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スポーツは格闘技 [スポーツ]

日本と韓国の話が出てきたところで、日韓というとやはりスポーツでのライバル関係だろう。日本と韓国は、やはり生涯ライバル関係なのだ。
                                         
一方で、米大リーグMLBの大谷翔平の大活躍は、もうただただ凄いとしかいいようがない。自分も幼少時代からずっと野球を観てきた軽く50年以上の鑑賞歴を持つ大ベテランの野球ファンだ。
                  
大谷翔平のなにが違うのか。
いままでのMLBで活躍してきた日本人選手と何が違うのか。
                      
とにかくパワーがある。
あの体格の良さと体の柔らかさと瞬発力。
ボールを遠くに飛ばせるそれだけのパワーがある。
                  
日本ハム時代の大谷をよく知っているだけに、MLBで化けたな、とつくづく思う。身長が高いと、投手のボールを見ている目線というか視角度が違ってきて、よくボールを飛ばすのに有利のような気がする。
                           
あれだけの体の柔らかさと瞬発力、パワーを日本人選手が有しているなんてまったく想定できなかったことだ。外国人選手との体格とパワーのハンディをいかに克服していくか。MLBでプレーする日本人選手はそれとの闘いだったように思う。
                      
大谷翔平は、もうすでにMLBを下に見ているのではないか?
本人はこれっぽっちの欠点もないような謙虚な性格だから、そんなことはまずないだろうが、もうMLBを下に見ているとしか思えない。YouTubeで大谷翔平の食事管理やトレーニングを見ていたりすると本当にストイックなまでの探究心で驚くばかりだ。
               
だが、だが、ところが・・・ところがだ。
                  
これはいまの時代の風潮、いまのスポーツ界全般に言えることだが、みんな優等生過ぎる、というか、いい人過ぎる、スマート過ぎるのだ。
                
そこにはスポーツは格闘技という野生というか闘争心、怒り、燃える、興奮という状態がないような気がする。あまりにスマート過ぎて、大人しすぎて、優等生過ぎる。
                    
スポーツというのは、元来、人間と人間との闘いなのだから、そこに闘争心、怒りという衝動的な感情がないといけない。
              
野球ファンの自分はそれで思い出すのが、2006年の野球WBC世界大会だ。
                         
イチローが、韓国戦を前にして、格の違いを見せつけたいと思ってます、とインタビューで応えて、それに韓国が猛反発。そしてまさかの韓国戦敗戦。韓国はもうざまぁみろ!という感じで、すごい剣幕だった。
                  
そして準々決勝だったか、韓国戦でさらにまさかの連敗。
野球大国日本として、これ以上ない屈辱だった。
                   
もう後がない三戦目の韓国戦。イチローは同じ相手に三度も負けるわけにはいかない、とインタビューで言う。
                       
準決勝だったかな。
あのときの日韓戦ほど、小便ちびるというか、ドキドキした試合はなかった。
もう心臓がバクバクでテレビを正視できなかった。
              
日本中、そして韓国も含め世界中がまさにテレビに釘付けだったろう。
                    
イチローはまさに男を魅せてくれた。
                
韓国戦連敗でインタビューで散々恥ずかしいコメントまでさせられるイチロー。そこからの奮発で最後の最後は男を上げてくれたイチローは最高にカッコいいと思った。自分の野球観戦の中であれだけ興奮したことがなかった。
                                              
                           
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スポーツを観戦していて、こういう応酬というか、波、ドラマがあったほうが結果として盛り上がるんじゃないか。スポーツって格闘技だから、そこに醍醐味があるんじゃないか。
                    
それ以来、野球の日韓戦は、興奮する看板カード、生涯のライバルとなった。
                        
古くは、1989年の日本シリーズの巨人×近鉄戦。
近鉄が三連勝して、近鉄の加藤哲郎が巨人はロッテより弱いと発言して(実際の発言内容はそうでなく、スポーツ紙が面白おかしく脚色したそうだが。)、巨人側は猛発奮。日本中を敵に回した感じで、巨人がその後怒涛の4連勝で逆転日本一となった。
                
