SSブログ

I LOVE YOKOHAMA 北欧料理 SCANDIA [街歩き]

I LOVE YOKOHAMAの連載で、横浜開港資料館や開港記念広場を取材しているときに、そのすぐ近くにとても気になるクラシックな装いのレストランを見つけた。これはとても素敵だな~と思い、ぜひ体験してみたいと思っていた。今回のI LOVE YOKOHAMAの中にはぜひ入れておかないといけないスポットだと確信めいたものがあった。


スカンジナビア政府観光局お墨つき、日本でスカンジナビアを味わえる場所のひとつとして紹介された日本でもめずらしいスカンジナビア料理(北欧料理)が食べれるお店。レストラン”スカンディア(SCANDIA)”である。日本の国際化の原点と呼べる場所、横浜に佇んでいる「スカンディヤ」は60年続く、老舗の料理店である。


日本で初のスカンディナビア料理レストランと言っていいのではないか。


そのレストランの場所は、開港記念広場のすぐその前に佇んでいる。


開港記念広場


9742-1.jpg


9947-1.jpg


9747-1.jpg


9751-1.jpg


9754-1.jpg


ペリー来航で、日米和親条約締結の地である。

ここを開港記念広場として整備した。



9783-1.jpg


その隣には、横浜海岸教会がある。初のプロテスタント教会であり、自分はこの教会で初めてキリスト教の礼拝というのを体験したのでした。また礼拝を受けに行きたいと思っています。



そして横浜開港資料館。


9966-1.jpg


昔は旧英国総領事館だった場所で、いまは横浜開港以来の歴史を明らかにすることを目的に設立され、関係資料を収集し展示するとともに、閲覧室で広く市民や研究者に資料を公開する活動をおこなっている。


この資料館には”たまくす”がある。あのペリー来航のときの横浜上陸の図に書かれていた木である。この横浜開港資料館の中庭にいまも現存している。


この横浜開港資料館に併設するミュージアムショップ・カフェ・コンシェルジュの複合機能施設「PORTER’S LODGE(ポーターズロッジ)」がすごい素敵なのです。


9985-1.jpg



この日、レストランSCANDIAの予約時間まで時間がありましたので、ちょっとふたたび中を覗いてみました。


「横浜開港・英国文化を伝えるセレクトショップ」として、まさに横浜の歴史に沿ったYOKOHAMA一色のオリジナル商品やグッズなどを販売するショップなのです。初めて行ったときは、とにかく一杯いっぱいで中にどんなものが販売されているのかまで詳しく追えなかったのですが、今回は時間があるので、じっくり見てみようと思いました。


DSC09995.JPG


DSC00004.JPG


DSC00014.JPG


DSC00019.JPG


DSC00047.JPG


DSC00021.JPG


・・・たしかに横浜開港以来の歴史の書籍がいっぱい売られていますね。


DSC00024.JPG



たまくすの本もあります。


DSC00033.JPG



関東大震災ってほんとうに大変だったのです。横浜が壊滅しました。関内の外国人居留地や日本人居住地は、この関東大震災で壊滅状態になって全部なくなったそうです。関東大震災ってじつは東京ではなくて、横浜が震源地だったそうです。


昔の横浜の絵葉書なんかも売られていました。


DSC00037.JPG



そしてカフェも併設されているのです。


DSC00001.JPG



とても素敵なミュージアム・カフェですので、ぜひお寄りになってみてくださいませ。


開港記念広場で遭遇したひとこま。。。


9971-1.jpg




北欧料理、スカンディナビア料理のレストラン”スカンディア(SCANDIA)”は、この横浜開港資料館や開港記念広場のすぐ目の前にあります。


大さん橋近く、海岸通りにある、独特の佇まいの横浜貿易協会ビルは1929年に施工の歴史ある建物。外装は当時流行だった、櫛でひっかいたような縦線の模様を持つタイル張りのスクラッチスタイル。まるで映画にでてくるようなクラシカルな雰囲気。内装はすべて漆喰。レリーフなどの装飾も美しく、重厚感漂う落ち着いた雰囲気。その1,2階がスカンディヤ”SCANDIA”となっているのです。


9788-1.jpg


9796-1.jpg


9803-1.jpg


9809-1.jpg


9815-1.jpg


9824-1.jpg



もうとても素敵ですよね~。なんか自分のアンテナにビビッと来るくらい素敵です。


じつは、このSCANDIA、夜になるともっとその外観が素敵になるんですね。RESTAURANT SCANDIAの看板は、べつに電気照明の仕掛けはないような感じがするのですが、夜になって陽が落ちてくると、そこが蛍光のように光るのです。雰囲気あって素敵です。


DSC00195.JPG


DSC00205.JPG


DSC00220.JPG



ところで、北欧ってどこのことを言っているかわかりますか?(笑)


レストランの名前、スカンディア”SCANDIA”は、北欧諸島、スカンディナビア諸島に因んでつけられています。


北欧ってここのことを言います。


北欧諸国-NEW.jpg



ノルウエー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、そしてアイスランド、最近はエストニアやラトヴィア、リトアニアのバルト三国、ブリテン諸島なども含まれるようです。


ヨーロッパ大陸の北側にある国々。ここが北欧です。まさに欧州の北だから北欧です。

この大きな島のことを北欧諸島、スカンディナビア諸島というのです。



冬の寒さが厳しいイメージのある北欧ですが、氷河の侵食作用によってできたフィヨルドや、豊かな森林、美しい湖などの雄大な自然と、時間がゆったりと流れているような雰囲気が魅力です。落ち着いた雰囲気に憧れて、一度は誰しもが旅行してみたいと思う人も多いですよね。



また、シンプルなデザイン、機能性に優れたインテリアや食器、雑貨は日本でも人気があります。


日記でも紹介しましたが、北欧諸国の人々は幸せというか、北欧文化の特徴の一つとして、幸福度の高さが注目されています。


25940505_2550232535_93large.jpg



国連が発表した「世界幸福度ランキング」。


それは「人口当たりGDP」「社会的支援」「平均寿命」「人生選択の自由度」「寛容さ」「社会の腐敗度」といった幸福度をはかる6項目を指標として、幸せの質を数値化しランキング付けしたものらしいです。


2018年の国連発表の順位を見てみると、1位フィンランド、2位ノルウェー、3位デンマークとなっており、北欧諸国が上位を占めているのですよ。


豊かな自然、医療費が無料、学費が無料、労働時間が短い、「モノ」に固執しない、質が高い「フィンランド教育」、世界一しあわせな子育てができる国、年齢に関係なく学べる「生涯教育」、そして北欧はデジタル・トランスフォーメーション、デジタル変革(DX)に成功したDX先進国なのです。とくにフィンランドはヨーロッパで最もデジタル化された国、DX先進国でもあります。


北欧ってとても寒い厳しい気候条件にようにも思いますが、ほんとうに人間らしい幸せな生活をするには最高の国なのが分かります。


じゃあ、北欧料理、スカンディナビア料理ってどんな料理のことをいうのでしょうか?


●北欧料理の特徴


北欧の国々や地域で古くから作られている伝統料理が、北欧料理です。ノルウェーやフィンランド、スウェーデンなど海に面している国が多いため、魚介類を使った料理が多く見られます。ノルウェー産のサーモンやサバなどは、日本で売られているのを見たことがある人も多いでしょう。そのなかでもサーモンは特に有名で、料理にも多く使われています。


北欧諸国は海だけでなく、森や山などの自然も多いため、木の実やきのこを使った料理や、じゃがいもを使う料理も多くあります。使う食材は似ていても、料理には国ごとにさまざまな特色があります。


サーモン、豚肉、リンゴベリーソース(コケモモ)なんかそんな北欧ならではの素材だと思います。


(1)スウェーデンの代表料理

スウェーデンの代表的な料理には、ミートボールやハッセルバックポテトだけでなく、「ヤンソンの誘惑」という、じゃがいもとアンチョビのグラタンがあります。


(2)デンマークの代表料理

北欧諸国のひとつであるデンマークでは、鮭を使ったスモーブローというオープンサンドや、フレスケスタイが有名です。


(3)ノルウェーの代表料理

海に面しているノルウェーには、サーモンを使う料理が多くあります。シンプルな味付けでサーモンを味わうソテーや、ラクフィスクというマスの塩漬けをご紹介します。


(4)フィンランドの代表料理

海や森など豊かな自然があふれるフィンランドでも、サーモンを使った料理は定番です。


(5)アイスランドの代表料理

アイスランドは北大西洋の島国であり、火山や温泉、氷河などの豊かな自然があることが特徴です。アイスランドを代表する食材に、アイスランディック・ロブスターがあります。


北欧料理とは、北ヨーロッパの国々で親しまれている伝統料理のこと。周囲を海や森で囲まれている北欧諸国では、サーモンや手長エビなどの海産物やきのこ、じゃがいもを使った料理が多くあります。またリンゴンベリーという酸味のあるコケモモを使ったソースを、肉料理などに添えて食べることも特徴なんですね。


北欧諸国とは、ノルウェーやスウェーデン、デンマーク、フィンランド、アイスランドなどの国を言いますが、同じ食材を使っていても、それぞれの国で料理に特色が見られるようです。



では、このレストラン”スカンディア(SCANDIA)”で食べさせてくれる北欧料理ってどんな料理のことをいうのでしょうか?


その前に、レストラン ”スカンディア(SCANDIA)”の成り立ちについて、説明してみますね。


9788-1.jpg



1950 年頃、オーナーの濱田八重子さんが、大阪から友人を訪ねたとき、横浜で船乗りだったデンマーク人のご主人バオン・オーガ・ジェンソンさんと出会い、結婚。夫の夢であった、「バーやレストランを経営したい、という思いから中華街にコペンハーゲンというバーを開く。その後、夫婦でアメリカを旅行していた際、ロサンゼルスのハリウッドで「SCANDIA」という名前のレストランを訪れ魅了される。帰国後、横浜中華街で外国人向けのバー「コペンハーゲン」の経営を経て、2階に空きがあった横浜貿易協会ビルにスカンディア(SCANDIA)のレストランを1963年にオープン。60年以上続く、老舗となった。


今では「一度は行ってみたい名店」として地元横浜の方にはもちろん、多くの有名や著名人に愛されている。世界的な指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンや美空ひばりさん、桑田佳祐さんなど著名人も数多く来店。中でも松任谷由実さんは夫の正隆さんとの婚約時、両家顔合わせの場として同店を利用したというエピソードはファンには有名な話なのだそうだ。


デンマーク人のご主人と始めたということですから、北欧料理という広い括りの中でも、やはりデンマーク料理なのでしょうかね。デンマーク料理からこう広げていったという感じなのでしょうか。



1階はカフェや食事をカジュアルに楽しめる「スカンディヤガーデン」、2階は本格的な北欧料理が楽しめる「レストランスカンディヤ」。


一歩入るとそこは、アンティークに囲まれたノスタルジックな店内。とにかくスゴイです。もともとI LOVE YOKOHAMAの日記で、ぜひこのSCANDIAは入れたいと思っていたので、事前にネットで公式HPを眺めていたのだが、とくに本格的な北欧料理が食べられるレストランスカンディア」のほうは、もうあまりのゴージャスな内装空間に自分は驚嘆の声を上げてしまいました。これはぜひ体験しないと!と思いました。


そして、どうせ体験するなら、この2階の北欧料理が楽しめる「レストラン スカンディア」のほうを予約しました。ここは、やっぱりこの重厚な内装空間のレストランであることから、事前に予約して行ったほうがいいように思います。


この日は、予約時間より早く到着してしまいましたので、じゃあ1階のカフェや食事をカジュアルに楽しめる「スカンディヤガーデン」のほうも体験してみる?と思ったのです。


ここは特に予約はなくても混雑時間帯でなければ大丈夫のようです。


さっそく1階の「スカンディヤガーデン」へ。


DSC09837.JPG


DSC09850.JPG


DSC09854.JPG


DSC09916.JPG



うしろにずら~と並んでいるドリンク関係は、北欧ならではのお酒なのでしょうか・・・自分はあまりお酒が詳しくないので、わからないのですが・・・ワイン、シャンペン、ビールなどなのでしょう、きっと。


DSC09862.JPG


DSC09923.JPG



ここもカジュアルですけど、素敵ですよね~~~。もう自分はこれでかなりノックアウト気味です。こういう雰囲気のレストラン大好きです。いわゆる東京都心の都会的なハイセンスな高級レストランと全然装いが違って、もっとアンティークというか歴史があるというか、そういう趣味の良さが感じられますよね。ヨーロッパらしいお店だと思いました。


ここはカジュアルであることが売りなので、メニューはなんでも置いてあります。自分は最初店の外にあったメニューの看板を見て、”ビーフハヤシライス”がもう美味しそうで美味しそうで、絶対これにしよう!と思ったのですが、同時に特製ローストビーフも捨てがたいな、と思って迷っていました。いざ店内に入ってメニューを見た途端、特製ローストビーフにしようと決断してしまいました。(笑)


特製ローストビーフ


DSC09876.JPG


DSC09885.JPG


ローストビーフは、ロンドンに住んでいるときはほんとうによく日曜日に食べていました。サンデーローストです。サンデーローストとは、イギリスの伝統的な食事で、日曜日(通常正午過ぎの昼食)に食べる習慣です。逆にローストビーフってイギリスではよく食べたけど、日本に帰ってからはほとんど食べなくなった食べ物でもありました。


でも美味しかった~~~。


これぞローストビーフという感じで、お肉も柔らかくジューシー。そしてなによりも暖かいです。ソースは、まさにローストビーフにつけるあのソースですね。甘いデミグラス的な味がする、ローストビーフにかならずつきもののあのソースです。最高のローストビーフでした。


じつはこれだけでは終わらなかったのです。(笑)


夜、18:00から2階の「レストランスカンディヤ」で本格的な北欧料理のフルコースを堪能した後、1階のカジュアルガーデンも体験した、そして2階の「レストランスカンディヤ」も体験した、ということで、ふつうこれで終わりじゃないですか。。。


でも自分は、1階のカジュアルガーデンでのメニューのビーフハヤシライスがどうしても忘れられなくて、食べたくて。。あのときは思わず寸前で特製ローストビーフにしてしまった。あのビーフハヤシライスを頼まなかったのが悔いが残るな~。もうこのレストランで2食も食べているのに、その気持ちが強くなっていって、ついに北欧料理フルコースを堪能した後、またこの1階のカジュアルガーデンに戻って来て、ビーフハヤシライスを頼んでしまったのです。(笑)


とにかく、店の外の看板のメニューのビーフハヤシライスが美味しそうで美味しそうで。


DSC00403.JPG



これですよ!!!これは思わず食べたくなるでしょう!(笑)あまりに美味しそうです。


DSC00413.JPG


そして出てきたビーフハヤシライス。


DSC00383.JPG



若干、看板のメニュー写真はやはり料理のプロによる写真だな、とは思いましたが、いやはやなんのその。これもまた絶品でございました。ハヤシライスはオヤジの大好物でした。オヤジはカレーライスよりハヤシライスのほうが好きなんだ、といつも言っていて、オフクロによくハヤシライスを作らせていました。自分はカレーライスのほうが好きですが、でもハヤシライスも美味しいと思います。


このハヤシライスを食べているときは思わずオヤジのことを思い出してしまいました。スカンディア(SCANDIA)のカジュアルガーデンのビーフハヤシライスは、まさにハヤシライスそのものの味で王道の味。自分が子供の頃におフクロが作ってくれたハヤシライス、そのものの同じ味がして美味しかったです。とくになんか北欧のとか、特別な感じはしなかったです。



そしてメインの本格的な北欧料理、スカンディナビア料理を食べさせてくれる「レストランスカンディア」です。


まずカジュアルガーデンとはエントランスが違います。


1階のカフェや食事をカジュアルに楽しめる「スカンディヤガーデン」のエントランスはこちらです。


DSC00365.JPG



そして2階の本格的な北欧料理が楽しめる「レストランスカンディヤ」のエントランスはこちらになります。重厚さが全然違います。


DSC00358.JPG




そしてなによりも驚くのは、その荘厳に施されたレリーフ。建築物や工芸品の表面を飾るためのレリーフです。


DSC00224.JPG


DSC00230.JPG



壁一面に、ある四角形上の額縁に張られた中を彫刻が彫られているのです。色は濃い褐色の茶色で統一されています。こういう彫刻、レリーフは北欧と関係あるのか、北欧ならではの文化なのか自分はわかりかねますが、とにかく圧倒されました。


このレリーフはレストランの店内でもすごい数に及び圧巻なのです。


スモーキングルームもこのゴージャスさです。


DSC00342.JPG


そしてレストランのエントランス。


DSC00336.JPG


DSC00353.JPG



ここが、本格的な北欧料理が楽しめる「レストランスカンディヤ」になります。


DSC00237.JPG


DSC00240.JPG


DSC00263.JPG


DSC00253.JPG


DSC00259.JPG


DSC00268.JPG



公式HPの写真でその絢爛豪華さ、ゴージャスさはあらかじめ知ってはおりましたが、実際リアルで体感する肉眼で目にするその空間は、まさに王宮、宮殿の中だと思い間違えるような素晴らしさでした。


レストラン内は照明は暗く、わずかな高級なシャンデリアとろうそくのキャンドルの灯りのみのように思います。その暗さがより一層高級感、重厚感溢れるその空間を助長しているように思います。


内装はすべて漆喰。レリーフなどの装飾も美しく、重厚感漂う落ち着いた雰囲気。とくにレリーフはほんとうに凄いですね。褐色茶色で統一されたその芸術的な彫刻、レリーフの額縁が、レストラン内の壁一面に飾られ、それがより一層その空間の重厚感、深みを増しているような作用があるように思います。


まるで北欧のお城のような店内です。


一歩入るとそこは、アンティークに囲まれたノスタルジックな店内でした。


案内していただいた女性のスタッフもチーフなのか、とても上品な振舞、言葉遣いで、まるで腹式発声のような奥ゆかしいマナー、振舞と品のいい声でございました。まさに一流レストラン、高級レストランのおもてなし、とはこうあるべき、というお手本のような高貴さと上品さの空気が漂っていました。


自分は思わずかしこまってしまいました。(笑)

素晴らしかったです。

ありがとうございました。


自分はコース料理をいただきました。



約30年、スカンディヤの厨房を担ってきた総料理長の荒川裕之シェフが存分に腕をふるう、コース料理がやはり最高です。シェフの長年培われた技術と品格を備えた料理を堪能できるコースはお祝いや記念日に利用すれば忘れられない、特別な時間になると思います。


荒川シェフはご自身でも「料理バカ」という荒川さん、当時はフレンチのシェフとして腕を磨いており、25歳までに美味いもの食べるというミッションを自らに課し、ボーナスが出ると、神戸のポートフェアホテル、カハラ、大阪のステーキハウスなど一流のお店を巡っていました。


ヘルプで来ないか、と声を掛けられたのがその数年後。

スカンディヤの2号店「ダンマルク」からスタートしました。


そこから、社長の濱田さんと二人三脚、いろいろな提案をしながら、長い年月を掛けてお店の伝統を守ってきました。一人の力では出来なかったと、荒川さんはかつてをふり返ります。他のスタッフも長く働いてる方が多いとのこと。


近年では、クルーズ船が大さん橋に着くようになり、再び外国人のお客さんが増え、往年の異国情緒を感じることができるようになってきたそうです。



自分が予約したコース料理は、スカンディアスペシャルです。


前菜が、豪華な前菜盛り合わせ スモーガススタイルです。


DSC00286.JPG



じつは、ここスカンディア(SCANDIA)の名物料理は、バイキングスタイルの盛り合わせ『スモーガスボード』。一般的なバイキングスタイルは一度席を立ち、大皿から好 きな料理を皿に取り分ける方法ですが、それをスカンディヤのスモーガスボードは席についたまま、テーブルの上で楽しめるようにアレンジしているものなのです。


これがスカンディアの名物料理なのです。スカンディアに来たらこれを食べなきゃ!

コース料理は、いろいろあるのですが、自分はこのスカンディアスペシャルを選んでよかったと思うのは、この名物料理のスモーガススタイルで前菜をいただけたことです。


見た目が美しいですよね~。芸術品だと思いました。食べるのが勿体ない感じです。どれも素晴らしく美味しかったですが、やはりサーモンが美味しかったかな~。北欧料理は、やはりサーモンですね~。キャビアを食べるのは何年振りでしょうか。貧乏な自分が普段食せる食べ物ではありません。(笑)


まさに至極、究極の前菜ですね。自分がいままで経験してきたコース料理の前菜の中でも最高位に位置すると思います。


シェフ特製 季節のスープはカボチャのスープ。パンも添えて。


DSC00295.JPG


カボチャは甘い口触りのいい上品なスープでございました。これは美味しいですね。そしてパンがもう焼きたてで暖かくてほんとうに美味しい。焼き立てのパンって美味しいですよね。


そしてメインディッシュです。

特製和牛ヒレステーキと季節の野菜添え。そしてミックスサラダも。


DSC00310.JPG



ヒレステーキは柔らかくまさに高級なお肉でございました。口に中に入れるととろけてしまいそうな感じです。そしてやはり肉につけるソースですね。ヒレ肉をナイフとフォークでカットしていきながら、そして切肉にソースにまぶせながら口に運ぶわけですが、フレンチのときもいつもそう思うのですけど、高級なレストランの料理ってその美味しさを簡単に言葉で表現することができないものです。


文章を書くうえでいちばん難しいと言われるのが、音楽を聴いたときのその感動やその音楽の素晴らしさを文章で表現すること、そして高級な料理を食べたときのその美味しさの感動を文章で表すこと。


この2点がいちばん文章で表現することが難しいと言われています。


人間のリアルな感覚(聴覚や味覚)で感じることなので、それを文章という仲介で代弁することが難しいのです。


フレンチやイタリアンを食べるといつも思うのが、なんともいろいろな隠し味が隠されていて、いろいろなものが混ざったまか複雑な味、でも最高に美味しい、この味をどのように言葉で表現すればいいのか・・・そんな美味しさというのがあります。


ラーメンや中華などはとてもシンプルなので、美味しさを言葉で表現することは、そこまで難しくはないと思います。でもフレンチやイタリアンの手の込んだ下ごしらえのソースの味なんか、すごく複雑な美味しさで、とても言葉では表現するのが難しいんですよね。


まさにこのメインの特製和牛ヒレステーキはそんな至極、究極の美味しさでございました。


デザートは、チョコレートケーキです。

”オペラと・・・”というタイトルでドキッとしました。(笑)

そしてコーヒーを。


DSC00327.JPG


見た目も上品で、甘く高級なケーキだと思いました。

ひと手間もふた手間もかけた高級品だと思います。



スカンディアスペシャル。1,0160円。

いろいろなコース料理がある中、このスカンディアスペシャルを選んでほんとうによかったと思いました。


最後に会計でお釣りをいただくとき、わざわざ総料理長の荒川裕之シェフに持っていただき大変恐縮いたしました。


「どうもありがとうございました。大変素敵でございました。」


と感謝と御礼のお言葉をおかけしたことは言うまでもありません。



オーナーご自慢のマティーニやカクテル。横浜に米軍人や貿易会社が多かった頃、教えてもらったレシピが今も受け継がれているそうで、それを頼まなかったのがちょっと心残りではありました。


横浜情緒あふれる雰囲気の中で心に残る思い出を。

創業以来、守り続けているものがある。


横浜で創業60年。北欧料理のスカンディア(SCANDIA)。

ここにやっと体験することができました。



RESTAURANT SCANDIA













nice!(0)  コメント(0) 

皇室のみやび~受け継ぐ美 [美術]

新しく衣替えとなった皇居三の丸尚蔵館で、”皇室のみやび~受け継ぐ美”を拝見してきました。去年の11月に始まったのですが、ぜひ行きたいとずっと思いつつ、年末はいろいろ忙しくようやく時間を見繕って行くことができました。


皇居三の丸尚蔵館 開館記念展 「皇室のみやび~受け継ぐ美」




上皇陛下と香淳皇后によって国に寄贈された皇室ゆかりの美術工芸品の保存、研究、公開のため、平成5年、宮内庁三の丸尚蔵館として皇居東御苑内に開館。本年で開館30周年を迎えます。令和元年より新たな施設の建設が進められており、このたび完成した一部(Ⅰ期棟)を開館いたします。また、本年10月より管理・運営を宮内庁から独立行政法人国立文化財機構に移管し、正式名称は新たに「皇居三の丸尚蔵館」へと変わります。これまでの活動をさらに充実させ、より多くのお客様に親しんでいただける施設を目指してまいります。


皇居の三の丸尚蔵館は、上皇さま、香淳皇后さまによって平成時に寄贈された皇室ゆかりの美術工芸品が保存、研究、公開のため宮内庁三の丸尚蔵館として皇居東御苑内に開館されたんですね。今年で会館30周年だそうで、施設の新設、管理・運営を宮内庁から独立行政法人国立文化財機構に移管し、正式名称は新たに「皇居三の丸尚蔵館」として再スタートということなんですね。


まだ完成の一部ということですから、これからどんどん増設されていくんですね。

なにせ皇居に初めて行ったのが、江戸城天守閣復元模型のときですから、この三の丸尚蔵館は行ったことがありませんでした。ぜひ行ってみたいと思っていたのです。


●新しく生まれ変わった皇居三の丸尚蔵館


本展は、今年11月に開館30年を迎える三の丸尚蔵館が、令和という新たな時代に、装いを新たに「皇居三の丸尚蔵館」として開館することを記念して開催するものです。


約8か月にわたって開催する本展では、「皇室のみやび」をテーマに、当館を代表する多種多彩な収蔵品を4期に分けて展示します。これらは、いずれも皇室に受け継がれてきた貴重な品々ばかりです。長い歴史と伝統の中で培われてきた皇室と文化の関わり、そしてその美に触れていただければ幸いです。


※出品作品は全て国(皇居三の丸尚蔵館収蔵)の作品です。


皇室ゆかりの多種多様な品々を4期に分けてご紹介

本展覧会の3つの見どころ


1


新しく生まれ変わった皇居三の丸尚蔵館の施設で、

皇室に受け継がれてきた多種多様な品々を4期に分けてご紹介!


2


国宝 《蒙古襲来絵詞》、国宝・狩野永徳 《唐獅子図屏風》、国宝・伊藤若冲 《動植綵絵》(全30幅のうち12幅)など、当館を代表する名品を多数公開!



3


若冲だけじゃない!

明治・大正・昭和の天皇皇后の日常をしのばせる品々など、初公開となる作品も!


「皇室のみやび」をテーマに、当館を代表する多種多彩な収蔵品を4期に分けて展示します。


第1期 三の丸尚蔵や館の国宝 令和5年11月3日(金・祝)~12月24日(日)

第2期 近代皇室を彩どる技と美 令和6年1月4日(木)~3月3日(日)

第3期 近代の御所を飾った品々 令和6年3月12日(火)~5月12日(日)

第4期 三の丸尚蔵館の名品      令和6年5月21日(火)~6月23日(日)


皇居三の丸尚蔵館は、皇居東御苑の正門からすぐ100mのところにあります。皇居ですからとうぜん手荷物検査があります。


チケットは、皇居内での販売はないです。すべてオンラインでの販売になります。公式HPからチケットが買えるようになっています。一般1,000円、大学生500円です。


自分は第2期 近代皇室を彩どる技と美を拝見してまいりました。

じつは第1期もすごく見たかったんですよね。忙しくて行けませんでした。


とにかくこの皇居三の丸尚蔵館に収蔵されている作品は、すべて国宝ですから、大変貴重です。

そして驚くことなかれ、写真撮影可能なのです!


大抵美術館は、撮影禁止がほとんどです。


しかも皇室に関わる作品であるにも関わらず、写真撮影可能というのは、大変驚きました。もちろん作品の中には撮影禁止のものもあります。展示の説明パネルにカメラのマークがあって、そこに赤い斜め線があるものは撮影禁止です。撮影する前によくパネルのカメラマークを注意してご覧になることをお薦めします。もちろん係員スタッフの方がいますので、そういう場合は注意を受けます。(自分がそうでした。(笑))


ちょっと公式HPの情報をお借りして、この第1期を少しご紹介しますね。



「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」である国宝。これらは学術、そして文化史的にも極めて重要な作品であるのはもちろんのこと、長い日本の歴史のなかで培われてきた美の結晶ともいえるものです。皇居三の丸尚蔵館 開館記念展の最初を飾る第1期では、近年指定された当館収蔵の国宝8件のなかから4件の作品をご覧いただきます。



とくに、国宝・伊藤若冲《動植綵絵(どうしょくさいえ)》はどうしても観たかったです。伊藤若沖展は、数年前に上野の美術館で展示されましたが、信じられないくらいの大行列で自分は無理だと最初から諦めていました。若沖の作品を間近に観たことがないです。ぜひ行きたかった~。


伊藤若冲の「動植綵繪」


伊藤若沖.jpg



蒙古襲来絵詞 後巻 歴史的事件、元寇を伝える絵巻


元寇.jpg




そして、特別展示 御即位5年・御成婚30年記念 ということで、


令和の御代を迎えて―天皇皇后両陛下が歩まれた30年


と題して、いろいろ展示があったようなのです。


写真は、天皇皇后両陛下が結婚の儀のときのご装束になります。


令和の時代を迎えて.jpg


これは拝見したかったですね~。



それでは、私が拝見してきた第2期  近代皇室を彩どる技と美をご紹介しますね。


新しく再スタートとなった皇居三の丸尚蔵館は、皇居東御苑の正門からすぐ100mのところにあります。


9427-1.jpg


9434-1.jpg


DSC09441.JPG


9448-1.jpg



展示は、約60件(100点)に渡り、展示室1・2の両方を使い、4期の中でも最大だと思います。


近代皇室を彩る技と美


皇居三の丸尚蔵館の収蔵作品には、明治時代以降に宮中において室内装飾として使用された美術工芸品類が含まれています。なかでも、明治22年(1889)に大日本帝国憲法発布式が行われた場所でもある明治宮殿を飾った作品は、当時の著名な作家が最高の技術を凝らしたものです。第2期では、それらの作品とともに御即位や大婚25年(銀婚式)など皇室の御慶事を契機として制作された作品、さらに明治・大正・昭和の三代の天皇皇后にゆかりのある品々をご紹介します。


明治・大正・昭和の三代の天皇皇后にゆかりのある品々。

自分の世代は、昭和天皇以降の時代でした。


自分が生まれて子供の頃はずっと昭和天皇でした。以降、平成のいまの上皇さま、上皇后さま、そして現在の令和の天皇さま、皇后さまにになります。昭和天皇のときが1番長かったと思います。1989年に崩御なされたので、自分が社会人2年生のときです。


天皇崩御というのは、もう日本中が喪に服すというか、テレビ番組も1日中そんな感じだったと思います。会社も休みだったんじゃないかな。


いまの上皇さま、上皇后さまやいまの天皇陛下、皇后さまが皇太子、皇太子妃の時代から眺めてきた訳ですから、ずっと時代の変遷を観てきたんだな、と思います。自分もやはり年寄りです。


以下、明治・大正・昭和天皇時代に宮中において室内装飾として使用された美術工芸品類を紹介していきます。


DSC09642.JPG


DSC09452.JPG


DSC09456.JPG


DSC09460.JPG


DSC09462.JPG


DSC09464.JPG


DSC09489.JPG


DSC09496.JPG


DSC09500.JPG


DSC09512.JPG


9521-1.jpg


DSC09524.JPG


DSC09528.JPG


9533-1.jpg


DSC09537.JPG


DSC09543.JPG


DSC09553.JPG


DSC09558.JPG


DSC09561.JPG







DSC09575.JPG


縦2メートル半弱、横4メートル半という特大の画面

《日出処日本ひいづるところにほん》

横山大観 昭和15年(1940)


【展示期間:1月4日~3月3日】


これは壮大でしたね~。




DSC09582.JPG


DSC09592.JPG


DSC09598.JPG


DSC09606.JPG


DSC09615.JPG


DSC09621.JPG


DSC09626.JPG



DSC09646.JPG


DSC09650.JPG


DSC09663.JPG



これは皇室の系図になります。


9660-1.jpg



圧巻でなんか厳粛で神聖な気持ちになりました。

ぜひ足を運ばれることをお勧めいたします。

なかなか体験できることではないと思いますよ。


さて、ひさしぶりに皇居東御苑にやってまいりしましたので、皇居内をいろいろ歩いてみようと思いました。


皇居は、昔の江戸城があったところになります。

石垣ってほんとうに美しいですね~

最高に美しいと思います。


9668-1.jpg


9670-1.jpg


9676-1.jpg


9737-1.jpg



江戸城天守閣の天守台。


そしてそれを眺めるように二の丸、三の丸があったところ。いまは公園、広場になっています。


9683-1.jpg


9698-1.jpg


江戸城は、江戸時代から天守閣がないまま現在に至るのです。


江戸城の天守閣は、初代家康・慶長12 年(1607)、2代秀忠・元和9年(1623 )、3代家光・寛永14年(1637)と代替えごとに3度建築されています。特に3代将軍家光の代に江戸幕府の権威を象徴するわが国最大の寛永天守閣が完成したのです。


江戸城天守閣(寛永度天守)がどれだけ巨大だったのか?を示す図をいろいろ引っ張ってきました。


25940505_2308341797_161large.jpg



つい最近見てきた姫路城天守や現在の日本武道館と比較して、江戸城天守はこんなにデカいのです。まさに日本のお城の天守閣の最大を誇ったのが江戸城なのです。



三代将軍家光の嫡男家綱が四代将軍となって6年目のこと。明暦3年(1657)に江戸全体を焼き尽くす大火事がありました。江戸城の天守閣が無くなったのはその1657年の「明暦の大火」による焼失のためだったのです。


皇居は、江戸城があったところなのに、江戸城天守閣がありませんよね。


わかりやすく、「なぜ江戸城に天守がないのか?」



そもそも、天守とは何か。端的に表現するならば、大きな櫓である。主な用途は、戦になったときの物見や武器庫、籠城の際の拠点として使うための建造物で、日常的な使い道はこれといってない。


ただ、巨大な天守を持っているということは、巨大な軍事力・権力の証であり、徳川家に反感を持つ大名たちを牽制するためにも、家康、秀忠、家光の三代は天守を上げ続ける必要があったです。


しかし四代・家綱の代になって内乱状態は沈静化し、大名統治のシステムも盤石になった。つまり、再び戦が起こる心配のない、真の天下泰平の世がやってきていた。


そんな時代に、天守を上げて、軍事力や権力の誇示をすることが果たして必要だろうか? しかも、江戸城下が未曾有の災害で壊滅しかかっている非常事態に……。


保科正之をはじめ、当時の幕閣たちがだした答えは「NO」であった。特に実用性のない天守に莫大な建設費や維持管理費を割くぐらいだったら、城下の復興・再建にあてようという英断を下したました。


これは、徳川幕府による全国の統治の方針が、当初の軍事力にものをいわせた「武断政治」から、戦の心配がなくなったために、法や制度の充実によって社会秩序を安定させようという「文治政治」に移行したことを表わすものでありました。


家康が初めて江戸城に天守を上げてから明暦の大火まで、ちょうど50年。江戸は、真に平和な時代を迎えようとしていたことの証ともいえます。


以降、江戸城に天守が再建されることはなかった。当時の人々にとっては、天守のない江戸城こそ、平和を実感する誇らしい風景だったのかもしれない。




結局、江戸城の天守閣って、徳川幕府の初代家康から15代将軍慶喜の時代までの中で、最初の3代の家康、秀忠、家光のときにのみ存在していて、明暦の大火で焼失してからは、江戸城には天守閣が存在しない時代がずっと続いていて、現在に至るんですね。


いまのこの皇居にある天守台は、4代将軍家綱は、直ちに再建を計画すると、加賀前田家は天守閣の再構築を申し出て、万次元年(1658)9月27日に天守台を完成させたものなんですね。


数年前に、この江戸城天守を再建しようという動きが活発になって、”江戸城天守を再建する会”というのが作られました。もちろん再建するのは、日本最大の寛永天守です。


CGで復元された寛永天守。

2019年の頃ですね~。自分もずいぶん興奮して盛り上がりました。


25940505_2308341780_44large.jpg


江戸城天守が再建されると、ほんとうに夢がありますが、そして自分のような城マニアの方も最高に嬉しいと思いますが、でも実際の現実となるとなかなかそう簡単には事は運ばないというか非常に慎重に考えるべき問題が多いようです。


費用の問題、そしてなによりも江戸城天守を復元してしまうと、その天守閣から天皇陛下が住まわれている皇居を下に見下ろすことになるので、それが問題、いまのいろいろな国難をたくさん抱えている時代に、江戸城天守を再建している場合か、そのほかいろいろ慎重に議論するべく問題が多いようです。


それはわかる気がします。


でも城マニアにとっては、ほんとうに夢があることなんですけどね~。


江戸城天守閣ができてしまうと、なんか大阪城天守閣とのパワーバランスが異なってくるような気がしますね。


皇居東御苑には江戸城天守復元模型がありました。

懐かしいです。


9705-1.jpg


9710-1.jpg


DSC09717.JPG


DSC09725.JPG


DSC09733.JPG




江戸城天守を再建する。


夢が実現するとうれしいですね。









nice!(0)  コメント(0) 

新鮮で驚きがあるということ。 [雑感]

自分はもう人生隠居だから自分の好きなことをやり続けれるなら毎日マンネリでもいいのではないか、と思うのだけど。

                              

会社人生、社会人人生として、ひとまず区切りがついて、いままでよく頑張ってきたと自分を褒めてあげたい。いままでずっと緊張してきた人生を過ごしてきた。

                    

つねに頑張らないと、怒られないようにしないと、成果を出さないと、人生真っ盛りだから、若いから、常に突っ走る人生。

                    

でも人生一区切りつくと、もうこの歳だから、そんなに人からも責められないだろう、怒られることもないだろう、年寄りだから仕方がないと思われる、年寄りだから許される、大目に見てもらえる、そんな感じがして、それですごく肩の荷が降りるというか、気が楽になった。いままでの長い緊張の糸が切れた感じだ。

                    

何十年も仕事をしてきて、趣味ともども、人生をフル回転で歩んできた。今後はその経験を活かして世の中の役に立っていきたい。

                     

金持ちになって、人生リタイアした人は、大抵、その後の人生、自分の自慢話だけの人が多く、それははたから見ていてもじつに哀れで可哀そうなものだ。

                      

人間というのは、つねに誰かの役に立っている、世間や社会に貢献している、なにかに貢献している、という気持ちがあるからこそ気持ちに張りがあって、活き活きとしていくものだと思う。若いときはそれが仕事だったりする。

                      

なにかに、社会に、誰かに貢献している、という気持ちが大事なのだろう。

                         

毎日マンネリだと、いつも同じだと、その気持ちの張りが保てるだろうか。歳を取っていくと、緊張力の持続がもう精神的にも体力的に限界になっていく。もう充分頑張ったんだから、もういいかな、ゆっくりマイペースでいいかな、とか。自分はどこまで続けられるかな。

                    

                   

やはり新鮮で驚きがあること。

                     

これが1番大切なことだ。

                  

自分の人生の糧である音楽でもそうだ。

世の中に受け入れられる音楽はつねに新鮮で驚きがある。いままで聴いたことのない音楽、フレーズ、これに人は驚いて大ヒットとなる。

                   

ビートルズの登場もそうだ。自分達で作詞・作曲し、自分達で演奏する。コンセプトアルバム。。。もうなにもかも新鮮ですべてが新しかった。

                      

スティングは、音楽は最初の8小節のフレーズを聴いて驚きがなかったら、その音楽はもうダメだ、という。

                  

今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」。自分は期待している。

                                   

                              

421385423_7206904672759066_8806278458388784217_n.jpg

                                      

                                      

420879479_7048703371872825_2818212789012581357_n.jpg

                                         

                                      

420813937_7048728808536948_8188527942423798099_n.jpg

                    

                    

なによりもいままでの大河ドラマにはない新しい風を感じる。

なんかすべてにおいて新鮮だ。

                              

長年、大河ドラマをずっと観てきた自分の感想。なんかすごく新鮮だし、目新しい。

                         

まず扱う時代がいい。いままでこの平安時代を扱った大河ドラマってあったっけ?

