育っていくには、お互い前向きで真実に迫る厳しいアドバイスも必要だと思います。
今日体験した若手演奏家のみなさんは、きっとこれからの大スターとなるそういうオーラがありました。
すごく楽しみにしています。
最後にシューマンの室内楽というと、もうひとつ自分には思い出があります。
こうしてみると、自分は意外やシューマンの室内楽、実演の経験多かったです。
ゴローさんご逝去の2012年。その年の年末をどう過ごそうか。第九はマンネリだしな~と思っていたところに、堀米ゆず子さんのシューマンの室内楽コンサートが、東京文化会館 小ホールであったのです。2012年12月21日でした。年末の聴き納めはこれにしよう!と即決でした。
プラチナ・ソワレ第3夜「冬の一夜、シューマンとともに」というタイトルで、
ヴァイオリン:堀米ゆず子
チェロ:山崎伸子
ピアノ:津田裕也
曲目
シューマン/アダージョとアレグロ 変イ長調 Op.70
シューマン/子供の情景 Op.15
シューマン/ヴァイオリン・ソナタ 第2番 ニ短調 Op.121
~休憩~
シューマン/ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調 Op.63
でシューマンの室内楽を楽しんだのでした。
堀米さん、若い!!!(笑)
いまでもよく覚えていますよ。
堀米ゆず子さんとゴローさんとは親交があって、ゴローさんのNHKのクラシック番組にもよく出演してもらっていた間柄でした。
そしてこのコンサートが終わった後、堀米さんはMCで、この年亡くなった小林悟朗さんのことに言及して、
「今年、私の大切な友人だったNHKの音楽ディレクター、小林悟朗さんが亡くなられました。つい先だって、「ヴァイオリン戻ってきてホントに良かったねぇ~。」とかいろいろ話していたばかり、いまだに信じられません。今日はその悟朗さんが大好きだったシューマンのピアノ四重奏曲の第3楽章をアンコールに演奏したいと思います。今日はトリオでしたが、このアンコールのためにヴィオラをわざわざ呼んできました。(笑)どうぞお楽しみください。」
そう言えば、堀米ゆず子さん、昔、空港の税関で自分のヴァイオリン、ガルネリを没収されてしまった事件ありましたね。(笑)いま昔の日記を読み返して思い出しました。そんなことあったな~という感じです。
シューマンの室内楽というのは、じつは自分にとって、コンツェルトハウス ベルリン、ピアノ五重奏曲、そして堀米さんコンサートと意外に縁が深かったということをいまこの日記を書きながらわかりました。
きっと、この国際音楽祭NIPPON2024 シューマン室内楽マラソンコンサートも、音楽の神様が自然と赤い糸で結び付けてくれて、当の本人である自分はすっかりそのことを忘れて、よっしゃ~若手を聴きに行くか~というなにげない動機で4部ともフル参加した、という偶然だったのかもしれません。
自分の時代から、若い新しい時代へ。
そういう縁結びだったのかもしれません。
音楽の神様に感謝です。
音楽の神様はいつも自分の音楽人生のことを見守ってくれています。
東京・春・音楽祭 トリスタンとイゾルデ [国内クラシックコンサートレビュー]
終演後、もう頭がフラフラ、ずっとモチーフが頭の中でループしていて、感動がそのままずっと続いていて意識朦朧な感じで、帰りの電車を3回乗り間違えてしまった。(笑)山手線をいつもと反対周りに乗ってしまうし。
上野から自宅までは1時間半で帰れるところをなんと3時間以上かかってしまった。
ヤノフスキ&N響すごすぎる~。(笑)
帰宅してからも、もうこの勢い止まらず。ずっとこのまま余韻をキープしたくて、PENTATONEヤノフスキ盤で夜中の3時まで絶賛再生。そして眠りに着こうと思ったのだが、もう神経が高ぶって興奮している状態で、もう今日は眠るの無理。
そしていまこの日記を書いている。
東京・春・音楽祭では2020年にヤノフスキ&N響で、トリスタンとイゾルデをやる予定であった。でも残念ながらコロナで中止となった。トリスタンは自分にとってワーグナー最大の演目なのでこれをヤノスフキ&N響で聴けるのは最高の楽しみだったのだが、このときほど無念に思ったことはなかった。
そして4年間のインターバルを経て、今年リベンジである。
上野の春の風物詩。東京・春・音楽祭。
自分は東京オペラの森で小澤征爾さんのエフゲニーオーネギンの頃から通っているから、もうこの音楽祭の歴史とともに歩んでいるようなものだ。もう走馬灯のように頭の中を想い出が駆け巡る。でもほんとうにビッグな音楽祭になってうれしいです。
今日の公演は、自分がいままで体験してきたトリスタンとイゾルデの実演の中で最高のステージだったと断言できる。去年マイスタージンガーをいままでの東京春祭のN響ワーグナーシリーズの中で最高の出来栄えと言ったが、今年はそれを超えたと言ってもいいのではないか。
今年のトリスタンとイゾルデは、いままでのN響ワーグナーシリーズの中で文句なしのナンバーワンだ。
凄ましかった。
一期一会とはこういうことを言うのだ。
こんな名演に巡り合えて、自分は本当に幸せ者だと思う。生演奏なんてほんとうにどうなるかわからない中での予期せぬ驚き、そのインパクトも衝撃的で大きい。
ものの見事にノックアウトされて、終演後フラフラになって帰ってきた。
そして結論から言うと、自分は演奏会形式でオペラを鑑賞する、ということに改めて思うところが多かった。自分はトリスタンとイゾルデはいままでずっとオペラ形式でしか観たことがなかったのだ。全部オペラで観てきた。トリスタンをコンサート形式で鑑賞した、という記憶がない。
演奏会形式で観ることで、このオペラの印象がずいぶん違ってきた。先の新国オペラのトリスタンの日記で、自分はこのオペラってすごい冗長的な印象を持っている、ということを言及したと思う。
でも演奏会形式で鑑賞すると冗長的どころか、聴きどころ満載の美しい旋律、そしてモチーフも頻繁に表れていることを認識できるし全編通してなんと美しいオペラなんだろう、と再認識したのだ。
とくに第2幕の二重唱は美しさ満載で、陶酔感がある。ある意味このオペラのいちばん酔えるところなのかもしれないが、じつは自分はオペラで観るといままでそこまで最高というほど感動したことがない。
これはたぶんオペラ形式だと、オペラは総合芸術なので、舞台装置、演出、歌手たちの演技などいろいろなことが視界に入って来て頭の理解力を占有する。音楽だけに集中できないところがあると思う。
ところが演奏会形式だと、ほんとうにオケと歌手たちの歌だけ。舞台演出がいっさいない。ワーグナーの音楽だけを純粋に楽しめる。これでようやくこのオペラの音楽の美しさに気づいたのではないか、と自分は考えた。
ヤノフスキSACDで何回も聴いたし、オペラも何回も観たのに、いままで分かってなかったの?という感じなのだが、今日は初めての演奏会形式ということでほんとうに純粋に音楽だけを楽しめて、トリスタンの音楽の美しさにいまようやく気づいた感じである。
これはある意味、ヤノフスキの理論そのものである。ヤノフスキは、昨今のワーグナーのオペラはかなり過度な演出で、聴衆がそちらのほうばかりに神経が集中してしまうため、純粋にワーグナーの音楽の美しさを堪能できない。ワーグナー音楽はやはり演奏会形式に限る、と断言している。そしてPENTATONE録音でもそれを実践してきた。
そういうことだったのか、といまになってようやくわかる。
もちろんオペラ形式も素晴らしいですよ。自分の理解力がそこまで頭が回らなかったということです。
あと演奏会形式はやっぱり音がいいですね。ピットに閉じ込められていないから、ものすごく開放感があって音がいいです。やっぱり遮るものがなく、音の伸びがあって聴いていて気持ちがいいです。やっぱり自分は演奏会形式が好きだな。
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とにかくヤノフスキ&N響がすごかった!
歌手たちも素晴らしかったが、なによりもいちばん衝撃だったのは、ヤノフスキ&N響のオーケストラだ。やっぱりワーグナーはオーケストラが厚くてうねる感じで重厚でないと酔えない。彼らがいちばんの主役だったと言えるのではないか。ここまでドライブされて鳴りに鳴っていたオーケストラは昨今では記憶にない。圧倒されました。そして最高に格好良かった。
いやぁ~やっぱりワーグナーはこうじゃないとダメだよな~というお手本のような演奏でした。かなり高速でハードボイルドなワーグナーでした。(笑)
弦の厚いこと。そしてうねるような感じ。陶酔感満載。酔えるというのはこういうことを言いますね。
やっぱりワーグナー音楽って、まずオーケストラがいちばん根底を成す重要なところなんだということを再認識しました。屋台骨というか。。。その上に歌手の出来栄えが乗ってくるという感じですね。
オーケストラは指揮者によってその音が変わるとはよく言われることですが、N響からこれだけの”鳴り”を引き出すヤノフスキにひたすら脱帽という感じです。
もうワーグナー音楽を完璧に手中に収めていて、その思うとおりにオーケストラから鳴りを引き出し、ドライブしていってワーグナー音楽を構築していくその指揮ぶりにもう圧巻でした。見事というしかない。あらためて惚れ直しました。
ヤノフスキはリハーサルなどかなり厳しいらしいですよ。N響とはもう長年のパートナーですが、怒られに怒られ、ばっちり鍛え抜かれたN響。そうして出来上がった筋肉質なサウンド、あっぱれでした。
そして、これは毎年ヤノフスキ&N響の演奏会形式を見て、驚くことなのだが、普通、オペラ歌手が歌うところでは、オーケストラ自体の音量を下げて、歌手の声をかき消さないような指示をしたりする指揮者が多いのだが、ヤノフスキはまったくその反対なんですよね。歌手が歌っているところこそ、オーケストラに、もっと大きく、もっと大きくという指示を出しているかのようにオーケストラの音量をより一層上げている。
歌手もヤノフスキのときはほんとうに大変だと思うのだが、でもそれがより一層、ヤノフスキの紡ぐワーグナーが、終始一貫して、雄大で重厚なサウンドなのは、そこに起因するのではないか。歌手が歌うアリアこそもっともアピールする箇所で、そこでオーケストラを雄大に鳴らし、ドラマティック性に華を添える。
所々で、音量の強弱を繰り返す音型よりも、ずっと一貫して突っ走る(もちろん多少の音量強弱はあると思いますが)、それが終始、全体的に雄大でスケール感の大きいワーグナーを表現できるヤノフスキ独自のワーグナー戦略なのだと思う。
去年と同じ第3幕で吉井瑞穂さんがオーボエ首席として入るなど、メンバーチェンジがいろいろあって総動員体制という感じでした。第3幕の池田昭子さんのイングリッシュホルンのソロ。あそこはすごい難所なんですよ。すごい難しいところ。聴いていて外さないでよ、外さないでよ、と祈らざるを得ないくらい長いソロで、もう見事でした。さっすがです!!!