このときも一種独特の異様な雰囲気だった。
                        
スポーツって元来こういう感情、雰囲気が大事なのではないのか。
人間と人間との闘いなのだから、そういう感情があればあるほど興奮するものというものだ。
                               
自分は以前日記でこの同じ例を挙げて、勝負ではそういう発言は避けた方がいい、勝負処になればなるほど、発言は慎重になるべき、ということを書いたような気がする。(笑)
                
でも最近の大谷翔平フィーバーを傍観しながら、なにか感じるその平坦さ、というか、あまりにスマート過ぎる、野性味がない、闘争心とは無関係とも思えるその平穏で幸せな雰囲気に、なんか不満を感じることがある。
                          
スポーツはやはりもっと燃えないといけない。
                    
”スポーツは格闘技。”
                    
人間と人間との闘いだから、そこにライバル心、お互い闘争心が剥き出しにならないといけない。その状態でお互い戦う、ぶつかり戦うから余計観客は興奮するのだ。それが返って周囲を煽って興奮するものなのだ。
              
一発触発!
               
スポーツって本来そういうものではないか。
             
自分のようなロートルの古い世代はどうしてもそう思ってしまう。
最近のスポーツはあまりに優しくてスマート過ぎて、平坦過ぎる。
大人しいな~と思ってしまうのだ。
                    
やはり時代なんだろうと思う。
いまの子たちはみんな優しい。
いい子たちだ。
                   
また時代もあるだろう。
昔のようなそういう感情はもう野蛮と見られるところもあるだろう。コンプライアンス、規律などがどんどん厳しくなっていき、社会がとてもスマートで優しい住みやすい時代に変貌して行っているこの時代。
               
たぶん時代なんだろうな。
それに合わせて、スポーツ界もどんどんスマートになって行っているような気がする。
                          
野球界の大谷翔平も将棋界の藤井聡太もそうだ。
まさに、”いま”という時代の申し子のような優等生、模範生だ。
                           
これがいまの時代にあった戦う選手の自然の成り行きなのだろう、と思う。
                                
自分は大谷翔平は、ほんとうに凄いと思うけど、もっと彼が怒っているところを、怒り、闘志むき出しにして戦っているそういう姿を見てみたいと思っている。
                     
あまりに優等生過ぎるのだ。いい人過ぎる。
スポーツ選手はもっと粗野で野蛮でいいんじゃないか。(笑)
                            
そしてスポーツはもっとそういうギリギリの興奮というか、闘争心剥き出しにしてやるものなのではないか、と思うことだ。そっちのほうが、世界は興奮すると思うよ。
                   
でもいまのコンプライアンスの時代、逆にそういう行動、発言をしてしまうと、余計世間からバッシングされるだけか。(笑)やっぱりそういう時代なんだよな~。
                         
昨今の大谷翔平フィーバーに接していて、ずっと自分が思っていたことなのだけど、今日、日本と韓国、という話題で、急に思い出してそれを文章にしてみました。
             
                              
                                    
 
                                         
                               
                                           

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蝶のように舞い、蜂のように刺す [スポーツ]

モハメド・アリ、本名カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアは、1960年から1981年にかけてのボクサー時代、まさに自分の子供時代におけるヒーローであり、後世には「歴史上最も偉大なアスリート」、「20世紀で最も偉大なスポーツ選手」として称賛される伝説のボクサーである。


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自分が物心ついたときには、すでにボクシング界のスーパースターであり、テレビ、新聞でつねにお騒がせの大スターであった。もうリアルタイム世代である。プロ野球界の長嶋茂雄さんのような存在だった。つねにスターで、人の注目を浴びる。


スポーツ選手というのは、ただ成績がいいだけではダメだと思う。なにか人を惹きつける、オーラがある、ある意味お騒がせ、そういう人間的に魅力のあるところもスター選手には必要な条件だと思う。ただの優等生じゃダメだと思う。


いまのスポーツ選手は優等生が好まれるかもしれないけど、また優等生じゃないと世間がバッシングするそういう風潮にあるけど、あの当時は、毒があり、どこか尋常でないそういうところに人々は狂喜乱舞したところがあったと思う。