自分はあまり記憶にないのだけど。とにかく新鮮だ。

                             

衣装も時代考証も。

                         

そして画がすごく綺麗。あまり馴染みのない時代だけに、当時の貴族が着ている衣装がまさに鮮烈でビビットな原色の組み合わせでほんとうに美しい。

                                 

華やかし平安時代の雰囲気がよく出ている。

すごい綺麗な絵柄だな、と思う。

                        

自分は仕事柄、お金のことをどうしても考えてしまうのだけど、この光る君へのドラマを見ていると衣装、舞台セット含めてお金かかっているな~、すごい予算かけているな~とついついそっちのほうを考えてしまう。

                                 

大河ドラマは、やはりすごい予算がかかるものなので、貴族の服、着物、特に女性役の服装は1度作って使用してもそれをきちんと保管しておくのだそうだ。そして数年後、何十年後にそれをまた違う大河ドラマで再登場させて使用する。

                                 

だから奈良時代だとか、いままで大河ドラマで扱ったことのない時代は、NHK制作陣はやりたがらないそうだ。なにもかも新規に作らないといけなく、すごいお金がかかるから。(笑)

                                 

光る君へを見たとき、まず自分が思ったことは、この時代のドラマは、あまり自分の記憶にないので、衣装からなにから新しく作ったものなのかな、お金かかってるな~、すごい予算かけているのかな~、とかそっちのほうを心配してしまう。(笑)

                             

ひょっとすると以前に平安時代をやっていて、それのおさがりなのかもしれないけど。。。

                           

そしてこの時代の大河ドラマは、ほとんど見たことがないので、登場人物や、その人間関係もまったく予備知識がなく、すごい新鮮だ。毎回勉強である。この複雑な人間関係を自分で把握できるようになるまで、しばらく時間がかかるだろう。

                           

でもそれも新鮮というものだ。

                       

そしてなによりも紫式部を扱うというのがいい。自分は源氏物語は歴史としてもあまりよく知らないし、いい勉強になる。

                            

とにかく画が綺麗だし、扱う時代考証が珍しく、自分にとってはなにもかも新鮮だ。

                        

番組冒頭で流れるタイトルバック、タイトルロールもすごく素敵だ。

いままでの大河ドラマにはなかった雰囲気だ。女性らしくとても優雅だ。

                                                   

1YM111N6KW-editor_f98fef69a18141c10334a616047ab504.jpg


                                       

平安時代、女性が主人公の物語らしい優雅さが美しく描写されていて、素敵だな~と思う。

音楽もだ。

                                            

大河ドラマのタイトルバック、タイトルロールというのは、昔は毛筆だった。歴史、日本史は毛筆がいちばん似合うものだった。でもいまの時代に毛筆はもうなんか重い感じがして、新しい時代にそぐわないんだろう。いまの時代は日本史とはいえ、ある程度の軽快さ、軽さが必要だ。ドラマ進行においても。

                                           

視聴率が過去ワーストであるとか、女性を主役にした大河ドラマはいままで視聴率に必ず苦戦するとか、1年間という長丁場を合戦なしで、乗り切れるのか、とかマスコミはネガティブな面ばかりを捉えるけど、自分は正直、もう初期高齢者になるまで人生を生きてきて、もう数えきれないくらいの戦国時代の大河ドラマを見てきた。

                         

正直なところ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のドラマはもういい(笑)というか、もういくら手を変え、品を変えて演出に工夫をしても、もうこの時代はすでに知り尽くしているし、もうすべてを出し尽くした感があるのではないか。若い子たちはこれからで違うかもだけど、我々の世代はもう飽きた、という感じである。もうあまりに見過ぎた。

                                      

大河ドラマの視聴者というのは、やはり高齢者が多いし、安定志向でお馴染みであることを大事する、つねに保守的な視聴者が多い。だから新しい試みには冷たい、というか、乗ってこない、そういう視聴者が多いんじゃないかな。現代ものも大河ドラマではダメだ。

                          

合戦好きな動的な起伏の激しい、そういう大河ドラマを好む男性視聴者にはストレスに感じて不満を言いだすかな?(笑)光る君へは、女性向け、というか女性ターゲットなのかもしれませんね。

                                      

そういう点で、まだたった3回しか観ていないけど、光る君へは画が綺麗だし、時代考証が自分には珍しくなにかすべてにおいて新鮮な感じがするので、自分はすごく評価しているし、楽しみにしている。

                          

1年間の長丁場だけど、脚本家の大石静さんや主演の吉高由里子さん他、みんな頑張ってほしいと思います。

                         

この大河ドラマについても、ポイントは新鮮で驚きがあるということである。

                               

つねに安定志向、マンネリに心の安定感を感じる、人間ってそういう生き物だけど、新たな驚き、新鮮であること、これはとても大切なことだと自分は考えている。

                     

                        

でも人間は、歳をとると、そういう新鮮さ、驚きを作り出すことが、精神的、体力的、脳的に衰えてきて、難しくなり、マンネリになっていくのだけど、どこまでそれに反抗して頑張っていけるかどうかだな。

                       

自分のこれからの人生をどうやって張りを持てる人生にしていくか。

歳をとるということは、そういうことと戦うことである。

                               

それ以前に、これからの人生の晩年、経済的にちゃんと生きていけるかどうか、こっちのほうが現実的で大変か。(笑)

                       

                        

                       

                                           

                                   





nice!(0)  コメント(0) 

I LOVE YOKOHAMA 横浜山手西洋館 [街歩き]

記録的な酷暑続きだった2023年度の真夏8月から取材、連載を始めてきた”I LOVE YOKOHAMA”シリーズ。
                                          
観光都市 横浜の魅力を十分に伝えていこう。30年間、横浜に住んできて、じつは灯台元暗しだった、横浜のことをよく知らなかった。横浜の観光エリアにあまり行ったことがなかった。。。そういう理由で始めた長期連載シリーズ。
                                    
ついにここに最終章!ラストスパートである。
                         
ラストに持ってきたのは、横浜山手西洋館である。
                              
山手エリアというと、もっとも横浜らしい、異国情緒あふれる西洋風の漂う素敵なエリアである。
                                         
これこそ、横浜~という感じで、一番横浜のイメージに合うところではないだろうか。
                                    
山手って高台にあって、元町・中華街駅から、もうひたすら坂を登っていくのだが、これがものすごい心臓破りの坂なのだ。はぁはぁぜぃぜぃと息を切らして、着いたときはしばらく休まないといけない。
                      
それだけ高台にある。
                           
横浜の山手というと、いわゆる東京の田園調布のような感じで、まさに富裕層の豪邸が立ち並ぶという、それの横浜版という感じだ。とにかく育ちのいい、上流階級の方々の住まれるエリアという雰囲気、イメージがある。
                         
”山手のお嬢様”というよく聞く言葉がある。
                                 
この横浜山手で育った深窓のお嬢様は、もう我々とは住む世界が違っている。スピードの速い忙しい世界で、毎日闘いながら生きている我々一般人に対して、どこ吹く風というか、まったくそういう世界とは無縁のゆったりした、無用の心配がいらない、マイペースでご自身の生活を営まれている。そういう深窓育ちのようなイメージを持ってしまう。
                         
これはひがみであろうか。(笑)
                             
実際、自分はこの山手エリアに行って散策してみたのだが、あきらかに空気や雰囲気が違う。ただならぬ上品さ、高貴さがもう気配、空気として漂っているのである。
                        
その土地、空間がそういう気配がある。それを敏感に自分の肌で感じるのだ。
                             
高台にある山手は、自然の緑が多く、ゆとりのある空間、邸宅が、そういう自然の緑と調和して一体化した形で、独特の空気感、気配感が漂っている。
                     
素敵な所だな~と思う。
                         
元町・中華街の駅に貼ってあったポスター。
                             
DSC00427.JPG
                        
                     
まさに深窓育ちの”山手のお嬢様”というイメージそのものである。山手というエリアは、こういう雰囲気がよく似合う、こういう気配が漂っている場所なのだ。
                       
山手には、あのフェリス女学院もある。まさにそういう世界である。納得のいくところである。
                        
もともと山手というエリアは、横浜開港時には、外国人居留地であった。
開港したときは、関内に外国人居留地があったのだが、ここは埋め立て地であり、地質がジメジメで、海からも近く水害の恐れがあり、欧米人は正直この関内エリアが好きではなかった。
                      
そうして、もっとより良いところに住みたいということで、どんどん山手の高台のほうに移り住んでいったのである。そうして山手に外国人居留地ができた。
                             
山手居留地である。
                        
山手というエリアは、外国人居留地だった場所なのである。
             
なので、いまだに山手には西洋風、異国情緒あふれる雰囲気があるのは、それが原因である。
                   
                      
外国人居留地時代の名残を残す西洋館が複数立ち並んでいる山手エリア。外交官の邸宅としてつくられた「外交官の家」や、貿易商の私宅「エリスマン邸」など、現在も当時の姿そのままで保存されている。
                     
四季折々の花が咲く庭園や、高台からの横浜を見下ろす景色も見事である。 ほとんどの西洋館は内部も見学可能で、豪華なダイニングルームや客間など、当時の生活を垣間見れる。また「山手111番館」や「エリスマン邸」にはカフェも併設されており、ノスタルジックな雰囲気の中で軽食やデザートも楽しめる。
                    
                      
外国人居留地の面影が残り、異国情緒あふれる街並みの横浜山手には、7つの西洋館が佇み、西洋文化発祥の地として、多くの観光客が訪れている。
                       
I LOVE YOKOHAMAシリーズ最終章ということで、この7つの横浜山手西洋館を訪れ紹介することで、その幕を閉じようと思います。
                          
同じ開港場だった神戸や長崎の場合、異人館、西洋館の見学は有料なのだが、ここ横浜では無料というのがうれしい。ぜひ横浜山手西洋館は訪れてほしいと思います。
                         
もっとも横浜らしい素敵な観光スポットだと思います。
                     
この7つの西洋館に当時住んでいた外国人の生活が垣間見れます。豪華なダイニングルーム、食卓、寝室、バスルーム、あるいはパーティや舞踏会などを開く会場などもその邸宅の中にあったりとか、なかなか普段はお目にかかれない貴重な空間でございました。
                   
横浜山手西洋館のマップである。
                          
横浜山手西洋館マップ.jpg
                    
                        
7つの横浜山手西洋館は、高台の山手エリアに、集中的に固まって存在しているのだ。お互い距離が近い。だから1日あれば、7つの西洋館全部回れると思います。
                     
では、その7つの横浜山手西洋館を紹介していこう。
                     
                        
●外交官の家[重要文化財]
                                
3372-1.jpg
                   
                  
1910年にJ.M.ガーディナーの設計により、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として建てられました。
                     
                     
                       
●ブラフ18番館[横浜市認定歴史的建造物]
                            
3884-1.jpg
                       
                         
大正末期に山手町45番地に建てられたオーストラリアの貿易商バウデン氏の住宅で、そのあとカトリック山手教会の司祭館として使用されていました。
                  
                        
●ベーリック・ホール[横浜市認定歴史的建造物]
                           
8970-1.jpg
                    
                  
1930年にJ.H.モーガンの設計により、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として建築されました。
                    
                     
●エリスマン邸[横浜市認定歴史的建造物]
                             
8619-1.jpg
                        
                         
アントニン・レーモンドの設計により、1926年に生糸貿易商エリスマン氏の私邸として建築されました。
                      
                     
●山手234番館[横浜市認定歴史的建造物]
                            
9017-1.jpg
                         
                      
1927年頃に朝香吉蔵の設計により、外国人向けの共同住宅として建築されました。
                       
                          
●山手十番館
                                   
000260-1.jpg
                            
                         
ここは西洋館ではなく、昭和42年(1967年)明治100年を記念して建てられたカフェ・レストラン。心地良い風が通り抜ける庭園が広がり、異国情緒を感じる歴史ある建物。1階は気軽にご利用頂けるカフェ。2階は、ディナーなどのレストラン。レストランを体験したかったけど年末、クリスマスということで、もう予約不可能なくらい劇混み。カフェだけ体験してきました。
                      
                       
●えの木てい
                         
9457-1.jpg
                        
                          
ここも西洋館ではなく、旧外国人居留地に今も当時の香りを漂わせて佇む、純英国式の洋館。洋菓子やティールームを提供するお店である。ここがまた素敵なんだ!もう若い女性や外国人の大行列で大変な人気でした。
                     
                     
これ以外にも横浜市イギリス館や山手111番館があるが、この2つの館はすでに日記で紹介済みなので、ここでは省略する。
                        
ちなみに、西洋館の中の様子。ちょっとお見せしますね。外交官の家の邸宅の中をちょっとご紹介。
                            
DSC03510.JPG
  
                                                               
DSC03518.JPG
     
                                                          
3556-1.jpg
  
                                                                    
3918-1.jpg
 
                                                          
                  
もう圧倒されますよね。(笑)
この7つの西洋館は、みんなこんな感じの邸宅内観でございました。
                    
これから日記で、このひとつひとつの西洋館ごとに日記で特集していこうと思います。
                
お楽しみに!

                    

                  

                    

                 

                               

                                 

                                




nice!(0)  コメント(0) 

I LOVE YOKOHAMA いや、関内は観光エリアです! [街歩き]

いま現在の関内の街の魅力は、やはり横浜DeNAベイスターズの本拠地、横浜スタジアムがあることだと思う。

ベイスターズファンにとっては、関内といったら、横浜スタジアムがある街、ベイスターズファンの聖地なのだと思う。いまの関内は、横浜DeNAベイスターズ、そして横浜スタジアム、これが1番の売りだし、それで持っているというか、そこが最大の魅力なのだ。


関内駅を降りると、もうベイスターズ一色!


7187-1.jpg



自分は、横浜を愛していく上で、そうなるとプロ野球チームを応援する上でも、やはり横浜DeNAベイスターズを応援していかないといかんな~という気持ちにもなる。


自分は幼少期を北海道で育ったので、ご多分に漏れずジャイアンツファンであった。V9時代のON、王さん、長嶋さんの時代からずっと巨人ファンである。札幌円山球場の時代からである。(笑)当時は、北海道は、9割方巨人ファンだったのだ。それが日本ハムが北海道にフランチャイズを持つようになって、もうものの見事に衣替わりして、北海道は日本ハムファイターズファンが圧倒的になった。


もういま帰省して実家のテレビを見ると、もうびっくりである。

日本ハムファイターズのCMや番組がいかに多いか!

地方ローカル局テレビの特徴がよく出ていて面白いと思う。


自分はプロ野球界の地方への参入、地方にフランチャイズを置くという地域密着型スタイルが、1番成功しているビジネスなのではないか、と思っている。福岡ソフトバンクとか、仙台楽天イーグルスとか。地方フランチャイズがほんとうにうまく行っている。


首都圏東京、そして関西大阪主導型だったプロ野球界。それが東京、大阪以外の地方でプロ野球団を持つ。そういう成功例があたりまえのようになってきたプロ野球界。


そういうことで、自分はいま日本ハムも応援している。


I LOVE YOKOHAMAとしては、横浜DeNAベイスターズも応援していかないといけない。


自分はなにせ、V9時代の巨人の時代からずっとプロ野球を見てきているので、横浜DeNAベイスターズの前身は詳しいですよ。当時は、大洋ホエールズ(1955-1977)、そしてその後、横浜大洋ホエールズ(1978-1992)となっていった。そして、横浜ベイスターズ(1993-2011)、そして横浜DeNベイスターズ(2012-)である。


記憶にあるところでは、大洋ホエールズは、親会社が大洋漁業。最初山口県下関市が本拠地だった。ホエールズの”ホエール”というのはクジラ、鯨のこと。捕鯨は親会社 大洋漁業の柱の事業だった。ユニフォームに”は”と書いてそれを丸で囲む感じのプリントがあったことをよく覚えている。


途中松竹も絡むが、もとの大洋ホエールズに戻って、東京に移って来て、川崎球場をフランチャイズにする。1978年から、本拠地を川崎球場からいまの横浜スタジオに移したのだ。


自分にとって、横浜ベイスターズ時代よりも、この大洋ホエールズの時代のほうが経験が長かった。


グリーンとオレンジのユニフォーム。あのときは、剃刀シュートの平松投手が大全盛のときでした。

長嶋茂雄さんは平松投手が大の苦手でした。右バッターにとって、胸元にえぐるように入ってくるシュートは打ちにくいに決まっている。


外国人選手ではシピンという選手がいたのも記憶にある。


横浜大洋ホエールズの時代もよく覚えている。あの頃は、巨人は江川、西本、原とかの時代だったから、巨人には相性が悪かった記憶がある。


そしてなんといっても最高に輝く球史に残る最大の名誉は、横浜ベイスターズ時代の1998年の日本一であろう。あのときは、まさに日本中が大フィーバーであった。


大魔神佐々木主浩、谷繁、ハマの番長三浦投手、もうよ~く覚えてますよ。大洋ホエールズ時代から数えて、セリーグを制覇したのは、1960年と、この1998年。38年ぶりの悲願達成であった。そして初の日本一。


ほんとうに大フィーバーだった。


1998年という年は、日本では、”横浜”がひとつのキーになる年だったのだ。

高校野球では、松坂大輔投手擁する横浜高校が、春夏連覇に偉業。そしてプロ野球では、横浜ベイスターズが日本一。


まさに1998年は横浜イヤーだった。


自分はヨーロッパから帰国して、3年目の日本でだいぶ慣れてきた時期だったので、よ~く覚えている。


関内駅のすぐ近くに横浜スタジアム、通称「ハマスタ」がそびえ立っている。横浜市中区の横浜公園の内にある野球場である。


7195-1.jpg


7208-1.jpg


7212-1.jpg


7223-1.jpg


7231-1.jpg



横浜スタジアムのある横浜公園は、じつは日本野球発祥の地なのである。

まさに野球界にとって大変名誉ある球場なのだ。


1896年に日本初の国際試合と紹介されている東京の旧制一高と横浜の外国人チームYCACの試合が行われた歴史を有している。


横浜公園野球場、ゲーリック球場、平和球場と名称を変え、多くの横浜市民や全国の野球ファンの皆様に愛され、そして、支えられ、変貌を遂げてきた。


関内は、横浜スタジアムのある街。そして日本野球の発祥の地。

そう考えると、関内は、野球ファンにとっては神様のような神聖な場所なのであろう。


横浜スタジアムは、昇降式ピッチャーズマウンドの操作により、野球ばかりでなく、アメリカンフットボールその他のスポーツ、コンサートなど多様なイベントに利用できる。また、トレードマークのY字形の照明塔はオリジナリティーに溢れ横浜のシンボルのひとつになっている。プロ野球チーム「横浜DeNAベイスターズ」の本拠地。通称「ハマスタ」。


横浜スタジアムといえば、このY字型の照明塔ですよね~。この形のライトを見ると、あ~横浜スタジアム。。。とすぐにピンと来てしまう。


自分は残念ながら、横浜スタジアムで野球を観戦したことがない。ぜひ近いうち実行してみたいと思っている。


横浜スタジアムがある横浜公園は、関内の中でもひと際、緑と自然の美しい別世界の場所である。なんかここだけ世界が別次元。ぜんぜん違う世界だと思うのである。癒されます。


7253-1.jpg


7261-1.jpg


7267-1.jpg


7276-1.jpg


7282-1.jpg


7288-1.jpg


7295-1.jpg


7302-1.jpg


7310-1.jpg


7316-1.jpg


7331-1.jpg


7326-1.jpg


7336-1.jpg


7352-1.jpg


7360-1.jpg


7374-1.jpg


7382-1.jpg



この横浜公園は、横浜の中では山手公園についで2番目に古い公園で、現在の市庁舎隣にあり、横浜という都市の発展と共に歩んできた公園といえる。


在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、遊郭の跡地に整備が行われ、明治9年に開園、一般の人々にも開放されたため当時は「彼我(ひが)公園」といわれてきた。


明治42年には、公園全域が横浜市の管轄となり、大震災と戦後の接収時代を経て、昭和27年の解除後は当時の平沼市長が命名した公園内の平和球場で高校、大学、ノンプロの野球試合が数多く行われた。


昭和53年に横浜スタジアムが建設されたのを機に、園内の老朽化した諸施設を改築、日本庭園風の池と流れ、噴水や多目的広場などが整備された。


さらに昭和62年、水道の貯水設備と共に、水の出る4つの彫刻がある水の広場が整備され、現在の形になっている。


1年を通じ人気のある横浜公園であるが、見物は何といっても春のチューリップでしょう。公園を彩る色とりどりの花は16万球にのぼり、様々なタイプの品種を見ることができ、開花の時期には多くの人々で賑わう。


公園内には横浜の公園でもめずらしい水琴窟が日本庭園部分にある「蹲踞(つくばい)」の下にあります。地中に瓶を埋め、落下する水滴の音を反響させて楽しむ、庭園の技法でも高度なもので、その澄んだ音色は都会の喧噪を忘れさせてくれます。


横浜公園は平成21年2月に近代化産業遺産の認定を受けました。



横浜公園は、なんといっても春のチューリップである。


E38381E383A5E383BCE383AAE38383E38397E7B484EFBC91EFBC90E4B887E69CAC.jpg


FEATUREIMG123_1.jpg


FEATUREIMGITEM1697_1.jpg


yokohama-park-tulip-2022-report-05.jpg


yokohama-park-tulip-2023-report-04.jpg



自分はいままで見たことがありませんでしたが、いまこうやってネットの写真で見る限り、もう驚くばかりである。


これはまさにオランダのキュッケンホフではないか!


まさに横浜公園の春のチューリップは、日本のキュッケンホフと言っていい。

驚きました。こんなに素敵だとは!


今年の春、ぜひこのチューリップを見に、関内、横浜公園を訪れたいと思います。


誰だ?関内はつまんない、観光として見どころがない街、と言った奴は?(笑)


関内は、横浜スタジアムのある街、そして横浜公園のある街、そして横浜公園は、日本野球の発祥の地、そして横浜公園の春のチューリップ。


まさにこれだけでも、関内は完璧な観光エリアである!



自分は、I LOVE YOKOHAMAプロジェクトで関内を散策しようと思ったとき、やはり他の観光スポットと違って、特別な想いがあった。それは関内が、横浜のルーツであるという史実。これをどうしても意識しない訳にはいかない。


横浜は、関内から始まった!


これを意識しつつ、当時の関内の街の様子、外国人居留地や日本人居住地が、いま現在どのようになっているのか、どのように様変わりしているのか、そこを自分の視覚、感覚で捉えたい。感想を述べてみたいと思っていたのである。


先の日記で述べた通り、関内というのは行政上で定義されている街ではないのだ。関内という街は存在しない。横浜開港のときに、関内、関外と呼んでいた名残で、関内だけは、いまもその名残としてそういう呼び方が残っているだけ。JRや横浜市営地下鉄ブルーラインでも、関内駅というのは存在する。でも街ではない。


つまりエリアのことを漠然と関内と呼んでいるだけなのだ。


BB-E9-96-A2-E5-86-85-E5-A4-96-E5-9B-B3.jpg


そしていま現在の関内エリアと呼ばれるところは、旧日本人居住地のあった場所であるという衝撃の事実。旧外国人居留地だった場所は、横浜中華街のほうにあったのだ。


上の地図を見てもらえばわかるように、目印は、横浜公園、横浜スタジアムである。

地図上で、野球場のドームのような形があるので、わかりやすいだろう。


この横浜公園、横浜スタジアムを境に、西側にあるのが、日本人居住地、そして東側、つまり横浜中華街のほうにあるのが、外国人居留地だったエリアである。外国人居留地は山下居留地とも言われる。


江戸末期、明治時代の関内と呼ばれるエリアは、この2つのエリアで半分っこしあっていたのだ。


当時の関内に想いを馳せながら、いまの関内を歩く。。。これをやってみたかった自分。でも実際、いまの関内エリアと呼ばれるエリアを歩いてみると、なんか建物もビルとか、和風な庶民的なお店だとか、ふつうにどこでも見受けられる街並みとなんら変わらなく、観光スポットとはとても言えないという印象を持った。


これのどこが魅力的に思えるのだろう?

つまんない街だな・・・


なんかこんな風に感じてしまった。


自分が歩いていた関内エリアは、日本人居住地があった場所である。街の特徴として、碁盤の目状に四角に区分けされている街並みで、なんか札幌や名古屋みたいである。そしてほとんどがビルで、そこに和風な食べ物屋さんが点在している感じである。


関内に行くのに、自分が使うのは、横浜市営地下鉄ブルーラインの関内駅。


7154-1.jpg


関内は、馬車道、赤レンガ倉庫、横浜中華街、伊勢佐木町、山下公園・・・ともう歩いて行ける距離にある。横浜は関内からスタートしたので、そこから周辺にどんどん広がっていまの横浜が形成されるようになったので、ある意味当然と言えば当然だ。


7011-1.jpg



この関内駅前のエリアは、ちょっとした飲食店、コンビニがたくさん集まっていて、関内エリアの食事処、大事な食べ物供給スポットになっていると思われる。お店はいたって普通のどこにでもありそうなお店たちである。


7145-1.jpg


そして、いまの関内エリア、昔の旧日本人居住地エリアは、碁盤目状の四角く区分けされた街で、その大半がビルである。そこに食べ物屋さんが点在している。。そんな街の景観である。


7007-1.jpg


7024-1.jpg


7037-1.jpg


7040-1.jpg


7045-1.jpg


7679-1.jpg


7097-1.jpg


7103-1.jpg


7110-1.jpg


7138-1.jpg


7160-1.jpg


7173-1.jpg


7600-1.jpg



ね?つまんない風景でしょ?(笑)


う~ん?これはどうやって日記で盛り上げていけばいいのか、アピールポイントを探すのが難しい街の景観なのだ。いたって、普通なのである。普通過ぎる。(笑)


関内は難しいな~と思いました。



このところどころに点在する食べ物屋さんに注目していくことにしよう。



もつ焼きのんき


7576-1.jpg



そばの利久庵


7587-1.jpg




居酒屋ます家


7609-1.jpg


7627-1.jpg




行列ができていました。南インド料理屋さん


7611-1.jpg



ベトナム料理フォー専門店


7643-1.jpg


中華の唐家村


7630-1.jpg




札幌ラーメン 味の時計台

北海道の実家の近くにありました。病気療養で実家に居たとき、よくオヤジと食べに行きました。


7050-1.jpg




横浜瀬里奈

馬車道にあるお店は大変有名ですが。ここ関内にもあるんですね。


7702-1.jpg


7715-1.jpg



高級生食パン店 乃が美


7550-1.jpg



阪神タイガースショップ横浜店

なんと!関内にあるんですね。


7658-1.jpg


7663-1.jpg



開運 招き猫を見つけました。


7116-1.jpg


カフェ ベローチェ


7030-1.jpg




天ぷら屋 天吉

なんと!!!サザンオールスターズの原由子さんの実家だそうです。(笑)いま調べて気づきました。入っておけばよかった~~~。日本古風な雰囲気の素敵なお店構えで、名店の雰囲気がありました。


7166-1.jpg



関内エリアでは、この日はちょっとしたフェスみたいな催しをやっていました。お天気よかったです。


7634-1.jpg



関内ホール

芸術文化の香りのする横浜・関内に位置し、大ホール・小ホールを備えた多目的公共施設です。1度入ってみたいです。


7058-1.jpg


7066-1.jpg


7075-1.jpg


旧横浜地方裁判所

こういう歴史的建造物も関内には多いです。


7542-1.jpg


7532-1.jpg


7526-1.jpg



つぎに横浜スタジアム周辺を散策してみよう。


ここの通りはなかなかいいお店がいっぱいあります。


7416-1.jpg


7401-1.jpg



スターバックス

大きな綺麗なお店でした。


7408-1.jpg



カフェ ベローチェ

ここにもあります。


7436-1.jpg




コーヒーの大学院

ここは一度入ってみたいんですよね。本格的な珈琲が飲めそうです。


7440-1.jpg




いっちゃが関内店

ここは以前日記で紹介した宮崎料理を食べさせてくれる居酒屋さんです。美味しいです。


7423-1.jpg



この日本大通りの通り沿い。


7395-1.jpg



関内の公益財団法人 神奈川予防医学協会 中央診療所があります。


3116-1.jpg


3136-1.jpg


3108-1.jpg


3128-1.jpg


3123-1.jpg



ここはうちの会社が集団健康診断としてここに依頼しているんですよね。そして通常は、ここから派遣という形で会社に出張して、会社で集団健康診断をする訳です。


でも自分は、コロナ、そして脳梗塞で在宅勤務中心の働き方に変わりましたので、集団検診をするためだけに会社に行くよりも、もうこの関内の中央診療所に直接出向いて、ここで健康診断を受けています。


中は撮影禁止ですが、たくさんの部屋があり、それぞれの部屋がそれぞれの検査の部屋になっています。まさに健康診断を専門にするフロアです。


レントゲン、血液検査、視力、聴力、体重、バリューム胃の検査、問診、もうすべてこのフロアでやれる専門のフロアです。雰囲気は病院そのものです。病院で健康診断やっているみたいです。


より綿密な検査の人間ドッグもここでやります。


そして、1,2か月後に検査結果が郵送で送られてくるんですね。


自分はいま現在は、関内のこの中央診療所で直接健康診断を受けています。

自分が、関内と縁がある理由のひとつです。



横浜スタジアムを通り過ぎて、この中央診療所のある大通りを歩いていくと、横浜中華街の門が見えます。


7474-1.jpg


7502-1.jpg



ここからが横浜中華街のエリアになります。


昔の外国人居留地というのは、ここから先のエリアだった、ということなんですね。このときはまったくその真実に気づいていませんでした。


7488-1.jpg



これは後日また改めて、関内に出向きたいと思います。そして今度は、外国人居留地、山下居留地だったエリアを散策する、という題目でいろいろ見て回りたいと思います。


日本人居住地だったエリアのように、ふつうの特徴のない街並みなのかもしれません。。(笑)



自分にとって関内というと、やっぱりラーメン二郎 関内店です。

ラーメン二郎は総帥・山田拓美さんの三田本店の神殿はもちろん、首都圏、そして日本全国にラーメン二郎はたくさん暖簾分けがあります。でも、二郎ってほんとうにそのお店によってずいぶん味のテイストが違うんですよね。二郎ラーメンは間違いなく二郎ラーメンなのだけれど、ちょっとずつ違う。


そして自分の好みの二郎のお店を探すのは、これはこれですごく大変なことなのです。


昔、三田本店以外に自分のお気に入りのラーメン二郎のお店が高田馬場にありました。

自分の二郎の好みはしょっぱいスープです。


高田馬場はすごくスープがしょっぱくて自分の大の好みだった。

でもいつしか閉店してしまったんですよね。


それ以来、自分の好みの二郎の店舗を探すべくずいぶん行脚しました。

ラーメンの友人に聞いたりもしました。


噂の目黒店にも行ったけど、違うんだな~。

そして美味しいよ、という触れ込みで、このラーメン二郎 関内店を紹介されたのです。


それで、この関内店行きました。


でも結果から言うと、やはりちょっと違うな~という感じ。確かに二郎ラーメンなんだけど、スープの味がちょっと薄いというか好みではなかった。


結局ようやくいまの会社の通勤路で、家からも近い中山駅前店を発見することができた。中山駅前店の二郎ラーメンはスープがしょっぱくて、自分の好みだった。高田馬場店にすごく近い味だった。ようやく安堵の場所を見つけた、という感じです。


ラーメン二郎 関内店にはそんな想い出があるので、久しぶりに行ってみようと思いました。


ラーメン二郎 関内店は、関内エリアにあるというよりは、伊勢佐木町の方面にあって、イセザキモールの1本隣の通りにある。


7722-1.jpg



この通りもいたって普通の道路、景観である。


7724-1.jpg



くぅぅぅぅ~~~。ジロリアン、恐るべしです・・・(滝汗)

関内店、やっぱり人気があるんだな~。


7761-1.jpg



超久しぶりのラーメン二郎 関内店。


7764-1.jpg


7766-1.jpg


7768-1.jpg


7770-1.jpg



確かに間違いのない暖簾分けの二郎ラーメンの味なんだけど、やっぱりちょっと違うな~。やはり以前食べたときの印象変わらず、スープの味がちょっと薄いです。


でも美味しかった。

ひさしぶりの関内店、楽しみました。



横浜のルーツ、関内。


当日、散策したエリアは、旧日本人居住地だったエリアだということが分かり、第一印象は平凡な街並みだな、とは思いましたが、でも関内の最大の魅力は、やはり横浜DeNAベイスターズの本拠地、横浜スタジアムであって、そして横浜公園であって、横浜公園は日本野球の発祥の地であって、そして横浜公園の春のチューリップ。これだけでも関内はじゅうぶんに観光エリアである、と言えると自分の考えを修正することにします。


それにさらに重鎮のごとく、関内は横浜のルーツである、という重い史実が加わるのですから。。。











nice!(0)  コメント(0) 

I LOVE YOKOHAMA 関内 [街歩き]

今回のI LOVE YOKOHAMAの連載を始めて一番自分が勉強になったと思うのは、横浜のルーツが関内である、ということだ。それまで、自分にとって関内というところは、いまひとつ地味というか、掴みどころがなくて、どこが横浜としての観光都市なんだろう、どこに街としての見どころがあるのだろう、という疑問があって、なにか特徴がない、それほど魅力を感じる街でもなかった。


まずなんといっても関内の街を歩いていて、街の景観を眺めるのだけど、ぜんぜん地味というか、さっぱりつまらないのだ。(笑)魅せどころがまったくない。観光スポットとしての要素が全くない。


横浜のルーツが関内だということは、今回初めて知ったのだが、関内がそんなに歴史上重要なところだとはつゆも知らず、でも実際歩いてみたら、地味であることのなにものでもない、という・・・


なんか来るものがないな・・・という感じである。


ところが、自分の人生で、横浜関内というところは結構昔から縁があって、よく訪れていた街だったのだ。2004年にみなとみらい線が開通するまでは、横浜中華街に行くには、関内、石川町から行かないといけなかった。いまは元町・中華街駅からそのまま地下通路で直結だが、当時は結構アクセスがよくなかったのだ。


そして、いまの会社の集団健康検診をやっている中央診療所が関内にあって、コロナ、脳梗塞で在宅勤務中心の生活になってから集団健康検診のためだけに会社に行くよりは、もうこの関内の中央診療所で受けるほうが手っ取り早いしいい。だから毎年この関内の中央診療所に通っている。


そして関内と言えばラーメン二郎 関内店だ。


それ以外にも、いろいろ関内に行くことが多い。関内は、地味というか、どこが街として見どころがあるのか、さっぱりわからないのだけど、自分の人生にとって関内は縁が深いのだ。


街としての魅力をさっぱり感じないので、試しにネットで関内観光スポットで検索してみるのだが、関内観光ベスト10とかの記事を見ると、いわゆる関内周辺の馬車道、赤レンガ倉庫とか横浜中華街、伊勢佐木町、元町、ここら辺をもうひっくるめて関内と言っていて、ここを観光スポットとして挙げている。


それはずるいよな~と思う。(笑)


ウィキペディアでも、関内は、横浜中区にあり、横浜の中心市街地と書いてある。


国土交通省の都市景観100選に選定されている、とある。


ほんとうに~~~。(笑)


でもここで注意事項だ。


「関内」という行政上の地名は存在しない。つまり関内という街は存在しないのだ。


昔からの名残で、このエリアを関内と呼んでいる。その呼び方が残っているというだけのことなのだ。


これは馬車道にも言える。馬車道という行政上の地名も存在しないのだ。馬車道という街はないのだ。馬車道というのは、あくまでストリート、通り、商店街のことをいう。


みなとみらい線で馬車道という駅があるので、馬車道という街なのか、と思うのだが、馬車道という街は存在しないのだ。


つまり関内は、横浜のルーツ、横浜はここから始まったというルーツであり、そこから周辺に横浜は広がっていった。つまり関内をスタートポイントにして、周辺の馬車道、赤レンガ倉庫、横浜中華街、伊勢佐木町、元町、そしてあの山手のお嬢様の山手地区まで広がっていって、いまの横浜の中心を築いた。それが横浜市中区である。


そういうことで関内観光ベスト10とかいうと、この周辺ひっくるめて紹介されて、関内は横浜の中心市街地というステータスシンボルみたいな扱いなのだと想像している。


ちなみに、この関内を中心にそれぞれの街、エリアがどういう位置関係にあるかの地図をご覧に入れよう。


横浜5スポット.jpg


横浜5スポット-2.jpg



地図左から、馬車道エリア、関内エリア、横浜中華街、元町・山手エリアである。そして山下公園、大さん橋、みなとみらいとも近い。まさに横浜市18区の中で、もっとも華形である中区がこのエリアなのである。


横浜の観光スポットは、このエリア、この中区といっても過言ではない。


このエリアの中で一番地味だと思うのが、関内エリアである。(笑)

関内がいちばん見どころがない平凡な街並みだと思う。


そしてこのエリア間は、もうこの距離感として歩いていこうと思えば歩いて行けるほど、近接している。


とくに自分は、馬車道、関内、そして横浜中華街は完璧に歩いて行ける近接した距離感のエリアだと思っている。


では、関内がなぜ横浜のルーツなのか。


それを説明して行こう。



ペリーの来航で、長い間の鎖国が終わり、江戸幕府は、開国することになった。


江戸幕府は、幕末の1858(安政5)年、アメリカとの「日米修好通商条約」をはじめ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約(通称「安政五カ国条約」)を結んだ。この中で、函館、神戸、神奈川、長崎、新潟の五港の開港が取り決められた。


しかし「神奈川宿」にある「神奈川」は通行の多い「東海道」沿いなので、とにかく幕府は外国人と日本人の接触を異様に恐れた。そこで、幕府は横浜は神奈川の一部であると詭弁し、街道から外れた横浜を「開港場」としたのだ。