東京オペラシンガーズは相変わらずすごいですね。主に第1幕ですが、もう声の音圧がすごい。もうエネルギーの塊という感じで声のハーモニーが飛んでくる。驚きました。
では歌手陣に行ってみますね。
歌手陣は、飛びぬけて驚くほどすごいという印象はなかったですが、でもハイレベルでまとまっていてみんないい歌手だと思いました。粒ぞろいのいい歌手が揃っていました。
毎年思うことなのですが、東京春祭実行委員会の選考委員のみなさんは、どういう情報源パイプから、そしてどうやってこんないい歌手たちを集めてくるのかほんとうに凄いと思います。これから時代を担う新しい育ち盛りの歌手を選んでくるその選択眼が素晴らしいと思います。
イゾルデ(ソプラノ):ビルギッテ・クリステンセン
ワーグナー歌手といういわゆる巨艦ぶりな歌手ではなく、やや声量控えめな叙情的で優しいソプラノですね。最初出足が不安定で、イゾルデにはなかなか厳しいかな、と最初思いましたが、徐々に喉が温まってきてヒートアップしてきてもう十分すぎるくらいイゾルデを演じ切りました。
声質は透明感があって、美声だと思います。最初気になった声量の小ささももう中盤以降は全然十分すぎるくらいで素晴らしいと思いました。
イゾルデはもう見せ場はたくさんありますが、やはり第3幕の愛の死。号泣しました。(笑)涙腺が堪えきれず、ついに決壊。このオペラで昇天するいちばん肝のところですから、いつ来るか、いつ来るか、と待ち構えていましたが、もう期待に十分すぎるくらい応えてくれて最高でした。
もうこのときは、よくやってくれた、よくやってくれた、と涙ながらに喝采しました、です。
もうブラボーを贈りたいです。最高のイゾルデでした。
ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):ルクサンドラ・ドノーセ
素晴らしかったです。自分は最初、イゾルデと区別がつかなく、2人ともすごい似たような声質と声量だな、と思いました。この2人非常に似ているタイプの歌手だと思います。いい歌手だと思います。このオペラではブランゲーネはすごい歌う場面が多いですから、存分に堪能しました。素晴らしかったと思います。
第2幕ですかね。三重唱のときに、このブランゲーネだけがバンダのように、客席で歌うところがあったんですね。そして3人で重唱するわけです。それが私の席のすぐ傍で歌ってくれたのです。(2階席)もうオペラ歌手が歌っているところをこんな至近距離で聴くのは人生で初めて。もうすごい臨場感で生々しさがあって、発声の出だしのところはもうすごい音圧です。うわぁ、やっぱりオペラ歌手ってすごいな、と思いました。もう別次元の才能の持ち主、という感じですね。我々凡人の想像の域の遥か上を行っていると思います。
素晴らしい歌手だと思いました。
トリスタン(テノール):スチュアート・スケルトン
たっ体格が!(笑)すごいです。でもいい声してますね~。素晴らしいと思いました。いわゆる突き抜けるような感じではありませんが、優しい柔らかい声質でいい声してるな~と思いました。喉の声帯が広いというか声の発声に器的な余裕がありますね。そして定位感もあります。自分的には今回は男性陣が素晴らしいと思っていたところがあって、その筆頭格といってもいいのではないでしょうか。主役を張るだけの主張感、存在感がありました。
特にトリスタンの最大の見せ場、第3幕の1人語りのところですね。もう独壇場でしたね。最高でした。
マルケ王(バス):フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ
自分の数少ない拙い経験でしかありませんが、トリスタンとイゾルデでは、マルケ王は大体いい歌手が多いんです。(笑)毎回好評な評価を得る場合が多いです。バスのあの低音の魅力で安定感と定位感があって、ずば抜けた存在感がありました。マルケ王は重要な役柄でもありますね。
クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ
自分は、今回2階席だったので、もともと視力が悪いので、間違っているかもしれませんが、男性歌手陣の中で飛びぬけた実力、歌唱力を持っていたのは、このクルヴェナールです!もう他の追随を許さないというか、もう発声しただけで、もう全然ひと味違うというすごい声量があります。
艶のあるいい声をしています。飛びぬけています。うわぁ、これはスゴイな。たぶん一流歌手だろうな、と思っていましたが、案の定バイロイトでも活躍しているみたいですね。というかこの方、東京春祭ワーグナーシリーズの常連さんですね。(笑)顔写真を見たら、もう完璧に記憶にあります。もう毎回出てくれているのではないでしょうか。貴重なレギュラー出演歌手です。今回の男性陣の中ではナンバーワンではないでしょうか。最後のカーテンコールでも1番歓声が上がりました。
あと、もう東京春祭では、すっかり常連のメロート役の甲斐栄次郎さんも素晴らしかったし、同じく常連の大槻孝志さんや、高橋洋介さん、金山京介さんも素晴らしかったです。しっかり見届けました。
とにかくオーケストラに歌手陣。穴がなかった。全体に綺麗だけど破格外レベルまで拡張してまとまっていた。パーフェクトだった。いやぁひさしぶりに激感動しました。ドラマティックでした。ひとつの大きな絵巻物語を見終わった気分です。
やっぱり最後は余韻を楽しむ、ということをマナーとして取り入れたいですね。自分なんて絶対余韻を楽しむ派、あの長い沈黙があるからこそすべてに重く荘厳に終わると思うのですが、世の中にはすぐに拍手したい(フライング!)人もいっぱいいるんですね。人によりけりです。この日もそうで、せっかくの大伽藍をぶち壊しです。ヤノフスキが両手で制止して、すぐに沈黙を取り戻し、事なきを得たという感じです。
官能的で悩ましくて麻薬のような独特の旋律。聴いていると人の感情を内から煽り立てるような刹那というかそんな仕掛けを感じてしまう。ワーグナーの10大楽劇作品の中でも、かなり異端で特異な旋律である。
トリスタンとイゾルデは、ワーグナーの作品の中で最高傑作である。
ヤノフスキは85歳だそうだ。今年亡くなられた小澤征爾さんやポリーニが同じ80歳代だったことを考えても信じられない元気溌溂の現役ぶりで、自分が以前拝見した感じからまったく変わらず、衰えていなく驚くばかりである。
ヤノフスキに対して、やっぱり自分は特別な感情を持っているんですよね。しかめっ面の笑わない頑固なオヤジかもしれないけど、1本筋が通っている。自分の理論、自分軸を持っている。
カラヤンやバーンスタイン、小澤征爾さんは、もう自分が生まれたときから大スターだった。でもヤノフスキの場合は、なんか自分といっしょに育ってきたというか、自分といっしょに歩んできた同士のような感覚があり、とても親しみを持っている指揮者なのである。
これからも元気で頑張ってほしい。
マレク・ヤノフスキは、自分の誇りである。
4/13のNHKホールでのN響定期もチケットを取りましたが、東京春祭の川本嘉子さんのブラームス室内楽とかぶってました~。(笑)ブラームス室内楽のほうを優先します。残念。
東京・春・音楽祭2024
2024年3月27日 [水] 15:00開演(14:00開場)
東京文化会館 大ホール
東京春祭ワーグナーシリーズ VOL.15
ワーグナー:楽劇《トリスタンとイゾルデ》(全3幕)
上演時間:約5時間(休憩2回含む)
指揮:マレク・ヤノフスキ
トリスタン(テノール):スチュアート・スケルトン
マルケ王(バス):フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ
イゾルデ(ソプラノ):ビルギッテ・クリステンセン
クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ
メロート(バリトン):甲斐栄次郎
ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):ルクサンドラ・ドノーセ
牧童(テノール):大槻孝志
舵取り(バリトン):高橋洋介
若い水夫の声(テノール):金山京介
管弦楽:NHK交響楽団(ゲストコンサートマスター:ベンジャミン・ボウマン)
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン
トリスタン和音 [国内クラシックコンサートレビュー]
新国立劇場、新国オペラを観に来たのはいつ以来だろう?ちょっと思い出せないくらい大昔だ。たぶんコロナ前。過去日記を調べる気もしないくらい大昔だ。演目も思い出せない。
オペラは、自分がよく知っている演目だとすんなり行く気になるけど、予習が必要な自分にとって新しい演目はなかなかハードルが高い。ふだん忙しいので。オペラはやっぱり観劇するのにすごいエネルギーがいると思う。
新国オペラで、ワーグナーのトリスタンとイゾルデを13年ぶりに上演するという。演出も13年前のプロダクションのものだそうだ。
これは行かないとな~。
新国立劇場、ほんとうにご無沙汰しているので、ひさしぶりに行ってみたいとずっと心に引っかかっていた。でもなかなかオペラを観に行く勇気と時間がなく悩んでいたところに、トリスタンとイゾルデを上演するという。
これは行かないといかんだろう!
自分にとって、ワーグナーのトリスタンとイゾルデは、自分のワグネリアン人生の頂点に立つ楽劇だ。
2016年は、まさにトリスタンとイゾルデ・イヤーだったと言っていい。
ワーグナーの聖地、バイロイト祝祭劇場で初めてバイロイト音楽祭を体験。
その頂点がトリスタンとイゾルデだった。
そして日本に帰国してからも東京二期会でトリスタンとイゾルデ。東京文化会館。
そしてMETライブビューイングでもトリスタンとイゾルデ。
昔から不思議に思っていたのだけど、オペラ界ってどうして同じ演目を一時期に集中的に続けたくなる性格なのでしょう?(笑)今年はずっとトリスタンとイゾルデばっかり、というのがすごい多いです。
バイロイト音楽祭のときは、ティーレマン指揮で、タイトルロールがステファン・グールドとペトラ・ランク。東京二期会のときは、池田香織さんと山下牧子さんとか。
METは念願のニーナ・ステンメ様。イゾルデ役100回というイゾルデを歌わせればこの人の右に出る人はいないというステンメ様のイゾルデを堪能。
凄かった~~~。映画スクリーンなのに、もうすごいヴィブラート利かせまくりのまさにワーグナー歌手の典型のような巨艦ぶりで、すごい歌い手さんだと思いました。ステンメ様のイゾルデを生涯で1回実演で体験してみたいです。夢です。
そんな自分にとってオハコど真ん中の演目を新国オペラでやってくれるという。ひさしぶりに新国立劇場に行きたかった自分、オペラを観たかった自分。ジャスト・タイミングでした。
東京・初台は音楽の街ですね。東京オペラシティコンサートホールと新国立劇場が併存しています。
新国立劇場、超久しぶり!
公演の詳細レポートはまた別途別に立てます。いま忙しいので、あとでゆっくり論評したいと思ってます。まずは速報という形で。
「トリスタン和音の官能的な響き」
トリスタンとイゾルデの全体の骨格となっている「トリスタン和音」。
なんと!官能的な旋律なんだろう!
ものすごい悩ましい、人を一瞬にして虜にする独特の音階進行。
麻薬みたいな感じですね。
第一幕の前奏曲やラストのイゾルデの愛の死で、そのトリスタン和音は最高潮に達する。
むかし音楽評論家の先生の投稿で、なぜトリスタン和音が人を惹きつけるのか?という論文を拝読したことがある。和声学の理論からしても、じつはこのトリスタン和音の音階進行は官能的な響きになる理屈がちゃんと成り立っているのだそうだ。その音階進行の仕組みが、人間の感性に対してすごく悩ましい、独特の色気を感じさせ、官能的に響くように感じてしまう。それが理論的に和声学的に証明されているのだそうだ。
正直その論文の内容は、あまりに専門的過ぎて難しくてわからなかったのだが(笑)、あのトリスタンとイゾルデ全編を通して流れるちょっと普通ではない半音階ずれた感じで進んでいく、通常の調性音楽と違って一種独特の不安定な旋律の運びは、人間の感情を煽り立てるような、まさにその麻薬ぶり、官能的な響きとなる仕掛けがそこに存在しているのだ。
トリスタンとイゾルデを観劇するのは2016年以来だから、8年ぶりだ。
いやぁ~じつにエロイ音楽だ。(笑)まさに官能的という言葉がぴったりだ。
ひさしぶりに聴いて、麻薬みたいな音楽だな、と思ってしまった。
ひさしぶりに観て、もうひとつ思い出したのが、このオペラ、動きがすごく少ないというか、歌手が静止して延々と歌っている感じで、動きがまったくない。そしてすごく冗長的なオペラなんですよね。すごい冗長的。
ワーグナーの楽劇は、示導動機、ライトモチーフというその楽劇を象徴する主旋律のメロディが楽劇中に何回も登場することで、1本の筋を通すような役割を果たしている。
このライトモチーフがカッコいんだよね~。
ワーグナーのオペラがカッコいいのは、このモチーフが、ここぞというところで何回も現れるので、オペラの骨格としての統一感があって、それが余計、すごいドラマティックに感じる、衝撃的なまでの大感動を生む仕組みを作っているのはこれが原因だと思います。このライトモチーフの仕掛けがそう感じさせる要因だと思ってます。
ところがトリスタンとイゾルデは、そのモチーフの再現回数が意外と少ないというか、正確にはその変形的な旋律はよく現れるのだけど、ここぞど真ん中のストライク、聴いていて気持ちいい!というモチーフの登場は意外と少ないような気がする。
だからインターバルが長いんですよ。すごい冗長的な感じなのです。
キタ~という感じがなかなか来なく、ずっと今か今かと待っているのだけど、じらされている、というかはぐらかされて、最後のイゾルデの愛の死でついにキタ~という感じで昇天してしまう。そういうオペラだということを思い出しました。(笑)すっかり忘れていました。
つねに半音階進行的な感じで、従来の調性音楽に対する挑戦みたいな感じです。
これもトリスタン和音の成せる業なのかもしれませんね。
もちろんこれは門外漢の一般聴衆の自分の感覚でモノを言っているので、音楽学的に正しくないかもしれませんが、自分は昔からこのオペラを観劇すると、いつもそう感じてしまいます。すごいインターバルが長くて冗長的なんですよ。(笑)素人感想でスミマセン。。笑笑
舞台装置は、13年前とは思えないくらい斬新で芸術的だと思いました。
素晴らしいです。
歌手はタイトルロールの2人が直前で交代したのですね。今日知りました。トリスタン役はいい歌手だと思いました。明るい軽い声質で、ヘンデルテノール、ワーグナー歌手という感じではなく、もっと軽い感じです。でも声量もあり、歌もうまいと思いました。
イゾルデ役もいい歌手だと思いました。ずっと第一幕から聴いていていい歌手だな~と思っていましたが、ちょっとだけ辛口でいいですか?(笑)この楽劇の最高潮で昇天するところであるラストのイゾルデの愛の死。いただけなかったな~。(笑)ブレスが多くて、滑らかじゃない。あの官能的な旋律を滑らかに一気に歌いきらないと、聴衆は酔えないんですよ。ブツブツ切なので興奮できない。冗長的なオペラなので、いまかいまかとずっと待っていて、そうしてようやくキタ~という感じで待っていた愛の死でしたが、酔えなく、陶酔できなく、もうがっかりでした。一気に冷めてしまいました。
でも急なピンチヒッターだった訳ですし、プロフィールをよく拝見しておりませんが、イゾルデはそんなに歌っていないのかもしれません。
自分が今回のオペラで一番楽しみにしていたのは藤村実穂子さん。藤村さんの歌を聴くのもめちゃくちゃ久しぶりです。覚えていないくらい大昔です。陰影感のあるダークなそして深みのある音色の歌声に、あ~これはまさしく藤村さんの声ということで嬉しかったです。藤村さんの演じたブランゲーネは、非常に歌う出番が多いので、すごく堪能できました。まさしく我が日本を代表する世界的な歌手という実力ぶりでした。
大野和士指揮東京都交響楽団も最高です。
やっぱりホールでの実演は、器感のダイナミックレンジと低域の出方が全然違う。あのオーケストラの身体を揺らすような豊かな分厚い低音は、家庭のオーディオルームでは再現不可能だと毎回思います。低域の信号は波長が長いので、再生空間の容積が大きいほどいいですね。ホールのあの巨大空間での低域再生は、オーディオルームでは再現は難しいと思います。
この後、上野の東京・春・音楽祭でもヤノフスキ&N響でトリスタンとイゾルデの演奏会形式を体験します。ヤノフスキの高速でハードボイルドなワーグナー、とても楽しみにしています。きっとまた大感動に違いない。やっぱりワーグナーってハードボイルドに演奏してほしいですよね。枯れたワーグナーはダメです。(笑)
ひさしぶりに観た新国オペラ「トリスタンとイゾルデ」の公演論評は、別に立てます。落ち着きましたら、ですが。。。
ひさしぶりの新国立劇場。
電子マネーやクレジットカードが使えるようになりました。(笑)
いいぞ!いいぞ!コンサートホールやオペラハウスもDX化が必要ですね。
新国の定番のオペラ演目に合わせた(?)スィーツ。いつも食べたいと思ってしまいます。
夕方4時に開演。終演が夜の9時半。5時間半の大伽藍。相変わらずキツかったです。(笑)
(c)新国立劇場 Facebook
国際音楽祭NIPPON2024 モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会 [国内クラシックコンサートレビュー]
諏訪内晶子芸術監督による国際音楽祭NIPPON2024。開幕。
この音楽祭は毎年開催されるものではないんですね。(笑)勘違いしていました。充分時間をかけて、テーマを練り上げ、そして若手演奏家を含めた出演者の交渉、練習、日本のどのエリアを廻るのか、地方のアウトリーチや学校での演奏の調整、指揮者やオーケストラや共演者との念入りのリハーサル、そのほか諸々のビジネスイシュー。
そんな徹底的に完成度を磨き上げて臨むため、2年~3年間隔のインターバルはどうしても必要なのだろう。
2024年1月11日から2月27日まで東京・横浜・名古屋・大船渡にて、7企画10公演の多彩なラインナップで開催する。
諏訪内晶子による モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会は、指揮にサッシャ・ゲッツェルを迎え、国内外の名手たちにより創設されるフェスティヴァル・オーケストラによる演奏。 室内楽プロジェクトにも、諏訪内が厚い信頼を寄せるトップ奏者たちが集う。楽都ウィーンを彩った作品、作曲家に焦点をあてた“クラシック”&“モダン”の室内楽プロジェクト、濃密な音世界をお届けするシューマンの室内楽マラソンコンサート。
アーティストが全員揃って、通常の形で行える3年ぶりの音楽祭。全体像は「ウィーンに焦点を当てたプログラム」だ。