時代の違いですね。自分なんか、ただの優等生はつまんないと思う。全然面白くない。そういう世代に育ったので。


モハメド・アリはそれを持っていた。持っている人だった。


自分が物心ついてアリを意識するようになったのは、おそらく小学生から高校生までの1970年~1980年代だったかな~。


もういまの時代、テレビでボクシングとか格闘技とかやらなくなりましたよね。

もうそういう時代じゃない。


危険行為、下品とか、子供に悪い影響を与える、放送倫理のコンプライアンスに引っ掛かるなど、ボクシングはいまはもうすっかり下火だ。でもあの頃は国民全員、世界中の人がテレビに熱中し、ボクサー同士のパンチの応酬、殴り合いに狂喜乱舞した時代なのだ。


ボクシングには、ライト級、ミドル級、ヘビー級とその体重によってランキング分けされ、そのクラス分けした中で戦う。アリはもっとも体重の多いヘビー級だ。


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ヘビー級のボクシングスタイルというと、もうハードパンチャー、大男の力任せな殴り合いだったパワー偏重のボクシングスタイルだった。ところがアリは、そこに颯爽と現れて、新しい風を吹き込んだ。



アリはリング上を縦横無尽に絶え間なく旋回する「ダンシング」と形容される華麗なフットワークと、両手を低く構え予想外の角度から放たれる鋭い左ジャブを活用する型破りなアウトボクシングを持ち込んだ。


また、アリは決してハードパンチャーではなかったが、相手のジャブにカウンターの右ストレート合わせる離れ業や、28秒の間に12発のパンチを放つ驚異的なスピード、並外れた反射神経と動体視力を駆使し相手のパンチをノーガードで交わすディフェンス技術を持っていた。


「蝶のように舞い、蜂のように刺す」


モハメド・アリのボクシングスタイルを形容した言葉である。

アリのリング上をつねにフットワークよく動き回っていくのは、まさに独特のスタイルだった。蝶のように舞うのである。相手はつねに止まったままである。相手が止まっている状態で、アリがつねにグルグルと回りながら対峙しているのである。


そして突然のスピードあるパンチ、蜂のように刺す、である。


このスタイルは、大男で体重の重いヘビー級ではあり得ない画期的なボクシング・スタイルだった。


蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a Butterfly, Sting like a Bee)という著名なフレーズは、アリのトレーナーのドリュー・バンディーニ・ブラウンがアリのフットワークとパンチを形容したもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。


自分が子供時代に意識してアリを見るようになったのは、おそらく1970年代後半で、キャリアとしては晩年の衰えが見え始めてきたときからだと思うが、アリの最大のライバルは誰なのか?もっとも神回と言われる試合はどれなのか、ということを挙げると、自分の記憶ではジョージ・フォアマンとの一戦だったと思う。


自分にとって、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンというのは世紀の一戦ということで、「キンシャサの奇跡」と呼ばれる一戦である。


これは1974年におこなわれた一戦なのだが、自分はリアルタイムで見れなくて、後年にまさに奇跡の一戦、「キンシャサの奇跡」とメディアが書き煽るので、それでもう大興奮してずっと覚えている一戦なのだ。


アリは、じつはずっとチャンピオンでいられたわけではなく、ベトナム戦争の兵役を拒否したことで、ボクシングライセンスをはく奪され、3年7か月のブランクを作ったが、チャンピオンに返り咲いているのである。アリは、結局3度チャンピオンに返り咲くという離れ業を演じ、これは新記録でいまも破られていない。



ジョージ・フォアマンとの一戦は、そのブランクから返り咲いたそのタイトルマッチだったのである。ブランクのおかげで体重は増え、あの全盛期のようなフットワークに陰りがでてきて、もうアリの時代ではない。フォアマンの圧勝だろう!フォアマンの破壊力のパンチのもと、アリは無残にKOされて、リングに沈む姿は見たくない、などそんな前評判であった。


当時、40戦無敗(内37勝がKO勝ち)で、アリが過去に敗れたフレージャーとノートンを相手に圧勝し「象をも倒す」と言われたハードパンチャーのフォアマン(当時25歳)に対して、アリ(当時32歳)は復帰以降フットワークに衰えが見られ、この試合でキャリア初のKO負けを喫して引退に追い込まれるのではないかと囁かれた。


アメリカの専門家筋の予想は4対1、ロンドンのブックメーカーの掛け率は11対5でフォアマン勝利を支持した。試合前、アリは「奴はのろまで、スキルもフットワークもない。フロイド・パターソンがウサギで、ソニー・リストンが熊ならば、奴は『ミイラ』がピッタリだろう」とフォアマンを罵った。


