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音楽通り [街歩き]

神奈川県立音楽堂。
                                       
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日本初の音楽専用コンサートホール。そして木造ホールである。
1954年(昭和29年)創建ですよ。いまから70年前。もう自分が生まれるずっと前にできたまさに伝説のコンサートホールである。
                             
JR桜木町駅から紅葉坂の交差点をずっと登っていく訳だが、これがすごい心臓破りの坂で、今日は神奈川県立音楽堂でコンサート、という日はもう前の晩から憂鬱である。(笑)この坂をずっと登っていくときのあの足の辛さ、そして息も絶え絶えの心臓の辛さはもう誰もが知っている難所であろう。
                         
この紅葉坂の交差点を昇っていく途中に、”音楽通り”というストリートがある。
                                        
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なんという洒落たネーミングの通りなのだろう!と自分は感動してしまった。
かなり素敵なネーミングだと思う。
                                        
”音楽通り”は、なんでも、神奈川県立音楽堂で公演した人々が、帰り道に歌を歌い、その歌声が響く通りという理由で名付けられた愛称なのだそうだ。
                           
やはり神奈川県立音楽堂と「音楽通り」は関係があったのだ!最初は愛称だったけれど、横浜市が市民から募集した「愛称道路」事業で1976年に正式に認定されたそうだ。
                                 
「夜寝ていると通りから歌声が聞こえてくるんです。その歌声が鼻歌ってレベルじゃないんですよ。子ども心にとても上手だなと思いました」
                      
今は聞こえてくることはないそうだが、ぜひプロの鼻歌を聞いてみたいものである。
                                 
1988年 第32回 岸田國士戯曲賞受賞者大橋泰彦さんが月刊『すばる』に執筆されたエッセイにこの通りを題材にした『音楽通り』というエッセイがある。昭和30年代末頃の「音楽通り」の様子が文章から偲ばれる。大橋さんのご実家は、音楽通りで貸本屋さんを営まれていたそうである。
                       
                  …【略】…
                                  
沿線に日吉、田園調布、自由が丘、代官山を置く、日本でもハイソサエティーな私鉄、東横線の横浜よりの終点、桜木町に、私の実家がある。線路と平行に、国道県道を間に置いて、一方通行の小さな商店街、花咲町は、「ハナザキチョウ」と読むのが正式らしいが、私はいつも「はなさきちょう」と言う。
                           
一直線に五百メール程続く商店街は、通称「音楽通り」と呼ばれていて、パン屋、お菓子屋、靴屋、薬屋に始まり、油屋、八百屋、お茶屋、ハンコ屋、乾物屋と続く。通りの中ごろにある私の実家は、小さな貸本屋をやっていた。通りの終点は、なだらかな坂道になっていて、登りきると、今度は直角に、紅葉坂という坂がのびていて、その先には、横浜でもかなりの老舗の県立音楽堂がある。
                                
昔は、クラシックの演奏会が盛んで、十二月にもなると、演奏会帰りの人達が、第九や賛美歌を合唱しながら家の前を通りすぎていった。おそらく「音楽どおり」という名前も、そんなとこから付けられたらしい。私が幼い頃、子守唄替わりに聞いた「もろびとー、こぞりてー」が日本語だったという事を知ったのは、ずい分後だったと思う。  
                              
                 …【略】…
                                 
少年の頃、よく屋根に登り、瓦に腰かけ見下ろした風景は、今、この屋上からは見られない。回りをいくつもの高層ビルやマンションに囲まれて、花咲町「音楽通り」も、時代の波に取り残されまいと、古い家は、五階、六階のビルに建て替えられ、木造の家は、もう、数える程になってしまった。
                     
                       
☆集英社『すばる』1988年7月号 <フォーラム・すばる~町の顔・屋上>より
                   
                                         
                      
                                   
では、この”音楽通り”というストリートは、本当に音楽と関係がある、そういう情緒ある眺めなのか興味が湧くところである。
                       
実際、この”音楽通り”を歩いてみたい、と思ったのである。”音楽通り”をそのまま歩いてみて、自分がなにか感じること、それはやはり音楽的にインスピレーションを与えてくれるものなのか、そういう独特の雰囲気があるのか、自分は感じ取ってみたいと思ったのである。
                                    
ネットでいろいろググってはみたものの、音楽通りの標識の写真はあるけど、そのストリートの様子の写真はほとんど皆無だ。これは実際取材してみれば希少価値があるのではないか、と考えた。
                        
                               
”音楽通り”は、地図上では、この赤い区間のストリートである。
                                    
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では、さっそく”音楽通り”を歩いてみる。
                                          
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う・・・~む。なかなかなんの変哲もないふつうの細道の道路で、ここから”音楽”というインスピレーションはまったく湧いてこない。(笑)結論からいうと、およそその通りの風情から、音楽という感じが湧き出てくるようなそんな特別な景色ではなかった。いたって普通の細道、通りである。なんの変哲もないふつうの通りである。
                          
”音楽通り”の写真が、ネットにほとんど掲載されていないのも、おそらくこれじゃ絵にならない、ということだけなのだろう。
                              
なんと!素敵なストリートなんでしょう!というテンションで盛り上げたかった自分としては、正直困ったな~、どこを売りにしよう?と悩んだりしたが、余計な脚色をするよりも、そのままありのままの姿をご披露するのがいちばんいいだろう、と考え直した。
                      
たぶん、桜木町、神奈川県立音楽堂の”音楽通り”の全景の写真を掲載している記事は、この私の日記しか存在しないであろう。まさに日本一、世界一貴重な写真記事だと考える。(笑)
                     
                         
キリスト教の本屋さんもあります。
                                       
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たしかに一見すると、なんら変哲もないふつうの道に見えるんですけど、ところどころに小洒落た素敵なスポットも確かにあります。ここは素敵だな~と思います。
                       
                              
ここは、セレクトショップのAonoha アオノハさん。
                                     
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セレクトショップというのは、いわゆる店主さんのお目にかなった商品を販売するという独自路線のお店。店主独自のセレクトで選ばれた商品は衣類から雑貨、お花と幅広く取り扱っているそう。
                       
                    
                                     
そして、ここにも”音楽通り”の標識が!
やっぱりネーミングが素敵ですよね~。すごいセンスあると思います。この標識を見るとなんかドキッとしますね。
                                               
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・・・そしてまたしてもなんの変哲もない景色が続きます。(笑)
                                        
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ここはDog Space。ここはペットサロン、犬の美容室ですね。
                                      
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手づくりパンのコティベーカリー。
                                         
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横浜港にほど近い町・桜木町。
                                        
この町で1916年(大正5年)創業以来、
毎日ていねいにパンを作り続けてまいりました。
町の様子は移り変わりましたが、
当店は今日も昔と変わらぬ製法で
じっくり時間をかけてパンを作っております。
                               
港町の小さな小さなパン屋です。
                         
横浜桜木町シベリアのコティベーカリー
                            
自家製のパン屋さんです。
自家製のパンのみ販売というのは、街のパン屋としては、当時画期的で斬新な試みだったそうでこのパン屋さんが、まさにこの”音楽通り”の中の1番の見せ場というかスポットだと思いますよ。
                             
県立音楽堂ができる前、まだ音楽通りというネーミングもなかった時代からこの通りにあるパン屋さんで、大正創業ですから。。。まさにこの通りが”音楽通り”と名付けられる前からずっとこの通り沿いにあって、この音楽通りの生き証人、ずっとその姿を見守ってきた重鎮なのです。
                       
まさに
                                      
「夜寝ていると通りから歌声が聞こえてくるんです。その歌声が鼻歌ってレベルじゃないんですよ。子ども心にとても上手だなと思いました」
                        
これはコティベーカリーの御主人の記憶のひと言なのです。
                                    
音楽通りのことを聞きたかったら、ここの御主人に聞け!です。音楽通りのことで、このお店より詳しい人はいないと思います。お店のHPには、”音楽通り今昔”と題して、昭和20年、30年、50年の頃の音楽通りの写真や想い出がいろいろ綴られており、大変興味深いです。
                        
音楽通りの情報はネットで探してもほとんど皆無で、一番詳しいと思うのが、このパン屋さん”コティベーカリー”のHP内の記述だと思います。
                             
当店の歴史・音楽通り今昔
                        
                             
店内はこんな感じです。ほんとうに狭い小さな手づくりパン屋さんという感じです。商品の棚には、このお店の看板商品のシベリアが見えます。
                                             
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コティ・ベーカリーのパンといえば、シベリアです。
                                          
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『シベリア』というお菓子が生まれたのは明治後半から大正初期頃です。当時のパン屋では、どの店でも、このお菓子が作られていました。パン焼きがまの余熱を利用して焼いたカステラと、あんぱんに使うあんを使って作られました。
                                          
和菓子のような製品ですが、パン屋で作られたのには、この様ないきさつがあったのです。シベリアパン、シベリアケーキと呼ばれることもあります。しかし、製造に手間と時間がかかることから、いつの間にか、シベリアはパン屋の店先から姿を消していきました。さいわい当店のシベリアは、お客様に愛され続け、大正5年(1916年)創業以来、製法も当時のまま、今日に至っております。
                        
                                      
音楽通りの生き証人、コティベーカリーといえばシベリアということで、自分もひとつ買いました。お味はとてもシンプル。真ん中のあんの部分はツルツルした食感で、なんか食べるとペロンという感じで食べれてしまい、その両側のカステラはもっとモッチリした感じで、なんか全然別次元の不思議な組み合わせの味わいです。不思議なパンだな~と思いました。
                             
シベリアパン、シベリアケーキはいまやこのパン屋さんでしか食べられませんね。コティベーカリーのシベリアは、お客様に愛され続け、大正5年(1916年)創業以来、製法も当時のまま・・・です。
                             
貴重なパンが食べられて一生の想い出になりました。
                         
このコティベーカリーのシベリアは、NHK Eテレやそのほかいろいろなテレビ番組、雑誌などの特集でたくさんのメディアから取材を受けています。
                        
自分は”音楽通り”の取材を行く前から、このパン屋さんは生き証人ということで、絶対ここに寄るぞ~!、シベリアを食べるんだ!と誓っていましたから念願かなって本望でした。
                        
”音楽通り”といえば、このお店ということで、自分もメンションできて一安心です。
                     
                            
横浜桜木町シベリアのコティベーカリー
                   
                    
                               
音楽通りの中でいちばんオシャレで素敵なお店構えだと思ったのがここです。
ハナサキ・ブッチャーズ・ストア HANASAKI BUTCHERS STORE。
                                   
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アルゼンチンBBQ料理やブッチャーズフードをワインやクラフトビールで楽しめるお店。インダストリアルな内装でポートランドのフードカルチャーとアルゼンチンの豪快な食文化”アサード”からインスパイアされたメニュー。
                                
BUTCHERS(ブッチャーズ)というのは、英語で肉屋のことです。
昔、プロレスラーでアブドラ・ザ・ブッチャーというレスラーいましたね。(笑)
                           
アルゼンチンの”アサード”というのは、注文したお肉が豪快に焼かれるところを見ながらワインと前菜やソーシャルの愉しむ食文化を取り入れた料理のこと。お肉以外のメニューはほぼ手作りだそうです。
                                          
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アサードではないですけど、ブラジルの料理でシュラスコというのがあるじゃないですか?
ブラジル生まれの肉料理「シュラスコ」。長い串に刺したブロック肉を炭火でじっくりと焼きあげる、お肉好きにはたまらない一品のあれ、です。
                                               
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昔、渋谷にこのシュラスコを食べさせてくれる有名なブラジル料理のお店があって、大学同期のフジテレビの友人から教えてもらったんですけど、まさにテーブルにお店の人がやって来て、大きな長い串に刺さったシュラスコを、ナイフでそぎ落として、お客さんのそれぞれのお皿に盛っていくんですよ。あれは最高でしたね。ウマい、美味しい、ということはもちろんだけど、その豪快さの絵柄が堪らんかったです。
                          
そして宴たけなわになっていくと、みんなテーブルから立ち上がって、行列を作って、前の人の両肩に両手を乗せて、行進を始めてお店内をグルグル廻のです。ブラジル音楽全快でノリノリです。横浜オクトバーフェストのときのようなあんな感じです。
                                        
あのブラジル料理屋さん、シュラスコは堪らんかったです。自分の数少ない合コン幹事でもこのお店よく使わせてもらい大好評でした。(笑)
                        
                      
この音楽通りでは、このハナサキ・ブッチャーズ・ストアがいちばん惹かれました。思わずスルスル~と入ってしまいそうでした。
                       
                       
                                      
ここのオレンジコンセプトもなかなかよさげでした。イタリアンのバルです。そう、あのスペインのバルと同じ、そのイタリア版です。バルというのは、バーのことですね。25年の経歴を持つフレンチ出身のシェフがやっているそうですよ。
                                     
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ここはヘアサロンですかね。
                                           
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ほんとうに極めて普通の通りなのです。(笑)
                                   
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ここが終点ですね。大きな通りに出ます。
                                      
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宮崎料理のいっちゃがさんも発見しました。
                                        
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神奈川県立音楽堂に因んだ”音楽通り”。
                                           
まさにそのストリートを端から端まで歩いて、その全貌を明らかにした記事は、この日記が初めてだと思います。(笑)極めて普通の通りそのもので(笑)、その風景からは音楽というかけらも微塵に感じないのですが、でもそこの通りは、県立音楽堂のコンサートを楽しんだ方々がそのハイになった気分から、ついつい鼻歌、口笛を口ずさみながら、その通りを歩いていく・・・そういう所縁からそのように名付けられたそういうストリートなんですね。
                        
この名付けセンスに自分はやられました。
とても素敵だと思います。
                   
こういうセンスがとてもいいと思います。
                         
”音楽通り”素敵なストリートでした。

                   

                                    

                     

                     

                                     

                                      



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I LOVE YOKOHAMA 北欧料理 SCANDIA [街歩き]

I LOVE YOKOHAMAの連載で、横浜開港資料館や開港記念広場を取材しているときに、そのすぐ近くにとても気になるクラシックな装いのレストランを見つけた。これはとても素敵だな~と思い、ぜひ体験してみたいと思っていた。今回のI LOVE YOKOHAMAの中にはぜひ入れておかないといけないスポットだと確信めいたものがあった。


スカンジナビア政府観光局お墨つき、日本でスカンジナビアを味わえる場所のひとつとして紹介された日本でもめずらしいスカンジナビア料理(北欧料理)が食べれるお店。レストラン”スカンディア(SCANDIA)”である。日本の国際化の原点と呼べる場所、横浜に佇んでいる「スカンディヤ」は60年続く、老舗の料理店である。


日本で初のスカンディナビア料理レストランと言っていいのではないか。


そのレストランの場所は、開港記念広場のすぐその前に佇んでいる。


開港記念広場


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ペリー来航で、日米和親条約締結の地である。

ここを開港記念広場として整備した。



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その隣には、横浜海岸教会がある。初のプロテスタント教会であり、自分はこの教会で初めてキリスト教の礼拝というのを体験したのでした。また礼拝を受けに行きたいと思っています。



そして横浜開港資料館。


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昔は旧英国総領事館だった場所で、いまは横浜開港以来の歴史を明らかにすることを目的に設立され、関係資料を収集し展示するとともに、閲覧室で広く市民や研究者に資料を公開する活動をおこなっている。


この資料館には”たまくす”がある。あのペリー来航のときの横浜上陸の図に書かれていた木である。この横浜開港資料館の中庭にいまも現存している。


この横浜開港資料館に併設するミュージアムショップ・カフェ・コンシェルジュの複合機能施設「PORTER’S LODGE(ポーターズロッジ)」がすごい素敵なのです。


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この日、レストランSCANDIAの予約時間まで時間がありましたので、ちょっとふたたび中を覗いてみました。


「横浜開港・英国文化を伝えるセレクトショップ」として、まさに横浜の歴史に沿ったYOKOHAMA一色のオリジナル商品やグッズなどを販売するショップなのです。初めて行ったときは、とにかく一杯いっぱいで中にどんなものが販売されているのかまで詳しく追えなかったのですが、今回は時間があるので、じっくり見てみようと思いました。


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・・・たしかに横浜開港以来の歴史の書籍がいっぱい売られていますね。


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たまくすの本もあります。


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関東大震災ってほんとうに大変だったのです。横浜が壊滅しました。関内の外国人居留地や日本人居住地は、この関東大震災で壊滅状態になって全部なくなったそうです。関東大震災ってじつは東京ではなくて、横浜が震源地だったそうです。


昔の横浜の絵葉書なんかも売られていました。


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そしてカフェも併設されているのです。


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とても素敵なミュージアム・カフェですので、ぜひお寄りになってみてくださいませ。


開港記念広場で遭遇したひとこま。。。


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北欧料理、スカンディナビア料理のレストラン”スカンディア(SCANDIA)”は、この横浜開港資料館や開港記念広場のすぐ目の前にあります。


大さん橋近く、海岸通りにある、独特の佇まいの横浜貿易協会ビルは1929年に施工の歴史ある建物。外装は当時流行だった、櫛でひっかいたような縦線の模様を持つタイル張りのスクラッチスタイル。まるで映画にでてくるようなクラシカルな雰囲気。内装はすべて漆喰。レリーフなどの装飾も美しく、重厚感漂う落ち着いた雰囲気。その1,2階がスカンディヤ”SCANDIA”となっているのです。


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もうとても素敵ですよね~。なんか自分のアンテナにビビッと来るくらい素敵です。


じつは、このSCANDIA、夜になるともっとその外観が素敵になるんですね。RESTAURANT SCANDIAの看板は、べつに電気照明の仕掛けはないような感じがするのですが、夜になって陽が落ちてくると、そこが蛍光のように光るのです。雰囲気あって素敵です。


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ところで、北欧ってどこのことを言っているかわかりますか?(笑)


レストランの名前、スカンディア”SCANDIA”は、北欧諸島、スカンディナビア諸島に因んでつけられています。


北欧ってここのことを言います。


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ノルウエー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、そしてアイスランド、最近はエストニアやラトヴィア、リトアニアのバルト三国、ブリテン諸島なども含まれるようです。


ヨーロッパ大陸の北側にある国々。ここが北欧です。まさに欧州の北だから北欧です。

この大きな島のことを北欧諸島、スカンディナビア諸島というのです。



冬の寒さが厳しいイメージのある北欧ですが、氷河の侵食作用によってできたフィヨルドや、豊かな森林、美しい湖などの雄大な自然と、時間がゆったりと流れているような雰囲気が魅力です。落ち着いた雰囲気に憧れて、一度は誰しもが旅行してみたいと思う人も多いですよね。



また、シンプルなデザイン、機能性に優れたインテリアや食器、雑貨は日本でも人気があります。


日記でも紹介しましたが、北欧諸国の人々は幸せというか、北欧文化の特徴の一つとして、幸福度の高さが注目されています。


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国連が発表した「世界幸福度ランキング」。


それは「人口当たりGDP」「社会的支援」「平均寿命」「人生選択の自由度」「寛容さ」「社会の腐敗度」といった幸福度をはかる6項目を指標として、幸せの質を数値化しランキング付けしたものらしいです。


2018年の国連発表の順位を見てみると、1位フィンランド、2位ノルウェー、3位デンマークとなっており、北欧諸国が上位を占めているのですよ。


豊かな自然、医療費が無料、学費が無料、労働時間が短い、「モノ」に固執しない、質が高い「フィンランド教育」、世界一しあわせな子育てができる国、年齢に関係なく学べる「生涯教育」、そして北欧はデジタル・トランスフォーメーション、デジタル変革(DX)に成功したDX先進国なのです。とくにフィンランドはヨーロッパで最もデジタル化された国、DX先進国でもあります。


北欧ってとても寒い厳しい気候条件にようにも思いますが、ほんとうに人間らしい幸せな生活をするには最高の国なのが分かります。


じゃあ、北欧料理、スカンディナビア料理ってどんな料理のことをいうのでしょうか?


●北欧料理の特徴


北欧の国々や地域で古くから作られている伝統料理が、北欧料理です。ノルウェーやフィンランド、スウェーデンなど海に面している国が多いため、魚介類を使った料理が多く見られます。ノルウェー産のサーモンやサバなどは、日本で売られているのを見たことがある人も多いでしょう。そのなかでもサーモンは特に有名で、料理にも多く使われています。


北欧諸国は海だけでなく、森や山などの自然も多いため、木の実やきのこを使った料理や、じゃがいもを使う料理も多くあります。使う食材は似ていても、料理には国ごとにさまざまな特色があります。


サーモン、豚肉、リンゴベリーソース(コケモモ)なんかそんな北欧ならではの素材だと思います。


(1)スウェーデンの代表料理

スウェーデンの代表的な料理には、ミートボールやハッセルバックポテトだけでなく、「ヤンソンの誘惑」という、じゃがいもとアンチョビのグラタンがあります。


(2)デンマークの代表料理

北欧諸国のひとつであるデンマークでは、鮭を使ったスモーブローというオープンサンドや、フレスケスタイが有名です。


(3)ノルウェーの代表料理

海に面しているノルウェーには、サーモンを使う料理が多くあります。シンプルな味付けでサーモンを味わうソテーや、ラクフィスクというマスの塩漬けをご紹介します。


(4)フィンランドの代表料理

海や森など豊かな自然があふれるフィンランドでも、サーモンを使った料理は定番です。


(5)アイスランドの代表料理

アイスランドは北大西洋の島国であり、火山や温泉、氷河などの豊かな自然があることが特徴です。アイスランドを代表する食材に、アイスランディック・ロブスターがあります。


北欧料理とは、北ヨーロッパの国々で親しまれている伝統料理のこと。周囲を海や森で囲まれている北欧諸国では、サーモンや手長エビなどの海産物やきのこ、じゃがいもを使った料理が多くあります。またリンゴンベリーという酸味のあるコケモモを使ったソースを、肉料理などに添えて食べることも特徴なんですね。


北欧諸国とは、ノルウェーやスウェーデン、デンマーク、フィンランド、アイスランドなどの国を言いますが、同じ食材を使っていても、それぞれの国で料理に特色が見られるようです。



では、このレストラン”スカンディア(SCANDIA)”で食べさせてくれる北欧料理ってどんな料理のことをいうのでしょうか?


その前に、レストラン ”スカンディア(SCANDIA)”の成り立ちについて、説明してみますね。


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1950 年頃、オーナーの濱田八重子さんが、大阪から友人を訪ねたとき、横浜で船乗りだったデンマーク人のご主人バオン・オーガ・ジェンソンさんと出会い、結婚。夫の夢であった、「バーやレストランを経営したい、という思いから中華街にコペンハーゲンというバーを開く。その後、夫婦でアメリカを旅行していた際、ロサンゼルスのハリウッドで「SCANDIA」という名前のレストランを訪れ魅了される。帰国後、横浜中華街で外国人向けのバー「コペンハーゲン」の経営を経て、2階に空きがあった横浜貿易協会ビルにスカンディア(SCANDIA)のレストランを1963年にオープン。60年以上続く、老舗となった。


今では「一度は行ってみたい名店」として地元横浜の方にはもちろん、多くの有名や著名人に愛されている。世界的な指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンや美空ひばりさん、桑田佳祐さんなど著名人も数多く来店。中でも松任谷由実さんは夫の正隆さんとの婚約時、両家顔合わせの場として同店を利用したというエピソードはファンには有名な話なのだそうだ。


デンマーク人のご主人と始めたということですから、北欧料理という広い括りの中でも、やはりデンマーク料理なのでしょうかね。デンマーク料理からこう広げていったという感じなのでしょうか。



1階はカフェや食事をカジュアルに楽しめる「スカンディヤガーデン」、2階は本格的な北欧料理が楽しめる「レストランスカンディヤ」。


一歩入るとそこは、アンティークに囲まれたノスタルジックな店内。とにかくスゴイです。もともとI LOVE YOKOHAMAの日記で、ぜひこのSCANDIAは入れたいと思っていたので、事前にネットで公式HPを眺めていたのだが、とくに本格的な北欧料理が食べられるレストランスカンディア」のほうは、もうあまりのゴージャスな内装空間に自分は驚嘆の声を上げてしまいました。これはぜひ体験しないと!と思いました。


そして、どうせ体験するなら、この2階の北欧料理が楽しめる「レストラン スカンディア」のほうを予約しました。ここは、やっぱりこの重厚な内装空間のレストランであることから、事前に予約して行ったほうがいいように思います。


この日は、予約時間より早く到着してしまいましたので、じゃあ1階のカフェや食事をカジュアルに楽しめる「スカンディヤガーデン」のほうも体験してみる?と思ったのです。


ここは特に予約はなくても混雑時間帯でなければ大丈夫のようです。


さっそく1階の「スカンディヤガーデン」へ。


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うしろにずら~と並んでいるドリンク関係は、北欧ならではのお酒なのでしょうか・・・自分はあまりお酒が詳しくないので、わからないのですが・・・ワイン、シャンペン、ビールなどなのでしょう、きっと。


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ここもカジュアルですけど、素敵ですよね~~~。もう自分はこれでかなりノックアウト気味です。こういう雰囲気のレストラン大好きです。いわゆる東京都心の都会的なハイセンスな高級レストランと全然装いが違って、もっとアンティークというか歴史があるというか、そういう趣味の良さが感じられますよね。ヨーロッパらしいお店だと思いました。


ここはカジュアルであることが売りなので、メニューはなんでも置いてあります。自分は最初店の外にあったメニューの看板を見て、”ビーフハヤシライス”がもう美味しそうで美味しそうで、絶対これにしよう!と思ったのですが、同時に特製ローストビーフも捨てがたいな、と思って迷っていました。いざ店内に入ってメニューを見た途端、特製ローストビーフにしようと決断してしまいました。(笑)


特製ローストビーフ


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ローストビーフは、ロンドンに住んでいるときはほんとうによく日曜日に食べていました。サンデーローストです。サンデーローストとは、イギリスの伝統的な食事で、日曜日(通常正午過ぎの昼食)に食べる習慣です。逆にローストビーフってイギリスではよく食べたけど、日本に帰ってからはほとんど食べなくなった食べ物でもありました。


でも美味しかった~~~。


これぞローストビーフという感じで、お肉も柔らかくジューシー。そしてなによりも暖かいです。ソースは、まさにローストビーフにつけるあのソースですね。甘いデミグラス的な味がする、ローストビーフにかならずつきもののあのソースです。最高のローストビーフでした。


じつはこれだけでは終わらなかったのです。(笑)


夜、18:00から2階の「レストランスカンディヤ」で本格的な北欧料理のフルコースを堪能した後、1階のカジュアルガーデンも体験した、そして2階の「レストランスカンディヤ」も体験した、ということで、ふつうこれで終わりじゃないですか。。。


でも自分は、1階のカジュアルガーデンでのメニューのビーフハヤシライスがどうしても忘れられなくて、食べたくて。。あのときは思わず寸前で特製ローストビーフにしてしまった。あのビーフハヤシライスを頼まなかったのが悔いが残るな~。もうこのレストランで2食も食べているのに、その気持ちが強くなっていって、ついに北欧料理フルコースを堪能した後、またこの1階のカジュアルガーデンに戻って来て、ビーフハヤシライスを頼んでしまったのです。(笑)


とにかく、店の外の看板のメニューのビーフハヤシライスが美味しそうで美味しそうで。


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これですよ!!!これは思わず食べたくなるでしょう!(笑)あまりに美味しそうです。


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そして出てきたビーフハヤシライス。


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若干、看板のメニュー写真はやはり料理のプロによる写真だな、とは思いましたが、いやはやなんのその。これもまた絶品でございました。ハヤシライスはオヤジの大好物でした。オヤジはカレーライスよりハヤシライスのほうが好きなんだ、といつも言っていて、オフクロによくハヤシライスを作らせていました。自分はカレーライスのほうが好きですが、でもハヤシライスも美味しいと思います。


このハヤシライスを食べているときは思わずオヤジのことを思い出してしまいました。スカンディア(SCANDIA)のカジュアルガーデンのビーフハヤシライスは、まさにハヤシライスそのものの味で王道の味。自分が子供の頃におフクロが作ってくれたハヤシライス、そのものの同じ味がして美味しかったです。とくになんか北欧のとか、特別な感じはしなかったです。



そしてメインの本格的な北欧料理、スカンディナビア料理を食べさせてくれる「レストランスカンディア」です。


まずカジュアルガーデンとはエントランスが違います。


1階のカフェや食事をカジュアルに楽しめる「スカンディヤガーデン」のエントランスはこちらです。


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そして2階の本格的な北欧料理が楽しめる「レストランスカンディヤ」のエントランスはこちらになります。重厚さが全然違います。


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そしてなによりも驚くのは、その荘厳に施されたレリーフ。建築物や工芸品の表面を飾るためのレリーフです。


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壁一面に、ある四角形上の額縁に張られた中を彫刻が彫られているのです。色は濃い褐色の茶色で統一されています。こういう彫刻、レリーフは北欧と関係あるのか、北欧ならではの文化なのか自分はわかりかねますが、とにかく圧倒されました。


このレリーフはレストランの店内でもすごい数に及び圧巻なのです。


スモーキングルームもこのゴージャスさです。


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そしてレストランのエントランス。


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ここが、本格的な北欧料理が楽しめる「レストランスカンディヤ」になります。


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公式HPの写真でその絢爛豪華さ、ゴージャスさはあらかじめ知ってはおりましたが、実際リアルで体感する肉眼で目にするその空間は、まさに王宮、宮殿の中だと思い間違えるような素晴らしさでした。


レストラン内は照明は暗く、わずかな高級なシャンデリアとろうそくのキャンドルの灯りのみのように思います。その暗さがより一層高級感、重厚感溢れるその空間を助長しているように思います。


内装はすべて漆喰。レリーフなどの装飾も美しく、重厚感漂う落ち着いた雰囲気。とくにレリーフはほんとうに凄いですね。褐色茶色で統一されたその芸術的な彫刻、レリーフの額縁が、レストラン内の壁一面に飾られ、それがより一層その空間の重厚感、深みを増しているような作用があるように思います。


まるで北欧のお城のような店内です。


一歩入るとそこは、アンティークに囲まれたノスタルジックな店内でした。


案内していただいた女性のスタッフもチーフなのか、とても上品な振舞、言葉遣いで、まるで腹式発声のような奥ゆかしいマナー、振舞と品のいい声でございました。まさに一流レストラン、高級レストランのおもてなし、とはこうあるべき、というお手本のような高貴さと上品さの空気が漂っていました。


自分は思わずかしこまってしまいました。(笑)

素晴らしかったです。

ありがとうございました。


自分はコース料理をいただきました。



約30年、スカンディヤの厨房を担ってきた総料理長の荒川裕之シェフが存分に腕をふるう、コース料理がやはり最高です。シェフの長年培われた技術と品格を備えた料理を堪能できるコースはお祝いや記念日に利用すれば忘れられない、特別な時間になると思います。


荒川シェフはご自身でも「料理バカ」という荒川さん、当時はフレンチのシェフとして腕を磨いており、25歳までに美味いもの食べるというミッションを自らに課し、ボーナスが出ると、神戸のポートフェアホテル、カハラ、大阪のステーキハウスなど一流のお店を巡っていました。


ヘルプで来ないか、と声を掛けられたのがその数年後。

スカンディヤの2号店「ダンマルク」からスタートしました。


そこから、社長の濱田さんと二人三脚、いろいろな提案をしながら、長い年月を掛けてお店の伝統を守ってきました。一人の力では出来なかったと、荒川さんはかつてをふり返ります。他のスタッフも長く働いてる方が多いとのこと。


近年では、クルーズ船が大さん橋に着くようになり、再び外国人のお客さんが増え、往年の異国情緒を感じることができるようになってきたそうです。



自分が予約したコース料理は、スカンディアスペシャルです。


前菜が、豪華な前菜盛り合わせ スモーガススタイルです。


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じつは、ここスカンディア(SCANDIA)の名物料理は、バイキングスタイルの盛り合わせ『スモーガスボード』。一般的なバイキングスタイルは一度席を立ち、大皿から好 きな料理を皿に取り分ける方法ですが、それをスカンディヤのスモーガスボードは席についたまま、テーブルの上で楽しめるようにアレンジしているものなのです。


これがスカンディアの名物料理なのです。スカンディアに来たらこれを食べなきゃ!

コース料理は、いろいろあるのですが、自分はこのスカンディアスペシャルを選んでよかったと思うのは、この名物料理のスモーガススタイルで前菜をいただけたことです。


見た目が美しいですよね~。芸術品だと思いました。食べるのが勿体ない感じです。どれも素晴らしく美味しかったですが、やはりサーモンが美味しかったかな~。北欧料理は、やはりサーモンですね~。キャビアを食べるのは何年振りでしょうか。貧乏な自分が普段食せる食べ物ではありません。(笑)


まさに至極、究極の前菜ですね。自分がいままで経験してきたコース料理の前菜の中でも最高位に位置すると思います。


シェフ特製 季節のスープはカボチャのスープ。パンも添えて。


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カボチャは甘い口触りのいい上品なスープでございました。これは美味しいですね。そしてパンがもう焼きたてで暖かくてほんとうに美味しい。焼き立てのパンって美味しいですよね。


そしてメインディッシュです。

特製和牛ヒレステーキと季節の野菜添え。そしてミックスサラダも。


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ヒレステーキは柔らかくまさに高級なお肉でございました。口に中に入れるととろけてしまいそうな感じです。そしてやはり肉につけるソースですね。ヒレ肉をナイフとフォークでカットしていきながら、そして切肉にソースにまぶせながら口に運ぶわけですが、フレンチのときもいつもそう思うのですけど、高級なレストランの料理ってその美味しさを簡単に言葉で表現することができないものです。


文章を書くうえでいちばん難しいと言われるのが、音楽を聴いたときのその感動やその音楽の素晴らしさを文章で表現すること、そして高級な料理を食べたときのその美味しさの感動を文章で表すこと。


この2点がいちばん文章で表現することが難しいと言われています。


人間のリアルな感覚(聴覚や味覚)で感じることなので、それを文章という仲介で代弁することが難しいのです。


フレンチやイタリアンを食べるといつも思うのが、なんともいろいろな隠し味が隠されていて、いろいろなものが混ざったまか複雑な味、でも最高に美味しい、この味をどのように言葉で表現すればいいのか・・・そんな美味しさというのがあります。


ラーメンや中華などはとてもシンプルなので、美味しさを言葉で表現することは、そこまで難しくはないと思います。でもフレンチやイタリアンの手の込んだ下ごしらえのソースの味なんか、すごく複雑な美味しさで、とても言葉では表現するのが難しいんですよね。


まさにこのメインの特製和牛ヒレステーキはそんな至極、究極の美味しさでございました。


デザートは、チョコレートケーキです。

”オペラと・・・”というタイトルでドキッとしました。(笑)

そしてコーヒーを。


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見た目も上品で、甘く高級なケーキだと思いました。

ひと手間もふた手間もかけた高級品だと思います。



スカンディアスペシャル。1,0160円。

いろいろなコース料理がある中、このスカンディアスペシャルを選んでほんとうによかったと思いました。


最後に会計でお釣りをいただくとき、わざわざ総料理長の荒川裕之シェフに持っていただき大変恐縮いたしました。


「どうもありがとうございました。大変素敵でございました。」


と感謝と御礼のお言葉をおかけしたことは言うまでもありません。



オーナーご自慢のマティーニやカクテル。横浜に米軍人や貿易会社が多かった頃、教えてもらったレシピが今も受け継がれているそうで、それを頼まなかったのがちょっと心残りではありました。


横浜情緒あふれる雰囲気の中で心に残る思い出を。

創業以来、守り続けているものがある。


横浜で創業60年。北欧料理のスカンディア(SCANDIA)。

ここにやっと体験することができました。



RESTAURANT SCANDIA













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I LOVE YOKOHAMA 横浜山手西洋館 [街歩き]

記録的な酷暑続きだった2023年度の真夏8月から取材、連載を始めてきた”I LOVE YOKOHAMA”シリーズ。
                                          
観光都市 横浜の魅力を十分に伝えていこう。30年間、横浜に住んできて、じつは灯台元暗しだった、横浜のことをよく知らなかった。横浜の観光エリアにあまり行ったことがなかった。。。そういう理由で始めた長期連載シリーズ。
                                    
ついにここに最終章!ラストスパートである。
                         
ラストに持ってきたのは、横浜山手西洋館である。
                              
山手エリアというと、もっとも横浜らしい、異国情緒あふれる西洋風の漂う素敵なエリアである。
                                         
これこそ、横浜~という感じで、一番横浜のイメージに合うところではないだろうか。
                                    
山手って高台にあって、元町・中華街駅から、もうひたすら坂を登っていくのだが、これがものすごい心臓破りの坂なのだ。はぁはぁぜぃぜぃと息を切らして、着いたときはしばらく休まないといけない。
                      
それだけ高台にある。
                           
横浜の山手というと、いわゆる東京の田園調布のような感じで、まさに富裕層の豪邸が立ち並ぶという、それの横浜版という感じだ。とにかく育ちのいい、上流階級の方々の住まれるエリアという雰囲気、イメージがある。
                         
”山手のお嬢様”というよく聞く言葉がある。
                                 
この横浜山手で育った深窓のお嬢様は、もう我々とは住む世界が違っている。スピードの速い忙しい世界で、毎日闘いながら生きている我々一般人に対して、どこ吹く風というか、まったくそういう世界とは無縁のゆったりした、無用の心配がいらない、マイペースでご自身の生活を営まれている。そういう深窓育ちのようなイメージを持ってしまう。
                         
これはひがみであろうか。(笑)
                             
実際、自分はこの山手エリアに行って散策してみたのだが、あきらかに空気や雰囲気が違う。ただならぬ上品さ、高貴さがもう気配、空気として漂っているのである。
                        
その土地、空間がそういう気配がある。それを敏感に自分の肌で感じるのだ。
                             
高台にある山手は、自然の緑が多く、ゆとりのある空間、邸宅が、そういう自然の緑と調和して一体化した形で、独特の空気感、気配感が漂っている。
                     
素敵な所だな~と思う。
                         
元町・中華街の駅に貼ってあったポスター。
                             
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まさに深窓育ちの”山手のお嬢様”というイメージそのものである。山手というエリアは、こういう雰囲気がよく似合う、こういう気配が漂っている場所なのだ。
                       
山手には、あのフェリス女学院もある。まさにそういう世界である。納得のいくところである。
                        
もともと山手というエリアは、横浜開港時には、外国人居留地であった。
開港したときは、関内に外国人居留地があったのだが、ここは埋め立て地であり、地質がジメジメで、海からも近く水害の恐れがあり、欧米人は正直この関内エリアが好きではなかった。
                      
そうして、もっとより良いところに住みたいということで、どんどん山手の高台のほうに移り住んでいったのである。そうして山手に外国人居留地ができた。
                             
山手居留地である。
                        
山手というエリアは、外国人居留地だった場所なのである。
             
なので、いまだに山手には西洋風、異国情緒あふれる雰囲気があるのは、それが原因である。
                   
                      
外国人居留地時代の名残を残す西洋館が複数立ち並んでいる山手エリア。外交官の邸宅としてつくられた「外交官の家」や、貿易商の私宅「エリスマン邸」など、現在も当時の姿そのままで保存されている。
                     
四季折々の花が咲く庭園や、高台からの横浜を見下ろす景色も見事である。 ほとんどの西洋館は内部も見学可能で、豪華なダイニングルームや客間など、当時の生活を垣間見れる。また「山手111番館」や「エリスマン邸」にはカフェも併設されており、ノスタルジックな雰囲気の中で軽食やデザートも楽しめる。
                    
                      
外国人居留地の面影が残り、異国情緒あふれる街並みの横浜山手には、7つの西洋館が佇み、西洋文化発祥の地として、多くの観光客が訪れている。
                       
I LOVE YOKOHAMAシリーズ最終章ということで、この7つの横浜山手西洋館を訪れ紹介することで、その幕を閉じようと思います。
                          
同じ開港場だった神戸や長崎の場合、異人館、西洋館の見学は有料なのだが、ここ横浜では無料というのがうれしい。ぜひ横浜山手西洋館は訪れてほしいと思います。
                         
もっとも横浜らしい素敵な観光スポットだと思います。
                     
この7つの西洋館に当時住んでいた外国人の生活が垣間見れます。豪華なダイニングルーム、食卓、寝室、バスルーム、あるいはパーティや舞踏会などを開く会場などもその邸宅の中にあったりとか、なかなか普段はお目にかかれない貴重な空間でございました。
                   
横浜山手西洋館のマップである。
                          
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7つの横浜山手西洋館は、高台の山手エリアに、集中的に固まって存在しているのだ。お互い距離が近い。だから1日あれば、7つの西洋館全部回れると思います。
                     
では、その7つの横浜山手西洋館を紹介していこう。
                     
                        
●外交官の家[重要文化財]
                                
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1910年にJ.M.ガーディナーの設計により、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として建てられました。
                     
                     
                       
●ブラフ18番館[横浜市認定歴史的建造物]
                            
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大正末期に山手町45番地に建てられたオーストラリアの貿易商バウデン氏の住宅で、そのあとカトリック山手教会の司祭館として使用されていました。
                  
                        
●ベーリック・ホール[横浜市認定歴史的建造物]
                           
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1930年にJ.H.モーガンの設計により、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として建築されました。
                    
                     
●エリスマン邸[横浜市認定歴史的建造物]
                             
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アントニン・レーモンドの設計により、1926年に生糸貿易商エリスマン氏の私邸として建築されました。
                      
                     
●山手234番館[横浜市認定歴史的建造物]
                            
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1927年頃に朝香吉蔵の設計により、外国人向けの共同住宅として建築されました。
                       
                          
●山手十番館
                                   
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ここは西洋館ではなく、昭和42年(1967年)明治100年を記念して建てられたカフェ・レストラン。心地良い風が通り抜ける庭園が広がり、異国情緒を感じる歴史ある建物。1階は気軽にご利用頂けるカフェ。2階は、ディナーなどのレストラン。レストランを体験したかったけど年末、クリスマスということで、もう予約不可能なくらい劇混み。カフェだけ体験してきました。
                      
                       
●えの木てい
                         
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ここも西洋館ではなく、旧外国人居留地に今も当時の香りを漂わせて佇む、純英国式の洋館。洋菓子やティールームを提供するお店である。ここがまた素敵なんだ!もう若い女性や外国人の大行列で大変な人気でした。
                     
                     
これ以外にも横浜市イギリス館や山手111番館があるが、この2つの館はすでに日記で紹介済みなので、ここでは省略する。
                        
ちなみに、西洋館の中の様子。ちょっとお見せしますね。外交官の家の邸宅の中をちょっとご紹介。
                            
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もう圧倒されますよね。(笑)
この7つの西洋館は、みんなこんな感じの邸宅内観でございました。
                    
これから日記で、このひとつひとつの西洋館ごとに日記で特集していこうと思います。
                
お楽しみに!

                    

                  

                    

                 

                               

                                 

                                




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I LOVE YOKOHAMA いや、関内は観光エリアです! [街歩き]

いま現在の関内の街の魅力は、やはり横浜DeNAベイスターズの本拠地、横浜スタジアムがあることだと思う。

ベイスターズファンにとっては、関内といったら、横浜スタジアムがある街、ベイスターズファンの聖地なのだと思う。いまの関内は、横浜DeNAベイスターズ、そして横浜スタジアム、これが1番の売りだし、それで持っているというか、そこが最大の魅力なのだ。


関内駅を降りると、もうベイスターズ一色!