「ウィーンとなればモーツァルトは外せません。全5曲は調性も形も様々で、オペラのように色々な場面が詰まっていますから、各々を明確に表現し、モーツァルトの世界観を伝えたいと思っています」
1月11日、1月12日と2日間、東京オペラシティコンサートホールで、モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会を鑑賞してきた。
去年2023年の今年の芸術の秋は、いま振り返ってみればほとんどがピアノのコンサートであった。
ヴァイオリンはまったくなかった。
ひさしぶりにヴァイオリンが主役のコンサートを聴いて、いやぁ~やっぱりヴァイオリンはいいな~と思ってしまった。ヴァイオリン大好きを自認する自分にとって、やっぱりVn最高~という感じである。ひさびさの充実感と満足感であった。
モーツァルトのコンチェルトを生演奏で全曲コンプリートするというのは、自分の中でもあまり記憶にない。ヴァイオリン大好きを自認する自分も意外やモーツァルトのコンチェルトというのはあまり記憶にない。
メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ベートーヴェン、ブラームス、シベリウス、ブルッフあたりがやはりヴァイオリンコンチェルトとしてはキラーコンテンツであろう。モーツァルトは意外やあまり聴いたことがなかったような気がする。
やっぱりモーツァルトは天性の明るさ、というか天真爛漫なのびのびとした長調性があり、聴いたら、これはモーツァルト!と一発でわかるわかりやすさがある。
ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在で、おもに現在のオーストリアを活動拠点にした音楽家である。
神童と呼ばれ、幼いころから作曲をして、もう膨大な数の曲をこの世に残していったモーツァルト。彼の曲を聴くと、交響曲であろうが、協奏曲であろうが、ピアノソナタであろうが、室内楽であろうが、レイクエムであろうが、なんかみんな同じ曲、同じ旋律に聴こえるんだよね。
一生懸命、モーツァルトの勉強をするために、たくさんの音源を買い込んで毎日聴いていたら、なぜかそう思ったことがある。それはいまでも変わらない。
モーツァルトの曲って、みんなどれも同じ音楽性で、同じ方向性を向いているような感じがする。もちろんこれは全体として俯瞰したモノの見方であり、1曲1曲はそれぞれ趣向を凝らし、工夫が見られ、バラエティに飛んだ作品群なのだが、ふっとモーツァルト・・と思い起こすと、どれもみんな同じ音楽性に感じてしまうのだ。
屈託のない天性の明るさ、天真爛漫なのびのびとした長調性。
どれもこういうイメージに思えてしまう。聴けば、あ~これはモーツァルト!と一発でわかるわかりやすさ、そして明解なイメージ像が確立されている。
モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多いコロコロと転がるような軽快で優美な曲が多い。聴衆にとっては、明るく華やかに聞こえる作品が多い。これは当時の音楽の流行を反映したものである。
モーツァルトがおもに使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えたと言われているのだそうだ。
そんなところにもモーツァルトのあの作風ができあがった要因がある。
モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であったのだ。したがって、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったということなのである。
モーツァルトは、ザルツブルク生まれ。ザルツブルクといえばモーツァルト。そしてカラヤンだ。(笑)
父にこの子は天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。
父とともに音楽家としてザルツブルク大司教の宮廷に仕える一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。(笑)
モーツァルトの時代はパトロンがいないとダメだったのだ。芸術家は宮廷に仕えることが唯一その道で生きていく術だったのだ。ベートーヴェンよりも前の時代。音楽家、作曲家、芸術家としての生きる道は厳しかった。
モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けたのである。
イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは対位法やポリフォニーの技法を学んだ。
ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意するモーツァルトのウィーン時代であるが、以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。
モーツァルトはザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいだったのだ。
ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなしたイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする説もあるそうだ。
浪費家でいつもお金に困っていた。自分みたいである。(笑)
「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが並外れた記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿および修正の跡が多く発見されている。
そしてなによりも作曲するのが早かった。
古典派やその後のロマン派の作曲家に至っても、モーツァルトほど曲を残した作曲家はいなかったのではないか。ほんとうに膨大な曲数である。それが全部同じ風に聴こえてしまうのだ。(笑)
それがモーツァルトなのである。
これが自分のモーツァルトに抱いているイメージ像である。
1984年に米国で制作された「アマデウス」という映画があった。
ブロードウェイの舞台『アマデウス』の映画化である。映画版『アマデウス』は、アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞、美術賞、衣裳デザイン賞、メイクアップ賞、音響賞の8部門を受賞した。
日本での公開は1985年だったが、自分はそれまでなんとなく神童、天才という高貴なイメージで自分の中に捉えていたモーツァルトが、この映画によって一気に奈落の底に落とされた(笑)というか、モーツァルトってじつはこんなふざけた明るい人間だったのか、という大ショックを受けた。
この映画は自分にとってモーツァルトのイメージを一変させた大変な作品だったのだ。
あまりにショック過ぎて、自分は見終わった後、そのままその事実を受け入れられなかった。(笑)
・優秀な音楽家としての顔を持ちながら、その実は猥談を好み、妻のコンスタンツェに宛てた卑猥な内容の手紙が数多く残されている。
・モーツァルトは従妹に排泄にまつわる駄洒落(トイレのユーモア)にあふれた手紙を送ったことがある。いわゆる「ベーズレ書簡」といわれるものである。
・ベーズレ書簡はモーツァルトの死後、息子たちによって破棄を望まれたが、現在6通が保管されている。
・そのほか冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。
・九柱戯(ボウリング)やビリヤードを好み、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた。ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。賭博にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引っ越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいる。
昔の伝記作者は、モーツァルトのこういう性格を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化していたのだが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められているのだ。
逆にこういうところがいかにもモーツァルトらしい、という特徴でもある。
早熟の天才で、肖像画や銅像ではいずれも「神童」に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いのだが、じつはかなりふざけた奴だったのだ。(笑)いまの伝記では、そういうところを隠しもせず堂々と表現することが逆にモーツァルトらしいということで常識路線となっている。
その史実を自分に初めて教えてくれたのが、1984年の映画「アマデウス」だったのだ。
当時はもうショックでショックで立ち直れなかった。
モーツァルトを知るには、この映画「アマデウス」を観ることをぜひお薦めする。
モーツァルトは、死後きちんとした個人向けの墓に埋葬されたのではなく、遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えらている。
映画「アマデウス」では、男たちは亡くなったモーツァルトをそのまま袋に詰めて、たくさんの遺体が入っている大きな穴の中にポ~ンと放り投げる、という残虐なショッキングなシーンで、まさに神童、天才作曲家の最期としてこんな風に邪険に扱われるなんて!と自分は当時もう断然に受け入れられなかった。
かなりショッキングなラストシーンであった。
早熟の天才は、やはり晩年はなかなかツライ人生を送るのかもしれない。
大器晩成型の人生のほうが幸せなのかもしれない。
でもどんなに”晩節を汚す”人生であろうが、モーツァルトが天才であることには変わらない。
・彼は最も複雑な音楽の中でさえ最小の不協和音を指摘し、ただちにどの楽器がしくじったかとか、どんなキーで演奏すべきだったかというようなことまで口にした。演奏中の彼は最小の夾雑音にさえいらだった。要するに音楽が続く限りは彼は音楽そのものであり、音楽が止むとすぐに元の子どもに戻るのだった。
・…私は同じく、ある時は鍵盤の低音で、またあるときは高音で、そして可能なすべての楽器で演奏される音を別の部屋で聞かされて、たちどころに演奏された音符名を伝える彼を見聞きした。その通り、彼は鐘や大時計の音を聞き、懐中時計の音さえ聞きながら、聞き取った音をただちに口にすることができたのである…
こういう神話が数多く残っているモーツァルト。まさに人間として、突出した音楽の才能を持っていたことは紛れもない事実で、それがあれだけ膨大な数の優秀な作品を残していった大作曲家の証なのである。
自分にとってのモーツァルト・ブームはいまから18年前の2006年である。
この2006年は、モーツァルト生誕250周年ということで、クラシック業界はモーツァルトイヤーと称して大々的なセレモニー、宣伝をおこなった。自分もこの波に乗った。
当時はまだCD大全盛の時代。たくさんのモーツァルト関係のCDが発売された。
そしてクラシックコンサートももう軒並みモーツァルトの曲で目白押し。
”モーツァルトの曲を聴くと心の健康にいい!”がキャッチフレーズである。
NHKは毎朝、15分くらいの短い時間を取って、モーツァルトの曲を解説、紹介していくという特番を設けた。そのとき毎回唱えるフレーズが、モーツァルトの音楽を聴くと精神の健康にいい!である。
自分は毎朝見てましたよ。(笑)
当時のNHKは、クラシックミステリー名曲探偵アマデウスとか、クラシックに関する庶民が入り込みやすい初心者向けのいい番組がすごく多くて、NHKの番組制作陣も予算があっていい番組をたくさん作っていた。
そしてそのモーツァルトイヤーの頂点に立ったのが、サントリーホールとウィーン楽友協会との提携により毎年実現しているウィーンフィル来日公演@サントリーホールである。この頃の自分はクラシックに夢中になっていたときなので、すごかったです。ウィーンフィル友の会にも入会していたし、ウィーンフィル来日公演は毎年サントリーホールに聴きに行ってました。
ベルリンフィルは3年か4年に1回しか来日してくれないけど、ウィーンフィルは毎年サントリーホールに来てくれるのである。
2006年のモーツァルトイヤーの頂点だったのは、ニコラウス・アーノンクール指揮のウィーンフィル来日公演を聴けたことです。モーツァルトイヤーだったので、もちろんオール・モーツァルトプログラムである。
NHKで録画放送されたのをダビングして保存してあります。自分の宝物です。
アーノンクールのモーツァルトは、バリバリに古楽アプローチであった。(笑)アーノンクールは自分の時代では欠かせない巨匠で、まさに古楽という、当時の曲は当時の楽器、当時の響きで演奏しましょう、という手法を業界に先んじて引っ張っていっている人でした。
アーノンクールはつねに尖ってました。(笑)
アーノンクールのウィーンフィルはかなりの小編成で、そのアプローチ、アーノンクールのモーツァルトに自分は衝撃を受けましたです。アーノンクールの指揮をリアルで観れた最高の宝物の経験です。
アーノンクールのCDもたくさん買ったし、モーツァルトのレイクエムのSACDは最高だったと思います。もう故人ですが、自分の時代の巨匠でした。
モーツァルトはピアノは、協奏曲とソナタの両方の作品を残しているのだが、ヴァイオリンは苦手なのか、ヴァイオリン・ソナタは作曲していない。ヴァイオリン協奏曲だけである。
モーツァルトは全部で5曲のヴァイオリン協奏曲を残している。いずれも若い時の作品だが、モーツァルトの父のレオポルド・モーツァルトがヴァイオリンの大家で有名な教本を出版していた位である。その中でも第3番、第4番、第5番『トルコ風』は名作の域に入ると思います。また、大人になって始めたアマチュア・ヴァイオリニストが中級レヴェルを目指すときのゴールとなる曲でもありますね。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は全て1775年の1年の間に作曲されている。その間に長足の進歩を遂げ、第3番以降は名曲の部類に入ります。一つの協奏曲が20分~30分と意外に規模の大きな曲。
作曲の動機はザルツブルクの宮廷ヴァイオリニストであったアントニオ・ブルネッティのために書かれたとされている。しかし、1年でこれだけの規模の協奏曲を5曲も書いている訳で、その理由は分かっていません。
やっぱりモーツァルトのコンチェルトというと、第3番、第4番、第5番のこの後半の3曲なんですよね~。この3曲は名曲です。クラシックのヴァイオリニストのCDでモーツァルトのコンチェルトを録音するときは大抵この後半の3曲を入れます。第1番から第5番をコンプリートして録音するアーティストは、どうなのだろう?自分はあまりそういうCD持ってないかも?記憶に出てこないです。
ヴァイオリン協奏曲というのは、やはり古典派、ロマン派、現代と後世になっていくにつれて、すごく曲の構成が複雑になっていって、よりドラマティックに感動できるような仕組みが幾重にも重ねられていってる。だんだん進化しているんですね。
モーツァルトのコンチェルトは、やはり時代が先なので、すごいシンプルな構造で、わかりやすい特徴があります。ほんとうにシンプル。モーツァルトのコンチェルトで、後世のコンチェルトにひけをとらないと思えるのは、第5番「トルコ風」だと思います。第5番になると曲自体に風格と重鎮さが出てきて、そしてより感動させるだけのフックの仕掛けとか巧妙になり、他の作曲家のヴァイオリン協奏曲と比較しても十分な内容を持ったものになります。演奏時間が30分を超えるなど、意外に大作。
1775年12月20日にザルツブルクで作曲されました。
第3番が5曲のヴァイオリン協奏曲の中で最初に成功した作品です。
モーツァルトはヴァイオリンが急速に発達していた時期に活躍したのです。1750年ごろに弓が逆ぞり(今の形)に変わったと言われています。もちろん、急に変わったのではなく、段々と変わっていったのですけれど。逆ぞりの弓になっても、今のモダンボウと同じものになったのではなく、もっと軽い「クラシック・ボウ」と呼ばれる弓を使っていた、とされています。
自分にとって、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲といえば、やはりアンネ・ゾフィー・ムターのこのアルバムなんですよね。
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集 アンネ=ゾフィー・ムター
ロンドンフィルとの共演で、第1番~第5番までをコンプリートして録音したまさにモーツァルトのコンチェルトといえば、この録音というほどベストセラーでした。名盤中の名盤だと思います。DG録音です。
自分はこのアルバムでモーツァルトのコンチェルトを自分のモノにしました。
このモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集の映像コンテンツ、DVD版もありますよ。(笑)これもしっかり持っていて何回も繰り返して観ていました。オーケストラは、今度はカメラータ・ザルツブルクです。
モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全集 アンネ=ゾフィー・ムター、カメラータ・ザルツブルク(2DVD)
モーツァルトのコンチェルトは、このアルバムCDとこのDVDで。そしてブラームスのヴァイオリンソナタもムターのBlu-rayで。オニキス爺さんとヨーロッパの洞窟で演奏しているあの演奏が最高でした。あれでブラームスのソナタを自分のモノにしました。
ヴァイオリンに関しては、モーツァルトのコンチェルトとブラームスのソナタは、自分にとってはやはりムターなのです。
でも自分にとってモーツァルトのコンチェルトを生演奏で体験するというのは、あまり記憶にないのです。ライブ体験は、自分の場合、どんなに昔の公演でも克明に覚えているものなのだけど、モーツァルトのコンチェルトだけは思い出せないんだよね。
第3番~第5番の3曲は、とても有名ないい曲なので、ぜったい普通にプロモーターさんも喜んで取り入れる曲なので、絶対あるはずなんだけど。コンサート広告でヴァイオリン関係もモーツァルトはふつうによく見かけた感覚はあるんだけど、いざ自分が体験となると思い出せない。
でもいまここに心願成就!