当時の横浜は、まさに横浜村というくらいほんとうに小さな寒村で、ここであれば東海道や神奈川宿からも離れているし、いいだろうと幕府は考えたのだ。


でも、このほんとうに小さな寒村に過ぎなかった横浜村がそこに一気に外国文化が流れ込み、ここが玄関口になり、西洋化が進み異国情緒溢れる街並みが形成されて、そしていまの観光都市、横浜になっていくとは、当時は夢にも思ってもいなかった訳だ。


外国人のために港と市街を開く場所を開港場(かいこうじょう)といい、その市街のことを居留地と言う。開港場は函館・横浜・新潟・神戸・長崎に設けられた。市街だけ開く場所を開市場(かいしじょう)と言い、東京と大阪に設けられた。


幕末にアメリカなどと結ばれた通商条約によって、条約締結国民に居住と営業が許されるエリアのことを「外国人居留地」、略して「居留地」という。居留地では外国人に借地権と建物の所有権が認められたが、土地所有権は与えられなかった。


居留地は外国人のために設けられたものであるが、日本人も許可を得て居住・営業することができたそうである。


この外国人が住んで営業をしたりするエリア、「外国人居留地」としてこのエリアを幕府は用意した。


img_rekishi_03-1024x776.jpg


このピンクで覆ったエリア。ここは埋め立てて作られたエリアである。そしてとにかく外国人居留地を日本人と隔離したかったので、派大岡川という川を強制的に作ってこのピンクエリアをその川で隔離したのだ。


このピンクのエリアが関内と呼ばれるエリアである。




江戸幕府はアメリカに開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、寒村であった「横浜村」を神奈川の一部と主張し、この地を開港した。それは幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためである。


神奈川宿から横浜村へ道が作られ、間にある大岡川の分流「派大岡川」に「吉田橋」を架け、横浜港が開港した安政6年にその橋に関門という関所のようなものを置いた。その関門の内側、横浜側を「関内」と呼んだ。


現在の地域名はこのことに由来するのである。関内エリアは、西側が日本人居住地、東側が外国人居留地であった。


Ez0S0xMVUAI0JK0.jpg


1860年に横浜村周辺は、今までの川に加えて掘割りを掘り、橋を架け、橋を通らなければ横浜(関内)には行けないようにし、全ての橋に関門を設けた。当時、武士と外国人との接触を避けるため、武士は関内には入れなかった。吉田橋から外国人居留地に至る道が、今の「馬車道」である。


「関門」という名の関所を設けて、武士や町人などの日本人がこの外国人居留地へ出入りすることを取り締まり治安を守ったのである。この川を境に、外国人居留地のあるエリアを「関内」、その外側を「関外」と呼んだのである。


BB-E9-96-A2-E5-86-85-E5-A4-96-E5-9B-B3.jpg


600R_02.JPG




そう、関内・関外の「関」とは「関所」の「関」なのである。


関門が設けられたのは伊勢佐木町と馬車道の間にある橋。

当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから仮橋である木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から渡されたことにより「吉田橋」と呼ばれた。



吉田橋、関門の跡碑


29dd796b4d36e78cc30299fb790895eaa4f02287.28.2.9.2.jpeg



関内エリアは派大岡川で囲まれ隔離されているのだが、最初は吉田橋だけであったが、その後安政6(1859)年~明治4(1871)年まで、吉田橋、西の橋、前田橋、谷戸橋という4つの橋がかけられ、その橋のたもとに関門が設置されたのである。


148236121434063598180.jpg


まさに日本人を外国人と接触させるな、という隔離状態である。(笑)



この内側を関内、その外側を関外と当時は呼んでいたのである。

関内というのは、いまもその名残でその呼び方が残っているが(いまの関内エリアがそうである。関内駅もある)、関外のほうは、もういまはそういう呼び方は残っていない。いまの伊勢佐木町は関外であったが、ガイドブックの中では関内の一部である、という記述もあるようだ。



ちなみにこの昔の地図を見てほしい。川(派大岡川)で囲まれている茶色の線の内側が関内である。その外側が関外。そして関内のエリアでも、西側が日本人居住地、そして東側が外国人居留地である。


日本人の場合は、”居住地”であるが、外国人の場合は、”居留地”である。(笑)


E382AFE383AAE38383E382AFE381A7E59CB0E59BB3E68BA1E5A4A7.jpg



外国人居留地のほうを、とくに山下居留地という。


横浜の開港場の中心部は川と海で囲われており、1871(明治4)年まで、出入のための橋のたもとに関所があって、不審人物を取り締まったので、「関内」(関所の内側)という呼び名が生まれた。


関内の東側半分が山下居留地に当たる。昔は山下居留地のことを関内居留地と呼んでいたが、関内=居留地という誤解が生まれる。関内は西側が日本人居住地で、東側が外国人居留地だからだ。半分っこしあっているのだ。だから関内=居留地、関内が全部外国人居留地ではない。



現在は外国人居留地のエリアを山下居留地と言うそうだ。ところが今度は、関内居留地の一部が山下居留地だという誤解が生まれつつある。そうではなくて、昔関内居留地と呼んでいたものを、現在は山下居留地と呼んでいるのである。


実は、関内の外国人居留地は欧米人には気に入られなかったようである。 何故なら田んぼを埋め立てたため、土地がジメジメとしていて、海からも近いので、水害の危険もあるからである。 そこで中国人が生活をする場所として提供されることになり、横浜中華街が形成されるきっかけとなった。


田んぼを埋め立てたためジメジメとしていて、海からも近いので水害の危険もある新田跡地は、欧米人にはあまり気に入られなかったのだ。 そのため、中国出身者が生活をするためのまとまったスペースが提供されることになり、中華街が形成されるきっかけになったということである。


つまりいまの横浜中華街は、この当時の外国人居留地の中にあったということである。

いまの横浜中華街のあったところが外国人居留地、すなわち山下居留地だったエリアということである。


この関内エリアの地質ジメジメの悪さを嫌って、住宅地としてもっとよりよいエリアへ、外国人は進出していくことになる。住宅地としてより条件の良い堀川の南側の高台が注目された。それがいまの”山手”である。


そう!あの山手のお嬢様の山手エリアである。横浜山手西洋館があるあの山手エリアである。

外国人居留地として、関内から山手のほうにどんどん外国人は移動して触手を伸ばしていく。


これが山手居留地と呼ばれるエリアである。


「山手」という呼称は、先に設置された関内の居留地に対して南の高台上に設けられたことによる。後に、この「山手」に対して関内の居留地は「山下」と呼ばれるようになった。


yokohamap.jpg


1861年(文久元年)、幕府は高台の一部の約6,000坪を各国領事館用地としてイギリス等に貸与し、さらにイギリスは高台の東端に当たる堀川河口南側の区域(現:フランス山)を海軍用地として借入した。1863年(文久3年)、幕府はこのイギリス借入地へのイギリス軍・フランス軍の駐留を承認し、両国軍の駐留は1875年(明治8年)まで継続した。


いまの港の見える丘公園のイギリス館、フランス山である。

あのあたり一帯が山手エリアである。


横浜山手西洋館もこの近くに存在する。


横浜村という寒村に過ぎなかった村に、急遽、外国人居留地を作って関内エリアを拵えた。外国人居留地を作るにあたって、もともとそこに住んでいた日本人は急遽立ち退きにあったのである。90戸くらい。この日本人90戸が移動した先が、いまの元町である。


もともと横浜市民が住んでいた元の町だから、元町である。

そう!あの先日紹介した元町ショッピングストリートである。


元町は、関内の外国人居留地、つまり山下居留地と、もうひとつの外国人居留地である山手居留地と挟まれるような形になるので、この元町の日本人商人たちは、この両方の外国人相手に家具を売ったり、いろいろな商売をするようになる。


それが元町ショッピングストリートのルーツである。

あの異国情緒あふれるストリート、街並みの要因は、外国人相手に商売をしていた、そこにルーツがある。



これがいまの関内エリアのマップである。


関内マップ.jpg


いままでの歴史上の経緯、説明からすると、いまの関内エリアと呼んでいるところ、つまりJR関内駅、横浜市営地下鉄関内駅の周辺のエリアは、昔の日本人居住地のところではないのかな、と思うのだ。


昔の地図と見比べるとだ。


目印は横浜DeNAベイスターズの本拠地である横浜スタジアムだ。ここには横浜公園がある。

この横浜公園、横浜スタジアムがポイントだ。ここを挟んで、横浜中華街のあるほうが、昔の外国人居留地のあったエリアだ。で、その反対が日本人居住地である。


自分が今回のI LOVE YOKOHAMA連載のために散策してきた関内エリア、なんと地味なんだろう、なんと観光として見どころがないのだろう、と思ったのは、日本人居住地のその後の姿の景観を見てそう思っていた、ということになる。(笑)


なんということだろう・・・(笑)


現在の一般的に使われる”関内”は、旧日本人町一帯のことだったのである。


外国人居留地は、横浜中華街側にあったとは!

そこは今回行っていないのだよね~。


よくわかっていなかった。。。


ぜひリベンジしてもう一回関内に行ってきます。

そして”関内の山下居留地”というタイトルで、昔、外国人居留地のあった場所散策してみたいと思います。


自分が散策してきた、その日本人居住地のあった関内エリアの日記はこの後続きます。




当時の関内の街並み。こういう景観の写真があるのも関内は外国文化がいちはやく流れ込んできたので、写真技術が輸入され、こういう当時の街景観を撮影することも可能だったのだ。こういう写真資料が残っているのもそのおかげである。


92e9c70f0cdeca957c87df7bb169c9f6.jpg








nice!(0)  コメント(0) 

I LOVE YOKOHAMA 伊勢佐木町 [街歩き]

横浜には、オシャレでハイソなYOKOHAMAというイメージもあれば、もっと日本的でいわゆる昔から演歌で歌われてきたようなミナトヨコハマ、港ヨコハマ・・・こういう昭和の世界が色濃く残っているイメージもある。


昨日ご紹介した横浜元町ショッピングモールは、まさに西洋風で、異国情緒あふれる横浜開港以来の歴史をずっと辿ってきたようなそんな名残のある街景観であった。


それに対して、もっと和風、居酒屋が似合う、横浜野毛のようなディープな世界。そういう世界も間違いなく横浜なのである。


ミナトヨコハマ、港ヨコハマ・・・


この言葉はもう昭和の演歌の歌詞ではかならず出てくるフレーズなのではないだろうか?

演歌は自分が小学性、中学生のときが大全盛期であった。


その演歌歌手たちが歌うそのこぶしを回した独特の歌い方には、かならず、ミナトヨコハマ、港ヨコハマ、男と女、酒とタバコ・・・こういうフレーズがかならず出てくる。絵になりやすい、というか当時の昭和の時代の恋愛舞台といえば、こういう背景設定が常識路線だったのだ。


ミナトヨコハマ、港ヨコハマ、汽笛、波止場、別れ、ブルース・・・


こんなイメージである。


自分にとって伊勢佐木町といえば、まさにこんなイメージをずっと抱いてきた。


今日はそんな伊勢佐木町を紹介できればと思う。



古き良き横浜を象徴する繁華街として、明治初期から140年以上の伝統を持つ「伊勢佐木町」。

港の風を感じるエキゾチックな雰囲気と、明治・大正以来のレトロな老舗店が建ち並ぶ魅力的な街である。


この街は昔から散歩するだけでも楽しく、大正のはじめには「いせぶら」なる言葉も流行したほど。最近は「みなとみらい21地区」など新たな繁華街に客足を奪われ、元気がなくなった感を否定できないが、楽しさはまだまだ健在である。



横浜市民の間では「ザキ」の愛称で親しまれている伊勢佐木町。


まさにネオン輝く不夜城「ザキ」である。


不夜城ザキ.jpg



古くは青江三奈さんのヒット曲「伊勢佐木町ブルース」、またフォーク・デュオ「ゆず」がデビュー前にストリートライブをしていた街としても有名である。


伊勢佐木町は、JR根岸線・関内駅を降りてすぐ、横浜スタジアムと反対側の場所にある。


繁華街は全長1.4km。

エリア内に1丁目から7丁目まで存在し、関内駅に近い方が1丁目です。


通常1~2丁目の繁華街を「イセザキモール1.2st」、3~7丁目の繁華街を「伊勢佐木町商店街」と呼んでいるそうだ。


「イセザキモール」は最も伊勢佐木町らしい雰囲気の繁華街。

通常は伊勢佐木町といえば、こちらを指すことが多い。


明治・大正以来の老舗店舗とチェーン店など、新しい店舗が雑多に混在している空間でもある。駅からも近い立地のため、常に多くの人で賑わっている。


3丁目より先に進むに従い、人通りはまばらになって下町風の商店街へと変貌していくが、この界隈も伊勢佐木町のディープな魅力が感じられるスポットが多彩に存在する。


●伊勢佐木町の名前の由来と歴史

 

伊勢佐木町という漢字の表記、考えてみれば不思議ですよね。ふつうキーボードで”いせさきちょう”と文字変換すると、”伊勢崎町”になりますよね。「伊勢崎町」のほうがしっくりしているような気がしますが、実はこの名前は伊勢佐木町の成立に関わった人物名に由来しているのです。


伊勢佐木町は明治維新以降の区画整理により、明治7年(1874年)に成立しました。


この際、多額の道路改修費用を寄付するなど大きく貢献をしたのが下記3名の商人です。


伊勢 屋中村次郎衛

佐川儀右衛門

佐々木 新五郎

 

この3名から「伊勢・佐・木」を取って命名されたといわれています。他にも諸説ありますが、やはり当地の開発に功績があった人々の名前に由来しているようです。



吉田橋.jpg


伊勢佐木町周辺は、かつて「吉田新田」と呼ばれていました。江戸時代初期、材木商だった吉田勘兵衛によって埋立・開拓されたことにちなみます。


 

安政6年(1859年)の横浜開港に伴い、吉田新田に橋が架けられ、外国人居留地となったエリアに日本人が立入しないよう関所が設けられました。これが「吉田橋」のはじまりで、この橋から海側・馬車道方面を「関内」、伊勢佐木町が位置する内陸側を「関外」と呼んだそうです。


関内駅の名称は、その時の名残です。

吉田橋は明治2年(1869年)に日本初の鉄橋として改築され、現在は5代目。

伊勢佐木町の入口に佇み、商店街を見守り続けています。



明治7年(1874年)、旧関外に成立した伊勢佐木町は、横浜港の発展とともに飛躍的な急成長を遂げました。


港にも近く横浜の中心部に位置することもあって、映画館や演劇場などの娯楽施設、百貨店などが続々進出し、大正時代初期には国内屈指の大繁華街になったのです。


伊勢佐木町でハイカラな散歩を楽しむ「いせぶら」という言葉もこの頃に流行しました。


松坂屋(野澤屋)や松屋など百貨店や、オデヲン座など映画館・娯楽施設も充実し、昭和の頃までは横浜を代表する繁華街として君臨していました。昭和43年(1968年)に青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットし、全国的にその名を知られるまでになったのです。


しかしながら、横浜駅周辺、及びみなとみらい21地区の開発により、昭和後期頃からその地位は急降下。松坂屋もマルイも、オデヲン座もなくなり、わずかに残った老舗店と新規参入した店舗が共存しながら、商店街を維持し続けています。




明治大正時代には、東の浅草、西の千日前と並ぶ三大繁華街だった横浜の伊勢佐木町。関内駅から1.4㎞のところにあるイセザキモール、伊勢佐木商店街。古い文化とハイカラが調和した街。最近ではフォークデュオゆずの聖地として有名である。



伊勢佐木町の名前が制定されたのは、明治7年 埋め立ての道路整備に多額の寄付をした伊勢屋の”伊勢”佐川儀衛門の”佐”佐々木新五郎の”木”と3つの屋号から来ている。



この地は古くは吉田新田の埋め立て地で、のどかな耕作地が広がる土地であったが、横浜開港場の交通の要所 吉田橋のふもとにあり、多くの商店、店舗がひしめき合い、さらに明治に入ると遊郭や見世物小屋 劇場ができ、大歓楽街となる。


明治時代の伊勢佐木町.jpg


当時の遊郭周辺には遊興施設として見世物小屋などが多く設置されていたそうである。明治後期の伊勢佐木町2丁目あたりであるが、マル竹の印があるのが、寄席の新富亭である。こちらは喜楽座である。



一流の役者を揃えた歌舞伎が演じられていたという。横浜の劇場、映画館の歴史の始まりを告げる芝居小屋、羽衣座である。こうして明治中期までに伊勢佐木町周辺は歌舞伎を中心に新演劇や翻訳劇なども上演する劇場街を形成していくことになる。



大正期に入り、朝日座と名前を変えた賑座。伊勢佐木3丁目付近は賑町と呼ばれていた。当初は芝居小屋であったが、大正から昭和初期にかけて映画上映が中心になって行った、という。


伊勢佐木町の芝居小屋 明治10年代.jpg


さらに開港場の近くで人々が多く集まり、伊勢佐木の通りは芝居小屋に訪れる人で賑わっていた。これら芝居小屋の多くが映画館へその後姿を変え、伊勢佐木が横浜の中心的な映画館となって行く。



そんな演劇の街も関東大震災で芝居小屋が全滅。


時代は演劇から映画へ。


呉服店は百貨店へと移り変わっていく。


横浜を代表する野澤屋、後の横浜松坂屋本店であり、デビュー前のゆずが営業終了後にお店の前でストリートライブを行っていたところである。


ゆず誕生の聖地としてファンの間では有名だそうである。

そんな松坂屋も平成20年に閉店する。


さらに遡ると、あの矢沢永吉も無名時代、ここ伊勢佐木で歌っていたそうである。


その場所が今はなくなったディスコ・ピーナッツ。


ディスコピーナッツ.jpg


令和2年に閉店した、てんやの右の階段を上がったところにあったそうである。広島から出てきて、川崎、横須賀、本牧などで活動後、いまや伝説のロックバンド キャロルを結成する。


その初舞台が昭和47年ここ伊勢佐木町ピーナッツだったそうである。


ピーナッツでは午前、午後、夜の3ステージでグループの人気順で演奏されていたそうである。時に誰も観客がいない午前の空っぽのステージで汗と唾を飛ばしながらガンガン歌っていた矢沢永吉であった。


ちなみにこの頃にビートルズ初期の革ジャン、リーゼントをコピーし、ビートルズを歌ったことで火がつき、この伊勢佐木の地から快進撃が始まり、まさに成り上がっていたんですね。


米兵で埋め尽くされる町.jpg



戦後、伊勢佐木は、まさに米兵の街となります。開港場として発展した明治、大正、そして戦後駐留された昭和、常に日本で一番世界に近かったところでもあり、いち早く海外の文化が根付いた場所でもあったのです。



米兵の街となり娼婦に酒、音楽とドラッグ


そんなギラギラと混とんとした街 伊勢佐木


そんな中で自然発生的に生まれたのがジャズ文化でした。


ジャズメッセンジャーズライブ.jpg


じつは大正期にジャズの萌芽はすでに伊勢佐木に生まれていました。大正14年には、先に紹介した喜楽座で、ジャズが演奏されていた、との記録が残っています。そして戦後、若葉町の米軍飛行場からもつねに最先端のジャズが流れていたといいます。


ダンスホール.jpg



また当時 横浜には数十軒のナイトクラブやキャバレーがあり、本業はミュージシャンである米兵が演奏していたそうである。


この頃はジャズはチャーリー・パーカーや、ディジー・ガレスピーに代表されるビバップという自由な即興演奏が中心であった。日本のバンドマンも仕事を求めて横浜に集まり、後に一流の日本人ジャズマンが育っていったそうである。


そのビバッブジャズの頂点にいた日本人が伝説的なピアニスト守安祥太郎。チャーリーパーカーと同年代で日本では広まったばかりの頃にビバッブジャズをすでに演奏していたという。


モカンボセッション.jpg



そして伝説的なジャムセッションが昭和29年、伊勢佐木町の飛行場跡にあったナイトクラブ モカンボで行われた。


このセッションには秋吉敏子、宮沢昭、渡辺明、海老原啓一郎など戦後のジャズを作り上げた人たちが参加しました。


クレージーキャッツ.jpg


さらに後のクレージーキャッツのハナ肇や植木等も加わり、後の日本の名プレーヤー渡辺貞夫に大きな衝撃を与えたといいます。



そう考えて見ると、戦後昭和の音楽シーンの重要な部分がこの伊勢佐木町から広まっていったと見ることもできるし、この線上に ゆずも位置していたと考えることもできます。


米国文化が流入するポイントとして、伊勢佐木は不思議なエネルギーに満ちていました。


いまはなき根岸屋。飛行場跡地にでき、看板に英語でINTERNATIONAL RESTAURANTとあるように熱いエネルギーが渦巻いていた紛れもない昭和の伊勢佐木を代表するお店。


根岸屋.jpg


米兵に外国船員に、彼らを相手に商売する女たち、それに薬の売人にヤクザと、あらゆる人間が集まっていたそうである。24時間営業で生バンドの演奏に踊り狂うダンス。


1950年代の根岸屋店内.jpg



外国船員は横浜に到着するや否や直接根岸屋に向かい、米兵目当ての娼婦、血気盛んな若者に 文化人などあらゆる人種と職業の人々が集まるカオスな酒場だったそうである。


昭和のシンボル的な存在、根岸屋。昭和55年に閉店。いまは駐車場になっているそうである。



伝説の店 根岸屋


まさに伊勢佐木町を語るうえで避けて通れないお店。横浜を語るうえで、この根岸屋を題材、舞台としてたくさんの映画にもなっているくらい有名である。


戦後間もなく誕生し、隆盛を誇った根岸家も、1980(昭和55)年に火事で消失。現在、東神奈川にその血脈を受け継ぐ「大衆酒場 根岸家」がある。


戦後の横浜を象徴する飲食店が根岸家(ねぎしや)である。

かつて伊勢佐木町にあったこの店は、すでに横浜の伝説として語り継がれており、当時を知る多くの人々の回顧談に登場する。


根岸屋-1.jpg


根岸屋-2.jpg


根岸屋-3.jpg


根岸屋-7.jpg



黒澤明監督の映画「天国と地獄」にも根岸家らしき店が登場する。山﨑努演じる犯人の青年が麻薬取引を行う酒場が根岸家(実際はセットで撮影された)を想定したものであることは、「黒澤映画『天国と地獄』のロケ地はどうなってる?」の中でも説明されている。


根岸家はどこにあったのか。場所は現在の中区若葉町である。イセザキモールに入り、ピアゴを過ぎて右に曲がったところにある広い駐車場が、かつてNEGISHIYAと書かれた建物のあった敷地である。いまは、根岸家は影も形もない。


1980(昭和55)年11月20日に発生した火事で、根岸家はその歴史を閉じた。


根岸家が誕生したのは終戦直後だった。戦後の焼け跡の目立つ中、坂元明・スミ夫妻が開店した。坂元明氏はタクシー運転手あがりで、スミ夫人は絵に描いたような女傑だったと言われている。


和食も洋食も何でも食べられ、アルコールもビールや日本酒、ウイスキー、カクテルなどあらゆるものがそろっていた。当時はまだ多くはなかった24時間営業で年中無休、値段も庶民的だったため、多くの人が押し寄せ、隆盛を誇ったとされている。そんな根岸家だが、やはり時間とともに当時の思い出を語れる人が少なくなっている。



戦後の横浜は混沌としていた



「バンドがあったのはこの辺、この辺はずっとテーブルで、よく娼婦の女の子が座っていました」


そう回顧してどこに何があったかを教えてくれたのが、松葉好市(まつばこういち)氏。松葉氏は「聞き書き 横濱物語」(聞き書き/小田豊二)の中で、根岸家が盛んだったころの横浜の様子を語っている。


ありとあらゆる人間が集まり、バンド音楽が流れ、煙草の煙が漂い、女性の嬌声が飛び交うこの店には、形を持たないエネルギーが渦を巻いていた。学校の教科書には決して載らない横浜の歴史の一幕として、根岸家は独自の存在感を放っている。



「当時の横浜は野毛と弘明寺が栄えていたんです。とくに野毛に行けば着るものも食べるものも何でもある。それに海岸の仕事もあるから、地方から人が集まりました。学生も多く、焼き鳥店や雀荘もありました」


もちろん伊勢佐木町にもくわしい。

「今は伊勢佐木町は1丁目から7丁目までありますが、昔の人は1丁目あたりを伊勢佐木町と言い、4丁目のこの辺は人が多いから賑町(にぎわいちょう)と言いました」


根岸家のことは、強烈に記憶に残っている。


根岸家の様子


根岸屋-5.jpg


根岸屋-6.jpg





「根岸家は1階が食堂形式で、2階がお座敷でした。1階にはテーブルとカウンターがありました。100人以上入れる空間で、当時はいつ行っても50人ほどの客がいたのではないでしょうか」


根岸家の細部を語る松葉さん。輝かしい青春時代だったのだろう。

「焼き鳥からラーメンから、根岸家には何でもありました。バンドが入って、演奏していました。お客はGI(アメリカ兵)から日本人、ヤクザ、愚連隊などありとあらゆる人がいました」


ほかのキャバレーから流れ込んでくる男性、反対に根岸家から別のキャバレーに流れる男性など、人の流れは絶え間なかったようだ。


「言語障がいの女の子なんかが外人のお客をとろうとそのへんのテーブルに座っているんですよ。その子たちがいい子たちでしてね・・・」


そうした中でケンカも頻発し、松葉氏もアメリカ兵と一戦交えたりした。

「どうしてケンカなんかするのかって? それはですね、当時はアメリカ兵が娼婦の女の子をいじめたりしたんです。それを見たら日本男児たるもの、放っておくわけにはいきません」


娼婦たちも中に入り、お客を取り合っていた。娼婦と言えば、メリーさんもその中にいたのだろうか?

「いや、あの人は中には入りませんでしたね。外にいました。プライドの高い人で、宝石店の前に立っていたりしました。あの人はたしか岡山から流れてきて、大阪、横須賀、そして横浜に来たんです」



横浜が輝いていた時代



松葉氏の話にはよく愚連隊が登場する。愚連隊とはヤクザではなく、松葉氏によれば「不良の兄貴分」である。


「文字を見ても“愚か者が連なる”でしょ(笑)」

こうした若者が、当時の横浜を闊歩(かっぽ)していたのである。


松葉氏によれば、当時の横浜は序列がしっかり決まっていた。ヤクザ・テキ屋・愚連隊・町の不良。この順番で力があった。

「当時はいじめなんてありませんでした。ケンカをしても、決して命までとるようなことはせず、加減をしていました。今は相手が死ぬまでやってしまいますね」


根岸家が盛んだったのは1964(昭和39)年までだったと松葉氏はいう。ちょうど東京オリンピックの年、日本があらゆる面で飛躍を遂げつつあった時代である。

「横浜がよかったのは終戦直後から1964(昭和39)年までですよ。そのころは伊勢佐木町にも勢いがありました」


ナイトクラブ、キャバレー、カクテルバー、夜の舞台の名前がつぎつぎと出てくる。あの頃はいい時代でした。人が輝いていました、と懐かしむ。


「根岸家はね、日本の田舎の人たちは知らなくても、外国の人たちは知っていましたよ。日本に来たら必ず寄る店だったりしますから」


“不夜城”根岸家も時代には勝てず、1980(昭和55)年に経営不振により閉店。同年11月20日、火事により消失した。一つの時代の終焉であった。


しかし、根岸家は思いがけない血脈を残していた。


JR東神奈川駅から徒歩2分ほどの場所に「大衆酒場 根岸家」と大きく記された店がある。


現在の根岸屋.jpg


こちらのご主人である新井正二さんは、伊勢佐木町の根岸家の経営者、坂元スミさんの縁者にあたる方。つまりここは伊勢佐木町の根岸家の血を引くお店なのである。


「戦後間もないころから、この店はあります」とご主人。

ということは、当時二つの“根岸家”が横浜にあったことになるが・・・


「『根岸家』という店は二軒だけではなく、戦前から戦後にかけていくつもあったんです」


リヨさんの話によると、伊勢佐木町の根岸家はスミさん(10年ほど前に死去)が中心となって開店され、運営されたものらしい。スミさんに関してリヨさんは、「取り巻きが一杯いました。つきあいがうまく、派手で、絶対に人を悪いようにはしませんでした」と回想する。如才ない人物像が伝わってくる。一方で縁者には無料で料理を振る舞ったり、派手な催しを行ったりと、豪放な人柄でもあったらしい。


そもそも根岸家の発祥は、と伺うとスミさんのさらに親の代からの話になり、現在では不明確な部分もあるが、スミさんの縁者が戦前から横浜で飲食店を経営しており、戦後になってスミさんが中心となって伊勢佐木町に「根岸屋」を出店したということらしかった。スミさんの縁者の関係する「根岸屋」は当時、複数あったという。


ちなみに「根岸家」という名前は、ある重要な縁者が横浜市根岸の生まれだったからではないかということである。


多くの人に語り伝えられている根岸家。戦後の横浜を彩った不夜城であった。


根岸家は、戦後の横浜を語る上で欠かせない店である。あらゆる人間が集まり、熱いエネルギーが渦巻いた舞台である。根岸家に行けばいろいろな人間に出逢える、話ができる。それが人々には魅力だったようだ。現在の横浜に、こういうコミュニケーションの結節点になるようなお店があるだろうか。


情報引用元:


火事で焼失した伊勢佐木町の「根岸家」。その歴史とその後は?(はまれぽ.com)



これはぜひいまの末裔の東神奈川にある根岸屋に行ってみたいものである。(笑)


「根岸屋」だけで、ひとつのテーマ、日記で語れるのではないか。24時間営業で生バンドの演奏に踊り狂うダンス。アメリカ兵、日本人、ヤクザ、愚連隊、娼婦、いろんな人種がこの根岸屋に集まり、この根岸屋に行けばいろいろな人に出会える、いろいろな話ができる。ありとあらゆる人間が集まり、バンド音楽が流れ、煙草の煙が漂い、女性の嬌声が飛び交う。そして焼き鳥、ラーメンなんでも置いてある。そして酒、タバコ、ドラッグ・・・ここで未知との出会いを求め、熱く語り、熱いエネルギーが渦巻いていた舞台。形を持たないエネルギーが渦を巻いていた。



学校の教科書には決して載らない横浜の歴史。


それが根岸屋なのである。


これはなんとなくよくイメージできる。戦後の時代だからこそ、存在できたお店だし、あり得た光景である。いまの時代に復刻したとしても、風営法などで引っかかるだろうし、いまの時代にはもうそぐわないように思う。


でもすごい魅力的である。


自分は、この根岸屋には、かなり興味を持ってきました。

根岸屋を題材にした映画はたくさんあるみたいなので、それらを拝見して、一度、日記で熱く語ってみたいと思っている。



伊勢佐木町は映画全盛期の昭和30年代には、40館ほどの映画館があり、日本で一番映画館が多い街と言われてきました。そんな映画街も昭和30年をピークに映画館は減り続け、オデオン座もいまではドン・キホーテとなっています。


街並みを変わり 昔の風景もどんどん少なくなっていきます。しかし戦争という時代 狂気とカオス、そして人間の本性がむき出しになっていたような昭和の横浜 伊勢佐木が確かにありました。


横浜のここ伊勢佐木町は、まさにそんな音楽の歴史に根付いた、矢沢永吉、ゆずの聖地、そしてジャズ発祥の地として名を馳せた伝説の街だったのです。


音楽に一生を捧げてきた自分にとっては、ぜひ訪れないといけない聖地でもありました。


では、そんな伊勢佐木町を散策してきました。


2023年10月1日。いまから4か月前のことです。(笑)遅レポすみません。。。


イセザキモール1.2stと伊勢佐木商店街。全長1.4km。結構な距離、長さです。


伊勢佐木町のメインストリート・「イセザキモール1.2st」までは、JR関内駅(北口)、横浜市営地下鉄・関内駅より徒歩1分の距離。自分は横浜市営地下鉄の関内駅を使ったので、ここからだと駅からマリナード地下街につながっていて、そこを歩いていくと、そのままイセザキモールに出るようになっています。


DSC01334.JPG



このマリナード地下街には、ストリートピアノが置いてあります。


DSC01727.JPG


DSC01722.JPG



伊勢佐木町1~2丁目、通称「イセザキモール」。


1370-1.jpg


1362-1.jpg



イセザキモールのシンボル・正面に設置された巨大なウィルカムゲート。

これは昔から何回も造り替えられていて、これは何代目になるのかな?

イセザキモールといえば、このウエルカムゲートというくらい顔ですね。


ウィルカムゲートを抜けると、街路樹が並ぶ開放的な空間が広がります。最近では雑貨などのチェーン店やファーストフード店の進出が目立ち、都会の繁華街らしい様相を呈してきていますが、それでもどこか懐かしい雰囲気が魅力的な通り。


新しい店舗が増えつつも、昔からのかなり建物が残っており、140年の歴史を持つ街並みを感じられることなのかもしれません。


イセザキモールは24時間全面歩行者天国となっており、のんびりと散策を楽しめるのが嬉しいです。


とにかく立ち並ぶお店が和風、日本風。居酒屋、大衆酒場や焼き鳥屋さん、和食、中華料理、韓国料理、こういう庶民的なテイストのお店で占められている。昭和の古きよき時代の香りがぷんぷんするそんな風情である。まさにこれこそが伊勢佐木町である。


ストリートは、ほんとうに和風で庶民的なお店が立ち並ぶのだが、街路樹がきちんと整備されていて、道の幅もじゅうぶんに広いので、なんかこう解放感がある。


1383-1.jpg


1389-1.jpg


1396-1.jpg


1404-1.jpg


1411-1.jpg


1420-1.jpg


1425-1.jpg


1431-1.jpg


1435-1.jpg


1440-1.jpg


1626-1.jpg


1632-1.jpg


1638-1.jpg


1644-1.jpg


1650-1.jpg


横浜三大牛鍋のじゃのめやもありました。牛鍋は横浜が発祥。牛鍋とすき焼きは似ていますが違います。すき焼きは焼いてから煮るのに対し、牛鍋は最初から煮るものです。横浜三大牛鍋というと、以前日記で紹介した荒井屋、太田なわのれん、そしてじゃのめやがあります。そのじゃのめやは、伊勢佐木町のイセザキモールの中にあったんですね。お昼時なのにシャッターが降りていました。スマホのネットで調べたら、営業中になっているのに、なぜか閉まっていました。謎です。今度日を改めて伺いたいと思います。


1678-1.jpg


1443-1.jpg


1466-1.jpg



イセザキモールには街路樹のほかにいろいろなオブジェが設置されている。


1658-1.jpg


1666-1.jpg



こんなユニークなものまで設置されています。


1447-1.jpg



電話ボックスと思いきや、実は「からくり時計」


ラッパを吹く人や鍛治職人など、街で働く人たちをモチーフにしており、西洋メルヘンたっぷりの時計です。「town people」と呼ばれる作品で、1978年(昭和53年)に作られたそうです。かつては30分ごとに明るい音色を響かせていましたが、残念なことに今では音を鳴らしていないそうです。



ここがニューオデオンビル。隣にドン・キホーテが見える。


1454-1.jpg



このまます~っと通り過ぎてしまいそうだが、それじゃいつまでたっても”ザキ”マニア、伊勢佐木マニアとは言えないだろう。(笑)



オデオンビルの歴史は、映画館「オデヲン座」から始まった!


現在、オデオンビルのある場所には、その名前の元にもなった映画館「オデヲン座」があった。


オデヲン座が開館したのは1911(明治44)年。日本初の洋画封切館で、「封切」という言葉の発祥地になったとも言われる。世界では映画製作が本格化したものの、国内の常設映画館がまだ100館に満たないと言われたころのことだ。



伊勢佐木町・芝居小屋-NEW.jpg

大正初期の伊勢佐木町。芝居小屋や映画館が集中し、横浜市内最大の娯楽街に発展



伊勢佐木町-芝居小屋-NEW2.jpg

上の写真と同時期、手彩色絵はがきによるもの。国内で1、2を争うにぎわいだった



1923(大正12)年9月、関東大震災によって、劇場や映画館はことごとく壊滅したが、復興は早くオデヲン座は、翌1924(大正13)年1月には再開した。1934(昭和9)年の調査によれば、横浜市内には26の映画館があり、中区が一番多く13館だった。特に伊勢佐木町には多くの映画館があった。



オデオン座.jpg

1935(昭和10)年ごろのオデオン座(資料提供:横浜市史資料室)



中でも、1936(昭和11)年に改装したオデヲン座は、館内に絨毯を敷きつめ、ロビーにシャンデリアを飾り、「白亜の殿堂」の威容を誇り、全国から洋画ファンが押しかけるメッカとなったといい、有数の情報の発信地としての役割を果たした。



白亜の殿堂オデオン座.jpg

1941(昭和16)年、「白亜の殿堂」と言われたころのオデヲン座



太平洋戦争が始まると、敵性語追放(敵対国や交戦国の言語〈英語などの外来語〉を排除しようとする動き)が促された。オデヲン座は真っ先に槍玉にあげられ、1942(昭和17)年には、「横浜東亜劇場」に改称させられた。さらに戦後は米軍に接収され、「オクタゴンシアター」と名称を変え、米軍専用の劇場となり、運営されるようになった。



オクタゴンシアター時代.jpg

オクタゴンシアター時代



1955(昭和30)年に接収が解除され、「横浜松竹映画劇場」として営業が再開され、1973(昭和48)年まで営業された。閉館後、その跡地に建てられたのがオデオンビルだ。



1975(昭和50)年、オデオンビルが建設された。オデヲン座時代は、映画館機能だけだったが、商業が急速に伸びていく時代の中にあって、そこにショッピング機能を持たせようとしたもので、多くのショップや飲食店が入った施設だった。


ちなみに、ビルの名称だが、当初は「オデヲン」だったようで、1980年代の商店街の発行物では、「ファッションプラザ・オデヲン」といった記載になっているとのこと。その後オーナーが代わって、「ヲ」の字は使われなくなり、「オデオン」となった。さらに2000(平成12)年ごろ、再度オーナーが代わり、屋上看板も白からオレンジ色にリニューアルし「NEW ODEON(ニューオデオン)」となり、壁面ロゴにも「NEW」の文字が付け加わった。



映画文化の変化や平成になってシネマコンプレックスの数が増加したことにより、ニーズが変化し、単館系の大きな映画館は減少。伊勢佐木町にあった映画館も次々に閉館し、マンションやパチンコ店に変ってしまい、横浜オデオン座も、2000(平成12)年には閉館した。



オデオンについては、ドン・キホーテの出店が、正式に決まり、地下1階、地上1~3階を売り場として、7階を倉庫として利用している。



情報引用元:


100年以上伊勢佐木町のシンボルだったビル「オデオン」が、「ドン・キホーテ」に変わったってホント!?(はまれぽ.com)




オデオン座は初の洋画封切館で、まさに流行の発信地として100年以上イセザキのランドマークであり、オデオンビルになっても、その役割を残そうとしてきた。


伊勢佐木町は、やはり昔から芝居小屋が盛んな町だったんですよ。その系譜を受けて、映画ビジネスも盛んだった。たくさんの映画館が建てられた。ところが映画館の衰退とともに、そういう伊勢佐木町の長い歴史、特徴が色褪せてきた、ということなんですね。


日本一の芝居小屋の町、日本一たくさんの映画館がある町。それが伊勢佐木町なんです。

伊勢佐木町を語るうえでは、ここは外せなかったので、詳しく解説してみました。



・・・そして・・・


出た~~~青江三奈の伊勢佐木町ブルース!