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自分は、横浜を愛していく上で、そうなるとプロ野球チームを応援する上でも、やはり横浜DeNAベイスターズを応援していかないといかんな~という気持ちにもなる。


自分は幼少期を北海道で育ったので、ご多分に漏れずジャイアンツファンであった。V9時代のON、王さん、長嶋さんの時代からずっと巨人ファンである。札幌円山球場の時代からである。(笑)当時は、北海道は、9割方巨人ファンだったのだ。それが日本ハムが北海道にフランチャイズを持つようになって、もうものの見事に衣替わりして、北海道は日本ハムファイターズファンが圧倒的になった。


もういま帰省して実家のテレビを見ると、もうびっくりである。

日本ハムファイターズのCMや番組がいかに多いか!

地方ローカル局テレビの特徴がよく出ていて面白いと思う。


自分はプロ野球界の地方への参入、地方にフランチャイズを置くという地域密着型スタイルが、1番成功しているビジネスなのではないか、と思っている。福岡ソフトバンクとか、仙台楽天イーグルスとか。地方フランチャイズがほんとうにうまく行っている。


首都圏東京、そして関西大阪主導型だったプロ野球界。それが東京、大阪以外の地方でプロ野球団を持つ。そういう成功例があたりまえのようになってきたプロ野球界。


そういうことで、自分はいま日本ハムも応援している。


I LOVE YOKOHAMAとしては、横浜DeNAベイスターズも応援していかないといけない。


自分はなにせ、V9時代の巨人の時代からずっとプロ野球を見てきているので、横浜DeNAベイスターズの前身は詳しいですよ。当時は、大洋ホエールズ(1955-1977)、そしてその後、横浜大洋ホエールズ(1978-1992)となっていった。そして、横浜ベイスターズ(1993-2011)、そして横浜DeNベイスターズ(2012-)である。


記憶にあるところでは、大洋ホエールズは、親会社が大洋漁業。最初山口県下関市が本拠地だった。ホエールズの”ホエール”というのはクジラ、鯨のこと。捕鯨は親会社 大洋漁業の柱の事業だった。ユニフォームに”は”と書いてそれを丸で囲む感じのプリントがあったことをよく覚えている。


途中松竹も絡むが、もとの大洋ホエールズに戻って、東京に移って来て、川崎球場をフランチャイズにする。1978年から、本拠地を川崎球場からいまの横浜スタジオに移したのだ。


自分にとって、横浜ベイスターズ時代よりも、この大洋ホエールズの時代のほうが経験が長かった。


グリーンとオレンジのユニフォーム。あのときは、剃刀シュートの平松投手が大全盛のときでした。

長嶋茂雄さんは平松投手が大の苦手でした。右バッターにとって、胸元にえぐるように入ってくるシュートは打ちにくいに決まっている。


外国人選手ではシピンという選手がいたのも記憶にある。


横浜大洋ホエールズの時代もよく覚えている。あの頃は、巨人は江川、西本、原とかの時代だったから、巨人には相性が悪かった記憶がある。


そしてなんといっても最高に輝く球史に残る最大の名誉は、横浜ベイスターズ時代の1998年の日本一であろう。あのときは、まさに日本中が大フィーバーであった。


大魔神佐々木主浩、谷繁、ハマの番長三浦投手、もうよ~く覚えてますよ。大洋ホエールズ時代から数えて、セリーグを制覇したのは、1960年と、この1998年。38年ぶりの悲願達成であった。そして初の日本一。


ほんとうに大フィーバーだった。


1998年という年は、日本では、”横浜”がひとつのキーになる年だったのだ。

高校野球では、松坂大輔投手擁する横浜高校が、春夏連覇に偉業。そしてプロ野球では、横浜ベイスターズが日本一。


まさに1998年は横浜イヤーだった。


自分はヨーロッパから帰国して、3年目の日本でだいぶ慣れてきた時期だったので、よ~く覚えている。


関内駅のすぐ近くに横浜スタジアム、通称「ハマスタ」がそびえ立っている。横浜市中区の横浜公園の内にある野球場である。


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横浜スタジアムのある横浜公園は、じつは日本野球発祥の地なのである。

まさに野球界にとって大変名誉ある球場なのだ。


1896年に日本初の国際試合と紹介されている東京の旧制一高と横浜の外国人チームYCACの試合が行われた歴史を有している。


横浜公園野球場、ゲーリック球場、平和球場と名称を変え、多くの横浜市民や全国の野球ファンの皆様に愛され、そして、支えられ、変貌を遂げてきた。


関内は、横浜スタジアムのある街。そして日本野球の発祥の地。

そう考えると、関内は、野球ファンにとっては神様のような神聖な場所なのであろう。


横浜スタジアムは、昇降式ピッチャーズマウンドの操作により、野球ばかりでなく、アメリカンフットボールその他のスポーツ、コンサートなど多様なイベントに利用できる。また、トレードマークのY字形の照明塔はオリジナリティーに溢れ横浜のシンボルのひとつになっている。プロ野球チーム「横浜DeNAベイスターズ」の本拠地。通称「ハマスタ」。


横浜スタジアムといえば、このY字型の照明塔ですよね~。この形のライトを見ると、あ~横浜スタジアム。。。とすぐにピンと来てしまう。


自分は残念ながら、横浜スタジアムで野球を観戦したことがない。ぜひ近いうち実行してみたいと思っている。


横浜スタジアムがある横浜公園は、関内の中でもひと際、緑と自然の美しい別世界の場所である。なんかここだけ世界が別次元。ぜんぜん違う世界だと思うのである。癒されます。


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この横浜公園は、横浜の中では山手公園についで2番目に古い公園で、現在の市庁舎隣にあり、横浜という都市の発展と共に歩んできた公園といえる。


在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、遊郭の跡地に整備が行われ、明治9年に開園、一般の人々にも開放されたため当時は「彼我(ひが)公園」といわれてきた。


明治42年には、公園全域が横浜市の管轄となり、大震災と戦後の接収時代を経て、昭和27年の解除後は当時の平沼市長が命名した公園内の平和球場で高校、大学、ノンプロの野球試合が数多く行われた。


昭和53年に横浜スタジアムが建設されたのを機に、園内の老朽化した諸施設を改築、日本庭園風の池と流れ、噴水や多目的広場などが整備された。


さらに昭和62年、水道の貯水設備と共に、水の出る4つの彫刻がある水の広場が整備され、現在の形になっている。


1年を通じ人気のある横浜公園であるが、見物は何といっても春のチューリップでしょう。公園を彩る色とりどりの花は16万球にのぼり、様々なタイプの品種を見ることができ、開花の時期には多くの人々で賑わう。


公園内には横浜の公園でもめずらしい水琴窟が日本庭園部分にある「蹲踞(つくばい)」の下にあります。地中に瓶を埋め、落下する水滴の音を反響させて楽しむ、庭園の技法でも高度なもので、その澄んだ音色は都会の喧噪を忘れさせてくれます。


横浜公園は平成21年2月に近代化産業遺産の認定を受けました。



横浜公園は、なんといっても春のチューリップである。


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自分はいままで見たことがありませんでしたが、いまこうやってネットの写真で見る限り、もう驚くばかりである。


これはまさにオランダのキュッケンホフではないか!


まさに横浜公園の春のチューリップは、日本のキュッケンホフと言っていい。

驚きました。こんなに素敵だとは!


今年の春、ぜひこのチューリップを見に、関内、横浜公園を訪れたいと思います。


誰だ?関内はつまんない、観光として見どころがない街、と言った奴は?(笑)


関内は、横浜スタジアムのある街、そして横浜公園のある街、そして横浜公園は、日本野球の発祥の地、そして横浜公園の春のチューリップ。


まさにこれだけでも、関内は完璧な観光エリアである!



自分は、I LOVE YOKOHAMAプロジェクトで関内を散策しようと思ったとき、やはり他の観光スポットと違って、特別な想いがあった。それは関内が、横浜のルーツであるという史実。これをどうしても意識しない訳にはいかない。


横浜は、関内から始まった!


これを意識しつつ、当時の関内の街の様子、外国人居留地や日本人居住地が、いま現在どのようになっているのか、どのように様変わりしているのか、そこを自分の視覚、感覚で捉えたい。感想を述べてみたいと思っていたのである。


先の日記で述べた通り、関内というのは行政上で定義されている街ではないのだ。関内という街は存在しない。横浜開港のときに、関内、関外と呼んでいた名残で、関内だけは、いまもその名残としてそういう呼び方が残っているだけ。JRや横浜市営地下鉄ブルーラインでも、関内駅というのは存在する。でも街ではない。


つまりエリアのことを漠然と関内と呼んでいるだけなのだ。


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そしていま現在の関内エリアと呼ばれるところは、旧日本人居住地のあった場所であるという衝撃の事実。旧外国人居留地だった場所は、横浜中華街のほうにあったのだ。


上の地図を見てもらえばわかるように、目印は、横浜公園、横浜スタジアムである。

地図上で、野球場のドームのような形があるので、わかりやすいだろう。


この横浜公園、横浜スタジアムを境に、西側にあるのが、日本人居住地、そして東側、つまり横浜中華街のほうにあるのが、外国人居留地だったエリアである。外国人居留地は山下居留地とも言われる。


江戸末期、明治時代の関内と呼ばれるエリアは、この2つのエリアで半分っこしあっていたのだ。


当時の関内に想いを馳せながら、いまの関内を歩く。。。これをやってみたかった自分。でも実際、いまの関内エリアと呼ばれるエリアを歩いてみると、なんか建物もビルとか、和風な庶民的なお店だとか、ふつうにどこでも見受けられる街並みとなんら変わらなく、観光スポットとはとても言えないという印象を持った。


これのどこが魅力的に思えるのだろう?

つまんない街だな・・・


なんかこんな風に感じてしまった。


自分が歩いていた関内エリアは、日本人居住地があった場所である。街の特徴として、碁盤の目状に四角に区分けされている街並みで、なんか札幌や名古屋みたいである。そしてほとんどがビルで、そこに和風な食べ物屋さんが点在している感じである。


関内に行くのに、自分が使うのは、横浜市営地下鉄ブルーラインの関内駅。


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関内は、馬車道、赤レンガ倉庫、横浜中華街、伊勢佐木町、山下公園・・・ともう歩いて行ける距離にある。横浜は関内からスタートしたので、そこから周辺にどんどん広がっていまの横浜が形成されるようになったので、ある意味当然と言えば当然だ。


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この関内駅前のエリアは、ちょっとした飲食店、コンビニがたくさん集まっていて、関内エリアの食事処、大事な食べ物供給スポットになっていると思われる。お店はいたって普通のどこにでもありそうなお店たちである。


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そして、いまの関内エリア、昔の旧日本人居住地エリアは、碁盤目状の四角く区分けされた街で、その大半がビルである。そこに食べ物屋さんが点在している。。そんな街の景観である。


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ね?つまんない風景でしょ?(笑)


う~ん?これはどうやって日記で盛り上げていけばいいのか、アピールポイントを探すのが難しい街の景観なのだ。いたって、普通なのである。普通過ぎる。(笑)


関内は難しいな~と思いました。



このところどころに点在する食べ物屋さんに注目していくことにしよう。



もつ焼きのんき


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そばの利久庵


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居酒屋ます家


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行列ができていました。南インド料理屋さん


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ベトナム料理フォー専門店


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中華の唐家村


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札幌ラーメン 味の時計台

北海道の実家の近くにありました。病気療養で実家に居たとき、よくオヤジと食べに行きました。


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横浜瀬里奈

馬車道にあるお店は大変有名ですが。ここ関内にもあるんですね。


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高級生食パン店 乃が美


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阪神タイガースショップ横浜店

なんと!関内にあるんですね。


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開運 招き猫を見つけました。


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カフェ ベローチェ


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天ぷら屋 天吉

なんと!!!サザンオールスターズの原由子さんの実家だそうです。(笑)いま調べて気づきました。入っておけばよかった~~~。日本古風な雰囲気の素敵なお店構えで、名店の雰囲気がありました。


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関内エリアでは、この日はちょっとしたフェスみたいな催しをやっていました。お天気よかったです。


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関内ホール

芸術文化の香りのする横浜・関内に位置し、大ホール・小ホールを備えた多目的公共施設です。1度入ってみたいです。


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旧横浜地方裁判所

こういう歴史的建造物も関内には多いです。


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つぎに横浜スタジアム周辺を散策してみよう。


ここの通りはなかなかいいお店がいっぱいあります。


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スターバックス

大きな綺麗なお店でした。


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カフェ ベローチェ

ここにもあります。


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コーヒーの大学院

ここは一度入ってみたいんですよね。本格的な珈琲が飲めそうです。


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いっちゃが関内店

ここは以前日記で紹介した宮崎料理を食べさせてくれる居酒屋さんです。美味しいです。


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この日本大通りの通り沿い。


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関内の公益財団法人 神奈川予防医学協会 中央診療所があります。


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ここはうちの会社が集団健康診断としてここに依頼しているんですよね。そして通常は、ここから派遣という形で会社に出張して、会社で集団健康診断をする訳です。


でも自分は、コロナ、そして脳梗塞で在宅勤務中心の働き方に変わりましたので、集団検診をするためだけに会社に行くよりも、もうこの関内の中央診療所に直接出向いて、ここで健康診断を受けています。


中は撮影禁止ですが、たくさんの部屋があり、それぞれの部屋がそれぞれの検査の部屋になっています。まさに健康診断を専門にするフロアです。


レントゲン、血液検査、視力、聴力、体重、バリューム胃の検査、問診、もうすべてこのフロアでやれる専門のフロアです。雰囲気は病院そのものです。病院で健康診断やっているみたいです。


より綿密な検査の人間ドッグもここでやります。


そして、1,2か月後に検査結果が郵送で送られてくるんですね。


自分はいま現在は、関内のこの中央診療所で直接健康診断を受けています。

自分が、関内と縁がある理由のひとつです。



横浜スタジアムを通り過ぎて、この中央診療所のある大通りを歩いていくと、横浜中華街の門が見えます。


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ここからが横浜中華街のエリアになります。


昔の外国人居留地というのは、ここから先のエリアだった、ということなんですね。このときはまったくその真実に気づいていませんでした。


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これは後日また改めて、関内に出向きたいと思います。そして今度は、外国人居留地、山下居留地だったエリアを散策する、という題目でいろいろ見て回りたいと思います。


日本人居住地だったエリアのように、ふつうの特徴のない街並みなのかもしれません。。(笑)



自分にとって関内というと、やっぱりラーメン二郎 関内店です。

ラーメン二郎は総帥・山田拓美さんの三田本店の神殿はもちろん、首都圏、そして日本全国にラーメン二郎はたくさん暖簾分けがあります。でも、二郎ってほんとうにそのお店によってずいぶん味のテイストが違うんですよね。二郎ラーメンは間違いなく二郎ラーメンなのだけれど、ちょっとずつ違う。


そして自分の好みの二郎のお店を探すのは、これはこれですごく大変なことなのです。


昔、三田本店以外に自分のお気に入りのラーメン二郎のお店が高田馬場にありました。

自分の二郎の好みはしょっぱいスープです。


高田馬場はすごくスープがしょっぱくて自分の大の好みだった。

でもいつしか閉店してしまったんですよね。


それ以来、自分の好みの二郎の店舗を探すべくずいぶん行脚しました。

ラーメンの友人に聞いたりもしました。


噂の目黒店にも行ったけど、違うんだな~。

そして美味しいよ、という触れ込みで、このラーメン二郎 関内店を紹介されたのです。


それで、この関内店行きました。


でも結果から言うと、やはりちょっと違うな~という感じ。確かに二郎ラーメンなんだけど、スープの味がちょっと薄いというか好みではなかった。


結局ようやくいまの会社の通勤路で、家からも近い中山駅前店を発見することができた。中山駅前店の二郎ラーメンはスープがしょっぱくて、自分の好みだった。高田馬場店にすごく近い味だった。ようやく安堵の場所を見つけた、という感じです。


ラーメン二郎 関内店にはそんな想い出があるので、久しぶりに行ってみようと思いました。


ラーメン二郎 関内店は、関内エリアにあるというよりは、伊勢佐木町の方面にあって、イセザキモールの1本隣の通りにある。


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この通りもいたって普通の道路、景観である。


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くぅぅぅぅ~~~。ジロリアン、恐るべしです・・・(滝汗)

関内店、やっぱり人気があるんだな~。


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超久しぶりのラーメン二郎 関内店。


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確かに間違いのない暖簾分けの二郎ラーメンの味なんだけど、やっぱりちょっと違うな~。やはり以前食べたときの印象変わらず、スープの味がちょっと薄いです。


でも美味しかった。

ひさしぶりの関内店、楽しみました。



横浜のルーツ、関内。


当日、散策したエリアは、旧日本人居住地だったエリアだということが分かり、第一印象は平凡な街並みだな、とは思いましたが、でも関内の最大の魅力は、やはり横浜DeNAベイスターズの本拠地、横浜スタジアムであって、そして横浜公園であって、横浜公園は日本野球の発祥の地であって、そして横浜公園の春のチューリップ。これだけでも関内はじゅうぶんに観光エリアである、と言えると自分の考えを修正することにします。


それにさらに重鎮のごとく、関内は横浜のルーツである、という重い史実が加わるのですから。。。











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I LOVE YOKOHAMA 関内 [街歩き]

今回のI LOVE YOKOHAMAの連載を始めて一番自分が勉強になったと思うのは、横浜のルーツが関内である、ということだ。それまで、自分にとって関内というところは、いまひとつ地味というか、掴みどころがなくて、どこが横浜としての観光都市なんだろう、どこに街としての見どころがあるのだろう、という疑問があって、なにか特徴がない、それほど魅力を感じる街でもなかった。


まずなんといっても関内の街を歩いていて、街の景観を眺めるのだけど、ぜんぜん地味というか、さっぱりつまらないのだ。(笑)魅せどころがまったくない。観光スポットとしての要素が全くない。


横浜のルーツが関内だということは、今回初めて知ったのだが、関内がそんなに歴史上重要なところだとはつゆも知らず、でも実際歩いてみたら、地味であることのなにものでもない、という・・・


なんか来るものがないな・・・という感じである。


ところが、自分の人生で、横浜関内というところは結構昔から縁があって、よく訪れていた街だったのだ。2004年にみなとみらい線が開通するまでは、横浜中華街に行くには、関内、石川町から行かないといけなかった。いまは元町・中華街駅からそのまま地下通路で直結だが、当時は結構アクセスがよくなかったのだ。


そして、いまの会社の集団健康検診をやっている中央診療所が関内にあって、コロナ、脳梗塞で在宅勤務中心の生活になってから集団健康検診のためだけに会社に行くよりは、もうこの関内の中央診療所で受けるほうが手っ取り早いしいい。だから毎年この関内の中央診療所に通っている。


そして関内と言えばラーメン二郎 関内店だ。


それ以外にも、いろいろ関内に行くことが多い。関内は、地味というか、どこが街として見どころがあるのか、さっぱりわからないのだけど、自分の人生にとって関内は縁が深いのだ。


街としての魅力をさっぱり感じないので、試しにネットで関内観光スポットで検索してみるのだが、関内観光ベスト10とかの記事を見ると、いわゆる関内周辺の馬車道、赤レンガ倉庫とか横浜中華街、伊勢佐木町、元町、ここら辺をもうひっくるめて関内と言っていて、ここを観光スポットとして挙げている。


それはずるいよな~と思う。(笑)


ウィキペディアでも、関内は、横浜中区にあり、横浜の中心市街地と書いてある。


国土交通省の都市景観100選に選定されている、とある。


ほんとうに~~~。(笑)


でもここで注意事項だ。


「関内」という行政上の地名は存在しない。つまり関内という街は存在しないのだ。


昔からの名残で、このエリアを関内と呼んでいる。その呼び方が残っているというだけのことなのだ。


これは馬車道にも言える。馬車道という行政上の地名も存在しないのだ。馬車道という街はないのだ。馬車道というのは、あくまでストリート、通り、商店街のことをいう。


みなとみらい線で馬車道という駅があるので、馬車道という街なのか、と思うのだが、馬車道という街は存在しないのだ。


つまり関内は、横浜のルーツ、横浜はここから始まったというルーツであり、そこから周辺に横浜は広がっていった。つまり関内をスタートポイントにして、周辺の馬車道、赤レンガ倉庫、横浜中華街、伊勢佐木町、元町、そしてあの山手のお嬢様の山手地区まで広がっていって、いまの横浜の中心を築いた。それが横浜市中区である。


そういうことで関内観光ベスト10とかいうと、この周辺ひっくるめて紹介されて、関内は横浜の中心市街地というステータスシンボルみたいな扱いなのだと想像している。


ちなみに、この関内を中心にそれぞれの街、エリアがどういう位置関係にあるかの地図をご覧に入れよう。


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地図左から、馬車道エリア、関内エリア、横浜中華街、元町・山手エリアである。そして山下公園、大さん橋、みなとみらいとも近い。まさに横浜市18区の中で、もっとも華形である中区がこのエリアなのである。


横浜の観光スポットは、このエリア、この中区といっても過言ではない。


このエリアの中で一番地味だと思うのが、関内エリアである。(笑)

関内がいちばん見どころがない平凡な街並みだと思う。


そしてこのエリア間は、もうこの距離感として歩いていこうと思えば歩いて行けるほど、近接している。


とくに自分は、馬車道、関内、そして横浜中華街は完璧に歩いて行ける近接した距離感のエリアだと思っている。


では、関内がなぜ横浜のルーツなのか。


それを説明して行こう。



ペリーの来航で、長い間の鎖国が終わり、江戸幕府は、開国することになった。


江戸幕府は、幕末の1858(安政5)年、アメリカとの「日米修好通商条約」をはじめ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約(通称「安政五カ国条約」)を結んだ。この中で、函館、神戸、神奈川、長崎、新潟の五港の開港が取り決められた。


しかし「神奈川宿」にある「神奈川」は通行の多い「東海道」沿いなので、とにかく幕府は外国人と日本人の接触を異様に恐れた。そこで、幕府は横浜は神奈川の一部であると詭弁し、街道から外れた横浜を「開港場」としたのだ。


当時の横浜は、まさに横浜村というくらいほんとうに小さな寒村で、ここであれば東海道や神奈川宿からも離れているし、いいだろうと幕府は考えたのだ。


でも、このほんとうに小さな寒村に過ぎなかった横浜村がそこに一気に外国文化が流れ込み、ここが玄関口になり、西洋化が進み異国情緒溢れる街並みが形成されて、そしていまの観光都市、横浜になっていくとは、当時は夢にも思ってもいなかった訳だ。


外国人のために港と市街を開く場所を開港場(かいこうじょう)といい、その市街のことを居留地と言う。開港場は函館・横浜・新潟・神戸・長崎に設けられた。市街だけ開く場所を開市場(かいしじょう)と言い、東京と大阪に設けられた。


幕末にアメリカなどと結ばれた通商条約によって、条約締結国民に居住と営業が許されるエリアのことを「外国人居留地」、略して「居留地」という。居留地では外国人に借地権と建物の所有権が認められたが、土地所有権は与えられなかった。


居留地は外国人のために設けられたものであるが、日本人も許可を得て居住・営業することができたそうである。


この外国人が住んで営業をしたりするエリア、「外国人居留地」としてこのエリアを幕府は用意した。


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このピンクで覆ったエリア。ここは埋め立てて作られたエリアである。そしてとにかく外国人居留地を日本人と隔離したかったので、派大岡川という川を強制的に作ってこのピンクエリアをその川で隔離したのだ。


このピンクのエリアが関内と呼ばれるエリアである。




江戸幕府はアメリカに開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、寒村であった「横浜村」を神奈川の一部と主張し、この地を開港した。それは幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためである。


神奈川宿から横浜村へ道が作られ、間にある大岡川の分流「派大岡川」に「吉田橋」を架け、横浜港が開港した安政6年にその橋に関門という関所のようなものを置いた。その関門の内側、横浜側を「関内」と呼んだ。


現在の地域名はこのことに由来するのである。関内エリアは、西側が日本人居住地、東側が外国人居留地であった。


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1860年に横浜村周辺は、今までの川に加えて掘割りを掘り、橋を架け、橋を通らなければ横浜(関内)には行けないようにし、全ての橋に関門を設けた。当時、武士と外国人との接触を避けるため、武士は関内には入れなかった。吉田橋から外国人居留地に至る道が、今の「馬車道」である。


「関門」という名の関所を設けて、武士や町人などの日本人がこの外国人居留地へ出入りすることを取り締まり治安を守ったのである。この川を境に、外国人居留地のあるエリアを「関内」、その外側を「関外」と呼んだのである。


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そう、関内・関外の「関」とは「関所」の「関」なのである。


関門が設けられたのは伊勢佐木町と馬車道の間にある橋。

当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから仮橋である木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から渡されたことにより「吉田橋」と呼ばれた。



吉田橋、関門の跡碑


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関内エリアは派大岡川で囲まれ隔離されているのだが、最初は吉田橋だけであったが、その後安政6(1859)年~明治4(1871)年まで、吉田橋、西の橋、前田橋、谷戸橋という4つの橋がかけられ、その橋のたもとに関門が設置されたのである。


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まさに日本人を外国人と接触させるな、という隔離状態である。(笑)



この内側を関内、その外側を関外と当時は呼んでいたのである。

関内というのは、いまもその名残でその呼び方が残っているが(いまの関内エリアがそうである。関内駅もある)、関外のほうは、もういまはそういう呼び方は残っていない。いまの伊勢佐木町は関外であったが、ガイドブックの中では関内の一部である、という記述もあるようだ。



ちなみにこの昔の地図を見てほしい。川(派大岡川)で囲まれている茶色の線の内側が関内である。その外側が関外。そして関内のエリアでも、西側が日本人居住地、そして東側が外国人居留地である。


日本人の場合は、”居住地”であるが、外国人の場合は、”居留地”である。(笑)


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外国人居留地のほうを、とくに山下居留地という。


横浜の開港場の中心部は川と海で囲われており、1871(明治4)年まで、出入のための橋のたもとに関所があって、不審人物を取り締まったので、「関内」(関所の内側)という呼び名が生まれた。


関内の東側半分が山下居留地に当たる。昔は山下居留地のことを関内居留地と呼んでいたが、関内=居留地という誤解が生まれる。関内は西側が日本人居住地で、東側が外国人居留地だからだ。半分っこしあっているのだ。だから関内=居留地、関内が全部外国人居留地ではない。



現在は外国人居留地のエリアを山下居留地と言うそうだ。ところが今度は、関内居留地の一部が山下居留地だという誤解が生まれつつある。そうではなくて、昔関内居留地と呼んでいたものを、現在は山下居留地と呼んでいるのである。


実は、関内の外国人居留地は欧米人には気に入られなかったようである。 何故なら田んぼを埋め立てたため、土地がジメジメとしていて、海からも近いので、水害の危険もあるからである。 そこで中国人が生活をする場所として提供されることになり、横浜中華街が形成されるきっかけとなった。


田んぼを埋め立てたためジメジメとしていて、海からも近いので水害の危険もある新田跡地は、欧米人にはあまり気に入られなかったのだ。 そのため、中国出身者が生活をするためのまとまったスペースが提供されることになり、中華街が形成されるきっかけになったということである。


つまりいまの横浜中華街は、この当時の外国人居留地の中にあったということである。

いまの横浜中華街のあったところが外国人居留地、すなわち山下居留地だったエリアということである。


この関内エリアの地質ジメジメの悪さを嫌って、住宅地としてもっとよりよいエリアへ、外国人は進出していくことになる。住宅地としてより条件の良い堀川の南側の高台が注目された。それがいまの”山手”である。


そう!あの山手のお嬢様の山手エリアである。横浜山手西洋館があるあの山手エリアである。

外国人居留地として、関内から山手のほうにどんどん外国人は移動して触手を伸ばしていく。


これが山手居留地と呼ばれるエリアである。


「山手」という呼称は、先に設置された関内の居留地に対して南の高台上に設けられたことによる。後に、この「山手」に対して関内の居留地は「山下」と呼ばれるようになった。


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1861年(文久元年)、幕府は高台の一部の約6,000坪を各国領事館用地としてイギリス等に貸与し、さらにイギリスは高台の東端に当たる堀川河口南側の区域(現:フランス山)を海軍用地として借入した。1863年(文久3年)、幕府はこのイギリス借入地へのイギリス軍・フランス軍の駐留を承認し、両国軍の駐留は1875年(明治8年)まで継続した。


いまの港の見える丘公園のイギリス館、フランス山である。

あのあたり一帯が山手エリアである。


横浜山手西洋館もこの近くに存在する。


横浜村という寒村に過ぎなかった村に、急遽、外国人居留地を作って関内エリアを拵えた。外国人居留地を作るにあたって、もともとそこに住んでいた日本人は急遽立ち退きにあったのである。90戸くらい。この日本人90戸が移動した先が、いまの元町である。


もともと横浜市民が住んでいた元の町だから、元町である。

そう!あの先日紹介した元町ショッピングストリートである。


元町は、関内の外国人居留地、つまり山下居留地と、もうひとつの外国人居留地である山手居留地と挟まれるような形になるので、この元町の日本人商人たちは、この両方の外国人相手に家具を売ったり、いろいろな商売をするようになる。


それが元町ショッピングストリートのルーツである。

あの異国情緒あふれるストリート、街並みの要因は、外国人相手に商売をしていた、そこにルーツがある。



これがいまの関内エリアのマップである。


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いままでの歴史上の経緯、説明からすると、いまの関内エリアと呼んでいるところ、つまりJR関内駅、横浜市営地下鉄関内駅の周辺のエリアは、昔の日本人居住地のところではないのかな、と思うのだ。


昔の地図と見比べるとだ。


目印は横浜DeNAベイスターズの本拠地である横浜スタジアムだ。ここには横浜公園がある。

この横浜公園、横浜スタジアムがポイントだ。ここを挟んで、横浜中華街のあるほうが、昔の外国人居留地のあったエリアだ。で、その反対が日本人居住地である。


自分が今回のI LOVE YOKOHAMA連載のために散策してきた関内エリア、なんと地味なんだろう、なんと観光として見どころがないのだろう、と思ったのは、日本人居住地のその後の姿の景観を見てそう思っていた、ということになる。(笑)


なんということだろう・・・(笑)


現在の一般的に使われる”関内”は、旧日本人町一帯のことだったのである。


外国人居留地は、横浜中華街側にあったとは!

そこは今回行っていないのだよね~。


よくわかっていなかった。。。


ぜひリベンジしてもう一回関内に行ってきます。

そして”関内の山下居留地”というタイトルで、昔、外国人居留地のあった場所散策してみたいと思います。


自分が散策してきた、その日本人居住地のあった関内エリアの日記はこの後続きます。




当時の関内の街並み。こういう景観の写真があるのも関内は外国文化がいちはやく流れ込んできたので、写真技術が輸入され、こういう当時の街景観を撮影することも可能だったのだ。こういう写真資料が残っているのもそのおかげである。


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I LOVE YOKOHAMA 伊勢佐木町 [街歩き]

横浜には、オシャレでハイソなYOKOHAMAというイメージもあれば、もっと日本的でいわゆる昔から演歌で歌われてきたようなミナトヨコハマ、港ヨコハマ・・・こういう昭和の世界が色濃く残っているイメージもある。


昨日ご紹介した横浜元町ショッピングモールは、まさに西洋風で、異国情緒あふれる横浜開港以来の歴史をずっと辿ってきたようなそんな名残のある街景観であった。


それに対して、もっと和風、居酒屋が似合う、横浜野毛のようなディープな世界。そういう世界も間違いなく横浜なのである。


ミナトヨコハマ、港ヨコハマ・・・


この言葉はもう昭和の演歌の歌詞ではかならず出てくるフレーズなのではないだろうか?

演歌は自分が小学性、中学生のときが大全盛期であった。


その演歌歌手たちが歌うそのこぶしを回した独特の歌い方には、かならず、ミナトヨコハマ、港ヨコハマ、男と女、酒とタバコ・・・こういうフレーズがかならず出てくる。絵になりやすい、というか当時の昭和の時代の恋愛舞台といえば、こういう背景設定が常識路線だったのだ。


ミナトヨコハマ、港ヨコハマ、汽笛、波止場、別れ、ブルース・・・


こんなイメージである。


自分にとって伊勢佐木町といえば、まさにこんなイメージをずっと抱いてきた。


今日はそんな伊勢佐木町を紹介できればと思う。



古き良き横浜を象徴する繁華街として、明治初期から140年以上の伝統を持つ「伊勢佐木町」。

港の風を感じるエキゾチックな雰囲気と、明治・大正以来のレトロな老舗店が建ち並ぶ魅力的な街である。


この街は昔から散歩するだけでも楽しく、大正のはじめには「いせぶら」なる言葉も流行したほど。最近は「みなとみらい21地区」など新たな繁華街に客足を奪われ、元気がなくなった感を否定できないが、楽しさはまだまだ健在である。



横浜市民の間では「ザキ」の愛称で親しまれている伊勢佐木町。


まさにネオン輝く不夜城「ザキ」である。


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古くは青江三奈さんのヒット曲「伊勢佐木町ブルース」、またフォーク・デュオ「ゆず」がデビュー前にストリートライブをしていた街としても有名である。


伊勢佐木町は、JR根岸線・関内駅を降りてすぐ、横浜スタジアムと反対側の場所にある。


繁華街は全長1.4km。

エリア内に1丁目から7丁目まで存在し、関内駅に近い方が1丁目です。


通常1~2丁目の繁華街を「イセザキモール1.2st」、3~7丁目の繁華街を「伊勢佐木町商店街」と呼んでいるそうだ。


「イセザキモール」は最も伊勢佐木町らしい雰囲気の繁華街。

通常は伊勢佐木町といえば、こちらを指すことが多い。


明治・大正以来の老舗店舗とチェーン店など、新しい店舗が雑多に混在している空間でもある。駅からも近い立地のため、常に多くの人で賑わっている。


3丁目より先に進むに従い、人通りはまばらになって下町風の商店街へと変貌していくが、この界隈も伊勢佐木町のディープな魅力が感じられるスポットが多彩に存在する。


●伊勢佐木町の名前の由来と歴史

 

伊勢佐木町という漢字の表記、考えてみれば不思議ですよね。ふつうキーボードで”いせさきちょう”と文字変換すると、”伊勢崎町”になりますよね。「伊勢崎町」のほうがしっくりしているような気がしますが、実はこの名前は伊勢佐木町の成立に関わった人物名に由来しているのです。


伊勢佐木町は明治維新以降の区画整理により、明治7年(1874年)に成立しました。


この際、多額の道路改修費用を寄付するなど大きく貢献をしたのが下記3名の商人です。


伊勢 屋中村次郎衛

佐川儀右衛門

佐々木 新五郎

 

この3名から「伊勢・佐・木」を取って命名されたといわれています。他にも諸説ありますが、やはり当地の開発に功績があった人々の名前に由来しているようです。



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伊勢佐木町周辺は、かつて「吉田新田」と呼ばれていました。江戸時代初期、材木商だった吉田勘兵衛によって埋立・開拓されたことにちなみます。


 

安政6年(1859年)の横浜開港に伴い、吉田新田に橋が架けられ、外国人居留地となったエリアに日本人が立入しないよう関所が設けられました。これが「吉田橋」のはじまりで、この橋から海側・馬車道方面を「関内」、伊勢佐木町が位置する内陸側を「関外」と呼んだそうです。


関内駅の名称は、その時の名残です。

吉田橋は明治2年(1869年)に日本初の鉄橋として改築され、現在は5代目。

伊勢佐木町の入口に佇み、商店街を見守り続けています。



明治7年(1874年)、旧関外に成立した伊勢佐木町は、横浜港の発展とともに飛躍的な急成長を遂げました。


港にも近く横浜の中心部に位置することもあって、映画館や演劇場などの娯楽施設、百貨店などが続々進出し、大正時代初期には国内屈指の大繁華街になったのです。


伊勢佐木町でハイカラな散歩を楽しむ「いせぶら」という言葉もこの頃に流行しました。


松坂屋(野澤屋)や松屋など百貨店や、オデヲン座など映画館・娯楽施設も充実し、昭和の頃までは横浜を代表する繁華街として君臨していました。昭和43年(1968年)に青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットし、全国的にその名を知られるまでになったのです。


しかしながら、横浜駅周辺、及びみなとみらい21地区の開発により、昭和後期頃からその地位は急降下。松坂屋もマルイも、オデヲン座もなくなり、わずかに残った老舗店と新規参入した店舗が共存しながら、商店街を維持し続けています。




明治大正時代には、東の浅草、西の千日前と並ぶ三大繁華街だった横浜の伊勢佐木町。関内駅から1.4㎞のところにあるイセザキモール、伊勢佐木商店街。古い文化とハイカラが調和した街。最近ではフォークデュオゆずの聖地として有名である。



伊勢佐木町の名前が制定されたのは、明治7年 埋め立ての道路整備に多額の寄付をした伊勢屋の”伊勢”佐川儀衛門の”佐”佐々木新五郎の”木”と3つの屋号から来ている。



この地は古くは吉田新田の埋め立て地で、のどかな耕作地が広がる土地であったが、横浜開港場の交通の要所 吉田橋のふもとにあり、多くの商店、店舗がひしめき合い、さらに明治に入ると遊郭や見世物小屋 劇場ができ、大歓楽街となる。


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当時の遊郭周辺には遊興施設として見世物小屋などが多く設置されていたそうである。明治後期の伊勢佐木町2丁目あたりであるが、マル竹の印があるのが、寄席の新富亭である。こちらは喜楽座である。



一流の役者を揃えた歌舞伎が演じられていたという。横浜の劇場、映画館の歴史の始まりを告げる芝居小屋、羽衣座である。こうして明治中期までに伊勢佐木町周辺は歌舞伎を中心に新演劇や翻訳劇なども上演する劇場街を形成していくことになる。



大正期に入り、朝日座と名前を変えた賑座。伊勢佐木3丁目付近は賑町と呼ばれていた。当初は芝居小屋であったが、大正から昭和初期にかけて映画上映が中心になって行った、という。


伊勢佐木町の芝居小屋 明治10年代.jpg


さらに開港場の近くで人々が多く集まり、伊勢佐木の通りは芝居小屋に訪れる人で賑わっていた。これら芝居小屋の多くが映画館へその後姿を変え、伊勢佐木が横浜の中心的な映画館となって行く。



そんな演劇の街も関東大震災で芝居小屋が全滅。


時代は演劇から映画へ。


呉服店は百貨店へと移り変わっていく。


横浜を代表する野澤屋、後の横浜松坂屋本店であり、デビュー前のゆずが営業終了後にお店の前でストリートライブを行っていたところである。


ゆず誕生の聖地としてファンの間では有名だそうである。

そんな松坂屋も平成20年に閉店する。


さらに遡ると、あの矢沢永吉も無名時代、ここ伊勢佐木で歌っていたそうである。


その場所が今はなくなったディスコ・ピーナッツ。


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令和2年に閉店した、てんやの右の階段を上がったところにあったそうである。広島から出てきて、川崎、横須賀、本牧などで活動後、いまや伝説のロックバンド キャロルを結成する。


その初舞台が昭和47年ここ伊勢佐木町ピーナッツだったそうである。


ピーナッツでは午前、午後、夜の3ステージでグループの人気順で演奏されていたそうである。時に誰も観客がいない午前の空っぽのステージで汗と唾を飛ばしながらガンガン歌っていた矢沢永吉であった。


ちなみにこの頃にビートルズ初期の革ジャン、リーゼントをコピーし、ビートルズを歌ったことで火がつき、この伊勢佐木の地から快進撃が始まり、まさに成り上がっていたんですね。


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戦後、伊勢佐木は、まさに米兵の街となります。開港場として発展した明治、大正、そして戦後駐留された昭和、常に日本で一番世界に近かったところでもあり、いち早く海外の文化が根付いた場所でもあったのです。



米兵の街となり娼婦に酒、音楽とドラッグ


そんなギラギラと混とんとした街 伊勢佐木


そんな中で自然発生的に生まれたのがジャズ文化でした。


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じつは大正期にジャズの萌芽はすでに伊勢佐木に生まれていました。大正14年には、先に紹介した喜楽座で、ジャズが演奏されていた、との記録が残っています。そして戦後、若葉町の米軍飛行場からもつねに最先端のジャズが流れていたといいます。


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また当時 横浜には数十軒のナイトクラブやキャバレーがあり、本業はミュージシャンである米兵が演奏していたそうである。


この頃はジャズはチャーリー・パーカーや、ディジー・ガレスピーに代表されるビバップという自由な即興演奏が中心であった。日本のバンドマンも仕事を求めて横浜に集まり、後に一流の日本人ジャズマンが育っていったそうである。


そのビバッブジャズの頂点にいた日本人が伝説的なピアニスト守安祥太郎。チャーリーパーカーと同年代で日本では広まったばかりの頃にビバッブジャズをすでに演奏していたという。


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そして伝説的なジャムセッションが昭和29年、伊勢佐木町の飛行場跡にあったナイトクラブ モカンボで行われた。


このセッションには秋吉敏子、宮沢昭、渡辺明、海老原啓一郎など戦後のジャズを作り上げた人たちが参加しました。


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さらに後のクレージーキャッツのハナ肇や植木等も加わり、後の日本の名プレーヤー渡辺貞夫に大きな衝撃を与えたといいます。



そう考えて見ると、戦後昭和の音楽シーンの重要な部分がこの伊勢佐木町から広まっていったと見ることもできるし、この線上に ゆずも位置していたと考えることもできます。


米国文化が流入するポイントとして、伊勢佐木は不思議なエネルギーに満ちていました。


いまはなき根岸屋。飛行場跡地にでき、看板に英語でINTERNATIONAL RESTAURANTとあるように熱いエネルギーが渦巻いていた紛れもない昭和の伊勢佐木を代表するお店。


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米兵に外国船員に、彼らを相手に商売する女たち、それに薬の売人にヤクザと、あらゆる人間が集まっていたそうである。24時間営業で生バンドの演奏に踊り狂うダンス。


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外国船員は横浜に到着するや否や直接根岸屋に向かい、米兵目当ての娼婦、血気盛んな若者に 文化人などあらゆる人種と職業の人々が集まるカオスな酒場だったそうである。


昭和のシンボル的な存在、根岸屋。昭和55年に閉店。いまは駐車場になっているそうである。



伝説の店 根岸屋


まさに伊勢佐木町を語るうえで避けて通れないお店。横浜を語るうえで、この根岸屋を題材、舞台としてたくさんの映画にもなっているくらい有名である。


戦後間もなく誕生し、隆盛を誇った根岸家も、1980(昭和55)年に火事で消失。現在、東神奈川にその血脈を受け継ぐ「大衆酒場 根岸家」がある。


戦後の横浜を象徴する飲食店が根岸家(ねぎしや)である。

かつて伊勢佐木町にあったこの店は、すでに横浜の伝説として語り継がれており、当時を知る多くの人々の回顧談に登場する。


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黒澤明監督の映画「天国と地獄」にも根岸家らしき店が登場する。山﨑努演じる犯人の青年が麻薬取引を行う酒場が根岸家(実際はセットで撮影された)を想定したものであることは、「黒澤映画『天国と地獄』のロケ地はどうなってる?」の中でも説明されている。


根岸家はどこにあったのか。場所は現在の中区若葉町である。イセザキモールに入り、ピアゴを過ぎて右に曲がったところにある広い駐車場が、かつてNEGISHIYAと書かれた建物のあった敷地である。いまは、根岸家は影も形もない。


1980(昭和55)年11月20日に発生した火事で、根岸家はその歴史を閉じた。


根岸家が誕生したのは終戦直後だった。戦後の焼け跡の目立つ中、坂元明・スミ夫妻が開店した。坂元明氏はタクシー運転手あがりで、スミ夫人は絵に描いたような女傑だったと言われている。


和食も洋食も何でも食べられ、アルコールもビールや日本酒、ウイスキー、カクテルなどあらゆるものがそろっていた。当時はまだ多くはなかった24時間営業で年中無休、値段も庶民的だったため、多くの人が押し寄せ、隆盛を誇ったとされている。そんな根岸家だが、やはり時間とともに当時の思い出を語れる人が少なくなっている。



戦後の横浜は混沌としていた



「バンドがあったのはこの辺、この辺はずっとテーブルで、よく娼婦の女の子が座っていました」


そう回顧してどこに何があったかを教えてくれたのが、松葉好市(まつばこういち)氏。松葉氏は「聞き書き 横濱物語」(聞き書き/小田豊二)の中で、根岸家が盛んだったころの横浜の様子を語っている。


ありとあらゆる人間が集まり、バンド音楽が流れ、煙草の煙が漂い、女性の嬌声が飛び交うこの店には、形を持たないエネルギーが渦を巻いていた。学校の教科書には決して載らない横浜の歴史の一幕として、根岸家は独自の存在感を放っている。



「当時の横浜は野毛と弘明寺が栄えていたんです。とくに野毛に行けば着るものも食べるものも何でもある。それに海岸の仕事もあるから、地方から人が集まりました。学生も多く、焼き鳥店や雀荘もありました」


もちろん伊勢佐木町にもくわしい。

「今は伊勢佐木町は1丁目から7丁目までありますが、昔の人は1丁目あたりを伊勢佐木町と言い、4丁目のこの辺は人が多いから賑町(にぎわいちょう)と言いました」


根岸家のことは、強烈に記憶に残っている。


根岸家の様子


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「根岸家は1階が食堂形式で、2階がお座敷でした。1階にはテーブルとカウンターがありました。100人以上入れる空間で、当時はいつ行っても50人ほどの客がいたのではないでしょうか」


根岸家の細部を語る松葉さん。輝かしい青春時代だったのだろう。

「焼き鳥からラーメンから、根岸家には何でもありました。バンドが入って、演奏していました。お客はGI(アメリカ兵)から日本人、ヤクザ、愚連隊などありとあらゆる人がいました」


ほかのキャバレーから流れ込んでくる男性、反対に根岸家から別のキャバレーに流れる男性など、人の流れは絶え間なかったようだ。


「言語障がいの女の子なんかが外人のお客をとろうとそのへんのテーブルに座っているんですよ。その子たちがいい子たちでしてね・・・」


そうした中でケンカも頻発し、松葉氏もアメリカ兵と一戦交えたりした。

「どうしてケンカなんかするのかって? それはですね、当時はアメリカ兵が娼婦の女の子をいじめたりしたんです。それを見たら日本男児たるもの、放っておくわけにはいきません」


娼婦たちも中に入り、お客を取り合っていた。娼婦と言えば、メリーさんもその中にいたのだろうか?