ここに伝説が打ち立てられようとしている。
長かった~。(笑)
これを言いたいがために、モーツァルトから入り、巡り巡っていまここにようやく到着しました。(笑)
長い前ぶりでスミマセン。。。
東京オペラシティコンサートホール。
ここは開演前の待つときに座る場所がなくていつも困るんですよね。いつも開演前のだいぶ前に到着するので、ずっと立って待っていないといけない。
初日。1月11日(木)
二日目。1月12日(金)
やっぱり生演奏は響きが素晴らしいです。この器感、立体感、響きの豊潤さ、濃さは、なかなかオーディオで実現するのは難しいと毎回のことですが、自分には受け入れがたいショックを受けます。生演奏を聴くたびにこの試練を突きつけられ、結構悔しいです。
東京オペラシティはやはり音響は素晴らしいですね。この独特のホール形状。ヨーロッパの教会を思い起こさせるような尖った高い天井。響きの滞空時間がすごい長いです。いい響きだな~と毎度思います。
やっぱり2階席のサイドは視界的にいやですね。やっぱりオーケストラは真正面から聴きたいし、観たいです。どんな音響的ロジックがあったとしても、やはり正面から観たほうが精神的な落ち着きがあって、安心して観ていられます。
諏訪内晶子のソロ、サッシャ・ゲッツェル指揮、国際音楽祭NIPPONフェスティヴァル・オーケストラによる「モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会(全2回)」。
指揮のサッシャ・ゲッツェルは、諏訪内さんのジュリアード時代の同門で、元々ヴァイオリン奏者。以前『マスター・プレイヤーズ,ウィーン』で武満徹の『ノスタルジア』を演奏した時、奏者でゲッツェルが来ていたが急遽行った指揮が本当に素晴らしく、いつか共演したいと思っていたのがもともとの発端だったそう。ウィーン出身で、ヴァイオリンのことがわかり、オペラも振れるので、今回なくてはならない指揮者だそうだ。
オーケストラは、この音楽祭専用に編成されたフェスティバル・オーケストラ。コンサートマスターは白井圭氏。諏訪内さんと白井氏が依頼した弦の首席奏者や彼らと繋がりのある管楽器奏者、さらにはマスタークラス出身の若手も加わって出来上がった名人たちの集まりだ。
これがじつにうまいオケなんだ。(笑)
もうびっくりしました。
編成的には小編成のオーケストラなのだが、じつに発音能力に長けたオーケストラで、特に自分が舌を巻いたのが弦楽器再生。和声感、ハーモニー感があって、それそれの弦の音色が幾重にも重なって奏でられるその弦の厚み。ボリュームがあって、レンジもすごい広い。
これはすごいな~と驚いてしまった。
まさにフルオーケストラでもここまで調和できないと思うくらい精緻なアンサンブルで、プロフェッショナルだな~と思いました。
まさに弦のプロですね。
オーケストラってやっぱり弦ですね。弦が強い、秀でているオケは、やっぱり聴きごたえがあって、聴衆を一気に別世界、天国に連れてってくれるし、酔わせるだけの魅力があると思う。うまいオケだな、と瞬時で思ってしまうのは、やはり弦楽器再生に秀でている楽団だと思いますね。
フェスティバル・オケというと、どうしても臨時で組成されたというイメージがあるものですが、練習も大変だったろうに。。どれだけのリハーサル期間を費やしたのかはわかりませんが、即席でこれだけ合わせられる、というのはまさにプロの集まりだな、と感じました。
今回のコンサートで自分が一番驚いたのは、このフェスティバル・オーケストラのうまさでした。
編成規模やテクニックのレベルから、なんか水戸室内管弦楽団を思い出しましたよ。
このオケのお披露目として、コンチェルト以外にも交響曲での演奏がありました。モーツァルトの交響曲の第1番とか第15番とかです。まさにこのときはこのオケの魅力全開というところでしたね~。素晴らしかったです。
自分はモーツァルトの曲では、じつは交響曲よりもディヴェルティメントが1番好きなんですよね。この曲はなんかポップスのようなわかりやすいコード進行でじつにカッコいいです。明るくてカッコいい曲なのです。
音楽好きの人間にとって、あるアーティストを好きになるきっかけになる出会いの曲というのが必ずあると思います。まさになにげなくラジオから流れてきた曲のメロディにノックアウトされて、もうそのアーティストに無我夢中。そのきっかけになった曲。そういう衝撃的な出会いがかならずあるものです。
自分の体験では、ビートルズの場合、ラジオから偶然流れてきた”She Loves You”です。
これはまさに衝撃でした。
なんとカッコいい曲なんだろう。
いままで聴いたことがない、脳天をハンマーで打たれたような衝撃。
この”She Loves You”、この曲がきっかけになって、自分のビートルズ愛が始まったのです。
すべてがこの曲が原点だったのです。
モーツァルトの場合、自分はその出会いの曲に相当するのがディヴェルティメントなのです。
これが衝撃の出会いで、自分がモーツァルトを好きになった、そのきっかけになった曲でした。クラシックらしくないポップスのようなカッコよさ。
このディヴェルティメントはめちゃめちゃカッコいいと思います。
自分は交響曲よりもこの曲のほうが好きです。
ある意味一番モーツァルトらしい天真爛漫な雰囲気が出ている名曲だと思います。
モーツァルトを勉強していた頃、この曲が収録されているCDをプレーヤーのリピート機能を使って1日中フル回転で繰り返し聴いていました。それだけ好きでした。
この日、このフェスティバル・オーケストラのあの分厚い弦の音色で、このディヴェルティメントを演奏してくれたときは、カッコよかった~~~。
まさに痺れたとはこのことです。
そして指揮者のサッシャ・ゲッツェル氏。もちろん自分は初めて体験しますが、ヴァイオリン奏者から指揮者に転向とのことですが、なかなか税に入っていたと思います。オレが先頭になってオケをどんどん引っ張っていく、音を引き出していくという率先型ではないと思いますが、うまくプロ集団のオケと一体になってモーツァルトのあの明るい情緒的な雰囲気を醸し出していたと思います。控えめだけど引き出し方のうまい調和型の柔軟な指揮だったと思います。
ウィーン出身で、もともとヴァイオリン奏者ということで、ヴァイオリンのことがよくわかる、今回のヴァイオリンコンチェルトでは欠かせない絶好の適任者だったんですね。諏訪内さんの同門で過去に彼の指揮を体験していつかご一緒したい、という願いもあったことですから。
そして諏訪内晶子さん、赤のドレスでした。
自分はモーツァルトのコンチェルトは、CDではよく聴いていたけど、生演奏ではあまり記憶にないのですが、新鮮だったのはカデンツァ。ふつうカデンツァはCDの録音には入りませんね。生演奏でないと体験できないです。
それも第1番から第5番までの5曲、すべてにカデンツァが入っていたことです。自分の記憶や理解が正しければ、ですが。大半が第1楽章だったでしょうか。
ライブでモーツァルトのコンチェルトを聴くこと自体、自分にとっては大事件なのに、さらにそこにカデンツァが入っているバージョンを聴けるなんて、これは貴重な体験だな~と思いました。
誰が作曲したカデンツァなのか、自作なのか、まったくわかりませんが、すごい興奮しました。
諏訪内さんのモーツァルトは、王道路線の正攻法という感じで、堂々とした演奏で自分の期待通り、イメージしていた通り。まさにモーツァルト・コンチェルトはこう弾くんだというお手本のような演奏だったと思います。
奇をてらったところが全くなく、まさに正攻法。自分の理解している、自分がいままで聴いてきたモーツァルト・コンチェルトとまったく違和感なく位相同期してました。違いはいまここで生演奏で聴いているというこの事実です。
ただ単に平坦に3楽章を続けるのではなく、いろいろ抑揚をつけてここの最大限の見せ場に向かって、一気に流れ込んでいくとか、ここはメローに聴かせるとか、そういう全体のストーリーを踏まえ、バランス的にいろいろ工夫、考えていたように思います。結構5曲ともドラマティックで、劇場型の魅せる演奏で素晴らしかったです。
まさに自分が知っているモーツァルト・コンチェルトで、それの少しドラマ型で煽る感動する、そういうサプライスがあったと思います。
自分はモーツァルトの曲はみんな同じに聴こえると言いましたが、2日間かけて全曲を聴くと、やはりそれぞれの曲でいろいろ音形や調性、曲の進行の仕方など様々で、5曲のそれぞれの魅力がよく理解できたように思います。
とくに普段は、第1番と第2番は滅多に聴かない曲ですから、それをライブで聴けたというのは貴重な体験だったと思います。
相棒、1732年製作のグァルネリ・デル・ジェズは、それはそれは朗々と鳴っていました。
いい鳴り、響きでしたね~。まさにヴァイオリンの倍音の美しさとはこのことを言うんですね。
2006年のアーノンクール&VPOのピリオドアプローチとはまったく正反対のモダン楽器、現代楽器によるモダンアプローチのモーツァルトでありました。
モーツァルト ヴァイオリン協奏曲を全曲で聴く。
これを生演奏で体験できたというのは、自分のクラシック人生の中でも宝物のような体験だったと思います。それを国際音楽祭NIPPONで実現できたことは大変光栄なことだったと思います。
今度は、若い世代の音楽家との共演でのシューマンの室内楽マラソンコンサート、2月に参上します。
楽しみにしています。
(c)ジャパンアーツFacebook
国際音楽祭NIPPON2024
オール・モーツァルト・プログラム
ヴァイオリン独奏:諏訪内晶子
指揮:サッシャ・ゲッツェル
管弦楽:国際音楽祭NIPPONフェスティバル・オーケストラ
コンサートマスター:白井圭
2024年1月11日(木)19:00~
東京オペラシティコンサートホール
交響曲第1番 変ホ長調 K.16
ヴァイオリン協奏曲第1番 変ロ長調 K.207
(休憩)
《アポロとヒアキントゥス》序曲 K.38
ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ長調 K.211
ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218
2024年1月12日(金) 19:00~
東京オペラシティコンサートホール
交響曲第15番 ト長調 K.124
ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216
(休憩)
ディヴェルティメント ニ長調 K.136
ヴァイオリン協奏曲第5番『トルコ風』 イ長調 K.219
京響の第九 [国内クラシックコンサートレビュー]
年の瀬、年末を京都で過ごすとは!そして年末の第九を京響で納めることになろうとは!夢にも思っていなかったです。ほんとうに勢いで計画してしまいましたが、ほんとうによかった。大伽藍のすばらしい演奏でありました。
自分のクラシック人生の中で、一生忘れることのできないメモリアルな第九となったと思います。
ほんとうにひさしぶり。6年ぶりの京都コンサートホール。
あたりまえだけど、まったく変わってなくてホッと安心。
しかし、ホワイエの内装空間がほんとうに抽象的、オブジェ的な美しさというか、素晴らしいですよね~。これはなにを意味してデザインされているのか、知ってみたいです。
ホール専用の軽食やカフェなどもあるんですね。たぶん昔からあると思うのですが、自分の記憶にはなかったです。覚えてないです。今回とても目新しく感じました。
座席は、1階4列23番。
なぜか京響のコンサートで自動採番でチケットを取ると、前方列になるんですよね。でもここのホールは前方列で聴く方が音響はいいそうですから、結果オーライですね。指揮者、楽団、ソリスト、みんな間近で見れますしね。
京都市交響楽団 特別演奏会「第九コンサート」
初日の12月27日(水)に参戦しました。
[指揮]大友直人(京都市交響楽団桂冠指揮者)
[ソプラノ]小林沙羅
[メゾ・ソプラノ]鳥木弥生
[テノール]西村 悟
[バリトン]大西宇宙
[合唱]京響コーラス
これ以上ない最高に魅力的な布陣ではないでしょうか。
もう第九、1本で勝負です。
2016年に初めて京響を京都コンサートホールで体験したときは、とにかく弦の再生能力が抜群に素晴らしいオーケストラで、地を這うような、あのうねるような分厚い弦の音色、一糸乱れぬアンサンブルの精緻さと一体感、そして抜群のハーモニー感と、圧倒された記憶があります。やっぱりオーケストラの楽器構成としては、弦楽奏者が大半を占める訳ですから、弦楽器の再生能力が貧弱なオケは苦しいものがあるのではないかと思います。とにかく”京響は弦がすごい!”というイメージがずっと自分の頭の中に固定観念としてこびり付いている。
その後、8回実演を体験することができたのですが、もうどの公演もその印象は変わらず一貫したイメージ像、印象だったと思います。
反面出会った頃の京響は、金管がいまひとつ安定感がなくて、ウィークポイントは金管かな、という印象があった。でもそれは2016年の頃の話で、後年の8回の演奏では、その弱点も克服され、金管に不安定を感じることはほとんどなくなりました。
そしてオーケストラの演奏の方向性としては、いわゆるクラシックの王道の曲を、大河のごとく演奏して鳴らし切り、聴衆を堂々とノックアウトする、圧倒するという正統派の演奏のように感じます。選曲をはじめ、あまり突拍子もない驚くような手法で聴衆に臨んでくることは、ほとんどない。まさに正攻法そのもの。
同一会場で、演奏回数が多くなっていくと、やはりマンネリを防ぐために、新しい斬新な取り組み、作曲家や選曲をはじめ、そういう工夫をしないといけないこともあると思うのですが、あくまで自分が8回の演奏体験の中ではそういうアプローチはあまりしない楽団だと思いました。
京響のコンサートの特徴は、やはり自分にとっては、ロケーション的に離れたオーケストラなので、なかなか滅多には聴けないオケで、その数少ない貴重な体験のコンサートでは、もう大感動で痺れる、というようなコンサートばかりだったと思います。
そういう一発勝負の場面で、聴衆を圧倒する、大感動を与える、そういうインパクトがかなり大きいオーケストラなんですね。
自分にとって京響は、すごくインパクトが大きいです。
とにかく1公演、1公演がすごい極限の極致まで、持ち上げるところまで持ち上げて、徹底的に、最高に興奮する大感動なコンサートばっかりだった、というイメージが多いです。
やってくれるな~という感じ。(笑)
そういう意味でも、自分のクラシック人生の中で運命の節目、節目で縁の深いオーケストラではなかったか、と思います。
いまだに強烈に想い出に残っているのは、2017年9月18日、サントリーホールでおこなわれたサントリー音楽賞受賞記念コンサートですね。広上淳一さんと京都市交響楽団でした。
あのときのラフマニノフ交響曲第2番の大感動は一生忘れられないと思います。ラフ2は広上さんの十八番ということもありましょうが、あのときはほんとうにぶったまげました。
あういう感じの一発、一発が大感動というのが、自分の京響のイメージなんですよね。非常にインパクトが大きいオーケストラなのです。
それは今回の第九のコンサートにもまったくあてはまっていました。
やはり体験する機会が稀ですと、それだけ受ける衝撃が違うものなのでしょうか。
ベートーヴェンの第九は、テンポも中庸でスタンダード。まさに王道の第九でありました。
前方席とはいえ、ホール空間で四方八方から全身に浴びるようなオーケストラ・サウンドのシャワー。
この分厚いうねるような弦楽器の音色。
圧倒的なダイナミックレンジ。
もうオーケストラの生演奏の醍醐味をこれでもか、というくらい浴びせられました。毎回思うことですが、この器感の大きさ、D-Rangeの巨大感、そして全身を包み込むように音が浴びせられる感覚は、もう生演奏だからこそ味わえる感覚で、この感覚をオーディオで再現するのは、やはり無理なのではないか、と毎回思います。
オーディオにはオーディオらしい、それに適した楽しみ方があり、生演奏とオーディオは評価軸を別途分けて議論するべきものなのではないか、と思うことです。
オーディオにはオーディオの世界観で楽しめる別の評価軸があり、それは生演奏では成し得ないようなメリットもたくさんあり、生演奏は生演奏、オーディオはオーディオで分けて、ときどき参考情報としてお互いをマージして考える、そういう立ち位置関係なのじゃないかな、と思ったりします。
京響の第九は、やはり正攻法で王道の第九でありました。
まさしく正面ストレートど真ん中というようなアプローチで、自分がつぎにこういう感じのフレーズに移行していく、というような予想が次から次へとすべて的中するような正攻法。まさしく自分が期待していた通りの自分のイメージ像にあるベートヴェンの第九そのものでありました。
そしてサウンドのなんとも迫力があり大伽藍であることか!