1481-1.jpg


1695-1.jpg



青江三奈さんって知ってますか?(笑)


もう自分の子供時代のリアルタイムでした。


昭和43年(1968年)に発売された名曲「伊勢佐木町ブルース」は、ブルースの女王 故・青江三奈さんの歌唱力や、その独特なフレーズ、そしてあの「ため息」により大ヒット。


日本レコード大賞(歌唱賞)等多くの賞を獲得し、紅白歌合戦等で歌われるなど、戦後復興で立ち遅れた伊勢佐木町の名を再び全国区に押し上げました。


2000年にご逝去された青江三奈さんを偲び、伊勢佐木町4丁目の一角に、地域の方々の大きなお力沿いも頂きつつ「伊勢佐木町ブルース歌碑」を2001年に建立。



「伊勢佐木町ブルース」歌碑は、4丁目商店街の一番奥の路上に設置されています。当時のレコードジャケットを模したレトロな看板の前にある、グランドピアノの形をした碑です。平成13年(2001年)、青江三奈さんの一周忌に合わせて設置されました。


歌唱する青江さんの姿と音譜が描かれており、基台の赤いスイッチを押すと、「伊勢佐木町ブルース」が1分間流れる仕組みになっています。


それがこれです。


1487-1.jpg


1495-1.jpg


1500-1.jpg


1524-1.jpg



歌碑正面のボタンを押すと「伊勢佐木町ブルース」の1節が、街中に響き渡ります。また、「青江三奈看板」は、映画看板風に手書きにより制作されており、数年に一度デザインを書き換えているそうです。


この歌碑を建立するにあたって、ご寄付や協力いただいた方々の名前を刻んであります。


1520-1.jpg


1516-1.jpg


まさに伊勢佐木町という街を一躍全国区にしたのは、青江三奈さんのおかげと言っていいのではないでしょうか?これで、日本全国のみなさんは、伊勢佐木町という町の存在を知るようになりました。



伊勢佐木町の名前を全国に知らしめた名曲が「伊勢佐木町ブルース」。

昭和43年(1968年)に青江三奈さんが歌い、「第10回日本レコード大賞」歌唱賞、「第1回全日本有線放送大賞」優秀スター賞を獲得しました。


曲の冒頭にあるセクシーな吐息が有名ですが、これが子供には不健全だと指摘されたことも。


大ヒットした影響で、横浜市営地下鉄「長者町」の駅名を「伊勢佐木町駅」に変更しようという運動にまで発展しました。結局駅名は「伊勢佐木長者町」に変更となり、現在に至っています。


50年以上前の曲なので、若い世代の人は聞いたことがないかもしれんませんね。

自分は、さっそくSpotifyのお気に入りに入れてあります。



「伊勢佐木町ブルース」歌碑の真後ろにある、テント型のスタイリッシュな建物。

こちらが「CROSS STREET」です。


Cross Street.jpg



何の目的で使用されるのか不思議に感じるかもしれませんが、実は音楽を中心としたイベントを開催する多目的スペース。ドラムスセットやキーボード、各種音響機器を備えた「ライブハウス」のようなものです。


「CROSS STREET」の名付け親は、なんと「ゆず」!

伊勢佐木町での路上ライブからスタートした「ゆず」が、新世代のミュージシャンのために命名したそうです。


このライブハウスを通じて、様々な文化・音楽・人を交差(クロス)して、世界に羽ばたいてほしいという願いが込められています。


青江三奈さんや「ゆず」など、音楽にゆかりが深い伊勢佐木町。

この「CROSS STREET」からのニューフェイスを期待したいところです。


そして、私が行ったときは、なんと!このCROSS STREETでは、青江三奈さんの遺品展がおこなわれていました。


なんというタイミングのよさ!

もう自分は大感動です。


入場無料です。


1530-1.jpg


1688-1.jpg



もう中は青江三奈さんのドレス、写真、トロフィー、レコード、賞状などの遺品がここに寄付されていて、まさに青江三奈ワールド満載でした。ドレスを見ると、本当にすごい小人みたいに細いというか、すごい小さい人だったのかな、とも思いました。


女性のドレスというのは着ると伸びるんですかね?それくらい信じられないくらい細い人だったんだなと思いました。


レーベルは、わが社ビクター(Victor)だったんですね。とても誉れに感じます。


DSC01536.JPG


DSC01545.JPG


DSC01552.JPG


DSC01556.JPG


DSC01562.JPG


DSC01569.JPG


DSC01573.JPG


DSC01584.JPG


DSC01587.JPG


DSC01601.JPG


DSC01578.JPG


DSC01593.JPG



コーナーの端には、青江三奈さんのご活躍なされていた昭和の歌謡曲番組などで歌っているシーンなどを集めた編集ムービーをじっくり鑑賞しました。エンドレス再生です。


DSC01610.JPG



青江三奈さん、まさに自分の子供時代のリアルタイムの演歌歌手でございました。よくテレビの歌謡ショーで歌っておられるのを子供だった自分は拝見していたものです。日常の光景でした。



青江三奈さんは、特徴的なハスキーな低い声で歌うブルース演歌が自分の看板の演歌歌手でした。青江三奈さんと同じくハスキーボイスでビクターレコードから同期デビューの男性演歌歌手・森進一さんと並んで“ため息路線”と呼ばれていました。(笑)


伊勢佐木町ブルース、懐かしすぎるよ~。(笑)


先日お亡くなりになった八代亜紀さんとのデュエットもあり、自分は懐かしいな~と思いながら観ていました。



やはり圧倒的に、「伊勢佐木町ブルース」。


やっぱりこの曲名曲だ~。



伊勢佐木町を全国区にしたのは、ほんとうに青江三奈さんのおかげと言ってもいいのです。それだけ伊勢佐木町の人たちは青江三奈さんの恩を感じているのです。誇りなのです。それでこの歌碑だとか、遺品展とか有志の方たちによって建立されたんですね。



演歌歌手はみんなほんとうに歌が上手い!


自分の子供時代は演歌全盛の時代。


歌がうまくないと、歌唱力がないと生き残れない時代でした。本物の実力の時代だったかも?レコード大賞、歌謡大賞とあって、レコード大賞がやっぱり本命。大晦日だったっけ?賞レースは、その年の年初から、今年はこの演歌歌手ってターゲットが決まっていて、かならずその年を代表する大ヒットがあって、その歌手の代表曲になる。


今年はこの歌手に取らせてあげよう、それこそレコード会社の舞台裏の大変なご苦労は、かいま聞くことはありますが。それが年を重ねるごとに、今年はこの歌手というように、順番が決まっているようにその当時の子供だった自分には思えました。



演歌が全盛の時代だった。演歌は日本人の心の故郷という感じだった。


日本レコード大賞=演歌、の時代だった。



演歌ってやっぱりヒット曲の音型がビシッと決まっている典型的な音楽だと思います。ラフマニノフ ピアノ協奏曲第4番のときにも書いたが、ヒット曲は、人の心を惹きつける、かならずそういう音楽の型が決まっている、演歌はこのルールに一番沿っていると思う。



作詞、作曲、歌手と分業体制。


特に作曲家の先生のメロディメーカーとしての才能は凄いと思います。



青江三奈さんは自分の子供時代、テレビの歌謡番組で、よく伊勢佐木町ブルースを歌っているのをよく覚えています。はっきり覚えている。



伊勢佐木町ブルースは大人の女性の色気満載の曲で、子供には難しい曲だと思っていました。(笑)青江三奈さんはハスキーな声でセクシーだった。大人の色気だった。たくさんのご当地ブルースを歌っていました。


青江三奈さんといえば、いろいろなご当地ブルース、いろいろなご当地の冠をつけたブルースが十八番の歌手でした。伊勢佐木町ブルースをはじめ、長崎ブルース、札幌ブルース、新宿サタデー・ナイト・・・とかとか。



伊勢佐木町ブルースは、いま聴くとほんとうにいい曲。名曲。メロディがすごい頭に残る。ワーグナーのモチーフみたいに、ずっと頭の中でループで鳴っている。やはり、これこそ、名曲中の名曲なんですね。Spotifyにさっそくお気に入りに入れておきました。


伊勢佐木町


芝居小屋、映画館で発展した町。ジャズ発祥の町、矢沢永吉、ゆずを生んだ町、根岸屋。

そして青江三奈さん。


こういうカラーの町です。


まさに音楽人生を突っ走ってきた自分にとって音楽の聖地のような町でどうしても訪ねないといけない町でした。


最後は結局、青江三奈さんに全部持っていかれた、という感じです。(笑)


こういうカラーも横浜という大都会は包括してしまうんですね。

ヨコハマはいろんな顔を持つ都市だとつくづく思います。
















nice!(0)  コメント(0) 

I LOVE YOKOHAMA 横浜元町ショッピングストリート [街歩き]

横浜元町ショッピングストリートは、横浜開港当時、外国人御用達の店が集まって発達した商店街である。


横浜元町ショッピングストリート.jpg


横浜元町ショッピングストリート-2.jpg



西洋風のお洒落で洗練された雰囲気が漂う全長600mの元町ショッピングストリートは、ブティック、小売店、カフェやレストランなど、日本中からの来訪者を魅了する店が並んでいる。国内最大の中華街からすぐ近くのこの地区は1970年代から80年代の流行「ハマトラ」の発祥地で国際的な雰囲気をたたえた街として有名である。


ミハマ、キタムラ、フクゾーがその流行を代表する三大ブランドで、今日も高い人気を誇っている。


横浜が開港した150年以上前に元町の歴史は遡る。1860年1月、当時の横浜村の住民90戸が、隣接する本村に強制移転させられ、後に本村が横浜元町に地名変更したのが元町の始まり。元々は静かな農漁業の町であったが、元町を望む山手の高台が外国人居留地となって変わっていった。


裏通りはお洒落なカフェや個性豊かな雑貨店、評判のレストランなどが点在しており、散策にもおすすめである。


2月と9月に開催される「チャーミングセール」には全国から多くの人が集まる。


横浜元町というのは、自分は横浜にずっと住んでいたにも関わらず縁がなかったですね~。このI LOVE YOKOHAMAプロジェクトで初めて行きました。とにかく洗練されたオシャレな雰囲気でもう圧倒されました。




横浜元町ショッピングストリートというのはメインの通りが元町通り、これがいわゆる元町商店街、元町ショッピングストリートと呼んでいるメインストリート。そしてその裏道に元町仲通りという裏道的な細いストリートがあるんですよね。この裏道がじつは、またすごい個性的で、いわゆるちょっと小振りな個人経営的な飲食店がいっぱいひしめいていて、これがまた雰囲気あるんだ。すごい細い裏道なんだけど、職人気質溢れるこだわりのオシャレな食べ物屋さんがこうなんか通りの両側に埋め込まれているようなそんな風景である。


確かに主役はメインストリートの元町ショッピングストリートなんだけど、この裏道、元町仲通りは裏道であることに誇りを持っているというか、そういうオーラが漂っているんですよね。自分はこの裏道の元町仲通りにやられました。




幕末、来日した外国人たちが暮らした山手居留地。異国情緒漂うこの居留地に隣接し、ともに街を形づくってきたのが元町です。ここで“表通り”と呼ばれるのは1970年代に“ハマトラファッション”で一斉を風靡した「元町通り(元町ショッピングストリート)」。


対して、“裏通り”であることに誇りをもち続けてきたのが「元町仲通り」を中心とする「元町クラフトマンシップ・ストリート」なのです。


元町ショッピングストリート.jpg


元町通りと元町仲通りには「外国人向けに家具や衣類を販売する元町通り」と「元町通りで販売する商品を製造する元町仲通り」という個性の違いが当初から存在していました。元町仲通りは職人たちが働き暮らす、まさに“クラフトマンシップ”溢れる通りだったのです。


元町仲通りの地図.jpg



元町仲通りは、クラフト系のショップや飲食店など“職人”の営む店舗がさらに増えていきました。自分がちょっとかなり個性的な職人気質のオーラを感じたのは、やはりこの職人たちが働き暮らす、そういう”クラフトマンシップ”溢れる雰囲気をリアルに感じたからなんでしょうね。


新規出店される方は“クラフトマンシップストリート”という名前や、街並みの美しさに惹かれて来る方がほとんど。だから意識が高いんですよ。地元の不動産屋さんも、新規出店者に商店会に所属しなければならないことや、規定を遵守しなければならないことを最初にきっちり伝えてくださっています。


・・・ここなんでしょうね。元町仲通りがなにか一気通貫のような統一されたコンセプトでストリート造りをしているように思えて、そしてそこを歩いているだけでもそういうセンスがビシバシ感じるのですが、最初から意識している、出店するときから、こういうルール造りを徹底しているというのが真相だったんですね。納得です。



「元町クラフトマンシップ・ストリート」の特徴のひとつに、良質な飲食店が軒を連ねるというのがあります。とにかく、素晴らしい職人気質の小柄でオシャレなお店がいっぱいこの細い通りには並んでいます。ストリートを挟んで、両側に埋め込まれるように潜んでいる・・・そんな感じなのです。


すごくファッショナブルな飲食店で、このストリートの景観は、自分は自由が丘を思い出しました。なんかセンス、オシャレな雰囲気度がすごく自由が丘に似ています。


自分は、メインストリートの元町ショッピングストリートもいいと思ったけど、じつはこの裏道の元町裏通り、「元町クラフトマンシップ・ストリート」にやられた~~~という感じで感銘を受けました。




横浜港が開港した直後に、いまの関内地区である横浜村内に、来日した外国人を住まわせるための山下外国人居留地が設置されることとなって、元々横浜村に住んでいた住民は立ち退きを命じられてしまったのです。つまり外国人が住むことになるから、そこに住んでいた日本人の人たち出て行って、という感じです。その代わりの居住地としてあてがわれたのがこの地域であり、“元”々横浜に住んでいた人が住まう“町”として「元町」と命名されたのです。


慶応3年(1867)には南側の高台一帯に山手外国人居留地も設置され、関内と山手の2ヶ所の外国人居留地に挟まれるような感じになった元町では、その地の利を活かして、外国人向けの商売が盛んに行われるようになったのです。洋服店や家具屋など船来品を取り扱う店が多く立ち並び、現在まで続く横浜を代表する商店街へと発展を遂げていったのです。


これがいまの元町ショッピングストリートなんですね。


だから外国の雰囲気が漂うというか、異国情緒溢れる景観とか、ちょっと日本の街ではないです。あきらかに西洋風のお洒落で洗練された雰囲気が漂う、そんな感じのストリート、商店街です。


この横浜元町ショッピングストリートは、1970年代から80年代の流行「ハマトラ」の発祥地なのだそうです。


ハマトラって知ってますか?(笑)


ミハマ、キタムラ、フクゾーがその流行を代表する三大ブランドで、今日も高い人気を誇っているのだそうです。


すみません。。自分はファッション関係にはまったく疎いので、ネットで調べてみました。


ハマトラとは?


女性雑誌「JJ」の企画で生まれた「横浜発祥トラッディショナル」。

1970年代中頃にブームとなった神戸発のニュートラに対抗する、横浜発のファッションとして生まれました。ポロシャツとベストやカーディガン、タータンチェックの巻きスカート、ハイソックス、パンプス、ハイヒールが主な組み合わせです。当時代に人気だったお店、「横浜元町ファッションストリート」は未だ形を少し変えながらも健在しています。


当時は、女子大生を中心に若い世代の流行になっており、1980年代初頭はハマトラファッションの女性ばかりだったとか。


ハマトラファッション.jpg



1980年代というと自分は思春期で血気盛んな高校生・大学生時代だったので、よく覚えているはずですが、このファッションはよく覚えています。確かに大流行でした。でもそれをハマトラと言うとはまったく知りませんでした。




ハマトラが与える印象は一言で「上品で清潔なお嬢様」。


ハマトラファッション-2.jpg


社会人が着るフォーマルなスタイルというよりは、学生が着るキャンパススタイルです。見る限りではフォーマルな印象もありますが、実際に当時はに20歳前後以下の女子中高生がコーディネートしていました。


ハマトラスタイルには三種の神器というものがあります。


・フクゾー洋品店の洋服

・ミハマの靴

・キタムラのバッグ



フクゾー洋品店の洋服


フクゾー.jpg


生地から製造までの過程すべでオリジナルで「メイド・イン・ジャパン」の製品。時代を追うごとにトレンドを吸収しながらも、当時の横浜トラディショナルスタイルを維持しています。



ミハマの靴


ミハマ.jpg



靴界隈ではかなりの老舗で1923年開業、履きやすさ上品なデザインが全国の女性から愛されています。ハマトラスタイルでは、ヒールが低いカッターシューズが最も人気でした。横から見ると平らなデザインで、ヒールが高いシューズだと坂道の多い横浜では歩きにくいからという理由で製作されたとか。



キタムラのバッグ


キタムラ.jpg


ミハマよりも老舗の1882年に誕生したバッグの有名ブランド。フォーマル、カジュアルの両面を兼ね合わせており、ハマトラはもちろん、色んなスタイルにも組み合わせが出来ます。古くからある店で既に三代目まで継がれているため、元町では圧倒的な知名度があるらしいです。


ハマトラファッションを支えていたのは、このフクゾー、ミハマ、キタムラの三大ブランドだったんですね。そしてそのハマトラファッションの発祥地がこの横浜元町ショッピングストリートだったのです。


ハマトラファッションは、今となってはトレンドが終わってると言われていますが、古着界隈ではハマトラファッション楽しんでる女性も増えているのだとか。。。


スミマセン。。この世界全然疎いのでそうなのか~という感じですが、確かに1970~1980年代の自分が学生時代だった頃、このファッションが女性の間で流行っていたのはよく覚えています。


いまようやく追いついた感じです。



横浜元町ショッピングストリートでは、毎年2月末と9月末の2回、約1週間にわたって開催される元町ショッピングストリートを代表するバーゲンセールイベントがあります。 期間中は関東近郊のみならず全国からこのイベント目当てに大勢の人が訪れる。 以前は「謝恩セール」という名称であったが、1961年に現在の「チャーミングセール」と言う名前が付けられました。


元町チャーミング・セール.jpg


期間中、平日も含め「11:00~18:00」までこの元町ショッピングストリートのお店はみんなこのポスターをお店に貼るんですね。そしてバーゲンを盛り上げるのです。このポスターは去年取材に行ったときの2023年度版です。


2024年度版のチャーミングセールももう日程発表されていて始まりますよ。なにせ、2月末と9月末ですから。2月末がもう近いのです。


チャーミングセールの期間では、もういろいろなお店がSNSなどで、いまチャーミングセールやってます!ということでアピール宣伝します。単なる元町商店街の謝恩セールという括りではなく、もう関東近郊のみならず、全国からこのチャーミングセールに大勢の人が訪れるということですから、すごい全国区の有名なイベントなんですね。


元町チャーミング・セール-1.jpg


元町チャーミング・セール-2.jpg



さて、ここでまたちょっと基本に戻って、この横浜元町についての歴史について勉強していきたいと思います。


情報引用元:


YOKOHAMA MOTOMACHI Shopping Street 横浜元町の歴史




横浜元町の歴史


・元町のはじまり


元町の歴史-3.jpg


元町のはじまり.jpg


元町ショッピングストリートの歴史は、安政6年(1859年)の横浜開港当時までさかのぼることができます。横浜村は日本大通りを境に、日本人商業地区と外国人居留地区へ事業計画が決定され、万延元年(1860年)1月に横浜村の居住民90戸が隣接する本村に強制移転させられました。その年2月に「本村」を「横浜元町」に地名変更したのが元町の始まりです。


元町の居住民の大部分は当初農漁業に従事していましたが、明治7年頃になると、山手居留地に外国人が多く住むようになり、元町通りが山手の住居地と関内の業務地を結ぶ外国人の日常的な通り道になしました。それに伴い、外国人を対象に商売を始める者が自然発生的に増えていきました。


大正初期には、谷崎潤一郎の小説にあるように「彼ら(西洋人)を相手に商いをする花屋・洋服屋・婦人帽子屋・西洋家具屋・パン屋・カフェ・キュリオシティショップなどが一杯に並んでいる」エキゾチックな街を形成するに至ったのです。まさに元町ショッピングストリートは文明開花とともに誕生したと言えましょう。



・外国人居留区地の商店街


元町の歴史-1.jpg


元町の住民の大部分は当初農漁業に従事していましたが、慶応3年に、山手に居留地が設けられ外国人が住むようになると、元町通りが山手の住宅と関内の商館を結ぶ外国人の日常的な通り道になりました。それに伴って、外国人を対象に商売を始める者が自然発生的に増えて元町はエキゾチックな街を形成するに至ったのです。



これでなんとなく横浜元町が自分のものになったような気がしますね。関東大震災で大打撃を受けますが、必死の復興、そして元町ショッピング・ストリート・アソシエーションの略字を使い「元町SS会」が発足し、こうした商店街活動の積み重ねの結果、元町ショッピングストリートの知名度は急速に高まり、今日オリジナルファッションを求めるモトマチアンが全国各地から訪れる全国有数のファッション商店街の地位を築くに至ったのです。



これでようやく横浜元町を完全に自分のものにできましたね。

では、さっそく自分が散策してきた様子、写真などを紹介していきたいと思います。


なにせ、2023年9月24日のことです。(笑)4か月遅れのリリースで申し訳ありません。このときはまだうだるような暑さの真夏でした。写真の人々の服装を見ればよくその季節感がわかりますね。


横浜元町ショッピングストリートは、みなとみらい線の元町・中華街駅を下車してそのまま直結でストリートに出れます。


元町・中華街駅構内では、もうチャーミングセールのポスターが貼られていました。自分は元町に行くなら、ぜひこのチャーミングセールの期間中に行きたいと思って、セール最終日の9月24日にギリギリ滑り込んだのです。


DSC09603.JPG



横浜元町ショッピングストリート。

もうあきらかに雰囲気が洗練されていて、オシャレな景観で素敵ですね~。

自分はうっとりしてしまいました。

メインストリートは、ブティック、小売店、カフェが中心です。


9618-1.jpg


9621-1.jpg


9623-1.jpg


9637-1.jpg


9641-1.jpg


9645-1.jpg


ネコちゃんのお店もありますね。


9632-1.jpg


WORLD WINE BAR。世界のワインが楽しめる。外でワインの試飲会をやっていました。


9661-1.jpg



なんかストリートを歩いている人々も若くてファッショナブルな感じがします。このストリートを目指してやってくる人はやっぱりお洒落なんですね。自分は、やっぱり自由が丘を思い出します。自由が丘のマリクレール通りをどうしても思い出します。ストリートの雰囲気がすごく似ています。


9665-1.jpg


9669-1.jpg


9674-1.jpg


9680-1.jpg



出た~~~。GODIVA。


GODIVAって知ってますか?(笑)

チョコレートの国、ベルギーのチョコレートです。

自分はベルギー、ブリュッセルに住んでいるとき、このGODIVAでよくチョコレート買ってました。あのベルギーブリュッセルで有名な日本寿司、海鮮丼屋さんの山優三辰のとなりのとなりにあった記憶があります。三辰で寿司を食べ終わった後に、となりのとなりのGODIVAでチョコを買う。そんな日課だったと思います。日本へのおみやげでもGODIVAは重宝しました。


9687-1.jpg


9896-1.jpg



横浜元町で長く愛されるジュエラー、CHARMYが手掛ける腕時計専門店『COMMON TIME 横浜元町本店(CHARMYウォッチ館)』。時計店だけあって、このお店に堂々と貼り付けられている大時計には感動しました。


9700-1.jpg


9703-1.jpg



コメダ珈琲発見。(笑)名古屋の本場で名古屋モーニングを体験してきました。


9716-1.jpg



9711-1.jpg


9721-1.jpg


9728-1.jpg


9730-1.jpg



いやぁ~~~素敵なストリート景観ですね~。


ここで自分は大変貴重な体験をします。

これは事前に知っていたことなので、あらかじめ予測しながら楽しみにしていました。


カフェラミルです!


9737-1.jpg


9744-1.jpg


9838-1.jpg


9750-1.jpg



カフェラミルといえば、自分にとってもう自由が丘のカフェラミルです。

もう何回も日記で書いてきましたが、自分は自由が丘のクリニックの定期受診が終わったあと、自由が丘のカフェラミルでモンブランを食するのがなによりも楽しみだったのです。自由が丘のカフェラミルのモンブランは、ちょっとふつうのモンブランとは違うのです。


いまや自由が丘のカフェラミルは閉店してしまい、すっかりご無沙汰だったのですが、なんと、ここ横浜元町にカフェラミルがあるとは!!!


もうこれは運命ですね。自分の運命です。この元町でカフェラミルに出会えるとは赤い糸で結ばれているのだと思いました。


さっそく入店します。あの頃大好きだったあのカフェラミル特製のモンブランをここで出会えるのでしょうか。。。楽しみです。


DSC09756.JPG



元町のカフェラミルは、縦に細長いフロアでした。自由が丘の広い店内とは違ってかなり細長いです。でも雰囲気あって素敵です。


DSC09763.JPG


DSC09777.JPG


DSC09775.JPG


DSC09823.JPG


カウンタースタイルもあるんですよね。(驚)


DSC09792.JPG



メニューでモンブランを探しました。


ありました!


DSC09767.JPG



ん???でも自分が自由が丘で大好きだったモンブランとはやはりちょっと違います。でももちろんカフェラミルでケーキを食するのなら絶対モンブランです。



モンブランとカフェオーレを頼みました。


DSC09805.JPG


DSC09811.JPG



確かに見栄えはぜんぜん違うけど、味はやはりあの昔食べたクリーミーなモンブランそのもの!これは昔のあのモンブランをずっと今風に進化させたものだと確信しました。昔以上に美味しいモンブランだと思いました。


もう自分は感涙の感動です。

元町に来れてよかったと思います。

十何年ぶりにカフェラミルを体験できただけでも、元町に来たかいがあったというものです。



感激の体験が終わり、ふたたびメインストリートを歩きます。


9830-1.jpg


9847-1.jpg


9889-1.jpg


9903-1.jpg


9908-1.jpg



このマークは元町ショッピングストリートのロゴ、シンボルマークなんですよね。Mマークといいます。こうやって道路に刻まれています。


9870-1.jpg



この日は、チャーミングセールの最終日。ギリギリ間に合いました。


9883-1.jpg


9877-1.jpg



フェニックスアーチ


9850-1.jpg


9864-1.jpg


昭和60年(1985)、第二期街づくりにおける元町のシンボルとして建てられました。元町のイメージを「伝統を受け継ぎながら、常に新しく生きるフェニックス」ととらえ、「翔べ光の中へ」の意味が込められています。アーチの高さは10.5mその上に幅4.8m高さ2.3mのステンレス・パイプの不死鳥が羽ばたいています。



・・・以上が横浜元町ショッピングストリートになります。メインストリートのほうです。


素敵でしょう~~~。

自分もうっとりしました。西洋風で異国情緒あふれる感じで、洗練されていますね。


つぎにこのメインストリートに並走している感じで裏道「元町仲通り」「元町クラフトマンシップ・ストリート」に行きます。最初こちらは細い裏道なので、自分はあまり期待していなかったのですが、歩いてみるとつぎからつぎへと現れる個性的な職人気質のオーラを放つオシャレな飲食店。これにやられました。


職人たちが働き暮らす、まさに“クラフトマンシップ”溢れる通り。

クラフト系のショップや飲食店など“職人”の営む店舗。

小振りなんだけどオシャレ。


自分はここでも自由が丘を思い出しました。

自由が丘もこんな感じだったな~という・・・


自由が丘はスィーツなんですよ、基本が。でもここ元町のクラフトマンシップ・ストリートは、いろいろなジャンルに渡ります。


ちょっと紹介していきますね。


メインストリートとこの仲通りの間を通っていきます。


9917-1.jpg


9920-1.jpg



元町仲通り、元町クラフトマンシップ・ストリートの通り自体は、もうこんな感じで細道の裏道という感じで、なんか一見すると居酒屋さんがひしめき合う裏道という感じがしますよね。(笑)


9927-1.jpg


00074-1.jpg


00082-1.jpg


でも違うんだな~。



南インド料理 INDU


9931-1.jpg


9936-1.jpg



ハーブと魔女グッズの専門店 グリーンサム

 

怪しげですね~。(笑)


グリーンサムは1985年 横浜元町に創業したハーブと魔女の専門店です。自然の不思議をパワーとし、健康と深く関わってきた魔女はハーブを熟知したハーバリストです。生活のあらゆる面で役立つハーブを知って、魔女のように愉快でパワフルに美しく生きることを提案します。


・・・ますます怪しすぎる。(笑)


9940-1.jpg


9945-1.jpg



ワインの試飲ですね。この日は真夏日だったので、こういう図がすごく合う季節でした。


9952-1.jpg



STAR JEWELRY CAFE & Chocolatier


人気ジュエリーショップ"スタージュエリー"直営のカフェ&ショコラティエ。

宝石店がカフェを経営するんですね。たしかに素敵です。


9957-1.jpg


9969-1.jpg


9964-1.jpg


9971-1.jpg



横濱元町 霧笛楼(むてきろう)


地元食材を生かした四季折々の横濱フレンチを、異国情緒溢れる洋館で堪能。“和魂洋才”をコンセプトに日本ならではの季節感を大切にした「横濱フレンチ」をお届け。地元の畑で採れる新鮮な野菜を使用した地産地消の逸品をお愉しみください。


またお料理を引き立てるテーブルウェアも、横濱ブランドの食器にこだわりました。仏蘭西料亭の名に相応しい洋館は、開港当時の横濱をイメージした異国情緒が感じられる空間。ご友人とのランチから親子三世代でのお食事、大切なご接待まで様々なシーンにどうぞ。


ここが1番大きなお店でしたね。目立っていました。自分は最初見た目では中華だと思っていたのですが、じつはフレンチなんですね。


00093-1.jpg


9986-1.jpg



創作料理 ワガママ


2017年8月におふくろの味のレシピを受け継いで、上海の家庭料理を元に創作を加え、創作料理Wagamamaを開業いたしました。


9988-1.jpg



ビストロ エルエラ


元町にあるカジュアルなビストロ。フレンチ。カジュアルフレンチですね。お子様からご年配の方まで、幅広い層の方に楽しみいただけます。


9992-1.jpg



カスタムスタイル


西海岸系ストリートファッションのセレクトショップ。


9997-1.jpg



SERENDIPITY hair design


横浜元町「かわいい+癒しの空間」の美容室セレンディピティヘアデザイン。


0003-1.jpg



Toratorria NOTO



洗練されたシチリア料理を横浜・元町でイタリアの最南端・シチリア島にて3年間修行したシェフは、多くのミシュラン星付きのシェフから最先端の指導を受けつつ、マンマからシチリア伝統料理も教わった経験を活かし、横浜・元町でその料理を完全再現し、ご提供致します。


・・・ここはお店の顔の雰囲気といい、シチリア料理というところとか、自分はかなり惹かれますね~。一度は行ってみたいところです。


00080-1.jpg



BURGER JO'S


バーガー屋さんでカフェも兼任しているという感じでしょうか。お店にチャーミングセールのポスターが貼られています。ここもバーゲンです。


000107-1.jpg



JPASTA amann 元町本店


0008-1.jpg


00067-1.jpg


0030-1.jpg



横浜元町・山下公園エリアの横浜老舗 手造りパスタ、JPASTAの元町本店。パスタ専門店です。パスタというとイタリアを思い起こすかもしれませんが、ここはイタリアンのパスタじゃないんですよね。日本製のパスタ。ジャパニーズ・スパゲティなのです。


修行ゼロ、資金ゼロの無謀とも思われる開業ながらイタリアンにとらわれない唯一無二のパスタを提案し続けたことにより多くのお客様に支持を集めて来た。本人は音楽でも他のバンドのコピーはやらなかったと語っている通りパスタに関しても他の店のコピーは決してしない。


オリジナル独創性あふれる完璧なジャパニーズ・スパゲティなのです。 


シェフが目で見て、心で感じ、拾い集めてきた喜びの数々が、ギュッと詰まった「ジャパニーズ・スパゲティ」。湘南藤沢で生まれたJPASTAは、22年間、たくさんのありがとうと育てられ、横浜元町、横浜みなとみらい、東京飯田橋から湘南の香りのスパゲティをお届けしております。


元町に来たときのランチはここでいただこうと当初から思っておりました。


店内はこじんまりとした小スペースながら、なかなか素敵な雰囲気。シェフは店舗の空間表現にも強いこだわりがあり、今まで開店した各店ともそれぞれのコンセプトを強く打ち出して細部にわたり設計デザインにかかわっているのだそうだ。


0026-1.jpg


DSC00043.JPG



これをネットで前日に拝見し、ここまでこだわりがあるのであれば、ぜひ伺おうと思ったのでした。


メニューもすごいんですよね。木箱に入っているのです。驚きました。この拘りよう!!!日本仕様のパスタということで、いろいろなバラエティ溢れるメニューがたくさんありました。品数豊富です。


DSC00034.JPG



自分はさっぱり系がいいな、と思い、しめじやきのこのスパゲティにしました。


DSC00052.JPG



ふだんパスタ、スパゲティというのはあまり食べないのだけれど、これは美味しいと思いましたね~。4か月以上も前のことなので、記憶が確かではないのですけど、ほんわかときのこの香りが満遍なく漂ってきて、豊潤な香りのパスタでございました。完全な純和風テイストという感じですね。


ジャパニーズ・スパゲティの代表格のようなお味でございました。

ごちそうさまでした。



・・・こちらが元町仲通り、元町クラフトマンシップ・ストリートでございました。


いかがでしたでしょう?