「いや、あの人は中には入りませんでしたね。外にいました。プライドの高い人で、宝石店の前に立っていたりしました。あの人はたしか岡山から流れてきて、大阪、横須賀、そして横浜に来たんです」



横浜が輝いていた時代



松葉氏の話にはよく愚連隊が登場する。愚連隊とはヤクザではなく、松葉氏によれば「不良の兄貴分」である。


「文字を見ても“愚か者が連なる”でしょ(笑)」

こうした若者が、当時の横浜を闊歩(かっぽ)していたのである。


松葉氏によれば、当時の横浜は序列がしっかり決まっていた。ヤクザ・テキ屋・愚連隊・町の不良。この順番で力があった。

「当時はいじめなんてありませんでした。ケンカをしても、決して命までとるようなことはせず、加減をしていました。今は相手が死ぬまでやってしまいますね」


根岸家が盛んだったのは1964(昭和39)年までだったと松葉氏はいう。ちょうど東京オリンピックの年、日本があらゆる面で飛躍を遂げつつあった時代である。

「横浜がよかったのは終戦直後から1964(昭和39)年までですよ。そのころは伊勢佐木町にも勢いがありました」


ナイトクラブ、キャバレー、カクテルバー、夜の舞台の名前がつぎつぎと出てくる。あの頃はいい時代でした。人が輝いていました、と懐かしむ。


「根岸家はね、日本の田舎の人たちは知らなくても、外国の人たちは知っていましたよ。日本に来たら必ず寄る店だったりしますから」


“不夜城”根岸家も時代には勝てず、1980(昭和55)年に経営不振により閉店。同年11月20日、火事により消失した。一つの時代の終焉であった。


しかし、根岸家は思いがけない血脈を残していた。


JR東神奈川駅から徒歩2分ほどの場所に「大衆酒場 根岸家」と大きく記された店がある。


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こちらのご主人である新井正二さんは、伊勢佐木町の根岸家の経営者、坂元スミさんの縁者にあたる方。つまりここは伊勢佐木町の根岸家の血を引くお店なのである。


「戦後間もないころから、この店はあります」とご主人。

ということは、当時二つの“根岸家”が横浜にあったことになるが・・・


「『根岸家』という店は二軒だけではなく、戦前から戦後にかけていくつもあったんです」


リヨさんの話によると、伊勢佐木町の根岸家はスミさん(10年ほど前に死去)が中心となって開店され、運営されたものらしい。スミさんに関してリヨさんは、「取り巻きが一杯いました。つきあいがうまく、派手で、絶対に人を悪いようにはしませんでした」と回想する。如才ない人物像が伝わってくる。一方で縁者には無料で料理を振る舞ったり、派手な催しを行ったりと、豪放な人柄でもあったらしい。


そもそも根岸家の発祥は、と伺うとスミさんのさらに親の代からの話になり、現在では不明確な部分もあるが、スミさんの縁者が戦前から横浜で飲食店を経営しており、戦後になってスミさんが中心となって伊勢佐木町に「根岸屋」を出店したということらしかった。スミさんの縁者の関係する「根岸屋」は当時、複数あったという。


ちなみに「根岸家」という名前は、ある重要な縁者が横浜市根岸の生まれだったからではないかということである。


多くの人に語り伝えられている根岸家。戦後の横浜を彩った不夜城であった。


根岸家は、戦後の横浜を語る上で欠かせない店である。あらゆる人間が集まり、熱いエネルギーが渦巻いた舞台である。根岸家に行けばいろいろな人間に出逢える、話ができる。それが人々には魅力だったようだ。現在の横浜に、こういうコミュニケーションの結節点になるようなお店があるだろうか。


情報引用元:


火事で焼失した伊勢佐木町の「根岸家」。その歴史とその後は?(はまれぽ.com)



これはぜひいまの末裔の東神奈川にある根岸屋に行ってみたいものである。(笑)


「根岸屋」だけで、ひとつのテーマ、日記で語れるのではないか。24時間営業で生バンドの演奏に踊り狂うダンス。アメリカ兵、日本人、ヤクザ、愚連隊、娼婦、いろんな人種がこの根岸屋に集まり、この根岸屋に行けばいろいろな人に出会える、いろいろな話ができる。ありとあらゆる人間が集まり、バンド音楽が流れ、煙草の煙が漂い、女性の嬌声が飛び交う。そして焼き鳥、ラーメンなんでも置いてある。そして酒、タバコ、ドラッグ・・・ここで未知との出会いを求め、熱く語り、熱いエネルギーが渦巻いていた舞台。形を持たないエネルギーが渦を巻いていた。



学校の教科書には決して載らない横浜の歴史。


それが根岸屋なのである。


これはなんとなくよくイメージできる。戦後の時代だからこそ、存在できたお店だし、あり得た光景である。いまの時代に復刻したとしても、風営法などで引っかかるだろうし、いまの時代にはもうそぐわないように思う。


でもすごい魅力的である。


自分は、この根岸屋には、かなり興味を持ってきました。

根岸屋を題材にした映画はたくさんあるみたいなので、それらを拝見して、一度、日記で熱く語ってみたいと思っている。



伊勢佐木町は映画全盛期の昭和30年代には、40館ほどの映画館があり、日本で一番映画館が多い街と言われてきました。そんな映画街も昭和30年をピークに映画館は減り続け、オデオン座もいまではドン・キホーテとなっています。


街並みを変わり 昔の風景もどんどん少なくなっていきます。しかし戦争という時代 狂気とカオス、そして人間の本性がむき出しになっていたような昭和の横浜 伊勢佐木が確かにありました。


横浜のここ伊勢佐木町は、まさにそんな音楽の歴史に根付いた、矢沢永吉、ゆずの聖地、そしてジャズ発祥の地として名を馳せた伝説の街だったのです。


音楽に一生を捧げてきた自分にとっては、ぜひ訪れないといけない聖地でもありました。


では、そんな伊勢佐木町を散策してきました。


2023年10月1日。いまから4か月前のことです。(笑)遅レポすみません。。。


イセザキモール1.2stと伊勢佐木商店街。全長1.4km。結構な距離、長さです。


伊勢佐木町のメインストリート・「イセザキモール1.2st」までは、JR関内駅(北口)、横浜市営地下鉄・関内駅より徒歩1分の距離。自分は横浜市営地下鉄の関内駅を使ったので、ここからだと駅からマリナード地下街につながっていて、そこを歩いていくと、そのままイセザキモールに出るようになっています。


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このマリナード地下街には、ストリートピアノが置いてあります。


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伊勢佐木町1~2丁目、通称「イセザキモール」。


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イセザキモールのシンボル・正面に設置された巨大なウィルカムゲート。

これは昔から何回も造り替えられていて、これは何代目になるのかな?

イセザキモールといえば、このウエルカムゲートというくらい顔ですね。


ウィルカムゲートを抜けると、街路樹が並ぶ開放的な空間が広がります。最近では雑貨などのチェーン店やファーストフード店の進出が目立ち、都会の繁華街らしい様相を呈してきていますが、それでもどこか懐かしい雰囲気が魅力的な通り。


新しい店舗が増えつつも、昔からのかなり建物が残っており、140年の歴史を持つ街並みを感じられることなのかもしれません。


イセザキモールは24時間全面歩行者天国となっており、のんびりと散策を楽しめるのが嬉しいです。


とにかく立ち並ぶお店が和風、日本風。居酒屋、大衆酒場や焼き鳥屋さん、和食、中華料理、韓国料理、こういう庶民的なテイストのお店で占められている。昭和の古きよき時代の香りがぷんぷんするそんな風情である。まさにこれこそが伊勢佐木町である。


ストリートは、ほんとうに和風で庶民的なお店が立ち並ぶのだが、街路樹がきちんと整備されていて、道の幅もじゅうぶんに広いので、なんかこう解放感がある。


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横浜三大牛鍋のじゃのめやもありました。牛鍋は横浜が発祥。牛鍋とすき焼きは似ていますが違います。すき焼きは焼いてから煮るのに対し、牛鍋は最初から煮るものです。横浜三大牛鍋というと、以前日記で紹介した荒井屋、太田なわのれん、そしてじゃのめやがあります。そのじゃのめやは、伊勢佐木町のイセザキモールの中にあったんですね。お昼時なのにシャッターが降りていました。スマホのネットで調べたら、営業中になっているのに、なぜか閉まっていました。謎です。今度日を改めて伺いたいと思います。


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イセザキモールには街路樹のほかにいろいろなオブジェが設置されている。


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こんなユニークなものまで設置されています。


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電話ボックスと思いきや、実は「からくり時計」


ラッパを吹く人や鍛治職人など、街で働く人たちをモチーフにしており、西洋メルヘンたっぷりの時計です。「town people」と呼ばれる作品で、1978年(昭和53年)に作られたそうです。かつては30分ごとに明るい音色を響かせていましたが、残念なことに今では音を鳴らしていないそうです。



ここがニューオデオンビル。隣にドン・キホーテが見える。


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このまます~っと通り過ぎてしまいそうだが、それじゃいつまでたっても”ザキ”マニア、伊勢佐木マニアとは言えないだろう。(笑)



オデオンビルの歴史は、映画館「オデヲン座」から始まった!


現在、オデオンビルのある場所には、その名前の元にもなった映画館「オデヲン座」があった。


オデヲン座が開館したのは1911(明治44)年。日本初の洋画封切館で、「封切」という言葉の発祥地になったとも言われる。世界では映画製作が本格化したものの、国内の常設映画館がまだ100館に満たないと言われたころのことだ。



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大正初期の伊勢佐木町。芝居小屋や映画館が集中し、横浜市内最大の娯楽街に発展



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上の写真と同時期、手彩色絵はがきによるもの。国内で1、2を争うにぎわいだった



1923(大正12)年9月、関東大震災によって、劇場や映画館はことごとく壊滅したが、復興は早くオデヲン座は、翌1924(大正13)年1月には再開した。1934(昭和9)年の調査によれば、横浜市内には26の映画館があり、中区が一番多く13館だった。特に伊勢佐木町には多くの映画館があった。



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1935(昭和10)年ごろのオデオン座(資料提供:横浜市史資料室)



中でも、1936(昭和11)年に改装したオデヲン座は、館内に絨毯を敷きつめ、ロビーにシャンデリアを飾り、「白亜の殿堂」の威容を誇り、全国から洋画ファンが押しかけるメッカとなったといい、有数の情報の発信地としての役割を果たした。



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1941(昭和16)年、「白亜の殿堂」と言われたころのオデヲン座



太平洋戦争が始まると、敵性語追放(敵対国や交戦国の言語〈英語などの外来語〉を排除しようとする動き)が促された。オデヲン座は真っ先に槍玉にあげられ、1942(昭和17)年には、「横浜東亜劇場」に改称させられた。さらに戦後は米軍に接収され、「オクタゴンシアター」と名称を変え、米軍専用の劇場となり、運営されるようになった。



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オクタゴンシアター時代



1955(昭和30)年に接収が解除され、「横浜松竹映画劇場」として営業が再開され、1973(昭和48)年まで営業された。閉館後、その跡地に建てられたのがオデオンビルだ。



1975(昭和50)年、オデオンビルが建設された。オデヲン座時代は、映画館機能だけだったが、商業が急速に伸びていく時代の中にあって、そこにショッピング機能を持たせようとしたもので、多くのショップや飲食店が入った施設だった。


ちなみに、ビルの名称だが、当初は「オデヲン」だったようで、1980年代の商店街の発行物では、「ファッションプラザ・オデヲン」といった記載になっているとのこと。その後オーナーが代わって、「ヲ」の字は使われなくなり、「オデオン」となった。さらに2000(平成12)年ごろ、再度オーナーが代わり、屋上看板も白からオレンジ色にリニューアルし「NEW ODEON(ニューオデオン)」となり、壁面ロゴにも「NEW」の文字が付け加わった。



映画文化の変化や平成になってシネマコンプレックスの数が増加したことにより、ニーズが変化し、単館系の大きな映画館は減少。伊勢佐木町にあった映画館も次々に閉館し、マンションやパチンコ店に変ってしまい、横浜オデオン座も、2000(平成12)年には閉館した。



オデオンについては、ドン・キホーテの出店が、正式に決まり、地下1階、地上1~3階を売り場として、7階を倉庫として利用している。



情報引用元:


100年以上伊勢佐木町のシンボルだったビル「オデオン」が、「ドン・キホーテ」に変わったってホント!?(はまれぽ.com)




オデオン座は初の洋画封切館で、まさに流行の発信地として100年以上イセザキのランドマークであり、オデオンビルになっても、その役割を残そうとしてきた。


伊勢佐木町は、やはり昔から芝居小屋が盛んな町だったんですよ。その系譜を受けて、映画ビジネスも盛んだった。たくさんの映画館が建てられた。ところが映画館の衰退とともに、そういう伊勢佐木町の長い歴史、特徴が色褪せてきた、ということなんですね。


日本一の芝居小屋の町、日本一たくさんの映画館がある町。それが伊勢佐木町なんです。

伊勢佐木町を語るうえでは、ここは外せなかったので、詳しく解説してみました。



・・・そして・・・


出た~~~青江三奈の伊勢佐木町ブルース!


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青江三奈さんって知ってますか?(笑)


もう自分の子供時代のリアルタイムでした。


昭和43年(1968年)に発売された名曲「伊勢佐木町ブルース」は、ブルースの女王 故・青江三奈さんの歌唱力や、その独特なフレーズ、そしてあの「ため息」により大ヒット。


日本レコード大賞(歌唱賞)等多くの賞を獲得し、紅白歌合戦等で歌われるなど、戦後復興で立ち遅れた伊勢佐木町の名を再び全国区に押し上げました。


2000年にご逝去された青江三奈さんを偲び、伊勢佐木町4丁目の一角に、地域の方々の大きなお力沿いも頂きつつ「伊勢佐木町ブルース歌碑」を2001年に建立。



「伊勢佐木町ブルース」歌碑は、4丁目商店街の一番奥の路上に設置されています。当時のレコードジャケットを模したレトロな看板の前にある、グランドピアノの形をした碑です。平成13年(2001年)、青江三奈さんの一周忌に合わせて設置されました。


歌唱する青江さんの姿と音譜が描かれており、基台の赤いスイッチを押すと、「伊勢佐木町ブルース」が1分間流れる仕組みになっています。


それがこれです。


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歌碑正面のボタンを押すと「伊勢佐木町ブルース」の1節が、街中に響き渡ります。また、「青江三奈看板」は、映画看板風に手書きにより制作されており、数年に一度デザインを書き換えているそうです。


この歌碑を建立するにあたって、ご寄付や協力いただいた方々の名前を刻んであります。


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まさに伊勢佐木町という街を一躍全国区にしたのは、青江三奈さんのおかげと言っていいのではないでしょうか?これで、日本全国のみなさんは、伊勢佐木町という町の存在を知るようになりました。



伊勢佐木町の名前を全国に知らしめた名曲が「伊勢佐木町ブルース」。

昭和43年(1968年)に青江三奈さんが歌い、「第10回日本レコード大賞」歌唱賞、「第1回全日本有線放送大賞」優秀スター賞を獲得しました。


曲の冒頭にあるセクシーな吐息が有名ですが、これが子供には不健全だと指摘されたことも。


大ヒットした影響で、横浜市営地下鉄「長者町」の駅名を「伊勢佐木町駅」に変更しようという運動にまで発展しました。結局駅名は「伊勢佐木長者町」に変更となり、現在に至っています。


50年以上前の曲なので、若い世代の人は聞いたことがないかもしれんませんね。

自分は、さっそくSpotifyのお気に入りに入れてあります。



「伊勢佐木町ブルース」歌碑の真後ろにある、テント型のスタイリッシュな建物。

こちらが「CROSS STREET」です。


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何の目的で使用されるのか不思議に感じるかもしれませんが、実は音楽を中心としたイベントを開催する多目的スペース。ドラムスセットやキーボード、各種音響機器を備えた「ライブハウス」のようなものです。


「CROSS STREET」の名付け親は、なんと「ゆず」!

伊勢佐木町での路上ライブからスタートした「ゆず」が、新世代のミュージシャンのために命名したそうです。


このライブハウスを通じて、様々な文化・音楽・人を交差(クロス)して、世界に羽ばたいてほしいという願いが込められています。


青江三奈さんや「ゆず」など、音楽にゆかりが深い伊勢佐木町。

この「CROSS STREET」からのニューフェイスを期待したいところです。


そして、私が行ったときは、なんと!このCROSS STREETでは、青江三奈さんの遺品展がおこなわれていました。


なんというタイミングのよさ!

もう自分は大感動です。


入場無料です。


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もう中は青江三奈さんのドレス、写真、トロフィー、レコード、賞状などの遺品がここに寄付されていて、まさに青江三奈ワールド満載でした。ドレスを見ると、本当にすごい小人みたいに細いというか、すごい小さい人だったのかな、とも思いました。


女性のドレスというのは着ると伸びるんですかね?それくらい信じられないくらい細い人だったんだなと思いました。


レーベルは、わが社ビクター(Victor)だったんですね。とても誉れに感じます。


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コーナーの端には、青江三奈さんのご活躍なされていた昭和の歌謡曲番組などで歌っているシーンなどを集めた編集ムービーをじっくり鑑賞しました。エンドレス再生です。


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青江三奈さん、まさに自分の子供時代のリアルタイムの演歌歌手でございました。よくテレビの歌謡ショーで歌っておられるのを子供だった自分は拝見していたものです。日常の光景でした。



青江三奈さんは、特徴的なハスキーな低い声で歌うブルース演歌が自分の看板の演歌歌手でした。青江三奈さんと同じくハスキーボイスでビクターレコードから同期デビューの男性演歌歌手・森進一さんと並んで“ため息路線”と呼ばれていました。(笑)


伊勢佐木町ブルース、懐かしすぎるよ~。(笑)


先日お亡くなりになった八代亜紀さんとのデュエットもあり、自分は懐かしいな~と思いながら観ていました。



やはり圧倒的に、「伊勢佐木町ブルース」。


やっぱりこの曲名曲だ~。



伊勢佐木町を全国区にしたのは、ほんとうに青江三奈さんのおかげと言ってもいいのです。それだけ伊勢佐木町の人たちは青江三奈さんの恩を感じているのです。誇りなのです。それでこの歌碑だとか、遺品展とか有志の方たちによって建立されたんですね。



演歌歌手はみんなほんとうに歌が上手い!


自分の子供時代は演歌全盛の時代。


歌がうまくないと、歌唱力がないと生き残れない時代でした。本物の実力の時代だったかも?レコード大賞、歌謡大賞とあって、レコード大賞がやっぱり本命。大晦日だったっけ?賞レースは、その年の年初から、今年はこの演歌歌手ってターゲットが決まっていて、かならずその年を代表する大ヒットがあって、その歌手の代表曲になる。


今年はこの歌手に取らせてあげよう、それこそレコード会社の舞台裏の大変なご苦労は、かいま聞くことはありますが。それが年を重ねるごとに、今年はこの歌手というように、順番が決まっているようにその当時の子供だった自分には思えました。



演歌が全盛の時代だった。演歌は日本人の心の故郷という感じだった。


日本レコード大賞=演歌、の時代だった。



演歌ってやっぱりヒット曲の音型がビシッと決まっている典型的な音楽だと思います。ラフマニノフ ピアノ協奏曲第4番のときにも書いたが、ヒット曲は、人の心を惹きつける、かならずそういう音楽の型が決まっている、演歌はこのルールに一番沿っていると思う。



作詞、作曲、歌手と分業体制。


特に作曲家の先生のメロディメーカーとしての才能は凄いと思います。



青江三奈さんは自分の子供時代、テレビの歌謡番組で、よく伊勢佐木町ブルースを歌っているのをよく覚えています。はっきり覚えている。



伊勢佐木町ブルースは大人の女性の色気満載の曲で、子供には難しい曲だと思っていました。(笑)青江三奈さんはハスキーな声でセクシーだった。大人の色気だった。たくさんのご当地ブルースを歌っていました。


青江三奈さんといえば、いろいろなご当地ブルース、いろいろなご当地の冠をつけたブルースが十八番の歌手でした。伊勢佐木町ブルースをはじめ、長崎ブルース、札幌ブルース、新宿サタデー・ナイト・・・とかとか。



伊勢佐木町ブルースは、いま聴くとほんとうにいい曲。名曲。メロディがすごい頭に残る。ワーグナーのモチーフみたいに、ずっと頭の中でループで鳴っている。やはり、これこそ、名曲中の名曲なんですね。Spotifyにさっそくお気に入りに入れておきました。


伊勢佐木町


芝居小屋、映画館で発展した町。ジャズ発祥の町、矢沢永吉、ゆずを生んだ町、根岸屋。

そして青江三奈さん。


こういうカラーの町です。


まさに音楽人生を突っ走ってきた自分にとって音楽の聖地のような町でどうしても訪ねないといけない町でした。


最後は結局、青江三奈さんに全部持っていかれた、という感じです。(笑)


こういうカラーも横浜という大都会は包括してしまうんですね。

ヨコハマはいろんな顔を持つ都市だとつくづく思います。
















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I LOVE YOKOHAMA 横浜元町ショッピングストリート [街歩き]

横浜元町ショッピングストリートは、横浜開港当時、外国人御用達の店が集まって発達した商店街である。


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西洋風のお洒落で洗練された雰囲気が漂う全長600mの元町ショッピングストリートは、ブティック、小売店、カフェやレストランなど、日本中からの来訪者を魅了する店が並んでいる。国内最大の中華街からすぐ近くのこの地区は1970年代から80年代の流行「ハマトラ」の発祥地で国際的な雰囲気をたたえた街として有名である。


ミハマ、キタムラ、フクゾーがその流行を代表する三大ブランドで、今日も高い人気を誇っている。


横浜が開港した150年以上前に元町の歴史は遡る。1860年1月、当時の横浜村の住民90戸が、隣接する本村に強制移転させられ、後に本村が横浜元町に地名変更したのが元町の始まり。元々は静かな農漁業の町であったが、元町を望む山手の高台が外国人居留地となって変わっていった。


裏通りはお洒落なカフェや個性豊かな雑貨店、評判のレストランなどが点在しており、散策にもおすすめである。


2月と9月に開催される「チャーミングセール」には全国から多くの人が集まる。


横浜元町というのは、自分は横浜にずっと住んでいたにも関わらず縁がなかったですね~。このI LOVE YOKOHAMAプロジェクトで初めて行きました。とにかく洗練されたオシャレな雰囲気でもう圧倒されました。




横浜元町ショッピングストリートというのはメインの通りが元町通り、これがいわゆる元町商店街、元町ショッピングストリートと呼んでいるメインストリート。そしてその裏道に元町仲通りという裏道的な細いストリートがあるんですよね。この裏道がじつは、またすごい個性的で、いわゆるちょっと小振りな個人経営的な飲食店がいっぱいひしめいていて、これがまた雰囲気あるんだ。すごい細い裏道なんだけど、職人気質溢れるこだわりのオシャレな食べ物屋さんがこうなんか通りの両側に埋め込まれているようなそんな風景である。


確かに主役はメインストリートの元町ショッピングストリートなんだけど、この裏道、元町仲通りは裏道であることに誇りを持っているというか、そういうオーラが漂っているんですよね。自分はこの裏道の元町仲通りにやられました。




幕末、来日した外国人たちが暮らした山手居留地。異国情緒漂うこの居留地に隣接し、ともに街を形づくってきたのが元町です。ここで“表通り”と呼ばれるのは1970年代に“ハマトラファッション”で一斉を風靡した「元町通り(元町ショッピングストリート)」。


対して、“裏通り”であることに誇りをもち続けてきたのが「元町仲通り」を中心とする「元町クラフトマンシップ・ストリート」なのです。


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元町通りと元町仲通りには「外国人向けに家具や衣類を販売する元町通り」と「元町通りで販売する商品を製造する元町仲通り」という個性の違いが当初から存在していました。元町仲通りは職人たちが働き暮らす、まさに“クラフトマンシップ”溢れる通りだったのです。


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元町仲通りは、クラフト系のショップや飲食店など“職人”の営む店舗がさらに増えていきました。自分がちょっとかなり個性的な職人気質のオーラを感じたのは、やはりこの職人たちが働き暮らす、そういう”クラフトマンシップ”溢れる雰囲気をリアルに感じたからなんでしょうね。


新規出店される方は“クラフトマンシップストリート”という名前や、街並みの美しさに惹かれて来る方がほとんど。だから意識が高いんですよ。地元の不動産屋さんも、新規出店者に商店会に所属しなければならないことや、規定を遵守しなければならないことを最初にきっちり伝えてくださっています。


・・・ここなんでしょうね。元町仲通りがなにか一気通貫のような統一されたコンセプトでストリート造りをしているように思えて、そしてそこを歩いているだけでもそういうセンスがビシバシ感じるのですが、最初から意識している、出店するときから、こういうルール造りを徹底しているというのが真相だったんですね。納得です。



「元町クラフトマンシップ・ストリート」の特徴のひとつに、良質な飲食店が軒を連ねるというのがあります。とにかく、素晴らしい職人気質の小柄でオシャレなお店がいっぱいこの細い通りには並んでいます。ストリートを挟んで、両側に埋め込まれるように潜んでいる・・・そんな感じなのです。


すごくファッショナブルな飲食店で、このストリートの景観は、自分は自由が丘を思い出しました。なんかセンス、オシャレな雰囲気度がすごく自由が丘に似ています。


自分は、メインストリートの元町ショッピングストリートもいいと思ったけど、じつはこの裏道の元町裏通り、「元町クラフトマンシップ・ストリート」にやられた~~~という感じで感銘を受けました。




横浜港が開港した直後に、いまの関内地区である横浜村内に、来日した外国人を住まわせるための山下外国人居留地が設置されることとなって、元々横浜村に住んでいた住民は立ち退きを命じられてしまったのです。つまり外国人が住むことになるから、そこに住んでいた日本人の人たち出て行って、という感じです。その代わりの居住地としてあてがわれたのがこの地域であり、“元”々横浜に住んでいた人が住まう“町”として「元町」と命名されたのです。


慶応3年(1867)には南側の高台一帯に山手外国人居留地も設置され、関内と山手の2ヶ所の外国人居留地に挟まれるような感じになった元町では、その地の利を活かして、外国人向けの商売が盛んに行われるようになったのです。洋服店や家具屋など船来品を取り扱う店が多く立ち並び、現在まで続く横浜を代表する商店街へと発展を遂げていったのです。


これがいまの元町ショッピングストリートなんですね。


だから外国の雰囲気が漂うというか、異国情緒溢れる景観とか、ちょっと日本の街ではないです。あきらかに西洋風のお洒落で洗練された雰囲気が漂う、そんな感じのストリート、商店街です。


この横浜元町ショッピングストリートは、1970年代から80年代の流行「ハマトラ」の発祥地なのだそうです。


ハマトラって知ってますか?(笑)


ミハマ、キタムラ、フクゾーがその流行を代表する三大ブランドで、今日も高い人気を誇っているのだそうです。


すみません。。自分はファッション関係にはまったく疎いので、ネットで調べてみました。


ハマトラとは?


女性雑誌「JJ」の企画で生まれた「横浜発祥トラッディショナル」。

1970年代中頃にブームとなった神戸発のニュートラに対抗する、横浜発のファッションとして生まれました。ポロシャツとベストやカーディガン、タータンチェックの巻きスカート、ハイソックス、パンプス、ハイヒールが主な組み合わせです。当時代に人気だったお店、「横浜元町ファッションストリート」は未だ形を少し変えながらも健在しています。


当時は、女子大生を中心に若い世代の流行になっており、1980年代初頭はハマトラファッションの女性ばかりだったとか。


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1980年代というと自分は思春期で血気盛んな高校生・大学生時代だったので、よく覚えているはずですが、このファッションはよく覚えています。確かに大流行でした。でもそれをハマトラと言うとはまったく知りませんでした。




ハマトラが与える印象は一言で「上品で清潔なお嬢様」。


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社会人が着るフォーマルなスタイルというよりは、学生が着るキャンパススタイルです。見る限りではフォーマルな印象もありますが、実際に当時はに20歳前後以下の女子中高生がコーディネートしていました。


ハマトラスタイルには三種の神器というものがあります。


・フクゾー洋品店の洋服

・ミハマの靴

・キタムラのバッグ



フクゾー洋品店の洋服


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生地から製造までの過程すべでオリジナルで「メイド・イン・ジャパン」の製品。時代を追うごとにトレンドを吸収しながらも、当時の横浜トラディショナルスタイルを維持しています。



ミハマの靴


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靴界隈ではかなりの老舗で1923年開業、履きやすさ上品なデザインが全国の女性から愛されています。ハマトラスタイルでは、ヒールが低いカッターシューズが最も人気でした。横から見ると平らなデザインで、ヒールが高いシューズだと坂道の多い横浜では歩きにくいからという理由で製作されたとか。



キタムラのバッグ


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ミハマよりも老舗の1882年に誕生したバッグの有名ブランド。フォーマル、カジュアルの両面を兼ね合わせており、ハマトラはもちろん、色んなスタイルにも組み合わせが出来ます。古くからある店で既に三代目まで継がれているため、元町では圧倒的な知名度があるらしいです。


ハマトラファッションを支えていたのは、このフクゾー、ミハマ、キタムラの三大ブランドだったんですね。そしてそのハマトラファッションの発祥地がこの横浜元町ショッピングストリートだったのです。


ハマトラファッションは、今となってはトレンドが終わってると言われていますが、古着界隈ではハマトラファッション楽しんでる女性も増えているのだとか。。。


スミマセン。。この世界全然疎いのでそうなのか~という感じですが、確かに1970~1980年代の自分が学生時代だった頃、このファッションが女性の間で流行っていたのはよく覚えています。


いまようやく追いついた感じです。



横浜元町ショッピングストリートでは、毎年2月末と9月末の2回、約1週間にわたって開催される元町ショッピングストリートを代表するバーゲンセールイベントがあります。 期間中は関東近郊のみならず全国からこのイベント目当てに大勢の人が訪れる。 以前は「謝恩セール」という名称であったが、1961年に現在の「チャーミングセール」と言う名前が付けられました。


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期間中、平日も含め「11:00~18:00」までこの元町ショッピングストリートのお店はみんなこのポスターをお店に貼るんですね。そしてバーゲンを盛り上げるのです。このポスターは去年取材に行ったときの2023年度版です。


2024年度版のチャーミングセールももう日程発表されていて始まりますよ。なにせ、2月末と9月末ですから。2月末がもう近いのです。


チャーミングセールの期間では、もういろいろなお店がSNSなどで、いまチャーミングセールやってます!ということでアピール宣伝します。単なる元町商店街の謝恩セールという括りではなく、もう関東近郊のみならず、全国からこのチャーミングセールに大勢の人が訪れるということですから、すごい全国区の有名なイベントなんですね。


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さて、ここでまたちょっと基本に戻って、この横浜元町についての歴史について勉強していきたいと思います。


情報引用元:


YOKOHAMA MOTOMACHI Shopping Street 横浜元町の歴史




横浜元町の歴史


・元町のはじまり


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元町ショッピングストリートの歴史は、安政6年(1859年)の横浜開港当時までさかのぼることができます。横浜村は日本大通りを境に、日本人商業地区と外国人居留地区へ事業計画が決定され、万延元年(1860年)1月に横浜村の居住民90戸が隣接する本村に強制移転させられました。その年2月に「本村」を「横浜元町」に地名変更したのが元町の始まりです。


元町の居住民の大部分は当初農漁業に従事していましたが、明治7年頃になると、山手居留地に外国人が多く住むようになり、元町通りが山手の住居地と関内の業務地を結ぶ外国人の日常的な通り道になしました。それに伴い、外国人を対象に商売を始める者が自然発生的に増えていきました。


大正初期には、谷崎潤一郎の小説にあるように「彼ら(西洋人)を相手に商いをする花屋・洋服屋・婦人帽子屋・西洋家具屋・パン屋・カフェ・キュリオシティショップなどが一杯に並んでいる」エキゾチックな街を形成するに至ったのです。まさに元町ショッピングストリートは文明開花とともに誕生したと言えましょう。



・外国人居留区地の商店街


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元町の住民の大部分は当初農漁業に従事していましたが、慶応3年に、山手に居留地が設けられ外国人が住むようになると、元町通りが山手の住宅と関内の商館を結ぶ外国人の日常的な通り道になりました。それに伴って、外国人を対象に商売を始める者が自然発生的に増えて元町はエキゾチックな街を形成するに至ったのです。



これでなんとなく横浜元町が自分のものになったような気がしますね。関東大震災で大打撃を受けますが、必死の復興、そして元町ショッピング・ストリート・アソシエーションの略字を使い「元町SS会」が発足し、こうした商店街活動の積み重ねの結果、元町ショッピングストリートの知名度は急速に高まり、今日オリジナルファッションを求めるモトマチアンが全国各地から訪れる全国有数のファッション商店街の地位を築くに至ったのです。



これでようやく横浜元町を完全に自分のものにできましたね。

では、さっそく自分が散策してきた様子、写真などを紹介していきたいと思います。


なにせ、2023年9月24日のことです。(笑)4か月遅れのリリースで申し訳ありません。このときはまだうだるような暑さの真夏でした。写真の人々の服装を見ればよくその季節感がわかりますね。


横浜元町ショッピングストリートは、みなとみらい線の元町・中華街駅を下車してそのまま直結でストリートに出れます。


元町・中華街駅構内では、もうチャーミングセールのポスターが貼られていました。自分は元町に行くなら、ぜひこのチャーミングセールの期間中に行きたいと思って、セール最終日の9月24日にギリギリ滑り込んだのです。


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横浜元町ショッピングストリート。

もうあきらかに雰囲気が洗練されていて、オシャレな景観で素敵ですね~。

自分はうっとりしてしまいました。

メインストリートは、ブティック、小売店、カフェが中心です。


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ネコちゃんのお店もありますね。


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WORLD WINE BAR。世界のワインが楽しめる。外でワインの試飲会をやっていました。


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なんかストリートを歩いている人々も若くてファッショナブルな感じがします。このストリートを目指してやってくる人はやっぱりお洒落なんですね。自分は、やっぱり自由が丘を思い出します。自由が丘のマリクレール通りをどうしても思い出します。ストリートの雰囲気がすごく似ています。


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出た~~~。GODIVA。


GODIVAって知ってますか?(笑)

チョコレートの国、ベルギーのチョコレートです。

自分はベルギー、ブリュッセルに住んでいるとき、このGODIVAでよくチョコレート買ってました。あのベルギーブリュッセルで有名な日本寿司、海鮮丼屋さんの山優三辰のとなりのとなりにあった記憶があります。三辰で寿司を食べ終わった後に、となりのとなりのGODIVAでチョコを買う。そんな日課だったと思います。日本へのおみやげでもGODIVAは重宝しました。


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横浜元町で長く愛されるジュエラー、CHARMYが手掛ける腕時計専門店『COMMON TIME 横浜元町本店(CHARMYウォッチ館)』。時計店だけあって、このお店に堂々と貼り付けられている大時計には感動しました。


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コメダ珈琲発見。(笑)名古屋の本場で名古屋モーニングを体験してきました。


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いやぁ~~~素敵なストリート景観ですね~。


ここで自分は大変貴重な体験をします。

これは事前に知っていたことなので、あらかじめ予測しながら楽しみにしていました。


カフェラミルです!


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カフェラミルといえば、自分にとってもう自由が丘のカフェラミルです。

もう何回も日記で書いてきましたが、自分は自由が丘のクリニックの定期受診が終わったあと、自由が丘のカフェラミルでモンブランを食するのがなによりも楽しみだったのです。自由が丘のカフェラミルのモンブランは、ちょっとふつうのモンブランとは違うのです。


いまや自由が丘のカフェラミルは閉店してしまい、すっかりご無沙汰だったのですが、なんと、ここ横浜元町にカフェラミルがあるとは!!!


もうこれは運命ですね。自分の運命です。この元町でカフェラミルに出会えるとは赤い糸で結ばれているのだと思いました。


さっそく入店します。あの頃大好きだったあのカフェラミル特製のモンブランをここで出会えるのでしょうか。。。楽しみです。


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元町のカフェラミルは、縦に細長いフロアでした。自由が丘の広い店内とは違ってかなり細長いです。でも雰囲気あって素敵です。


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カウンタースタイルもあるんですよね。(驚)


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メニューでモンブランを探しました。


ありました!