ジョージ・フォアマンはヘビー級史上最強のパンチャーかもしれない。2ラウンドか3ラウンドくらいなら、アリはフォアマンのハンマーのような強打を逃れられるかもしれないが、15ラウンドは無理だ。遅かれ早かれ、チャンピオンはハンマーのようなパンチを決めるだろうし、モハメド・アリは初めてカウントアウトになるだろう。第1ラウンドでそうなる可能性もある。


— デイヴ・アンダーソン (Dave Anderson) 、ニューヨーク・タイムズ1974年10月27日付[70]


もうすぐモハメド・アリに別れを告げる時が来るかもしれない。もしかしたら彼は奇跡を起こすかもしれないが、ジョージ・フォアマン相手には…私にはそれを想像するのは難しい。彼は若く、強く、大胆不敵だ。この試合の後、アリは引退する可能性が高いだろう


— ハワード・コーセル


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試合は当初の評判の通り、前半はフォアマンの圧倒的優勢。ところがアリが8回2分58秒に大逆転のKO勝ちを収め王座返り咲きに成功したのだ。まさに、もうアリの時代ではないという圧倒的不利の前評判の覆しての大逆転勝利。KO勝ち。これが「キンシャサの奇跡」である。


この一戦でブランクを乗り越えて、アリは、WBA/WBC級ヘビー級チャンピオンに返り咲く。


自分が子供の頃に物心ついたとき、アリの存在を認識したのは、この「キンシャサの奇跡」で、チャンピオンに返り咲いたそれ以降のアリの黄金時代なのである。自分にとって、モハメド・アリというボクサーは、この2度目の王座からの黄金時代をずっと追ってきたという記憶がある。


だから、余計にこの「キンシャサの奇跡」というのは大きなトリガーだったのである。

だからアリの最大のライバルというと、ジョージ・フォアマンと言ってしまう自分がある。


この「キンシャサの奇跡」で、アリは全盛時代と違ったボクシング・スタイルを見せるようになる。蝶のように舞い、蜂のように刺す。これがアリのスタイルであったが、この頃からその華麗なフットワークに衰えが見え始め、のちに「ロープ・ア・ドープ」と言われる戦法を取るようになる。



キャリア後期になりスピードとフットワークが衰えると、アリは試合中に自らロープにもたれかかり(ロープの弾力を利用し相手のパンチの衝撃を和らげるため)両腕でガードを固め、相手のパンチを腕でブロックしながら、時にリング外にのけぞるようにスウェーしてパンチを回避し、相手が攻め疲れたところを反撃するクレバーな戦法を取るようになり、これは後に『ロープ・ア・ドープ』として定着するのである。


自分は子供時代に、「ロープ・ア・ドープ」というのをアリが意識してやっているとは思っていなかった。単純に劣勢になって、ロープに追い詰められて、やむなくそういうスタイルになってしまっている、とずっと思っていたのである。


この「ロープ・ア・ドープ」で自分の記憶の中ではっきり覚えているのは、1976年のケン・ノートン戦である。自分は子供時代に、このモハメド・アリ対ケン・ノートン戦をテレビでリアルタイムで見ていた。


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アリはケン・ノートンが苦手なのである。ケン・ノートンはサウスポーなので、アリのダンシングはいつも右に旋回してリングを廻っていくので、サウスポーだとパンチの出所がよく見えないんだな。ケン・ノートンの左パンチをよく喰らって、あっという間に足が止まってしまうのである。そしてロープに追い込まれ、ひたすら両腕でガードして防御のみである。ケン・ノートンは容赦なくアリに連打を浴びせる。


いまでも覚えているけど、アナウンサー、もう絶叫である。


「アリ、危ない!アリ、足が完全に止まっている。こんなのアリじゃない!アリのボクシングスタイルでない!」


なんか、こんなことを絶叫していたように覚えている。


もう子供だった自分はもう冷や汗びっしょりである。本当にアリが負けちゃうんじゃないか、と心配した。もうこのときに、ケン・ノートンは強い!アリはケン・ノートンが苦手というイメージが自分の脳裏にこびり付いたのである。