もうこれには圧倒されました。
今回いつもの自分と違うのは、第3楽章の美しさに心惹かれたことです。第九の第3楽章は、いわゆる他の楽章の攻めに攻めたアプローチに対して、ちょっとお休みのゆったりした美しい楽章なのですが、それはある意味次のラストスパートの第4楽章への序奏段階という感じで力をためておく意味合いもあると思うのです。
この第3楽章の美しさがもう心に染みた~~~。
いつになく沁みた~。
すごい美しかったです。
そして最終楽章。やはりここは燃えますよね~。もう合唱が入った途端、最高潮にボルテージマックスになります。人の声の厚み、人の声の合唱ってなんでこんなに美しくて感動させられるものなんでしょうね。肉厚で分厚い美しさですよね。感動の度合いが、オーケストラだけだったときの感動をさらに段違いなレベルまでヒートアップさせます。
合唱を交響曲に取り入れる、という発想をはじめてベートーヴェンが考案した。その新規性、斬新な発想は、まさに驚くばかりですが、オーケストラ+合唱というもう最高級の衝撃波が襲ってきてもう自分は大変な状態でございました。
合唱の京響コーラスは、もうレベルはかなり高いです。オケの後方に3列に並んでの布陣で、もうコロナ対策の人数削減はまったくなくいつものスタンダードな布陣でありました。
独唱ソリストも、もう最高でありました。冒頭のバリトンの大西宇宙氏でもう世界観が一気に変わり、そのモードに突入していきます。いい声してますよね~。まさにこれからの日本のオペラ界を背負って立つ期待のバリトン。大西宇宙氏だけでなく、今回の4人のソリストはもういまがまさに旬の日本オペラ界の顔ですよね、みなさん。すごいキャストだと思います。
テノールの西村 悟氏は自分にとって初体験だったと思います。声の伸びがあって声帯が広いいい歌手だと思いました。頑張ってほしいと思います。
自分は前方座席なので、独唱ソリストがよく視界に入りにくくて、すごく残念だったのですが、特に女性陣が見えなかったのが残念。身を乗り出して、やや半立ちのような感じで、メゾ・ソプラノの鳥木弥生さんが見えたのは救いでした。
今回は、鳥木さんの生の歌声を聴きたい、というのがひとつのミッションでもありましたので、なんとか果たせてホッとしました。声の張りがあって、すごい声質が明るく、声量も大きい。かなり目立つ声で驚きました。素晴らしかったです。
ソプラノの小林沙羅さんは、やはり美声で優しい声ですね。ご本人の人柄に合っているようなそのままのイメージの声でした。小林沙羅さんは、今回が初めてではなく、2回くらいかな?実演に接したことがあります。ミューザ川崎の東響の名曲シリーズで実演に接したことがあります。まさにこれからの日本オペラ界を背負って立つ期待のソプラノですね。頑張ってほしいです。
指揮の大友直人さんも、じつはミューザ川崎の東響の名曲シリーズで何回も実演に接したことのある自分にとってはお馴染みの指揮者です。
大友さんはやっぱりカッコいいよね。(笑)もうルックスが。。(笑)
スラリとした長身で、ダンディでカッコいい男性そのもの。
同じ同性の男性である自分から見てもカッコいいな~と思います。
指揮者にはいろいろなスタイルがあると思いますが、やはりフォトジニックである、という要素も重要なファクターだと思うんですよね。過去の偉大な指揮者も、やはり見栄えがする要素の大きい人も多かった。
これも指揮者のある意味大事な魅力であると思います。
大友さんの棒は非常にわかりやすく、観ていて楽団からの引き出し方がスムーズで非常にわかりやすい指揮ですよね。スタンダード、正攻法で素晴らしい指揮だと思います。指揮スタイルとしてすごくスマートだし、わかりやすい。
オケをうまく乗せていく、というような誘導の巧妙さを感じました。
この日の公演の大成功は、やはり最後は大友さんの指揮にあったのではないでしょうか。。。
年末に京都で京響で第九を聴く。
まさか自分も予想だにしていなかった体験でしたが、まさに最高のベートーヴェンの第九だったと思います。讃ばかりのように思うかもしれませんが、ネガティブな部分はまったく思い当たらなかったです。
自分にとって、いままで聴いてきた第九の中でもトップクラスの第九だったと思いました。
自分のクラシック人生の中で大きな勲章がまたひとつ増えたと思います。
(c)京都コンサートホール Facebook
2023年12月27日(水)19:00開演
京都市交響楽団 特別演奏会「第九コンサート」
[指揮]大友直人(京都市交響楽団桂冠指揮者)
[ソプラノ]小林沙羅
[メゾ・ソプラノ]鳥木弥生
[テノール]西村 悟
[バリトン]大西宇宙
[合唱]京響コーラス
[管弦楽]京都市交響楽団
ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 作品125「合唱つき」
児玉麻里&児玉桃 ピアノ・デュオ・リサイタル [国内クラシックコンサートレビュー]
今年の芸術の秋のコンサートでとても楽しみにしていた児玉麻里&児玉桃のピアノ・デュオ・リサイタルに行ってきた。
児玉麻里さん、児玉桃さんは、自分のクラシック人生の中でもとても縁が深いアーティストで、ずっと応援し続けてきたピアニスト姉妹である。
いま現在は2人ともパリ在住なんですかね?幼少時にパリに移住して、欧州、パリで芸術の感性を磨くべく研磨し続け、児玉麻里さんも児玉桃さんもパリ国立高等音楽院、いわゆるコンセルヴァトワールですね、で教育を受けられ、そして音楽家、ピアニストとしてクラシックの音楽の道を歩まれた。
お姉さんの児玉麻里さん、妹の児玉桃さんとでは、同じピアニストでも目指す音楽の方向性は違うように理解している。
児玉麻里さんは、いわゆるベートーヴェンを心から崇拝し、いわゆるご自身のライフワークとしてベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集、そしてベートーヴェン ピアノ協奏曲全集と完成させ、そしてこれは予想でしかないけど、つぎはブラームスへと進まれようとしている。アルフレッド・ブレンデルにも師事されていて、ドイツ音楽に自分の音楽家としての骨子を置いているようなそんなスタンスだ。
児玉麻里さんを知ったのは、2000年代の前半だったであろうか?その当時、自分はオーディオマニア全盛の時代でSACDに徹底的に凝っていた時代であった。オランダPhilipsのクラシック部門がそのまま移行する感じで、マイナーレーベルとしてPENTATONEというレーベルを発足。レーベルはPENTATONEで、録音制作会社がポリヒムニア。SACD5.0サラウンドに最高に心酔していた時期であった。
マイナーレーベル、もちろんPENTATONEに所属しているアーティストは自分にはとても魅力的だった。なによりもメジャーレーベルにない新鮮さ、フレッシュな顔ぶれで勢いがあった。メジャーレーベルのアーティストがこう言っては大変失礼ではあるが、退屈でひどく古臭く感じたものだった。PENTATONEレーベルに所属しているアーティストは、みんな魅力的であったが、その中に日本人の女性ピアニストがいることを発見した。それが児玉麻里さんであった。そのときに初めて存在を知った。ベートーヴェンのピアノソナタをバラで単品でリリースしているときであった。
なんか、遠いオランダの国で、単身でPENTATONEという名もないインディーズレーベルで、児玉麻里でリリースしているのは、なんかすごい遠い存在で、不思議な感じだった。そんな日本人もいるんだな~という感じだった。
児玉麻里さんの実演は、じつは意外や自分はあまり経験できていない。サラマンカホール音楽監督の浦久俊彦さんの企画で蒲田の太田アプリコホールで児玉麻里・児玉桃を迎えてサロン風コンサートに行ったことがある。何年前であろうか。日記にも残しておらず、テーマもよく覚えていない。ただ浦久さんが博識で雄弁だったことはよく覚えている。(笑)そのときが、児玉麻里というピアニストの実演に初めて接したときであろうか。
なんか感慨深かった。あのPENTATONEのSACDの児玉麻里さんのピアノか~という感じである。
その後、ミューザ川崎の東響の名曲コンサートの定期会員であったので、そのコンサートでデュオだったか、コンチェルトだったかうろ覚えなのだが、(たぶん前者)ピアノのソリストとして登場されたときに伺った。
そんな程度なので、じつはそんなに実演に接していない。
児玉麻里さんは、どちらかというとケントナガノさんとご家庭を持たれていて、娘さんもいる。ご家庭での生活のほうを重視されていて、そんなにツアーのようなコンサートには出てこないピアニストのような気がする。出演したとしてもケントナガノさんの指揮のときぐらいだ。
どちらかというとレコーディングピアニストのように、録音として自分の成果を世の中に残していきたい、というようなスタンスのように自分には思えてしまう。正しいか合っているかどうか、わかりませんが。(笑)
そしてその作品を残していく上でもとてもマイペース。PENTATONEがアーティストにとても理解のあるレーベルであることもあると思うのだが、自分がこういう作曲家の作品を掘り下げていきたい、という自分の意思をそのままマイペースなタイミングでリリースしている感じである。
メジャーレーベルにあるような商業主義というか、売るためにはこういう路線で、そして強制的なこのスケジュールで、というようないわゆるノルマ的なモノ。そんなこととはまったく無縁のように思う。
レコーディングピアニストで、自分の道をマイペースで突き進む。
児玉麻里さんには、そんなイメージがある。
うらやましいです。自分もそうなりたいです。(笑)
児玉麻里さんのピアノは、実演は2回しか経験がないのだが、SACDで聴く限りでは、非常にドイツ音楽らしいカッチリとした硬派な演奏をするピアニストで、タッチにメリハリがあって、そんなに大きく揺らしたりしないし、自分の感情で煽るというような激情派ではなく、とてもクールで冷静なタッチのピアニストだと思う。とてもクールなんだけど、作品に込める想い、感情は深い。。。そういう熱い部分を持っている。そんなピアニストだと思う。
児玉桃さんは、お姉さんの麻里さんと比べると、実演に関しては、自分との縁はめちゃめちゃ多い。非常にお世話になっている。
自分にとって児玉桃といえば、実演なのである。
いままでどれだけの桃さんのコンサートに行ってきたか、よく覚えていないほどだ。古くは水戸芸術館で、児玉桃のレクチャースタイルの公演を足を運んでいたこともあるし、東京・春・音楽祭で東京文化会館・小ホールでN響との室内楽でもよく通っていた。
児玉桃さんの場合は、録音を通してというよりは、実演を通してそのピアニストとしてのご自身の方向性を感じ取っていった、児玉桃というピアニストは、こういうピアニストなんだ、と理解していったように思う。節目節目での大切なコンサートでは、かならず児玉桃さんのコンサートに足を運んでいたように思う。
実演に多く接することで、理解していった、そういうピアニストである。
いまでもとてもメモリアルなコンサートだったと思うのは、やはり2016年の高関健&京都市交響楽団とのコンチェルト。メシアンのトゥーランガリラ交響曲。なかなか実演に接することが難しい難曲・大曲である。自分がこの曲に初めて実演に接することができたのが、メシアンの権威である児玉桃さんのピアノで聴けたことが、自分の人生の宝だと思っている。
そしてオンド・マルトノという楽器の鳴る音を生で聴けたこと。
日本人奏者でオンド・マルトノと言ったら、もう原田節さんだ。
ピュオ~ンというグリッサンドのかかったいかにも電子音的なサウンドが印象的で、非現実的な宇宙サウンドと言ってもいいのではないだろうか。
あの公演がひとつの前半のピークでしたね。大曲のコンサート、大伽藍という感じでした。
そうしてもうひとつのピークが2022年の先だっての築地の浜離宮朝日ホールでの児玉桃メシアンプロジェクト2022である。メシアンの研究、メシアンの作品をずっと録音ふくめ弾き続けていた児玉桃の集大成とも言えるコンサートで、このコンサートで児玉桃というピアニストの真髄を理解できたように思う。
非常に感性が豊かなピアニストなんですよね。我々が普段日常生活で仕事などで接している計算され尽くした理論の世界とは真逆の計算し尽くせない形のないモノ、ぼんやりとしたイメージのような捉えどころのないモノ、絵で言えば水彩画、水墨画ですね。そういう豊かな感性を持ち合わせた人なんですよ。これはあくまで噂でしかないけど、音色を聴いて、視界に色が浮かぶ、という色聴、共感覚の持ち主だという話も聞きました。
児玉桃さんはそういう感性のピアニストなんですよ。ドビュッシーやラベルのようなフランス音楽、現代音楽、そしてメシアン・・・というように、非常に柔らかくて繊細で、豊かな芸術的な感性を必要とするようなそんな優しいピアニストなのです。
メシアンプロジェクト2022のピアノリサイタルでは、もう自分の感性の赴くままにメシアンの作品をいっきに一筆書きをしたかのような芸術観があって、それはそれは圧巻でございました。これこそが児玉桃というピアニストの真髄、真の姿なのだと思いました。
このときにやっとわかったです。(笑)
録音では、オクタビアレコード時代のメシアンの鳥のカタログはよく聴いていました。そしてやはり録音として桃さんを意識してよく聴くようになったのは、ECMに移ってからですね。ECMレコードに移籍出来て、桃さんはほんとうによかったと思います。化けましたね。世界的にビッグなアーティストとして今後進んでいくのは、ECMへの移籍は大きかったと思います。
あのマンフレート・アイヒャーによる統一感のあるコンセプト、沈黙の次に美しい音、あのレーベル独特の空気感、美しいジャケットデザイン、あのECMのイメージブランドは、児玉桃さんのイメージに本当によく合っていると思います。自分を大きく成長させる一歩としてECMへの移籍は大成功でした。ECMのあのちょっとリバーブのかかった音作りがいいですね。(笑)
ECM録音では、児玉桃さんの作品は3作品リリースされ堪能しました。
日本の現代音楽の作曲家の大家、細川俊夫さんの曲を積極的に演奏されているのもピアニスト人生にとって大きな出会いでしたね。細川先生の作品は、やはり豊かな感性を持っている児玉桃さんに弾いてほしい、ふさわしいという細川先生のアプローチだったのだと思います。
その後いろいろな国際公演で、細川俊夫さんの曲の初演を任されるなど大役も務めていきます。細川俊夫先生との出会いも大きな運命だったと思います。
だから、もうキッチリ厳格な児玉麻里さんのピアニズムと感性の児玉桃さんのピアニズムではぜんぜん別物なんですよ。姉妹でもピアニストとしての方向性はぜんぜん違います。
以上長編大作で紹介してきましたが、結局それを言いたかったのでした。(笑)
その児玉麻里・児玉桃のピアノ・デュオ・リサイタル。神奈川県立音楽堂でおこなわれた。
このポスターのフォトは、PENTATONEでこの児玉姉妹でレコーディングしたSACDのジャケットをそのまま採用したもの。この録音は、チャイコフスキーのくるみ割り人形など名曲たちを児玉姉妹のピアノ・デュオで奏でていくという洒落た作品で肩肘を張らないというかとても気軽なBGM的な軽さがあってとてもいい作品だと思います。
自分の記憶では、児玉麻里・児玉桃の姉妹でピアノ・デュオ・リサイタルというのはいままで記憶がないので、今回初のチャレンジとしていいアイデアだと思いました。姉妹デュオは録音ですでに実現済みですので、今回はそのライブ版ということですね。
これはぜひ行かねば、と思いました。
神奈川県立音楽堂は、じつにひさしぶり。
ハーゲン・クァルテット以来だと思います。
この神奈川県立音楽堂に行くまでのJR桜木町駅から紅葉坂の交差点をずっと登っていくのが、もう心臓破りでキツイんですよね。(笑)
神奈川県立音楽堂は、1954年、日本で初めての本格的な公立音楽専用ホールとして開館しました。ロンドンのロイヤルフェスティバルホールをモデルに、最高の音響効果をあげるように設計されたホールは、壁面がすべて木で作られ、開館当時『東洋一の響き』と絶賛されました。国内はもちろん海外からも高い評価を受け、日本の戦後音楽演奏史の一角を担ってきたホールの、美しい響き、巨匠、前川國男の設計によるモダニズムデザインは、今でも人々に感動をあたえ、神奈川県民の音楽活動の場としても愛され続けています。2021年に神奈川県指定重要文化財(建造物)に指定されました。
1954年ですよ!もう自分が生まれるはるか前のことですよ!