自分はメインストリートも素晴らしかったけれど、こちらの裏道の職人気質、職人たちが働き暮らす”クラフトマンシップ”溢れるこの雰囲気にやられたな~。自由が丘を思い出しました。雰囲気が自由が丘に似ています。自由が丘のスィーツではなく、オールジャンル化という印象でした。


いやぁ~~・・・でも横浜元町ショッピングストリート。本当に素敵なスポットでした。

まさに横浜、YOKOHAMA、そのもののイメージと合致しますよね。


これぞ、横浜という感じの雰囲気でした。


みなとみらいを横浜の新市街としたら、元町は、横浜の旧市街という感じがしますね。

横浜開港の地というまさに歴史と伝統の面影を色濃く残している、そんな景観のする街でございました。


こんな素敵な街をいままで知らなかった、というのは随分勿体ない人生を送っていたものだと思いました。











nice!(0)  コメント(0) 

京都コンサートホール周辺の美味しいグルメ [グルメ]

”京都コンサートホールは、もう滅多に行けるところではない。数年に1回行けるかどうかだ。”
                                             
8863-1.jpg
                                            
8871-1.jpg
                                           
8880-1.jpg
                                
                                         
自分の持論にコンサートホールの周辺にはかならずグルメスポットが集結している、ということだ。コンサートホールに開演時間に合わせてピッタリに行く人も多いが、自分のようにそのようなせわしないのが好きでなく、もう1時間以上、何時間も前に到着して、来る感動、興奮に合わせてドキドキしながら待っている、そういうのが好きな人もいる。
                                            
何時間も前に到着して、その長い待ち時間を自分のボルテージをじわじわと上げていく、そういうことに利用する人もいる。自分はそういうのが好きなのだ。コンサートというのはそうやって楽しむものだ。
                                              
コンサートホールの周辺には、その待ち時間を潰すための憩いの場所、休憩する飲食店やカフェが絶対存在する。そういう施設を設けるには、絶好のスポットエリアなのだ。
                                         
首都圏のコンサートホールの周辺は大体もうよくわかっている。
今日はこのホール。そうしたら時間を潰すならここだな、とか。
                                       
東京芸術劇場であれば、おにぎり[おにぎり]の「手造りおにぎり吾ん田 東京芸術劇場店」、サントリーホールであればアークヒルズ・カフェ・レストラン、ミューザ川崎であればラゾーナ川崎、東京文化会館であれば、上野駅ナカのオムライスのたいめいけん・・・などなど。
                           
もうワンパターンで行きつけが決まっているのだ。
                       
”京都コンサートホールは、もう滅多に行けるところではない。数年に1回行けるかどうかだ。”
                       
ほんとうにそうである。
                                 
そういう意味で、地方のホールの周辺を散策して、そんなコンサートホール周辺のグルメのお店をいろいろ見て回るのは楽しいものである。すごく新鮮で目新しさがある。
                             
そこで、京響の第九の2023/12/27の日に、もう3時間くらい前に到着して(笑)、時間を持て余していた。
                                    
ちょっと京都コンサートホールの周辺でそういうグルメスポットがあるかどうか、周辺を歩いてみたのだ。
                                         
ネットで検索すると、結構あるんだよね。京都コンサートホール周辺のご当地グルメ・レストランとか京都コンサートホール周辺の美味しいランチ20選とか、かなり出てくる。
                          
                       
京都コンサートホール付近のご飯で行きたい!美味しい人気店20選
                                   
京都コンサートホール周辺のグルメ・レストラン
                                
京都コンサートホール付近の美味しいランチ20選~人気店から穴場まで~
                        
へぇ~すごいんだな、と驚きました。
                    
サイトの中を覗くと、結構高価なレストランだとか、オシャレな上品で綺麗そうなお店が多い。
                                  
京都の北山駅周辺は市内でも落ち着いた街並みで、おしゃれなランチが食べられるお店が多い場所のだそうだ。
                                         
でも当日、ふっと思ったので、そういうのを事前に予習していって食べようとまでは思わなかったので、まったくの予習なしでぶらぶら歩いてみたのだ。
                          
サイトに載っているのは、結構ホールから距離があるんだよね。近いところでも、0.2km、いわゆる200mくらい。ほとんどは、1km以上離れている。
                       
当日ぶらぶら歩いてみて、自分が発見したお店は、こんなサイトに載っているような豪華なところじゃなかったよな~と後になって思ったのである。
                     
いかにもこじんまりしていて、小さな個人経営のようなそんなお店ばかりだった。ほんとうにホールのすぐそばの話である。
                           
そこで、姫路・京都ツアー番外編として、自分が京都コンサートホールの周辺、ほんとうにすぐその周り、を歩いて見つけた食事処を紹介してみたいと思う。
                    
中に入って食べたり、飲んだりしたわけではないので、味は保証しませんが、今度行ったら、ぜひ入ってみたいと思います。何年後になるかわかりませんが。。。(笑)
                     
                           
●北山あい和
                                     
8838-1.jpg
                                  
北山駅すぐのアットホームな居酒屋さん!
                                       
母娘でやっておられ、アットホームで温かい雰囲気のカウンターのみの居酒屋です。ひとりでも気軽に入れ、常連さん達もイイ方ばかりで一見さんも温かく迎え入れてくれます。ここでは是非、まずは「刺身盛り」をご賞味ください。すごく新鮮で値段も安いです。美味しいお酒と料理、楽しい会話であっという間に時間が過ぎる事でしょう。
                             
・・・だそうです。居酒屋さんということであれば、終演後ですね。
                      
                          
●CHANG-NOI (チャンノイ)~タイ料理/北山
                                 
8841-1.jpg
                            
                        
タイ料理レストラン。現地の味に近いメニューが、エスニックな雰囲気で味わえるお店だと思います。
                              
京都市営地下鉄烏丸線の北山駅から徒歩圏内、北山通り沿いにお店があります。本場タイ人がシェフを務め日本人向けに工夫されたタイ料理店です。地元の上賀茂の京野菜なども使われています。お店はかなり広く、中に入るとタイの雰囲気が存分に味わえます。一人で気軽に入って食べるのもいいですし10人くらいでパーティーで使うのにもいいと思います。お店の前にはトゥクトゥクが置いてあるので場所も凄く分かり易いです。
                      
日本人向けの食べやすい人気のタイ料理屋さんです。
ランチの時間になると混雑していきます。
                                
メニューを見ると分からないタイ料理の名前がたくさん書いてありどれを頼んだらいいか迷います。
                   
安くてお店の人気メニューを少しづつ食べることができお得になります。どうせならいろいろなタイ料理を食べてみたい。単品を頼んでシェアするのもいいです。おすすめはヤムウンセン、トムヤンクン、プーニム パッポンカリー
                     
                                
・・・ここはかなり異彩を放っていました。(笑)京都コンサートホール周辺のお店ではいちばん美味しそうで入ってしまいそうになったお店です。
                         
自分はもうタイ料理が大好きで大好きで。最高に好きです。タイ料理は、フジテレビの大学時代の同期の友人に初めて自分に紹介してくれて、衝撃を受けました。こりゃウマい!もう一発でハマってしまいました。
                     
やっぱりトムヤンクンが最高!トムヤンクンにはほんとうにハマりました。自分にとってタイ料理と言えばトムヤンクンです。
                        
美味しいですよね~。
                      
                                
世界三大スープって知ってますか?三大スープなのに4つあるのです。(笑)
                                    
国内にも味噌汁をはじめとしたスープ文化があり、多くの家庭で日常的に食べられています。 世界三大スープと呼ばれているのは、タイの「トムヤムクン」、中国の「フカヒレスープ」、フランスの「ブイヤベース」、ロシアの「ボルシチ」の4種類です。 どのスープも発祥の国が異なれば、素材や味わいなども異なるのです。
                                  
トムヤンクンは、茹でたえびに加えて、ゴロッとしたえび団子入りで、魚介の旨みたっぷりの食べごたえのあるスープに仕上がっている。タイ料理でお馴染みのレモングラスやココナッツミルク、爽やかな辛みの赤唐辛子、レモン果汁などを使ったレシピで、酸っぱくて辛い独特の味わいを再現した感じです。
                          
パクチも入っていることありますね。
                           
あのスープのなんとも言えない独特の酸っぱくてスパイシーな味。あれにエビがゴロッと入っているのが美味しいのです。えびが入った酸味と辛味のあるスープ。いまこれを書いているだけでも思い出して食べたくなりました。
                                  
もう何年前かな~?おそらく1988年~1994年頃だったと思う。
もうタイ料理好きすぎて、東京都内のタイ料理屋さん片っ端から巡りました。当時はまだタイ料理そんなに今ほどメジャーじゃなくて、タイ料理屋さんもあまりそんな数なかったです。珍しい世界料理という扱いでした。
                           
自分がお気に入りだったのが、渋谷のNHKのある代々木公園に入る前の交差点の近くにあったタイ料理屋さん。地下にありました。
                                       
タイ料理の店内は薄暗いんです。もうどこでもそう!
薄暗くて、独特のタイの国のテイストが漂っている。
そして店内を流れるBGMももうまさにタイなんだよね~。
                         
トムヤンクンをはじめ、タイカレー、鶏スープで炊いたチキンライス、鶏ひき肉のバジル炒め、辛くないタイ風焼きそば、エビや肉、野菜入りの揚げ春巻き、タイ風五目野菜炒め、タイ風焼き鳥・・・
                         
トムヤンクン
                                      
トムヤンクン.jpg
                           
タイカレー
                                       
タイトルなし.jpg
                      
                             
チキンライス
                                   
チキンライス.jpg
                         
                       
タイ風五目炒め
                               
五目炒め.jpg
                         
                            
揚げ春巻き
                                   
揚げ春巻き.jpg
                                    
                           
タイ風焼き鳥
                                       
タイ焼き鳥.jpg
                           
                          
タピオカココナッツミルク
                               
タピオカ.jpg
                  
                       
                                  
もう堪りませんよ~。
タイ料理のあの独特の辛みやスパイシーがあって香ばしい味。
もうタイ料理大好きでした。
                            
タイ料理ってじつはエビがキーになる食材なんじゃないか、と思います。
                                      
デザートのタピオカココナッツミルクがこれまた最高なのです。もうこのタピオカが好きすぎて、スーパーで売っているのを買ってきて、自分の家で作って食べてましたから。(笑)それだけ美味しかったです。
                         
数年前に若い人の間で大流行したあの真っ黒の”タピオカ”。あれは全然ダメです。(笑)
あれはゲテモノです。
                                     
本物のタピオカは透明なんです。そして甘い白いココナッツミルクと合わせるとウマいんだな~。スパイシーで辛いタイ料理を食べた後に、このデザートのタピオカを食べると、ほんとうに昇天しますよ。
                           
スミマセン。。。タイ料理と知って興奮し過ぎました。
それだけタイ料理はほんとうにハマりました。
                                
病気で北海道の実家で療養していたとき、よし東京に戻ったら、絶対あの渋谷のタイ料理屋さんでトムヤンクン食うぞ~と夢見ていたのですが、療養期間を終えて、ようやく東京に戻ってきたら、その渋谷のお店なくなっていました~。(笑)
                          
それ以来、タイ料理ご無沙汰です。もう20年間ご無沙汰だな。べつに嫌いになった訳では全然ないけど、都内を食べ歩くほどのパワーがなくなりました。
                    
ひさしぶりにタイ料理食べたいです。
                       
自分はタイ料理というと、あの渋谷の地下のお店の薄暗い店内で食べているシーンをかならず思い出すんですよね。もうパブロフの犬状態です。
                             
あの渋谷のお店、復活してほしいです。
                   
この京都コンサートホールの近くにあったCHANG-NOI (チャンノイ)というタイ料理レストランは、そんな自分のタイ料理に対する愛情が一気に湧き出てきて、思わず入りそうになりました。それだけ誘惑大きかったです。
                       
                      
                     
●そば料理 よしむら 北山楼
                                           
8846-1.jpg
                       
                     
京都・嵐山に本店を構える“そば料理 よしむら”
                                             
京都の諸所に個性ある店を構え、手打ちそばや趣向を凝らしたそば料理、四季を彩る旬の料理を供し、日々、全国からのお客様をお迎えしております。
                      
そばへの想いと職人の技が織りなす、本物の手打ちそばをぜひご賞味ください。
                    
                        
国産そばの実にこだわり、40名以上の熟練の職人たちがすべて手打ちしております。玄蕎麦は全国の生産者から収穫したてのものを仕入れ、毎日剥きたての新鮮なそばの実を、その風味を損なわないよう石臼で時間をかけて丁寧に挽いております。また、そばを使った様々な創作料理や、そば茶スイーツなど、蕎麦の様々な楽しみ方をご提案してまいります。
                      
・・・本店は、京都・嵐山なのだが、それの北山にあるお店なんですね。
もうここも思わず入りそうになりました。
                    
お蕎麦も大好き!です。
                    
京都のそばといえば、ここ”よしむら”でしょう!
                          
                  
●AINOUE COFFEE
                          
8830-1.jpg
                      
                      
ここはコーヒーとあるので、カフェ、喫茶店なのかと思いましたが、店内が異常に狭く、とても喫茶店という感じではなかったです。豆を売っているところなのか、とも思いましたが、いまネットで検索しても出てこないです。謎です。
                     
まさに京都コンサートホールの真正面にあります。
                   
ネットで調べると、
                        
いのうえCoffee.NET
いのうえCoffee
                            
”出会う全ての方へ幸せを届けます”
南国沖縄でコーヒーの自家焙煎をしています。
店舗は構えずにオーダー単位で焙煎し、
新鮮で薫り高いコーヒーをお届けすることを何よりも大切にしています。
コーヒーを通して出会う皆様へ、幸せで豊かな時間をお届けします。
                   
                 
・・・というのがあり、ここの京都北山分店ということでしょうかね。
違っていたらゴメンナサイ。
                     
                     
                       
ここは居酒屋のような感じですが、なにせ夕方に行ったので、お店が開いておらず謎でした。(笑)
                                       
8855-1.jpg
                     
                   
                    
ネットにある京都コンサートホール周辺のグルメスポットの情報は、確かに高級で綺麗なレストランが多いが、ホールからの距離感がかなり離れている。
                
ほんとうの意味で、京都コンサートホール周辺のグルメスポットは、実際ホールの周辺を散策して、私ノンノンが確認したこれらのお店である。
                       
                      
これこそが、真の”京都コンサートホール周辺の美味しいグルメ”であることを、ここに断言しよう!(笑)
                    
実際歩いてその存在を確かめたのですから。

                

                  

                                        

                                        

                        

                                     


nice!(0)  コメント(0) 

国際音楽祭NIPPON2024 モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会 [国内クラシックコンサートレビュー]

諏訪内晶子芸術監督による国際音楽祭NIPPON2024。開幕。


412375364_872729328187473_3951968920582475178_n.jpg



この音楽祭は毎年開催されるものではないんですね。(笑)勘違いしていました。充分時間をかけて、テーマを練り上げ、そして若手演奏家を含めた出演者の交渉、練習、日本のどのエリアを廻るのか、地方のアウトリーチや学校での演奏の調整、指揮者やオーケストラや共演者との念入りのリハーサル、そのほか諸々のビジネスイシュー。


そんな徹底的に完成度を磨き上げて臨むため、2年~3年間隔のインターバルはどうしても必要なのだろう。


2024年1月11日から2月27日まで東京・横浜・名古屋・大船渡にて、7企画10公演の多彩なラインナップで開催する。 


諏訪内晶子による モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会は、指揮にサッシャ・ゲッツェルを迎え、国内外の名手たちにより創設されるフェスティヴァル・オーケストラによる演奏。 室内楽プロジェクトにも、諏訪内が厚い信頼を寄せるトップ奏者たちが集う。楽都ウィーンを彩った作品、作曲家に焦点をあてた“クラシック”&“モダン”の室内楽プロジェクト、濃密な音世界をお届けするシューマンの室内楽マラソンコンサート。


アーティストが全員揃って、通常の形で行える3年ぶりの音楽祭。全体像は「ウィーンに焦点を当てたプログラム」だ。



「ウィーンとなればモーツァルトは外せません。全5曲は調性も形も様々で、オペラのように色々な場面が詰まっていますから、各々を明確に表現し、モーツァルトの世界観を伝えたいと思っています」



1月11日、1月12日と2日間、東京オペラシティコンサートホールで、モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会を鑑賞してきた。


去年2023年の今年の芸術の秋は、いま振り返ってみればほとんどがピアノのコンサートであった。

ヴァイオリンはまったくなかった。


ひさしぶりにヴァイオリンが主役のコンサートを聴いて、いやぁ~やっぱりヴァイオリンはいいな~と思ってしまった。ヴァイオリン大好きを自認する自分にとって、やっぱりVn最高~という感じである。ひさびさの充実感と満足感であった。



モーツァルトのコンチェルトを生演奏で全曲コンプリートするというのは、自分の中でもあまり記憶にない。ヴァイオリン大好きを自認する自分も意外やモーツァルトのコンチェルトというのはあまり記憶にない。


メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ベートーヴェン、ブラームス、シベリウス、ブルッフあたりがやはりヴァイオリンコンチェルトとしてはキラーコンテンツであろう。モーツァルトは意外やあまり聴いたことがなかったような気がする。


やっぱりモーツァルトは天性の明るさ、というか天真爛漫なのびのびとした長調性があり、聴いたら、これはモーツァルト!と一発でわかるわかりやすさがある。


ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在で、おもに現在のオーストリアを活動拠点にした音楽家である。


神童と呼ばれ、幼いころから作曲をして、もう膨大な数の曲をこの世に残していったモーツァルト。彼の曲を聴くと、交響曲であろうが、協奏曲であろうが、ピアノソナタであろうが、室内楽であろうが、レイクエムであろうが、なんかみんな同じ曲、同じ旋律に聴こえるんだよね。


一生懸命、モーツァルトの勉強をするために、たくさんの音源を買い込んで毎日聴いていたら、なぜかそう思ったことがある。それはいまでも変わらない。


モーツァルトの曲って、みんなどれも同じ音楽性で、同じ方向性を向いているような感じがする。もちろんこれは全体として俯瞰したモノの見方であり、1曲1曲はそれぞれ趣向を凝らし、工夫が見られ、バラエティに飛んだ作品群なのだが、ふっとモーツァルト・・と思い起こすと、どれもみんな同じ音楽性に感じてしまうのだ。


屈託のない天性の明るさ、天真爛漫なのびのびとした長調性。

どれもこういうイメージに思えてしまう。聴けば、あ~これはモーツァルト!と一発でわかるわかりやすさ、そして明解なイメージ像が確立されている。


モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多いコロコロと転がるような軽快で優美な曲が多い。聴衆にとっては、明るく華やかに聞こえる作品が多い。これは当時の音楽の流行を反映したものである。


モーツァルトがおもに使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えたと言われているのだそうだ。


そんなところにもモーツァルトのあの作風ができあがった要因がある。



モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であったのだ。したがって、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったということなのである。


モーツァルトは、ザルツブルク生まれ。ザルツブルクといえばモーツァルト。そしてカラヤンだ。(笑)

父にこの子は天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。


父とともに音楽家としてザルツブルク大司教の宮廷に仕える一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。(笑)


モーツァルトの時代はパトロンがいないとダメだったのだ。芸術家は宮廷に仕えることが唯一その道で生きていく術だったのだ。ベートーヴェンよりも前の時代。音楽家、作曲家、芸術家としての生きる道は厳しかった。


モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けたのである。


イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは対位法やポリフォニーの技法を学んだ。


ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意するモーツァルトのウィーン時代であるが、以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。


モーツァルトはザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいだったのだ。


ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなしたイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする説もあるそうだ。


浪費家でいつもお金に困っていた。自分みたいである。(笑)


「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが並外れた記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿および修正の跡が多く発見されている。


そしてなによりも作曲するのが早かった。

古典派やその後のロマン派の作曲家に至っても、モーツァルトほど曲を残した作曲家はいなかったのではないか。ほんとうに膨大な曲数である。それが全部同じ風に聴こえてしまうのだ。(笑)


それがモーツァルトなのである。

これが自分のモーツァルトに抱いているイメージ像である。




1984年に米国で制作された「アマデウス」という映画があった。


800x_image.jpg


movie.jpg


photo_2.jpg


amadeus.jpg



ブロードウェイの舞台『アマデウス』の映画化である。映画版『アマデウス』は、アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞、美術賞、衣裳デザイン賞、メイクアップ賞、音響賞の8部門を受賞した。


日本での公開は1985年だったが、自分はそれまでなんとなく神童、天才という高貴なイメージで自分の中に捉えていたモーツァルトが、この映画によって一気に奈落の底に落とされた(笑)というか、モーツァルトってじつはこんなふざけた明るい人間だったのか、という大ショックを受けた。


この映画は自分にとってモーツァルトのイメージを一変させた大変な作品だったのだ。

あまりにショック過ぎて、自分は見終わった後、そのままその事実を受け入れられなかった。(笑)



・優秀な音楽家としての顔を持ちながら、その実は猥談を好み、妻のコンスタンツェに宛てた卑猥な内容の手紙が数多く残されている。

・モーツァルトは従妹に排泄にまつわる駄洒落(トイレのユーモア)にあふれた手紙を送ったことがある。いわゆる「ベーズレ書簡」といわれるものである。

・ベーズレ書簡はモーツァルトの死後、息子たちによって破棄を望まれたが、現在6通が保管されている。

・そのほか冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。

・九柱戯(ボウリング)やビリヤードを好み、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた。ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。賭博にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引っ越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいる。



昔の伝記作者は、モーツァルトのこういう性格を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化していたのだが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められているのだ。


逆にこういうところがいかにもモーツァルトらしい、という特徴でもある。


早熟の天才で、肖像画や銅像ではいずれも「神童」に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いのだが、じつはかなりふざけた奴だったのだ。(笑)いまの伝記では、そういうところを隠しもせず堂々と表現することが逆にモーツァルトらしいということで常識路線となっている。


その史実を自分に初めて教えてくれたのが、1984年の映画「アマデウス」だったのだ。

当時はもうショックでショックで立ち直れなかった。


モーツァルトを知るには、この映画「アマデウス」を観ることをぜひお薦めする。


モーツァルトは、死後きちんとした個人向けの墓に埋葬されたのではなく、遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。この簡素でそっけない埋葬は、晩年のモーツァルトが後援者たちから軽視されていたことの表れだと考えらている。


映画「アマデウス」では、男たちは亡くなったモーツァルトをそのまま袋に詰めて、たくさんの遺体が入っている大きな穴の中にポ~ンと放り投げる、という残虐なショッキングなシーンで、まさに神童、天才作曲家の最期としてこんな風に邪険に扱われるなんて!と自分は当時もう断然に受け入れられなかった。


かなりショッキングなラストシーンであった。


早熟の天才は、やはり晩年はなかなかツライ人生を送るのかもしれない。

大器晩成型の人生のほうが幸せなのかもしれない。



でもどんなに”晩節を汚す”人生であろうが、モーツァルトが天才であることには変わらない。


・彼は最も複雑な音楽の中でさえ最小の不協和音を指摘し、ただちにどの楽器がしくじったかとか、どんなキーで演奏すべきだったかというようなことまで口にした。演奏中の彼は最小の夾雑音にさえいらだった。要するに音楽が続く限りは彼は音楽そのものであり、音楽が止むとすぐに元の子どもに戻るのだった。


・…私は同じく、ある時は鍵盤の低音で、またあるときは高音で、そして可能なすべての楽器で演奏される音を別の部屋で聞かされて、たちどころに演奏された音符名を伝える彼を見聞きした。その通り、彼は鐘や大時計の音を聞き、懐中時計の音さえ聞きながら、聞き取った音をただちに口にすることができたのである…



こういう神話が数多く残っているモーツァルト。まさに人間として、突出した音楽の才能を持っていたことは紛れもない事実で、それがあれだけ膨大な数の優秀な作品を残していった大作曲家の証なのである。




自分にとってのモーツァルト・ブームはいまから18年前の2006年である。

この2006年は、モーツァルト生誕250周年ということで、クラシック業界はモーツァルトイヤーと称して大々的なセレモニー、宣伝をおこなった。自分もこの波に乗った。


当時はまだCD大全盛の時代。たくさんのモーツァルト関係のCDが発売された。

そしてクラシックコンサートももう軒並みモーツァルトの曲で目白押し。


”モーツァルトの曲を聴くと心の健康にいい!”がキャッチフレーズである。


NHKは毎朝、15分くらいの短い時間を取って、モーツァルトの曲を解説、紹介していくという特番を設けた。そのとき毎回唱えるフレーズが、モーツァルトの音楽を聴くと精神の健康にいい!である。


自分は毎朝見てましたよ。(笑)



当時のNHKは、クラシックミステリー名曲探偵アマデウスとか、クラシックに関する庶民が入り込みやすい初心者向けのいい番組がすごく多くて、NHKの番組制作陣も予算があっていい番組をたくさん作っていた。


そしてそのモーツァルトイヤーの頂点に立ったのが、サントリーホールとウィーン楽友協会との提携により毎年実現しているウィーンフィル来日公演@サントリーホールである。この頃の自分はクラシックに夢中になっていたときなので、すごかったです。ウィーンフィル友の会にも入会していたし、ウィーンフィル来日公演は毎年サントリーホールに聴きに行ってました。


ベルリンフィルは3年か4年に1回しか来日してくれないけど、ウィーンフィルは毎年サントリーホールに来てくれるのである。


2006年のモーツァルトイヤーの頂点だったのは、ニコラウス・アーノンクール指揮のウィーンフィル来日公演を聴けたことです。モーツァルトイヤーだったので、もちろんオール・モーツァルトプログラムである。


NHKで録画放送されたのをダビングして保存してあります。自分の宝物です。


アーノンクールのモーツァルトは、バリバリに古楽アプローチであった。(笑)アーノンクールは自分の時代では欠かせない巨匠で、まさに古楽という、当時の曲は当時の楽器、当時の響きで演奏しましょう、という手法を業界に先んじて引っ張っていっている人でした。


アーノンクールはつねに尖ってました。(笑)


アーノンクールのウィーンフィルはかなりの小編成で、そのアプローチ、アーノンクールのモーツァルトに自分は衝撃を受けましたです。アーノンクールの指揮をリアルで観れた最高の宝物の経験です。


アーノンクールのCDもたくさん買ったし、モーツァルトのレイクエムのSACDは最高だったと思います。もう故人ですが、自分の時代の巨匠でした。



モーツァルトはピアノは、協奏曲とソナタの両方の作品を残しているのだが、ヴァイオリンは苦手なのか、ヴァイオリン・ソナタは作曲していない。ヴァイオリン協奏曲だけである。



モーツァルトは全部で5曲のヴァイオリン協奏曲を残している。いずれも若い時の作品だが、モーツァルトの父のレオポルド・モーツァルトがヴァイオリンの大家で有名な教本を出版していた位である。その中でも第3番、第4番、第5番『トルコ風』は名作の域に入ると思います。また、大人になって始めたアマチュア・ヴァイオリニストが中級レヴェルを目指すときのゴールとなる曲でもありますね。



モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は全て1775年の1年の間に作曲されている。その間に長足の進歩を遂げ、第3番以降は名曲の部類に入ります。一つの協奏曲が20分~30分と意外に規模の大きな曲。


作曲の動機はザルツブルクの宮廷ヴァイオリニストであったアントニオ・ブルネッティのために書かれたとされている。しかし、1年でこれだけの規模の協奏曲を5曲も書いている訳で、その理由は分かっていません。


やっぱりモーツァルトのコンチェルトというと、第3番、第4番、第5番のこの後半の3曲なんですよね~。この3曲は名曲です。クラシックのヴァイオリニストのCDでモーツァルトのコンチェルトを録音するときは大抵この後半の3曲を入れます。第1番から第5番をコンプリートして録音するアーティストは、どうなのだろう?自分はあまりそういうCD持ってないかも?記憶に出てこないです。


ヴァイオリン協奏曲というのは、やはり古典派、ロマン派、現代と後世になっていくにつれて、すごく曲の構成が複雑になっていって、よりドラマティックに感動できるような仕組みが幾重にも重ねられていってる。だんだん進化しているんですね。


モーツァルトのコンチェルトは、やはり時代が先なので、すごいシンプルな構造で、わかりやすい特徴があります。ほんとうにシンプル。モーツァルトのコンチェルトで、後世のコンチェルトにひけをとらないと思えるのは、第5番「トルコ風」だと思います。第5番になると曲自体に風格と重鎮さが出てきて、そしてより感動させるだけのフックの仕掛けとか巧妙になり、他の作曲家のヴァイオリン協奏曲と比較しても十分な内容を持ったものになります。演奏時間が30分を超えるなど、意外に大作。


1775年12月20日にザルツブルクで作曲されました。


第3番が5曲のヴァイオリン協奏曲の中で最初に成功した作品です。



モーツァルトはヴァイオリンが急速に発達していた時期に活躍したのです。1750年ごろに弓が逆ぞり(今の形)に変わったと言われています。もちろん、急に変わったのではなく、段々と変わっていったのですけれど。逆ぞりの弓になっても、今のモダンボウと同じものになったのではなく、もっと軽い「クラシック・ボウ」と呼ばれる弓を使っていた、とされています。


自分にとって、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲といえば、やはりアンネ・ゾフィー・ムターのこのアルバムなんですよね。



457.jpg


モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集 アンネ=ゾフィー・ムター




ロンドンフィルとの共演で、第1番~第5番までをコンプリートして録音したまさにモーツァルトのコンチェルトといえば、この録音というほどベストセラーでした。名盤中の名盤だと思います。DG録音です。


自分はこのアルバムでモーツァルトのコンチェルトを自分のモノにしました。


このモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集の映像コンテンツ、DVD版もありますよ。(笑)これもしっかり持っていて何回も繰り返して観ていました。オーケストラは、今度はカメラータ・ザルツブルクです。



934.jpg


モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全集 アンネ=ゾフィー・ムター、カメラータ・ザルツブルク(2DVD)



モーツァルトのコンチェルトは、このアルバムCDとこのDVDで。そしてブラームスのヴァイオリンソナタもムターのBlu-rayで。オニキス爺さんとヨーロッパの洞窟で演奏しているあの演奏が最高でした。あれでブラームスのソナタを自分のモノにしました。


ヴァイオリンに関しては、モーツァルトのコンチェルトとブラームスのソナタは、自分にとってはやはりムターなのです。


でも自分にとってモーツァルトのコンチェルトを生演奏で体験するというのは、あまり記憶にないのです。ライブ体験は、自分の場合、どんなに昔の公演でも克明に覚えているものなのだけど、モーツァルトのコンチェルトだけは思い出せないんだよね。


第3番~第5番の3曲は、とても有名ないい曲なので、ぜったい普通にプロモーターさんも喜んで取り入れる曲なので、絶対あるはずなんだけど。コンサート広告でヴァイオリン関係もモーツァルトはふつうによく見かけた感覚はあるんだけど、いざ自分が体験となると思い出せない。


でもいまここに心願成就!

ここに伝説が打ち立てられようとしている。


7935-17-2b6bb12cd0e36c15ae99248141424f88-1200x628.jpg



長かった~。(笑)

これを言いたいがために、モーツァルトから入り、巡り巡っていまここにようやく到着しました。(笑)

長い前ぶりでスミマセン。。。


東京オペラシティコンサートホール。


DSC09353.JPG


ここは開演前の待つときに座る場所がなくていつも困るんですよね。いつも開演前のだいぶ前に到着するので、ずっと立って待っていないといけない。



初日。1月11日(木)


DSC09358.JPG



二日目。1月12日(金)


5022-1.jpg



やっぱり生演奏は響きが素晴らしいです。この器感、立体感、響きの豊潤さ、濃さは、なかなかオーディオで実現するのは難しいと毎回のことですが、自分には受け入れがたいショックを受けます。生演奏を聴くたびにこの試練を突きつけられ、結構悔しいです。


東京オペラシティはやはり音響は素晴らしいですね。この独特のホール形状。ヨーロッパの教会を思い起こさせるような尖った高い天井。響きの滞空時間がすごい長いです。いい響きだな~と毎度思います。


やっぱり2階席のサイドは視界的にいやですね。やっぱりオーケストラは真正面から聴きたいし、観たいです。どんな音響的ロジックがあったとしても、やはり正面から観たほうが精神的な落ち着きがあって、安心して観ていられます。



諏訪内晶子のソロ、サッシャ・ゲッツェル指揮、国際音楽祭NIPPONフェスティヴァル・オーケストラによる「モーツァルト ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会(全2回)」。


指揮のサッシャ・ゲッツェルは、諏訪内さんのジュリアード時代の同門で、元々ヴァイオリン奏者。以前『マスター・プレイヤーズ,ウィーン』で武満徹の『ノスタルジア』を演奏した時、奏者でゲッツェルが来ていたが急遽行った指揮が本当に素晴らしく、いつか共演したいと思っていたのがもともとの発端だったそう。ウィーン出身で、ヴァイオリンのことがわかり、オペラも振れるので、今回なくてはならない指揮者だそうだ。



オーケストラは、この音楽祭専用に編成されたフェスティバル・オーケストラ。コンサートマスターは白井圭氏。諏訪内さんと白井氏が依頼した弦の首席奏者や彼らと繋がりのある管楽器奏者、さらにはマスタークラス出身の若手も加わって出来上がった名人たちの集まりだ。


これがじつにうまいオケなんだ。(笑)

もうびっくりしました。


編成的には小編成のオーケストラなのだが、じつに発音能力に長けたオーケストラで、特に自分が舌を巻いたのが弦楽器再生。和声感、ハーモニー感があって、それそれの弦の音色が幾重にも重なって奏でられるその弦の厚み。ボリュームがあって、レンジもすごい広い。


これはすごいな~と驚いてしまった。

まさにフルオーケストラでもここまで調和できないと思うくらい精緻なアンサンブルで、プロフェッショナルだな~と思いました。


まさに弦のプロですね。


オーケストラってやっぱり弦ですね。弦が強い、秀でているオケは、やっぱり聴きごたえがあって、聴衆を一気に別世界、天国に連れてってくれるし、酔わせるだけの魅力があると思う。うまいオケだな、と瞬時で思ってしまうのは、やはり弦楽器再生に秀でている楽団だと思いますね。


フェスティバル・オケというと、どうしても臨時で組成されたというイメージがあるものですが、練習も大変だったろうに。。どれだけのリハーサル期間を費やしたのかはわかりませんが、即席でこれだけ合わせられる、というのはまさにプロの集まりだな、と感じました。


今回のコンサートで自分が一番驚いたのは、このフェスティバル・オーケストラのうまさでした。

編成規模やテクニックのレベルから、なんか水戸室内管弦楽団を思い出しましたよ。


このオケのお披露目として、コンチェルト以外にも交響曲での演奏がありました。モーツァルトの交響曲の第1番とか第15番とかです。まさにこのときはこのオケの魅力全開というところでしたね~。素晴らしかったです。


自分はモーツァルトの曲では、じつは交響曲よりもディヴェルティメントが1番好きなんですよね。この曲はなんかポップスのようなわかりやすいコード進行でじつにカッコいいです。明るくてカッコいい曲なのです。


音楽好きの人間にとって、あるアーティストを好きになるきっかけになる出会いの曲というのが必ずあると思います。まさになにげなくラジオから流れてきた曲のメロディにノックアウトされて、もうそのアーティストに無我夢中。そのきっかけになった曲。そういう衝撃的な出会いがかならずあるものです。


自分の体験では、ビートルズの場合、ラジオから偶然流れてきた”She Loves You”です。

これはまさに衝撃でした。

なんとカッコいい曲なんだろう。

いままで聴いたことがない、脳天をハンマーで打たれたような衝撃。


この”She Loves You”、この曲がきっかけになって、自分のビートルズ愛が始まったのです。

すべてがこの曲が原点だったのです。


モーツァルトの場合、自分はその出会いの曲に相当するのがディヴェルティメントなのです。

これが衝撃の出会いで、自分がモーツァルトを好きになった、そのきっかけになった曲でした。クラシックらしくないポップスのようなカッコよさ。


このディヴェルティメントはめちゃめちゃカッコいいと思います。

自分は交響曲よりもこの曲のほうが好きです。

ある意味一番モーツァルトらしい天真爛漫な雰囲気が出ている名曲だと思います。


モーツァルトを勉強していた頃、この曲が収録されているCDをプレーヤーのリピート機能を使って1日中フル回転で繰り返し聴いていました。それだけ好きでした。


この日、このフェスティバル・オーケストラのあの分厚い弦の音色で、このディヴェルティメントを演奏してくれたときは、カッコよかった~~~。


まさに痺れたとはこのことです。



そして指揮者のサッシャ・ゲッツェル氏。もちろん自分は初めて体験しますが、ヴァイオリン奏者から指揮者に転向とのことですが、なかなか税に入っていたと思います。オレが先頭になってオケをどんどん引っ張っていく、音を引き出していくという率先型ではないと思いますが、うまくプロ集団のオケと一体になってモーツァルトのあの明るい情緒的な雰囲気を醸し出していたと思います。控えめだけど引き出し方のうまい調和型の柔軟な指揮だったと思います。


ウィーン出身で、もともとヴァイオリン奏者ということで、ヴァイオリンのことがよくわかる、今回のヴァイオリンコンチェルトでは欠かせない絶好の適任者だったんですね。諏訪内さんの同門で過去に彼の指揮を体験していつかご一緒したい、という願いもあったことですから。



そして諏訪内晶子さん、赤のドレスでした。

自分はモーツァルトのコンチェルトは、CDではよく聴いていたけど、生演奏ではあまり記憶にないのですが、新鮮だったのはカデンツァ。ふつうカデンツァはCDの録音には入りませんね。生演奏でないと体験できないです。


それも第1番から第5番までの5曲、すべてにカデンツァが入っていたことです。自分の記憶や理解が正しければ、ですが。大半が第1楽章だったでしょうか。


ライブでモーツァルトのコンチェルトを聴くこと自体、自分にとっては大事件なのに、さらにそこにカデンツァが入っているバージョンを聴けるなんて、これは貴重な体験だな~と思いました。


誰が作曲したカデンツァなのか、自作なのか、まったくわかりませんが、すごい興奮しました。


諏訪内さんのモーツァルトは、王道路線の正攻法という感じで、堂々とした演奏で自分の期待通り、イメージしていた通り。まさにモーツァルト・コンチェルトはこう弾くんだというお手本のような演奏だったと思います。


奇をてらったところが全くなく、まさに正攻法。自分の理解している、自分がいままで聴いてきたモーツァルト・コンチェルトとまったく違和感なく位相同期してました。違いはいまここで生演奏で聴いているというこの事実です。


ただ単に平坦に3楽章を続けるのではなく、いろいろ抑揚をつけてここの最大限の見せ場に向かって、一気に流れ込んでいくとか、ここはメローに聴かせるとか、そういう全体のストーリーを踏まえ、バランス的にいろいろ工夫、考えていたように思います。結構5曲ともドラマティックで、劇場型の魅せる演奏で素晴らしかったです。


まさに自分が知っているモーツァルト・コンチェルトで、それの少しドラマ型で煽る感動する、そういうサプライスがあったと思います。


自分はモーツァルトの曲はみんな同じに聴こえると言いましたが、2日間かけて全曲を聴くと、やはりそれぞれの曲でいろいろ音形や調性、曲の進行の仕方など様々で、5曲のそれぞれの魅力がよく理解できたように思います。


とくに普段は、第1番と第2番は滅多に聴かない曲ですから、それをライブで聴けたというのは貴重な体験だったと思います。


相棒、1732年製作のグァルネリ・デル・ジェズは、それはそれは朗々と鳴っていました。

いい鳴り、響きでしたね~。まさにヴァイオリンの倍音の美しさとはこのことを言うんですね。


2006年のアーノンクール&VPOのピリオドアプローチとはまったく正反対のモダン楽器、現代楽器によるモダンアプローチのモーツァルトでありました。


モーツァルト ヴァイオリン協奏曲を全曲で聴く。


これを生演奏で体験できたというのは、自分のクラシック人生の中でも宝物のような体験だったと思います。それを国際音楽祭NIPPONで実現できたことは大変光栄なことだったと思います。


今度は、若い世代の音楽家との共演でのシューマンの室内楽マラソンコンサート、2月に参上します。


楽しみにしています。


諏訪内晶子.jpg


フェスティバルオケ.jpg


(c)ジャパンアーツFacebook




国際音楽祭NIPPON2024

オール・モーツァルト・プログラム


ヴァイオリン独奏:諏訪内晶子

指揮:サッシャ・ゲッツェル

管弦楽:国際音楽祭NIPPONフェスティバル・オーケストラ

コンサートマスター:白井圭



2024年1月11日(木)19:00~

東京オペラシティコンサートホール


交響曲第1番 変ホ長調 K.16

ヴァイオリン協奏曲第1番 変ロ長調 K.207


(休憩)


《アポロとヒアキントゥス》序曲 K.38

ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ長調 K.211

ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218




2024年1月12日(金) 19:00~

東京オペラシティコンサートホール


交響曲第15番 ト長調 K.124

ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216


(休憩)


ディヴェルティメント ニ長調 K.136

ヴァイオリン協奏曲第5番『トルコ風』 イ長調 K.219












nice!(0)  コメント(0) 

すみれ1994 [グルメ]

新横浜ラーメン博物館の「あの銘店をもう一度」。ついにキタ~!


「すみれ」の登場である。


自分にとって、”ラー博=すみれ”という方程式が成り立つくらい思い入れがある。


「あの銘店をもう一度」は、”すみれ”の登場で、自分にとってはこれで終了と言ってよい。


純連・すみれに対する自分の想い入れ、体験談はもう何回も日記で書いてきたので、そこはあまり触れないでおこう、あっさり程度で。でもやっぱり熱くなるかも。(笑)


ラー博のFacebookで、すみれがラー博に出店するまでのいきさつ、苦労が書かれた記事が投稿されていた。これはぜひ紹介したい。ぜひ知ってほしい。



札幌の名店「すみれ」の味噌ラーメンがなぜ横浜で味わえるのか “門外不出の味”がラー博に出現するまでの3年の軌跡 2024年は師匠と弟子達の“すみれオールスターズ”が集結!