もう15Rを通して終始、こういう感じで、ケン・ノートンが圧倒していた。

でも結果は、アリの判定勝ちであった。


この判定にはかなり物言いがついた、というかマスコミ的にあれでアリが勝ちというのはおかしいのではないか、という風評であった。


モハメド・アリは生涯においてたくさんの試合を行ってきたが、自分にとって強烈に印象に残っているのは、このジョージ・フォアマンとケン・ノートンの一戦である。ジョージ・フォアマンは結果的にアリの逆転勝ち、チャンピオンに返り咲きでいいイメージしかないのだけど、ケン・ノートン戦は、ケン・ノートンの圧倒的な強さ、ケン・ノートンの一方的な試合、そしてアリは、ケン・ノートンが苦手。。というイメージが強く、自分の中で、ケン・ノートンというボクサーはすごい存在だったのである。


このケン・ノートン戦で見せていたロープに寄りかかり、両腕でガードして相手のパンチを耐え続け、相手が疲れてきて隙が出てきたところで反撃。これがじつはアリの戦法だった。アリの「ロープ・ア・ドープ」という戦法だったのだ、と知ったのは、もう後年の社会人になってからである。


これはほんとうに驚いた。あれがじつは戦法だっただなんて。。ケン・ノートン戦ではもう一方的に攻められるので、「アリ、危ない!アリ、足が止まっている!こんなのアリのボクシングでない!」とアナウンサーが絶叫していた通り、自分もそう思っていたからだ。


アリのスタイルは、あくまで、蝶のように舞い、蜂のように刺す、だとずっと信じていたのだ。


じつは、ジョージ・フォアマンとの「キンシャサの奇跡」でも、この「ロープ・ア・ドープ」を使っているのだ。これを使って8Rにその隙をみて一発逆転なのだ。


自分は後年に大人になって、この真実を知って、もう唖然である。(笑)

そうだったのか・・・という感じで。


ちなみに、ケン・ノートンはアリに初対決でアリに判定勝ちしている。この試合でアリはケン・ノートンのパンチを顎(あご)に食らい、顎(あご)の骨を骨折して、試合後に入院したのだ。アリの顎を砕いた男として、そしてアリに勝った男として、ケン・ノートンは後世ボクシング界に名を馳せる。


アリは、ケン・ノートンが苦手という感じだったが、生涯成績では2勝1敗と面目を保っている。負けたのは初対決のときだけだ。


なので、自分にとって、ケン・ノートンってすごい印象に残っているボクサーなんですよね。サウスポーでした。アリをタジタジにさせた男として。



モハメド・アリは、プロボクシングの成績は、61戦 56勝 (37KO) 5敗である。

圧倒的な成績だが、アリでも5敗もしているんだな、と思った。

アリはKO負けはしたことがない。この5敗はいずれも判定負けだ。


5敗のうち、3敗は、もう1978~1981年の晩年の引退間際の王座陥落、引退のときなので、もうこれは仕方がない。アリの全盛時代と言われた時代に負けた2敗は、ケン・ノートンとジョー・フレジャーである。強かったアリに勝った男たちである。


自分の中では、ケン・ノートンに負けた1戦がすごいメモリアルなのだが、アリがプロボクシング界で初の黒星を喫したジョー・フレジャー戦も言及していかないといけないだろう。


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ジョー・フレジャーとは3戦やっているのである。



1971年3月8日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでWBA・WBC世界ヘビー級統一王者ジョー・フレージャーに挑戦。31戦無敗のアリと26戦無敗のフレージャーの対戦は「世紀の一戦」として大々的に宣伝され、ボクシングライターのジョン・コンドンは「私の人生の中で最大のイベントだ」と述べた。


試合前、アリはフレージャーを「白人の支配階級に利用されている間抜け」「奴は王者として醜すぎる」と罵り、フレージャーはアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで応戦した。試合が始まると、アリは下がりながらパンチのコンビネーションで牽制し、フレージャーは怯むことなく体を揺すりながらプレッシャーをかけフック系のパンチでアリのボディと顔面を捉える。試合中、アリはフレージャーを挑発し、パンチを受けても首を横に振り効いてないとアピールしたが、フレージャーのパンチでダメージが蓄積すると徐々に余裕がなくなり、中盤以降は逆にフレージャーがノーガードでアリのパンチを交わしながら笑みを浮かべて挑発し返した。終盤に入るとアリはフレージャーのフックで何度もぐらつき、15回には左フックでダウンを奪われるなどして0-3の判定負け。王座獲得に失敗し、32戦目でプロキャリア初黒星を喫した。