日本で初めての音楽専用ホールです。昔はいろいろなショーに対応できる多目的ホールが一般的で、音楽のショーを専門にする音楽専門ホールというのは珍しい存在でした。いまではクラシックの演奏会はクラシック音楽専用ホールでやることがあたりまえですが、当時は珍しかったんですね。神奈川県立音楽堂は、そんな音楽専用ホールの走り、元祖パイオニアだったのです。
木のホールです。
日本で初の木造の音楽ホールです。
座席の構造は非常に勾配がきつく、急傾斜であることが特徴です。そしてホール内装も、いまのホールのようにあまり反射音拡散のような仕掛けはあまりなくシンプルそのもの。ツルっとしています。(笑)
1106人収容ですから、なかなかのボリューム空間ではあります。
木のホールというと、どうしてもこうちょっと解像度が落ちる感じで、角がとれたような丸みのある暖色系の暖かい音をイメージします。自分も前回来たときの印象をよく覚えておらず、たぶんそういう音響だろう、と思っていました。
でも今回ピアノ・デュオ・リサイタルを聴いてもうびっくり!
まず、音量がすごいです。自分はかなり後方中央の座席に座っていたのですが、こんなにピアノの音が大きく聴こえてくるとは思ってもいませんでした。なんか自分の目の前で鳴っている感じです。もうすごい大音量で驚きました。
ステージの音がよく座席のほうに飛んでくるんですね。
そして解像度が高く明瞭に聴こえます。そしてなによりも音が明るいです。ミューザも顔負け(笑)のブライトで明るいのです。ちょっと自分がいままでステレオタイプのように思いこんできた木のホール、木造ホールの響き方、音響とはかなり違うイメージです。・・・というかもう正反対のイメージでしたね。
めちゃめちゃ大音量で、明るくてクリアで解像度が高い。
いい響きでした。
ピアノのコンサートもこんな響きで聴けるなら本望です。
ピアノ・デュオ・リサイタルというのは、写真のようにピアノを2台並べます。お客さんの座席に近い下手の右側の方のピアノの響板は外します。響きの伝達方向が客席と反対側なので当然ですよね。そして上手の奥の左側のピアノの響板はつけたままです。響きの伝達方向は客席に向かうからです。
前半と後半で、児玉麻里さんと児玉桃さんは、上手(左側I)と下手(右側)を交代して担っていました。前半は、上手(左側):児玉麻里さん、下手(右側):児玉桃さん、後半は、上手(左側):児玉桃さん、下手(右側):児玉麻里さんという感じです。
この日は、児玉麻里さんは黒のドレス、児玉桃さんは赤のドレスでした。
ピアノ・デュオ・リサイタルってそんなに行く機会がないのですが、いつも思うのは、最初の弾き始めのアインザッツというか、出だしをどうやって両者でタイミングを合わせているのかな、と思うことです。
ステージから遠いのでよくわからないのですが、たぶんお互い向かい合っているので、目での合図と頭の動きでアインザッツをするんだろうな、とは想像するのですが、ほんとうにぴったり両者タイミングがあっていつもすごいと思っています。
チャイコフスキーの作品は、PENTATONEの録音でよく聴いていたので、本当にもうお馴染みです。眠れる森の美女、白鳥の湖、ほんとうに名曲そのもの。こういう名曲をピアノ・デュオで奏でるのは、すごい洒落ていますし、素敵ですよね。
なんか軽やかでついつい体を揺らしたくなるようなリズミカルで美しいメロディ。よくチャイコフスキーの作品はベタ過ぎてダメだ、という人がいますが、とんでもない。こんな名曲はないじゃないですか。こういうわかりやすい曲こそ名曲の基本条件だと思います。
ほんとうに一流のピアニストのデュオの共演ってカッコいいと思います。
プロフェッショナルな共演という感じで一流のテクニックがこう重なって同時に奏でられて、そして、その演奏姿がすごくカッコいいのです。サマになっているな~という感じです。
2台のピアノがこういう感じで並んでいてそれで両側にピアニストが共演をおこなう。すごい絵になるというか素敵です。
児玉麻里さんと児玉桃さんとではピアニズムの方向性が全然違うピアニストですが、いざこういうデュオで共演となるともうそんな違いはありません。同じ方向性、同じ曲で同じ方向を向いています。
ステージからは良く見えませんでしたが、音色で聴く限りでは、当然上手と下手では、片方は、和音、伴奏を担当したり、一方では主旋律を担当したり、あるいは対位法であったり、それぞれの役割が違いますね。その連携プレイがこれまたカッコいいんだ!もうプロ一流が演じて見せるその連携プレイに痺れましたです。
自分は、この日のコンサートの山と思っていたのは、じつは後半のストラヴィンスキーの春の祭典だと思っていました。
これはチャレンジングだと思っていました。
児玉姉妹のカラーにストラヴィンスキーはすごいいままでにない挑戦的なテーマだと思っていました。
ストラヴィンスキーの春の祭典。
いわゆるハルサイ。
1913年5月29日にシャンゼリゼ劇場で初演され、音楽と振り付けの前衛的な性質がセンセーションを巻き起こした。初演の聴衆の反応は「暴動」と呼ばれるほどセンセーショナルで大変な混乱を巻き起こした作品である。
ハルサイはオーディオマニアの間でも有名な音源です。ゲルギエフなどの名録音がたくさん存在し、ザっザっとリズムをカットする場面であるとか、オーディオ的に鳴らしがいがある美味しい箇所が何か所も出てくる。ここをいかに鳴らすか、というそういう宿題項目がたくさん含まれている美味しい音源なのです。オーディオマニアではハルサイはどうしても乗り越えないといけない大きなハードルて言ってもいい。
しかもハルサイは音数も多い。たくさんの弦楽、管弦楽がいっきに合奏して、すごい音数、情報量の多い曲。
こういうセンセーショナルで波乱万丈な曲を2台ピアノでどうやって実現するのだろう?
これだけの音数の多い曲をたった2台のピアノでどうやって具現化するのであろう?
もう自分はこの公演は、ここにひとつの山があると思っていました。
数年前に、これまた蒲田の大田アプリコホールで、浦久俊彦さん企画・ナビゲートで、近藤嘉宏さん&高橋多佳子さんのブラームスのシンフォニーをピアノ・デュオで実現する、というコンサートを聴いたことがあります。
これが目にウロコであった。ほんとうにあのブラームスのシンフォニーのエキスを上手にピアノ2台の演奏で実現してしまうんですよね~。ちゃんとそのピアノ・デュオの共演を聴いていると、あのブラームス・シンフォニーのエキスがちゃんと現れるのです。上手に編曲するもんなんだな~と驚きました。
これはピアノ・デュオ用に編曲した編曲家が一番偉いですね。(笑)
今回のストラヴィンスキー春の祭典のピアノ・デュオもまったくその延長線上にあった。
まさに驚き。ピアノ2台であのセンセーショナルなハルサイを実現してしまうのだ。
出だしのあのなんともいえない哀愁を帯びたイントロから始まって、佳境のザっザっというリズムカットの場面、そして大咆哮の場面・・・、たった2台のピアノでものの見事にそのエキスを再現してしまう。編曲家エライ!(笑)
もう児玉麻里さん、児玉桃さんのピアノはすごい。あのハルサイの佳境な場面は強打の和音連打を連発。もちろんお互いで弾くパートは違うし、全然役割も違う。その2人のコンビネーションでものの見事にあのハルサイを再現してしまった。
これはアッパレであった。この曲の初演と同じくらいかなりセンショーナルな出来具合だったと思います。(笑)間違いなく、このコンサートの最大の山場であり、最高の頂点であった。
そしてアンコールは、チャイコフスキーの金平糖の踊り、花のワルツ。
前半のチャイコフスキーのデュオを聴いているとき、なんか物足りない、なにかを忘れている、なんか有名なメロディを忘れている、まだ弾かれていない、と引っ掛かっていたのですが、花のワルツでした。(笑)
やっぱりこれがないとね~。この花のワルツを聴いて、やっとチャイコフスキーという感じがしますよね~。まさにこれこそがアンコールというものです。たった3分間くらいのワンピースで、あっという間の瞬時にお客さんの心を鷲掴みにするキャッチーなメロディ。
まさに花のワルツはそういう曲です。
このコンサートを締めくくるにふさわしい最高のエンディングとなりました。
このコンサートの日、11月4日にめでたく69歳の誕生日を迎えた神奈川県立音楽堂。
チャイコの綺羅びやかさ、ストラヴィンスキーの不気味さ… 2台のピアノの共演でものの見事に再現され素晴らしい記念日のコンサートとなりました。
児玉麻里&児玉桃 ピアノ・デュオ・リサイタル
2023年11月4日(土) 13:30~
神奈川県立音楽堂
ピュートル・イリイチ・チャイコフスキー/セルゲイ・ラフマニノフ編曲
「眠りの森の美女」組曲 Op.66より
序奏 リラの精/アダージョ バ・ダクシオン/長靴をはいた猫/ワルツ
ピュートル・イリイチ・チャイコフスキー/エドゥアルド・ランゲリ編曲
「白鳥の湖」op.20より
情景/四羽の白鳥の踊り/パ・ド・ドゥ(グラン・アダージョ)
ピュートル・イリイチ・チャイコフスキー/クロード・ドビュッシー編曲
「白鳥の湖」op.20より
ロシアの踊り/スペインの踊り/ナポリの踊り
インターブレイク(休憩)
イーゴリ・ストラヴィンスキー
春の祭典
~アンコール
チャイコフスキー/金平糖の踊り、花のワルツ(くるみ割り人形より)
この日、JR桜木町から神奈川県立音楽堂へ行く途中に、”音楽通り”というストリート、通りを発見しました。
なんと素敵なネーミングの通りなのだろう!
Yokohama Deep Culture Street
のぞいてみたい、あるいてみたい「道」がある。
ヨコハマ・ディープ・カルチャー・ストリート
ウワサに聞いてずっと行ってみたかった場所へ。
「横浜って面白い!」そんな発見がここにはきっとあるはず。
・・・だそうです。(笑)
多くの人で賑わう野毛界隈。近くに位置する県立音楽堂の開館直後、公演帰りの人が通ることから名付けられた「音楽通り」。
通りの名前の由来となった県立音楽堂、さらに横浜能楽堂などに向かう途中にある紅葉坂にある。近くにあの夜な夜な賑わう飲み屋街・野毛の近くにあるとは思えないほど、静か。芸術鑑賞した人たちが帰りにふらっと立ち寄れる飲食店も意外に多いそうだ。
この児玉麻里&児玉桃 ピアノ・デュオ・リサイタルを神奈川県立音楽堂で聴いた後、お腹ペコペコでしたので、野毛のすみれ横浜店に行ったのです。神奈川県立音楽堂は、桜木町駅から歩いていきますが、じつは野毛界隈も桜木町駅から歩いて行けるのです。
どうせなら野毛まで行っちゃえ!
そうしてすみれ横浜店で美味しい味噌ラーメンを食した後、どうせなら夜まで待って、夜のあの夜な夜な賑わう飲み屋街・野毛をぶらついてみる?と思ったのです。
・・・もうそれはそれはディープな世界でございました。(笑)
まさに天国のような気分のコンサートから一気に真逆の世界へ。
1日の中で、このギャップはかなり大変でございました。(笑)
横浜はオシャレなイメージだけではないですね。これも横浜なんです。横浜はいろんな顔を持っているのです。オレの本チャンはオシャレな横浜より、こっちの横浜のほうが合っているかも?なんといっても食べ物がほんとうに美味しそうに見えてしまいます。
でも思ったことは、高級なフレンチ・イタリアンレストランに1人で入るよりも、こういう居酒屋、飲み屋界隈で1人で静かに飲んでいるほうがよっぽど難しいだろうな、と。(笑)
フレンチ・イタリアンレストランに1人で入る方がはるかに簡単です。
横浜は広い。
このディープな野毛の世界、I LOVE YOKOHAMAで取り上げますので、お楽しみに!
内田光子&マーラーチェンバーオーケストラ [国内クラシックコンサートレビュー]
今年の芸術の秋の最大のコンサートイベントである内田光子&マーラーチェンバーオーケストラ@川崎公演に行ってきた。
コロナ禍で来日できなかった外来オーケストラが、BPO/VPO/RCOなど今年1年に一気にまとめて来日するような状況でクラシックファンにとっては、うれしい悲鳴だ。
そんな中で、予算体力のない自分としては、吟味に吟味を重ね、本公演を選んだ。
今年の自分の芸術の秋の公演の中では、最大イベントである。
内田光子さんとマーラーチェンバーオーケストラは、2016年に初のタッグを組み、同年のヨーロッパツアーがアーティスティック・パートナーとしての始まりだったから、7年間も蜜月のときをいっしょに過ごしてきている。お互いの信頼関係が高く、内田光子さんのMCOへの信頼は絶大なものがある。
自分は、2020年にこのコンビでの来日公演を聴こうとチケットを購入していたのだが、コロナ禍であえなく開催中止。今年2023年は、そのときのリベンジでもある。
今回の内田光子&マーラーチェンバーオーケストラ2023では、サントリーホール、ミューザ川崎、札幌コンサートホールKitara、愛知芸術劇場コンサートホールと全国を廻るツアー。
まさにいまの日本のコンサートホールの頂点に立つといっていい、最高の4ホールである。
さすがである。(笑)
ビッグオーケストラの扱いだな~と思います。
マーラーチェンバーオーケストラ、マーラー室内管弦楽団は、1997年にクラウディオ・アバドとグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団のOBにより設立された。
世界各地でコンサートやオペラ公演を行う傍ら、ルツェルン音楽祭ではルツェルン祝祭管弦楽団の中心メンバーとなっている。
今年の来日公演は降り番だったようだが、吉井瑞穂さんもMCOのメンバーである。
内田光子&マーラーチェンバーのコンサートで現在の日本を代表する最高の4ホールの中で、自分は、なぜミューザ川崎を選んだのか?