●岩岡洋志・新横浜ラーメン博物館館長のコメント「3年間で100回以上も通った。熟練の職人しか作れない味」


「すみれ」さんには3年間で100回以上通いました。だからこそご出店していただくことが決まった日は本当に嬉しかったです。その経緯はコラムで大半のことは書かせていただきましたので、ここでは今回の出店に関してお話しさせていただきます。


あの銘店をもう一度の企画が立ち上がった段階で私たちは札幌に伺いました。94年組は1994年当時の味の再現というテーマがあり、この内容で受けてくれるか、ドキドキしておりましたが、店主の村中伸宜さんから「わかったよ。当時の濃厚な味噌ラーメンを作るよ」と言っていただきました。


そして2022年の11月に村中さんから「昔の濃厚な味噌ラーメンが完成したから食べに来てほしい」という連絡をいただきました。私も「すみれ」のラーメンは1991年から100杯以上食べていますし、時代と共に変化していることもわかっていましたが、そのラーメンを食べた瞬間、当時の記憶が甦り、懐かしさと共に「これ!これ!この味」と興奮しました。


村中さん曰く、あの当時の味噌ラーメンは高度な技術を要するため、熟練の職人しか作ることができないようです。今回は独立して有名店となった村中さんのお弟子さんが期間中来てくれるのでその味を再現することができるようです。このラーメンをこのスタッフで食べられるのは28日間しかありません。貴重な一杯を是非この機会にお召し上がりください。



・・・純連は、1964年、昭和39年の創業なんだよね。東京オリンピックの年である。

自分も1964年、昭和39年生まれ辰年である。


やっぱり赤い糸で結ばれた深い縁を感じる。これは絶対偶然じゃない。


純連と書いて、すみれと呼ばせ、村中明子(むらなかあけこ)さんが創業した。そこからいつしか純連はじゅんれんと呼ばれるようになり、純連(じゅんれん)を長男の村中教愛さんが、すみれを三男の村中伸宜さんが。病気で引退をしていたお母さん村中明子さんも復活してラー博に”らーめんの駅”を出店するサプライズもあった。


もう何回も語ってきた伝説である。


ラー博に1994年開業とともに、すみれ出店で北海道札幌のご当地ラーメンがあっという間に全国区になった。


”あの当時の味噌ラーメンは高度な技術を要するため、熟練の職人しか作ることができない”


そうだろう、そうだろう。


あの頃のあの濃厚なスープが忘れられない。それが時代とともに、どんどん変わっていって、いつぞや、すっかり別物として変わり果てていたすみれ・・・と罵倒したこともあった。(笑)


やっぱりラーメン店って難しい。長いこと同じ味を続けることってほんとうに難しいことなんだな、と実感する。




「純連(すみれ)」との出会いはラー博がオープンする3年前の平成3(1991)年。ラー博の創業者である岩岡洋志が、調査のため、全国を食べ歩いていた頃です。当時のメモが残っています。岩岡曰く相当な衝撃を受けたようです。


5ed318cfb64aa49cf29c777861805e51-1250x710.jpg

平成3年に館長が書いたメモ(c)ラー博Facebook


82ce3c799a07e82224ea510816f30f03-1250x934.jpg

(c)ラー博Facebook


岩岡は食べた後すぐに「横浜でラーメン博物館を開業する予定があり、ご出店いただけませんか?」といきなり交渉をしたようです。もちろん門前払いでしたが、横浜に戻った岩岡は他のメンバーに「純連(すみれ)」のラーメンは衝撃の味。これを横浜に持ってきたら絶対目玉になる!俺は諦めず何度も通う!」と断言したようです。


岩岡はまずは顔を覚えてもらうため、札幌に行くと5日間滞在し昼と夜、毎日ラーメンを食べに行きました。そして4日目の日、ついに村中さんから「俺に何か用か?」と、話す機会が出来ました。


岩岡はラーメン博物館の構想や夢を語るも、村中さんからは「うちは家族経営でやっている。前にも言ったがこの店で手一杯なんだ。味も門外不出。横浜でラーメン作るなんて、無理な話だよ」と断られました。


岩岡はそれでもめげず何度も「純連(すみれ)」に通い続けました。


ある時、店に行ったとき「岩岡さん、何度来てもダメなものはダメなんだよ」と言われるも「私の名前を憶えてくれたのですね!」と本人としては一歩前進したと感じたようです。その後も村中さんが競馬が好きと聞けば、待ち伏せをして一緒に競馬に行ったり、食事に行くほどの間柄まで進みました。村中さんからも「なんでラーメン博物館をやろうと思ったのか?」といった質問が出てくるようになりました。


そんな関係を2年ほど続けていたある日、村中さんから連絡があり「横浜で勝負してみたい。出店する方向で考える」という嬉しい知らせが来たのです。



shiyatyouB-737x1250.jpg

誘致当時の村中伸宜さん (c)ラー博Facebook



早速札幌に向かった岩岡でしたが、そこには浮かない表情の村中さんがいました。「岩岡さん、この前の電話の話はなかったことにしてくれ。家族を説得できなかった。申し訳ない」と、決まりかけた出店が白紙に戻ったのです。


ラーメン博物館オープンまで7カ月を切ったタイミングでした。


岩岡は色々考えた挙句、腹を決めてある決断をしました。その決断とは「出店の返事がなくても店を作って、出店できるタイミングまで待つ」という賭けに出ました。


早速札幌に行き、村中さんにその旨を伝え、店舗の図面と、パース(完成予想図)を手渡し、横浜に戻りました。


岩岡曰く「約3年、100回以上通ったし、村中さんにも色々と事情があると思います。それがクリアになった時に気持ちよく出店してもらえるまで待つことにしたのです。スタッフからは大反対でしたが(笑)」


そしてその数日後、突然設立準備中の新横浜に村中さんが来られました。


e8ef55142a046ce468e49146472de02d-1250x725.jpg

建設現場を下見した際の記念写真。中央が村中伸宜さん(平成5年撮影)(c)ラー博Facebook



村中さんは「岩岡さんが人生かけて勝負するラーメン博物館がどれほどのものか気になってね。その景色、俺も一緒に見させてほしい」と言われたのです。そして「家族の反対を押し切って出店する。だから申し訳ないが“純連”という屋号は使えない。平仮名の“すみれ”でもいいか?」


岩岡は「はい!僕は村中さんのラーメンの味に惚れたんです!平仮名の『すみれ』で来てください!」となり、出会ってから3年の歳月を経て札幌「すみれ」の出店が決まったのです。その後、札幌のお店も、「純連」の漢字がとれて、「すみれ」となり、今に至ります。



「すみれ」店主・村中伸宜さんは、当時の思いを次のように語ります。


「最初は詐欺師かと思いました(笑)。しかし何度も何度も通っていただき次第に出店してみたいと思うようになりました。


ただ、すみれの味は母が作ったもので、私の一存では決められないし、父と兄は大反対でした。反対したのは『絶対失敗する』という理由でした。


私はお客さんが来るかどうかという不安よりも、この味が首都圏で通用するのか試してみたい、そして兄のお店(純連~じゅんれん~)を超えたいという想いの方が強かったです。今考えればちっぽけなプライドですが、私にとってはラー博の出店が人生の大きな分岐点でした」



・・・ここは自分は初めて知りました。なぜ”すみれ”と平仮名なんだろう?べつにそれを不思議には思っていなかったけど、家族からの大反対で純連の屋号が使えない、ということだったんですね。


兄の純連(じゅんれん)を超えたい。。。あ~ここなんですね。これはわかります。自分もやはりどこかで札幌澄川の純連(じゅんれん)に敬意を表しているところがある。北海道で3年間病気で療養していたときに毎月澄川純連に通った。これが自分の中にラーメン好き人間の芯を築いてくれたような気がする。ラーメン人間としての基本を作ってくれた。澄川純連には感謝しかないです。


そんな兄を超えたい。全国区で首都圏で勝負したい。


村中伸宜さんは、やっぱりチャレンジャー、冒険者、そしてすごいビジネスマンなんですよね。家族の大反対を押してのラー博の出店がなければ、純連・すみれがこんなに全国区になることもなかったんですから。もう村中伸宜さんサマサマだと思う。この勇気に自分は感服する。


自分が、ラー博ですみれを知ったのは、1995年。

ヨーロッパから帰ってきたのが1995年だったので、その足で噂のラー博に行って、すみれと衝撃の出会いをする。


1994年ラー博開業とともに、すみれが出店したときってお店ってこんな感じだったそうです。


e9b7b0225fbed8a5feff5f367c525f0e-1250x875.jpg


645c6592700c0efd3f411595d409a189-1250x889.jpg


(c)ラー博Facebook


う~ん、やっぱり違うな・・・これはぜんぜん自分の記憶にないです。

やはりこのときは日本にいませんでした。


翌年の1995年にすみれは移動したらしいんですよね。地下2階の隅っこ。


137027841_4242375029123066_455540559761731361_n.jpg

(c)ラー博Facebook


ここです!まさにここ!です。

1995年に自分がラー博で通いまくっていたのが、このお店です。


自分の記憶では、暖簾(のれん)に”純連”と書いてあって、それを”すみれ”と呼ばせる、そういう記憶があった。でもさきほどの記事だと、家族の大反対で純連と屋号が使えないので、”すみれ”で出店する。そうあったので、おかしいな~。確かに自分の記憶では、純連とのれんに書いてあったような気がするんだけど。。。


そうしたら、この写真を見たと同時に、あ~そうだったのか!上の方に純連とあって、のれんに”すみれ”とある。自分が勘違いして覚えていただけなんですね。


懐かしいです~。

自分の青春が詰まってます。


あの地下2階の隅っこ。

アムスの同期友人をここに連れていって食べさせたら、札幌で体験した味と違う、という。

札幌は純連(じゅんれん)というんだよ。そしてスープがもっと黄色いんだ。


この謎を探るべく、自分は北海道札幌に飛んで、澄川の純連(じゅんれん)を探して辿り着いたのが、中の島の純連(すみれ)(笑)。


91786b3ee867ea623bdc5ad402fb634b-1250x869.jpg



ここで食べた味噌ラーメンはラー博と同じだと思い、ここはすみれだと思った。


そのときに厨房にいた村中伸宜さんに、”新横浜のラーメン博物館に出店されていますよね?”と聞いて、”え~そうです。”と答えていただいた。


このたった短いひと言が村中伸宜さんとお話できた唯一の想い出である。



1995年からずっと食べ続けてきたラー博のすみれ。あの濃厚な味噌ラーメンはいまでも忘れられない。

すみれと言えばあの味というくらい自分のハートを射抜いた。


ラードで表面を覆い、熱さが逃げないように工夫した熱々の味噌ラーメンだ。そしてじつに濃厚な味噌の味。生姜が味噌とすごく合う。当時は森住製麺のちじれ麺(いまは西山製麺)がその味噌スープに絡んで、これがじつにうまいんだ。


こんなうまい味噌ラーメン食べたことない!というくらい衝撃だった。

いままで食べたことのない、まさに衝撃の味だった。


あっという間に自分は虜になった。

そこから通い詰めた。


自分にとって、すみれはかならずラー博の中にあるものだった。だから食べたいと思ったら、すぐに通える、そんな距離感、安心感があった。


ところが卒業晩年のすみれはかなり味が劣化していた。自分は嘆き悲しんだ。そして吠えた。こんなのすみれじゃない。自分が知っているすみれじゃない。


北海道に中の島本店まで行って確かめたくらいだ。そうしたら本店は昔の通りの味だった。ホッとした。そんな事件もあった。


すみれ横浜店も開店。美味しいけど、やっぱり昔の味と違う。まったく別物。でも、これはこれですごく美味しいので、もう本店とは別路線でこの路線で行けばいいんじゃない、というそんな感じだった。


年寄りの言うことは、いつもうるさいとしか思わないだろうけど、でもただでさえ、人生長くラーメン食べていると、やっぱり言っていることは正しいこと言っていると思いますよ。


あの頃の味を知っている生き証人なんですよ。


やっぱりあの頃の味が忘れられない。

あの味をもう一度食べたい。


脳裏に焼き付いているんですよ。


そしてついに新横浜ラーメン博物館「あの銘店をもう一度」で”すみれ”登場。


409388805_733520938806379_1159592554181164549_n.jpg


村中さん曰く、あの当時の味噌ラーメンは高度な技術を要するため、熟練の職人しか作ることができない。

昔の濃厚な味噌ラーメンが完成したから食べに来てほしい。


まさに復活!である。


1994年当時のすみれの味を復刻。


名付けて”すみれ1994”


0321abf85a1c00e2e8473bed7c8a049b-1250x833.jpg


deed1bf09f4fa9263aab610438507898-1250x833.jpg



そう!まさにこれ!これ!です。30年前のあの衝撃の味噌ラーメンはまさにこれでした。

もうこの写真を見ただけで、あの濃厚な味が脳に反応して、よだれが出てしまいそうだ。(笑)


この味噌ラーメンが30年ぶりに復活するという。


このために、村中伸宜さんは、この期間中ずっと新横浜に泊りがけだ。


IMG_0110-938x1250.jpeg



そして驚くことなかれ、選りすぐりのすみれで修行したお弟子さんたちが全員集合。

各人それぞれの期間を担当して、30年ぶりにすみれの味の復刻に精を出す。

もちろん村中伸宜さんはフル期間いるので、お弟子さん達との協業だ。


news_release231225_10.jpg


あの当時の味噌ラーメンは高度な技術を要するため、熟練の職人しか作ることができない。

そのノウハウをお弟子さん達とともに復刻だ。


これを”すみれオールスターズ”という。(笑)


村中伸宜さんが命名した。


うれしいことではないか!

こういう驚き、サプライズがあるなんて!


やってくれるじゃないか!


・・・という感じである。


もう自分はうれしくなって顔が綻んでしまいそうだった。


さすが、”すみれ”である。


千両役者である。


新横浜ラーメン博物館の「あの銘店をもう一度」。


いまここにボルテージマックス!最大の盛り上がりである。


自分はもちろん初日にかけつけた。


DSC09341.JPG


9268-1.jpg



すみれ1994は、地下1階にあった。


DSC09300.JPG


DSC09310.JPG



自分は在宅勤務後に行ったのだが、すごい劇混みかと思ったら、意外や空いていた。でも朝はもう100名近くの大行列だったそうだ。夜になるとだいぶ落ち着いてきたんですね。



自分は厨房に村中伸宜さんがいらっしゃるのを見つけて、もう心臓がバクバクで顔が真っ赤になって思わず下を向いてしまった。直視できなかった。もうすごいドキドキ。


なんというのかな、長いこと文通で恋人とやりとりして、その恋焦がれた恋人と何年ぶりに逢うというか、そんなときめきだ。


いつも感謝してますの声をかけようかな、とよっぽど思ったけど、見ず知らずの一般人から声掛けしても唐突過ぎるし。。。とにかく気恥ずかしかった。


ちゃんとした写真が撮れなかった。

女性スタッフの横に頭だけが見える男性が村中伸宜さんである。


DSC09328.JPG


自分は味噌ラーメンを頼む。レギュラー1,200円。


これが30年ぶりの復刻の味噌ラーメンである。


DSC09324.JPG



どんぶりがちゃっちいんだよね~。毎度のことだけど。この「あの銘店をもう一度」専用のどんぶりなんですけどね。やっぱりあのすみれのどんぶりがいいです~。


見た目はちょっと黄色い薄い感じで、あの30年ぶりの濃厚なまっ茶色ではないんだけど、表面にラードが覆っている。いいぞ~いいぞ~。


食べてみたら、これぞ!あの30年前のあの味を思い起こさせてくれる、まさにあの味でした。美味しかった~。ど直球ではなかったけど、自分はもう大満足。最高でした。


お声かけできなかった分、帰るときはいつも小声なのだけど、この日ばかりは大きな声で、「どうもごちそうさまでした!」と挨拶して店を出た。



札幌「すみれ1994」 本日(1/9)オープン。 本日の すみれオールスターズ は「すみれ」村中総店主と「大島」 大島 剛史店主です!


416311414_752543236904149_3641433398223821810_n.jpg



今回の出店に伴い、店主の村中伸宜さんは期間中、新横浜に滞在します。そして、すみれを卒業して独立したお弟子さん達が期間中交代で厨房に立たれます!


その名も”すみれオールスターズ”。以下の豪華メンバーが交代で訪れます。




「すみれ」・・・村中伸宜さん

札幌市豊平区中の島2条4丁目7-28


すみれ創業者。18歳で和食の道へ入り、24歳で先輩に誘われドイツのミュンヘンの「ジャパンレストラン三船」(故・俳優三船敏郎さんの経営する店)で、板前として2年勤務。その後日本に戻り、札幌に念願の店「すし郷」を開いた。店は流行り、腕のいい和の料理人として注目を浴びる。しかし、昭和63年に父親が病に倒れ、母のたっての願いもあり、あれほど嫌がっていたラーメン店を継ぐ決心を固める。平成元年、母であり創業者でもある明子さんが最初にお店を出した中の島の場所に「純連(すみれ)」をオープン。


sumire.jpg




「大島」・・・大島剛史さん

滞在期間:1月9日(火)~11日(木)

東京都江戸川区船堀6-7-13


すみれ在籍:2000年~2012年。すみれ本店、ラー博店をはじめ、当時あった全国のすみれで勤務。2009年にラー博で復活した「らーめんの駅」でも腕を振るいました。2013年「大島」を開業。


ooshima.jpg



「三ん寅」・・・菅原章之さん

滞在期間:1月12日(金)~14日(日)

東京都新宿区山吹町362 プレステージ362


すみれ在籍:2002年~2019年。店主は30年前に食べた「すみれ本店」の味に感動。その後全国でもまだ札幌市内に3軒しかなかった「すみれ出身者」のお店に感銘を受けて憧れ、27歳で脱サラし「すみれ本店」の門を叩く。本店店長をはじめ数店舗の店長を歴任した他、数々の新店舗立ち上げやイベント出店を経験。約17年間すみれ一筋で勤め上げ、2019年10月、東京都内に「三ん寅」を創業。


santora.jpg




「麺屋 彩未」・・・奥雅彦さん

滞在期間:1月15日(月)~16日(火)

北海道札幌市豊平区美園10条5-3-12


すみれ在籍:1993年~2000年。本店、ラー博店を歴任し、2000年に「麺屋 彩未」を開業。


saimi.jpg



「ラーメン郷」・・・郷勇市さん

滞在期間:1月17日(水)~19日(金)

神奈川県大和市鶴間2-12-32


すみれ在籍:2001年~2016年。旅先で食べた「すみれ」に衝撃を受け、一念発起し「すみれ」で修業。北海道本店での研修を経て、店長としてラー博店、福岡店、ラゾーナ川崎店、ラー博店(再出店時)と15年半修行。 2017年2月に神奈川県初となる「札幌すみれ暖簾分け店」として、大和市渋谷にオープン。


gou.jpg



「らーめん 福籠」・・・畑谷雄飛さん

滞在期間:1月20日(土)~22日(月)

東京都台東区柳橋1-13-4 丹羽ビル1F


すみれ在籍:2001年~2012年。2013年6月に浅草橋に「らーめん 福籠」を開業。


fukuryu.jpg



「狼スープ」・・・鷲見健さん

滞在期間:1月23日(火)~24日(水)

札幌市中央区南11条西1丁目5-1


すみれ在籍:1996年~1997年、1998年~2000年。新横浜ラーメン博物館で食べたすみれの味に感動してラー博店から修行開始。都合3年修行したのち2000年に「狼スープ」を開業。すみれで教わった伝統の札幌ラーメンを守りながら、日々修行中。


oukamisoup.jpg



「らぁめん千寿」・・・青山茂寿さん

滞在期間:1月25日(木)~26日(金)

札幌市中央区大通西8丁目2ー39 北大通ビル B1F


すみれ在籍:1995年~2001年。店主は村中さんと同級生。

すみれ本店、ラー博店を歴任し、2002年に「らぁめん千寿」を開業。


senju.jpg




「IORI」・・・山野内貴義さん

滞在期間:1月27日(土)~28日(日)

北海道千歳市住吉1-12-2


すみれ在籍:1999年~2004年。すみれ本店、ラー博店、福岡店を歴任し2005年開業。


iori.jpg



「ら~麺 ふしみ」・・・久保勝昭さん

滞在期間:1月29日(月)~30日(火)

札幌市中央区南15条西18丁目3-15


すみれ在籍:2000年~2003年。本店、小樽店、ラー博店で勤務し、2003年「ら~麺ふしみ」を開業。現在では村中社長監修のもとすみれ風ラーメンを提供。


fushimi.jpg



「麺屋つくし」・・・岩崎均さん

滞在期間:1月31日(水)~2月1日(木)

富山市太郎丸本町3丁目10-1 第2 サクラギビル第2ビル


すみれ在籍:1998年~2005年。新横浜ラーメン博物館の「すみれ」と出会い、衝撃を受けてすぐに転職。自分でもこの味で勝負したいとの思いから修行が始まる。小樽店、すみれ2号店、本店の店長を経て、2005年に地元富山に戻り「麺屋つくし」を開業。


tsukushi.jpg



「八乃木」・・・穴澤岳美さん

滞在期間:2月2日(金)~3日(土)

札幌市西区発寒7条14丁目1-33


すみれ在籍:2002年~2015年。本店、2号店、小樽店、京都店、川崎店、博多店の店長を務め、2016年札幌に「八乃木」を開業。


hachinoki.jpg



「らーめんみかん」・・・荒井永如さん

滞在期間:2月4日(日)~5日(月)

北海道小樽市新富町13-13


すみれ在籍:1997年~2004年。すみれ本店、ラー博店、福岡店を歴任し、2005年に「らーめんみかん」を開業。


mikan.jpg



30年前の濃厚味噌ラーメンが味わえるのはわずか28日間。すみれオールスターズで取り組むのも、もしかしたら最初で最後かもしれません。


やっぱり、すみれ、そして村中伸宜さんの懐の深いというか、素晴らしいと思うところは、門外不出の味ということで、秘密主義を貫くこともできただろうに、逆にその味を伝授して、たくさんお弟子さんを育てて、そしてみんな独立して独り立ちさせていったところ。


いわゆる純すみ系といわれるラーメンを全国に広めていったところだと思う。


どんどん利他的にオープンにしていくことで、お弟子さん達、純すみ系ラーメンがどんどん普及していくことで、そうなればそうなるほど逆にどんどんすみれに帰ってくる、戻ってくる、というポジティブ思考だ。ほんとうに懐が深いと思う。


出店期間は2024年1月9日(火)~2024年2月5日(月)。皆様のお越しをお待ちしております。









nice!(0)  コメント(0) 

I LOVE YOKOHAMA 横浜開港資料館・開港記念広場 [街歩き]

横浜三塔(キング・クィーン・ジャック)の体験をするために、日本大通りを散策していると、旧英国総領事館、いまの横浜開港資料館が存在していることに気づいた。


かねてより、ずっと見学してみたいと思っていた施設なので、願ってもない幸運である。


正門は、開港記念公園側にあるのだが、自分は日本大通り沿いに歩いていたので、こちらからの門(西の通用口)で発見した。残念ながら、こちらの門は修復作業中なのか、工事の覆いで建物がふさがれていた。


9074-1.jpg


9130-1.jpg


9065-1.jpg



9361-1.jpg


9062-1.jpg


9090-1.jpg


DSC09138.JPG



正門はこちらである。(開港記念広場側)


9211-1.jpg


9218-1.jpg



旧館は、もともと英国総領事館として、1931(昭和6)年に建てられた。英国工務省が設計し、資材すべてを英国から取り寄せて建築したもの。鉄筋コンクリート造の3階建てで、一部地階が付いている。屋根は銅板葺で、石造の外観を持っている古典様式の建物なのだ。



長く総領事館として使われていたが、1972年に東京の英国大使館へ業務をすべて移管。1979年に横浜市が建物を買い取り、1981年に「横浜開港資料館」としてオープン。2000年には横浜市指定文化財に指定されている。


総領事館として、1階は執務室、2階は事務官2世帯の住宅、3階は使用人の住居にあてる計画でこうした設計がされていた。


現在、横浜開港資料館としての建物の構造、各部屋はこのようになっている。


DSC09165.JPG


ここが記念ホール(旧待合室)。


DSC09150.JPG



ここの床や天井、そしてシーリングファン(天井扇風機)は総領事館時代のもの。ファンは今も現役で動く。この部屋まではいつでも見学可能。



毎年6月に公開される記念室(旧総領事の執務室)


執務室.jpg



普段は公開されていないが、開港記念日に合わせて限定公開されるのが記念室。総領事が執務を行った部屋で、狭くてシンプルなところにストイックな英国紳士らしさを感じる。暖炉やシーリングファンは総領事館時代のものだが、置かれている家具は当時の時代背景に合わせて揃えたもの。




こちらが中庭である。


9153-1.jpg




講堂です。


9271-1.jpg



中庭には、日本最初の近代水道「獅子頭共用栓」の複製と、昔の道路側溝であるブラフ溝もある。



9277-1.jpg



真ん中にある木が「たまくす」である。


9168-1.jpg


この「たまくす」がもう大変重要な資産なのである。

まさに横浜開港以来、ずっと横浜を見守り続けてきた「たまくす」なのである。


ウィルヘルム・ハイネによる横浜上陸の図。右に描かれた木が「たまくす」である。


たますく.jpg



その江戸時代からある「たまくす」が、いまこうやって、令和の時代になっても、横浜開港資料館(旧英国総領事館)の中庭にずっとそびえ立ちつつずっと存在している、ということなのだ。自分はなんともいえない尊い気持ちになった。


江戸末期のペリーの来航で、横浜開港となった。まさに横浜はここから始まった。埋め立て地の横浜である。その横浜上陸のときに描かれた絵の中にある「たまくす」が、いまこうやって現存するのである。


まさに横浜の歴史を見守り続けてきた、といえる。

この横浜開港資料館(旧英国総領事館)の隣には、開港(記念)広場がある。

その広場で、日米和親条約が締結された。その場所を開港(記念)広場として整備し、その記念碑も建てられている。これはまたあとで後述しよう。



この「たまくす」について、ちょっと語ろう。



まさに、ペリー来航で、江戸幕府とペリー側の交渉、そして開港に至るまでに両者間のかけひきである。これはぜひ知ってほしい。まさに横浜開港となるまでの史実が描かれている。





横浜、大さん橋の近くに、開港広場という小さな公園があります。この場所は、嘉永7年(のちに安政に改元、1854年)、日米和親条約が締結された地で、日米和親条約調印地の碑もあります。


開港広場の近くに、横浜開港資料館があります。資料館に入るとまず目に飛び込んでくるのは中庭の大きな木。タブノキという木で、通称「たまくす」と呼ばれています。このたまくすの歴史は古く、嘉永7年のペリーの横浜来航を描いた絵には現在のたまくすの先祖にあたるとされている木が描かれています。



たますく.jpg

ウィルヘルム・ハイネによる横浜上陸の図。右に描かれた木がたまくす



・たまくすの見つめたペリー来航


日米和親条約.jpg



嘉永6年(1853年)6月(新暦で7月)、サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号の4隻でやって来たペリー艦隊(黒船)。浦賀にて大統領からの親書を渡しました(ペリー来航の地-浦賀と与力中島三郎助)。その返答の猶予を与え、いったんは江戸湾を去ったペリーでしたが、翌嘉永7年正月14日(1854年2月)、再び江戸湾に現れました。前回の来航時の上陸地、久里浜を通過しさらに江戸湾内に侵入、小柴沖(金沢八景の沖合あたり)まで北上し、16日(1854年2月13日)に錨を下ろします。


国家間の交渉であるため、日本の中心である江戸での会談を行いたいペリーと、江戸からなるべく船を遠ざけたい幕府側の意向が対立。約10日間ほど交渉の地(上陸地点)の選定に費やします。小柴沖には前回の浦賀来航時よりも多い7隻の船が投錨していました。この間も、ワシントン記念日として祝砲を計100発以上発射を行ったり、連日の江戸湾測量で羽田沖まで侵入するなど、揺さぶりをかけます。


ついにペリー艦隊側の意向が聞き入れられる形で、久里浜よりさらに近い横浜の地にペリーが上陸することとなりました。2月11日(1854年3月9日)の第1回会談を皮切りに複数回の会談が行われます。そして、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、たまくすの見つめる横浜の地で日米和親条約が締結。下田、函館の開港を含む12か条の条約が締結され、日本は長い鎖国体制に幕を下ろしました。




・総領事ハリスの来日と横浜開港


日米修好通商条約.jpg



安政3年(1856年)、日米和親条約からさらに進んだ通商条約を締結すべく、ハリスが来日します。日米和親条約の双方の認識の差異から、日本側は上陸を拒みますが、ハリスの強い主張により、下田に上陸。さらには江戸での徳川家定謁見を果たします。ハリスはイギリスの脅威などを説き、幕府側に揺さぶりをかける形で、条約締結を進めていきます。


条約締結において、ハリスが開港地として求めていたのは、函館、大阪、長崎、平戸、京都、江戸、品川、本州西海岸の2港、九州の炭鉱付近の1港でした。ここに神奈川(横浜)が加えられたのには、幕府側の意図が反映されています。


ハリスとの交渉に当たっていた、岩瀬忠震は、大阪開港により、大阪がさらなる商業の中心地となることを阻止し、江戸がそれを担う必要があるという主張をします。また、開港場を江戸近くとすることで取り締まりをしやすくし、さらに外国の軍事知識を導入しやすいというメリットもあると考えました。


その後も幕府側、アメリカ側の双方の意向が交わされます。


神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港、下田は神奈川開港後閉鎖、江戸、大阪は市場開設、居留のみの許可


上記のように開港地が定められ、日米修好通商条約が締結されました。


神奈川開港に巡っては当初、東海道筋の神奈川も含むエリアが検討されていました。しかしその後の調査で、国内外の無用な接触を防ぐため、横浜に限定することが適当であると考えるようになります。そのため幕府は横浜も神奈川の一部であると主張し、横浜の整備を推し進めます。また、江戸商人の横浜移住の保護、奨励や、三井などの豪商を半ば強制に近い形で出店させるなど横浜の繁栄を後押ししていきました。こうして次第に神奈川よりも便利な横浜がさかえ、外国商館や領事館が集中するようになっていきます。





・横浜の町の発展とたまくす


こうして開港地として横浜はどんどん発展していきます。たまくすはその後慶応2年(1866年)に発生した大火、また、関東大震災での被害を受けます。しかし、その都度芽を出し、現在の姿になっています。小さな漁村だった横浜が、ペリー来航以降変わっていく様子を今も見続けています。



情報引用元:


開国を見守ったたまくす-日米和親条約と横浜




日米和親条約は、まず日米で国交を結びましょう。

そして日米修好通商条約で、日本で米国を受け入れる港町を定め、そこで貿易ふくめいろいろ交流していきましょう。


この2段階なんですね。


自分は、この「たまくす」をじかに見れて、なんか横浜の真髄にひとつ近づいたような気がしました。




横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年に開館しました。当館が建っている場所は、1854(安政元)年に日本の開国を約した日米和親条約が締結された場所で、当館の中庭にある「たまくすの木」は条約締結の時からあったと伝えられています。


日米和親条約締結後、日本の国際化は急激に進みましたが、1859(安政6)年には横浜が開港し、この町は日本を代表する貿易都市になりました。当館は、この間の横浜の歴史を明らかにすることを目的に設立され、関係資料を収集し展示するとともに、閲覧室で広く市民や研究者に資料を公開する活動をおこなっています。


2019年に横浜は開港して160周年を迎えました。開港以来、横浜には多くの外国人が住み、この都市では国際交流の歴史が繰り広げられました。1899(明治32)年には外国人居留地が撤廃され、外国人は国内のどこにでも住めるようになりましたが、その後も横浜は日本最大の貿易都市として発展を続けました。当館では幕末から昭和初年までの横浜の歴史をさまざまな媒体を利用して発信していきたいと考えています。


かつて横浜は関東大震災と横浜大空襲によって市街地中心部が大きな被害を受け、横浜の歴史を伝える貴重な資料を失ってしまいました。我々は失われた資料に代わる古記録・古写真・新聞・絵画などを求めて国内はもとより外国からも資料を収集してきました。今後もこうした活動を続けるとともに、次の世代に収集資料を引き継いでいきたいと思っています。


館長 西川武臣


情報引用元:


横浜の歩みと開港資料館(横浜開港資料館HP)



旧館は、英国総領事館だったが、いまは横浜開港資料館。

その目的は、横浜開港以来、貿易都市となった現在に至るまでの歴史を明らかにするため、関係資料を収集し展示するとともに、閲覧室で広く市民や研究者に資料を公開する、というのが目的である。


この資料室というところがそうである。


まさに横浜開港以来の歴史が、パネルになって展示されている。

壮観である。圧倒されました。


DSC09176.JPG


9182-1.jpg


DSC09188.JPG


DSC09191.JPG


DSC09205.JPG



古写真に見る関内の街並み


9197-1.jpg


自分は、ここでかなり立ち止まって、ちょっとドキドキしながら見ました。まさに横浜のルーツは関内ですね。ここに外国人居留地を設け、強制的に外国人をここに住まわせた。関内というエリアに閉じ込めて、日本人との接触をなるべく避けようという幕府の狙いです。でもこのエリアに外国人が住むようになって、その外国の文化が一気にここに根付いた。洋風の建物、馬車、そして外国文化、そういう日本にはいままでなかった文化が海外からこの関内に一気に流れ込んだ。それが横浜がいまだに異国情緒溢れる雰囲気をずっと漂わせている大きな要因ですね。横浜は海外からの文化の流入口だったのです。


その横浜のルーツが関内だったのです。

そのときの関内の街並みです。


よく写真が残ってましたね。これは興奮しましたね~。



横浜開港資料館は、こんな感じの歴史的建築物でした。

まっもともとは英国総領事館ですから、執務室や事務官、使用人の住居などが主ですから、そういう趣なのですが、やっぱり「たまくす」ですね。これがいちばん大きいです。そして資料室などで横浜開港以来の歴史が閲覧できる。。。そういう感じでしょうか。。


じつは、この横浜開港資料館には、併設されるショップ・カフェが存在するんですよね。これは去年の2023年7月1日オープンということですから、できたばっかりです。自分が訪れたのが2023年9月24日ですから、まさにできたてホヤホヤで体験できてほんとうにラッキーでした。


これがじつに素敵なのです!

自分はもうひとめぼれ。


ミュージアムショップ・カフェ・コンシェルジュの複合機能施設「PORTER’S LODGE(ポーターズロッジ)」だそうです。


9302-1.jpg


9307-1.jpg



「横浜開港・英国文化を伝えるセレクトショップ」として、横浜中華街や元町商店街、山下公園通りで営業する店舗などから、横浜の歴史を伝える商品などを仕入れて販売するほか、旧英国総領事館や英国文化を伝える商品、横浜開港の歴史を伝える資料館所蔵資料を活かしたオリジナル商品を開発販売し、ペリーが上陸した開港の地横浜の原点から、ミュージアムショップ(買う)、カフェ(味わう)の機能を通じ、YMC地区(山下公園・横浜中華街・元町商店街)へのコンシェル(導く)を実現します。


まさに横浜の歴史に沿ったYOKOHAMA一色のオリジナル商品やグッズなどを販売するショップなんですね。ひとつひとつ詳しくは見て回りませんでしたが、ふっと目をやるところには、横浜に関連するいろいろなグッズが飾られている・・・そういう感じが確かにしました。まさに「横浜開港・英国文化を伝えるセレクトショップ」だと思います。横浜開港資料館に付属するショップとしてとてもふさわしいと思いました。


横浜開港資料館自体は、貴重な資料を公開・展示することが主機能ですから、なにか見学者に商品を買ってもらう、提供するというところまでは配慮が行かないですね。そこのさらに突っ込んだところで、お客さんに横浜の歴史を伝える商品を買ってもらう、提供する・・・そういうところまで配慮したのが、この複合機能施設「PORTER’S LODGE(ポーターズロッジ)」の役割なのだと思います。だから横浜開港資料館に付随した施設としたのだと思います。


DSC09316.JPG


DSC09322.JPG


DSC09331.JPG


DSC09334.JPG


DSC09338.JPG



ここにちょっとひと休憩するカフェも存在するのです。ほんとうに小さいスペースですが白をベースとした綺麗なカフェでした。自分はここで紅茶と和菓子をいただきました。


DSC09313.JPG


DSC09345.JPG



ここは、じつに穴場、スポットだと思いますよ。まだオープンしたてで、知名度もあまりないと思いますが、ここはオシャレでとても素敵なスポットだと思います。じつは自分が1番感動したのがここでした。


なによりも建物、雰囲気がオシャレですよ。(笑)




横浜開港資料館のとなりに開港記念広場があります。

ここでペリーと幕府とで日米和親条約を締結したそのものの場所になります。


いまはこうやって広場として整備され、その歴史を慮るように配慮されています。その記念碑もあります。


開港記念広場


8060-1.jpg


8063-1.jpg


8068-1.jpg


8094-1.jpg


8087-1.jpg



旧英国総領事館が横浜開港資料館となるのを契機に、開港の地にふさわしい場所に整備されることが計画されたのです。



広場の中央に噴水があります。


8108-1.jpg



工事中に発見された下水道の遺構は、上部から見学できるよう透明のガラス板が設けられました。


8115-1.jpg



1982年に開港広場公園が開園し、1985年には横浜市主催の第1回まちなみ景観賞を受賞しております。



この横浜開港資料館、そしてその横にある開港記念広場。まさに横浜の開港歴史の始まった大切な場所ですね。ここを拝観しないとやはり横浜を知ったとはとても言えないでしょう。大事な観光スポットです。

ファースト・プライオリティではないでしょうか?


この隣には初のプロテスタント教会である横浜海岸教会もあり、自分はそこで初めてキリスト教の礼拝というのを体験したのでした。


8143-1.jpg


8147-1.jpg



この開港記念広場の斜め向かいにこれまた情緒あふれる歴史的なレストランがあるんですね。

大さん橋の近くの角にあります。


9363-1.jpg


9225-1.jpg



北欧料理のSCANDIA(スカンディア)です。



創業60年 横浜の老舗北欧料理レストラン「スカンディヤ」。ノスタルジックな横浜情緒溢れるゴージャスな空間。1Fはカジュアル、2Fは重厚感のあるレストランになっています


2Fはすごいですよ。HPを見たら驚きました。


SCANDIA.jpg


北欧料理というのも馴染みが少ないですが、北欧料理とは、北ヨーロッパの国々で親しまれている伝統料理です。 周囲を海や森で囲まれている北欧諸国では、サーモンや手長エビなどの海産物やきのこ、じゃがいもを使った料理が多くあります。 またリンゴンベリーという酸味のあるコケモモを使ったソースを、肉料理などに添えて食べることも特徴です。


ここも横浜名物の観光スポットです。

横浜ではめちゃめちゃ有名なレストランです。



今度入ってみたいと思います。











nice!(0)  コメント(0) 

I LOVE YOKOHAMA 横浜三塔(キング・クィーン・ジャック) [街歩き]

横浜シリーズ、リターンズ!ようやく戻って来ました。姫路城や熱田神宮がまだ残っているが、少し寝かせるというか時間を置いて落ち着いてきたら、ゆっくり取り組みたいと思っている。


やはりI LOVE YOKOHAMA、横浜シリーズはぜひ完成させないといけないだろう。自分にとって初の体験となる長編連載シリーズ。取材が最初に完結して、あとで日記で追う、というスタイル。


初めての経験だ。


溢れんばかりの”横浜愛”をこのシリーズに注ぎ込みたいと思っている。

まだ16章も残っているのだ。(笑)


横浜三塔というのは、神奈川県庁=キングの塔、横浜税関=クィーンの塔、開港記念会館=ジャックの塔のことをいう。

最寄り駅は、みなとみらい線の日本大通り駅だ。キング・クィーン・ジャックの塔はいずれもお互いすぐ近距離の間柄で存在している。


横浜三塔.jpg



横浜三塔の愛称は、昭和初期に外国船員がトランプのカードに見立てて呼んだことが由来と言われている。


「キング」神奈川県庁は、五重塔をイメージさせるスタイルで、昭和初期に流行した帝冠様式のはしりといわれている(1928 年竣工)。


「クイーン」横浜税関は、イスラム寺院風のエキゾチックなドームが特徴(1934 年竣工)。


「ジャック」横浜市開港記念会館は、東南隅に時計塔、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームを配している(1917 年竣工)。


横浜三塔は、戦争等をくぐり抜け建ち続けてきた。いつしか船員達が航海の安全を祈り、これを目印に入港したと言われている。


確かにそれぞれの建物の姿、形を見ると、なんとなくトランプのキング・クィーン・ジャックの姿に似ていると自分も感じた。



まず、この横浜三塔をぜひ制覇したいと考えていた。

2023年9月24日のことだ。(笑)


まず日本大通り駅を地上に出ると、出迎えてくれるのが、ジャックの塔こと開港記念会館だ。


8668-1.jpg


8683-1.jpg


8754-1.jpg


8706-1.jpg


横浜市開港記念会館は、1909年(明治42年)の横浜港開港50周年記念事業として、1913年(大正2年)に計画が出され翌年着工、1917年(大正6年)に完成した。関東大震災時に全焼したが、1927年(昭和2年)に初期の建築を復元した状態で再建された。昭和2年の再建時に省かれたドーム部が1989年(平成元年)に再建されると同時に、国の重要文化財に指定された。


大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築の中では有名な建築物の一つである。


地上2階、地下1階に加えて、1塔を有する。初期の大正期から進駐軍接収時までは地下階はダンスホール、食堂等として使われていたが、現在はボイラー機械室としており、一般利用に供していない。


・講堂(481席)

・会議室(9室)

・資料コーナー

・自動販売機コーナー

・事務室


中は見学できるようになっているが、ただいま修復作業で休館中なのだ。残念!