無敗だった向かうところ敵なしだった時代のアリの初の黒星である。

でも、この頃は、自分はまだ物心ついていなくて、アリを意識していなかったので、この初黒星はよく覚えていないんですよね。社会人になって後年になって、アリのキャリアを調べて知りました。アリのキャリアを語るならこのジョー・フレジャー戦も語っておかないといけないと思いました。





モハメド・アリというボクサーを語るうえで、これはどうしても語っておかないといけないのは、「トラッシュ・トーカー」としての振舞いだ。


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モハメド・アリは、トラッシュ・トーカーとして有名であり、注目を集めるための自己宣伝が非常に派手で巧みだった。


「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。また、60年代の時点で既に韻を踏むなどヒップホップの要素を取り入れたトラッシュ・トークを披露しており、後世のヒップホップ・ミュージックに影響を与えた人物、あるいはラッパーの先駆者、史上初のラッパーとも称されるのだ。


アリはとにかくビッグマウスだった。(笑)

戦う前から、相手を挑発し、からかい、もう自分のペースに乗せる。

そういう宣伝が巧みだった。


戦う前にそうやって盛り上げるので、それが一層相手とのデッドヒートな雰囲気になって本番が盛り上がる、という仕組みである。


アリの言動は一部の反感を買い、ベトナム徴兵忌避もあり、多数のアンチを生み出した。 本人はこの言動の理由を「ホラを吹けばみんな俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合が金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのはいい気分だ。最後は俺の予告どおりになるんだからね」としている。


これがモハメド・アリのボクシングスタイルなのだ。

蝶のように舞い、蜂のように刺す、だけではない。こういうビッグマウスもアリの魅力だった。

この2つの要素がうまくかみあわさって、モハメド・アリというボクサーのイメージが出来上がっているのである。



モハメド・アリは、こういうやんちゃなイメージが先行するが、反面非常に政治的見解も自分の考えを持ち、自分の意見をきちんと通す、という一面も持っていた。アリを人生通して苦しめたのは、黒人であるが故の人種差別である。


アリのアマチュア・ボクシング時代。1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。決勝で前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキを判定で破り金メダルを獲得する。


しかし帰国後、金メダルを首から下げ白人が経営するレストランに入店しチーズバーガーを注文したところ、ウェイトレスから「たとえ"カシアス・クレイ"であろうと、黒人に食事は提供しない」と言われたため、「アメリカを代表して金メダルを取っても黒人差別を受けるのならば、この金メダルには何の価値もない」と考えたアリは金メダルを自らオハイオ川に投げ捨てる事件を起こした。


このエピソードは1975年に出版した自伝の中で書かれたものであるが、アリの友人数人がこのエピソードを否定しており、後に出版された伝記でも、エピソードは創作されたもので、実際にはメダルは単にアリが紛失したのだとの説も存在するそうですよ。(笑)


最終的に、アリは100勝5敗の戦績でアマチュアのキャリアを終えた。



黒人解放運動指導者マルコム・Xと出会いその思想に共鳴し、イスラム教に改宗。1960年に勃発し、後にアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことにより米国政府と長期にわたって争ったが、最終的には無罪を勝ち取ったことでも知られる。


アリの反戦活動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、アリは無敗のままWBA・WBC世界ヘビー級統一王座とボクシング・ライセンスを剥奪され、3年7か月間のブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。また、反戦活動と同時に露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。その後、反戦活動や公民権運動などへの貢献が称えられドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞するなど、アリはアスリートの垣根を越え「平和主義を象徴する人物の1人」となった。



ボクサーの他に、アクティビスト、セックスシンボル、そしてポップカルチャーのアイコンとして、アリは書籍、映画、音楽、ゲーム、テレビ番組などを含む数多くのジャンルで取り上げられてきた。また、アリは「世界で最も有名な人物」と呼ばれることも多く、1974年から1980年にかけて、アリの1試合の視聴者数は推定10億から20億人を記録し、1996年のアトランタオリンピックでアリが聖火台に点火したシーンは世界中で推定35億人の視聴者数を記録したという。