内田光子さんといえば、もうサントリーホールと相思相愛。サントリーホールを最高と位置付けているのである。内田光子さんのサントリーホール愛はそれはそれは深いものがある。あるインタビュー誌で、内田光子さんが日本のコンサートホールの中で、サントリーホールが最高の位置づけであると語っている記事を読んだことがある。
だから、自分のリサイタルのときはもちろんのこと、MCOなどのコンチェルトもつねにサントリーホールを主軸にツアースケジュールを組んできた。
そしてつぎの立ち位置が札幌コンサートホールKitaraである。内田光子さんのKitaraへの愛も並々ならぬ深いものがあって、サントリーホールのつぎに位置するのが札幌コンサートホールKitaraと仰っていた。だからそういう過去の内田光子さんの発言から、サントリーホール、札幌コンサートホールKitaraは外せないのだ。
自分の記憶が正しければ、内田光子さんがミューザ川崎を公演地として選んだのは、今回が初めてのケースだと思う。みんな、内田光子&MCOでミューザ川崎に行ってきました、と簡単に報告しているけど、じつは、これはすごい大事件なことなんですよ!(笑)
内田光子さんとミューザ川崎は、ちょっとイメージが湧かないほど、自分にとっては新鮮な組み合わせだし、内田光子さんはじっさいこのホールで演奏されてどのような印象を持つだろう、ととても興味を持った。
ミューザ川崎は、札幌コンサートホールKitaraと並んで、ラトルやヤンソンスのような世界の巨匠たちからその音響を大絶賛された、まさに日本を代表する近代コンサートホールの旗頭である。
そんな内田光子さんが長年の沈黙を破り、ミューザ川崎で演奏する、というのは、自分にとってはすごく嬉しかったし、今回選ぶなら、ぜひミューザ川崎の公演にしたかった、というのが理由である。
もう1年ぶり以上になる。
ご無沙汰していました。ミューザ川崎。
内装空間のデザインが近代的で独創的で、本当にカッコいいコンサートホールである。
この配置を見て、MCOって意外や大編成なんだな、と思いました。(笑)自分のイメージの中では、MCOってもっと小編成の室内楽的なオーケストラという認識があったので、想像した以上に大編成なんだな、と思いました。
内田光子さんのピアノを中央に配置し、響板を外し、そのピアノを囲むようにMCOが配置される。
内田光子さんの弾き振りだ。
自分は内田光子&MCOを聴くのも初めてだったし、MCO自体聴くのも自分にとってはあまり記憶がない。たぶん今回が初めてだと思う。オーディオのディスクでは結構持っているんですけどね。アバド&MCOの録音をよく聴いていました。
まず、じつにひさしぶりのミューザ川崎の音響について感想を述べてみたいと思う。
札幌コンサートホールKitaraのときも思ったのだけど、ミューザ川崎はやはり音が飽和しませんよね。音の伸び方、響き方に変な圧迫感がなくて、ストレスフリーに空間に響いていく、そういう空間感がすごい優れているホール音響だと思う。
ホールの容積の要因がやはり大きいですね。古い時代のホールと違って、ホール容積が十分ゆとりを持って設計されているので、絶対音が飽和しないし、圧迫感もない。響き方がほんとうにストレスフリーなのである。
ステージ上で鳴るオーケストラの発音体のサウンドをそのまま丸っと包み込んでしまうようなそんな器の大きさを感じる。自分は、ミューザ川崎や札幌コンサートホールKitaraの音響でまず感じるのは、この器感、容積感の大きさである。器として大きいので、オーケストラの響きをそのまま丸っと抱え込んでしまい、飽和しないし変な圧迫感がない。
だから響きも長いし、ホール容積の大きさから、ダイレクト音に対する反射音の到達もやや遅れてやってくる感じで、実音と響きがいい塩梅で分離して耳に到達するように感じるので(分離し過ぎもよくない。)、それがより一層、空間力や立体的に聴こえる要因なんじゃないのかな、と素人ながら自分では分析している。
ミューザ川崎での音の聴こえ方は、音が、この立体的、3D的に膨らんで聴こえる、音・サウンドの像、形成体が巨大である。鳴り響くサウンドにスケールの大きさを感じます。
このホール全体の螺旋状に渦巻く空間デザインもその要因在りますね。この奇妙で独特の反響板の設計デザイン。ほんとうにユニーク。これらもホール内の音の流れ方に大きな影響を及ぼしていると思う。
ミューザ川崎のサウンド、音響は非常にクリアな音がしますね。そしてとても明るい音だと思います。とても解像度が高くて、明瞭でクリアな音がする。4Fの最上席で聴いたこともありますが、視界的にはステージのメンバーは豆粒にしか見えないのですが、ステージからの音が上がって来て、じつにクリアに聴こえてくるのは驚きでした。
コンサートホールの音響のイメージとしては、リスナーはやはり一聴して抱くイメージというのがあると思うのですが、同じいい音響、いい響きでも、ミューザ川崎は明るい音がしますね。ミューザの音はブライトで明るいです。
そしてホールとしての遮音性も高く、ホール内の暗騒音というか、S/N感も良く、静けさという点で、最新鋭のコンサートホールだと感じます。ヨーロッパの古いホールですと、外の音が結構漏れ漏れで平気で入り込んだりすることもあたりまえに多いですから。(笑)
このミューザ川崎のホール空間をデザイン設計された建築設計士(女性です!)をよく知っていますが、ほんとうに設計士人生の中で最高の作品を世に残されたのだな、と敬服しております。
素人ながら、もっと専門的に解析することも試みれますが、やり過ぎるとコンサートレビューとしての記事イメージが薄れてなにが本題なのかわからくなってしまうので、大体のイメージ、ミューザ川崎ってこんな音響、というようなイメージが湧ければいいと思いました。
こんなところがミューザ川崎の音響をわかりやすく解説すると・・・というイメージだと思います。
あくまでノンノン流の我流見解ですので、ご了承を。コンサートホールの音響は座席はもちろんのこと、ほんとうに人それぞれですから。人それぞれで、拘った見解をお持ちだし、それはそれで個人単位で尊重されることだとは思っています。
さて・・・ようやく本題です。(笑)
やっぱり内田光子さんというピアニストは、モーツァルトであり、シューベルトであり、ベートーヴェンなんだな、と常日頃思っています。マルチプレイヤーも否定はしませんが、やはりピアニストとして人間としてある程度の限られた器の中で専門性を磨いていく方が、音楽家として大成するのではないか、と思います。
どれも変に中途半端でなんでもできますみたいなスタンスは、やはり音楽家、演奏家として完成度もいまいちですし、器用貧乏というか、どこかしら中途半端のような感じになってしまうと思います。
そういう意味でも長い年月、月日を経て、自分のスタイルにもっとも合った作曲家、音楽性を見つけ出し、それを磨いていって専門性を高める。そういうアプローチのほうが、音楽家としては超一流になれるのではないかな。後世に名を残すのもそういうスタイルのほうが名声を残しやすいですね。〇〇であれば、〇〇・・・みたいな・・。
やっぱり内田光子さんのモーツァルトは最高なんですよ。
いまさら言うのもなんなんですが・・・。(笑)
誰もがそう思っているし、どなたも否定しない既成事実だけど、あらためてこうやって実演に接すると、その事実をこれでもか、という感じで突きつけられる。そんな感じがしました。
今回の公演で驚きはそんなになかった。ずっと内田光子さんを聴いてきて、驚きもその範疇内に収まる感じで、あ~やっぱり内田光子さんのモーツァルトはいいな~最高だな~というあたりまえの事実を再確認したという感じである。そしてピアノでモーツァルトならやっぱり内田光子さんなんだな、と改めて思い知らされた、ということである。
モーツァルトの曲は、やはりモーツァルトの天衣無縫な性格からくるところが多いと思うのだが、長調の旋律で飛びぬけて明るくて屈託のない若々しいそういうコロコロと転がるような躍動感がある。もうこれは作曲家次第で十人十色の音楽性である。
モーツァルトの音楽は、とにかく天衣無縫で明るいのだ。
そういう屈託のない明るいのびのびした印象を曲に命を吹き込むのが、内田光子さんは絶妙にお上手なのだ。コロコロと転がるトリルの連続でいたずらっぽい子供のような印象を与え、そしてそれが天にまで昇り詰めていくような快楽感、幸福感。まさにモーツァルトのコンチェルトを弾くには、こうしないと、というお手本のようなピアノであった。
第25番と第27番であったが、数多あるモーツァルトのピアノコンチェルトの中でも最高に人気のあるポピュラーな選曲ではなかったか。
長年、内田光子というピアノを聴いてきて、あらためてその偉大さを再確認した演奏であった。
内田光子さんの弾き振りは初めて拝見した。非常に腕の振りが繊細で柔らかく、指揮者の素養がかなりあるのではないか、と思うほど、スムーズなオーケストラへの誘導だったと思う。
MCOは、想像していた以上にパワフルな音を出すオーケストラでさすが外来オーケストラだな、と舌を巻いた。自分が想定した以上に編成が大きく、かと言ってフルオーケストラほどのスケール感でもない。
弦が厚く和声感、ハーモニー感抜群で、音量も大きくパワーがある。
オーケストラとしての発音能力は抜群のものがあると感じた。
そして思うのは個々の力、個性の力というか、奏者1人1人がスタープレイヤーのごとく目立つというか、1人1人が飛びぬけているスター群だな、と思うことである。それはある意味、最近は日本のオーケストラしか聴いていない自分の弊害なのだろうけど、調和が取れていない、全体の調和・協調性よりも個々のスタープレイヤーの集合体、そういう音の出方しかない、あまり調和とは縁がないような演奏と感じてしまうこともあった。
たぶん最近日本のオーケストラしか聴いていないからであろう。
日本のオーケストラは、もっと大人しいというかどの人も周りに合わせるというか、均一的で調和的な演奏の仕方をするし、全体なハーモニーも極めて調和的だ。指揮者のもと忠誠を尽くします、という感じで一糸乱れぬ感じで我々聴衆にパフォーマンスを提供する。
日本のオーケストラは控えめで大人しいという印象がする。
でもMCOはまず第一に個人プレイヤーであり、1人1人がスタープレイヤーなので、切磋琢磨するというか、丁々発止というか、そういう競い合いながら、どんどん我々に主張してくるようなそういうパフォーマンスの仕方をするように感じてしまった。
みんなすごくパワフルで、ウマいんだよ。そして1人1人がその専門性を大いに自由に披露しながら、そういうのを集めた集合体として、我々にパフォーマンスを提供するような、そんな自由主義、のびのび感がある。
なんか、パワフルでのびのびしているな~と感じたものである。
日本人奏者のほうが大人しいような気がする。
そういう自由主義的なのびのびさがあるので、それが余計にモーツァルトのような天衣無縫な明るさに合っているというか、その効果を助長しているような感じを受けた。
内田光子さんの繊細で精緻なピアニズムに、MCOの豪快な個人プレイヤーの自由主義的なのびのびさとの重ね合わせ、相乗効果で究極のモーツァルトのコンチェルトができあがったのであろう。
内田光子&MCOのコンビは、モーツァルトのコンチェルトをやるうえではある意味最高のコンビネーションなのかもしれない。
シェーンベルクの室内交響曲第1番は、大変貴重な演奏を聴けたと思う。十数人の立奏による演奏で、あのシェーンベルク特有の無調的な調べというか、あの独特の世界。やっぱりMCOはパワーがあるよね。音量が大きいし演奏に迫力があって、あのシェーンベルク特有の不気味な世界をものの見事に具現化していた。現代音楽は、やはり音だと思う。現代音楽を聴くと、その音楽性に酔うというよりは、自分はあの鋭利でソリッドなサウンドに心酔してしまう。現代音楽はオーディオ的にすごく美味しい音楽なのだ。ふつうの古典派やロマン派の音楽では成し得ない、この音、このサウンドすごいな~と思わせることが容易な音楽なのである。自分はいつもそういうアプローチで聴いている。
内田光子さん、ひさしぶりだったけど、元気そうでした。
よかったです。
あの腰を大きく曲げて深々とお辞儀する姿。
すっかり忘れていたけど、あ~内田光子さんだな~とお馴染みの安心感でなんともいえなくほくそ笑みました。(笑)
元気そうで、まだまだトップを突っ走れる感覚。これからも頑張ってほしいです。
内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラ 2023
2023年10月31日(火) 19:00~
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503
シェーンベルク:室内交響曲第1番 作品9
インターブレイク(休憩)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
<ソリスト・アンコール>
シューマン:謝肉祭より 第17番 告白
小山実稚恵 Concerto <以心伝心> 2023 [国内クラシックコンサートレビュー]
小山実稚恵さんのピアニストとしての人生の中で、まさにパートナーともいえるべき指揮者とともに、まさに勝負曲ともいえるべきピアノ協奏曲を毎年披露していくサントリーホールシリーズ
小山実稚恵 Concerto <以心伝心>
去年に引き続き今年で2回目の開催。
今年は、小林研一郎さんと日本フィルハーモニー管弦楽団を招き、ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番と第5番を披露してくれた。
今回の公演に向けて花束が贈られていた。
去年は、上皇后さまのご臨席となり、大変な緊張の中での素晴らしい公演となった訳だが、なんと!今年は、上皇さま、上皇后さま、ご夫婦での御臨席となり、去年よりさらに神聖で厳かな天覧コンサートとなった。
日本フィルのメンバーもみんな皇族VIP席の方向にいっせいに体を向け、敬意を表明する。聴衆も一種異様な雰囲気となって、ざわめき興奮の中、全員スタンディングオーベーションでその方向に体を向けて、いっせいに盛大なる拍手で、上皇さま、上皇后さまを迎える。
小山実稚恵さん、小林研一郎さんももちろんRBブロック席に向かって、何度も何度も深いお辞儀をおこない敬意を表明する。
ホール内は、まさに大舞台に相応しい神聖な空気と緊張感に覆われた。
今宵もなにかが起こりそうだ・・・。
自分はそう思わざるを得なかった。
じつは、上皇后さまと小山実稚恵さんとは、昔から厚い親交があり、旧知の仲というか、大変お親しい間柄なのだ。ゴローさんからそう伺った。だから、小山実稚恵さんのサントリーホールでのコンサートには、上皇后さまは、昔から非常によく足を運ばれているのだ。今回が特別という訳でもない。
自分の場合、やはりピアノのコンサートはこの中央ど真ん中がいちばんいい。
響板で反射され、ピアノ打鍵の音は右に流れるので、右側の座席がいい、というのは録音でマイクセッティングならそうかもしれないけど、コンサート実演を鑑賞するなら、もはや都市伝説だ。(笑)
自分はピアノに心得があるので、やはり指捌きが見えないとダメだ。指捌きを見て、そのピアニストの特徴を判断するところがある。指捌きが見えると格段に興奮度が上がってくる。指捌きが見えないで顔の表情だけでは、どこか足りないというか、そのピアニストがどんなピアニストか判断できないし、ものすごいストレスで欲求不満に陥ってしまう。ピアニストの表情と姿勢、そして指捌き、このすべてが堪能できるど真ん中から俯瞰するのが好みである。
コンサートのブックレットが配布されて、開演前に目を通した。
小山実稚恵さんの”コンサートに寄せて”というエッセイが寄稿されている。