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ん???でも自分が自由が丘で大好きだったモンブランとはやはりちょっと違います。でももちろんカフェラミルでケーキを食するのなら絶対モンブランです。



モンブランとカフェオーレを頼みました。


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確かに見栄えはぜんぜん違うけど、味はやはりあの昔食べたクリーミーなモンブランそのもの!これは昔のあのモンブランをずっと今風に進化させたものだと確信しました。昔以上に美味しいモンブランだと思いました。


もう自分は感涙の感動です。

元町に来れてよかったと思います。

十何年ぶりにカフェラミルを体験できただけでも、元町に来たかいがあったというものです。



感激の体験が終わり、ふたたびメインストリートを歩きます。


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このマークは元町ショッピングストリートのロゴ、シンボルマークなんですよね。Mマークといいます。こうやって道路に刻まれています。


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この日は、チャーミングセールの最終日。ギリギリ間に合いました。


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フェニックスアーチ


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昭和60年(1985)、第二期街づくりにおける元町のシンボルとして建てられました。元町のイメージを「伝統を受け継ぎながら、常に新しく生きるフェニックス」ととらえ、「翔べ光の中へ」の意味が込められています。アーチの高さは10.5mその上に幅4.8m高さ2.3mのステンレス・パイプの不死鳥が羽ばたいています。



・・・以上が横浜元町ショッピングストリートになります。メインストリートのほうです。


素敵でしょう~~~。

自分もうっとりしました。西洋風で異国情緒あふれる感じで、洗練されていますね。


つぎにこのメインストリートに並走している感じで裏道「元町仲通り」「元町クラフトマンシップ・ストリート」に行きます。最初こちらは細い裏道なので、自分はあまり期待していなかったのですが、歩いてみるとつぎからつぎへと現れる個性的な職人気質のオーラを放つオシャレな飲食店。これにやられました。


職人たちが働き暮らす、まさに“クラフトマンシップ”溢れる通り。

クラフト系のショップや飲食店など“職人”の営む店舗。

小振りなんだけどオシャレ。


自分はここでも自由が丘を思い出しました。

自由が丘もこんな感じだったな~という・・・


自由が丘はスィーツなんですよ、基本が。でもここ元町のクラフトマンシップ・ストリートは、いろいろなジャンルに渡ります。


ちょっと紹介していきますね。


メインストリートとこの仲通りの間を通っていきます。


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元町仲通り、元町クラフトマンシップ・ストリートの通り自体は、もうこんな感じで細道の裏道という感じで、なんか一見すると居酒屋さんがひしめき合う裏道という感じがしますよね。(笑)


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でも違うんだな~。



南インド料理 INDU


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ハーブと魔女グッズの専門店 グリーンサム

 

怪しげですね~。(笑)


グリーンサムは1985年 横浜元町に創業したハーブと魔女の専門店です。自然の不思議をパワーとし、健康と深く関わってきた魔女はハーブを熟知したハーバリストです。生活のあらゆる面で役立つハーブを知って、魔女のように愉快でパワフルに美しく生きることを提案します。


・・・ますます怪しすぎる。(笑)


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ワインの試飲ですね。この日は真夏日だったので、こういう図がすごく合う季節でした。


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STAR JEWELRY CAFE & Chocolatier


人気ジュエリーショップ"スタージュエリー"直営のカフェ&ショコラティエ。

宝石店がカフェを経営するんですね。たしかに素敵です。


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横濱元町 霧笛楼(むてきろう)


地元食材を生かした四季折々の横濱フレンチを、異国情緒溢れる洋館で堪能。“和魂洋才”をコンセプトに日本ならではの季節感を大切にした「横濱フレンチ」をお届け。地元の畑で採れる新鮮な野菜を使用した地産地消の逸品をお愉しみください。


またお料理を引き立てるテーブルウェアも、横濱ブランドの食器にこだわりました。仏蘭西料亭の名に相応しい洋館は、開港当時の横濱をイメージした異国情緒が感じられる空間。ご友人とのランチから親子三世代でのお食事、大切なご接待まで様々なシーンにどうぞ。


ここが1番大きなお店でしたね。目立っていました。自分は最初見た目では中華だと思っていたのですが、じつはフレンチなんですね。


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創作料理 ワガママ


2017年8月におふくろの味のレシピを受け継いで、上海の家庭料理を元に創作を加え、創作料理Wagamamaを開業いたしました。


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ビストロ エルエラ


元町にあるカジュアルなビストロ。フレンチ。カジュアルフレンチですね。お子様からご年配の方まで、幅広い層の方に楽しみいただけます。


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カスタムスタイル


西海岸系ストリートファッションのセレクトショップ。


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SERENDIPITY hair design


横浜元町「かわいい+癒しの空間」の美容室セレンディピティヘアデザイン。


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Toratorria NOTO



洗練されたシチリア料理を横浜・元町でイタリアの最南端・シチリア島にて3年間修行したシェフは、多くのミシュラン星付きのシェフから最先端の指導を受けつつ、マンマからシチリア伝統料理も教わった経験を活かし、横浜・元町でその料理を完全再現し、ご提供致します。


・・・ここはお店の顔の雰囲気といい、シチリア料理というところとか、自分はかなり惹かれますね~。一度は行ってみたいところです。


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BURGER JO'S


バーガー屋さんでカフェも兼任しているという感じでしょうか。お店にチャーミングセールのポスターが貼られています。ここもバーゲンです。


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JPASTA amann 元町本店


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横浜元町・山下公園エリアの横浜老舗 手造りパスタ、JPASTAの元町本店。パスタ専門店です。パスタというとイタリアを思い起こすかもしれませんが、ここはイタリアンのパスタじゃないんですよね。日本製のパスタ。ジャパニーズ・スパゲティなのです。


修行ゼロ、資金ゼロの無謀とも思われる開業ながらイタリアンにとらわれない唯一無二のパスタを提案し続けたことにより多くのお客様に支持を集めて来た。本人は音楽でも他のバンドのコピーはやらなかったと語っている通りパスタに関しても他の店のコピーは決してしない。


オリジナル独創性あふれる完璧なジャパニーズ・スパゲティなのです。 


シェフが目で見て、心で感じ、拾い集めてきた喜びの数々が、ギュッと詰まった「ジャパニーズ・スパゲティ」。湘南藤沢で生まれたJPASTAは、22年間、たくさんのありがとうと育てられ、横浜元町、横浜みなとみらい、東京飯田橋から湘南の香りのスパゲティをお届けしております。


元町に来たときのランチはここでいただこうと当初から思っておりました。


店内はこじんまりとした小スペースながら、なかなか素敵な雰囲気。シェフは店舗の空間表現にも強いこだわりがあり、今まで開店した各店ともそれぞれのコンセプトを強く打ち出して細部にわたり設計デザインにかかわっているのだそうだ。


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これをネットで前日に拝見し、ここまでこだわりがあるのであれば、ぜひ伺おうと思ったのでした。


メニューもすごいんですよね。木箱に入っているのです。驚きました。この拘りよう!!!日本仕様のパスタということで、いろいろなバラエティ溢れるメニューがたくさんありました。品数豊富です。


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自分はさっぱり系がいいな、と思い、しめじやきのこのスパゲティにしました。


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ふだんパスタ、スパゲティというのはあまり食べないのだけれど、これは美味しいと思いましたね~。4か月以上も前のことなので、記憶が確かではないのですけど、ほんわかときのこの香りが満遍なく漂ってきて、豊潤な香りのパスタでございました。完全な純和風テイストという感じですね。


ジャパニーズ・スパゲティの代表格のようなお味でございました。

ごちそうさまでした。



・・・こちらが元町仲通り、元町クラフトマンシップ・ストリートでございました。


いかがでしたでしょう?


自分はメインストリートも素晴らしかったけれど、こちらの裏道の職人気質、職人たちが働き暮らす”クラフトマンシップ”溢れるこの雰囲気にやられたな~。自由が丘を思い出しました。雰囲気が自由が丘に似ています。自由が丘のスィーツではなく、オールジャンル化という印象でした。


いやぁ~~・・・でも横浜元町ショッピングストリート。本当に素敵なスポットでした。

まさに横浜、YOKOHAMA、そのもののイメージと合致しますよね。


これぞ、横浜という感じの雰囲気でした。


みなとみらいを横浜の新市街としたら、元町は、横浜の旧市街という感じがしますね。

横浜開港の地というまさに歴史と伝統の面影を色濃く残している、そんな景観のする街でございました。


こんな素敵な街をいままで知らなかった、というのは随分勿体ない人生を送っていたものだと思いました。











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I LOVE YOKOHAMA 横浜開港資料館・開港記念広場 [街歩き]

横浜三塔(キング・クィーン・ジャック)の体験をするために、日本大通りを散策していると、旧英国総領事館、いまの横浜開港資料館が存在していることに気づいた。


かねてより、ずっと見学してみたいと思っていた施設なので、願ってもない幸運である。


正門は、開港記念公園側にあるのだが、自分は日本大通り沿いに歩いていたので、こちらからの門(西の通用口)で発見した。残念ながら、こちらの門は修復作業中なのか、工事の覆いで建物がふさがれていた。


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正門はこちらである。(開港記念広場側)


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旧館は、もともと英国総領事館として、1931(昭和6)年に建てられた。英国工務省が設計し、資材すべてを英国から取り寄せて建築したもの。鉄筋コンクリート造の3階建てで、一部地階が付いている。屋根は銅板葺で、石造の外観を持っている古典様式の建物なのだ。



長く総領事館として使われていたが、1972年に東京の英国大使館へ業務をすべて移管。1979年に横浜市が建物を買い取り、1981年に「横浜開港資料館」としてオープン。2000年には横浜市指定文化財に指定されている。


総領事館として、1階は執務室、2階は事務官2世帯の住宅、3階は使用人の住居にあてる計画でこうした設計がされていた。


現在、横浜開港資料館としての建物の構造、各部屋はこのようになっている。


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ここが記念ホール(旧待合室)。


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ここの床や天井、そしてシーリングファン(天井扇風機)は総領事館時代のもの。ファンは今も現役で動く。この部屋まではいつでも見学可能。



毎年6月に公開される記念室(旧総領事の執務室)


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普段は公開されていないが、開港記念日に合わせて限定公開されるのが記念室。総領事が執務を行った部屋で、狭くてシンプルなところにストイックな英国紳士らしさを感じる。暖炉やシーリングファンは総領事館時代のものだが、置かれている家具は当時の時代背景に合わせて揃えたもの。




こちらが中庭である。


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講堂です。


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中庭には、日本最初の近代水道「獅子頭共用栓」の複製と、昔の道路側溝であるブラフ溝もある。



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真ん中にある木が「たまくす」である。


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この「たまくす」がもう大変重要な資産なのである。

まさに横浜開港以来、ずっと横浜を見守り続けてきた「たまくす」なのである。


ウィルヘルム・ハイネによる横浜上陸の図。右に描かれた木が「たまくす」である。


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その江戸時代からある「たまくす」が、いまこうやって、令和の時代になっても、横浜開港資料館(旧英国総領事館)の中庭にずっとそびえ立ちつつずっと存在している、ということなのだ。自分はなんともいえない尊い気持ちになった。


江戸末期のペリーの来航で、横浜開港となった。まさに横浜はここから始まった。埋め立て地の横浜である。その横浜上陸のときに描かれた絵の中にある「たまくす」が、いまこうやって現存するのである。


まさに横浜の歴史を見守り続けてきた、といえる。

この横浜開港資料館(旧英国総領事館)の隣には、開港(記念)広場がある。

その広場で、日米和親条約が締結された。その場所を開港(記念)広場として整備し、その記念碑も建てられている。これはまたあとで後述しよう。



この「たまくす」について、ちょっと語ろう。



まさに、ペリー来航で、江戸幕府とペリー側の交渉、そして開港に至るまでに両者間のかけひきである。これはぜひ知ってほしい。まさに横浜開港となるまでの史実が描かれている。





横浜、大さん橋の近くに、開港広場という小さな公園があります。この場所は、嘉永7年(のちに安政に改元、1854年)、日米和親条約が締結された地で、日米和親条約調印地の碑もあります。


開港広場の近くに、横浜開港資料館があります。資料館に入るとまず目に飛び込んでくるのは中庭の大きな木。タブノキという木で、通称「たまくす」と呼ばれています。このたまくすの歴史は古く、嘉永7年のペリーの横浜来航を描いた絵には現在のたまくすの先祖にあたるとされている木が描かれています。



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ウィルヘルム・ハイネによる横浜上陸の図。右に描かれた木がたまくす



・たまくすの見つめたペリー来航


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嘉永6年(1853年)6月(新暦で7月)、サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号の4隻でやって来たペリー艦隊(黒船)。浦賀にて大統領からの親書を渡しました(ペリー来航の地-浦賀と与力中島三郎助)。その返答の猶予を与え、いったんは江戸湾を去ったペリーでしたが、翌嘉永7年正月14日(1854年2月)、再び江戸湾に現れました。前回の来航時の上陸地、久里浜を通過しさらに江戸湾内に侵入、小柴沖(金沢八景の沖合あたり)まで北上し、16日(1854年2月13日)に錨を下ろします。


国家間の交渉であるため、日本の中心である江戸での会談を行いたいペリーと、江戸からなるべく船を遠ざけたい幕府側の意向が対立。約10日間ほど交渉の地(上陸地点)の選定に費やします。小柴沖には前回の浦賀来航時よりも多い7隻の船が投錨していました。この間も、ワシントン記念日として祝砲を計100発以上発射を行ったり、連日の江戸湾測量で羽田沖まで侵入するなど、揺さぶりをかけます。


ついにペリー艦隊側の意向が聞き入れられる形で、久里浜よりさらに近い横浜の地にペリーが上陸することとなりました。2月11日(1854年3月9日)の第1回会談を皮切りに複数回の会談が行われます。そして、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、たまくすの見つめる横浜の地で日米和親条約が締結。下田、函館の開港を含む12か条の条約が締結され、日本は長い鎖国体制に幕を下ろしました。




・総領事ハリスの来日と横浜開港


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安政3年(1856年)、日米和親条約からさらに進んだ通商条約を締結すべく、ハリスが来日します。日米和親条約の双方の認識の差異から、日本側は上陸を拒みますが、ハリスの強い主張により、下田に上陸。さらには江戸での徳川家定謁見を果たします。ハリスはイギリスの脅威などを説き、幕府側に揺さぶりをかける形で、条約締結を進めていきます。


条約締結において、ハリスが開港地として求めていたのは、函館、大阪、長崎、平戸、京都、江戸、品川、本州西海岸の2港、九州の炭鉱付近の1港でした。ここに神奈川(横浜)が加えられたのには、幕府側の意図が反映されています。


ハリスとの交渉に当たっていた、岩瀬忠震は、大阪開港により、大阪がさらなる商業の中心地となることを阻止し、江戸がそれを担う必要があるという主張をします。また、開港場を江戸近くとすることで取り締まりをしやすくし、さらに外国の軍事知識を導入しやすいというメリットもあると考えました。


その後も幕府側、アメリカ側の双方の意向が交わされます。


神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港、下田は神奈川開港後閉鎖、江戸、大阪は市場開設、居留のみの許可


上記のように開港地が定められ、日米修好通商条約が締結されました。


神奈川開港に巡っては当初、東海道筋の神奈川も含むエリアが検討されていました。しかしその後の調査で、国内外の無用な接触を防ぐため、横浜に限定することが適当であると考えるようになります。そのため幕府は横浜も神奈川の一部であると主張し、横浜の整備を推し進めます。また、江戸商人の横浜移住の保護、奨励や、三井などの豪商を半ば強制に近い形で出店させるなど横浜の繁栄を後押ししていきました。こうして次第に神奈川よりも便利な横浜がさかえ、外国商館や領事館が集中するようになっていきます。





・横浜の町の発展とたまくす


こうして開港地として横浜はどんどん発展していきます。たまくすはその後慶応2年(1866年)に発生した大火、また、関東大震災での被害を受けます。しかし、その都度芽を出し、現在の姿になっています。小さな漁村だった横浜が、ペリー来航以降変わっていく様子を今も見続けています。



情報引用元:


開国を見守ったたまくす-日米和親条約と横浜




日米和親条約は、まず日米で国交を結びましょう。

そして日米修好通商条約で、日本で米国を受け入れる港町を定め、そこで貿易ふくめいろいろ交流していきましょう。


この2段階なんですね。


自分は、この「たまくす」をじかに見れて、なんか横浜の真髄にひとつ近づいたような気がしました。




横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年に開館しました。当館が建っている場所は、1854(安政元)年に日本の開国を約した日米和親条約が締結された場所で、当館の中庭にある「たまくすの木」は条約締結の時からあったと伝えられています。


日米和親条約締結後、日本の国際化は急激に進みましたが、1859(安政6)年には横浜が開港し、この町は日本を代表する貿易都市になりました。当館は、この間の横浜の歴史を明らかにすることを目的に設立され、関係資料を収集し展示するとともに、閲覧室で広く市民や研究者に資料を公開する活動をおこなっています。


2019年に横浜は開港して160周年を迎えました。開港以来、横浜には多くの外国人が住み、この都市では国際交流の歴史が繰り広げられました。1899(明治32)年には外国人居留地が撤廃され、外国人は国内のどこにでも住めるようになりましたが、その後も横浜は日本最大の貿易都市として発展を続けました。当館では幕末から昭和初年までの横浜の歴史をさまざまな媒体を利用して発信していきたいと考えています。


かつて横浜は関東大震災と横浜大空襲によって市街地中心部が大きな被害を受け、横浜の歴史を伝える貴重な資料を失ってしまいました。我々は失われた資料に代わる古記録・古写真・新聞・絵画などを求めて国内はもとより外国からも資料を収集してきました。今後もこうした活動を続けるとともに、次の世代に収集資料を引き継いでいきたいと思っています。


館長 西川武臣


情報引用元:


横浜の歩みと開港資料館(横浜開港資料館HP)



旧館は、英国総領事館だったが、いまは横浜開港資料館。

その目的は、横浜開港以来、貿易都市となった現在に至るまでの歴史を明らかにするため、関係資料を収集し展示するとともに、閲覧室で広く市民や研究者に資料を公開する、というのが目的である。


この資料室というところがそうである。


まさに横浜開港以来の歴史が、パネルになって展示されている。

壮観である。圧倒されました。


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古写真に見る関内の街並み


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自分は、ここでかなり立ち止まって、ちょっとドキドキしながら見ました。まさに横浜のルーツは関内ですね。ここに外国人居留地を設け、強制的に外国人をここに住まわせた。関内というエリアに閉じ込めて、日本人との接触をなるべく避けようという幕府の狙いです。でもこのエリアに外国人が住むようになって、その外国の文化が一気にここに根付いた。洋風の建物、馬車、そして外国文化、そういう日本にはいままでなかった文化が海外からこの関内に一気に流れ込んだ。それが横浜がいまだに異国情緒溢れる雰囲気をずっと漂わせている大きな要因ですね。横浜は海外からの文化の流入口だったのです。


その横浜のルーツが関内だったのです。

そのときの関内の街並みです。


よく写真が残ってましたね。これは興奮しましたね~。



横浜開港資料館は、こんな感じの歴史的建築物でした。

まっもともとは英国総領事館ですから、執務室や事務官、使用人の住居などが主ですから、そういう趣なのですが、やっぱり「たまくす」ですね。これがいちばん大きいです。そして資料室などで横浜開港以来の歴史が閲覧できる。。。そういう感じでしょうか。。


じつは、この横浜開港資料館には、併設されるショップ・カフェが存在するんですよね。これは去年の2023年7月1日オープンということですから、できたばっかりです。自分が訪れたのが2023年9月24日ですから、まさにできたてホヤホヤで体験できてほんとうにラッキーでした。


これがじつに素敵なのです!

自分はもうひとめぼれ。


ミュージアムショップ・カフェ・コンシェルジュの複合機能施設「PORTER’S LODGE(ポーターズロッジ)」だそうです。


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「横浜開港・英国文化を伝えるセレクトショップ」として、横浜中華街や元町商店街、山下公園通りで営業する店舗などから、横浜の歴史を伝える商品などを仕入れて販売するほか、旧英国総領事館や英国文化を伝える商品、横浜開港の歴史を伝える資料館所蔵資料を活かしたオリジナル商品を開発販売し、ペリーが上陸した開港の地横浜の原点から、ミュージアムショップ(買う)、カフェ(味わう)の機能を通じ、YMC地区(山下公園・横浜中華街・元町商店街)へのコンシェル(導く)を実現します。


まさに横浜の歴史に沿ったYOKOHAMA一色のオリジナル商品やグッズなどを販売するショップなんですね。ひとつひとつ詳しくは見て回りませんでしたが、ふっと目をやるところには、横浜に関連するいろいろなグッズが飾られている・・・そういう感じが確かにしました。まさに「横浜開港・英国文化を伝えるセレクトショップ」だと思います。横浜開港資料館に付属するショップとしてとてもふさわしいと思いました。


横浜開港資料館自体は、貴重な資料を公開・展示することが主機能ですから、なにか見学者に商品を買ってもらう、提供するというところまでは配慮が行かないですね。そこのさらに突っ込んだところで、お客さんに横浜の歴史を伝える商品を買ってもらう、提供する・・・そういうところまで配慮したのが、この複合機能施設「PORTER’S LODGE(ポーターズロッジ)」の役割なのだと思います。だから横浜開港資料館に付随した施設としたのだと思います。


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ここにちょっとひと休憩するカフェも存在するのです。ほんとうに小さいスペースですが白をベースとした綺麗なカフェでした。自分はここで紅茶と和菓子をいただきました。


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ここは、じつに穴場、スポットだと思いますよ。まだオープンしたてで、知名度もあまりないと思いますが、ここはオシャレでとても素敵なスポットだと思います。じつは自分が1番感動したのがここでした。


なによりも建物、雰囲気がオシャレですよ。(笑)




横浜開港資料館のとなりに開港記念広場があります。

ここでペリーと幕府とで日米和親条約を締結したそのものの場所になります。


いまはこうやって広場として整備され、その歴史を慮るように配慮されています。その記念碑もあります。


開港記念広場


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旧英国総領事館が横浜開港資料館となるのを契機に、開港の地にふさわしい場所に整備されることが計画されたのです。



広場の中央に噴水があります。


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工事中に発見された下水道の遺構は、上部から見学できるよう透明のガラス板が設けられました。


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1982年に開港広場公園が開園し、1985年には横浜市主催の第1回まちなみ景観賞を受賞しております。



この横浜開港資料館、そしてその横にある開港記念広場。まさに横浜の開港歴史の始まった大切な場所ですね。ここを拝観しないとやはり横浜を知ったとはとても言えないでしょう。大事な観光スポットです。

ファースト・プライオリティではないでしょうか?


この隣には初のプロテスタント教会である横浜海岸教会もあり、自分はそこで初めてキリスト教の礼拝というのを体験したのでした。


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この開港記念広場の斜め向かいにこれまた情緒あふれる歴史的なレストランがあるんですね。

大さん橋の近くの角にあります。


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北欧料理のSCANDIA(スカンディア)です。



創業60年 横浜の老舗北欧料理レストラン「スカンディヤ」。ノスタルジックな横浜情緒溢れるゴージャスな空間。1Fはカジュアル、2Fは重厚感のあるレストランになっています


2Fはすごいですよ。HPを見たら驚きました。


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北欧料理というのも馴染みが少ないですが、北欧料理とは、北ヨーロッパの国々で親しまれている伝統料理です。 周囲を海や森で囲まれている北欧諸国では、サーモンや手長エビなどの海産物やきのこ、じゃがいもを使った料理が多くあります。 またリンゴンベリーという酸味のあるコケモモを使ったソースを、肉料理などに添えて食べることも特徴です。


ここも横浜名物の観光スポットです。

横浜ではめちゃめちゃ有名なレストランです。



今度入ってみたいと思います。











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I LOVE YOKOHAMA 横浜三塔(キング・クィーン・ジャック) [街歩き]

横浜シリーズ、リターンズ!ようやく戻って来ました。姫路城や熱田神宮がまだ残っているが、少し寝かせるというか時間を置いて落ち着いてきたら、ゆっくり取り組みたいと思っている。


やはりI LOVE YOKOHAMA、横浜シリーズはぜひ完成させないといけないだろう。自分にとって初の体験となる長編連載シリーズ。取材が最初に完結して、あとで日記で追う、というスタイル。


初めての経験だ。


溢れんばかりの”横浜愛”をこのシリーズに注ぎ込みたいと思っている。

まだ16章も残っているのだ。(笑)


横浜三塔というのは、神奈川県庁=キングの塔、横浜税関=クィーンの塔、開港記念会館=ジャックの塔のことをいう。

最寄り駅は、みなとみらい線の日本大通り駅だ。キング・クィーン・ジャックの塔はいずれもお互いすぐ近距離の間柄で存在している。


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横浜三塔の愛称は、昭和初期に外国船員がトランプのカードに見立てて呼んだことが由来と言われている。


「キング」神奈川県庁は、五重塔をイメージさせるスタイルで、昭和初期に流行した帝冠様式のはしりといわれている(1928 年竣工)。


「クイーン」横浜税関は、イスラム寺院風のエキゾチックなドームが特徴(1934 年竣工)。


「ジャック」横浜市開港記念会館は、東南隅に時計塔、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームを配している(1917 年竣工)。


横浜三塔は、戦争等をくぐり抜け建ち続けてきた。いつしか船員達が航海の安全を祈り、これを目印に入港したと言われている。


確かにそれぞれの建物の姿、形を見ると、なんとなくトランプのキング・クィーン・ジャックの姿に似ていると自分も感じた。



まず、この横浜三塔をぜひ制覇したいと考えていた。

2023年9月24日のことだ。(笑)


まず日本大通り駅を地上に出ると、出迎えてくれるのが、ジャックの塔こと開港記念会館だ。


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横浜市開港記念会館は、1909年(明治42年)の横浜港開港50周年記念事業として、1913年(大正2年)に計画が出され翌年着工、1917年(大正6年)に完成した。関東大震災時に全焼したが、1927年(昭和2年)に初期の建築を復元した状態で再建された。昭和2年の再建時に省かれたドーム部が1989年(平成元年)に再建されると同時に、国の重要文化財に指定された。


大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築の中では有名な建築物の一つである。


地上2階、地下1階に加えて、1塔を有する。初期の大正期から進駐軍接収時までは地下階はダンスホール、食堂等として使われていたが、現在はボイラー機械室としており、一般利用に供していない。


・講堂(481席)

・会議室(9室)

・資料コーナー

・自動販売機コーナー

・事務室


中は見学できるようになっているが、ただいま修復作業で休館中なのだ。残念!


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そしてキングの塔こと神奈川県庁。


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神奈川県庁は、地方公共団体である神奈川県の行政機関。


1868年(慶応4年)4月11日、横浜裁判所を設置。同年5月12日、横浜裁判所を神奈川裁判所に改称する。同年8月5日、神奈川府が設置される、同年11月5日に神奈川県と改称し、行政を司る組織として神奈川県庁が設置される。


神奈川県庁舎は、神奈川県の行政機関(神奈川県庁)が入居する建物である。本庁舎・新庁舎・東庁舎・西庁舎からなり、一部部署は近隣の民間ビルに入居している。


関東大震災で焼失した旧県庁舎の再建にあたり、公募で当選した小尾嘉郎の案を基に、神奈川県内務部(成富又三)により設計され、建築顧問として佐野利器が迎えられた。昭和初期に流行した帝冠様式が取り入れられている。



かつてこの塔は「修養塔」とよばれており、最上階に横浜の総鎮守とされる伊勢山皇大神宮の分霊が祀られていた。また歴史的建造物として、1996年(平成8年)に登録有形文化財(建造物)に登録された。 2019年には重要文化財に指定された。


まさに神奈川県の行政を一気に司る機関で、その機能が入っている建物である。


中に入れるみたいだが、休日に行ったので、閉まっていた。


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この歴史あるキングの塔と道路を挟んで隣にある新しいビルに、神奈川県庁 神奈川県議会があるようだ。キングの塔とは、このように渡り廊下で繋がっている。


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そしてクィーンの塔こと、横浜税関。


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横浜税関は、日本の税関。横浜市中区海岸通に主たる事務所を置く。南東北および関東地方にある都県のうち、東京税関の管轄外である太平洋側の地域を管轄する。1953年(昭和28年)に東京税関を分離した。


1923年(大正12年)の関東大震災で庁舎が倒壊焼失し、帝都復興事業の一環として1934年(昭和9年)に完成した本関庁舎は緑青色のドームがシンボルで、「クイーンの塔」として親しまれている。神奈川県庁本庁舎(キングの塔)、横浜開港記念会館(ジャックの塔)とともに「横浜三塔」の一つに数えられる。横浜市認定歴史的建造物(2001年度認定)。増築部施工には戸田建設が携わり、第46回BCS賞(2005年度)を受賞している。


当初高さ47mで計画されていた税関庁舎は、第22代税関長であった金子隆三の「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき」との意見により4m高くされ、高さ51mの横浜税関庁舎が完成した。完成当時は横浜で最も高い建物であった。


「税関」ってなに?ということだが、入国審査官と税関とでは意味が違う。


「入国審査官」と聞くと、海外旅行に行かれたことがある方は,「パスポートを調べる人」というイメージをお持ちではないか。入国審査官は, このように空港などで出入国を管理したり, 日本に住んでいらっしゃる外国人の方の適正な在留を管理したり, あるいは不法入国や不法な就労活動等を行う外国人に対して, 違反審査を行ったりして, 日本国内の秩序と安全を守る仕事を行っている。


同じく国家公務員である税関と混同されることも多いのだが, 税関は主に「物」を調べる仕事であり, 入国審査官は「人」を調べる仕事であるという違いがあるのだ。


税関は、「物」についての入国を審査する仕事なのである。


このクィーンの塔、横浜税関では、資料展示室があるのだ。

横浜税関本関1階にある展示スペースが存在する。


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密輸品の実物を展示している稀有な博物館。関港からの横浜港・横浜税関の歴史をつづる年表や貿易の変遷、麻薬や拳銃などの密輸の手口、知的財産を侵害した偽ブランド商品やワシントン条約に該当するはく製や標本等を、映像や実物展示により紹介している。わからないことは、説明スタッフに質問できる。


入場無料だし、土日祝も営業しているので、興味しんしんの自分はさっそく見学してみた。


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これが大変興味深い。とくに自分は知的財産関連として偽ブランド商品、模倣品の輸出入などを厳しく取り締まる部分に昔から興味があって、すごく興奮してみていた。税関審査官はすごいプロだと思うんですよね。IP製品と偽ブランド品とを一瞬にして見分けるそういう才能がないといけない。正しいIP製品をきちんと頭に叩き込んでいるのだ。これは大変な情報量だと思う。


税関の審査官。

まさにこの制服をみると、ビビッてしまう(笑)、というか緊張しますよね。


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過去の税関長のパネルも展示されていました。


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江戸時代の昔も関所はあって、人と物のチェックをしていた。

その時代はこんな感じなんですよ、という模型も存在していた。


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キングの塔=神奈川県庁と、ジャックの塔=開港記念会館は、中に入れるようになったら、ぜひ見学してみたい。ネットでの体験記ではその内装空間の写真を上げていらっしゃる方が多くて、かなり歴史的で貴重な建築様式で素敵なので、ぜひ自分も体験してみたい。


さて、この横浜三塔であるが、このキングの塔、クィーンの塔、ジャックの塔を、実は一度に見ることができる場所、つまり同一フレーム内にこの建物が全部入る、そういうシーンを見れる場所、スポットがは限られているのだ。


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「①赤レンガパーク」

「②日本大通り」

「③大さん橋」


この3つのスポットに限って、そのポイントに立てば、それが可能なのだそうだ。


この3つのスポットを1日で巡ると、願いが叶うという伝説がある。


これが「横浜三塔物語」である。


カップルで巡ると結ばれるという噂もある。この3つのスポットには目印(地図中の写真)が設けられている。


もう自分はこれに猛烈に反応。(笑)


よし!この横浜三塔物語を実現するべく、この3スポットを全部制覇して、キングの塔、クィーンの塔、ジャックの塔を同一フレームに納めて見るぞ!そして願いごと、幸せになるぞ!と思ったのである。


地図を見ると、その3スポットは、もう完全に自分にとっては土地勘がある。赤レンガパークにしろ、大さん橋にしろ、大体あそこら辺だな~というのがよくイメージできる。


唯一ちょっと不安だったのが、キングの塔の前にある日本大通りにあるスポットだ。これは見つけられるかな?とちょっと不安だった。


さっそくGO!実行である。


まず大さん橋。豪華客船クルーズの船着き場である。もうすでに経験済みの場所だ。


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そうすると・・・なにかそれらしきものが見えてきた・・・


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あった!!!ここだ!


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ちゃんと足跡があり、そこに足を合わせて立てば、左からキングの塔、中央にジャックの塔、そして右側にクィーンの塔が見えるとマーキングされている。一度に同時に、同一フレーム内に見えるということである。


大さん橋の上の丘の方にこのスポットはあるのだが、その下のエリアには、さらに大きくきちんと印字されている。


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さっそく自分の足をそのスポットに合わせて、見える風景を確かめてみた。


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見えた!三塔とも同じフレーム内に見える。

中央のジャックの塔が小さくて見えにくいが、わかりますか?


もう感動である。



つぎに赤レンガ倉庫の赤レンガパークのところのスポットに行く。

横浜湾と接しているこのパークエリアである。


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地面を探してみると・・・


あった!!!ここだ!


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ここも確かに足跡と、左にキングの塔、中央にジャックの塔、そして右にクィーンの塔が見えますよ!というマーキングがされている。


さっそく足跡に自分の足を合わせて景色を見ようと思ったところ・・・


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その方向に釣り人のおじさんが。。もうじゃま~~~(笑)。


ちょっと足跡から外れるけど、眺めてみれば、ここも確かに三塔が同一フレーム内に見える。基本、大さん橋のときの構図とほぼ同じだ。


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そして最後に、キングの塔、神奈川県庁の前にある日本大通りのスポットに向かう。


日本大通りは両サイドに植樹がされていて、季節が夏だった、ということもあり、とても景色のいい素敵なストリートだと思いました。


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ところが予想通り、このスポットを見つけるのがすごく難しい。たぶん道路、歩道のところにそのマーキングがあるはずだ、と思ったのだが、なかなか見つからない。警備員のおじさんに聞いてもわからない・・・


かなり時間がかかったけど、ようやく見つけた!


なんか、あそこら辺にあるあれがそうじゃない???


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あった!!!ここだ!

ようやく見つけた!今度は見え方の順番が違って、中央にキングの塔、左にジャックの塔、そして右側にクィーンの塔だ。


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さっそくその足跡のところに、自分の足を重ね、そこから見える風景を眺めている。ところがこれがかなり難しい。中央にで~んとキングの塔がそびえ立っているのはよくわかるのだが、その両サイドにほんとうに申し訳なさ程度にジャックの塔と、クィーンの塔が見えるのだ。もう圧倒的にキングの塔の存在感がすごい。


これをデジカメの写真で撮ろうとすると、あまりに広角すぎてフレームに収まらないのだ。

肉眼でははっきり同一フレームに入ることは認識できる。


でもいざ写真を撮ろうとするとフレームに収まらない。

もうこれは左右別々に撮るしかない。


こんな風に見えるのでした。これが肉眼だといっぺんに同一フレーム内に見えるのである。


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難しいスポットでした。(笑)

ここがいちばん悩むだろうな~と思っていたが、案の定であった。


こうやって、ついに横浜三塔を同時に見える3スポットを制覇することができたのでした。

それも1日の中でである。


きっと良いことがあるに違いない。

幸せになると思う。


願い事はいっぱいあります。悩み事多いので。


しかし、こういうスポットをきちんと道路に埋め込む、というその遊び心というか洒落心がなんともオシャレで憎いですよね。


素敵だと思います。


こういう楽しみ方があると、ますます横浜観光が盛り上がると思います。


ちなみに、この3スポット、お互いの距離はかなりあります。結構歩きますよ。

この日はかなり歩き回り、足が壊れてしまったのでした。









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姫路、京都に行ってきました。 [街歩き]

クリスマス、年末にかけて、姫路、京都に行ってきました。ただいま自宅に帰ったところです。7泊8日という大旅行でしたが、無事全うできてよかったです。もちろん歩行障害のハンディ付きの体ですので、事前に計画を立てた通りにはいかず、かなりキャンセルしました。とくに後半の京都は、もうほとんど精神、体力的に無理で、大半がキャンセルです。まっ仕方がないです。


今回の1番の目的は、姫路城に行くことでしたから。

なんちゃって城マニアとしては、世界遺産でもあり、日本でもっとも美しいお城、白鷺城(はくろじょう)をじかに見ておきたかったのです。姫路城は、日本で初めての世界遺産になってから、今年が30周年の節目の年なのです。その年にぜひ姫路城をじかに見てみたかった。


この日は、雲ひとつない晴天で、絶好の城見物の日和となりました。

最高の想い出となりました。


ざっくばらんに時系列に今回の旅行の内容を振り返ってみますね。


詳細版はその後に発行します。今回の姫路、京都に併せて、12月8日~11日に実行した名古屋編の詳細日記もいっしょにリリースしようと思います。この年末年始の休みを利用して1日中家の中でずっと書き続けて、全部片づけてしまいたいです。ミックスのチャンポンで書いていきます。その日の気分に合わせて、名古屋、姫路、京都とチャンポンでリリースします。(できるかな~~~???)


もちろん横浜シリーズも忘れてませんよ。かならず完成させます。


でも旅はやはりいいですね。当初、名古屋、姫路、京都の旅行の予定を立てたときは、あまりよく考えていませんでした。衝動的に行きたい~~~という感じで決めました。


でも旅、自分の生活圏外に出ることは、いろいろもやもやしている気分を一気に気分転換させてくれますね。忘れさせてくれます。もし旅行の計画がなくてこのまま年末までずっと仕事をしていて、そのまま休みに入るのでは、もう悶々としてダメだったですね。


計画を立てたときは、全然そんなことは思ってもいなかったし、あくまで結果論ですが、年末に旅行の計画を入れておいてほんとうによかったです。気分晴らしになりました。


今回は、姫路、京都がメインなのですが、その前に新大阪に寄りたいと思いました。新大阪で、あの関西うどんの道頓堀 今井本店を訪れたかったのです。


新幹線の新大阪駅構内に、”大阪 のれんめぐり”というナニワの銘店がここにすべて終結というお店があるんですね。ここに道頓堀今井が入っているのです。新幹線を降りたら、まずここの道頓堀 今井さんのきつねうどんを喰って関西スピリッツ注入~~~というのが大阪に入り前の儀式のようなものなのです。


大阪に行くときは、毎回そうなので、ぜひ道頓堀にある道頓堀今井本店の聖地巡礼をしたいと思っていました。そのために新大阪に寄ることにしました。


道頓堀。


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今年の38年ぶりの阪神タイガースのアレで、ここは毎度のことながらダイブで盛り上がっていましたな~。1985年のバース、掛布、岡田の時代をリアルタイムで経験していた世代なので、その岡田彰布が監督としてふたたびあの夢を実現してくれたというのは、もう感慨深いものがあります。あの頃からもう38年経つんですね。


道頓堀 今井本店は、この道頓堀の通りの中に埋め込まれているような感じで存在しているのです。


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あのナニワの道頓堀の雰囲気と比べると、あきらかにそこだけ異次元の世界と言う感じで浮いています。(笑)大阪らしくないです。


いやぁ~、夢の道頓堀 今井本店初めて足を踏み入れました。とてもシンブルな内装で和装な雰囲気で素敵でした。きつねうどんとなべやきうどんをいただきました。それはそれは美味しかったです。関西うどん、大阪うどんは、やはりだしが透明で、だしが効いているというか美味しいですね。醤油味の真っ黒の関東だしは受け入れないんでしょうね、関西の方にとっては。


すでに閉店になってしまいましたが、ホテルニューオータニの道頓堀 今井にもぜひ行ってみたかったです。


そして翌日、姫路入りしました。


姫路城って駅から見えるんですね。よくSNSの投稿の写真で拝見していましたが、ほんとうにそのように見えるので、あ~ホントだったんだ~~と思いました。JR姫路駅から一直線上の道路が走っていて、その先に姫路城がそびえ立っているのです。


こういうオブジェがあって、ここに立つと姫路城をバックにして記念撮影できるような仕組みなのです。


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姫路城、白鷺城、行ってきましたよ~~~。

いやぁ~ほんとうに美しかった!

ほんとうに真っ白いお城でした。


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写真ではよく拝見していましたが、じかに肉眼で観るのとではもうぜんぜん違いますね。江戸城(天守閣なし)、大阪城、名古屋城、松本城といろいろ見て回ってきましたが、やはり姫路城の美しさは群を抜いていますね。今回の旅行の最大の目的を果たすことができて、よかったです。


姫路という街は、そんなに大きな街ではありませんが、3泊もしていると、もう大体わかるというか、こんな感じの街なんだな、ということが理解できました。3泊も必要なかったですね。持て余していたです。(笑)


姫路駅と姫路城を結ぶ大道路があって、ここに山陽百貨店やFESTAなどの大きな商業施設がありますが、そんなに大都会という訳でもなく、いわゆるお店、もっと小さな庶民的なショッピングモールという点では、その隣にあるみゆき通りというアーケードの商店街モールがあるんですね。いわゆる姫路市民が愛用するショッピング系はこちらがメインなんじゃないかな、と思いました。


姫路に滞在する目的には、姫路グルメを堪能することもミッションでした。


姫路発祥のアーモンドバターを使ったアーモンドトースト。カフェ・ド・ムッシュ 姫路店、はまもとコーヒーで味わえました。



カフェ・ド・ムッシュ 姫路店


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はまもとコーヒー


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そして、姫路といえば、姫路おでんですね。

おでんには関東おでん、関西おでん、金沢おでん、というのを自分はいままで経験してきましたが、姫路おでんというのは、なにが特徴かというとおでんのダシ自体は、関西系の透明の薄味だしだと思いますが、食べるときに生姜醤油で食べるところが特徴なのです。


おでんを生姜醤油につけて食べる。

これが姫路おでんなのです。


商業ビルのFESTAのとなりにある姫路のれん街にある、おでんと串カツと姫路のお店で堪能しました。


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生姜醤油ってあの味ですよ。誰もが想像できるあの味ですよ。我々がお刺身を食べるときに、つけてたべる生姜醤油。あの味です。おでんにその生姜醤油をつけて食べるのです。う~ん、こういうのもありだな、と思いました。ふつうに美味しかったです。



姫路グルメとしてもうひとつ有名なつけ麺姫路の麺哲さんで、姫路城をイメージして創作されたつけ麺をいただきました。つゆがとても甘い醤油味ですごい美味しかったです。


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さて、京都に入ります。


2017年以来だから6年ぶりの京都。京都駅、日本の駅校舎としては最大規模の駅校舎になります。懐かしいですね~。


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京都タワー。

ここにあった京都タワーのお風呂懐かしいです。よく愛用していました。残念ながらコロナ禍の影響を受けて閉店してしまいました。


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京都市バス。京都の寺院仏閣を廻るには絶対欠かせない交通機関ですね。相変わらず劇混みです。


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コロナ禍で大打撃を受けた観光都市京都ですが、外国人観光客の足も戻り、なんでもコロナ禍以前と比べると9割方復帰だそうです。外国人観光客、すごく多かったです。アジア系も多いですが、西洋系も多かったです。やっぱり日本を潤わせてくれるのは、こういうインバウンド景気なんだとつくづく思いました。


今回の旅行ではとにかくコストを抑えたかったので、ホテルは格安ホテルでネットで抑えました。大体1泊5千円くらいな安ホテルです。


新大阪や姫路はそれ相応のいかにも格安ホテルという感じだったのですが、京都のホテルには驚いてしまいました。


京都のホテルは、いわゆる京都のデザイナーズホテルグループが運営するホテルのようで、すごいファッショナブルで高級なホテルでした。もうラウンジからしてすごい!


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ホテルというのはふつう15時からチェックインなので、大抵それより早くホテルに着いてしまうので、フロントのところのチェアで待っているというケースが多いのですが、ここのホテルは”ラウンジ”ですからね。(笑)


もう一気にテンションがあがりました。

これで1泊5千円代、というのは信じられないです。


やはりホテルって重要ですね。ホテルが綺麗で、サービスも高級で、コンシェルジェの方も上品で素敵だと、やはり旅の気分もぜんぜん違ってきます。天と地の差があります。


姫路のホテルがかなり酷かったので、気分的に鬱状態になってしまったのですが、京都で一転して天国に昇ったような気持ちになれました。


やっぱり旅にはホテルって重要なんだな、と思いました。


京都では、三十三間堂や東福寺の寺院仏閣廻り、そして京和菓子 老松の訪問はぜんぶ取りやめにしました。もう足が限界で、あと長旅と精神状態が最悪で、気分がジェットコースターのように上がったり、下がったりで体調がかなり悪かったので、もうこれは無理だと思いました。仕方がないです。


京都に来たら、ぜひ中華そばますたに、を訪問したいと思っていました。

これは絶対外せないと思っていました。


そう長年自分が愛してきた京都ラーメンの老舗。背脂ちゃちゃ系の京都ラーメン。東京、日本橋の京都銀閣寺ますたにラーメンを長年に渡って通い詰めてきたので、その元祖がこの京都の北白川にあるお店ということで、2016年に初めて訪問できました。


”京都銀閣寺ますたに”という名前は、あくまで東京・日本橋にあるお店が独自につけている名前です。元祖は、中華そばますたに、なのです。とてもシンプル。中華そばますたには、銀閣寺の近くにあるのです。それで東京サイドは、京都銀閣寺という冠をつけているのだと思います。


東京・日本橋にある京都銀閣寺ますたには、この中華そばますたに北白川店から暖簾分けされたお店なのです。


どうしても今回もう一回行きたいと思い行ってきました。北白川本店はもちろんですが、今回新たな試みで、京都駅の伊勢丹の10Fにある拉麺小路に、じつはここに北白川店から暖簾分けされた分店が入っているという情報を知りました。


名前はもちろん、中華そばますたに、です。


この情報は初耳でした。


中華そばますたに 拉麺小路店です。


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ここのますたにラーメンは、ちょっと北白川本店の味とも違うし、東京・日本橋の京都銀閣寺ますたにの味とも違う。美味しいけど、なかなか微妙な印象ではありました。でもたしかにますたに系ラーメンの味ではあります。だから確かに暖簾分けの味ではある。なかなか微妙です。



詳しくは本編詳細編で・・・


じつは計画にまったく入っていなくて、予想外だったことがありました。


それはホテルのすぐそばに、餃子の王将 1号店の四条大宮店があったことです。


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現在、海外の3店舗を含む737店舗を全国に展開している餃子の王将。その第1号店が、1967年(昭和42年)12月25日に京都市の大宮駅付近(四条大宮)に一号店を開店したのです。ここがすべての始まりだったのです。


今回の京都のホテルは四条大宮だったのです。餃子の王将 1号店はホテルの目と鼻の先です。そしてホテルに入ったのが12月25日。もちろんこの1号店に入りましたよ。その入った日が12月25日。つまりいまから56年前のその開店日だったのです。いま日記を書くうえで調べてこの事実に気が付きました。(笑)


餃子の王将 1号店に、その開店日の12月25日に入ることができたとは!