単なるボクサーで終わらなかったこと。

これはひとえに、アリが物申す性格であったこと。いろいろ自分の考えを持っているしっかりとしたパーソナリティであるが故だと自分は思っている。


ビートルズがアリを表敬訪問したこともありました。(笑)


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モハメド・アリがリアルタイム世代だった自分にとって、絶対忘れられないのが1976年6月24日 日本武道館でおこなわれたアントニオ猪木との格闘技世界一決定戦である。


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「レスリングの海外視察に出かけていた日本アマチュアレスリング協会会長の八田一朗さんから、当時のワールドプロレスリングの総合プロデューサーだった永里高平さんへ、アメリカからの一本の電話があったんです。『ボクシング世界王者のモハメド・アリが、日本人の格闘家と戦いたいと言っている』という内容でした。この話を聞いた永里さんは、ハワイ出身の人気力士だった高見山と対戦させようか、と悩んでいました」


一方で、八田が持ち込んだ構想に対し、NETの常務だった三浦甲子二(みうら・きねじ)が対戦相手に推薦したのは猪木だった。舟橋はこう振り返る。


「三浦さんは当時、猪木さんを本当にかわいがっていましたから、アリと対戦させたいと考えたんだと思います。ここは私の想像ですが、おそらく三浦さんは、アリが八田さんに『日本人の格闘家と戦いたい』と明かしたことを猪木さんに伝えたんだと思います。そうして2人の間で、アリ戦を実現するために動いたんじゃないかと。ただ、私はその話を聞いた時に『本当にやるのかな?』と半信半疑でした」


1975年3月7日の『サンケイスポーツ』に、アリが八田に対して「東洋人で俺に挑戦する者はいないか」と明かしたという記事が掲載された。これを受け、猪木はアリへの挑戦を表明。同年の6月9日、アリがマレーシアでの試合前にトランジットで羽田空港に立ち寄り、その際に行なわれた会見の席で、新日本プロレスの渉外担当者が挑戦状を手渡した。


ここから水面下で交渉が始まり、翌年の3月25日、ニューヨークのプラザホテルで調印式が開かれた。しかし舟橋は、それでも「猪木vsアリ」に対して懐疑的だった。


「やることは決まったけど、『ルールが大変だな』と思っていました。プロレスとボクシングではルールがまったく違いますから、どう成立させるのか。場合によっては破談になる、とも考えていました」


「試合が決まるまでは話せないことも多かったようですが、猪木さんは『世界最強』と言われていたアリと闘うことで、プロレスの虐げられた歴史を正しく認識させようと思っていたんです。常に強さを追求して必死に汗を流しているのに、プロレスは世間から『八百長』などという悪いイメージで見られることが多かったですから。


試合をやるとなれば、(アリへのファイトマネーなどで)新日本側が赤字になることはわかっていた。でも、お金は関係ない。プロレスの市民権を取り戻す、世間を見返してやるという一心だったようです。試合が実現するまでは周囲から『できるわけない』などと揶揄されていましたが、猪木さんの真剣な部分は一切ブレなかったですね」





もうこれは大変な事件でしたよ~。(笑)もう絶対忘れられないです。もう子供の自分は、どうやって試合するんだろう?どういうルールなんだろう?ふつうに考えると、もう猪木危ないんじゃね?アリのパンチを喰らったらひとたまりもないだろう?


どうやって試合するんだろう?


もうドキドキでした。


いまの時代、こんなにドキドキすることってないですよね。昔は日常茶飯事でした。とくにスポーツがそういう雰囲気になりやすかったです。プロ野球の日本シリーズもそんな雰囲気ありました。


この猪木&アリ戦ほど、世界中が興奮のるつぼに陥ったことはないのではないでしょうか?