小林研一郎先生との初共演はベートーヴェンの第4番、仙台フィルでした。これまでの演奏活動の中で、ベートーヴェンのコンチェルト(第3,4,5番)を最も多く共演させていただいているのは小林先生です。おそらく100回以上共演させていただいているはずです。小林先生の指揮は常にベートーヴェンのように、真向勝負。魂の音楽です。ベートーヴェンの音楽に向かう時に覚悟がいるように、小林先生との共演も覚悟がいる。今日は2曲のコンチェルトをそういう気持ちで演奏したいと思っています。
のちの九州ツアーで小林先生と日フィルさんと第5番「皇帝」を共演させていただいたこともあります。小林先生と日フィルさんとの濃い関係が作り出す以心伝心の音楽。想い出も、気持ちも、すべて以心伝心の中、今日、ベートーヴェンを演奏します。
ブックレットには、音楽評論家 奥田佳道さんも寄稿文を掲載されていて、これは大変興味深く拝読させていただいた。これはかなりコバケン先生と小山実稚恵さんとのよそ行ではないざっくばらんな会話が掲載されていて、面白いと感じた。さすが音楽評論家と思うところである。
何点かピックアップしてご紹介すると、
「コンチェルト、大好きです。私は素晴らしい指揮者、オーケストラと一緒に音楽をすることで、たくさんのことを学び、作曲家が楽譜に込めた思いや音楽の喜びをお客様と分かち合ってきました。指揮者とオーケストラの世界観は、ピアニストのそれとは違います。音を出すタイミングも違うでしょう。でも三位一体ではないですが、みんなが音楽の高みに向かっていく瞬間、最高の幸せを感じます。私はたくさんのご縁に恵まれてきました。
チャイコフスキーの交響曲第5番やドヴォルザークの「新世界より」など、名曲を何回指揮なさっても、その度に私たちを熱くしてくださるコバケン先生とのベートーヴェン、心躍りますよね。
光栄なことに私、コバケン先生との共演が一番多いのです。定期演奏会に名曲コンサート、ツアーや東京以外のステージを数えたら、ものすごい数になると思います。今年(2023年)もすでに何回も。
でもいつも新鮮です。毎回音楽に発見があります。先生は何もおっしゃらなくても、指揮で、背中で表現して下さいます。オーケストラが、うねる、波打つこともありますよね。とても不思議なのですが、私と目を合わせているわけではないのに、「私を見て下さっている」のです。
ええ、まさに<以心伝心>なのです。
昨年から始めたConcerto<以心伝心>で、同じ作曲家のコンチェルトを2曲演奏するのは今回だけです。何としてもこれはコバケン先生と日本フィルの皆さんにお願いしなければ、と思いました。実現して嬉しい。大好きなサントリーホールで、ベートーヴェンの音を存分に羽ばたかせたいです。」
1986年10月12日にベートーヴェンの交響曲第9番で開場したサントリーホールとマエストロ小林研一郎も相思相愛である。
サントリーホールの公演アーカイブに、素晴らしい数字が表れる。
小林研一郎。1987年7月の日本フィル特別演奏会から、今年6月25日の「コバケンとその仲間たちオーケストラ第86回コンサート」まで、何と457回サントリーホールで指揮。これ内外すべてのアーティストのなかで、最多出場である。
コバケンのサントリーホール賛も尽きない。
「すべての音楽家のなかで、僕がサントリーホールで一番演奏しているということを教えていただきました。光栄に存じます。光り輝く音楽の殿堂と申し上げたいですね。その光はただ差し込んでくるのではなく、何かひとつのサークルと申しましょうか、きらきらとした環をつくっているのです。あのまばゆい空間での実稚恵さんとのコンチェルト、阿吽の呼吸で演奏するコバケンと日本フィルの音楽の行間も楽しみになさってください。」
でもね、僕、初めて実稚恵さんと共演した時、仙台フィルがまだ宮城フィルだった時ですから、1980年代の後半だと思いますが、ひどいことを言ってしまったことがあるんですよ。ベートーヴェンの4番のコンチェルトをご一緒した時でした。その頃から実稚恵さんのピアノが大好きで、これからたくさんご一緒することになるだろうな、と思っていたのに、
「実稚恵さん、最初のソロのところ、もっと自信をもって弾いてくださいますか。さっきの音は、あなたの音じゃない。本当のあなたの音を聴かせて」とね。僕、なんてひどいことを言ったのでしょう。ごめんなさいね。」
「いえ、あのとき、私は自分のなかで何かをまとめよう、きちんとしなくては、という思いがありすぎて、それで硬くなっていたのです。先生はそれを一瞬で見抜いて、最高のアドヴァイスをくださいました。あれから何回ご一緒したことでしょう。」
小林研一郎さんと小山実稚恵さん。もう100回以上の共演、しかもベートーヴェンのコンチェルト、を重ねてきて、まさに以心伝心で今宵のコンサートを迎えようとしている。それも上皇さま、上皇后さまのご臨席のもとで。
これ以上ない晴れ舞台である。
その場に自分が居合わせることができたのはほんとうにクラシック人生冥利に尽きると思う。
音楽の神様に感謝するしかない。
最初の曲。ベートーヴェン「エグモント」。
このあとのコンチェルトは、自分からのど真ん中の座席からでは、ピアノの響板が邪魔になって、コバケンさんの姿がまったく見えなかったので、コバケンさんの指揮姿をきちんと見れたのは、この曲だけであった。
やはり自分の中では、炎のコバケン、大晦日の新日本フィルとのベートーヴェン交響曲全曲演奏会など、とにかく熱い指揮者、熱血漢というイメージがある。数年前にもアラベラさんをソリストに迎えてのベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲のときも熱かった。だから、やはり情熱で炎のように燃える激しい指揮振りの指揮者という男らしいイメージがあったのだけれど、このエグモントでは、そういう固定概念からは程遠い、非常に冷静でクールな指揮を披露してくれた。
曲調のせいもあるのかもしれないけれど、非常にスムーズで滑らかな静かな指揮で、日本フィルから柔らかい美しい響きを引き出していた。
日本フィルは、ほとんど自分も記憶がないほど、ご無沙汰なのだけれど、弦楽器が厚く、とても和声感あふれる美しいハーモニーを形成していて、いいオーケストラだな~と感嘆した。レベルの高いオーケストラであることが一瞬にて理解できた。
全体として完成度の高い、美しいハーモニーの際立ったエグモントだったと思う。
そして、いよいよ小山実稚恵さん登場。ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番。
緑色のドレスが素敵だ。
いつも毎回思うことなのだけど、小山実稚恵さんほどの大ベテランになっても聴衆へのご挨拶のお辞儀がなんかペコっという感じで、とても愛嬌があるというか、可愛らしい感じがするんですよね。(笑)いつもそう思います。なんか若々しくて可愛いと思います。
さらにこれもまた毎回思うことなのだけれど、小山実稚恵さんは、もう椅子に座って、演奏が始まる前、そして最初のオケの序奏の時から、完全に目を閉じて、自分の中で瞑想というか、自分の世界に入り込んでいると思われる。自分がピアノに触れる前から、もうそういう完全に自分のモードの中に移行する。すごい集中力だ。
そしていよいよピアノに触れていく訳だが、あらためて驚いたこと。
やはり弱音の美というか、極限のピアニッシモ、あの柔らかい静かで優雅な腕の動き、体のゆったりした移動など、ほんとうにすごい柔らかい。これは女性ピアニストでないと絶対できない、女性ピアニストならではの天から授かった才能だと思う。小山実稚恵さんのピアノを聴くたびに、この柔らかいピアニッシモの打鍵にはあらためて驚いてしまうし、深いため息をもらしてしまう。
ベートーヴェンのコンチェルトの3番は、4番、5番ほど有名ではないけれど、とてもベートーヴェンらしいキチっとした音階的なメロディで成り立っていて、いかにもベートーヴェンらしい魅力溢れる音楽だ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲中唯一の短調である曲なのだけれど、自分的には。あまり短調らしい物悲しい旋律の印象は少なくて、ふつうに、4番、5番に匹敵する美しいメロディが随所垣間見える魅力的な曲だと思う。
小山実稚恵さんのピアノは、やはり安定している。すごく安心して見ていられる。もうゆうに100回以上、コバケンさんとやってきた曲。もういまさら緊張もないであろうとも思われるほど、とても敷かれているレールの上を進むがごとく安定した展開だ。
粒のそろったトリルのような連打、やわらかい物静かなピアニッシモ、そして激しい強打腱、どれも滑らかのように自然とスムーズに繋ぎながら絵巻物語のようにつぎつぎと披露して進めていかれる。
去年のラフマニノフ3番のようなあの尋常ではないドキドキ感、緊張感はまったくなかった。
ほんとうにすごい安定感。安心して見ていられた。
小山実稚恵さんのピアノのスタイルは、やはりとてもスタンダードで王道の解釈をするピアニストだと思う。変な個性的な解釈をしないし、強調過ぎることもしない。とても自然流な解釈をするピアニストだと思う。もちろん日本を代表するラフマニノフ弾きとしての看板もお持ちなので、ラフマニノフを弾くときの特別の想い、演奏スタイルもあるのだろう。でも膨大なレパートリーを持ちつつ、年間に膨大なコンサートを消化していく中においても、そんなに極端な解釈はしないような印象を持つ。
長年、小山実稚恵さんのピアノを聴いてきたから、言えると思うのだが。
まさに王道中の王道とも言えるベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番だったと思う。
そしてブレークを挟んで、後半。
赤いドレスに衣替えで、ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。
まさに、ベートーヴェンのピアノコンチェルトの中での最高傑作。
もう華やかで、美しいメロディがつぎつぎと現れて、もう自分は夢を見ている気分。もうこの曲を聴くたびに思うことなのだけれど、なんて、いい曲なんだろう!
あらためて、この曲の素晴らしさを実感した。
とくに第2楽章。この楽章の美しさはもう特筆するものがあろう。
雄渾壮大とか威風堂々といった楽曲の印象からフランス ナポレオンの「皇帝」というイメージづけをされることも多いこの曲だが、この曲で、自分はもっとも優れた筆致と思うのは、この第2楽章である。
小山実稚恵さんのピアノ ソロがほんとうに美しい。
静謐な空間の中で、ポロンポロンと奏でられるじつに美しいメロディ。
そこにオーケストラが絶妙に音を重ねていく。
コバケンさん、日本フィルの抜群のコンビネーション、アンサンブルに共演回数の妙が隠されていると確信した。第2楽章から第3楽章へはアタッカで入って、もうコーダに向けてどんどん盛り上がっていき、最後はもう頂点に達したところで終演。
最初から最後まで、終始夢の中に居るような名演であった。
自分がいままで聴いてきた皇帝の中でもトップクラスの演奏だったと思う。
もう終演後は、大変な大歓声。スタンディングオーベーションであった。
上皇さま、上皇后さまも拍手を続け、最後にはお立ちになられて拍手をなされていた。
夢が終わったな、と思った瞬間。
アンコールがあった。
小山実稚恵さんによるベートーヴェンのエリーゼのために。
自分も子供の頃に一生懸命ピアノを習っていたときに、練習していた曲。
ほんとうに美しいいい曲だと思います。
その美しい調べが終わった後、自分はこれで終わりかな、と思ったら、もう1曲演奏してくれた。
これがまさに驚いたのなんの。
大変な驚愕の世界が待っていた。
小山実稚恵さんが静かにピアノでソロを奏でていく。
どこかで聴いたことのある、誰もが耳にしたことのある有名な曲。
でも思い出せない。あれ~この曲なんだったっけ?すごい有名な曲なのに。。。
そんなもどかしい想いが胸を覆った。
あとで、アンコール曲名をホールの外にあるホワイトボードで確認したところ、アイルランド民謡の「ダニーボーイ」だった。
小山実稚恵さんのピアノソロで入る。少し低いオクターブからだんだん高いオクターブへと転調しながら、そこで止める。そのあとに、オーケストラがそのダニーボーイのメロディを弦楽器で演奏して入ってくるのだ。
それがじつに美しい。
エンディングにふさわしい、あまりに感動的なフィナーレ。
どんどんオーケストラの演奏がだんだんボルテージが上がってきて、それがそのダニーボーイのメロディと相まってすごい雄大で、劇的なフィナーレ。
いままでの長い2時間あまりの劇的な本編をいまこのアンコールで幕引き、感動のフィナーレとして終わろうとしている。
自分はこれはズルいと思った。
なんかいままでを、全部このダニーボーイが最後に全部持って行ってしまったというか・・・
まさにアンコールというのは、こういうことを言うのであろう。
アンコールというのは、クラシック・コンサートで言うなら、本編の30分~1時間の曲を前半・後半とでやってきて、最後のその3分くらいのワンピースで、その一瞬、瞬時にして、お客様の気持ちをあっという間に鷲掴みにする、そういうキャッチーなメロディでないとダメなのだ。アンコールの曲はどの曲でも候補になれるわけではないのだ。アンコールになれる曲というのは、そういう才能、そういうメロディを持ち合わせていないといけない。その才能、候補は、もう決まっているのである。
このアイルランドの民謡「ダニーボーイ」はなんと感動的な幕引きなのだろう。ピアノソロで静かに終わってもいいけど、最初にピアノソロで誘導して、最後にオーケストラで雄大に幕引きをする。
これは誰のアイデアなのだろう?
瞬時にそう考えた。
家に帰って調べてみたら、小林研一郎さんが、アンコールピースとしてこの「ダニーボーイ」を愛用しているとのことだった。2005年に東京フィルとで、この曲の録音もおこなっている。
コバケンさんの十八番だったのだ。
コバケンさんのアイデアだったのだ。
コバケンさんと小山実稚恵さんとは、もう100回以上の共演の仲。
このダニーボーイをアンコールで演奏して、最初はピアノソロで誘導して、そのあとにオーケストラで劇的に雄大に幕引きという演出をもうこのコンビで何度もしてきているのだろう。
でも自分にとっては初めての経験だったので、もうまんまとコバケンさん&小山実稚恵さんの世界の術中に嵌ってしまったと言えるのだろう。
いや~すばらしいエンディング、幕引きでした。
これくらい感動的なコンサートの終焉は自分のクラシック人生にとっても、初めての経験だったと思います。
小山実稚恵さんは、ショパン、チャイコフスキーのコンクールで入賞し、そしてクラシック界にデビュー活動し始めたのが、大体自分が社会人になって上京し始めた1987年頃あたりから。
それ以来、ずっと同じ世代、同じ時代、同じものをいっしょに見てきた自分と同世代のアーティスト。
それがいまや、まさに日本を代表する大ピアニストとして大君臨するようになった現在。
こういう大ピアニストといっしょに同じ世代を生きてこれたことを、自分は大変名誉に思っています。
(c)小山実稚恵 Facebook
小山実稚恵 サントリーホール・シリーズ
Concerto <以心伝心> 2023
2023年10月28日(土) 16:00~
サントリーホール 大ホール
ベートーヴェン:「エグモント」序曲1作品84
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品37
ブレーク(休憩)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」変ホ長調 作品73
~アンコール
ベートーヴェン エリーゼのために
アイルランド民謡 ダニーボーイ