餃子の王将は、自分にとってはすべては下北沢店から始まりました。その想い出はいままでお話した通りです。その原点ともいえる1号店 四条大宮店に偶然とはいえ入ることができたとは!これはきっと神様も誘いですね。間違いないです。


餃子の王将 1号店 四条大宮店の中はどうなっているのか・・・

これは本編をお楽しみに~~~。(笑)


そして京都コンサートホールで京響の第九です。

まさか年末に京都で過ごして、京響の第九で1年を締めるなんて誰が予想できたことでしょう!

自分も考えてもいなかったことです。


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大友 直人さん指揮による京響の演奏、小林 沙羅(ソプラノ)、鳥木 弥生(メゾ・ソプラノ)、西村 悟(テノール)、大西 宇宙(バリトン)京響コーラス(合唱)。もう素晴らしい演奏と声の協奏で、これだけの感動を与えてくれたことに大感謝の素晴らしい大伽藍でした。


京響は2016年に初めて実演を体験させていただき、今回で8回目の体験で、ローケーション的に離れているオーケストラとして8公演も聴いてきているなんて、自分はもうすでに京響フリークと言っていいのではないでしょうか?(笑)


自分と運命の節目、節目で縁があるオーケストラだと思っています。

ほんとうにすばらしいオーケストラだと思います。


普段滅多に聴けないオケなので、そのときに遭遇する演奏の感動がいつもすごくインパクトが大きいんですよね。いつも大感動を与えてくれる。自分にとって、いつもそのインパクトが大きいオーケストラだな、と毎度思っていることです。


在京楽団では味わえない独特の感動なんですよね。



こんな感じで過ごしておりました。

近年にない充実した年末の過ごし方だったと自負しています。


12月24日のクリスマスイブは、姫路駅のデパートの中で。


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12月25日は京都駅で過ごしていたのでした。(笑)

こういうクリスマスもいいもんです。


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岐阜は信長の街 [街歩き]

サラマンカホールは、岐阜にあるのだ。名古屋ではないのだ。なので、サラマンカホール、つまりOKBふれあい会館に行くには、名古屋からいったんJRの東海道線に乗り、岐阜まで行かないといけない。そして岐阜駅北口岐阜バスで、20分くらいのところのロケーションである。


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JR岐阜駅の北口はこんな感じで、岐阜駅もなかなか大きい綺麗な近代的な駅のように感じる。


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その北口には、岐阜バスのバス乗り場があって、OKBふれあい会館行は、この5番のりば。平日で1時間に3本、そして土日の休日は、1時間に2本という割合だ。


アクセスとしては結構ハードルが高いです。


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このベンチに座って、バスが来るまでず~っと待っているんだよね。(笑)

なにせ、1時間に2本、3本なので。


お薦めなのは、ホールの開場時間がずっとまだ先で、それよりだいぶ余裕を持ってバス停に着かれた方は、このバス停で開場時間まで待つ必要はないと思う。もう早々とバスに乗って、OKBふれふあい会館に行ってしまったほうがいい。


OKBふれあい会館は、いつどんなときに行っても開場して中に入れるし、とても天井が高い素敵な空間で、テーブルやいすもあることから、早く着いても、OKBふれあい会館の中で待っていればいいだけのことなのだ。それだけOKBふれあい会館の居心地は最高である。


ただ、その中の一部の施設のサラマンカホールが時間になるまで開場しないというだけのことである。寒い外のバス停でずっと開場時間近くになるまで待っている必要はまったくない。


このバス停でバスを待っていると、いろいろ織田信長をプリントしたいろいろなカラーリングバスにでく合わす。さすが織田信長の街、岐阜である。


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こんなお洒落なバスも運行しています。(笑)


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その岐阜駅で途中降りる訳だが、ここにかねてより、自分が訪ねたい場所があった。


それは全身金色の織田信長像である。


織田信長といえば尾張、岐阜出身。まさに岐阜市民については、織田信長像は英雄の英雄、岐阜市民の誇りなのである。


過去何回も岐阜駅、岐阜市に来ているのだけど、織田信長像は観ていないな~と思い、今回意を決して信長像と対面することにした。


岐阜駅の観光案内所のスタッフに場所を聞いたら、なんと!岐阜駅北口の目の前の広場にある、というではないか!(笑)岐阜バス停から見ても、ほんの斜め向かいである。


いままで何回もサラマンカホール、岐阜に来ていながら、まったくその存在に気づいていなかったです。申し訳なかった!


岐阜駅北口に”信長ゆめ広場”というスペースがあり、そこに全身金色の織田信長像がそびえ立っていた。


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両サイドに、信長の名言、天下布武、夢幻のごとくなり、の旗を掲げながら。


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もう感無量である。

ようやく出会えた。


いままで何回も出会えていたのに、このバス停の目の前に存在していることにまったく気づかず、勿体ないことをした。



織田信長


 

戦国時代を駆け抜け、現代において絶大な人気を誇っている武将。

全国の戦国武将ランキングでは堂々の一位。


 

尾張の国(愛知県)で生まれ、尾張統一、美濃を平定し天下布武の印を使用、比叡山を焼き討ちし、長篠の戦に勝利、安土城を築城し、からの本能寺の変。



岐阜県は信長とは切っても切れない関係。

岐阜と名前を付け、鵜飼の「鵜匠」という名前も。

楽市楽座や天下布武の印も。


そこでこの岐阜市に織田信長像を建てることになりました。


 全国各地に信長像はありますが、金色なのは岐阜のみ。


高さは3m、台座も含めると11mに。


制作費は約3,000万円。


金箔3層貼り。


高さに関しては本物の金箔なのでイタズラ防止なんだそうだ。真後ろに交番もある。


税金の無駄遣いと言うなかれ、これは寄贈されました。


そもそも誰が寄贈?


「信長公の銅像を贈る会」


が寄贈したそうです。


 3,000万円必要だったのに建設時には800万円足りず、支払いの猶予をいただいていたそうです。


さらには長年この辺りは「新聞社」のし烈なシェア争いがあります。


・岐阜新聞

・中日新聞


であります。


 


岐阜新聞は岐阜。

中日新聞は名古屋。


創刊は岐阜新聞のが先輩で、岐阜地区の新聞はこれでした。

しかしのちに中日新聞が創刊。


東海地区のシェア1位まで上るんですが、中日新聞としては、どうしても岐阜市のシェアをもっと増やしたい。そこでいろいろ喧々諤々に中日新聞と岐阜新聞の小競り合い、シェア争いの闘いが始まるんですね。


 8月初週に岐阜新聞主催の「全国花火大会(約3万発)」があったんですが、中日新聞は10年ほど遅れてその前週にぶつけていました。「全国選抜長良川中日新聞花火大会(約3万発)」であります。


・・・もうこんな感じをずっと続けてきたライバル同士だそうです。



そこで何か決定的な何か。を作りたい。

ということで、金の信長像が誕生したのだそうです。


 

岐阜市役所はこう言います。


「岐阜駅を出られた多くの来訪者をお迎えする意味合いを込め、岐阜駅北口の中央出入口を向いて設置されております」



信長様がこの方向を向いている理由。


正面から信長を撮ると後ろには、岐阜新聞の広告看板が・・・(笑)


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だいたい観光客は正面から撮りますからね、そうすると必然的に写りこむ。だいたい、広場の一番奥でこれだけ高い台座に乗ってっていうのは少し不自然ですからね。


やっぱり織田信長は岐阜の英雄という強い気持ちがあったのでしょう。

もう岐阜市民の意地みたいなものですね。



織田信長というと、もう戦国時代の革命児、天才型、幾多の過去の風習に捉われない新しいやり方、文化をどんどん取り入れてきた武将。気性が激しく、いままでのNHK大河ドラマでも数々の男らしい二枚目の男優さんが演じてこられてきました。


まさにNHK大河ドラマでもっとも人気のあるコンテンツが戦国時代で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三武将が登場する時代。いままで題材に扱われた回数もダントツではないのでしょうか。そしていつも人気No.1のキラーコンテンツでもあります。


その中でもダントツで人気が高いのが織田信長。信長を誰が演じるのか、はかならず話題になりますね。戦国時代は、たとえ秀吉や家康が主役でも、信長が主役みたいな存在感があります。


もう60年以上のNHK大河ドラマの歴史に中で、ほんとうにいろいろな名優、男優さんが織田信長を演じてこられました。


やっぱり自分にとって大河ドラマの織田信長というと、やっぱりダントツで、1973年の国盗り物語の高橋英樹さんなんですよね~。もう自分にとって信長といえば、高橋英樹さんなのです。もう反射的にそうなります。


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1973年というと、自分が小学三年生のときですね。おそらくこの国盗り物語が、自分がNHK大河ドラマを初めて見たときだったと思います。それ以降ず~っと長年に渡って大河ドラマ見続けてきましたが、その最初が戦国時代ものなのでした。


国盗り物語は、司馬遼太郎さんの歴史小説が原作。前半は平幹二朗さんの斎藤道三で、後半が高橋英樹さんの織田信長が主役という二部構成でした。


もう初めて見る、そして学ぶ戦国時代。織田信長ってカッコいいな~と憧れたのが、高橋英樹さんの信長でした。高橋英樹さんは、ほんとうに時代劇がよく似合うお方で、まさに時代劇と共に人生を歩まれてきた大役者さんです。


豊臣秀吉は火野正平さん、明智光秀は近藤正臣でんでしたね。よく覚えています。


高橋英樹さんの信長はとにかく男らしくカッコよかったです。

ほんとうに武将として最高の二枚目俳優だと思いました。


子供心に信長ファンになってしまったのは、高橋英樹さんの信長を心に刻んでいたからでした。


最近の大河ドラマは、やはり番組のコンプライアンスというかそういうのが厳しくて、あまり切腹とか残酷な部分は描写しなくなり、綺麗な死に方、去り方をさせる演出にあるように思います。


ところがこの時代、1973年当時の大河ドラマは、高橋英樹さんの本能寺の変の信長の切腹は、もう小刀で腹を掻っ切るというのを、まさに音付きで、リアルに見せる描写で、これも子供心にすごい衝撃でした。


あの英雄で、天才で、残虐な信長が、本能寺の変でついに自刃する。。。これはまさに小学校三年生の自分にとってはとてもショックしすぎて、あれから50年も経過している訳ですが、織田信長はやはり高橋英樹といまだに心深くに根付いているのもそういう幼少体験があるからだと思います。


1983年の大河ドラマ「徳川家康」主演滝田栄さんのときの織田信長は役所広司さんが演じられ、この役所広司さんの信長もカッコよかったんですよね~。自分のイメージ通りの好きな信長像でした。忘れられないです。



自分のオヤジやおフクロの世代になると、これまた違うんですよね~。

織田信長は、やはり高橋幸治さんなのです。そして豊臣秀吉が緒形拳さん。


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1965年、ほぼ自分が生まれた年ですが、大河ドラマとして、第2回になるのかな、第3回になるのかな。吉川英治さん小説をそのままドラマ化、太閤記でした。


このときの織田信長役の高橋幸治さんが、それはそれは大人気で凄かったそうです。国民的大人気でもあった。本能寺の変が近いづいてくると、日本全国からNHKに助命嘆願が届いたとか。大河ドラマって結局総話48回くらいじゃないですか?


あまりの助命嘆願書が多すぎて、NHKも本能寺の変を伸ばしに伸ばして、ついにようやく第42回で本能寺を放映。

本能寺の変が第42回なんて。。。(笑)


もうそれくらい高橋治幸さんの織田信長人気は凄かったのです。


過去の信長を演じてきた俳優さんの中でも、高橋幸治さんの信長は、おそらく絶対的な第1位を獲得すると思います。まさにいまの織田信長のイメージをドラマで確立したその先駆者だったのです。


高橋幸治さんの信長は、ひと言で表現するならば、”笑わない信長”だと思います。こういうクールな信長像のイメージを植え付けたのも高橋幸治さんなのです。


自分のオヤジやおフクロの世代は、まさにこの織田信長=高橋幸治、豊臣秀吉=緒形拳の時代なのでした。


緒形拳さんは自分はもう大好き、大ファンでしたね~。

二枚目というよりは、個性派の主役スターという感じで、じつに個性的なカッコいい男優さんでした。あの顔の表情、演技でじつにうまい、個性派俳優さんでした。とくに笑顔が素敵なんだな~~~。


自分はもう大ファンでした。


大河ドラマでももう常連の主役でした。


自分の世代では、加藤剛さん主演の風と雲と虹と、での藤原純友、峠の群像での大石内蔵助だとか、緒形拳さんが主役でした。もうのめり込んだです。


緒形拳さんが木下藤吉郎、豊臣秀吉というのはすごく合っていると思います。

まさに適材適所の配役。あの緒形拳さんの雰囲気にピッタシ!



この織田信長=高橋幸治、豊臣秀吉=緒形拳のコンビを後年の大河ドラマで観れたことがありました。


それが1978年に放映された大河ドラマ「黄金の日々」でした。


もうオヤジ、オフクロは大喜び。すごい喜びようでした。おフクロは、「あら~またこのコンビで出ているの~。いやぁ~うれしいわ~。ほんとうに当時はすごい人気だったのよ。」オヤジも、緒形拳さんの人たらしで飾らない人柄の秀吉に、大笑いしたりして、じつに嬉しそうでした。


自分もふだんから、この織田信長=高橋幸治、豊臣秀吉=緒形拳の伝説を聞かされていたので、黄金の日々でふたたび見れるとは思いもせず、すごい興奮して見ていました。


なんか、すごく嬉しかったです。


でもこの黄金の日々での緒形拳さんの秀吉の描き方は、やはり時代設定が違うからでしょうか、晩年の秀吉にターゲットを絞られていて、もう欲に満ちた悪どくて残虐な秀吉と、1965年の太閤記の真逆のイメージで描かれていました。


じゃあ、1965年の太閤記っていま観れないのか?

そういう映像素材はないのか?


なにせほぼ自分が生まれた年ですから、まず白黒です。

NHKアーカイブスに残っていないのか、NHKオンデマンドで観れないのか?


いろいろ調べたことがありました。

とにかく1965年の太閤記が見たくて・・・


そうしたら、ありました。NHK大河ドラマ名作集というVHSテープで売られていたシリーズですが、この1965年の太閤記の本能寺の変の回だけを収録したVHSテープを販売してくれたのです。


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もう自分は喜んで購入しました。スミマセン、VHSテープで販売されていた時代ですから、これ昔の話ですよ。(笑)いまはもうないかも?あるいはNHKオンデマンドになっているかも?


いやぁあ~高橋幸治の織田信長の最期、しかと拝見しましたです。


こうやって、オヤジ、オフクロが熱狂していた時代の織田信長=高橋幸治、豊臣秀吉=緒形拳を見ることができて、ちょっと溜飲を下げたという感じではありました。


これは常日頃、自分がクラシックの演奏家ファン論で言及している通り、人間ってやはり自分の世代にあったリアルタイム世代がいるんですよ。自分が本気で感情移入できる相手。そういうリアルタイムで本気で感情移入できる相手世代ってやっぱり、その人、その人で、それぞれ世代が違う訳ですから、もう人それぞれなのです。


自分の世代にあったスーパースターというのがいるものなんです。その青春期に憧れたスターはずっと自分の人生のメモリアルの中に永遠に存在するものなのです。絶対忘れられないです。


人それぞれ、人の世代それぞれ、ですから、そのスター達も世代いろいろなのです。


歳をとってくると、人間と言うのは、人に対して感情移入するということが苦手になってくるんですよね~。いつまでも自分のリアルタイム世代のスターを追い続ける、そういう生き物なのです。


オヤジ、オフクロの世代の織田信長=高橋幸治、豊臣秀吉=緒形拳の話をしているときに、ふだん自分がそう思って主張していることに通じるな、と思いました。


もちろん若い世代、これからの若い人にはどんどん頑張ってほしいという気持ちは一寸も変わらないものなのです。











 

 

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名古屋は大都会で観光都市だった! [街歩き]

3泊4日で名古屋に旅行に行ってきました。旅行は、去年の7月の金沢以来ですからもう1年以上のブランクです。やっぱり旅はいいです~。旅は心をリフレッシュしてくれますね。いまこうやって自宅に帰ってきましたが、やっぱり濃密度というか濃さ、充実感がぐっと違いますね。なんかひと仕事終えた感じです。気持ち的な充実感がすごいです。


行く前など、ほんとうに大丈夫?という感じで気持ち的にも散々な感じでしたが、いざ実行してみれば、大きなトラブルもいっさいなく無事にコンプリートしました。国内は安全ですね。


でも足が死んでしまった~。(笑)腰にも若干きてる。。。

横浜シリーズは、土日の2日間だけだから、あとは5日家の中でオフ、休養できますが、旅行で4日連続は、やはり自分の足のハンディからかなり厳しいことがわかりました。


でも、やっぱり旅行、旅は自分の人生のライフワークですね。予算が大変かかりますが。(笑)


先だっての日記では、12月に名古屋、そして姫路、京都とツアーをおこなう、と宣言しましたが、ほんとうに実現できるか怪しくオオカミ少年になる可能性も大でしたが、名古屋はなんとか実現できたです。


年末の姫路、京都もすでにJR、ホテル、そして会社への休暇申請も無事に完了しており、よほどの緊急突発事項が起こらない限り実現できそうです。


名古屋はじつは自分はあまりよく知らなくて、いままで2回しか行ったことがないです。

2015年のアラベラ・美歩・シュタインバッハー&NDRのツアーで愛知芸術劇場コンサートホール、このときに名古屋観光も少々。そして2020年のコロナ禍のとき、このときのスローガンは、”なごやめし”を制覇することでした。そして名古屋観光も大々的にやりました。本当の意味で、名古屋観光をしたのは、この2020年のときだと思います。


今回の名古屋ツアーの意味は、2020年の”なごやめし”で未達のメニューを制覇したいという想いからでした。やっぱり全部コンプリートしたいよな。という感じで。


メニューの予定はいろいろ立てましたが、まっ手羽先はちょっと無理でしたが、それ以外、計画になかったメニューも当日に思いつき、手羽先の分はカバーできたと思います。


やっぱり旅行は、計画通りにいかないですね。計画を立てる必要はありますが、実際現地に行って、そのときの状況に応じて臨機応変に変更していくことが旅のスキルというものです。


そしてせっかく行くなら、ぜひ岐阜サラマンカホールに行きたいということで、サラマンカホール・プロデュースのオペラ「魔笛」を鑑賞してきました。


そして重複にはなるけど、もう1回行きたいということで、熱田神宮、名古屋城に行ってきました。何度行っても感動は大きいです。


それぞれ日記にしていきたいと思っていますが、間違いなく遅筆となることは間違いありません。(笑)

横浜シリーズもあとまだ17章も残っています。(笑)


なによりも12月・1月というのは、仕事で年間でいちばん忙しい時期です。来季予算作成のためにいちばん忙しい時期なのです。自分だけじゃなく、グループのメンバーも全員超忙しい。そんな忙しい12月にいろいろ調整して、名古屋、姫路、京都ツアーを入れ込んだので、自分としてはかなりチャレンジングでした。


でも大丈夫です。

自分なら余裕で間違いなくできます。

その自信をもとにこの計画を立案しました。


・・・ということで仕事、超多忙ということで、日記をいちいち書いていられないと思うので、まずは総集編まとめみたいなものを旅から帰ったその日に書いてしまおうと思いました。


詳細版は、後日・・・ということで。おそらく遅筆に遅筆が重なり、横浜シリーズみたいになってしまうと思いますが。(笑)


名古屋出身や住民の方からすると、なんでそんなツマンナイことにいちいち反応して騒ぐんだよ、と仰られるかもしれませんが、自分は名古屋のことをよく知らないし、もう完全にお上りさん状態なので、見るもの、体験するもの、新鮮で、新鮮で、ついつい日記に取り上げたくなります。怒らないで寛容な目でお願いします。


本番は、後日の詳細版でレポートしたいと思うので、このまとめ編では、ふだんの日記ではあまり取り上げられることのない、いわゆる没となりやすい、そういう写真や事柄を優先して取り上げようと思います。


ふつうなら絶対陽の目をみない些細なことですが、こういうところで陽を当ててあげたいです。

カッコいい主役となるような写真は本番で。


今回つくづく思ったのは、名古屋って大都会だよな、ということです。

ほんとうにすごい大都会。


碁盤の目などの街の形状は札幌に似ていますが、街の規模や道路が何車線にもなっているなど、自分の感覚では、もう札幌よりも1.5倍から2倍くらい名古屋のほうが都市としての規模が大きいと感じることです。


そしてなによりも名古屋駅がめちゃめちゃデカい!


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名古屋駅もクリスマス・モードです。


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ここは東山線で、名古屋駅の隣の伏見ですが、もう道路の車線が何車線にもなっていて、デカいな~と驚きました。まさに大都会です。


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自分の感覚では、もう札幌よりぜんぜんデカいじゃん、という感じですが、人の多さもすごい。東京よりもすごいのではないか、と思うくらいたくさんの人が駅を歩いています。


駅の大きさランキングというのを調べてみたのですが、


1位 東京・新宿駅

2位   名古屋・栄駅

3位   名古屋駅

4位   大阪・長堀橋駅


・・・だそうですよ。

やっぱりな~という感じです。


もうそれくらい名古屋駅デカいな~と思いました。

名古屋でもっとも繁華街なのは栄だと自分は理解しています。(間違ってるかもしれませんが。。)


栄は東山線で名古屋から2駅の近距離で、ぜひ栄の街をぶらぶら歩きたいな、栄の街の景観を眺めたいな、と思いましたが、もう足がゆうことをきかなくダメでした。観光地を回るだけで精一杯でした。



自分は新宿駅はそんなに大きいと感じないのですが、ここでいう駅の大きさランキングというのは、単純に広さ、面積のランキングだと思っています。新宿はいろいろな路線が入り込んでいる都市なので、そういう線路、路線で大部分の面積を食っているのだと思います。人が歩く駅構内はそんなに広いかな?、と思います。



駅の乗客動員数ランキングとなるとまたちょっと違ってきますね。


1位 新宿駅

2位 渋谷駅

3位 池袋駅

4位 横浜駅


という感じだそうです。


でも名古屋駅の人の多さも尋常ではありませんでした。


名古屋駅はとにかくデカい。通路がきちんと碁盤の目状でわかりやすいのですが、なんかどこに自分がいるのか、よくわからなくてずいぶん迷いました。旅の後半でようやく名古屋駅内の構造が分かってきました。それくらい広いし迷います。


名古屋駅はなかなかユニークです。これは地下鉄の東山線の名古屋駅だったか、JR東海道線の名古屋駅だったか、覚えていないのだけれど、ホームの横にこのようにカフェが存在するんですよね。(笑)電車ファンの方には最高なのではないでしょうか。。


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名古屋駅は太閤口と桜通口の2つの出口がありますね。(これに広小路口というのがあるらしいですが、よくわからなかったです。。笑笑)新幹線のりばは、太閤口のほうです。


前回の2020年の名古屋”なごやめし”ツアーのときは、太閤口から出て、地上を歩いて行って、すぐのところにホテルを取ったので、自分はどちらかというと太閤口エリアに土地勘がありました。


でも今回のホテルは、桜通口のほうにあるのです。

こっち方面は初体験です。


まずホテルの場所の確認です。


そうするとホテルに行くには名古屋駅桜通口を出て、地下街の地下歩道を歩いていくんですね。


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名古屋駅の地下歩道にGatewalkとUNIWALLという2種類の地下歩道があるのです。


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もうこれが自分には目新しくて、目新しくて。(笑)


GatewalkもUNIWALLも出口がたくさんあって、いわゆる名古屋駅からずっと地下歩道が遠くまで行き届いていて、その途中から地上への出口がたくさんあるのです。


Gatewalkの出口はこのようにG7とか書いています。Gatewalkの出口だから、Gなのです。


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そしてUNIWALLの出口はこのようにU3とか書いています。UNIWALLの出口だから、Uなのです。


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もう自分は大感動です。(笑)

最初、この出口のところにU3,G7とかあって、このUとかGとかどういう意味なんだろう?と不思議に思っていましたから。あとで気づいてたぶんそういうことなんだな、と思い、自分は大感動したのです。



自分のホテルは、UNIWALLのこのU10の出口から歩いていきます。



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この出口から、さらにちょっとした飲み屋さん街があって、そこをかいくぐっていき結構歩きますが、まっ許容範囲かな、という感じです。コストを抑えるために、1泊6,000円くらいの安宿ですから。文句も言っていられません。


そして海外、国内でもそうですが(特に海外かな)、見知らぬ土地を旅するということは、そこの土地の交通機関をマスターする、自分のモノにするということです。


交通機関が理解出来たら、その土地を制覇できたような感覚になります。


名古屋はJR在来線、東山線、名城線、名鉄線などの地下鉄がすごい発達していて、まるで東京のような感じの迷路図です。地下鉄路線マップを見ると、結構複雑だな~と思います。


最初見知らぬ地名、駅名ばかりですから、恐怖感や怖い感じがしますが、4日間いると慣れてきました。

自分の行動範囲は、東山線、名城線を使うことが多かったかな。


ホテルは安宿ですので、部屋も1人用のビジネスホテルみたいですが、もう自分はぜんぜんこれで十分です。

テレビをつけると、これまた結構刺激的というか面白いんですよね。


地上波テレビというのは、全国版番組と地方ローカル番組との混成ですが、この地方ローカル番組がめちゃめちゃ面白いのです。


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ちょうど自分が偶然見ていたのが中京テレビの”PS純金ゴールド”という番組で、東海3県(愛知県・岐阜県・三重県)のグルメ・レジャー・観光スポットや東海地方の知られざる意外な情報などを紹介するというものです。


で、この日は偶然、年末モーニング特集ということで、この東海3県(愛知県・岐阜県・三重県)のそれぞれ特徴あるモーニングの特集をやっていたんですね。


名古屋といえば、モーニングじゃないですか?喫茶店のモーニングは、名古屋の喫茶店が始めたことなのです。名古屋がルーツなのです。やっぱり名古屋をはじめ、東海エリアの喫茶店のモーニングは、もうめちゃくちゃメジャーな存在、というか至極あたりまえの存在で、このPS純金ゴールドという番組では、べつに年末だけでなくて、普段でも頻繁に名古屋モーニング、喫茶店モーニングを特集しているみたいなのです。


今回の自分のなごやめし・ツアーの中には名古屋モーニング、喫茶店モーニングも重要なテーマでしたから、もう自分は食い入るように見ていました。


最高に面白いですよね。


だって、喫茶店のモーニングをこうやって番組の中心テーマとして取り上げて番組を作っちゃうところがすごい面白い。いかにも名古屋だな~と思い、自分はもう最高に楽しかったです。


もう我々がふつうにイメージするモーニングの域を完全に超えています。(笑)


納豆モーニング、ステーキモーニング、もつ鍋モーニング、ハイカロ(ハイカロリー)モーニング・・・


もうなんでもモーニングにしちゃいます。(笑)


もうスタンダードな喫茶店モーニングの枠を超えたスペシャルなモーニング。

これまでモーニングにしてしまうか!


そんな驚きの連続ですごく面白かったです。

こういうのが、地方ローカル番組のつよみですよね。



やはり自分の旅には、音楽ツアーをつけたいです。

せっかくですから、その地方のコンサートホールを堪能したいです。


自分はどうしても岐阜サラマンカホールを再訪したく、計画に入れました。


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サラマンカホールがプロデュースするモーツァルト・オペラの「魔笛」を鑑賞しました。パイプオルガンとピアノだけで実現するオペラで、自分はそれってオペラとして成り立つのかな?ふつうのオペラ歌手が魔笛を演じ、歌いながら、それでいて楽器の演奏はパイプオルガンとピアノだけ。


これってどんな感じなんだろう?


自分は大変興味深く拝見しました。とくにこの演目を選んだ第一の理由は、サラマンカホールのパイプオルガンを聴けることです。まさに辻宏さんのパイプオルガンをもう一回聴きたい自分としては、もうこのパイプオルガンの音色を聴きたいがゆえに選んだオペラといってよかったです。


これは素晴らしかったのです。


クラシックのコンサートホールのパイプオルガンというと、どうしてもあの腹や体に響いてくるジャ~ンとホール一杯に鳴り響く重厚なサウンドを思い出しますが、今回のオペラでは、そういうイメージと正反対で、すごい音量控えめでまるで通奏低音みたいな伴奏みたいな役割でところどころ主旋律という、そういう立ち回りのように感じました。


主旋律を演じていたのはピアノでしたね。


でもちゃんとオペラとして成り立っているんですよね。

全然違和感ないのです。


もうふつうにオペラを観ている感じで、まったく同じ。


歌手たちのレベルも高く、もうふつうのオペラで驚きました。


かなりレベルの高い魔笛で自分はもう大満足。


パイプオルガンとピアノだけのオペラという発想は、もともとサラマンカホールはそんなに大ホールというよりは、比較的容積控えめなホールなので、ふつうに大編成のオーケストラを入れることができない。ピットもないし、ステージもそんなに広くない。


そこでそういうフルオーケストラを入れずにオペラを実現する。

オペラをパイプオルガンとピアノ用に編曲する。


そういうアプローチのようです。


詳しくは、本番の日記のほうで説明したいと思います。



サラマンカホールは、OKBふれあい会館という施設の中の一部として入っているのですが、そのOKBふれあい会館はとても天井が高くて素敵な空間です。自分は毎回行く度にため息がでてしまいます。


すっかりクリスマスモードでした。


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子供たちによる合唱のコンサートもおこなわれていました。きよしこの夜とか・・・もうたくさんのクリスマスソング。子供たちの歌声、合唱は天使の歌声ですね。


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サラマンカホール、つまりOKBふれあい会館というのは、岐阜にあるんですね。だから名古屋からJRの東海道線で岐阜まで行かないといけません。そしてその岐阜駅からさらにバスで20分くらいのところにあります。しかも1時間に2本の割合頻度。


ロケーションとしては結構ハードル高いです。


行きはふつうに岐阜駅からバスでいいのですが、終演後夜暗くなってからバス停で待っているとか、結構大変です。そこで終演後は、こうやってサラマンカホールから西岐阜駅まで送ってくれる無料のシャトルバスが出ています。小さなシャトルバスですが、ホールと駅の間を何回も行き来して繰り返します。


自分はサラマンカホールに来たときは、帰りはかならずこのシャトルバスを利用します。すごい便利です。

西岐阜駅から名古屋駅までは、もうJRの東海道線です。そして名古屋のホテルで宿泊です。


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サラマンカホールには、こういうシャトルバスがあるんだよ~ということをお知らせしたかったです。これも普段はなかなか陽の目をみない写真、トピックスです。


さて、ここからは観光です。


自分は前回の2020年のときに悔やんでいたことがありました。それは熱田神宮をきちんと自分のモノにしていなかったことです。さらっと本宮を観た程度で、それで終わりでした。



「熱田神宮」は名古屋随一のパワースポットなのです。

数ある神社の中でも別格とされる「伊勢神宮」と比較されるほど、格の高い神社であり、日本の秘宝が保管されている。それだけに見どころも多く、日本の歴史や文化を肌で感じられるスポットなのです。


天皇家に代々継承されている秘宝である「三種の神器」のひとつ、「草薙神剣(くさなぎのつるぎ)」を祀っていることでも有名。


織田信長が「桶狭間の戦い」に挑む前に、この熱田神宮に戦勝を祈願し、実際に戦いに勝利した。織田信長だけではない。豊臣秀吉も徳川家康もこの熱田神宮とは非常に関係が深いのです。


これはぜひしっかり回ってこないといけないだろう、ということで今回メニューに盛り込みました。


まず本宮、本殿でお祈願しました。


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今回は新たな発見としては、草薙館とその草薙庭園を拝見できたことであろうか。刀剣館や宝物館も拝見した。ちょうど秋の紅葉がまだ残っている感じで、すごく美しかった。地面には銀杏の黄色の葉っぱがいちめんに広がっていて最高に美しかった。


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自分にとっては、こういう常夜燈の存在も珍しかった。


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そしてこの熱田神宮は戦国三大武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と非常に所縁の深い神社なのである。


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そして名古屋城。2020年にも名古屋城天守閣だけでなく二の丸庭園、そして本丸御殿など堪能したが、今回は天守閣の裏側に行ってみた。これは前回行っていないエリアである。今回このルートを初めて発見し、ここは前回行っていなかったな、と思い新しい発見であった。



名古屋城天守閣。

相変わらず壮大で美しい天守閣。まさに天下人の天守は五重の天守。日本の名城中の名城であろう。現在は天守閣の中には入れません。


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名古屋城の礎石です。


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礎石って知ってますか?礎石(そせき)とは建物の柱を受ける土台石のことで、単に礎(いしずえ)とも呼ばれています。


名古屋城天守閣の裏側にありました。名古屋城天守閣とは別のエリアに礎石があるということは、いまの天守閣は後年建てられたもので、いわゆるもともと天守閣があった場所とは違うところに建てられているということで、礎石のある場所は昔の天守閣のあった場所だったということかもしれませんね。 



名古屋城天守閣の石垣。

これも今回発見した天守閣の裏側にある撮影スポットでした。


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石垣って美しいですよね~。惚れ惚れします。昔の人はこれをどうやって積み上げたのか、そして斜面をこうやって平たく削ったのはどうやったのか、ほんとうに驚くばかりです。


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二の丸庭園は、前回の2020年にも行きましたが、今回は秋の紅葉が残っているので、もう庭園の美しさとしては、もうダントツで今回のほうが美しかったです。


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二の丸庭園に来たら、この二の丸茶亭で抹茶と和菓子を食さないとダメですね。ここも絶対寄らないといけないスポットです。


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そして名古屋城観光の最大のスポットは、この本丸御殿の屏風画、障壁画ですね。ほんとうにすごいです。名古屋城に来たら、かならずここを観ないといけません。


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今回特別公開と題して、とてもうれしい公開がありました。それはこのように部屋の中に入って、至近距離で屏風画を観れる工夫があることです。部屋の中にカーペットを敷いて、そこを歩くことで、屏風画を間近で観れるというものです。うれしい心配りです。


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さらに普段は公開しないのだけど、今回は特別公開ということで、将軍様のトイレも公開されていました。(笑)


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最後に”なごやめし”です。

これが今回の最大の目的だったわけです。


いろいろ食べました。


まずは名古屋喫茶モーニング。


なにげなく我々が接している喫茶店のモーニングは名古屋の喫茶店が発祥の地。やはり喫茶モーニングを名古屋の喫茶店で体験したいと思いました。


コメダ珈琲にしました。チェーン店なので、東京にもいっぱいあるし別に名古屋でなくてもいいだろう?と言われるかもしれませんが、名古屋の地元民が愛すローカルな喫茶店をよく知らないので、まずは名古屋のコメダ珈琲でモーニングを体験する、というように面目を立てました。


ホテルに向かう途中のUNIMALLの中にありました。偶然見つけました。わざわざ探さなくて助かったです。


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店内は斜面上の勾配になっていて、コンパクトな店内でした。


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喫茶店の証の新聞と雑誌類置いてあります。(笑)


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自分は名古屋喫茶モーニングでもこだわりがありました。それは小倉トーストを食べてみたかったことです。トーストに小倉あんを塗るトーストです。


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トーストにあんこを塗って食べるんだから、大体想像がつくもので、こんな感じだろう、という100%命中の味がしました。(笑)まっあんこって日本人にとって馴染みの深い食べ物ですからね。でもすごく美味しかったです。北海道産のヨーグルトも美味しかったです。



そしてつぎに拘った”なごやめし”は、味噌おでん、どて煮です。

名古屋といえばやはり味噌。おでんも関東おでん、関西おでん、金沢おでんといろいろなおでんが存在しますが、名古屋おでんといえば、やはり味噌おでんなのです。おでんに限らず名古屋めしの基本は味噌、八丁味噌、赤味噌にあります。




どて煮というのは、牛すじや豚のモツを、味噌やみりんで煮込んだ庶民の味。「どて」とも呼ばれています。家庭や居酒屋で愛される名古屋を代表する料理のひとつで、大阪発祥の「どて焼き」から転じた料理ともいわれています。


前回食べれなくて、ぜひ食べたい~と思っていたのが、この「どて煮」なのでした。


名古屋でどて煮といえば島正さん。名古屋の隣駅の伏見にあります。


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店内はすごく狭くこんな感じ。


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島正さんのどて煮は、本体のどて煮だけではなく、大根などの味噌おでんも含んだ感じ。だから正確には味噌おでん、どて煮なんですね。


もっとすごい寸胴で作っているのか、と思いきや、意外に小さいので驚きました。


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キタ~~~。これはウマソ~。最高でございました。


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今回いろいろ食べた”なごやめし”の中でどれが最高だったか、というとじつは矢場とんの味噌カツなのでした。


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事前にネットで写真を見る限りでは、あまりにボリュームあり過ぎで、いかにも血糖値悪化しそう。(笑)これはヘビーすぎるだろう?ということで自分として敬遠したいメニューでした。あまり期待していませんでした。


最初サーブされたときは、ふつうのとんかつなのですが、それに赤味噌をジャ~とかけます。そうすると写真のようになります。


味噌ダレはとろみがあるんじゃなくて、あくまで液体状です。


これがみちゃくちゃウマいんですよ。まず豚肉がすごい高級肉で柔らかくてジューシーで、これは高級豚肉だな~と思いました。そして衣がサックサックで香ばしい。そこに甘い赤味噌ダレがすごい食欲をそそります。


これはウマいです!


ご飯がススム君でめちゃくちゃご飯が進む。

いわゆる腹いっぱい感、食った~感がすごいんですよ。

すごい満足できる。


今回のなごやめしで、いちばん美味しい、印象に残ったのは、この矢場とんの味噌カツなのでした。


まったくの伏兵で、もっとも自分が苦手で敬遠していた味噌カツが、まさか最高に美味しかったとはまったくわからないものです。



矢場とんは本店は矢場町にありますが、足が悪いので、もう名古屋城を見学に来たときに、その名古屋城にある金シャチ横丁の義直ゾーンのお店で食べたのでした。


今回のイレギュラーな予定変更はこの点です。食レポはかならず本店に伺うのが礼儀としてきましたが、見知らぬ土地で本店を探し回る手間や足の状態から、手短に食べられるところにあるなら、そこでいい、という判断にしました。


その他にもあらたにチャレンジする”なごやめし”にこんなものも・・・(笑)

後日詳細にレポします。


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それ以外にも、これは前回も経験しましたが、ひつまぶし、きしめん、台湾ラーメンを堪能しました。これも後日です。



こんな感じでございました。

かなり充実していました。


自分的には満腹感いっぱいの旅行でした。


でも毎日連日、足がひどい状態で、帰りは足を引きずりながら歩ている状態で、ホテルに帰ったら、お風呂で疲れた足、体をほぐし、そしてすぐに就寝につくことです。


でもあまりに疲れすぎて寝れないんですよね。(笑)

もう足がジンジンとして、体内が火照っている感じです。


やっぱり自分の足はハンディがあるな、と思いました。


今回の3泊4日でもうこれだけ足が限界ですから、年末の姫路・京都ツアーは、7泊8日ですよ!

こりゃかなり大変な旅になるな、と思っています。


途中でギブするかも?

大幅旅程削除とか、です。


どうなりますことやら。。。











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自由が丘デパート [街歩き]

自由が丘はおしゃれな街だが、先だっての日記で書いた通り、おしゃれなストリートはあくまで一部なのだ。全部がおしゃれな雰囲気ではない。あるエリアでは、和的ですごく庶民的なお店が並んでいるエリアとか、あるエリアでは飲み屋街、ラーメン屋さん、とかそういう大衆系、そういういろいろな要素を含んだ混在した街なのだ。


世間一般で抱いているおしゃれでハイソな自由が丘の街のイメージはその一部でしかないのである。もちろんそのおしゃれエリアはすごく広範囲に渡るので、それが自由が丘全般のイメージと見なされても仕方ないくらいパーセンテージを占めているのかもしれないが。


20年間自由が丘に通い続けて、そんなおしゃれなイメージとは相いれない一種異様で独特な雰囲気をもつ建物がある。それは自由が丘北口のすぐ真横にあるのだが、20年前から自由が丘に通い続けて、ずっと気になっていた建物であった。


20年間ずっと気になってはいたのだが、中に入ってみようとまでは思わなかった。


デパートである。自由が丘デパートという。


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もう見るからに時代遅れというか、昭和レトロな雰囲気満載で、よく取り壊しにならずにいままで残っていたな、という感じである。いままさに自由が丘駅前再開発で、1丁目29番地地区エリアが再開発中だが、お次はここでは?と思わせるほど時代遅れというか、時代に取り残された感じのする建物である。


この自由が丘デパートってどんなところなのか?


デパートと名が付くけど銀座や日本橋にあるデパートを想像しては全然お門違いである。自由が丘駅のすぐ横にあるレトロな商業ビルである。


昭和の死語が飛び出しても全然違和感ない佇まいである。


ほんとうに自由が丘という若者のおしゃれな街、スィーツの街でよくこんな建物がずっと取り壊されずに残っているな、という感じがする。20年間ずっと気になっていたのだが、1回も中に入ったことがなかった。1度は入ってみたいとず~っと思いながら、20年間が過ぎてしまった。


そして今回自由が丘北口エリアを特集で取り上げる際に、よし!と意を決して、自由が丘デパートに初めて挑戦してみようと思ってみた。実行する前に前日のネットで自由が丘デパートのことを調べてみた。




東京都目黒区の自由が丘。


東急東横線と大井町線の駅があり、ご存じのように「おしゃれでハイソな街」のイメージを持たれることが多い街である。しかし自由が丘駅の改札を一歩出ると、周辺はそのイメージとは異なり、狭い路地に居酒屋がひしめき合い、古い雑居ビルが立ち並ぶ、昭和の香りが漂う雑然とした賑わいがある。


この自由が丘北口の改札を出て右方面の真横のエリアは、かなり昭和の雰囲気が漂っている、いわゆる自由が丘らしくない雰囲気のエリアである。


自由が丘デパートは、戦後すぐの1953(昭和28)年に開業し、鉄筋コンクリートのビルの所々には時代の年季が感じられる建物である。


この「自由が丘デパート」は再開発の対象区域からは外れており、昭和の生き証人のひとつとして、すずかけ通りを挟んでさらに北側にある「ひかり街」ともども、まだ生き続けることとなるそうだ。


まさに驚きである。(笑)


再開発ならまっさきにやり玉にあがりそうな感じだったのだが。。。


昭和28年創業ですよ!まさに自分が生まれる遥か昔のことだ。


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自由が丘デパートは、地上4階から地下1階にかけてのデパートで、このように縦に長いデパートで、中は直線の通路のようになっていて、その両側にファッション・ビューティー・リビング・ライフ・グルメ・カルチャーなど様々なジャンルの最新から懐かしい物まで100店ほどのお店がテナントとして入っていて営業しているのだ。そういうたくさんのお店がひとつの場を共有しているそういうデパートなのである。


自由が丘デパートはテナントを貸し出していて、そこに応募すれば自由が丘デパート内で営業ができる、そんな感じである。


実は昭和28年頃の開業当初は最先端の商業施設だったそうだ。「戦後闇市の流れで簡素な商店を集めてビルを建てたのが最初。当時は珍しく、各地から見学に来たみたい。・・・だそうである。


今じゃ逆に昔懐かしさを求めて来る人も多いそうだ。


大体、自分が抱いているイメージ通りのデパートであった。


自由が丘デパート。さっそく中に入ってみよう!