8697-1.jpg


DSC08711.JPG



そしてキングの塔こと神奈川県庁。


8803-1.jpg


9052-1.jpg


9446-1.jpg


神奈川県庁は、地方公共団体である神奈川県の行政機関。


1868年(慶応4年)4月11日、横浜裁判所を設置。同年5月12日、横浜裁判所を神奈川裁判所に改称する。同年8月5日、神奈川府が設置される、同年11月5日に神奈川県と改称し、行政を司る組織として神奈川県庁が設置される。


神奈川県庁舎は、神奈川県の行政機関(神奈川県庁)が入居する建物である。本庁舎・新庁舎・東庁舎・西庁舎からなり、一部部署は近隣の民間ビルに入居している。


関東大震災で焼失した旧県庁舎の再建にあたり、公募で当選した小尾嘉郎の案を基に、神奈川県内務部(成富又三)により設計され、建築顧問として佐野利器が迎えられた。昭和初期に流行した帝冠様式が取り入れられている。



かつてこの塔は「修養塔」とよばれており、最上階に横浜の総鎮守とされる伊勢山皇大神宮の分霊が祀られていた。また歴史的建造物として、1996年(平成8年)に登録有形文化財(建造物)に登録された。 2019年には重要文化財に指定された。


まさに神奈川県の行政を一気に司る機関で、その機能が入っている建物である。


中に入れるみたいだが、休日に行ったので、閉まっていた。


9453-1.jpg



この歴史あるキングの塔と道路を挟んで隣にある新しいビルに、神奈川県庁 神奈川県議会があるようだ。キングの塔とは、このように渡り廊下で繋がっている。


8764-1.jpg


8772-1.jpg


9597-1.jpg



そしてクィーンの塔こと、横浜税関。


8823-1.jpg


8834-1.jpg


9501-1.jpg



横浜税関は、日本の税関。横浜市中区海岸通に主たる事務所を置く。南東北および関東地方にある都県のうち、東京税関の管轄外である太平洋側の地域を管轄する。1953年(昭和28年)に東京税関を分離した。


1923年(大正12年)の関東大震災で庁舎が倒壊焼失し、帝都復興事業の一環として1934年(昭和9年)に完成した本関庁舎は緑青色のドームがシンボルで、「クイーンの塔」として親しまれている。神奈川県庁本庁舎(キングの塔)、横浜開港記念会館(ジャックの塔)とともに「横浜三塔」の一つに数えられる。横浜市認定歴史的建造物(2001年度認定)。増築部施工には戸田建設が携わり、第46回BCS賞(2005年度)を受賞している。


当初高さ47mで計画されていた税関庁舎は、第22代税関長であった金子隆三の「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき」との意見により4m高くされ、高さ51mの横浜税関庁舎が完成した。完成当時は横浜で最も高い建物であった。


「税関」ってなに?ということだが、入国審査官と税関とでは意味が違う。


「入国審査官」と聞くと、海外旅行に行かれたことがある方は,「パスポートを調べる人」というイメージをお持ちではないか。入国審査官は, このように空港などで出入国を管理したり, 日本に住んでいらっしゃる外国人の方の適正な在留を管理したり, あるいは不法入国や不法な就労活動等を行う外国人に対して, 違反審査を行ったりして, 日本国内の秩序と安全を守る仕事を行っている。


同じく国家公務員である税関と混同されることも多いのだが, 税関は主に「物」を調べる仕事であり, 入国審査官は「人」を調べる仕事であるという違いがあるのだ。


税関は、「物」についての入国を審査する仕事なのである。


このクィーンの塔、横浜税関では、資料展示室があるのだ。

横浜税関本関1階にある展示スペースが存在する。


9516-1.jpg


密輸品の実物を展示している稀有な博物館。関港からの横浜港・横浜税関の歴史をつづる年表や貿易の変遷、麻薬や拳銃などの密輸の手口、知的財産を侵害した偽ブランド商品やワシントン条約に該当するはく製や標本等を、映像や実物展示により紹介している。わからないことは、説明スタッフに質問できる。


入場無料だし、土日祝も営業しているので、興味しんしんの自分はさっそく見学してみた。


DSC09526.JPG


DSC09554.JPG


DSC09557.JPG



これが大変興味深い。とくに自分は知的財産関連として偽ブランド商品、模倣品の輸出入などを厳しく取り締まる部分に昔から興味があって、すごく興奮してみていた。税関審査官はすごいプロだと思うんですよね。IP製品と偽ブランド品とを一瞬にして見分けるそういう才能がないといけない。正しいIP製品をきちんと頭に叩き込んでいるのだ。これは大変な情報量だと思う。


税関の審査官。

まさにこの制服をみると、ビビッてしまう(笑)、というか緊張しますよね。


DSC09533.JPG


DSC09563.JPG



過去の税関長のパネルも展示されていました。


DSC09545.JPG



江戸時代の昔も関所はあって、人と物のチェックをしていた。

その時代はこんな感じなんですよ、という模型も存在していた。


DSC09531.JPG



キングの塔=神奈川県庁と、ジャックの塔=開港記念会館は、中に入れるようになったら、ぜひ見学してみたい。ネットでの体験記ではその内装空間の写真を上げていらっしゃる方が多くて、かなり歴史的で貴重な建築様式で素敵なので、ぜひ自分も体験してみたい。


さて、この横浜三塔であるが、このキングの塔、クィーンの塔、ジャックの塔を、実は一度に見ることができる場所、つまり同一フレーム内にこの建物が全部入る、そういうシーンを見れる場所、スポットがは限られているのだ。


横浜三塔スポット-2.jpg



「①赤レンガパーク」

「②日本大通り」

「③大さん橋」


この3つのスポットに限って、そのポイントに立てば、それが可能なのだそうだ。


この3つのスポットを1日で巡ると、願いが叶うという伝説がある。


これが「横浜三塔物語」である。


カップルで巡ると結ばれるという噂もある。この3つのスポットには目印(地図中の写真)が設けられている。


もう自分はこれに猛烈に反応。(笑)


よし!この横浜三塔物語を実現するべく、この3スポットを全部制覇して、キングの塔、クィーンの塔、ジャックの塔を同一フレームに納めて見るぞ!そして願いごと、幸せになるぞ!と思ったのである。


地図を見ると、その3スポットは、もう完全に自分にとっては土地勘がある。赤レンガパークにしろ、大さん橋にしろ、大体あそこら辺だな~というのがよくイメージできる。


唯一ちょっと不安だったのが、キングの塔の前にある日本大通りにあるスポットだ。これは見つけられるかな?とちょっと不安だった。


さっそくGO!実行である。


まず大さん橋。豪華客船クルーズの船着き場である。もうすでに経験済みの場所だ。


8914-1.jpg


8943-1.jpg



そうすると・・・なにかそれらしきものが見えてきた・・・


8935-1.jpg



あった!!!ここだ!


8918-1.jpg


8930-1.jpg



ちゃんと足跡があり、そこに足を合わせて立てば、左からキングの塔、中央にジャックの塔、そして右側にクィーンの塔が見えるとマーキングされている。一度に同時に、同一フレーム内に見えるということである。


大さん橋の上の丘の方にこのスポットはあるのだが、その下のエリアには、さらに大きくきちんと印字されている。


8947-1.jpg


さっそく自分の足をそのスポットに合わせて、見える風景を確かめてみた。


8963-1.jpg




見えた!三塔とも同じフレーム内に見える。

中央のジャックの塔が小さくて見えにくいが、わかりますか?


もう感動である。



つぎに赤レンガ倉庫の赤レンガパークのところのスポットに行く。

横浜湾と接しているこのパークエリアである。


9570-1.jpg


9585-1.jpg



地面を探してみると・・・


あった!!!ここだ!


8859-1.jpg


8875-1.jpg



ここも確かに足跡と、左にキングの塔、中央にジャックの塔、そして右にクィーンの塔が見えますよ!というマーキングがされている。


さっそく足跡に自分の足を合わせて景色を見ようと思ったところ・・・


8900-1.jpg



その方向に釣り人のおじさんが。。もうじゃま~~~(笑)。


ちょっと足跡から外れるけど、眺めてみれば、ここも確かに三塔が同一フレーム内に見える。基本、大さん橋のときの構図とほぼ同じだ。


8893-1.jpg



そして最後に、キングの塔、神奈川県庁の前にある日本大通りのスポットに向かう。


日本大通りは両サイドに植樹がされていて、季節が夏だった、ということもあり、とても景色のいい素敵なストリートだと思いました。


9043-1.jpg


9030-1.jpg


9037-1.jpg



ところが予想通り、このスポットを見つけるのがすごく難しい。たぶん道路、歩道のところにそのマーキングがあるはずだ、と思ったのだが、なかなか見つからない。警備員のおじさんに聞いてもわからない・・・


かなり時間がかかったけど、ようやく見つけた!


なんか、あそこら辺にあるあれがそうじゃない???


9463-1.jpg




あった!!!ここだ!

ようやく見つけた!今度は見え方の順番が違って、中央にキングの塔、左にジャックの塔、そして右側にクィーンの塔だ。


9385-1.jpg



さっそくその足跡のところに、自分の足を重ね、そこから見える風景を眺めている。ところがこれがかなり難しい。中央にで~んとキングの塔がそびえ立っているのはよくわかるのだが、その両サイドにほんとうに申し訳なさ程度にジャックの塔と、クィーンの塔が見えるのだ。もう圧倒的にキングの塔の存在感がすごい。


これをデジカメの写真で撮ろうとすると、あまりに広角すぎてフレームに収まらないのだ。

肉眼でははっきり同一フレームに入ることは認識できる。


でもいざ写真を撮ろうとするとフレームに収まらない。

もうこれは左右別々に撮るしかない。


こんな風に見えるのでした。これが肉眼だといっぺんに同一フレーム内に見えるのである。


9394-1.jpg


9409-1.jpg




難しいスポットでした。(笑)

ここがいちばん悩むだろうな~と思っていたが、案の定であった。


こうやって、ついに横浜三塔を同時に見える3スポットを制覇することができたのでした。

それも1日の中でである。


きっと良いことがあるに違いない。

幸せになると思う。


願い事はいっぱいあります。悩み事多いので。


しかし、こういうスポットをきちんと道路に埋め込む、というその遊び心というか洒落心がなんともオシャレで憎いですよね。


素敵だと思います。


こういう楽しみ方があると、ますます横浜観光が盛り上がると思います。


ちなみに、この3スポット、お互いの距離はかなりあります。結構歩きますよ。

この日はかなり歩き回り、足が壊れてしまったのでした。









nice!(0)  コメント(0) 

世界の朝食を食べさせてくれるお店 ハンガリーの朝ごはん [グルメ]

じつに1年ぶりの新メニューということで、ようやく満を持して今回世界の朝ごはんの取材に行った。今回はハンガリーの朝ごはんである。


ハンガリーは中欧といわれるが、どちらかというと東欧に属するところがあって、共和制国家である。


「ハンガリー」と聞いて、思い浮かぶことはなんだろう。 クラシック音楽、リスト、バル トーク、コダーイ、ブダペストの美しい夜景、繊細なヘレンド磁器、食べ物と言えばグヤーシュスープ、くるくるとした巻き毛「食べられる国宝」マンガリッツァ豚、トカイ貴腐ワイ ン、またグースダウンの羽毛布団ではないだろうか。


自分は残念ながらハンガリーには行ったことがない。だから個人的な想い出を熱く語ることはできないが、クラシック音楽では、ハンガリーは非常に所縁のある国で、ハンガリー出身の作曲家として、リスト、バルトーク、コダーイなどがいる。いずれもクラシック音楽界では有名な作曲家である。


ハンガリーの地理的感覚はここ。

首都はブタペストである。となりに同じクラシック音楽大国のオーストリア・ウィーンがある。


ハンガリー地図.jpg


ブタペスト.jpg


ハンガリーは、中央ヨーロッパの共和制国家。 西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。 首都はブダペストである。 基本的には中欧とされるが、歴史的には東欧に分類されたことがある。


ヨーロッパのほぼ中央に位置するハンガリー。アジアにルーツを持ち、「姓・名」の順で名前を書くなど、アジアとの共通点も多い国である。また民族音楽や舞踏、刺繍や衣装は日本でも有名である。もともと騎馬民族であったハンガリー人(マジャル人)は、何世紀もかけてアジアから移動し、紀元9世紀ごろには現在の位置に辿り着き、定住し、国を誕生させた。地理や気候の条件や、オスマン帝国の支配などの歴史的背景、周辺のヨーロッパ諸国の影響もあり、ハンガリー特有のユニークな食文化が形成された。


協力

駐日ハンガリー大使館

リスト・ハンガリー文化センター

ハンガリーイロイロ


出典資料

ハンガリー食文化とレシピ集




ハンガリーの国旗


hungary.jpg


1.面積

約9.3万平方キロメートル(日本の約4分の1)


2.人口

約960万人(2022年、中央統計局)


3.首都

ブダペスト


4.民族

ハンガリー人(84%)、ロマ人(2%)、ドイツ人(1%)等(2022年国勢調査)


5.言語

ハンガリー語


6.宗教

カトリック約30%、カルヴァン派約10%


(以上外務省データ)





ハンガリーの政治・経済・文化の中心である首都ブタペスト。中央にドナウ川が流れるその美しい街は「ドナウの真珠」と呼ばれている。ちなみに、ブタペストの市街地はドナウ川を挟んで、ブダ地区とベスト地区に分かれている。


409394929_758444762992571_944435768828965310_n.jpg



写真は首都ブタペストにあるヨーロッパ最大の温泉「セーチェーニ温泉」。日本の温泉とは違ってどちらかというとプールのようですが、温泉を楽しむのもアジアとの共通点を感じます。露天風呂の他に100年前にバロック様式で建てられた素敵な建物の中の室内風呂もあります。


411657514_764353902401657_3672289238221303741_n.jpg




・ハンガリーはパプリカの国


04f4288295fc15e7e9d7630e81e7addb_thumb_1280x1280.jpg


4320_report_title_680.jpg


top_img_paprika.jpg



パプリカという名は、クロアチア語の「胡椒」という言葉がハンガリー語に転用され、世界中に普及したものである。アメリカ大陸からトルコに経由してハンガリーに伝わり、辛くない品種がハンガリーで開発された。


中南米でトウガラシと出会ったコロンブスがコショウと勘違いしてスペインに持ち帰り、それがヨーロッパに広がり、品種改良で辛味をとったのがピーマンとなる。 さらにハンガリーで甘くて肉厚に改良されたものがパプリカとなった。



ハンガリーのレストランでは、塩コショウの代わりに、塩パプリカのセットがテーブルの上に置いてあることも多い。 ハンガリーの代表料理の1つである牛肉と野菜の煮込みスープ、グヤーシュもパプリカがふんだんに使われている。


・パプリカがハンガリーで栽培されるようになった歴史は?


15世紀に探検家のクリストファー・コロンブスがメキシコ南部、中米、アンティル諸島を探検した際に集めた宝の中にパプリカが含まれていた。その後しばらくして、バルカン半島を経由してハンガリーに伝わり、貴族らが菜園で栽培を始めた。 パプリカの名前の由来はスラブ語で唐辛子を意味する「Papar」である。




・ハンガリー料理の特徴


ハンガリー料理では、バターや食用油の他、ラードも使用し、野菜のパプリカや香辛料のパプリカを豊富に使う。またサワークリームや燻製したベーコンを食べるのもハンガリー料理の特徴である。



・ハンガリーが発祥のもの


ボールペン、ビタミンC、ルービックキューブ~これらの共通点が何か分かるだろうか。 実はこれらは全てハンガリーで発明・発見されたもの。 同国のノーベル賞受賞者は延べ12人に上る他、コンピュータの礎を築いたとされる数学者のジョン・フォン・ノイマンもハンガリー出身だ。


ちなみに「逃げるは恥だが役に立つ」は、もともとはハンガリーのことわざなのだそうだ。もともとはハンガリーのことわざで、「勝負すべきところでないところを逃げたり、退いたりするのは恥のようだが長い目で見れば得策」ということを伝えている。


・・・だいたいハンガリーに関する情報としてはこんなところであろうか。。。

不思議と自分は縁がなく、ハンガリーには行ったことがないのだ。でもグヤーシュなどはなじみが深いし、なによりもクラシックという観点でハンガリーというのは、非常に所縁の深い国である。


ブラームスのハンガリー舞曲であるとか、ウィーンフィルの新春のニューイヤーコンサートでかならず演奏されるヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」も、このハンガリーのドナウ川のことを取り上げた曲である。


そして、なによりもハンガリー出身のクラシックの作曲家というと、リスト、バルトーク、コダーイとかなりなじみが深い。


その中でピアノのフランツ・リストについて、紹介してみることにしよう。



フランツ・リスト


フランツ・リスト.jpg


リスト-2.jpg



リスト・フェレンツはハンガリーを代表する作曲家として知られています。彼は長い間ドイツに住んでいたため、ドイツ語読みの名前「フランツ・リスト」から、彼をドイツ人と思っている人が多いことでしょう。


リストの出身は?


 彼はハンガリーの「ドボルヤーン」と言う小さな村に生まれ、父はハンガリー人、母はオーストリア人でした。生まれた村は第一次世界大戦からオーストリア領土になり、現在の名前は「ライディング」ですが、リストは生涯に渡り「私はハンガリー人です」と言い続けました。彼はドイツ人ともフランス人とも、世界人とも言いませんでした。パリヘ音楽を学びに行き、青年時代はおおかたフランスに住んでいたので、フランス語が彼の第一言語になりました。


しかし、コンサートの際、ハンガリースタイルの服装で出演することがたくさんあり、ハンガリー民謡を採集する計画を立て、ブダペストの音楽院 (現リスト音楽院)の創設者としても大きな役割を果たしました。彼は最後の言葉として 「ハンガリー語は全く話すことが出来なかったけれども、生まれてから死ぬまで、精神的にも、心理的にも、頭のてっぺんから足のつま先まですべてにおいてハンガリー人です」と残しました。


ピアノの魔術師と呼ばれたリスト


 1811年にヨーロッパの空に彗星が出現した同年、リストは彗星のごとく現れました。彼はおそらく音楽の歴史上、最高のピアニストだったと言えるでしょう。9歳のリストはハンガリーのショプロン市で、最初の成功を収めました。ウイーンでカール・ツェルニーにピアノを教わっていたのですが、12歳で音楽教育のレベルの向上のために父と一緒にパリへ引っ越しました。


若いリストのピアノ演奏は多くの人を魅力し、信じがたい早さで国際的に有名なピアニストとなりました。あるロンドンのコンサートの後でエステルハージ・パール(オーストリアの大使)は次のように話しました。「リストにとっては、どんなに難しい曲でも正確に、大胆に、エレガントに、そして情熱的に、感情的に、さらにすべての色合いまでも簡単に表現しています。ほとんどの曲を暗譜で、演奏中に観客の中に知人がいると微笑みかけていました。」


他の人は「ピアノの魔術師と呼ばれたリストは独特な個性と風貌で、催眠術をかけるかのように魅惑的に演奏していた」と言っていました。コンサートの雰囲気は霊的なものを感じさせる程、ミステリアスなものでした。


現在のスタイルのようなピアノソロのコンサートは、リストが初めてでした。


史上初、すべてのプログラムを暗譜で演奏しました。

史上初、バッハからショパンまで様々な年代の曲をプログラムに採り入れて演奏しました。

史上初、音の響きのことも考え、客席に向かってグランドピアノのふたを開けました。

史上初、北はサンクト・ペテェルブルグから南はジブラルタルまで全ヨーロッパを郵便馬車で演奏旅行を果たしました。


このような演奏旅行は36歳のときまでで、ここからのコンサートは定期的ではなく、特別なイベントとなりました。



当時の音楽家の社会的立場


・ハイドン、モーツァルトは、付き人として裏口からしか宮殿に入ることが出来ませんでした。

・ベートーヴェンは個性を認められ、ウィーンの貴族と同じレベルにまでなりました。

・リストは天性の才能を認められ、王皇貴族とも対等の立場にまで到達しました。


リストのパーソナリティ


リストはチャリティー活動として、ケルヌ大聖堂とブダペスト大聖堂の早期建設を願って、1838年のペスト市の洪水、ハンブルグの大火事の被害者のためになど、数多くコンサートを開きました。


ボンでベートヴェンの銅像が立てられた際、彼はこの銅像設置に多額の寄付をしました。ドイツのワイマールで音楽監督として活躍した時、ベルリーズ、ワーグナー、そして他の若い音楽家達を無私無欲に支持しました。数多くの約束事を守らないことは全くなかったと、友人、知人の手紙で伝えられています。


特に女性の間でとても人気になりました。イギリスで、ビクトリア女王御臨席のコンサートの時、同席していたレーディ・ブレシングトンは 「こんなに素晴らしい人をピアノの前だけに座らせておくなんて、もったいない。」と彼の人間性を高く評価しました。



作曲家としてのリスト



リスト音楽院


リストはピアニストとしてヨーロッパを演奏旅行している時に、他の作曲家のオペラ、歌曲、管弦楽曲などの作品をピアノソロ曲ように編曲し、演奏しました。このような曲中では、パガニーニの作品を使って作曲された「ラ・カンパネッラ」が一番人気と言えますが、「ドン・ジョヴァンニ」の回想(モーツァルト) もよくコンサートプログラムに入ります。

 

彼のオリジナルなピアノ作品の中で「ロ短調ソナタ」は最も有名で、音楽史上でも高く評価されています。リストは管弦楽の作品で、ベルリオーズの影響を受け、今までに類を見ない 「交響詩」と言うものを新しく作り上げました。この「交響詩」と言う標題を持った音楽作品は、保守的な以前の音楽家達に断固として反対されました。


この時期に、ライプツィヒでは(保守的な)以前までのロマン派の音楽を、そしてワイマールでは(開放的な)新しいロマン派の音楽をお互いに競い合っていました。「私の作品を聞く時には、聞く前に悪評を言っておかなければ罪になる」とリストは言いました。彼の説明通り「標題を持った音楽と言うものは作曲工程も表現できて、それによって、インスピレーションまでも感じることができるほど没頭させる音楽だ。」と。リストは真のロマン派の作曲家でした。そして「交響詩」の存在によって、新しい音楽の世界に大きく一歩踏み出しました。



情報引用元:


ハンガリーの有名な作曲家





8520cb046da24bb0ecabc2a97d8e27df_10d0814606e3272ef299b1da7b1e479b.jpg


フランツ・リストといえば、この”フランツ・リストは、なぜ女性たちを失神させたのか”が有名であろう。


フランツ・リストは、19世紀中期に活躍したハンガリー出身の作曲家、ピアニスト、指揮者であり、当時の音楽界において非常に重要な存在であった。彼は演奏技術の革新や音楽の表現力の向上に貢献し、現代ピアノ音楽の基礎を築いたとされている。また、彼は女性に対しても非常に魅力的で、多くの女性から熱烈な支持を受けた。実際に、彼のコンサートには多くの女性ファンが集まり、その中には「リストマニア」と呼ばれる熱狂的なファンもいた。こうした女性たちの中には、彼の演奏に感激して失神する人もいたと言われている。


当時のヨーロッパ社会は、産業革命による急激な変化が起きていた時期であり、新しい文化や技術が生み出されるなかで、人々は変革を求めていた。音楽もこの時代の中で発展を遂げ、リストはその中心的存在のひとりであった。彼は、従来の音楽表現に対して新しいアプローチを持ち、ピアノ演奏においては前例のない技術や音色を生み出した。


リストはまた、個性的な人物であった。彼は魅力的であり、自己顕示欲が強く、また女性に対しても非常に優れたコミュニケーション能力を持っていた。彼の魅力的な外見や演奏技術、そして人格的魅力により、多くの女性から支持を得た。


さらに、リストは演奏において非常に独創的なアプローチを持っていた。彼は、音楽の表現力を高めるために、従来の演奏技術を超えた方法を模索し、新しい演奏技法を開発した。例えば、ピアノの弦を直接叩いたり、フルダム(フルダン)と呼ばれる技法で指を軽く浮かせたりすることで、より豊かな音色を生み出した。また、彼の演奏には非常に強い感情表現があり、その表現力は聴衆を深い感動に誘い、時には失神させるほどの衝撃を与えたとされる。


リストが女性たちを失神させた理由には、彼の独創的な演奏技法や感情表現による衝撃的な音楽、彼の個性的な人物像、そして当時の社会的背景が関係している。一方で、彼が女性ファンたちを尊重していたかどうかや、彼らの失神が適切な熱狂なのかどうかは、現代から見ると問題があると言える。現代においては、女性たちを過剰に持ち上げることが女性差別的な文化を助長することにつながるため、リストのような行動は望ましいものではない。


また、リストは自身の名声や地位を女性たちの支持によって向上させたが、そのことが彼の音楽性や芸術性を評価する上でマイナスの影響を与えたとも言われている。彼の音楽が女性たちの熱狂的な支持によって評価されることで、彼自身が単なるスターとして扱われ、彼の真の芸術性や音楽的功績が軽視されることがあったと考えられる。


最終的には、リストが女性たちを失神させたことは、彼の音楽とともに歴史に残るエピソードの1つとして語り継がれることになった。彼の音楽性や芸術性を評価する上で、女性たちによる熱狂的な支持がどのような役割を果たしたかについては今後も議論の余地がある。


ステージで華々しく演奏するリストと、うっとりと見つめる女性たち。歓声をあげる女性たち。中には本当に失神してしまい、傍らの男性に抱きかかえられる女性もいる。これは、リストのベルリンでの演奏会の模様を、ドイツの挿絵画家テオドール・ホーゼマンが「ベルリンの現状と酒」という雑誌の口絵として描いたカリカチュアである。カリカチュアは社会現象や世相を漫画風のユーモアで痛烈に皮肉った風刺画だが、単なる文字データよりも時代の空気をよりリアルに伝えてくれる。



この頃のヨーロッパで巻き起こったリスト・フィーバーはまさに社会現象と言うべき凄まじいものだった。ドイツの作家アレクサンダー・フォン・シュテルンベルクは、この馬鹿げたとしか言いようのない熱狂は、芸術史の本よりは、病歴報告書の1ページとしたほうがふさわしいと呆れたが、それは演奏会と言うより狂乱騒ぎそのものだった。



ビートルズ、クイーン、マイケル・ジャクソンらは、失神する女性ファンを続出させた現代版リストとも言うべきスーパースター達。いまではそれほどあたりまえといわれるこの光景も、じつはその元祖は、クラシックにおけるフランツ・リストであったのだ。



・・・自分はフランツ・リストというと、まずこれを思い出すんだよね~。(笑)リストのイメージはこのイメージが圧倒的だ。個性的でいままになかった画期的なピアノ奏法技術をその場で披露、そしてリスト自身のハンサムな魅力、これが相まって女性聴衆が失神してしまう。


ピアノの魔術師


まさにこのイメージだ。もちろんクラシックの歴史の中で、今ではあたりまえのことを、リストが初めてやったことも多く、その偉業もすごい。なんとも男性にとって羨ましい限りのスーパースターなのである。


まさにピアノの魔術師、貴公子といったところであろうか。

リストといえば、やはり「ラ・カンパネッラ」でしょうかね。

まさに超絶技巧そのものという難曲です。


そんなリストが設立したリスト音楽院。自分は、このリスト音楽院ホールにとても興味を惹かれる。まさに自分のクラシック人生で一度は訪れてみたい聖地のひとつである。


リスト音楽院と、リスト音楽院大ホール


リスト音楽院-2.jpg


リスト音楽院.jpg


リスト音楽院コンサートホール.jpg


リスト音楽院コンサートホール-2.jpg


リスト音楽院コンサートホール-3.jpg


リスト音楽院コンサートホール-5.jpg


リスト音楽大学.jpg



まさにこれぞヨーロッパのコンサートホールともいうべき、美しい内装空間に、いかにも響きが豊潤そうなその空間。これは素敵なコンサートホールだと思いますね~。まだ実現できていないが、ぜひ聖地巡礼してみたいホールである。


リスト音楽院は、リストの精神を受け継ぐ音楽大学である。


ハンガリーの首都ブダペストの中心部にあるリスト音楽大学。正式名称はハンガリー国立リスト・フェレンツ音楽大学。1875年、作曲家・ピアニスト・指揮者として活躍していたリストが次世代教育のために創設した音楽院である。正門上部にはリストの銅像が据えられ、大学前はリスト広場、ビストロにもリストロー("Lisztró")などと名がつけられている。とことん愛されているリストである。


リスト音楽大学の中にも、リストの精神が端々に息づいている。



創設当初の校舎は現在リスト博物館となっているが、現在の校舎は2009年に全面改装されており、すべて設立当時のアールヌーボー様式に復元されている。それこそシャンデリアから、壁紙、調度品、ステンドグラスなど、装飾の一つ一つに至るまで、100年以上前と同じ発注先に作らせたものである。何でも外観図と設計構造図は残されていたものの、内装に関しては資料が残っておらず、歴史的検証に時間がかかったそうだ。



リストの精神を受け継ぐこと、それはハード面だけでなくソフト面も然りである。例えば教授陣はリストから始まり、以後弟子から弟子へと受け継がれている。つまり現教授陣の祖先はリストということになる。そしてここから生まれたピアニストには、バルトーク、ドホナーニ、クルターグ、リゲティ、リリー・クラウス、シフラ、シフ、コチシュ、ラーンキ、ヤンドー、ヴァーシャリなど、歴史に名を残す名手が続く。


日本の音楽家で、このリスト音楽院コンサートホールで演奏した方々も多い。小林研一郎さん、仲道郁代さんとか自分の記憶にある。


若手男性ピアニストでは、やはり阪田知樹氏であろう。


2016年ハンガリー・ブダペストにて開催されたフランツ・リスト国際ピアノコンクールにて見事に第1位。

そして2018年ハンガリー・ブダペストにあるリスト音楽院大ホールでもコンサートをおこなっている。


美男、そして超絶技巧、そしてあわよくば女性聴衆失神・・・と阪田知樹氏は現代版リストの方向性を目指しているのであろうか。(笑)


自分にとって、リストといえば、じつはリヒャルト・ワーグナーを思い出す。2016年にバイロイトの聖地を訪問で来たとき、リスト博物館が見つからず訪問できなかった。これが唯一の心残りである。


フランツ・リストとリヒャルト・ワーグナーとの出会いと親交は、歴史的な必然だった。リストはワーグナーが手に携えて持ってきた譜面を見てその天才を瞬時に見抜き、まだ彼への支持者が少ない頃から積極的な音楽的支援を惜しまなかった。1850年にはワイマール楽長の立場を生かしてオペラ「ローエングリン」上演のために奔走し、自身の指揮によって初演に至る。その後もリストは度々ワーグナーのために助力したのである。


そんなリストに対して、当時パートナーであったヴィトゲンシュタイン公爵夫人は、なぜそんなに他人の車ばかり押しているのか?まるで自分の作がないようではないか、と問いかける。するとリストはこう答えたという。


「私は芸術の車を押しているのです。すべて偉大で美しいものは神の賜物で、それに奉仕するのは私の義務なんだよ。その作者が私であろうと誰であろうと、そんなことはまったく問題ではない。」(ホルシャニ著・木村毅訳『ハンガリー狂詩曲』より)


この言葉はハンガリーの伝記小説家の想像かもしれないが、音楽家リストの広い心が現れている。



・・・スミマセン。これは世界の朝ごはん、ハンガリーの朝ごはんの日記でした。(笑)


元の軌道に戻すことにしよう。



Following pictures and informations should be under the copyright of WorldBreakfastAllday.


これがハンガリーの朝ごはんである。



417139568_773649904805390_3433437720724851666_n.jpg




ハンガリーの朝ごはんの主役は甘くないフレンチトーストの「ブンダーシュ・ケニェール(Bundás Kenyér)」。直訳すると「コートを着たパン」。サワークリームやカッテージチーズとパプリカで作る「クルズット(Körözött)」などと一緒に食べます。その昔、農夫の人々が仕事の前に食べて一日の仕事をした、ハンガリーを代表する伝統的な朝ごはんです。随所にハンガリーの定番食材である「パプリカ」が使用されています。



それぞれの一品について。



ブンダーシュ・ゲニェール


415521823_769729578530756_4276329844818560715_n.jpg


直訳すると「コートを着たパン」。その昔、農夫の人々が仕事の前に食べて一日の仕事をした、ハンガリーを代表する伝統的な朝ごはんです。チャラマーデとの相性もよいです。



チャラ・マーデ


408943145_756623196508061_692991257339205520_n.jpg


キャベツ、玉ねぎ、にんじん、パプリカ、きゅうりを酢漬けにしたハンガリーで定番のピクルスの一種です。お肉の付け合わせとして、一年中、朝昼晩を問わず食します。



クルズット



カッテージチーズと粉末のパプリカを混ぜて、玉ねぎ、塩、キャラウェイシードを加えたスプレッド。白パンに塗って食べることも多いです。



トヤーシュ・ラントッタ


415259927_769730118530702_8898009499684736270_n.jpg



ハンガリーの朝ごはんのメインディッシュはこのオムレツです。具材は玉ねぎ、ベーコン、じゃがいもなど、季節によって変わります。



レンチェ・フーゼレーク


406990632_755829093254138_323983803665716635_n.jpg


410397421_761060189397695_3135252461197729935_n.jpg



毎年、元旦に、このレンズ豆の煮込みを食べます。食べると金運がアップし、美しくなると言われているんです。



アルマーシュ レーテシュ


415270703_769105205259860_3321161318217124016_n.jpg


ハンガリーの冬の果物といえばりんご。冬にはリンゴを使った焼き菓子をたくさん作ります。薄いパイ生地でリンゴのフィリングを包んだアルマーシュ・レーテシュはその中でも代表的なデザートです。



パプリカとパプリカパウダー


410467717_761061112730936_2001052791180975199_n.jpg



カラメッラーシュ・ティ


411382738_764288622408185_6888732004917013458_n.jpg



子どもの頃、学校のティータイムでよくキャラメルココアミルクが出ていました。小さいときから慣れ親しんだ味は、大人になっても大好きです。


407586281_755829156587465_6998189308521031462_n (1).jpg



ジョージ・テア


ハンガリーでは、体調がすぐれないときにハーブティを飲む習慣があります。たとえばお腹が痛いときはカモミール、落ち着きたいときはラベンダーなど。はちみつとレモンを入れると美味しいですよ。


セールブ


夏にたくさん獲れたラズベリーなどのフルーツやエルダーフラワーはシロップにして保存すると一年中楽しめます。ソーダや水で割って、お好みでレモンを加えます。



トカイ・ボル


ルイ14世が「ワインの王様」と絶賛した、トカイ地方で生産される貴腐ワイン。特別なときに飲んだり、ギフトとして贈ることが多いです。アルマーシュ・レーテシュとの相性も抜群ですよ。



さっそくハンガリーの朝ごはんのワンプレート。いただきます。


DSC09238.JPG


DSC09251.JPG



まず、全般の印象としては、とても美味しかった。日本人の味覚にぴったり合う。どの1品もまったく違和感なく受け入れられ美味しい。どちらかというとパンの朝食・アメリカンブレックファーストのような欧米風の気軽さと親しみやすさがあって、日本人ととても相性が合うと思いました。洋風のパンの朝ごはんという感じです。


やはりブンダーシュ・ゲニェール。パンですね。なんかバターが表面に塗ってあるかのような香ばしさで、日本人の味覚にあうお馴染みの親しみやすさでした。ほんのり甘味を感じる感触で食べるとジュワ~と脂が滲み出てくる香ばしさ。日本の朝ごはんでいえば白米ご飯のようなものですから、やはり食べ応えがあります。これは美味しいですね。FBでは甘くないと書いてありますが、パンの表面が黄色でほんわり焼かれている感じなので、バターを塗って焼いているような錯覚を受けるし、それで食感がすごいホワホワ。感覚的に甘く香ばしいように錯覚してしまうんですよね。


オムレツのトヤーシュ・ラントッタは、もう全世界共通の味ですね。まさに卵のオムレツです。それに玉ねぎ、ベーコン、じゃがいもなどが入っていてボリューミーで美味しいです。まさにこのオムレツがハンガリーの朝ごはんのメインディッシュです。


ハンガリーのピクルスのチャラ・マーデは、まさに酢漬けで、全体にピリリとアクセントを加えるさっぱりしたテイストですね。これはハンガリーならではの食材だと思いました。


ベーコンはふつうに美味しかった。(笑)まさにビッグサイズで食べ応えあり。ベーコンも世界共通の味で美味しいです。


カッテージチーズと粉末のパプリカを混ぜて、玉ねぎ、塩、キャラウェイシードを加えたスプレッド。まさにパンに塗って食べるものだそうですが、そのままパクっといってしまいました。(笑)これもハンガリー独特の食材ですね。錬り状のふわふわしたクリームみたいなものですが、味が酸っぱいチーズの味がして、これは一種独特です。日本にはない味だと思いました。日本はあまりチーズをこういう風な食べ方しませんね。そんなにチーズと親しんでいないです。ヨーロッパならでは、と思いました。


でも全部が受け入れられる味。とても美味しくて、慣れ親しんだパンの朝ごはん、洋風のブレックファーストという感じがします。日本人にもすごく合う美味しい朝ごはんだと思いました。



今回、訪問した世界の朝ごはんを食べさせてくれるカフェ WorldBreakfastAlldayは銀座店にお世話になりました。自分は各店舗の中で、銀座店がいちばん大好きです。いつも銀座店にしています。


東銀座ですが、銀座という一等地の中で、店内はすごい狭いですが、やはり銀座の雰囲気、空気が漂っていて素敵です。銀座なので家賃も高いのではないか、と思うのですが、ぜひ長続きして営業してもらいたいものです。


9221-1.jpg


9232-1.jpg


415515537_774339114736469_3128712764447964899_n.jpg


415942812_774339238069790_5695915229226431520_n.jpg


415595628_774339228069791_917702083272565063_n.jpg


DSC09235.JPG


DSC09259.JPG




ワークショップの開催のお知らせです。


1月17日(水)に下記のハンガリーワインのワークショップを開催します。


「東孝江さんに奥深いハンガリーワインの世界を教わる講座」


日時:2024年1月17日(水)18:00~19:30

場所:外苑前店(東京都渋谷区神宮前3-1-23)


ハンガリーの貴腐ワインの魅力に浸ってみませんか。AZ GROUP代表取締役の東孝江さんを講師に迎え、現地ワイナリーから厳選直輸入したワインを楽しむ会です。伝統的なワインから贅沢な貴腐ワインまで、ハンガリーワインの深い魅力について教わります。当日は「雄牛の血」と呼ばれるハンガリーを代表する赤ワイン『エグリ・ビカヴェール』、トカイ地方の代表的品種「フルミント」から造られる白ワイン『プクルシュ・トカイ・フルミント』、

貴腐ワイン『キッシュ・イシュトヴァン・トカイ・アスー5put』、軽食としてハンガリーの食事パン(ポガーチャ)とりんごのデザート(アルマーシュ・レーテシュ)がつきます。贅沢なワインの旅にご参加いただき、新たな味覚の発見を共有しましょう!