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・・・そして結果は・・


もう試合が始まったと同時に啞然・・(笑)

15R通しても唖然・・・(笑)


15ラウンド引き分けに終わった一戦は、試合直後には「世紀の凡戦」と酷評されました。(笑)


でも、あのとき自分が思ったのは、猪木考えたな~という感心した気持ちでした。ふつうに対処していたら、もうアリのパンチを喰らってノックダウンだろうから、いかにアリのパンチを喰らわないようにするか、それが、猪木がリングで寝転がる戦法を考案したのだと思いました。


自分はあのときは、猪木考えたな~というのは第一印象でした。

もちろん自分は猪木を応援していたので、猪木はさかんにアリにキックを浴びせ、もし倒れたら、そのまま寝技に持ち込んでギブアップを狙う、というそういう戦法です。


もう何回もアリにキックを浴びせる猪木。そして15R中で何回かアリがそれで倒れかける瞬間があって、そのときはもう自分はドキドキ~MAX!!!という感じで、猪木いけ~!と叫んで応援していました。


もうアリはあの得意のビッグマウスで応戦。「卑怯者!東京のいくじなし!恥ずかしいとは思わないのか!このペリカン野郎。」寝転がっている猪木にさかんに罵声を浴びせかけます。


この世紀の一戦、アントニオ猪木はどのような気持ち、考えで臨んでいたのか、その心情を聞いてみたかったです。


アリは、結局この猪木のキックを何回も足に受けて、腫れあがって、試合後に入院することになりました。


アリは、テーマソングに「アリ・ボン・バイエ」という曲を持っていましたが、これを猪木にプレゼント。それが猪木のあの「猪木・ボン・バイエ」になったそうです。


でもこの試合が終了したときのマスコミ、そして世界中のメディアからのバッシング、非難はすごかったですね~。(笑)でもその気持ちよくわかるわ、とも思ってました。(笑)



15ラウンド引き分けに終わった一戦は、試合直後には「世紀の凡戦」と酷評されたが、後年になって「現在の総合格闘技の礎」といった形で評価されるようになったそうです。その功績を称え、猪木とアリが対戦した6月26日は、2016年に「世界格闘技の日」に制定されました。


あの当時は、もう大変な非難ブーブーでしたが、まったくの異種格闘技で、どう闘っていくのか、というのを考えたときに、猪木のとった作戦は、まさに「現在の総合格闘技の礎」だったんですね。功績というのは、ご本人が亡くなられた後に理解・評価されるものですね。




引退後、1984年にパーキンソン病と診断され、長い闘病生活に入った。病の影響で喋ることすら困難な状態となり、公の場に出る機会も大きく減りましたが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けました。


神が私を試していることに気付くことができた。私は恵まれている。これは神から与えられた試練だ。神が私にこの病気を与えたのは、私ではなく彼がナンバーワンだということを思い出させるためだ


— モハメド・アリ



1990年に湾岸危機に際し、イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。解放された人のうち6人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。


1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火した。女子水泳選手のジャネット・エバンスが点火台まで聖火のトーチを運び上げ、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(点火用トーチに着火するとそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで点火される仕掛けになっていた)。聖火台の点火者は当日まで秘密にされていた。なお、この際、自ら川に投げ捨てたローマオリンピックの金メダルが再授与された。


2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務めた。2005年11月9日、アメリカ合衆国のホワイトハウスにてジョージ・W・ブッシュ大統領から文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。



ジョージ・W・ブッシュ大統領と握手を交わすアリ(2005年11月9日撮影)

2007年6月5日、ニュージャージー州プリンストンのプリンストン大学の第260回卒業式にゲストとして出席し、同大学から人文科学の名誉博士号を授与された。



プリンストン大学の第260回卒業式に出席するアリ(2007年6月5日撮影)

2009年、母方の曽祖父であるエイブ・グレイディの故郷アイルランド・クレア県エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた。2012年ロンドンオリンピックの開会式に参加、オリンピック旗掲揚の場面で姿を現した。




アリの墓。


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墓石には「他者への奉仕は、貴方が天国で過ごすために払う家賃である」と刻まれており、これはアリが生前に遺した言葉「他者への奉仕は、貴方がこの地球上で過ごすために払う家賃である」を引用したものだそうだ。


2016年6月2日、呼吸器疾患のためアリゾナ州スコッツデールの病院に入院し、当初容態は良好とされていたが、翌日の6月3日に敗血症ショックで死去。74歳没。


偉大なるボクサー。そしてボクサーの枠だけでは収まらなかった偉大な人。

モハメド・アリ、あなたのことは一生忘れません。













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