地上1階と地下1階が物の販売店。


このように長屋みたいに細長く、ちょうど真ん中のあたりに、長い直線状の通路があって、その両側にいろいろなテナントが入っている感じである。地下1階から3階に惣菜、宝石、服飾、エステ、スナック……館内丸ごとおもちゃ箱みたい。いろいろ揃ってる。


中に入ると左右に佃煮・珍味の店や持ち帰りの寿司店、呉服店、婦人服、雑貨店、リサイクル店などバラエティ豊かな店舗がひしめいている。個人経営の小さな店が多く、フリマみたいに買い物を楽しみながら気になる品を見つける楽しさもある。地下1階は貴金属加工や西洋アンティーク、占いなどちょっとユニークな店も。


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上階、下階への昇り降りはもちろん階段である。


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う・・・~ん、しかし昭和レトロだな~。いい雰囲気出していると思います。地下1階に行くと、もう大半がシャッターが降りていて、テナントとしてお店が入っていなくて空なのか、寂しい感じであった。


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自分のお目当ては、2階、3階にあると当初からそのように狙っていた。2階、3階は飲食店街なのだ。2階が食事処で、3階がバーなどの夜に活躍する酒場である。飲食店街は2階と3階にある。2階は和食のほかアジアなど海外系も多く、3階は昭和の雰囲気プンプンのスナックなどが並ぶ。



まず2階の食事処から。このように、地上1階、地下1階とは違って、通路が外に接する一番端にある感じである。そして各お店が右側に入っている。日本、トルコ、インドなど多国籍な店がズラリ。思わず息をのんだ。


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江戸すし。お寿司屋さん


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すきやき、とんかつ一番


最上級の黒毛和牛がコスパよく。すき焼きはカツオダシが利いた割り下と甘いタレを使う関東風で、変わらぬ旨さを家族で守っている。揚げ物は3代目の担当。人気のトンカツはラードで揚げた後、高温の白絞油にくぐらせてあっさり仕上げるのが特徴だ。


ここは入ってみたかったね~。


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ここはトルコ料理「サバラン」


スパイス&野菜たっぷりのトルコ&ペルシャ料理の店。現地の雰囲気漂うインテリアももおしゃれで、名物店主が気さくに迎えてくれる。おすすめの「ミルザガセミ」はカスピ海のナス料理。素焼きのナスをトマトとニンニクで和えて卵でとじたもの。ワインが進む。


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発酵料理の麹。


麹を使った体にやさしい料理が人気。昼は焼き魚や肉の定食類、夜は麹料理や旬の味をつまみに一杯も楽しめる。「豚のしょうゆ麹しょうが焼き」は醤油麹と生姜が利いて風味豊かな味。白いご飯(十穀米もあり)に合う。自家製の麹ドリンクなどもある。


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カラオケ、パブもあります。


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ベトナム家庭料理 QUAN AN TAMTAM(クァン アン タム)



確かに異国の料理だが、地元感あふれるアットホームな味わいが妙に落ち着く。それはきっと、店主タムさんがおばあちゃんから教わった家庭料理がこの店の基本だから。ベトナム人も多く来るそうで、彼らが必ず頼むのがスペアリブ。特製ダレに漬けた骨付き肉はレモングラスが利いた奥深い味。豪快に頬張るほど旨い!


「ベトナム料理は決して辛い味じゃないし、パクチーも苦手なら調整しますからね!」。家族に作るみたいに、そこにはお客さんへの愛がある。



ここぜひ入ってみたかった~。すごい雰囲気ある~。

今度ぜひ狙って行ってみたいです。


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「アーサ・インドレストラン」


インド人のオーナーシェフが本場の味をリーズナブルに提供したいとオープン。カレー2種、タンドリーチキン、シシカバブ、サモサ、サラダ、ナン(またはライス)付き。カレーはトマトベースでコクのある「バターチキン」などから選べる。


いやぁ~ほんとうに多国籍だな~。ここもぜひ今度!


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そして3階。ここはもう昭和の雰囲気プンプンのスナックやバーなどが蒼然と並ぶ。開店、勝負は夜からなので、このときはみんなどこも閉まっていた。


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そして、自分が今回自由が丘デパートに来て、ここはぜひお店に入ろうと思っていたところがここ。


絶品のハンガリー伝統料理を楽しめる「キッチン カントリー」だ。


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2階が飲食店で、3階がスナックなのだが、このハンガリー料理のお店だけ例外に3階にあるのだ。小さなハンガリーである。伝統料理を振る舞ってくれるのはシェフの齊藤さん。もとは洋食店だったが、看板を変えて28年。今はハンガリー料理の名店として愛されている。現地や大使館の人に教わったという味はパプリカの粉末を使う国民食のスープ「グヤーシュ」など煮込み料理が多く、日本人にも親しみやすいものばかり。パプリカは日本でいう味噌のような存在で、食卓に欠かせないのだそう。鮮やかな朱色と香りが食欲を刺激する。


じつは世界の朝ごはんのつぎの12月・1月のメニューは、ハンガリーの朝ごはんなのだ!

ようやく!長かった!!!


2022年12月29日のルーマニアの朝ごはん以来、じつに1年ぶりに世界の朝ごはん。

すでに経験済みの国の朝ごはんは2回はレポートしないというポリシーのもと、それは主催者側からするといままでのたくさんの国の朝ごはんのレパートリーを複数回回したい、という意図もよく理解できるし、ずっと見守ってきた。


そうして、いよいよ次回の12月・1月が自分にとっての初めての国、ハンガリーの朝ごはんとなった訳だ。1年ぶりの再会。世界の朝ごはんレポ再開。楽しみです。ちなみにハンガリーは行ったことないです。(笑)クラシック音楽との縁で言えばハンガリー舞曲ですかね?


そんなタイミングにドンピシャだったのです。この自由が丘デパートのハンガリー伝統料理の「キッチン・カントリー」は!


まさに前哨戦でした。


もちろん事前にそんなことはいっさいつゆ知らず、このキッチン・カントリーを経験した後日に世界の朝ごはんのハンガリーの発表があったのでした。うれしいシンクロニシティです。


店内は比較的こじんまりしたスペース空間ですが、ハンガリーのインテリアやお酒などがいろいろ飾られており、とても素敵でした。ここはいいお店だと思うな~。最高の隠れ家を見つけた、という感じです。


こんな素敵なハンガリー伝統料理のレストランが、まさかこの昭和レトロ色いっぱいの自由が丘デパートの中に存在するとはだれ一人思わず。まさに隠れ家レストランというのは、こういうところのことを言うのでしょう。


お店に入った瞬間、ハンガリーの国旗一色のカラーで独特の地域色豊かな色彩が目を奪います。


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在日ハンガリーの方もよくいらっしゃっているみたいで、そのサインがたくさん飾られています。みんな自分の故郷の味がここに来れば食べれるということで、贔屓にしているんですね。それはよくわかります。


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ワードスプリング著 単行本 「大使館御用達レストラン」にもこのお店は掲載されています。まさにハンガリー大使館御用達のお店なのです。


日本では珍しいハンガリーのアラカルト料理が豊富で、トカイやエゲル、ビラーニ地方のワインも取り揃えている。ハンガリーはヨーロッパでも数少ないアジア系民族と言われていて、どこか懐かしい味がする料理ばかりなのである。




ハンガリーの伝統料理がとても気になったことも理由だけど、もっと決定的だった理由は、ここのロールキャベツが食べたかったからである。


ロールキャベツ大好き。


もちろん親元を離れて、一人暮らしになってロールキャベツを食べることなんかほとんどない。

自分もほとんど記憶がない。


子供の頃、おフクロはよくロールキャベツを作ってくれた。

ロールキャベツはトマトケチャップベースのものが大半だが、子供のときにテレビ番組で偶然見たクリームソースベースの白いロールキャベツがすごく印象に残っていて、白いロールキャベツが食べたい!と母親におねだりしたことがあった。


おフクロは、シチューのルーを使って、それをロールキャベツと組み合わせて、白いクリームソースベースのロールキャベツを作ってくれた。子供の、ただ白いクリームソースベースのロールキャベツが食べたいという無茶ぶりにきちんと応えてくれたのである。


嬉しかったし、もちろん美味しかったことは言うまでもない。

ロールキャベツにはそんな想い出がある。


ロールキャベツを食べさせてくれる有名なお店があるみたいなので、ぜひ訪れてみたいと思っている。


そんな子供の頃のセンチな想い出も引きずって、ぜひロールキャベツが食べたいと思ったのだ。このハンガリー風のロールキャベツ 「トルトット・カーポスタ」の写真を見てこのお店に即決したのである。


結局このお店では2品を頼んだ。

ランチだったのだが、どれも1品につきライスがついてくる感じで、2品頼んだのだが、1品づつライスがついてくることになってしまった。(笑)でも大食漢の自分にはぜんぜん平気。物足りないくらいでした。



グヤーシュ


ハンガリーで最も有名なスープ。牛肉を粉末パプリカ入りスープーでじっくり煮込み、玉ねぎ、トマト、フレッシュパプリカを加えた朱色のスープ。見た目よりもさっぱりした味。


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ハンガリー料理といえば、このグヤーシュでしょう!というくらい代表的な有名ハンガリー料理。パプリカというのは日本ではあまり聞いたことがないのだが、ナス科の多年草であるトウガラシ属トウガラシの栽培品種の一つだそうで、またはその品種を原料とする香辛料の名称のことだそうだ。パプリカは日本でいう味噌のような存在で、食卓に欠かせないのだそうだ。このグヤーシュ、見た目は朱色のスープで、まっ一瞬口にした感じではトマトベースな感じのかなりさっぱりした口あたりというか美味なスープであった。ハンガリーの代表料理の一番手を制覇できてよかったです。



そして・・・


トルトット・カーポスタ



ハンガリー風のロールキャベツ、玉ねぎ、挽肉の詰め物にお米を加えて、湯がいたキャベツで巻き、粉末パプリカを入れて、たっぷりのブイヨンでゆっくり優しく煮込んである。ボリューム満点の一品で、時間を掛けてとろとろに煮込んであります。


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これだ~~~!まさにこのロールキャベツが食べたくてハンガリー料理レストランにしたのだ。

しかも個人的にもロールキャベツは大好きで子供の頃からいろいろ想い出のある一品。


これはまさに最高でした。写真にいっさいの偽りなし。もうそのまま見た通りのウマさです。パプリカ、グヤーシュベースというか、朱色、オレンジ色で煮込んであるが、まっトマトベースに近いと言えば近いかな。そして中の挽肉のボリューミーなこと。まさに食べ応えがある、という感じで至福の一品でございました。


ロールキャベツって美味しいよね~。

でも自分で作るのって意外と手間かかるんでしょ?(笑)


まさにこのレストランの最大の見せ場のメニューだと思います。このハンガリー風ロールキャベツは。。。


このキッチン・カントリーで頼まないといけないメニューは、自分が頼んだこの二品だと思います。

グヤーシュとロールキャベツ。


この隠れ家レストラン、ぜひこの二品お試しあれ!!!



これで、世界の朝ごはんのハンガリーの朝ごはんの前哨戦をここで迎えることができました。

ハンガリーの朝ごはん、とても楽しみにしています。


そしてハンガリー、行ったことないですが、ぜひいろいろ紹介して熱く語ってみようと思っています。



まさにおしゃれでハイソな自由が丘の街に昭和レトロな、こんな建物があるのか!と驚きの自由が丘デパート。こんな感じの建物でした。20年間の謎が一気に解明しました。



この自由が丘デパートの横のエリアに、居酒屋、焼き鳥屋、飲み屋街、ラーメン屋などのいわゆる横丁的なお店がずらっと立ち並ぶんですよね。もうぜんぜん自由が丘の街のイメージと正反対。まさに昭和の雰囲気で、自分のようなオヤジの世界。


このエリアのことをなんというのか、きちんとした呼称があるのか、いろいろネットで調べたのですが、よくわからなかったです。”自由が丘横丁”という名称があって、このことかな、と思いましたが、地図を見るともっと小さな固定エリアみたいだし。。よくわからなかったです。


こういうエリアの雰囲気も、もうひとつの自由が丘の顔なのです。


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おしゃれな街「自由が丘」が密かに抱いている危機感 [街歩き]

この写真が去年2022年までの自由が丘駅(北口)の風景だ。


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それが今年2023年からこれである。工事中である。かなり大規模だ。2023年からスタートしたと思われる。


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自分は、今年10月の自由が丘女神まつりのときに、北口絶賛工事中であることに気づいた。

これはなんなんだろう?

なんの工事なんだろう?


調べてみると、なんと!高さは約60メートル、地上14階建ての複合施設が建てられるらしい。低層部に商業施設、業務施設が入り、上層部には住宅が造られる。事業協力者はヒューリック、鹿島建設。


今後の予定としては、2023年度に工事に着手、竣工予定は2026年度だそうだ。


自由が丘一丁目29番地地区市街地のエリアだ。


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自由が丘にショッピングモール?

どう思います、これ?(笑)

自由が丘駅前にこんな高層ビルが建つらしいですよ。。


あれだけ商店会の組織が一致団結して、けっして大きなデパートやショッピングモールなどを造らせない。そういう個人店などマニュアル的な雰囲気が魅力だった自由が丘に、ついにショッピングモールを作るという。


現在の自由が丘駅周辺でもっとも高いのは9階建てということを考えると、これまでにない高さの建物になる。



日本一結束力の強い自由が丘商店街振興組合が、これを許したのだろうか?

高層ビルのなかった街が大型再開発に踏み切る訳はなんなんだろう?


いろいろ記事を読んでみると、やっぱり街造りって、ほんとうに大変な仕事というか、要は考える先のスパンが長くて頭の容量が相当広く、いろんなケースを読みながら作戦を練っていくそういう知的労働なんだな、と思いました。


そりゃ世の中には、いろいろな仕事がありますが、街造りは、スケールがすごい大きい仕事ですよね。街を造っていく。これは並大抵のレベルでないほどスケールが大きい仕事だと思う。


自由が丘駅前再開発にはこんな事情があったようだ。


●新宿や池袋、二子玉川、武蔵小杉との競争


ここ10~15年、このままでいいのかという議論が起こってきたと、自由が丘のまちづくり会社で都市再生推進法人であるジェイ・スピリットの岡田一弥氏は言う。


きっかけは東急線の相互直通運転だった。新宿や池袋など他の魅力的な商業地域とダイレクトにつながることになり、これまで並び称されてきた代官山、下北沢などとは異なる、より広範な地域間での競争を意識せざるをえなくなったのである。


加えて二子玉川や武蔵小杉の変貌もあった。


「自由が丘は鉄道、道路といったインフラが整備されないままにきた街。課題である迷路のような細街路の魅力を武器に専門店の集積として発展してきましたが、一方で諦めてしまったものもあります」と岡田氏。


「かつて6館あった映画館は今はゼロ。大きな床がないのでホテルも、オフィスもありません。駐車場、駐輪場も足りない。生鮮三品を扱う店も以前からの店はほぼ死滅している状態。対して二子玉川や武蔵小杉にはそうしたものが全部揃っています」




周囲の変化に対する危機感に加え、この10年ほどは建物の老朽化が進んでもいた。建て替えを考えても駅前では交通を遮断するわけにいかないため、単独建替えは難しい。さらにいつ始まるかわからない都市計画道路工事もある。そうした諸問題を解消、建物を更新するためには共同で建替えるしかないという声が出ていた。


その結果が現在進んでいる再開発である。再開発はデベロッパーや自治体から地元に声がかかり、彼ら主導で進んでいくことが多い。だが、自由が丘では主体は地権者。このままではまずいという1人の意見に徐々に地域の人たちが賛同、みんなで解決策を模索した結果、自分たちで開発を決めたのである。


再開発と言いながら、実態は共同建替えに近く、自分たちが所有している土地を鑑定、その評価分を再開発後の床と交換すると考えると等価交換とも近いと岡田氏。かなりの商店主が新築後の建物で商売を再開する予定になってもいる。



・・・まとめると、こういうことですね。


・東急線の相互直通運転で、新宿や池袋など他の魅力的な商業地域とダイレクトにつながることになり、より広範な地域間での競争を意識せざるをえなくなった。要は新宿・池袋と勝負しないといけなくなった。


・二子玉川や武蔵小杉の発展・変貌も大きなトリガーになった。ライバルとして、置いてかれるんじゃないか。


・この自由が丘一丁目29番地エリアの建物は、どれもみんな老朽化が進んでいた。なんとかせにゃあかん。

・このエリアのある建物だけを単独で建て替えるのはいろいろ難しいので、もうこのエリアに立地している建物は全部建て替えてしまう。

・それイコール、このエリアのお店は、ぜんぶリニューアルで再開ということになると、ショッピングモールというスタイルが望ましい。→事実この複合施設が完成した暁には、この建物を建て替えたかなりの商店主は、みんなここに入ってもらい商売再開という手続き。


・今回の再開発は、自由が丘の地権者の1人のこのままじゃまずい、という意見に、みんなが賛同したつまり商店会一致した意見である。けっして自治体やデベロッパーからの動きではない。→そういう意味で自由が丘らしい、従来からの秩序は守られている。



・・・こういうところなんですね。

う~ん、筋が通っていると自分は思いますね。


そりゃいままで自由が丘独特のイメージ、ブランドが大きく変わろうとしているのだから、どうなのか、というファンの意見もありそうだけど、こういう先を見据えた背景を考えたうえでの決断は納得せざるを得ないのではないか。


街造りは自分の街のことだけを考えるのではなく、隣接する街との関係、負けちゃいけない。負けると自分たちの街への観客動員数が減ってしまう、ライバルの街にとられてしまう。そういう世界なんですね。そういう意味で東急線の相互直通運転は影響大でした。



さらには、再開発で生まれるビルには、駐車場、駐輪場、共同荷捌き所、無電柱化を進めるための電力システムなど、今、自由が丘に足りていないものを備えるという。加えて、細街路に個店が並ぶ、いかにもこの街らしい自由が丘サンセットエリアへの人の流れを促すよう、建物内を貫通する通りも作られる。足元には幅4.5mほどの歩道空間も生まれる予定だ。


これはすごく大きいことではないですか?


先の日記で、自分は自由が丘のストリートの中でもっともオシャレで自由が丘らしいストリートというのは、サンセットエリアだと思っていましたから。そこにそのビルから人が流れるように直結の通路を造る、というのも、なるほどな~と思います。


自由が丘のいちばんオシャレなストリート、いちばん人気のあるストリートとの融合ですね。街造りって、人の動線を考える、とよく言われることですが、自由が丘としていちばん人気スポットを自分たちはよく知っているうえでの戦略なんでしょうね。





また、このビルには、低層階には商業、業務機能を入れ、7階以上を賃貸住宅に充てるというのも他の再開発にはない点だ。自由が丘の大きな顧客である隣接地、田園調布では高齢化が進んでおり、165㎡という住宅の最低敷地面積の制限もあって若い人の流入がそれほど多くは見込めない。だが、自由が丘駅前の賃貸住宅であればこれまでと違う層の流入が期待できる。



なんか、こうしてみると、今回の自由が丘駅前再開発、複合施設、大きなショッピングモールの建設はそんなに違和感のない、自分は受け入れられる内容だと肯定的に考えるのですが、どうでしょう?


なによりも自由が丘の地権者が自ら決めていることだ、ということが重要ですね。いままでどおり、自由が丘の商店主みずからが決めて進めていることなのです。


そりゃ最初は、自由が丘に高層ビルのショッピングモール!自由が丘も渋谷みたいになっていくのか、と危惧してしまいますよね。それが普通の感覚だと思います。


街造りって、ほんとうにスケールの大きい大変な仕事ですけど、夢もありますね。

でもほんとうに大変な仕事だ。



現在、自由が丘には最少10人、最多380人という12の商店街があり、それを束ねる形で自由が丘商店街振興組合がある。会員数はコロナ禍で少し減ったものの1250人ほどでおそらく日本でも最大級の商店街振興組合である。



それだけの商店街がまとまって動けばインパクトは大きい。たとえば自由が丘では季節に応じて8つのイベントが開催されているが、そのうちでも最大規模の「自由が丘女神まつり」の来場者数は約50万人以上とも言われるほど。隣り合う商店街はたいていの場合、仲が悪いものだが、自由が丘では一緒になって街を盛り上げ、それで成功してきた。一体感がある街なのである。


イベント、祭り以外にも夜間のゴミ収集事業、個店の煩雑なカード決済業務を引き受けるカードビジネス、その他、商店街振興組合はさまざまな事業を行っており、前述のまちづくり会社も商店街発。2002年から商店街が行政、鉄道会社その他地域の関係者と連携、まちづくりを先導してきた。自らの発意による再開発もその流れなのだそうだ。


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今回の自由が丘駅前再開発でググって検索してみると、


駅近施設「トレインチ自由が丘」もリニューアル


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こんなのもあった!

しかも地図を見ると、自分が普段病院クリニックに行く途中である。(笑)


あれ~こんなところあったっけな?こんな施設見たことないな~。

しかも完成図をみると、すごい近代的でおしゃれっぽい装いだ。

確かあそこ、いつも工事中だったから、あそこのことかな?


それで昨日、クリニックに行った後に寄ってみたらありました。


「トレインチ自由が丘」



解放感あふれるオープンモール型の商業施設。

「自然と過ごす、街の“あいま”で」をコンセプトに、

緑豊かな屋外空間と居心地の良いラウンジで

“自然と”過ごせる場所を提供します。


ここですね。


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基本は商業施設ですね。全体の雰囲気が開放感があって、いかにも自由が丘らしいテイストの建物です。いろいろなショッピング施設が入っています。雰囲気がいかにも自由が丘らしいです。


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オフィス・ラウンジみたいなところもあります。


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ここのカフェが最高に素晴らしいと思いました。

かなり素敵です。病院に行く途中にあるので、今度頻繁に利用したいと思います。


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情報引用元:


おしゃれな街「自由が丘」密かに抱いていた危機感

高層ビルなかった街が大型再開発に踏み切る訳(東洋経済)


















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自由が丘という街はなぜおしゃれで魅力があるのか。 [街歩き]

自由が丘という街は、東京都の目黒区である。


自由が丘というと、やはりスィーツ、ブティック、カフェ、アパレルなどが並ぶおしゃれな若者の街。

銀座、六本木、表参道、青山、代官山、そして自由が丘。


いわゆる、東京のファッションセンスあふれて、おしゃれな街といったら、ここら辺が浮かび、自由が丘はかならずその筆頭にあがる人気の街である。


自由が丘は、その昔、衾ふすま村という農村であった。1927年に東急東横線が開業し、大字衾が大字自由ヶ丘に改名されたのは1933年である。名前の由来は1927年に開校した自由ヶ丘学園である。ちなみに自由ヶ丘駅が自由が丘駅へと名前を変えたのは1966年になります。


まず、自由が丘ほど東急沿線で、東急の存在が感じられない駅はないと思います。少なくとも特急停車駅でここまで感じられないのは、自由が丘ぐらいでしょう(笑)(中目黒駅もそれほど感じられませんが)。二子玉川駅や武蔵小杉駅に比べると、極めて対照的である。


それはなぜかというと、自由が丘には二人のビジョンを有した大地主がいて、彼らを中心にボトムアップで街づくりをしてきたという経緯があるからである。つまり、サラリーマン集団である企業がつくった街ではないのである。


いま渋谷は100年に1度という渋谷再開発ということで、大々的な大変革を遂げようとしていると思うが、あれはやはり東急グループという大企業が、綿密な計画を立てて、計画的にプランニングされた企業の造った街と言えると思うのである。


自由が丘はそういう街ではないのである。


自由が丘商店街の活性化のための発想のスタンスって、活性化と開発の主体はあくまでも地元商業者と住民であるという姿勢を育んだところに独創性があって、現代に至る多くの商店街の活性化と開発が、行政や民間ディベロッパー等の主導であるのと比べて、マリ・クレール通りを始め、自由が丘の中心部には大型のショッピングセンターやアミューズメント施設はないのにもかかわらず、多くの来街者を集め、常に住みたい街の上位を占めている。


これが自由が丘という街のオリジナリティでもあって、自由が丘ならではの独特の街景観がある所以なのだと思ってます。


それが理由だと思うのですが、ここの街には手作り感と地元感が溢れている。そして、東急のような大親分がいないので、個人がそれぞれ頑張っているという空気に満ちている。個人は千差万別ですので、全員が同じ方向を見ている訳ではない。しかし、自由が丘という街をよくしようという大きな目標では一致している。


そして自由が丘が広く女性を引きつける理由は、スイーツの大メッカであることではないだろうか。


自分も自由が丘に20年間も通い続けて、感じることは、自由が丘はやはりスィーツの街だよな~ということです。これはヒシヒシそう感じます。自分の実体験がそう感じさせます。もう長い経験でいたるところにスィーツのお店を発見すること。ほんとうにスィーツのお店が多い。



自由が丘にはスイーツ・フォレストというお菓子のテーマパークのような施設があります。このような施設があるだけあって、自由が丘のお菓子の街という特徴は図抜けています。統計でみても、自由が丘ほどスイーツ関連のお店が集積している街は東京にはありません。そして、東京で一番ということはもしかしたら世界で一番、スイーツが集積した街かもしれないのです。


モンブランというケーキをご存知かと思います。モンブランというと、フランスの最高峰の山ですから、当然、フランスだろうと思う人も多いかもしれませんが違います。モンブランは自由が丘発祥のケーキなのです。


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そのモンブラン発祥の地ということで、そのモンブランのお店もぜひ訪問してみたい、そのように思っていました。モンブランというと自由が丘南口のマリクレール通りのところにカフェ・ラミルというカフェがあってここのモンブランは、いわゆるふつうのスタンダードなモンブランとは違って、一種独特のクリーム豊かなケーキで大好きで大好きで、好きすぎて、何年もずいぶんと通いました。クリスマスケーキとしてホールごと買ったこともあります。(笑)いまは閉店し、そこにはモーツァルトという新しいカフェがオープンしていました。


自分には自由が丘のモンブランというとそんな想い出が脳裏に焼き付いています。


でもモンブラン発祥のお店でのモンブランは、やはり楽しみです。ぜひ行ってみたいと思っていました。


他にも王選手のコマーシャルで知られているナボナ、マカロンが日本で最初に販売されたのも自由が丘のダロワイヨです。これらの流れを決定づけたのが洋菓子の鉄人、辻口博啓氏がオープンしたモンサンクレールでしょう。彼もそうですが、今、自由が丘はスイーツの登竜門、メッカのようになっているのです。


彼が自由が丘に出店したのは、自由が丘こそがスイーツの登竜門であると思ったからだそうです。そして、今は日本の、いや下手をしたら世界のスイーツのメッカになっているのではないか、とこれらのスイーツ店を訪れる外国人観光客の多さをみると思ったりします。さて、それでは、なぜこのような個店が集まることによってスイーツの街としての自由が丘が特別な魅力を放つことになったのか。


美味しいスイーツを手がける独立店のパティシエたちは、手作りを基本とするので量産が難しい。しかも、味に拘って生クリームや生チョコレートなどを用いると日持ちはしない。そうすると、美味しいスイーツは地元の個店で購入するのがベストな選択肢ということになります。逆にいえば、近くに美味しいスイーツ店がないと、なかなか美味しいスイーツにはありつけないことになる。したがって、美味しいスイーツを自分へのご褒美にたまに食べたいな、と思う方は、それを前提として住む街を選ぶことをお勧めすることになります。



なぜ自由が丘にそんなにスイーツが集まったのか。これに関しては、『自由が丘スイーツ物語:ケーキで人を幸せにする街』(阿古真理著)という素晴らしいネタ本があります。その本で書かれている内容を整理させてもらうと、大きな理由の一つは歴史。日本で最初にシュークリーム、モンブランを出したお店が自由が丘であったこと。


ダロワイヨも日本一号店は自由が丘。そして、前回もちょっと話をしましたが、そのステータスをさらに浮揚させたのが「スイーツ鉄人」の辻口博啓氏。辻口氏は最初の店舗を自由が丘に出すことに拘るのですが、それは「駅が小さく」て、「お菓子の街みたいな雰囲気がにじみ出ていて、いい街だな」という印象を持ち、気に入ったからだそうです。そして、辻口氏の「モンサンクレール」でスイーツの知名度がさらにアップした自由が丘には、良質な店が以前よりも集まるようになってきました。都市の経済学で言う「地域特化の経済」という利益が、自由が丘においては顕在化されたのです。



自由が丘の凄いところは、単にお店が多いというだけではなく、そこで新しい商品を創造することができている点です。なぜ、このようなクリエイティビティが街にあるのか。前述した『自由が丘スイーツ物語:ケーキで人を幸せにする街』で、著者はその秘密を地元の古本屋さんに尋ねているのですが、この彼の回答が非常に的を射ていると私は思うので、ここに紹介させてもらいます。


「それと、自由が丘には大資本の企業や商業施設がないんです。スイーツ店にしろ、洋服やにしろ、自然のバランスで成り立っているんです。大資本は地主でした。だから魅力ある街になっているんだと思います」(p.219)。


スイーツのようにデリケートでつくるのに繊細な神経が必要で、大量生産が向いてなく、しかも材料が傷みやすいものは、チェーン店や企業的なアプローチではなかなか質の高いものがつくれず、個店に勝算が見出せる商品なのです。大資本の企業や商業施設がない自由が丘はスイーツという分野においては個店が勝負できる街なのです。


このようにスイーツ好きは、街をしっかりと選ばないと美味しいスイーツに巡り会えないということが分かっていただけたかと思います。


情報引用元:


まちづくりで住宅を選ぶ 自由が丘という街はなぜ魅力があるのか? 服部圭郎





スミマセン。。。ついつい自由が丘はスィーツの街ということで熱く語ってしまいました。


やはりスィーツって、デリケートでつくるのに繊細な神経が必要で、大量生産に向いていなく、しかも材料が傷みやすい。これは大資本のチェーン店や企業的なアプローチでは質の高いものが作れない。個店に勝算が見いだせる商品である。。。


ここなんでしょうね。


そして自由が丘は、「駅が小さく」て、「お菓子の街みたいな雰囲気がにじみ出ていて、いい街だな」なんでしょう。こういうところが自由が丘がスィーツの街といわれる所以なのだと思いました。



自由が丘南口、マリクレール通り、九品仏緑道については、もう20年のおつきあい。

もういままでご紹介してきた通りである。


でも自由が丘北口のエリアは、ふだんあまり行かないんですよね。

これでは自由が丘を知っているとは言えない。


自由が丘のメインは、やはり北口エリアではないのか。

自由が丘のメインスポットは、やはり北口エリアなのである。


そこで自由が丘北口エリアを徹底的に歩いてみよう。街歩きしてみよう。

そうすることで、自由が丘という街を理解することができる。


街歩きってやはり自分の足で歩いてみて、自分の目や耳で街の景観を感じて、街の喧騒を聴かないと自分のモノになったとはいえないと思う。


リアルでその街を歩かないとほんとうに自分のモノになったとは言えないと思います。

・・・ということで、かねてよりの有言即実行!


昨日、自由が丘北口エリアを徹底的に歩いてみたのである。


自由が丘の街をどのように歩いていくか。

自分は、自由が丘の通りに、その名前がついているストリートに注目しました。


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自由が丘という街はとても素敵で、それぞれのストリートに名前がついているんですね。


●自由が丘北口


・ヒルサイドストリート

・サンセットアレイ

・女神通り

・カトレア通り

・すずかけ通り

・わかくさ通り

・メープルストリート

・しらかば通り

・ヒロストリート

・ガーベラ通り(学園通り)


●自由が丘南口

・マリクレール通り

・九品仏川緑道(グリーンストリート)


自由が丘って、こういうふうにストリートに素敵な名前がついているのです。自分が20年間知っていたのは、南口のマリクレール通りと九品仏川緑道(グリーンストリート)だけだった、ということになります。


いわゆる自由が丘の本場としては、やはり北口のたくさんのストリート沿いに、スィーツ、ブティック、カフェ、レストラン、アパレルなんかが集中しているのだと思います。



じゃあ、この北口エリアの10本のストリートを全部回ってしまおうじゃないか!


そう思いました。そうすると各々のストリートでもっとも印象的な通りはどこなのか、それぞれのストリートでどのような特徴があるのか、それをストリートごとに眺めていって、そのストリートの総合体として、最終的に自由が丘という街の特徴を捉える。そういう戦法にしたのです。


結局、この日、この北口エリアの10本のストリートを全部回り、それを2回繰り返して見て回りました。もう大変な歩行距離です。おそらく歩行距離としては、横浜シリーズの最高記録を抜いたと思います。自分でもよくやったと思います。もう昨日は帰って来てから、もう腰が重くて足がジンジンとむくれ上がり、体内が火照り上がっている感じでした。さっそく熱いお風呂で体を解し、ぐっすり寝て、朝起きてようやくなんとなく元に戻ったかな、という感じです。


でもまだ本調子ではありません。疲れが残っている感じ。

歩き過ぎって、じつは健康にあまりよくないらしいです。(笑)


そしてなにより大変だったのは、ストリートとその場所の景観を頭の中で紐づける作業です。

ストリートは、もうこの日スマホの地図を見ながら、ここは〇〇ストリートとぶっつけ本番です。なにせ10本もストリートある訳ですから。そしてふだんあまり歩かない土地勘のない北口エリア。


ぶっつけ本番で、地図を見ながら、この場所のこの景色は○○ストリートと頭の中で地図とそして眼で景観の紐づけをおこなうのです。これはなかなか大変な作業でしたよ。(笑)


膨大な写真を撮影したのはいいけど、あとでそのたくさんの写真群を見たとき、この景観はどこのストリートだったっけ?となってしまいます。


この紐づけ作業はとても重要なタスクなのです。


自分はこの作業は結構得意だと思ってます。


もちろん道端には、こういう感じで、ストリート名が碑として立っている場合は大半でしたので、スマホの地図を頼りに、この碑を見つけるという作業でしたね。それで、いまここは〇〇ストリートなんだ、ということを再確認する、という感じです。


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やっぱり旅人にはこういう才能が必要ですね。こういう才能に長けていないと、なかなか見知らぬ土地、とくに海外でスムースに目的地に行くということはできないと思います。



この自由が丘北口エリアの10本のストリートのそれぞれの景観は、また別途、別日記で、”自由が丘ストリート”というタイトルで日記にしたいと思います。ここでは簡潔に要点だけをまとめたいと思います。


昨日、この10本のストリートを全部回り、その景観とストリート名を紐づけて、それで自分が抱いた印象です。


自由が丘北口エリアの10本のストリートの中で、もっともオシャレな景観なのは、


・ヒルサイドストリート

・サンセットアレイ

・カトレア通り


この3ストリートです。自由が丘がオシャレ~というイメージなのは、この3ストリートの景観のことを言っていると思いました。逆に言えば、自由が丘を楽しみたいと思えば、このヒルサイドストリート、サンセットアレイ、カトレア通りの3ストリートを堪能すればいい、それで事足りると思います。


●サンセットアレイ


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この中でもさらにサンセットアレイが最高かな。ここのサンセットアレイのストリートがいちばんオシャレで、これこそが自由が丘~という感じです。ちょっと道幅が細くて裏道で陽がささない暗い感じがするのですが、ここに軒並みオシャレなブティック、カフェなどの素敵なお店が立ち並んでいてほんとうに壮観でした。こういうところこそ、まさに自由が丘だな~と思いました。




●カトレア通り


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2番目に素敵だと思ったのは、カトレア通りかな。ここもオシャレそのもので、サンセットアレイがどちらかというと、暗い細道に密集している秘かなるオシャレスポットという感じなのが、カトレア通りでは、通り自体が比較的広くて大きな通りで、自由が丘の中心、メインストリートという感じがします。いわゆる自由が丘の繁華街と言う感じです。ここも素敵なんですよね~。




●ヒルサイドストリート


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ヒルサイドストリートは、自由が丘の都心という感じではなく、比較的田舎というか、のんびりした風景で、そこにある一定間隔を置いて、オシャレスポットがある、という感じです。ヒルサイドストリートは、自由が丘駅からもっとも離れたストリートなので、ある意味田舎というかのんびりしていて当然だと思いました。でもこの一定間隔でポツポツとあるスポットが、これまた素敵なんですよね~。




この3ストリート以外のいわゆる自由が丘駅北口の真正面にある、わかくさ通り、メープルストリート、しらかば通り、ヒロストリートは一気に和的庶民的なお店が並びます。(メープルストリートはちょっとオシャレです。)うなぎ屋さんだとか、そば屋さんだとか、銀だことか、マクドナルドとか、もう一気に庶民的です。もうぜんぜんオシャレじゃないです。


自分は思うんですが、自由が丘ってどこのエリアでもオシャレかというとそうでもないんですね。結構庶民的な和風、日本風なお店、あるいはレトロなお店が並ぶところも多いです。たとえばこれからあとで特集する自由が丘デパートとか、もうすごいですよ。時代錯誤とも思えるような昭和レトロな建物で、もうびっくり。逆にすごく新鮮に感じます。昭和の時代と間違えるようなこんなレトロな建物が、自由が丘に存在していること自体、笑えるくらいおかしいです。


また、この自由が丘デパートの隣のエリアは、いわゆる飲み屋街、飲食街、ラーメン屋などのストリートが続いていて、もう完全にサラリーマン、庶民派の食事処、飲み屋さん街なのです。自分が愛用している自由が丘の吉野家さんもこのエリアにあります。


このように自由が丘って全部がオシャレなんではなくて、オシャレなスポットと庶民的な和風・飲み屋さん街などが混在した街といえるんじゃないですかね。


そういう両面性を持っている街です。


世間のみなさんが自由が丘に対して、一般にイメージとして持っているオシャレな雰囲気は、


・ヒルサイドストリート

・サンセットアレイ

・カトレア通り


のこのエリアだけと言っていいです。あと、メープルストリート、ガーベラ通り(学園通り)も入ると思います。


さて、今度はストリートという括りではなく、建物、スポット単位で気になったところを何点かピックアップします。



●モンブラン発祥のお店 MONT-BLANC


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出ました~~~。モンブラン発祥のお店 MONT-BLANC。モンブランは自由が丘発祥で、このお店が開発したものなのです。


カトレア通り沿いにありました。


店内は、まさにゴージャズなモンブランの展示。


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テイクアウトはもちろんですが、イートインは、外のテラス席だけなのかな、と思いました。比較的小スペースですね。ぜひモンブラン発祥のお店での元祖モンブランを食べていきたかったのですが、まさか突然ここで出会うとは思わず、その心の準備ができていませんでした。(笑)今度は、”自由が丘のスィーツを堪能する”と題してリベンジしたいと思います。



●Aesop


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最初チェロの楽器が店内に飾られているので、てっきり自分は楽器屋さんだと思ってしまいました。でも棚に陳列されている商品が筒状なので、ヴァイオリンとかに塗るヤニなのかな、と勝手に思ってしまいました。



あとで、ネットで調べたところ、ハンドウォッシュ、ハンドバーム、シャンプー、フェイススクラブなどのアイテムだったそうです。クラシックの楽器とはぜんぜん関係ないんですね。(笑)インテリアとして置いてあるということなんでしょうね。


でもお店の外観がすごくオシャレでいかにも自由が丘らしい感じです。



●PUPPILY HILLS TOKYO


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この大御殿なんだと思います?