415509023_773685014801879_929738444873134163_n.jpg




次回の世界の朝ごはんはポーランドだそうです。


またお休みだ。(笑)












nice!(0)  コメント(0) 

京都銀閣寺ますたにで確かめてきました。 [グルメ]

年末に、京都で、中華そばますたに北白川総本店、そして京都駅のますたに拉麺小路店のいわゆる”京都の聖地”でますたにラーメンという京都ラーメンの原点を味わってきた。


まさに自分にとって”京都の聖地”であるが、そのときに感じたのは数年前に京都で体験したときの味と比較してなにかちょっと違うな、という違和感だった。食べてみれば紛れもないあのますたにラーメンである。


でもなんか違うのだ。麺が柔らかすぎてふにゃふにゃし過ぎ。そしてスープが黄色過ぎる。


これはなんか違うな~と思ってしまった。京都駅店だけであれば、まっそうなのかな、とも思えるが、あの本家本元の北白川総本店もそうだったので、そうなのか~、変わっちゃったのかな~とも思ってしまった。


そういえば、東京・日本橋の京都銀閣寺ますたにでも、最近は以前より美味しくなくなった、と思っていた。同じように麺がふにゃふにゃでそう感じてしまった。


せっかく京都の聖地で堪能したばかりなので、ここでもう一度東京・日本橋店のますたにラーメンを再確認しようと思って行ってきた。


今日は自由が丘クリニックの診察の日だったので、その帰りに寄ってみた。


東京・日本橋にある”京都銀閣寺ますたに”日本橋店。やっぱり新装開店の看板が怖すぎです。(笑)もっと京都らしい優しい感じのする看板がよかったのに~。


9141-1.jpg


9148-1.jpg


9177-1.jpg



東京・日本橋店は、このすごい大きい道路の横側に位置しているのです。


9171-1.jpg


やっぱり自分のメモリアルにある京都銀閣寺ますたに・日本橋店というと、この移転する前のこの面構えなんだよね~。


25940505_2229955202_195large.jpg


25940505_2343299449_207large.jpg



やっぱりどうしてもこのイメージが強い。この時代のお店で、ますたにラーメンのことを知ったし、何十年も通い続けたし、自分の身体に刻まれているのは、やはりこの店舗のときである。新店舗の面構えは怖すぎなので、この昔のイメージに戻してほしいです。


店内はこんな感じです。新装開店したばかりなので、すごい綺麗で清潔感溢れています。


DSC09091.JPG


DSC09095.JPG


DSC09105.JPG



さっそくますたにラーメンを頼みました。じつはチャーシューメンが美味しいんですよね~。ご飯、たくわん付き。


DSC09110.JPG


DSC09121.JPG



日本橋店では、餃子のサイドメニューも手広くやってます。


DSC09135.JPG


さっそく東京・日本橋店のますたにラーメンを堪能。


これは昔の味となんら一糸も変わらず、あのときの美味しさをそのまま引き継いでくれている、という確信が持てました。


まさにあのとき、あの頃のあの味、そのまんまの味である。


すごく美味しい。自分がハマって通い詰めていたときのあの味である。


注文するときに麺固めでお願いしたのがよかったかもしれない。麺に芯があって、ふにゃふにゃしていない。コシがあって、すごい食べ応えがあって美味しい。細麺のストレート麺だ。固さも抜群の塩梅で、これがスープと絡んで美味しい。


スープの色も自分がよく知っている醬油系の色だ。黄色じゃない。



そしてスープがあの三層の旨味がじつに絶妙。京都ラーメン独特の背脂と鶏ガラスープの絶妙の組み合わせ。その香ばしさ。これに硬めの芯のある細麺のストレート麺がよく絡んで、絶妙のコンビネーションだ。




とくに、これは京都の本場では感じないことなのだけど、スープを飲み干していくと、どんぶりの底になるほど、唐辛子のピリリとした辛みが味わえて、スープの味・種類が三層になっていることを感じさせてくれる。


この辛みは、京都の聖地のほうにはない味だ。


東京・日本橋店では、注文するときに、女性給仕さんが細かく好みによるオーダーメイドなチョイスを聞いてくる。麺固めとか、背脂多めとか、辛め、とかである。その人に好みに応じてオーダーメイドな対応をしてくれる。

これは昔からだ。


でも東京・日本橋店のますたにラーメンは、昔となんらいっさい変わってないあのままの味を続けていてくれた。途中でなんか変わったな、美味しくなくなった、と感じた時期も最近あったのだけど、今日食べたら、まさにこの味!ということで自分は涙が止まらなかった。号泣である。


やっぱりラーメンは難しいです。

年数が経てば経つほど同じ味をずっと保ち続ける、ということは至難の業なんですよね。特にスープです。ラーメンはスープが命。スープは年数が経っていくとどんどん変わっていってしまう。すごい難しいことなんだと思います。


昔ながらのファンが離れていく・・・ということもよくわかるような気がします。ほんとうにラーメンは難しい。長い間、何十年も同じ味を保ち続ける、ということはほんとうに難しいことなのだ。


思ったのだけど、東京・日本橋店のほうは、それこそ30年くらいずっと通い続けているから、味が自分の身体の一部としてもう同化しているんだよね。もう一瞬にして、そうこの味!ということですぐにピンと舌、味覚が反応する。


それに対して、京都の聖地のほうは、ほんとうに滅多に行けないし、5年間隔で1回体験できるかどうかだ。そういうことからして、まだしっくり自分の体に味が浸透していないのかもしれない。京都で数か月間滞在して、常連さんと同じように、ずっと毎日通い続ければ、まさに自分のモノにできるかもしれない。


そう思った。


やっぱり長く通っているほうに、舌や味覚が一心同体で同化しているのだと思う。


京都の聖地のますたにラーメンと、東京・日本橋の京都銀閣寺ますたにのますたにラーメンは、微妙だけど別物のように感じる。どちらがいい、とかそういう問題はナンセンスだ。


創業70年の伝統の京都ラーメンの原点である京都・北白川の中華そばますたにから暖簾分けされて東京・日本橋に開業した京都銀閣寺ますたに。おそらく創業者の味をしっかりと受け継ぎつつ、そこにちょっとした独自の改良を重ねて、より洗練された味に仕立て上げた、ということなのではないだろうか。


そんな印象を新たに感じた。


京都の聖地 中華そばますた 北白川総本店は、まさに神殿ともいえる尊さである。技術の世界もそうだけど、やはり元祖、開祖者がいちばん偉いのである。1番最初にアイデアをだし開発した人が1番偉い。後世にわたり、その偉業は崇め立てられ、伝説は伝えられていくのだ。


でも京都の聖地と東京・日本橋店の味はきちんと共通のテイストがある。同じ土俵上で勝負している、というか、両方を食べてみて、やはりこれはますたにラーメンだ、とわかるのである。そういう意味でも、東京・日本橋店はきちんと暖簾分けに恥じることなく、その親の味をきちんと踏襲しているのである。


そういう共通点を感じる。

親と子の関係である。


もう少し京都の聖地のほうのますたにラーメンを毎日通い詰めて自分のモノにしたいと懇願する。そうするともっと神の領域に近づけるかもしれない。


自分の生活範囲の京都銀閣寺ますたにの方は味が不変ということで、心底安堵した。あとは、もっと京都に通って、聖地の領域に近づきたいと新たに誓った今日である。




さて、東京・日本橋。お江戸・日本橋というくらい江戸時代との馴染みがイメージ的に強い。

やはり徳川幕府によって江戸の街が作られて、その中でも日本橋はその中心だった。


自分は東京に住んでから、日本橋という街はそんなに縁がある街とは言えなかったけれど、自分にとって日本橋というと、この京都銀閣寺ますたに、そして日本橋でも人形町にある親子丼玉ひで、そしてすき焼きの人形町今半。この3スポットが、自分の人生における日本橋との縁である。


日本橋界隈はそんなに地理的に詳しくないし、土地勘もないけど、この3スポットに通った回数はすごい。(笑)もう数えきれないくらいだ。だから日本橋の同じ道を何回も通った、という点では、そういう解釈では日本橋は非常に縁が深かった街といえる。


日本橋には銀座線を使う。

銀座線の日本橋駅で降りると、地下なので、そこからそのままデパートの高島屋に入る。ここから京都銀閣寺ますたにまで行くまで、自分が毎回通るその道すがらの光景を紹介していこう。


高島屋に入ると、地下フロアに羊羹のとらやがある。

ここも毎回目を通すスポットだ。


DSC09020.JPG


DSC09026.JPG



”とらや”は室町時代後期の京都で創業。五世紀にわたり和菓子屋を営んできた。後陽成天皇の御在位中(1586~1611)より、御所の御用を勤めている。明治2年(1869)東京遷都にともない、天皇にお供して、京都の店はそのままに東京にも進出、現在に至る。


いまは東京、京都をはじめ、全国にその店舗を広げている。


羊羹・最中・焼菓子。。。とくに、”とらや”といえば羊羹(ようかん)ではないだろうか。

”とらやの羊羹”はとても有名だ。


自分はこの高島屋のとらやを通りかかると、かならず羊羹を買ってしまうことも多い。羊羹すきなんだよね~。暑い夏に麦茶に羊羹は、最高のアイテムだと思う。


高島屋のとらやのショーウィンドウには、それこそ看板商品のとらやの羊羹が並ぶ。いつも買っちゃうんだよね~。(笑)なんか和菓子って佇まいが上品ですよね。すっきりさっぱりした清潔感溢れるそんな佇まいがあります。


DSC09030.JPG


DSC09033.JPG


DSC09037.JPG


DSC09040.JPG


DSC09043.JPG



日本橋のガス灯。


9045-1.jpg



山本山ってある。


9050-1.jpg



自分の世代の方だとわかっていただけると思うが、昔コマーシャルで、


「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」


という海苔のCMがあった。懐かしい~。(笑)


上から読んでも下から読んでも同じというのは回文というのだそうだ。


山本山は、お茶、海苔、そしてお菓子などを販売する老舗だ。煎茶(緑茶)・玉露、ほうじ茶・玄米茶・麦茶、抹茶、焼海苔、味付海苔、のりせんべい、スイーツとかである。


元禄三年、私たちは日本最古の煎茶商として創業したと伝えられております。永谷宗円(現在の永谷園の創業者の先祖)によって煎茶が発明され、それを最初に販売したのが山本嘉兵衛商店(現在の山本山)であったと、明治期の茶業通鑑に記されております。以来、脈々と煎茶の味を広めるべく、茶業を続けてまいりました。



・脈々と受け継いできた伝統と革新


伝統を続けるとは変わり続けること。山本山は不易流行を重んじ、伝統を守りながら時代とともに新しい息吹を商品に吹き込んできました。初代による煎茶・六代による玉露・九代による海外展開など、伝統を守りながら今も革新を次世代に繋いでいます。



・江戸の海苔のおはなし


江戸期に至るまで、海苔は庶民には手の届かない高級品でした。浅草のあたりで海苔が養殖できることが発見され、和紙の技術を応用して、現在のようなシート型の海苔が誕生し、後にあさくさのりと呼ばれるようになりました。山本山は江戸の当時、茶業のほかに和紙をつくることが生業でした。紙から海苔に変わっても、扱う技術と精神を受け継いでいます。



日本橋に来ると、よくこの山本山の茶房に入ることも多い。



京都銀閣寺ますたにが日本橋再開発で移転をしたあとのお店までの通り道で、この日本橋 玉ゐ(たまい)を発見した。あなご専門店である。


9065-1.jpg


9087-1.jpg



以前日記で紹介したと思うのでここでは割愛するが、このビジネス街の日本橋の中で、ポツンと浮いているこの存在感というかオーラ。独特の雰囲気を醸し出している。この再開発真っ盛りの東京の中で、こういう建物はずっと歴史遺産として残していってほしいと思う。


うなぎとあなごは違います!




この日本橋 玉ゐ(たまい)の隣にこれまた大行列の並ぶ人気店があるのだ。


五代目花山うどんである。


9070-1.jpg


9077-1.jpg



創業明治27年。時代を越え変わらぬ想いは余計な事はせずその土地の素材を活かすという事。恵まれた気候・水資源から出来る良質な群馬県産小麦を技と勘を凝らし本物のうどんをつくりあげます。120年以上続く伝統のうどんを、ぜひご堪能ください。


花山うどん創業の地・群馬県館林は、北は渡良瀬川、南は利根川という二大河川に挟まれ、美味しい地下水が豊富な地である。


古くから良質な小麦の産地として有名で、江戸時代には名産地として、館林藩からうどんが将軍家に献上されていたのだそうだ。


これは讃岐うどんとまた違ったうどんの醍醐味を味わえそうですね。いつもここは大行列なんですよね。店内が木装のすごく素敵な内装ですごくオシャレです。人気がでるのもよくわかるような気がします。


大行列だけど、今度挑戦してみます。


9187-1.jpg


9183-1.jpg



とにかく日本橋という街を歩くと、そのビジネス街というかビルの立ち並ぶオフィス街という景観で圧倒される。都会だな~と来るたびに思うのである。


周辺の八重洲・京橋・大手町・丸の内などとともに、まさに東京の中心業務地区を構成している。


日本橋は、江戸時代から武家屋敷が立ち並ぶ山手に対して、町人文化の中心地下町を代表する地域であった。東京は新宿や渋谷などの比較的歴史の浅い街が多い中で、日本橋は江戸時代初期からの歴史と伝統を持つ数少ない地域なのである。


せっかくだから、日本橋という街についても勉強していこう。


情報引用元:


まち日本橋




201306_feature_head.jpg


main.jpg


日本橋(にほんばし)は、東京都中央区北部の通称。旧・日本橋区にあたる。また、東京都中央区の町名。日本橋川に架かる日本橋に由来する。


江戸幕府開府とともに城下町として急成長を遂げた日本橋。全国各地から商人や職人が集まり、地域のシンボルでもある名橋「日本橋」は五街道の起点となりました。また、水運に恵まれたこともあり、多種多様な物質が集結・流通した場所でもあります。それらは、暖簾という形で代々受け継がれることもあれば、企業という形へ変化するなど、いまなお、さまざまな形で成長を続けています。



東京まで○○kmの起点…道路標識で「東京まで○○km」と書かれている多くは、日本橋までの距離を表しています。


百万都市だった江戸時代…江戸時代の日本橋は、パリやロンドンよりも巨大な、世界屈指の都市だったと言われています。


「日本橋」という町名…東京都中央区には、日本橋本町、日本橋室町というように、住所に「日本橋」を冠する町が21あります。これに八重洲一丁目を加えた22町が、旧・日本橋区にあたります。昭和22年(1947年)に、旧・京橋区と合併して中央区が新設される際、地名に日本橋を残したいという声が多かったことから、現在の各町名となったといわれています。




日本橋エリアの誕生は、江戸幕府開府の際、江戸城を中心に造成した“町人地”がはじまりといわれています。地域のシンボルである「日本橋」も、1603年(慶長8年)、江戸幕府開府と同時に完成。1604年(慶長9年)に五街道の起点としてさだめられ、やがて各地から訪れる人々や物産で、街は大いに賑わいます。通りの両側には、大型商店「三井越後屋呉服店(のちの三越)」や「白木屋(のちの東急百貨店)」をはじめ、堂々とした構えの店が次々と軒をつらね、日本橋は日本経済の中心として発展していきました。



1601年(慶長6年)、江戸幕府により、江戸と各地を結ぶ東海道・甲州街道・奥州街道・日光街道・中山道が順次整備され、1604年(慶長9年)、日本橋がこの重要街道の起点として定められました。江戸幕府の地誌書「御府内備考」には、「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありといふ」という記載が残っており、幕府が日本橋を起点に、五街道を発達させようとしていたことがうかがえます。やがて日本橋は、全国からやってきた多くの人や文化が交流する、日本で類を見ない街として発展していきました。



歌川広重筆の東海道五十三次でも日本橋は描かれています。


1280px-Hiroshige_le_pont_Nihonbashi_à_l'aube.jpg


同じ歌川広重などの浮世絵などにも日本橋はたくさん描かれてきました。まさに花のお江戸、日本橋という感じで、江戸の町人文化の中心地だったんですね。


日本橋浮世絵.jpg



そんな日本橋ですが、いまは上に首都高が走っています。(笑)


Nihonbashi_12.jpg



これは街の景観、歴史的遺産を台無しにする無謀なことですよね~。自分は1回だけ、この日本橋を渡ったことがあります。初めて、日本橋を体験したくて、若い頃に行きました。確かに上に首都高が走っていて呆気なかったような記憶があります。




●日本橋発祥。


・日本橋魚市場


・郵便


・第一国立銀行


・人力車


・講談


・早矢仕(はやし)ライス


・天ざる・天もり


・親子丼


・味附海苔


・折詰料理専門店


・お子様ランチ


・果物専門店


・商品券


これらが全部日本橋発祥なんだそうですよ。驚きですよね。普段我々があたりまえとして接しているものです。ハヤシライスとか、お子様ランチも日本橋発祥なんだとは驚きました。


詳しくはこちらをどうぞ!


日本橋発祥を訪ねる。まち日本橋




まさにかつての江戸の町人文化の中心、そしていまでも東京の中心業務地区の中心、京都銀閣寺ますたには、こんな江戸時代から由緒ある東京のど真ん中で営業しているお店だったんですね。


すごい誉に感じます。











nice!(0)  コメント(0) 

白湯 [健康]

いまの時期の寒い冬になると、困るのが暖かい飲み物の飲料代がかさむこと。自分は血糖値が上がらない程度にココアやコーヒーをいつも愛飲している。これは暑い夏の日の飲み物にも言えることなのだけれど、糖尿病患者、血糖コントロールが正常でない人の原因は、甘いジュースなどの糖分の入った飲み物をゴクゴク飲んでいるのがいちばん良くない。これってすごく血糖値あがりますよ。食べ物をたくさん食べすぎることも血糖値が上がる原因だけど、この糖分の入った飲み物をゴクゴク飲むのも血糖値を上げる大きな原因なのです。


自分は結構注意している。


ところが、じゃあ普段お茶とかミネラルウォーターとか、それだけで満足できるか、というと、これまたまず無理なんですよね。それだけじゃ人間もたない。あまりに味気なさ過ぎてまず続かないです。やはり適度な量で、ある程度糖分を摂取しないと満足感が得られないものなのです。糖分を吸収すると、人間ってなんか満腹感というか落ち着くものなのです。


やはり精神の安定には、糖分は必要だ、というのが自分の長年の経験値。


毎日、お茶、ミネラルウォーターだけではまず人間持たない。

だから良好な血糖コントロールを心掛けるには、毎日連続でなく、数日インターバルを置いて適度な糖分をとる、という感じで、たまに飲んでささやかな満足感をえる、というのがいいという自分の経験である。


そうなんだけど、最近さらに問題が起きてきた。それはコーヒー、紅茶、ココアを買っていくにつれて、月間でかかる費用がバカにならないのだ。結構かさみます。


とくに寒い冬は暖かい飲み物をつねに毎日飲んでいる感じなので、そのお供としてコーヒー、紅茶、ココアの消費量がすごくて費用的にすごくかさむ。


貧乏人の自分は、なんとかならないかな~。


あまりに寒いので、お湯だけで飲む?というのもあり?

味のないお湯だけ飲んで美味しい?満足できる?


と思ったのだけど、試しにネットで、


”お金がなくて、お湯を飲むとき、何入れる?”


という質問を検索してみた。(笑)


自分の狙いとしては、コーヒー、紅茶、ココアは高いので、なんかそれに代わるもっと安いそういうお湯に入れるものがあるのか?みんな、そういう暖かい飲み物を飲むとき、自分と同じような経験で費用がかさむので、もっと手軽に楽しめるそういうお湯に入れるものを参考にしてみたい、という狙いがあった。


そうすると検索して、出てきたのが結構驚きだった。


それは、


白湯(さゆ)


である。


10331002213.jpg


23275565_m.jpg


AdobeStock_404753647.jpeg


3157fcc73f34f2ae7b506982166ad070_s.jpg



白湯(さゆ)というのは、お水を沸騰させて沸かして、それを飲めるぐらいに冷まして飲むことをいうらしい。白湯とお湯とは違うらしいのだ。



白湯(さゆ)とは水以外の物を一切入れずに一度沸騰させた湯を50℃~60℃くらいまで冷ました飲み物のことをいう。


白湯の起源は?


五千年の歴史をもつインドの伝統医学であるアーユルヴェーダでは、白湯は体内のバランスを整える飲み物と位置づけられていた。中国では白湯を飲む習慣が現代では広く根付いているが、紀元前4世紀後半に成立したとされる『孟子』には「冬には湯を飲み、夏には水を飲む」と白湯を飲む習慣が既に記載されている。


白湯を飲んで体を内側から温めることを毎日続けると、次のような健康や美容に関する効果があると期待されている。


①胃腸が温まって消化力が高まる。

②腸が温まることで蠕動(ぜんどう)運動が活発になり、便秘解消になる。

③内臓が温まって基礎代謝が上がり、冷え性の改善やダイエット効果につながる。

④体が温まると血液やリンパの流れを促進し、老廃物や余分な水分が体外に排出されやすくなるので便秘やむくみへの効果が期待でき、デトックスになる。

⑤白湯を飲んで肌荒れの原因となる胃腸の不調や腸内環境を整え、栄養の摂取・吸収を改善することで肌トラブルを防ぎ、肌の健康を体の内側から保る。また、血流がアップして美肌効果も。


朝の起床後の水分補給や就寝前のタイミングで白湯を飲むと、体が温まり効果的。


●白湯とお湯の違いは?


それでは「白湯」は「お湯」とはどう違うのか。


一般的には「一度沸騰させたものかどうか」で区別される。

白湯は、水を一度沸騰させて冷ましたもの。お湯は、水を加熱して40℃以上にしたもの。

つまり、40℃以上の水の総称が「お湯」で、その中でも一度沸騰させているものを「白湯」と呼んでいる。


沸騰させる理由とは?


では、なぜ一度沸騰させる必要があるのか。煮沸して消毒するので殺菌や不純物を取り除くことができる。水道水の場合は沸騰させずに温めただけでは、残留塩素や塩素と反応して生成されるトリハロメタンなどの有害物質が水の中に残ってしまう。沸騰させることで、有害物質を取り除くようにしている。また、沸騰させるとカルキ臭が抜けるので口当たりをよくして飲みやすくするという理由もある。


現代のさまざまな水


現代の生活では水は水道水だけでなくミネラルウォーターをペットボトルで販売されているものがあったり、家庭にも手軽にウォーターサーバーを設置できるようになってきたりしている。


ペットボトルやウォーターサーバーの水なら有害物質やカルキ臭が気になりませんよね。


その他にも、浄水器で水道水を浄化し、水道水に含まれる塩素や有機物を除去や減少させておいしくすることもできるし、整水器では、水道水の有害物質を浄化した上で、更に電気分解によりアルカリイオン水(電解水素水)を作ることもできる。


また、水を温めるのもやかんや鍋を使って火にかけるだけでなく、電子レンジや電気ポット、電気ケトルを使うなど様々な方法でできるようになってきた。つまり水の種類や温める方法を選べば、塩素やトリハロメタンを除去や減少させて、白湯をもっと時短で作れるのである。


・・・だそうです。


水道水をそのまま使うのでは有害物質が含まれているので、それをいったん沸騰させて菌を殺して、それを飲みやすい温度で飲むのが白湯(さゆ)ということなんですね。いわゆる健康なお水で、しかも暖かい飲み物、ということなのでしょうか。


水道水から有害物質を取り除くのは、いったん沸騰させる必要があったり、浄水器や整水器とかで水道水を浄化する、という方法になりますね。でも面倒ですよね。


自分も普段、家で水を飲むときは、よっぽどのことがない限り、水道水の水は飲まないです。なんか飲みたくないです。いろいろ入っていそうなので。。かならず近くのコンビニでミネラルウォーター2リットルのペットボトルを2本買ってきます。1本あたり100円くらいで極安なので、これくらいの投資だったらいいかな。水道水飲んでいるよりぜんぜんいいと思います。


水道水から浄化するのはいろいろ面倒なので、もうミネラルウォーターを使って、それを温めれば白湯(さゆ)になる、ということです。


白湯の作り方として、水道水をいったん沸騰させて有害物質を取り除いて、冷まして飲むのもいいですが、ペットボトルの水をそのまま電気ポッドや電気ケトルで温めれば、そのまま白湯ができる、ということですね。



・白湯の電気ポット、電気ケトルでの作り方


電気ポットでの白湯の作り方


effectiveness-of-boiled-water2-4.jpg


電気ケトル.jpg



沸騰させるタイプの電気ポット、電気ケトルの場合は、沸騰させた後に50~60℃くらいまで冷まして作ります。この方法は一度沸騰させるので水道水を使ってもいいのではないかと思うかもしれませんね。しかし電気ポットや電気ケトルでは10~15分間沸騰させ続けるのが難しいこと、またフタを開けたまま沸騰させ続けるとお湯が吹き出す危険性もあることから、充分に有害物質を取り除くことができません。


そのため、電気ポット、電気ケトルで白湯を作る場合には、沸騰させるだけでなく、カルキ抜き機能が付いたものがおすすめです。温度設定ができる電気ポット、電気ケトルタイプの場合は、50~60℃に近い温度に設定して加熱のスイッチを押すだけですぐに白湯を作ることができます。





自分は、ふだんコーヒー、紅茶、ココア、あるいはカップラーメンを作るときは、もう電気ポット、電気ケトルを使います。いちいちやかんで沸かしたりしません。(笑)自分の電気ポット、電気ケトルは、温度設定ができるものなので、白湯は簡単に作れますね。沸騰させた後、保温設定で50~60℃にしておけば、白湯のできあがりです。もちろんこれは水道水を使う場合です。最初からミネラルウォーターを使えばもっと確実ですね。


自分は、飲む水、飲料水にはミネラルウォーターのペットボトルを使うのですが、電気ポッド、電気ケトルの場合は、なぜか水道水を使うのでした。(笑)でも水道水を使っても、保温設定ができる電気ポッド、電気ケトルなら白湯はできる、ということです。



白湯電子レンジ.jpg



市販のペットボトルやウォーターサーバーの水なら、電子レンジを使っても簡単に白湯を作ることができます。電子レンジの場合は、電子レンジ可の容器に水を注いで適温に温めるだけで白湯のできあがりです。


この方法で沸騰させ続ける手間をかけなくていいのは、市販のペットボトルやウォーターサーバーの天然水や浄水器や整水器などで浄化された水です。これらの水を利用するのであれば有害物質や不純物が含まれている心配がないので安心して飲めるでしょう。レンジを使って白湯を作る場合は、市販のペットボトルやウォーターサーバーの水などの浄化された水を使うと沸かす必要がないので便利です。


白湯を飲んでると、先述のように、健康にいい5つのメリットがあるし、歴史伝統的に、インドの伝統医学や中国の孟子にも白湯を飲む習慣が記載されているのです。昔からそういう習慣があったのです。


これは驚きでしたね~。

びっくりしました。


白湯は、保温設定付きの電気ポットや電気ケトルだったら、水道水からでも作れるし、ミネラルウォーターであればベスト。もういかにも簡単にできます。


要は、白湯は菌のないお湯のことですね。

それを飲んでいると健康にいいと昔からの保証付きなのです。


自分が、コーヒー、紅茶、ココアにかける費用が勿体ないので、もうこうなったらお湯でも飲んでみる?とやけくそになっていましたが、なんとも白湯じたいにすごい健康、デトックスの役割があるのです。


これは目からウロコでした。


”お金がなくて、お湯を飲むとき、何入れる?”


から偶然導かれた黄金の拾い物でした。(笑)


白湯を毎日飲むことを習慣にして体を内側から温め、健康で美しい体づくりにつなげる、ということですね。




何も加えないのが本来の白湯ですが、そのまま飲むのが苦手な場合や飽きてしまう事もあるかもしれません。そんな場合は、お好みに合わせてプラスしてアレンジしてみると良いでしょう。


ショウガ

レモン

はちみつ

ハーブ(ミントやバジルなど)


お好みに合わせて他の好きなものを入れたり、自由に量を調整したりしてみてはいかがでしょう。


まっこれは当然そうですよね。自分もお金がかからないそういうアレンジを知りたくてネットをググったのがもともとの始まりでしたから。


ちなみに、この白湯、コンビニで売っているの知ってますか?(笑)


1_s.jpg


ffadea80b632b10ac63414657c35c5e4_3.jpg



アサヒ飲料がホット専用商品として「アサヒ おいしい水 天然水 白湯」として展開しており、2022年11月から全国のセブン-イレブン、ファミリーマート、ローソンで販売されています。


なぜ“お湯”を売るようになったのか、どういった需要があるのか。ちなみに白湯は「水を一度沸騰させたお湯」のことを指します。アサヒ飲料の製品は、白湯の適温とされる約50~60℃に温めた状態で販売されています。容量は340ml。


白湯をいち早く販売したのはセブン-イレブン。「寒い時期に外出先で温かい水(白湯)が飲みたい」「薬を飲むときに温かい水があると嬉しい」という要望があり、2022年2月に東京都内と神奈川県内の一部店舗でテスト販売を始めました。


このテスト販売には多くの反響があり、全国展開を望む声が多かったことから11月より全国販売をスタート。セブン-イレブン広報によると、購入者は女性や高齢者が多いそうです。具体的な用途を聞くと「水分補給」と回答がありました。



ファミリーマートは11月から白湯の取り扱いを始めていますが、販売理由を聞くと「妊婦さんなど女性を中心に、ノンカフェインで味もない体に優しい温かい水の品揃えが欲しいとの声が冬場に一定数あったため」と回答がありました。


ローソンも11月から同製品を販売しており、「当社ではお茶や紅茶などを温かい飲料として展開していますが、白湯も昔から馴染みがある飲み物で需要があると思い取り扱うようになりました」(ローソン 広報部)とのこと。



また、製造元のアサヒ飲料によると、白湯の飲用経験率は年々増加しており、2009年の11.8%から2022年には61.0%と約5倍に。白湯は女性が飲用する印象が多いようですが、男性の飲用経験率も2022年には54.4%と半数以上を占めています。


アサヒ飲料の調査によると、白湯が飲まれる時間帯は朝が多いようです。女性は「冬場の冷えや寒さ対策」を中心に「体に良さそう」、男性は「朝からカフェインを取りすぎないように、意識して白湯を飲んでいる」といった飲用理由が挙がっています。


・・・とのことだそうです。(笑)


驚きそのものですね。まさか白湯、まっ一瞬の捉え方をするなら、お湯がホットドリンクとして有料で売っているんですから。(笑)


この寒さ冷える毎日、厳しい冬のシーズンを迎えると、いつも悩みの種なのが、コーヒー、紅茶、ココアなどでかさむ費用。なんとか代用できるいい案がないか、と思いましたが、まさに白湯(さゆ)というのがあるとは思いも寄りませんでした。


味がなくて単調に感じるかもしれませんが、ちょっと試してみます。

お金かからないし、自分の場合は水道水だけでできてしまうので。。。




情報引用元:



白湯とお湯の違いと効果とは!水道水からケトルやレンジでの作り方!



なぜコンビニで「お湯」が売られるのか











nice!(0)  コメント(0) 

謹賀新年2024 [雑感]

あけましておめでとうございます。


昨年は拙ブログを読んでいただき、誠にありがとうございました。


昨年は仕事面、趣味面双方において、大きなアクシデントもなく、無事平穏に1年間を過ごせたのではないか、と思います。神様に感謝いたしたいと思います。


思えば、新社会人として上京したときは、ホームシックにかかってしまい、夜な夜な寮の公衆電話から実家の親に電話をしたりして、かなり精神的に不安定な時期がありました。こんなんで、これから社会人生活が務まるのか、ともう絶望の境地にいました。


それでも、そんな青い自分でも、こうやってきちんと務まってきた、というのは不思議ですね。よく頑張ってきた、と自分を褒めてあげたいです。


これから新社会人になるみなさん。きっと不安でいっぱいだろうけど、大丈夫です。私のような者でもなんとかなってきたんですから。(笑)


自分は、技術者、そして知財・ライセンスの世界で人生を全うしてきましたが、思えばこの道のりは、決して1人で成し得たものではない、ということです。


人生の仕事で、自分1人で学んで自分1人で解決していく、ということは、ほとんど不可能なのではないでしょうか。かならず、そのときの上司、先輩、同僚から、あるいはあるときは後輩から、いろいろ教えてもらい、仕事というものを覚えて、自分で実行していく、その繰り返し、そういうものだと思います。


いまの自分の社会人としての人間性、仕事としての知識・ノウハウは、そういうたくさんの人との出会いがあって、初めてそれが自分の形成につながり、いまの自分を造っているのだと思います。


人生において、人との出会いは財産だと思います。


もちろん最後は、自分がやらないといけない訳ですから、自分の能力も必要になってきます。


でもそうなるまで、1人前になるまでに、自分の人生の中で、いろいろな人と出会い、教えてもらいながらやってきた、という実感があります。


技術者、知財・ライセンスの人生の中でも、いままで自分と関わってきた上司、先輩、同僚、そして後輩、1人残らず全員覚えています。もうその方々がいたおかげで、今の自分がある、という感じです。


これはなにも仕事面のことだけではないと思います。


自分の人生でいちばんの危機だと思ったのは、やはり数回に渡る病気に襲われたとき。もうこれは人生の負の部分としていまも自分の中に抱えています。


そのときも、病院の主治医の先生、看護師さん、理学療法士などのスタッフなど、入院、通院などで、ほんとうにたくさんの人との出会いがあり、助けがあって、その危機を乗り越えてきました。


これも人との出会いです。


そして趣味面でも。同期の友人、そしてSNSの発達によってクラシック、オーディオ、そして旅行という趣味の面で同じ趣味、楽しみを共有できるような仕組みができあがり、そこでも共通の”好き”を持っている友人がたくさんできました。


その友人たちとの出会いも、これまた自分の財産です。

その友人たちとの切磋琢磨で、自分という人間がより深く形成されていきます。


やはり、そういういままで自分の人生で関わってきた人には、いまここに大きく感謝の意を表明すべきだと思います。


ありがとうございました。


これからもたぶん同じだと思いますので、もっと頑張っていかないとな、と思っています。



趣味は人生を豊かにすると思います。


仕事しかない人は、仕事を失うと、自分の存在がなくなり、精神的に困ることになると思います。やはり会社、仕事の世界とは別に、もっと違う世界、それは趣味の世界でもいいですから、別の自分を作っておくべきだと思います。


そういう世界で自分の存在を作っておけば、べつに仕事がなくなろうが、どんな状況変化が起ころうが、自分の存在が社会からなくなることはありません。


自分の人生軸を、自分の中に持っておく、ということです。


自分の人生軸を、会社、仕事の中に置いておくと、それは将来仕事を失うときに、困ることになると思います。自分の人生軸を、自分の中のほうに持っていれば、そういう心配はありません。


いつも安定です。


いわゆる分人主義というか、自分という人間性の中に2面性を持っておくことも必要なことだと自分は思います。


仕事しか興味がない人は、やはり人間的にいろいろ狭帯域の人で、人間性として偏った感じがします。上に行く人ほど、仕事だけでなく、あらゆる業界のことを広く浅く知りながら、そういうお付き合いが必要になるのでは、と思います。やはり仕事以外に、仕事以外の違う分野もマージして、いろいろ社会の常識を兼ね備えながら、トータルとしての人間性を形成していくことは、豊かな人間性を構築していく上で必要なことなのではないか、と思います。


自分の場合は、仕事が終わった後に、クラシックやオーディオ、そして旅行、あるいは日々の雑感などを日記で書いていく、という作業を通じて、いろいろな世界のことを知り、豊かな人生、豊かな心になったと思います。こういう作業が自分を豊かにしたと思います。べつにその当時はそんなことを意識して書いていた訳ではありませんが、結果的にそうなった、という感じです。


好奇心、興味が湧く、これがすごく大事なことです。興味が湧くので調べてみたい、自分で学んでみたい。さらにそれを強固なものにするために自分で書いてみる。そんな感じだったと思います。


興味の範囲が広い範囲に及ぶほどいいと思います。


これからの新社会人になるみなさんにも、ぜひそこをアドバイスしたいと思います。

仕事以外に、趣味などの別の世界でもう1人の自分を作っておく。


そうすることで、仕事が不調のときも、自分の逃げ場があります。

心は救われ、安定します。


この境地は、もちろん長い自分の人生で経験して得た境地です。自分も若い頃はそんなことぜんぜんわからなかったです。でもたまには年寄りの言うことも正しいことがあるんだ、ぐらいの気持ちで聞いてくれる、とうれしいです。


これも最近教わったことですが、


中国の孔子の言葉に、「五十にして天命を知る」という言葉があるんだそうです。


人間は、五十歳ごろになると、自分の人生が何のためにあるかを意識するようになる、ということだそうです。


やはり長いこと人生やっていないとわからないことも多いと思います。



そんなことを考えた年末でした。



今年2024年は辰年。自分は年男です。龍神様にいろいろ助けていただき、いろいろ頑張っていきたいと思う1年であります。


本年もよろしくお願い申し上げます。


神様、神社への詣では、みなさん初詣ばかりに注目しますが、じつは大晦日の日にやることが大切だということを知りました。1年間の感謝の意をおつたえするために、その年の最終日の大晦日に神社をお参りするのです。

おらが街の神社で、1年の感謝をお伝えしました。


大晦日参拝.jpg



そして今日は初詣。要は年末年始で2回神様と対面するんですね。ここでも新たなことを知りました。神様には、お願いするのではなく、感謝と誓いなのだそうです。(ここはまだ自分的には消化できていないところではあるのですが。)


9003-1.jpg


森林.jpg











nice!(0)  コメント(0)