これ、ワンちゃんのドッグウェア&グッズの販売から心からリフレッシュしてもらうためのトリミングやスパなどを施す御殿なんですよ。(笑)まさにお犬さまにここまで・・・と驚くしかないですが。。世の中やはりこういうブルジュアな世界があるんですね~。


自由が丘をいろいろ歩いていると、ペットショップはすごく多かったです。



●「JIYUGAOAKA de aone(自由が丘 デュ アオーネ)」



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やっぱり自由が丘でも生活していく人がいるわけですから、スーパーマーケットは必要です。自由が丘では、長年に渡って、ピーコックストアというスーパーマーケットが52年にわたって、自由が丘住民の生活を助けてきた訳でしたが、2021年についに閉店。かわりにイオンモールが出店するということでありました。


当初、自由が丘の景観に、イオンのようなスーパーマーケットそのものみたいなイメージはあわないだろう、ということで、自由が丘市民も大反対だったそうだが、いざ完成してみると、いわゆる通常のイオンでなく、デッキ、緑が多く開放的な自由が丘らしいデザインとなっていて、そういう配慮をされたのがよくわかる。イオンモール系だけど、名前も、「JIYUGAOAKA de aone(自由が丘 デュ アオーネ)」。


街の景観を壊さないようにしながら街づくりをしていく。。。これはとても重要なことなのです。


わかくさ通り~メープルストリートとガーベラ通り(学園通り)の交差点のところにあります。




●自由が丘 熊野神社


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熊野神社は鎌倉時代より以前に創建された、由緒正しい神社です。自由が丘の街の華やかな雰囲気とは少し違い、凛とした雰囲気。ここの神社に足を踏み入れると、空気が済んでいるようでとても気持ちがいいです。


“熊野信仰”は、鎌倉時代(1192~1333年)、庶民の間でも盛んになり、現在の目黒地域からも那智熊野参拝の記録があり、その時代、信仰の厚い土地の名士たちが西方熊野に赴き、熊野本宮の御神霊を拝受して祀られたと伝えられる。


・・・とのこと。


20年間に渡り、自由が丘という街に縁があって通えたことに感謝。病院が自由が丘であったこと。そして主治医の先生に日頃の感謝。そしてこれからも末永くよろしくお願いいたします。。。とお祈願してまいりました。


この自由が丘熊野神社はいつかはきちんとお参りしたいと思っていたので、すっきりしました。



自由が丘ってこんな街なんですね。自由が丘北口エリアってこんな街なのです。


それに自分が20年間通い続けている南口のマリクレール通り、九品仏緑道の昨日の様子も上げておきますね。いまの秋の季節、クリスマスに向けてクリスマスツリーも飾られています。


マリクレール通り


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九品仏緑道


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この秋の季節のマリクレール通り、九品仏緑道もやっぱり素敵です。


やはりここは何度見ても癒されるわ~。

自分のマイエリアです。


この自由が丘北口エリアの10本のストリート、そして南口の2本のストリート、合わせて12本のストリートが形成する景観が、まさに自由が丘という街なのだと思います。








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I LOVE YOKOHAMA 横浜ハンマーヘッド [街歩き]

観光都市 横浜の新しいスポットとして、2019年にスタートした「横浜ハンマーヘッド」。


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これは、すごく最近できた新しい観光スポットなので、気になってはいた。

今回の横浜シリーズでは、ぜひ候補に入れたいと考えていた。


横浜ハンマーヘッドというのは、2019年10月に横浜みなとみらいの海側・新港ふ頭に開業した客船のターミナル機能を備えた複合施設のことである。


客船ターミナル(新港ふ頭客船ターミナル)を中核に、商業施設(ハンマーヘッド SHOP&RESTAURANT)、ホテル(インターコンチネンタル横浜Pier 8)からなる。


施設名の「ハンマーヘッド」は歴史的産業遺構「ハンマーヘッドクレーン」に由来する。


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1914年には新港ふ頭の西側の突堤に、日本で最初の湾港荷役専用クレーンが整備された。イギリスのコ―ワンス・シェルドン社製の大型クレーンで、最大50トンまでの鋼材や重量物を運ぶことができ、金づちに似た形状から「ハンマーヘッドクレーン」と呼ばれ親しまれていた。クレーンの導入で、重量物の積載が直接可能になり、作業効率は格段に向上。1970年代に入るとコンテナ化が進み、その役割を終えたが、建設から100年以上経った今でも、新港ふ頭のシンボルとして横浜の海を見守っているのだ。


2018年には、貴重な歴史的遺構として土木遺産に登録された。


この新しい観光スポット、複合施設は、このハンマーヘッドクレーンから名前をいただき、「横浜ハンマーヘッド」としている。




横浜港に寄港する大型客船(クルーズ客船)について、大さん橋単独では対応に限界があることから新港埠頭でも受け入れを可能とするため、公民連携(事業提案方式)でかつての新港客船ターミナルに代わる新たな客船施設を整備する計画が進められた。


横浜港に寄港する船舶の8割の受け入れを可能とするものとして進められた。


客船施設については「みなとみらい21 新港地区客船ターミナル整備」の事業者として、企業グループ「Yokohama Pier9」が選出され、その後、同グループの構成企業が中心となって新港ふ頭客船ターミナル株式会社を設立し、横浜市との公民連携事業としてCIQや商業・サービス施設、宿泊施設(ホテル)、駐車場、交通広場、プロムナード(公園・広場)などを整備することとなった。


横浜ハンマーヘッドのコンセプトは街と陸・海・空をつなぐ海の駅「ヨコハマ ウミエキ」。客船ターミナル・商業施設・ホテルなどからなる地上5階建ての複合施設で、1階が商業施設およびCIQ、ホテルエントランス、2階が商業施設およびホテルフロント、3-5階がホテル客室となっている。


まさに客船クルーズの受け入れと、商業施設、ホテルなどが一体化した複合施設なのだ。

横浜ハンマーヘッドは、新しい横浜名所として名を挙げていて、自分としてはぜひ1度は足を運んでおきたいと思っていたスポットであった。



アクセスは、みなとみらい線のみなとみらい駅や馬車道駅など、複数候補があるが、自分は馬車道駅を選んだ。馬車道駅からまっすぐ歩いていけば、もうそのまま横浜ハンマーヘッドに着く感じである。


横浜ハンマーヘッド


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建物は5階建てで、メインの商業施設は、2階の方に集中している、と言っていいだろう。1階の方にはスターバックスなどのカフェや、ラーメンフードホール、そしてCIQ施設(船での税関・出入国管理・検疫)があって、それ以外のレストラン、フードショップなどは、大抵は2階にほうにある、という感じである。3階から5階はホテルの客室となっている。商業施設は、1階と2階のみである。


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1階の右側には、ラーメンフードホールがある。

船の施設にラーメンとは驚いたが(笑)、ラーメンはもうすべての乗り物に共通に愛される食べ物である。


このラーメンフードホールには、ガス灯が備わっているのが、いかにも横浜らしくてお洒落な感じがします。外国人が多かったが、結構繁盛していました。


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左側にはまずスターバックス。


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そしてお茶の伊藤園のカフェなどが存在していた。


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これもカフェ。


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そして1階には、シーバス乗り場のチケット売り場がある。

シーバスというのは、観光用遊覧船のことである。


横浜港を出発して、横浜湾を渡って、東京方面に行ったり、あるいは周遊して戻ってくるなど、いろいろなコースがある。


自分もシーバス乗ってみようかな~と思ったが、ここに戻って来たいので、そうすると結構お値段的にお高いので、また今度にすることにした。


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この1階にはCIQホールがある。ここでは船旅を経て、日本に入国する際の税関、出入国管理、検疫などをおこなう。


まっ飛行機の空港の場合と手続きは同じですね。

飛行機が船に変わるだけです。やることは同じです。

この横浜ハンマーヘッドに着いた客船クルーズのお客さんの日本への入国を検査します。


ここは見学したいと思いましたが、セキュリティ上無理のようでした。

それはそうですよね。(笑)


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そして2階に上がる。こちらは、もうレストラン&ショップで埋め尽くされる空間である。


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まずいきなり、この赤い色に思いっきり反応してしまう。

かなりVividな赤い色で、かなり格好良さ抜きんでている。


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ここは、MIZUNOBU BROOK & FACTORYというところで、フルーツの老舗・水信が新たにチャレンジする〝ここでしか味わえないフルーツの世界〟をコンセプトにしたサロンだそうだ。JR九州の「ななつ星 in 九州」をはじめ、車両、船などを多数デザインし、数々の賞を受賞するデザイナーの水戸岡鋭治氏の想いが体現されたラグジュアリーな空間で、極上の味わいとサービスをお楽しみいただけます。


ここはオシャレでカッコイイですよね~。この横浜ハンマーヘッドの商業施設の中ではいちばん目立っていました。Vividな真紅の赤はカッコいいです。


吸い寄せられるように入ってしまおうかな~と思いましたが、今年の異常気象で、ちょうどまだ残暑熱かった9月30日。かき氷が2,800円もすることがわかり、こりゃ全般的にかなりお高いと思いやめておきました。


商業施設の中で、文句なくダントツで人気があったのが、鎌倉紅谷のクルミッコファクトリーです。

もうこの大行列です。びっくりしました。


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クルミッ子ができ上がっていく様子に感じるドキドキとワクワク、クルミッ子を使用したスイーツに感じるときめきや幸せ、クラフトマンとのワークショップで感じる楽しさや喜び…見る。味わう。体験する。


ワークショップというか体験コーナーなんですね。


そのほかにもいろいろなショップが存在します。


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ここもカフェです。

VANILLABEANS THE ROASTERY


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横浜から生まれたチョコレートブランドから、カカオ焙煎所が誕生。世界各国からこだわりのカカオ豆を仕入れ、チョコレート作りを通して食べる人、作る人、カカオ原産国の人たちも笑顔になるサスティナブルなチョコレート作りを続けています。






Pecorino Market&Restaurant


様々なチーズを楽しめるイタリアンレストラン店内のカジュアルリゾートな雰囲気で、お客様好みのチーズをカスタマイズできるチーズフォンデュや、観覧車風のお皿に盛り付けられたバーニャカウダなどがお楽しみいただけます。また、入り口にはマーケットエリアを構えており、こだわりの食材がご購入いただけます。


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・・・とのことですが、イタリアンレストランのようですが、一見は入り口付近はワインを売っていますので、いろいろなワインが品揃えで展示されていて、かなり目を引きました。自分は完全にワイン専門店なのか、と思っていました。




アンティーカ ピッツェリア ダ ミケーレ横浜


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1870年創業以来、ナポリで行列が絶えないイタリア老舗のピッツェリアの日本3号店。ピッツァに使用する粉、トマト、オイルは本店から直送、チーズにいたってはナポリから空輸し、創業以来変わらぬレシピを再現する。ピッツァは本店同様マルゲリータとマリナーラの2種の他に、横浜店限定のメニューや、子供向けピッツァ教室開催中です。


ほかにも、いろいろなショップがひしめいていました。まさに圧巻でキラキラしていました。インスタ映えするスポットだと思いました。



当初の目的から、お昼ごはんは、この横浜ハンマーヘッドでいただきたい、と思っていたので、このレストランのどこかでとらないといけません。


最初、猛烈に自分にアピールしてきたのは、ここでした。


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ピーターラビット・カフェ



ピーターラビットカフェ横浜ハンマーヘッド店は英国テイストをプラスした新しいピーターラビットの世界観を演出。新鮮野菜や季節の果実を使用したブッフェコーナーに加え、絵本からインスパイアされたオリジナルメニューや英国由来のメニューなど多数ご用意しております。


どうせ入るなら、すごくインパクトの強い想い出に残るところにしたかったので、このピーターラビット一色のお店はすごく自分を引き寄せたです。まさに英国一色、ピーターラビット一色という感じです。


ここに決めようと思い、開店前の行列に並んでいたのですが、寸前でここはブッフェスタイルなんだ、ということがわかりました。しかもブッフェを利用するのに、5,000円払う必要がある、ということが分かりました。


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ブッフェスタイルに5,000円払うのか~・・・。

やっぱり横浜ハンマーヘッドは高いな、と思いました。


寸前で取りやめました。


最初、ここのピーターラビットのレストランにしようか、シーフードのレストランにしようか、二者択一で悩んでいたのですが、結局シーフードにしました。


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COLONIAL BEACH


”リゾートライクな時間”をコンセプトに展開するラックバッググループが、シーフード料理の新業態をオープンいたします。ワインを片手に世界中のシーフードを豪快にお楽しみいただけるよう、フレッシュオマール海老をはじめ、日本各地から取り寄せた牡蠣の食べ比べをご用意。海外リゾートホテルをテーマにした空間で、贅沢な時間をお過ごしください。


店内はなかなか素敵な空間でございました。

海辺がみれる席も選べます。自分は室内にしました。


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自分は牡蠣のスープカリーにしました。

スープカリーは札幌発祥スープカリーで鍛えに鍛えていますから、自分の舌はうるさいですよ。(笑)


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確かに美味しいとは思いましたが、牡蠣の生臭さとカレーのスパイシーなテイストとは合わないかな、と思いました。アイデアはいいとは思うのですが。。。


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FMラジオ局のスタジオがありました。マリン FM 86.1MHz コミュニテイ放送局です。地域の活性化に役に立ちたいと考え、暮らしに密着した経済・観光・文化情報を発信するとともに、多くの来街者に中区の魅力を伝えていきます。


壁には、横浜ハンマーヘッドのアイコンである「ハンマーヘッドクレーン」のロゴがありました。


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この横浜ハンマーヘッドのレジャー施設の大きなアピールポイントは、海が隣接していること。シーサイドの雰囲気を堪能できること。クルーズが寄港している場合は、そのクルーズの姿を堪能できる。。そういうメリットがあります。


施設内から外の海辺サイドを一望できる座席、シートもあります。これは絶景だと思います。人気のみなとみらい21の光景もばっちり拝めます。


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さらに、長年に渡って、新港ふ頭のシンボルとして見守ってきた実際のハンマーヘッドクレーンも観れます。


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この場所から横浜ハンマーヘッドを一望する。


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最後に、これは素敵だな~と思ったところに、トイレを出たところに、とても素敵な絵画が飾られているのですよね。これは素敵だな~と思いました。


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横浜ハンマーヘッドの見どころは、やはり1階と2階の商業施設だと思いますし、シーサイドの座席から海やみなとみらい21の光景を眺めるのは絶景で最高のスポットだと思いました。


3階から5階はホテルの客室になっているのですが、きっとホテルの部屋からも、この絶景が眺められるようになっている最高のスポットなのでしょうね。


ホテルの行き方はよくわかりませんでした。

どこからホテルに入るのかがよくわかりませんでした。



横浜ハンマーヘッド。

客船ターミナルと商業施設、そしてホテルなどの宿泊施設が一体化した複合施設。


しかと堪能しました。


これはたしかに横浜の新しい観光スポットとなること間違いないですね。












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I LOVE YOKOHAMA 大さん橋国際客船ターミナル [街歩き]

横浜の中でももっとも港ヨコハマらしいところは、やはり”ふ頭(埠頭)”であろう。


ふ頭とは、港湾において船客の乗降や貨物の荷役を行うための場所のこと。港の水陸輸送の施設を備えている場所であり、いわば港の玄関である。日本は、世界有数の貿易大国。資源や食料の多くを輸入に頼っているため、日本にとってふ頭が果たす役割は非常に大きいといえる。


横浜港には、船舶の大型化や荷役革新の進展とともに、山下ふ頭、本牧ふ頭、大黒ふ頭、南本牧ふ頭などが造られた。


ふ頭と一口にいっても、その種類はいろいろである。


港には大量の貨物が集まるため、同じ種類のふ頭だけでは荷役作業に混乱が生じるおそれがある。その役割によって、どんなものを扱うのかによって、ふ頭の種類を分けて専門の設備を備えることで、スピーディーな対応を実現している。


例えば、一目でわかるのが自動車ふ頭。自動車を置くための広大なスペースがあり、港ぎりぎりにまで自動車が大量に止めてあるので、ふ頭のなかでも目立つ存在。


また、自動車ふ頭と並んで強い存在感を放っているのが、コンテナふ頭である。電気製品や衣類など雑貨を収納したコンテナが並んでおり、コンテナの荷役に使われる積み下ろし用の機械・ガントリークレーンがそびえ立っている。ガントリークレーンは「港のキリン」と呼ばれており、港を訪れる人々の注目を集めている。


ほかにも、輸入した材木を海に浮かべたまま保管する木材ふ頭や、大型の冷凍倉庫を設置して魚介の鮮度を保つ工夫をしている水産物ふ頭などがあり、用途は実にさまざまなのだ。


正式名称では”ふ頭(埠頭)”だが、大さん橋のように、客船クルーズなどの乗客の乗り降りを司るところでメジャーなふ頭は、客船ターミナルという場合が多い。


ふ頭(埠頭)と桟橋の違いも説明しておかないといけないだろう。


ふ頭(埠頭)wharfはコンクリートで岸壁と一体となっている船の発着場。桟橋よりも大型のイメージ。


桟橋 pierは岸から突き出ている船の発着場。埠頭と比べると小さい。木でできた桟橋も含む。


横浜港の中で、もっとも客船クルーズの乗り入れがあるのは、大桟橋(以下大さん橋という。読み方は”おおさんばし”)国際客船ターミナルではなかろうか。


横浜港大さん橋国際客船ターミナル ~通称"大さん橋"は、世界各国のクルーズ船が寄港する世界でも有数の客船ターミナルである。横浜港大さん橋国際客船ターミナルは、横浜港で最大の国際客船ターミナルと言っていい。


なぜ大さん橋が最もポピュラーなのか、というと・・・


大さん橋の最も特徴的な点は、客船ターミナルでありながら屋上がウッドデ ッキ及び芝生広場となっており、二十四時間自由に出入りできる公園として 市民や観光客に解放されているからだ。 また長さが約480mで幅が約100m と巨大な大さん橋は、その大きさを利用したダイナミックな空間の変化も特徴でもある。


大さん橋は、みなとみらい線の日本大通りから行くのがいちばん近いだろう。


地図でいうと、大さん橋は、こういう風に、そのクルーズが船体を寄せるところが海に対して棒状のように飛び出している感じで、ここにクルーズはいったん身を寄せるのだ。そして、この棒状に飛び出しているところが、木製ででてきるウッドデッキとか芝生になっていて、いわゆる公園なのだ。しかも24時間自由に出入りできる公園で、市民や観光客に解放されている。


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ここで、みんなクルーズが入港してくる姿、停まっている姿を写真で撮影するし、またこの大さん橋から眺める横浜港も絶景で、絶好の撮影スポットなのだ。大さん橋がもっともポピュラーなのは、これが原因である。


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大さん橋ふ頭


安政6年(1859年)に開港した横浜港に、近代港湾における本格的な港湾施設として、明治22年(1889年)から29年(1896年)にかけて建設された横浜港で最も歴史のあるふ頭である。


昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催を契機に、外航客船に対応する客船ターミナルの新設をはじめとした大改造を行い、本格的な客船ふ頭として横浜港に入港する客船を迎える横浜港の玄関となっている。


建設後100年が過ぎ、構造的な老朽化が進んだことや本格的なクルーズ時代に向けての全面的な施設の改修を行うため再整備工事を行い、平成14年(2002年)日韓両国で開催された2002FIFAワールドカップサッカー大会に合わせ、現在の新しい 「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」をオープン、21世紀のクルーズに相応しい国際客船ターミナルとして、また市民や観光に訪れた皆様が港や客船に親しむことの出来る施設として、生まれ変わった。


なお、大さん橋国際客船ターミナルの運営には、平成18年度から指定管理者制度を導入している。



やっぱり横浜、YOKOHAMAを語るうえでは、船、クルーズの世界を語らないとダメだろう、と感じた。開港以来、港町として発展してきた横浜は、まさに港ヨコハマであり、その世界を描ききれないと、横浜を語るとは言えないと思う。そういう意味でも、大さん橋は、横浜を語るうえで、もっとも大事なスポットではないか、と自分は考えた。


とにかく、船、クルーズの世界が新鮮だった。内陸地育ちの自分にはない世界だった。

すべてが新鮮だった。


飛行機のことを特集したときは、飛行機はほんとうに幼少の頃から慣れ親しんできた乗り物なのだけれど、じつは意外や航空業の世界や、飛行機そのもののこと、航空ファン、航空マニアがどんなことに興味を持つのかなど、意外や知らないものだった。そんなディープな世界があるのか!と驚いたものだった。


これと同じことが船の世界、クルーズの世界にもあるのだ。クルーズマニア、クルーズファンは、やはり奥が深いと思う。深遠な世界があるのだと思う。クルーズの写真を撮影するために、大さん橋に出かけて行って横浜港の絶景を背景に撮影するのがほんとうにコレクションみたいで好きなのだろう。


クルーズの世界では、”お見送りイベント”というのがあるのだ。


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横浜港を代表する日本の各港では、クルーズ客船が出港する際、盛大に「お見送り」をするため、イベントを開催する。いちばんの基本は、その出航のときに、かけつけてそこ場でお見送りをすること。これが基本である。それに加えて、楽奏隊、ブラスバンドが演奏する場合もあるだろうし、ダンス、踊りを披露したりすることもあるだろう。それはもうその港それぞれで、いろいろな趣向のお見送りイベントがあるのだ。


そういうクルーズが出航するときに、お見送りをして、それにイベントをプラスアルファすることを、”お見送りイベント”というのである。


よくクルーズに限らず、もっと小さなフェリーなんかでも、いわゆる船体に乗っているお客さんと、お見送りの人々と紙テープで結びあいながら、船が港から段々離れていくにつれて、そのテープが長く伸びていく・・・そんな光景もとても有名であろう。


あれが、船の”お見送りイベント”のもっとも基本のところではなかろうか。


クルーズファン、クルーズマニアにとって、”お見送りイベント”はもっとも大事な行事で、大好きなクルーズに思いっきり接することのできる大切なイベントなのだ。




よくSNSの横浜関係のコミュニティでは、クルーズが入港して船体を寄せているところの写真を撮影して投稿されているのをよく見かける。自分は最初それはどうやっているのか、よくわからなかった。


そんなタイミングよく、クルーズが入港するときに出会えるのかな、とずっと不思議だった。


でも大さん橋の公式HPを眺めていると、もうそのHPの中に、客船入港予定というスケジュール表が公表されているのだ。


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月単位で、何月何日にどんなクルーズが、いつ入港して、いつ出航するのか、その予定表がオープンになっているのだ。みんなこれを見て、大さん橋に行っているんですね。そして入港しているクルーズを撮影したり、出航するときは、お見送りイベントに参加しているんですね。


ようやく理解できました。(笑)


自分は、この基本を最初よく理解していなかったので、あてずっぽうで大さん橋に出かけて取材に出かけた。もしクルーズが入港していると儲けもんだな~というような程度で。。。である。


残念ながら、偶然は起こり得なかった。クルーズがいない大さん橋をただ撮影するだけであった。


まっそれでもいい。大さん橋国際客船ターミナル、というところがどういうところなのか、紹介したいと思う。あれは、まさに酷暑続きの真夏真っ盛りの2023年9月2日のことであった。もう2か月以上も昔のことなんですね。遅筆もそうですが、時が経つのは速いと思います。


大さん橋、大さん橋国際客船ターミナルは、みなとみらい線の日本大通りから歩いていくのがいちばんスムーズで近いだろう。


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もう地上から海に向けて、棒状のスペースが突き出ている感じである。そして地面が木製のウッドデッキなのだ。ところどころ芝生もある。周りを見渡すと、横浜ベイブリッジがくっきり見えたり、みなとみらい21の絶景スポットも、まさにこの大さん橋から丸見えの状態だ。これは大さん橋がもっともポピュラーなふ頭なのがよく理解できる、というものだ。そして24時間自由に出入りできるので、夜間のナイターのクルーズも撮影できるし、横浜港の夜景も思う存分撮影できる。まさに撮影絶好スポットなのである。まさにここはふ頭でありながら、公園なのである。みんなから支持を受けているのは、そういう観光化の役割もあるからだろう、と思う。


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途中この大さん橋のスポットで、ウエディングの撮影をしているところに出会わせました。やっぱりウエディング姿で、こういうスポットで一生に残る写真を撮影しておきたいですよね。


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まさに、この大さん橋国際客船ターミナルこそ、豪華客船クルーズが横浜港に身を寄せるもっともポピュラーな場所なのである。



ちなみに、結局自分は予定表を見ながら、クルーズの入港、出港写真を撮影するということはしなかったが、偶然クルーズが入港しているところに出会わせたことは2回ほどあった。


とにかくクルーズを初めて見た印象は、ほんとうに巨大でバカデカいという感じで、相当の恐怖感を抱く。もう遠くを歩いているときから、その巨体が見えてくるので、あ~今日はクルーズが入港している、とういことがわかるのだ。そのあまりのデカさにもう怖いというか、すごい恐怖感を抱く。ほんとうに怖い、という感じである。


自分が偶然出合わせたときは、大さん橋ではなく、赤レンガ倉庫の公園のほうから、この大さん橋に泊まっているクルーズを見る感じで、圧巻だった。


これはあくまで自分の予想だけれど、大さん橋から直接至近距離でクルーズを下から眺め上げる感じよりも、こういうように、ある程度遠方の赤レンガ倉庫の公園のようなところから眺めたほうが、クルーズの全景がカメラのフレームに収まる感じがするし、いいのではないか、と予想する。


あのクルーズをリアルな肉眼で観たスケール感、巨大感は、なかなかカメラの写真では再現不可能なんですよね。カメラで撮影すると、どうしてもあの目の前で一面に広がるスケール感というのは出ないです。難しいと思いました。



2023/9/30  セレブリティ・ミレニアム号


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2023/10/7  ダイアモンド・プリンセス号



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I LOVE YOKOHAMA ガス灯の灯がともる薄暮の馬車道 [街歩き]

昨日また馬車道に行ってきました。

これでついに通算8回目になります。


目的は後述するとして、午前中やお昼は、銀行に行ったりとか、いろいろ野暮用が多く、馬車道に着いたのは、もう16時くらいの夕方でした。


そうすると思ってもいなかった光景に出会うことができました。


それは馬車道に並んでいるガス灯の灯がともされている光景に出会えたのです。馬車道に行くのは、いつも昼ばかりでしたので、薄暮、夜のときにガス灯に灯がともる、というのはどんな感じなんだろう、ということはまったくイメージできなかったのですが、昨日行ったときは、その薄暮の中で、初めてこの光景に出会い、もうその幻想的でレトロでロマンティックな風景に感動してしまいました。


明治の文明開化のとき、横浜馬車道で、夜に初めてガス灯が灯もされたときに、まさに文明開化ということで、市民は大騒ぎ。横浜よりも東京からたくさんの人が訪れて、大騒ぎだったとか。


その気持ちがよくわかりました。


灯が灯もされたガス灯というのは、ほんとうにロマンティックで、その灯が灯もされたガス灯が一定間隔で並んでいるその姿はまさに幻想的です。


いやぁ~感動しました。


昨日午前中、昼間は野暮用があったのですが、偶然にしろ、いまはそのことにすごく感謝しています。その野暮用のおかげで、夕方、薄暮の馬車道の灯のともったガス灯の風景を見ることができたのですから。


写真だとなかなかあの幻想的な風景を再現することが難しいのですが、こんな感じです。ほんとうに幻想的で美しかったです。



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馬車道は、煉瓦造りの歩道に、街路樹、そしてガス灯。なんとも異国情緒あふれる風景なのですが、そこに薄暮の灯のともされたガス灯が並ぶ通りの風景はほんとうに幻想的でした。


このとき、ちょっと疑問に思ったことが、このガス灯って原理ってどうなっているの?これ本当にガスなの?いまは電気で代用しているだけじゃないの?ガスの配管が送られていて、そこからガスが送られてくるの?どうやって点火したり、消火しているの?そんな疑問が湧いてきました。


ちょっと調べてみました。


まず人類の照明の歴史ですね。


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古くは、ろうそく、ランプの灯りから、そしてガス灯というのが登場しますね。そして電気の時代です。大体60年スパンなんですね。いまは明るさともに白色LED全盛の時代なのではないでしょうか?


ではガス灯の仕組みについてです。



ガスのはじまり


日本でのガス産業は、横浜の地で幕をあけました。


高島嘉右衛門(たかしまかえもん)という実業家が神奈川県庁からガス灯をつくるよう頼まれ、1872(明治3)年に「日本社中」を立ち上げました。彼は、横浜市の神奈川県庁と大江橋から馬車道・本町通りまでの間に、ガス灯十数基をズラリとならべ、1874(明治5)年9月26日、いっせいに火をともしました。


当時のガス灯は、石炭から発生させたガスを燃やすことで光をはなっていました。「裸火」とよばれる赤っぽい灯で、そこからはシューシューという音が聞こえてきたそうです。


横浜の町を明るく照らすガス灯は、人々に新しい文化のはじまりを知らせるものでした。その頃の合言葉だった「文明開化」のシンボルとして、急速に広まり、これが、日本のガス産業の記念すべき第一歩となりました。


ガスは最初の頃、あかりとして使われていたのです。明治のはじめ、日本に西洋の文化が急速に入ってきて、人々の生活も大きく変わっていきました。


世界で初めてガスが使われたのは1792年のことでした。イギリスのマードック技師が石炭を蒸し焼きにしたときにできるガスを利用して、ガス灯をともしました。そして1812年には、イギリスのウインザーらの努力により世界最初のガス会社がロンドンに設立されました。その後、欧米各地でガス会社ができ、明かりとしてガス灯が使われました。このころ日本は江戸時代で「鎖国」をおこなっており、外国との交流がなかったためにガスを使うことはすぐには伝わりませんでした。



日本のガス事業のはじまり


明治時代になって、社会の仕組みが大きく変わり外国との自由な交流もはじまり、西洋からいろいろな文化が伝わってきました。これは「文明開化」と呼ばれています。1872年(明治5年)、横浜で日本のガス事業が、フランス人アンリ・プレグランの指導の下、高島嘉右衛門(たかしまかえもん)によって始まり、現代の馬車道通りに、街灯としてガス灯がともりました。横浜に遅れること2年後、1874年(明治7年)には東京の銀座通りにも街灯として85基のガス灯が輝くようになり、ガス灯は次第にその数を増やしていきました。


また、この頃流行った錦絵には、色鮮やかなガス灯が描かれ、小説や映画のバックとしても場面を盛り上げました。



日本で初めてガス灯が灯もされた当時の横浜


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横浜の影響を受けて、立て続けに東京・銀座でも。


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●ガス灯に火をつけるのは誰?



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当時のガス灯はガスが弱く噴き出しているところに火を近づけて、直接点火するものでした。そのため"点消方"(てんしょうかた)という専門の職業の人が点火棒を持って、夕方ガス灯をともし、朝その火を消していました。一人あたり50~100 本のガス灯を受け持ち勢いよく街中を走り回っていました。


割れたガラスの補修や清掃、ガスマントルの交換なども点消方の仕事でした。朝寝坊をするとガス灯がつきっぱなしになってしまうため、点消方は結婚していなければなりませんでした。



●街灯から室内の灯りへ


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当時は明かりとしてろうそくや行灯(あんどん)などが使われていて、ガス灯を見た人々はその明るさに驚き、「文明開化」の象徴としてとらえられていました。街灯として使われはじめたガス灯ですが、次第に、行灯(あんどん)などの代わりとして室内でもつかわれるようになりました。このころのガス灯は、ガスの炎がともる裸火(はだかび)の明かりのため、赤い光を放ち、炎がゆらめくものでした。当時の人たちはこの裸火のガスの明かりを、より便利で安定した明かりとして利用できないかと考え、その結果、発明されたものがマントルという発光体でした。


マントルをガスの炎の上にかぶせるようにして装着(そうちゃく)して使用すると青白い光を放ち、当時の人の言葉を借りると「裸火のガス灯に比べ約7倍明るい」といわれていました。そんな青白い光となった炎の色が好まれて、家庭でもつかわれるようになりました。


マントルとは、網袋に発光剤を浸みこませて乾燥させたもので、現在は、アウトドア用ガスランタンなどで使用されています。


●ガス灯へガスを送り込むガス管


明治維新後で、「高島易断」で有名な高島嘉右衛門が、フランス人技師アンリ・プレグランを招き、伊勢山の下の石炭倉庫跡(現在、中区花咲町の本町小学校)にガス発生炉、ガスタンク等もつ日本初のガス工場を完成させました。


この石炭ガスをガス灯まで送る配管を設置し、1870年(明治5年)9月29日、日本初の本格的な街灯としてのガス灯がともったわけです。つまり、現在と同じガス管で送っていたようです。


ガス灯の下にはガス管が埋まっていて、そこからガスが送られてきます。あれって家庭用ガスコンロと原理は同じなのです。ガスが配管を通ってきて燃やされています。家庭用のも真横にガスボンベがあったりはしませんよね(携帯用ガスコンロはそういう方式ですけど)。家の横にあるボンベ(ガス灯の場合はガス工場)か、はるか遠くのガス工場から配管を通ってきていますね。巨大ガスコンロ(ただし炎が出る部分はひとつ)を高台でつけていると考えると、わかりやすいと思います。


この高島嘉右衛門のガス灯会社は、やがて経営不振に陥って、1873年(明治8年)、横浜町会所に移管され、瓦斯局と名を変えました。そして、1892年(明治25年)、横浜市に委譲され、さらに、 1944年(昭和19年)、東京瓦斯会社に吸収され、今日にいたっています。



もちろん今と違って、自動制御なんてあるはずもないですよね。実は、夕方になると、はっぴ姿で長い竿の先に火をともした「点灯夫」と呼ばれる人が、次々と栓を開けてガス灯に火をつけて回りました。この頃はやった錦絵という色鮮やかな版画には、 数多くのガス灯が描かれ、小説や映画のバックでも場面を盛り上げています。



明治中ごろになると、さらに明るいガス灯が登場しました。赤っぽい「裸火」のガス灯から、「ガスマントル」と呼ばれる白熱のガス灯へと変わり、町はひときわ明るく照らされました。


このようにガスは、照明用として広まっていきましたが、その一方で熱としても使われるようになっていきました。明治30年代になると、ストーブやアイロン、コンロ、湯わかし器などが次々に輸入され、日本でも作られるようになりました。


また、都市ガスの利用もしだいに広がっていきました。都市ガスとは、ガス会社から輸送管によって家庭などに届けられるガスのことです。それまでガス会社は、横浜、東京、神戸の3カ所にかぎられていましたが、やがて大阪、名古屋、長崎、門司へと広がり、多くの家庭にガスが届けられるようになりました。



まさにいま我々がふつうに使っているガスの文化の歴史を学んでいるみたいですね。

私が取り上げたいのは、街路灯としてのガス灯、灯りとしてのガスの利用でした。でもその後、熱として利用されるんですね。


そしてガス灯は、電気ではなく、ちゃんとした本物のガスで灯りとしてともされているのです。そのガスは、そのガス灯にガス管がつながっていて、そこを経由してガスが送られているんですね。


そして昔は、ガス灯に火をつける”点消方”(てんしょうかた)という人がマニュアルでやっていたんですね。でもいまはタイマー式で時間になったら、自動で点火、消灯するような仕組みだそうです。


そして素人考えですと、ガス灯は地下からガス管につながっていて、遠方よりガス管の中を経由してガスが送られてくるんですが、栓とかないんでしょうかね。普段は栓が閉まっていて、ガスは出てこないけど、その栓をひねるとガスが出てくるみたいな。。。いまの台所のガスコンロと同じ原理だったんだと思います。


そして"点消方"(てんしょうかた)さんという人間が、ガス灯1基づつ栓をあけて、ガスを出してから点火していったんでしょうね。もちろん消すときはその逆です。栓を閉めて消します。


きっとそういうことなんだろうな、と思いました。


現在は、タイマー式で時間になったら、自動で点火、消灯するような仕組みだそうなので、この栓を開け閉めも自動でできるんでしょうね。





●横浜ガス灯プロムナード



文明開化の象徴とされ、日本で初めて横浜に設置されたガス灯。150年近くたった今、横浜市中区の港エリアから関内駅方面をつなぐ「ガス灯プロムナード」の整備が計画されている。ガス灯は馬車道や山下公園前など3カ所の通りに約120基あり、2019年度には県警本部や横浜税関に面する「海岸通り」にも40基程度を新設する見通しだ。市は「レトロな明かりをたどるように散策し、観光客らに横浜の歴史を感じてほしい」と説明している。


アイスクリームやビール、電話、鉄道-。わずか100戸余りの半農半漁の村だった横浜が開港場に選ばれると、さまざまな西洋の文化や技術が取り入れられた。市などによると、ガス灯が設置されたのは1872(明治5)年。横浜にガス会社を立ち上げた高島嘉右衛門が、馬車道などに十数基設置した。柱部は英国グラスゴー市から輸入、灯具は日本の職人が製造したとされる。


高島は現在市立本町小学校(中区)がある伊勢山下にガス製造工場を建設。ガスは地中に埋設した鉄管を通じて供給された。夕方になると、法被姿で長いさおの先に火をともした点灯夫と呼ばれる職人がガス灯に火を付けた。白い明かりはろうそくに慣れていた市民にとってはまばゆく、「キリシタンの魔法」と例えるほどだったという。


ガス灯は同年末に300基、2年後に約500基と数を増やしたが、電灯が発明されると激しいシェア競争に。関東大震災の影響もあり、ガス灯は次第に姿を消した。


その後、昭和に入ってから市や東京ガスがガス灯を再建。1985年、山下公園通りに明治初期当時のモデルをデザインした自動点灯・消灯型が40基整備された。当時市長だった細郷道一氏は「温かい明治の灯は、きっと訪れる人々の心にロマンを感じさせることでしょう。みなと横浜の新しいシンボルになることを期待する」などとコメントしている。



その他、万国橋通りに18基あり、最多は馬車道通りの40基。山下公園通り、万国橋通りは市の維持管理だが、馬車道通りは地元商店街が年間280万円かけて使っている。同商店街協同組合の六川勝仁理事長は「馬車道にとって歴史があるガス灯の存在は大きい」と意義を語る。



同商店街などは初めてガス灯が点灯された10月31日に毎年「横浜ガスライトフェスティバル」を開催。ガス灯の実物や点灯の仕組みが分かる装置などを展示している。今年も開催予定だ。


市は同組合などからの要望を受け、海岸通り(約1500メートル)に設置するための設計費200万円を本年度当初予算に計上。約40基程度を見込む。19年度に整備すれば、L字型で総距離約4キロにわたるガス灯プロムナード(遊歩道)が完成する。市は「観光客でにぎわう山下公園方面だけでなく、新市庁舎移転先となる北仲通地区方面から、関内地区への回遊性も高めていきたい」と説明している。



・・・そしてこれが完成した横浜のガス灯プロムナードです。


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馬車道通りから山下公園通りまで、総距離約4キロにわたり、149基のガス灯が設置されました。

文明開化の象徴ともいえるガス灯の光を楽しみながら、ゆっくり横浜散策が楽しめます。


馬車道のガス灯は、すべて実際にガスで点灯しています。

かつては手作業だった点火作業も、現在は電気式のタイマーによって自動点灯・消灯を行っています。


関内ホールの前には、「日本で最初のガス灯」記念碑とともに、当時のものを復元した記念のガス灯が立っています。


また、イギリスからやってきたガス灯が4基あります。

・トラファルガー広場のガス灯

・英国国会議事堂のガス灯

・ビクトリア・タワーのガス灯

・シェフィールドパークのガス灯



散歩を楽しみながら、ガス灯を探してみてください。


これは実際馬車道通りを歩いているときに意識的に探してみました。


まず、「日本で最初のガス灯」。

これです。馬車道通りの関内ホールの前にあります。記念碑とともに、盛大に陳列されていました。


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碑文には、1872(明治5)年、高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)らのガス会社「日本ガス社中」(日本社中とも呼称)が馬車道周辺に10数基のガス灯を設置して点灯させたのが、日本最初のガス灯だと書かれています。


これがもっとも基本中の基本。日本で初めてのガス灯ですね。


そしてイギリスからやってきたガス灯が4基あるということなので、探してみました。


そのうち2基は簡単に見つかりました。



シェフィールドパークのガス灯


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きちんと記念碑が建てられていて、そこに”イギリスからやってきたガス灯たち”というタイトルで記念碑が立っており、その碑文で概要が説明されています。



英国国会議事堂のガス灯


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こちらも同様に、記念碑が建てられていて、そこに”イギリスからやってきたガス灯たち”というタイトルで記念碑が立っており、その碑文で概要が説明されています。




でもこの2つのイギリスのガス灯。形やデザインはみんな同じに見えますね。(笑)どこからやってきたのかが違うだけで、ガス灯自体は同じイギリス製のガス灯という意味ではないでしょうか。



でも残りの2基のトラファルガー広場のガス灯とビクトリア・タワーのガス灯は見つかりませんでした。馬車道通りを端から端まで隅々歩いたのですが、見つからなかったです。不思議ですね。たぶんこれらの2基もイギリスのガス灯ですから、同じデザインだと思います。




馬車道通りではないですが、馬車道通りと交差している道路や、端の大きな国道では、ガス灯らしきものを発見しました。これらには記念碑はなくて、素性がわかりません。でもいかにもガス灯っぽいです。馬車道の景観に合っていると思います。


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これは馬車道通り沿いにあるのですが、記念碑もきちんと立っています。でも碑文の彫が浅く薄くてよく読めません。なんとか読むと、これは個人で所有していたガス灯らしいです。


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あと、ここにもガス灯がありました。

なんと!勝烈庵の前にありました。


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勝烈庵、ずっと探していました。まさかこんなに偶然に見つかるとは!


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勝烈庵は、昭和2年、文明開化の地横浜に創業した当庵は外国人コックが居留地関内にもたらしたカツレツを初代庵主の工夫で独自のカツレツとして完成させた横浜伝統、横浜の味を提供するお店です。


以来、変わらぬ横浜の味として横浜市民をはじめとする多くの方々にご愛顧頂き今日に至っております。


厳選された食材、当庵特製の生パン粉、野菜と果物を2日間煮込み、1日寝かせて作る秘伝のソース、さらにはしじみ、味噌に至るまで全てに於いてのこだわりと伝統の味とのれんを後世に伝えたいと願っております。


先日馬車道日記でお知らせした馬車道十番館と勝烈庵は関係性が深いのです。


山手十番館は母体である勝烈庵の十番目の店として昭和42年(1967年)に明治100年を記念して建てられたものです。その後、「株式会社 横浜十番館」として独立、馬車道十番館、別館馬車道十番館などを開館し、現在に至っているので、勝烈庵と馬車道十番館は兄弟関係みたいなものです。


この勝烈庵のお店の玄関脇に、記念碑を見つけました。


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”ハマの街灯点火の地”とあります。


日本で初めての街灯は、1870(明治3)年9月に、実験的に海岸通りに点火された石油灯で、その2年後1872年(明治5)年9月に大江橋~馬車道、本町通りにかけて日本最初のガス灯が灯りました。


電灯点火が最初とされるのは、1878(明治11)年3月25日に東京虎ノ門にあった工部大学校(現:東大工学部)大ホールでのアーク灯の点火である。


その日は中央電信局の開業式でもあり、アーク灯が全国に広まるに相応しい電気記念日とされている。アーク灯とは、電気溶接のときに強い光が出るのと同じ現象で、ガス灯や石油灯に比べると、はるかに明るいものであった。


しかし、アーク灯はバッテリーを多数使用しなければならず、非常に高価なものであった。また、点灯中に電極が少しずつ消耗するため、電極の間隔が次第に広くなり、輝きが弱くなって消えてしまうものもあった。

寿命は100時間程度しかなかった。


その後、現在のように送電線で電力を送ることにより点灯する固定式の電灯が登場する。1886(明治19)年の日本最初の電力会社・東京電灯会社の開業に遅れて、その3年後に横浜には横浜共同電灯会社が設立された。


1890(明治23)年、横浜共同電灯株式会社が中区常盤町に火力発電所を建設。同年10月1日に横浜市内の約700の電灯と街灯が一斉に点灯された。これが神奈川県で初めて電力供給が行われたものである。


それを記念して建てられたのがこの勝烈庵の玄関脇にある「ハマの街灯点火の地」碑です。


碑は「勝烈庵・馬車道総本店」の玄関の右側にあり、店の前には山下公園に埋もれていた街灯が再建されています。


偶然発見したとはいえ、すごい大切な由緒ある記念碑で驚きました。「ハマの街灯点火の地」とあるので、重要に違いないと、なにげなく写真を撮っておき、あとで家に帰って調べてみたら、そういう重要な位置づけの記念碑だったことがわかってホッとしました。


しかも、これは山下公園に埋もれていた街灯が再建された、とのことなので、尚更ですね。


あと、みなとみらい線の馬車道駅出口のところの本屋、酒房やさんの建物にもガス灯みたいなものがインテリアとしてついています。


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でも中をよく見たら、なんかふつうの電灯式みたいですね。(笑)


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この2人の女性のブロンズ像はなんでしょうね。調べてもすぐにはわからなかったです。


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当時の文明開化の様子の再現のために、横浜は計画的にガス灯の配備をしているのです。しかもガス灯の配備・そして維持はとてもお金がかかるみたいです。


そして最後の締めとして、馬車道通りのガス灯について、どれくらいのメンテナンス費用がかかるものなのかをご紹介してみますね。



実はあのガス灯、管理をしているのは横浜市ではなく、馬車道商店街。

今回は、馬車道商店街協同組合で副理事長を務める山口さんにお話を伺いました。



まずは、ガス灯の基本的な情報を聞いてみることに。山口さんによると、元々は昭和30年代後半に建てられたガス灯の形をした水銀灯を、2003(平成15)年にガス灯に改造したものが、今使われているモノなんだそうだ。つまり、ガス灯自体はここ10年くらいの話だが、街灯そのものは50年以上も馬車道に建っているということで、レトロなたたずまいにも納得。


そんなガス灯は、現在全部で81基建てられている。


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上の画像のような水銀灯からガス灯に変身したものが60本、商店街にある3ヶ所のアーチの上に取り付けられた各5つ、さらには関内ホール前の記念碑ガス灯が2本。それに、平成15年のガス灯完成時に東京ガスから寄贈されたイギリスからやって来た4基のガス灯を加えた81基のガス灯が、馬車道商店街を照らしているというわけ。


かつては手作業だった点火作業も、今はタイマー式。タイマーと自動点灯・消灯だけは電気を使っているそうで、時間が来ると台所のガスコンロのように青白い炎をチリチリっと上げて着火するんだそうだ。


やっぱり電気より高いガス灯



さて、気になる維持費だが、「年間で300万円くらいかかってます。電気の街灯よりは高いですね」と山口さん。内訳はハッキリ分からないとのことだが、火を灯すためのお金、つまりガス代以上にメンテナンス費用に方がかかるんだとか。


ちなみに、お金はすべて馬車道商店街が負担している。

ガス灯設置の際は自治体と分担して行ったそうだが、ランニングコストは馬車道商店街持ち。それでも、商店街の中で「お金かかるからやめようよ」という声は上がっていないそうだ。お金をかけても“馬車道らしさ”を演出してくれるガス灯を守ろうという心意気が感じられる。


電気の街灯よりもお金がかかるというメンテナンスには、どんな作業があるんだろうか。日々の保守や整備は専門業者に頼んでいるそうで、「詳しいことは私たちより、そちらに聞いた方が分かると思いますよ」と山口さんからのアドバイス。さっそく業者に電話でお話しを聞いてみることに。





どんなメンテナンスが必要?



馬車道のガス灯のメンテナンスを行っているのは、東京ガスエネフロントという会社。

地域ガスエネルギー販売会社の運営とともに、日本全国でガス灯事業にも取り組んでいる会社だ。


ガス灯のメンテナンス作業は、建てられる環境にもよるが、おおよそ半年に1回ほど。馬車道商店街の場合も、年に2回の点検保守作業を行っているそうだ。


作業の内容には、マントル(火屋[ほや]とも言う)の交換、点灯部分をおおうガラスの清掃、ガスや空気を送り込むノズルの清掃などがあるとのこと。


ガラス拭きやノズル清掃は素人でも分かるが、マントルとはなんだろうか。発明された当初のガス灯は裸火を灯していて、明るさもイマイチだったそうだ。そんな状況を一変させた大発明がこのマントル。


オーストリアのカール・アウエル・フォン・ウェルスバッハが発明したこの装置は、綿糸や人絹などの繊維で作られた網袋に薬品を吸わせたもの。これをガス灯の着火部分にかぶせると明るさが5倍にもなるという、ガス灯にはなくてはならない部品だ。


ただし、これは消耗品。およそ半年に1回、環境によっては3カ月程度での交換が必要になる。馬車道商店街の山口さんによると、これが意外と高くついてしまうんだそうだ。



馬車道商店街の場合、ガス灯の数が多いこともあってけっこうな額がかかってしまう。

でも、お金だけでは計れないものでもある。


実は、別の取材で都市整備局の人と話しときに、「馬車道商店街の人たちは歴史的なものを守ろうという意識が高い」と言っていた。その言葉通りで、山口さんも「馬車道の本物志向というか、ガス灯もレンガも石造りの建物も本物で、そういったものを大事にしていこうというのが馬車道の思いです」と話してくれた。



・・・どうであろうか・・


異国情緒あふれる素敵な馬車道通り。そのもっとも最たる要因でもあるガス灯。でもそのガス灯を維持していくということは、並々ならぬメンテナンス費用、維持費が必要でかなり高くつくものなのだ。それでもガス灯高いからやめようよ、という声もでずに、ガス灯をこの馬車道通りに維持していくことに、やはり市民はみんな誇りに思っているんだな。馬車道の本物志向、そういう横浜の素敵なシンボルをちゃんと守っていこう!という心意気があるのだ。


この日、なにげなく馬車道に用事があって薄暮の時間帯で、ガス灯が点灯されている風景をみて、とてもロマンティックで素敵だと思い感動したのだが、その日記を書くために、ところで、ガス灯ってどういう仕組みなの?ガス灯のメンテナンス、維持費って?というところまで調べることができて、ロマンティックな想いから一気に現場、現実の世界戻された気持ちである。


でも、現実を知っておくことは重要でしょう。



ちなみに、なぜこの日に馬車道に来たか、というと、あのいなり寿司の泉平のいなり寿司で前回はいなり寿司だけだったのだけど、あのときどうしても巻き寿司といなり寿司のチャンポンである”大まぜ”も食べておきたくて。。。それが再訪した理由でした。(笑)


泉平の店内は、こうやってショーウインドウで商品を展示しています。

この展示をみて、自分はどれにする、ということをスタッフにお伝えするのです。


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馬車道通りの明治に作られた木製ベンチでいただきます。

”大まぜ”初めての体験です。


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巻き寿司が入っている分、いなり寿司が少ないんですね。でも美味しかったです。いなり寿司は、相変わらずふつうのいなり寿司と比較して尺が長くて、そしてお揚げさんが甘~いです。美味しかった。でも食べていると手がベタベタになりますね。(笑)


あと、この日は、さらに馬車道の気になった箇所を撮影してお伝えします。



これは時計台だと思いますが、ずいぶんお洒落なオブジェのような時計台ですね。


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公衆電話もレトロで雰囲気あっていいです。


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馬車道通りは、正直かなり和的で庶民的な食べ物やさんが多いです。もちろん焼き鳥屋や日本の居酒屋なども。異国情緒あふれる街の景観と庶民的な食事処の両面性を持っている街、通りなのです。自分にぴったりです。


馬車道通りには、コンビニもあります。ファミリーマートとローソンです。セブンイレブンはなかったです。


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ちなみに、この横浜シリーズを連載するようになって気づいたことなのですが、うちのマンションもガス灯ついているんですよね。(笑)


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うちのマンションは、とても素敵なマンションで(大家さんのセンスですね。)お庭やガーデン付きのマンションでいろいろな鉢に植えられたお花がたくさんガーデンに飾られています。自分はこのマンションに引っ越してきたとき、その素敵なガーデンを見て思わずテンションが上がってしまいました。これは素敵だな~なんとセンスのある女性らしくて優しいんだろう、と思いました。



そしてガス灯付きなのです。

うちのマンションはいかにも横浜らしい素敵なマンションなのです。





情報引用元:


150年前のロマンの光 ガス灯発祥の地に再び



東京ガス おどろき!なるほど!ガスワールド ガスとくらしの歴史



馬車道を照らすガス灯の秘密とは?



馬車道公式HP ガス灯ルート



INPEX 明治時代 文明開化のシンボルとなったガス灯











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I LOVE YOKOHAMA 横濱今昔文庫 [街歩き]

このI LOVE YOKOHAMAの連載をするようになって、インスタグラムのほうで、とても魅力的なアカウントを発見した。


横濱今昔写真 | 横濱今昔文庫(旧丸ニ浪漫書店)さんの@yokohama.meiji.romanticさんというアカウントで、




横浜市内で撮影された古い写真を収集し、その場所の今の景色と見比べながら歴史や魅力を語る「今昔写真」を掲載しています。横浜関内「LOCAL BOOK STORE kita.」@kita_books にて、横浜本専門書店「横濱今昔文庫」運営中!


ということで、この投稿がもう横浜ファンにとっては堪らないくらい素敵なのである。


自分も日記に何回かお借りしているのだが、たとえば、こんな感じである。


横浜市開港記念会館(ジャックの塔)


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みなとみらい21


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横浜ハンマーヘッド


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横浜赤レンガ倉庫


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大さん橋国際客船ターミナル


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横浜中華街


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馬車道


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この古い写真はどうやって収集しているのだろう?ここがいちばん大変なような気がします。もちろん企業秘密ですね。そして感心するのが、この今昔の写真をただ投稿するだけでなく、そのポストにその写真の土地についての今と昔の詳しい情報を記載している。これがすごく勉強になるのだ。ものすごく詳しくて、横浜を勉強しようと思うなら、最適な投稿で、これは面白い観点から目をつけたな~という感じで感心していた。


これって横浜だけじゃないんですかね?最近、渋谷の今昔写真の投稿も現れてきました。(笑)


どんな人がやっているのだろう?


横浜関内「LOCAL BOOK STORE kita.」@kita_books にて、横浜本専門書店「横濱今昔文庫」運営中!ということなので、じゃあここに行ってみる?・・・でもし機会があったならお話してみる?という淡い希望を持って、この書店に行ってみることにした。


ところが、まずアクセスを調べるために、この「横濱今昔文庫」が入っている「LOCAL BOOK STORE kita.」を探してみたのだが、これがじつにユニークな本屋さんであることがわかった。


いわゆるふつうの本屋さんではないのだ。


LOCAL BOOK STORE kita.



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みんなでつくる、まちの本屋さん


私たちは“1棚1オーナー型の(書店主)が集う、ブックマンションと呼ばれる本屋さん”です。 横浜で暮らし働き、またはこの街にご縁のある方々が集い、世代や価値観、それぞれの個性を大切にしながら、本を通じたあたらしいコミュニケーションを取るお店としてスタートしました。


20代から80代、本が大好きな書店主たちの唯一無二の世界観をぜひご堪能ください。なんでもデジタルで届けられる時代に、あえてアナログのコミュニケーションを大切にする書店主が集っています。ふらっとお立ち寄りいただいて、書店主との雑談を楽しんだり、それぞれの“よこはま”のおすすめスポットを聞いてみたり、港町“よこはま”のお散歩コースの1つとして、お立ち寄りください。


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店内は、大きな本棚があって、その本棚がもうたくさんの棚分けがされていて、その1棚で1つの本屋さんなのである。いわゆるほんとうにブックマンションという感じで、1棚1書店のブックマンション型の本屋さんで、現在60名ほどの書店主さんたちが集い、1つ1つのスペースにお店を持って運営しているのだ。


へ~これはユニークで、とても面白そうだと思いました。

こういうスタイルもあるんですね。



ご自身が好きな本はもちろん、積読してあった本をざっと読んで販売したり、子どもに読んであげた絵本、ずっと保管していた雑誌など、書店主の個性あふれる本屋さんが集積している。




世代もライフスタイルも違う60名以上の書店オーナーの選書が並ぶこのLOCAL BOOK STORE kita.では、いつもの本屋さんで出会う本たちとは少し違った、驚きとワクワク、そして誰かにプレゼントしたくなる一冊と出会えるかもしれない。


まさに一期一会の本との出会いなのである。



神奈川県中小企業会館というビルの1Fにあるmass×mass|関内フューチャーセンターというコワーキングスペースの入り口部分にLOCAL BOOK STORE kita.がある。


さっそくGO!行ってみた。


関内というよりは、馬車道ですね。まっ関内も馬車道もほとんど同じエリアのことを言ってますが。。。ロケーションは馬車道です。


神奈川県中小企業会館という建物の中の1Fのフロアを借りて、本屋さんを開いている感じです。


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さっそくここが60名の書店主さんが集まって、1棚で1つの書店です。その書店が60書店集まって、ひとつのスペースで本を販売しているのです。それが、LOCAL BOOK STORE kita.のコンセプトなのです。


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さっここから、横濱今昔写真 | 横濱今昔文庫(旧丸ニ浪漫書店)さんの本コーナー、本棚を探さないといけません。これが難しんだな。(笑)かなり何回も綿密に探したんだけど、見つからなくて、ギブしました。この日の1日店長さんだった、うさぎさんに聞きました。


あ~、横濱今昔文庫さんね。もうこのストアの中ではダントツの1番人気なんですよ。

大学生の若い男性さんがやっているんですよ。


自分は、思わず、ええぇぇぇえええ~~~?あのマニアックな横浜の古い時代の写真の蒐集マニアであり、そしてその投稿の記事内容の専門性からして、もう完璧に年配の学者さんの方がやっているものだと思っていました。


まさか、大学生の若い男性だったとは!(笑)

もうびっくらこきました。


ここです!


ありました!

横濱今昔文庫


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たしかに横浜についてのいろいろな本が置いてあります。興味深いです。


このLOCAL BOOK STORE kitaの中では、ダントツの1番人気。でもあのインスタのユニークな投稿を見たら、自分はそれもあたりまえだろうな・・・と思いました。やっぱりそれだけの資産価値、史料価値があると思いましたから。


自分の当初の予定では、書店さんなので、やっぱりそこに書店主さんがいて、そこでお会いできてお話なんか、できるんじゃないかな~と思っていたのでしたが、なにせ60人の書店主さんが集まるユニークなコンセプトの書店さん。


そこは、一日店長制度といって、書店主さんは3ヶ月に一回、実際にお店に立って本の販売とご自身の好きなプロダクトの販売や読書会、プチワークショップなども開催できるとのことです。


本を通じたリアルなコミュニケーションを通じて、まちを元気にしていくきっかけとして場を提供しています。


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そうすると、横濱今昔文庫さんの書店主さんも3か月に1回はお店に立たれることもあるんですね。


また、そういう機会がありましたら、ぜひ再チャレンジしてみたいです。

また、これからもどんどんユニークな横濱今昔写真とその史実記載、楽しみにしています。



さて、せっかく大好きな馬車道にやってきました。

これで通算7回目の馬車道です。(笑)


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いつも毎回、これで全部網羅したつもりでいるのですが、取材が終わって帰って来て数日たつと、またじつはこんなスポットもあるんだ、ということに気づいちゃうんですよね。もっとまとめて全部一気に教えてくれ、という感じです。(笑)


せっかく馬車道に来たのですから、いままで取材漏れしていたスポットをぜひ写真に収めようと思っていました。


みなとみらい駅・馬車道駅にあるストリートピアノ


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いつも誰かがかならず弾いています。地下のホームからかなり上がったところのフロアにあります。なかなか雰囲気があってお洒落ですよね。




●横浜第2合同庁舎[旧生糸検査所]


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1859年(安政6年)に開港した横浜。

外国商人たちが日本の生糸を買い求め輸出が急増。

当時、ヨーロッパでは蚕の伝染病が流行し、生糸産出国の中国では内乱によって生産が激減していたことから、

日本の生糸が注目され、生糸産業は大いに栄えた。


旧生糸検査所(キーケン)の建物は、そんな横浜の歴史を伝えている。

キーケンは、1896年(明治29年)に生糸検査所として発足。

1923年(大正12年)の関東大震災では、生糸取引所・生糸検査所・絹業試験場が被災し、各倉庫に保管されていた生糸約5万5千梱(3万俵余り)が焼失したのだという。


1926年(大正15年)、遠藤於莵の設計により、当時の横浜としては最大規模の建物が完成。

その建物は、1990年(平成2年)、現在の横浜第二合同庁舎建設にともない解体されたが、新庁舎の低層部分に同じデザインで再現されている。


横浜市認定歴史的建造物である。



当時の日本にとって”生糸”というのは、ほんとうに大切な輸出資源だったんですね。その日本から輸出される生糸の品質向上を目的として、1896年(明治29年)に現在の中区本町に横浜生糸検査所が発足したのでした。


写真のいまのこの建物は大正の終わりごろに再建された元横浜生糸検査所で、横浜にとって生糸の貿易がどれだけ重要なことであったのかを知るところでもあります。


横浜ゆかりの建築家遠藤於菟の晩年の大作です。

横浜市民からは「キーケン」の愛称で親しまれました。


名称に「第二」とついているのは、すでに山下町に合同庁舎が存在したためです。


現在は、この建物には行政機関が入居しています。


横浜第2合同庁舎は、高層棟と低層棟の棟に分かれており、高層棟は、合同庁舎になっており、農林水産省、厚生労働省、国土交通省が入居しており、関東一円をカバーしている海上保安部も入居しています。


低層棟は、旧生糸検査所の外観を復元した造りになっています。1926年に施工された赤レンガ造りの建物は、異国情緒あふれる横浜の街を一層魅力的に見せる風景の一つになっています。



●平安堂薬局


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平安堂は1870(明治3)年創業。薬剤師が経営する薬局として、馬車道で150年の歴史を刻んできた。1906(明治39)年)ごろに、創業者の初代清水栄助と日本初の薬剤師だった2代目清水栄助によって、現在の場所に「紀伊国屋薬店」として最初の社屋を新築した。


関東大震災や第二次世界大戦を経て、現社長で6代目の清水聖子さんの祖父、4代目清水不二夫さんにより「商栄ビル」が完成したのが1956(昭和31)年。このビルで2016(平成28)年まで60年間、清水平安堂薬局の営業を続けた。


その平安堂が60年ぶりに社屋を新築し、「清栄ビル馬車道」と名付けた。同ビルに2020年2月1日、平安堂薬局(横浜市中区相生町5)がオープンする。


新築のビルの名称は、初代と2代目の清水栄助の名から2文字、「清」と「栄」の字を受け継いで「清栄ビル」。薬局に関わる人の繁栄と健康を願う意味も込めた。デザインと監修は地主道夫設計事務所(戸塚区)が担当。


馬車道のランドマークとして、街に溶け込みながら目印になるような存在を目指した。1、2階が薬局となり、3階はイタリアン、4階は眼科、5階には内科が入る予定。



平安堂薬局は、まさに明治の時代からずっと馬車道にあった由緒ある薬局で、馬車道のランドマーク的存在だったそうです。まっ薬局なので、中に入ったら、どんな御用でしょうか?と聞かれるのが山で、いやただ見ているだけです・・・というふうに対応しました。(笑)いまの新ビル、平安堂薬局も2020年に新築ですが、ぜひ訪ねておかないといけないところだと思いました。




●泉平 いなり寿司 (1839年創業のいなり寿司)


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横浜の老舗として誰も一度は耳にしたことがあろう、横浜馬車道に本店を構える「泉平(いずへい)」。

泉平の名物は伝統的な調理法と独特な形状が織りなす、唯一無二の「いなり寿司」である。


店舗は馬車道の本店のみ。無性に食べたくなる、横浜の老舗グルメである。


馬車道に来たら、この泉平のいなり寿司は食べておかないといけません。

1839年創業ですよ!!!和暦でいうなら江戸時代の天保十年ですよ!(驚)


1839年の創業以来、皆様に愛されて来た泉平のいなり寿司、秘伝の元汁を使って煮上げた油揚げと塩と酢だけで作ったさっぱりとした合わせ酢がいなりの甘味を引き立てます。


ペリーの黒船来航以来慌てた幕府は日米修好条約を結び、横浜開港となり急ピッチで入江を埋立て堀割川となって関内、関外に分けて吉田橋を架け、どうやら町となり、貿易も興り地方から集った生糸商人、仲買人、外国人で、賑わってきました。


その頃江戸の札差し(大名相手に米の売買商)泉屋平佐衛門は、機を見て横浜に移り掘割川の土手で葦ず張りの屋台に人夫商人相手の江戸前寿司で大いに評判をとり、又二代目は高野山参詣の祈伝授されたいなり寿しを商い繁昌したと伝えられています。


三代目は明治中頃横浜寿し組合設立起人の一人として、功績ありと云われ、その後数代にもわたって関東大震災や食料統制にもめげず頑張り、古いのれんと伝統の味を守り、戦後発展礎となりました。尚、泉平の井桁のマークは札差しの時佳友家に気に入られ、使用を許されたと云われます。 


まさにペリー来航の横浜開港で関内・関外・吉田橋でなんとか街の形になって、賑わっていたところに、初代の泉屋平佐衛門は江戸前寿司で、二代目は、いなり寿しで、そして”泉平”は代々受け継がれてきた、ということなんですね。


泉平といえばいなり寿司なのです。


まさに江戸末期、横浜開港のときから、ここ関内、馬車道で伝わる由緒ある”いなり寿司”なのです。


これを食べない訳にはいきません。


泉平さんは、馬車道通りのいちばん端の関内駅のほうにあります。


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こういう感じで、いなり寿司を店内で作って、それを箱に入れて販売しているんですね。お店はテイクアウトのみです。店内に飲食スペースはないので持ち帰って食べられるタイミングで購入しないといけません。


いなり寿司だけの場合と、いなり寿司と巻き寿司のチャンポンの場合と両方あります。


自分は、1,000円のいなり寿司6個入りを買いました。

さっそく食べたいです。


馬車道通りには、このようにきちんと座れる明治時代に作られた古い木製のベンチが常設されているので、ほんとうに助かります。


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泉平のいなり寿司


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じゃじゃ~ん。

購入時には箱越しでほんのり温かさを感じ、箱を開けるとふんわりとお揚げのいい香りがお出迎え。


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泉平のいなり寿司の特徴といえば、やはりこの独特なフォルムです。一般的ないなり寿司と比べると一本を細長く仕上げているのが“泉平スタイル”。これは開港当時、港をつくるために駆り出された人々に片手で一度にたくさんの量を食べられるようにという想いから誕生しました。


ひと口食べると想像していた以上にじゅわりとお揚げの甘辛さが広がり、巻きに余りが出るほどご飯に対してお揚げを豪華に使用しているので特別感も嬉しい逸品。


甘辛と酸味のバランスも抜群で、酢が立ちすぎていないので自分の好み。


とにかくひと口食べると、甘~い!という感じでお揚げさんの甘さがすごく濃厚。これは堪らんですよ。


何度食べてもふとしたときに無性に食べたくなる横浜を代表する「いなり寿司」。横浜 関内・馬車道に来たときは、かならず泉平のいなり寿司を食べないといけません。テイクアウトのみですから、まさに馬車道通りの明治以来の木製のベンチで食するのがオツというものなのです。




●馬車モニュメント


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ホテルルートイン馬車道の1Fのフロアには、馬車のモニュメントが置かれているという情報をキャッチして、前回撮影に行ったのですが、ちょうど馬車道まつりの日だったので、その馬車はおまつり用として駆り出されていたんですね。だからスペースが空でした。で、この日はなにもない日でしたので、きちんとそのスペースに馬車モニュメントが飾られているのを確認できました。


馬車道は、外国人が馬車をつかって行き来していた道。当時の日本人はそれはそれは珍しくてしかたがなかったようです。その馬車が行きかう道ということで、馬車道と言われるようになったのでした。




前回の日記で、横浜もいろいろな観光スポットがあるけど、高貴でお洒落な観光地向けのスポットは確かに素敵だけれど、食事処がカフェとか、フレンチやイタリアンしかなかったら、それは生活できないだろう。暮らしていくことはできないだろう、というのが自分の持論です。


馬車道通りは、じつは異国情緒あふれる景観なのですが、食事処はかなり和的というか庶民的で日本人に合うんですよ。そういう庶民的な食事処と、異国情緒あふれる景観とが同居している街なのです。


だからある意味自分のもっとも理想とするところなのです。


たとえばどんな食事処があるか、いちいち確認してみました。(笑)


とんかつ屋さんと、焼き鳥、茶飯、そしてうどん屋さん


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中華料理やさん


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居酒屋さん

しかも昭和レトロな大衆酒場です。(笑)


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うなぎやさん


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カフェ関係 (ロイヤルズ カフェアンドショップ馬車道店)


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パン屋さん


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そして自分の十八番の大戸屋です!


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これ以外にもたくさんあります。全部は撮影できないくらい庶民的な食べ物やさんがいっぱいあります。コンビニなんかも2,3軒ありました。


馬車道通りってかなり食べ物やさん多いと思います。


だから自分のような和的人間にはとても居心地のいい街なのだと思いました。やっぱり食というのは生きていく上で大事です。いくらお洒落なところでも食べるところがないとか、西洋系のみだと、自分はなかなか生きていけないと思います。


これが関内に行くともっと庶民的になるんですよね。(笑)

もうかなり野毛に近い雰囲気になって行きます。(笑)



もうこれで馬車道で、制覇しておかないといけないところは、もう全部カバーできたでしょうか・・・


よかったです。













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横浜ウォーキング クランクアップしました。 [街歩き]

昨日、本日と最後の砦だった横浜山手西洋館をコンプリートし、これで、I LOVE YOKOHAMAの連載シリーズのための取材、本日にてクランクアップしました。遅筆のため、取材のほうがどんどん先行してしまい、ぜんぜん追いつかない状況ですが、一番大変な取材が今日で終わった、というのはなんともめでたいことです。


長かった~。(笑)


真夏の酷暑の8月16日、夏休みの真っ最中、赤レンガ倉庫、山下公園からスタートした現地見分。全部のスポットを制覇するのに4か月もかかるとは!(笑)


よくやったと自分を褒めてあげたいです。


やっぱり書くことより、その場の現地に行って、自分の感性で感じることがいちばん大変なことなのです。遅筆なので、それにペースを合わせるよりは、もう取材だけでもどんどん進めるべきだと思いました。


映画やドラマと同じですね。収録だけ先にどんどん進めてクランクアップして、あとで編集して完パケにする。それで行こうと思いました。


横浜はすごい観光スポットがたくさんあるので、もう膨大な連載数になり、連載していく上で、ある意味自分にとって初めての試練というか、初めての挑戦だな、と思っていました。


ふだんあまり連載というのはしたことがなく、単発中心なのですが、いままで連載シリーズというと、2017年の”コンサートホールの音響のしくみと評価”が7回と、今年2023年の正月からやった”DX時代のコンサートホール”の17回しか記憶にないです。


それで今回の横浜シリーズ、I LOVE YOKOHAMAは、まだ途中ですが、全編で、37回になりそうです。(笑)いままで書いたのは17回です。あと書かないといけない未完の章が20回も残っているのです。(笑)


年内どころか、年明けて来年の3月あたりまで続くのではないでしょうか・・・。


今回自分にとって初体験、チャレンジングだと思ったのは、取材をして、それから書く、という連載であるということです。ただでさえ、連載って大変なのに、取材が伴うというのは大変な負担です。


コンサートホールの音響のしくみと評価や、DX時代のコンサートホールは、いわゆる家の中で頭で考える、アイデアを練る、そういう連載です。でも実地試験を伴いながら連載しながら書いていき、しかもそれを長期に渡って連載するというのは自分にとって初体験で大試練だったのです。


連載の難しさは、緊張感の持続、新鮮さの持続です。長く続くと、どうしてもワンパターンになってダレていくと、失敗してしまいます。いままで書いた17回の感触から、いまのところうまく行っているのではないか、と思っています。あと、20回もこの新鮮さを持続しないといけません。(笑)


でも、取材がクランクアップした、というのは、ほんとうにホッとしました。


結構大変なのです。前日に地図でアクセスやロケーションを確認し、頭にイメージして当日の本番に臨む。なにせ初めてのところばかりなので、結構不安が多いです。ちゃんとたどり着くのかどうか、とか。


Googleマップなんか使っちゃダメです。地図を見て、自分の頭の中でロケーションをイメージする、そういう才能がとても重要です。自分はこれが昔からかなり得意というか、そして大好きなんですね。結構ワクワク感があって、当日迷いながらそのスポットに辿り着いたときのあの感激といったら、なににも代えられません。


これが好きで好きで得意でもあったので、海外でも億せずどんどんやっていたし、ほんとうに好きなんですね。あれはほんとうに最高ですよ。


旅の醍醐味というところではないでしょうか・・・

旅好きの人の必須才能だと思います。


海外と違って、今回うまくたどり着かなくても、次回があるや、という気楽さはありましたね。いちばんホッとするときが、取材が終わって、帰りのみなとみらい線・東横線で帰宅の途についているときです。やった~今回も無事にコンプリートした!ってな感じです。


これを37回続けてきた、というのは、ほんとうにご苦労様というところです。だから、その取材が終わったというのは、ほんとうに肩の荷が降りた、というか、ストレスがなくなった、という感じなのです。あとは書けばいいだけなのです。重責から解放された、という感じです。



今回、横浜の街歩きをやろうと思ったのは、横浜に住んでから30年、じつは横浜のことをあまり知らないことに気づいたのです。横浜の観光スポットにはほとんど行ったことがない。


自分は、やっぱり遊ぶ場所は、首都圏、東京なんですよ。クラシックのコンサート、コンサートホール通いも圧倒的に東京。横浜は住むところで、遊ぶという概念がなかったです。


横浜の観光スポットはたくさんあるのに、ほとんど行ったことがない、これじゃダメだと思いました。


それを思い立ったのだが、6月です。そして7月いっぱいかけて、横浜のどこに行くかをネットで調べて検討しました。そうしたら、自分が興味のあるところだけでも37スポットもあるのです。


ひえぇぇぇえええ~。横浜ってすごいんだな~。横浜ってほんとうに観光都市なんだな、とそのときに初めて知ったのです。お恥ずかしながら。。。


自分の興味のあるところだけで37スポットですので、もちろんそれ以外のその候補に入らなかった場所もいっぱいあります。それはもう全部対応できませんので、ゴメンナサイです。


37章にもおよぶ大連載をやる。。しかも現地取材つき。これはもう自分にとって大チャレンジングなことだったのです。ずっと緊張感を抱いたまま毎日を過ごしていました。


横浜にずっと住んでいるのに、横浜のことをあまり知らない。今回いろいろ横浜の歴史から勉強して、横浜のことを学んでいくことで、いままでいかに知らないで住んでいたか、ということを身に染みました。


横浜は、もともと海だった。そこを江戸時代から埋め立てして、その埋め立ての上にいまの横浜が成り立っている。横浜の原点、スタート地点は、関内だった。ペリー来航で横浜開港となり、そこに外国人居留地、いわゆる開港場を作って、日本人と接触しないように隔離した。それがいまの横浜スタジアムのあたりの関内だったのです。


この大原則に気づきました。


そしてその関内の外国人居留地がどんどん高台の山手の方向に延びていった。それが山手の西洋館です。


昨日、今日と横浜山手西洋館を巡ってきましたが、いや~~~山手ってすごい異国情緒あふれるお洒落な雰囲気ですね。もう圧倒されましました。これぞ、横浜という代表的なイメージだと思いました。


山手って、”山手のお嬢様”という言葉があるように、山手にはフェリス女学院があるように、もう深窓育ちのお嬢様が住んでいる、そんなイメージがありますよね。山手というところは。


横浜山手西洋館は、もうそれはそれは素敵で度肝抜かれました。

思うのですが、横浜だけでなく、神戸や長崎、そして函館も同じ西洋館があって、街の雰囲気が異国情緒あふれる独特の雰囲気を持っていますよね。


それはどれも江戸幕府が開港する、と決めた街がそれらの都市であって、そこに外国人が住み始めて、そこを流入口にどんどん海外文化が日本に流入していったからだと思います。


だから、横浜も、神戸も長崎も函館もみんな同じ雰囲気を持っているのです。

それがルーツだと思いますよ。


関外から開港場の関内に入る関所の入り口のところの一本道だった馬車道。外国人がその通りで馬車を使ったことで、馬車道と呼ばれるようになった。もうここは流入した海外文化の日本へのゲートとなっていった。まさに文明開化の発信源だった。街路樹、ガス灯、乗合馬車をはじめ数々の文化の発祥の地になっていった。


自分は、この馬車道がいちばん好きです。

9月3日に人生で初めて行ったのですが、もう視界入った瞬間一目惚れ。

もう自分の感性にビビッとくる感じです。


ここが自分にとって37スポットあるうちでいちばん最高に自分好みの街だと思います。

馬車道に住みたいです。(笑)


馬車道は、もうここら辺は全部地続きでつながっているんですよ。関内、伊勢佐木町、そして山手、元町、山下町、中華街、新港ふ頭赤レンガ倉庫。もうここは地続きで全部繋がっている。電車使わなくても歩いてエリア間を移動できます。


ここらは横浜開港からどんどん歴史とともに拡大されていった昔からの伝統のエリアなのです。


そのエリアに新都心計画ということで、みなとみらい21という新しい近代的な観光エリアが追加されていった。もうこれは国、横浜市のYOKOHAMAを観光都市にするという方針の一環なのです。


昔は、横浜の都心は関内だった。そこに横浜の未来に向けた新しい都心を作りたい。それがみなとみらい21構想なのです。


その昔からの伝統エリアと新しいエリアとの総合体が、横浜の観光スポットを形成しているのだ、ということを今回の取材で学びました。


横浜市は最大だと言いましたが、間違いでしたね。東京がやはりいちばん大きいのでした。

東京23区です。横浜は18区なので、2番目です。


その18区ある中で、その伝統エリア、新しいエリアが存在するのが、中区なのです。

横浜の観光スポットは、ぜんぶ横浜市中区にあるのです。


いわゆる世間一般に抱いているお洒落な横浜のイメージは横浜市中区のことを言っているのです。


そして、それらのエリアを電車でアクセスしようとしたら、もうみなとみらい線の横浜~元町・中華街のどこかの駅で降りれば、全部事足りるのです。


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18区ある横浜市の中は、おらが街、区含めてもうピン切りです。いろんな横浜の顔があります。でも観光スポットがあるところ、いわゆる世間が横浜とイメージするところは中区なんですね。


そのことが今回分かりました。


自分のような古い世代の人間では、車につけるプレートナンバーは、品川ナンバーか横浜ナンバーがオシャレでいいなんてことあったじゃないですか。(いまは違うかもしれませんが。)


それと同じなんだと思います。中区じゃないと横浜じゃないなんて主張する人いっぱいいそうですね。(笑)


いくらオシャレな雰囲気でもそこにある食事処、これは住むうえではすごく大事なことです。いくらお洒落で、センスあふれていても、ご飯を食べるところがフレンチやイタリアン、カフェしかないようなところだと自分は生活していけないし、暮らせないと思います。論外です。


でも馬車道は、結構庶民的なごはん処がすごく多いんですよね。大戸屋もあるし、とんかつ、焼き鳥、中華料理・・・そういう庶民的なごはん処がすごく多いです。これも自分が魅かれるところなんですよね。食事処が庶民的なのと、異国情緒あふれるお洒落な雰囲気と同居している感じの通りなのです。


これが関内にいくと、もっと庶民的な景観になりますよ。横浜野毛とまではいかないまでも、かなり和的、庶民的な食事処が満載です。生活していく上で、あまり観光地過ぎてお洒落過ぎても食事処に困るようでは生活できませんが、そういう点で、馬車道、関内というのは、そういう両面性を持っている街だと思います。横浜の成り立ちの原点の地点でもあるし。。。今回、こういうことが分かりました。


これは残りの20回もある(笑)未完成章で熱く語っていきたいと思います。

元町、山下町も最高にいいですよ。


今回、横浜を散策して勉強していった点で自分にとって新鮮だったのが、船です。クルーズの世界です。横浜は、やはり港ヨコハマ・・・と昔から言われているように、開港、港、海、船で成り立っている都市なのです。


横浜は港町なのです。港とともに育ってきた町で、その雰囲気はそこに起因していると思います。


内陸地で育ってきた自分は、もうこの船の世界がとても新鮮でした。

自分にはない世界だと思いました。


自分は生まれてから、ずっと飛行機、電車、車の交通手段で生きてきましたから。

船はほとんど使わないです。


大さん橋国際客船ターミナルに横付されている豪華客船クルーズの姿をリアルの肉眼で観たときは、そのあまりの巨大感、スケール感に驚き、すごく怖かったです。ほんとうに怖かった。


豪華客船クルーズで世界一周旅行をしてみたいものです。(笑)


横浜の観光スポットを37か所回った実体験をして、歴史も勉強してきて理解したのは、こんな感じです。まだ17章しか書いていなく、あと20章も書かないといけませんので、書くときにやはり調べますので、いままで述べた以上に勉強する、学んでいくことは多々あると思います。


それはその20章の中で披露していければ、と思います。


お楽しみに!


まず、取材はクランクアップしましたが、今後やはりここも行っておきたい、というところが出てくると思います。もちろんそのときは、それも追加していきます。


でもI LOVE YOKOHAMAの連載としては、今回でいったんクローズする予定です。


その後の追加は、日記にそういうタイトル冠をつけないで、追加していきます。


街歩きというジャンルは、自分の新しいチャレンジで、7月の人形町が最初でした。もちろん今後も続けていきますが、今回の横浜のように長編連載にはならないと思います。


人形町のように単発になるんじゃないかな?


いま次回のテーマと考えているのが、サラリーマンの街 新橋です。

新橋って自分はふだん行かないし、あまり縁がないんですよね。新橋はサラリーマンの街と言われますが、自分は技術系の会社なので、新橋はあまり関係ないと思うんですよね。新橋は技術系とはあまり関係ないような・・・。


なぜ、新橋がサラリーマンの街と言われるのか、そこを実際街を歩いてみて確認してみたいです。


横浜は、やはりお洒落なので、女性向けだと思いますが、新橋となるといっきに野郎、オヤジの世界に180度真逆の世界になってしまいますね。(笑)


でも新橋は単発のつもりで、連載にはならないと思いますので、来年3月くらいまでは、お洒落な横浜のイメージを続けることになると思います。



馬車道通り


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みなとみらい線・馬車道駅のストリートピアノ


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I LOVE YOKOHAMA 馬車道まつり [街歩き]

馬車道通り、馬車道商店街では、年に1回お祭りがある。


鹿鳴館時代の華やかなドレスを纏った淑女、行き交う馬車や人力車。まるで文明開化の頃の横浜を思わせるような風景が楽しめる4日間、それが「馬車道まつり」である。


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馬車道まつり馬車道商店街では、毎年11月3日(祝)の「文化の日」を中心にした10月31日~11月3日の4日間、馬車道まつりを開催している。


イギリス製の馬車や人力車、鹿鳴館時代を再現した華やかなドレスを纏った貴婦人たちが通りを行き交い、開港当時を再現する。


期間中は、馬車道マルシェ(ワゴンセール)、コンサート、野外チェス、スタンプラリーなど様々なイベントを行う。横浜スカーフの親善大使としてハイカラ衣装を着て参加した女性は来街者の撮影に応じる。


馬車道は、ガス灯やアイスクリーム、乗合馬車、街路樹などの「日本発祥の地」。同イベントは毎年この時期に「文明開化の頃の横浜を思わせるような風景が楽しめるまつり」として行い、今年で37回目。3年ぶりに屋外イベントも復活する。


日本で最初のガス灯が馬車道で誕生したのは、1872(明治5)年10月31日。「ガスの記念日」であるこの日は点灯式をおこなう。


11月3日は、鹿鳴館時代の淑女の衣装を身に着けたモデルが登場し、街全体で当時の雰囲気を再現する。馬車や人力車の試乗会や、「横濱馬車道あいすもなか」を先着1000人に配布する「馬車道もののはじめスタンプラリー」、はかまの着付け体験コーナーなどを行うほか、馬車道商店街の約80店のワゴンが歩道に並ぶ「馬車道マルシェ」も開催する。


関内ホールでは、「馬車道まつりアートフェスタ」を同時開催。期間中、大ホールと小ホールを使ってジャズやクラシックのコンサート、寄席を行う。


馬車道のガス灯設置は、実業家の高島嘉右衛門がフランス人技師のアンリ・プレグランを招き、横浜瓦斯会社を設立して実現。ガス灯は文明開化の象徴として急速に普及し、1874(明治7)年には東京・銀座通りに85基のガス灯が設けられ銀座名物になった。


今年2023年は、自分は最終日の11月3日(祝日:文化の日)に、この馬車道まつりに行ってきた。とくに印象的で、おまつりに華を添えていたのが、鹿鳴館時代の淑女の衣装を身に着けたモデルが登場して、街全体で当時の雰囲気を再現しようという試みだ。


これは素晴らしかった。

華やかだった!


もういっぺんにその場がパッと明るくなるような華やかさで、もう驚いた。


その中で、横濱スカーフ親善大使という役割の女性の方もいた。


横濱スカーフとは、1859年(安政6年)に横浜が開港されて以来、盛んになった生糸の輸出の流れの中で生まれた歴史ある地場産業のシルク100%のスカーフのことである。


世界最高水準の技術で織りなすシルクスカーフの「横濱スカーフ」は、世界でも有名なナショナルブランドなのだそうだ。


鹿鳴館時代の淑女の衣装を身に着けたモデルや横濱スカーフ親善大使のみなさんは、もちろん写真撮影OKで、人々の依頼でいっしょに記念撮影してくれるし、こちらからお願いすればきちんとポーズをとってくれ極上の笑顔スマイルで、写真撮影に応じてくれる。


お祭りに華を添えていたのは言うまでもない。



鹿鳴館時代の淑女の衣装って、こんな感じだったんだな~と思いました。もうとても華やか。女性からするとこういうのを着るのが大変な衣装なのではないか、と想像する。舞踏会とか改まった場所で特別に着る衣装なのではないか。


普段から、この衣装を身に着けるのは、とても大変のような気がする。


馬車道まつりは、馬車道通り、馬車道商店街のストリートを、文明開化のときに使用した型と同じ人力車や乗合馬車などのモニュメントを使って、、実際の馬を使って、ほんとうに馬が引く馬車として実現し、そこにお客さんに乗ってもらい、この馬車道通りの端から端まで、つまり馬車道駅から関内駅までを馬車体験してもらおう!というお祭りである。


そしてストリートの両端には、馬車道マルシェ(ワゴンセール)、コンサート、野外チェス、スタンプラリーなど様々なイベントを行う感じだ。


ストリートは、馬車が通る道なので、人が歩いては行けない。みんな歩道にいないとダメなのだ。警察官の方が何人も動員されて、そこを注意して監視していた。ストリートの両側の歩道は見学者でいっぱいであった。


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ストリートの両側では馬車道マルシェやってました。


横濱馬車道グラーヌズさんのパン、食パンもマルシェしてました。
                                                 
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横濱馬車道グラーヌズさんは、横浜馬車道で25年前より地元の方に愛されていた「レェ・グラヌーズ」が進化し、高級食パン専門店「馬車道グラヌーズ」として2020年11月17日(火)にオープン。
                                           
レェ・グラヌーズは1995年、横浜馬車道に誕生し、ベーカリー&カフェとして20年間、馬車道周辺で多くの人に黄色のパン屋さんとして認知されていたお店。
                                
一度閉店しましたが、パンへの思いが強く、人生最後のチャレンジで「馬車道グラヌーズ」として再オープンすることになったのです。
                                     
ほかにも、いろいろマルシェしてましたよ。
                                             
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実際その場にいると、ほんとうに明治の文明開化のときの時代に居合わせたような雰囲気に錯覚するほど素晴らしかった。馬車道通りではBGMが流れていて、その明治の文明開化の時代のソングが流れていて、そのお祭りの雰囲気をさらに盛り上げていたように思う。


幕末期 日本と外国を結んでいた吉田橋。そんな吉田橋から関内に入るとそこには馬車道が延び、外国人の乗る馬車が行き交っていた。


この広い一本道を外国人が馬車で行き来していたことから馬車道と呼ばれるようになった。


そして日本と外国を繋ぐ道 馬車道からさまざまな西洋文明が日本に入ってきて、まさにこの馬車道から日本の文明開化が始まったと言ってもいい。


乗合馬車が、明治2年に外国人経営のランガン商会が関内の居留地から築地の居留地を結ぶ路線を開設した。東京と横浜を結ぶ新たな交通手段として大人気になった。


明治4年には日本人承認が設立した乗合馬車事業 成駒屋が営業を開始する。馬車道から日本橋を片道4時間で結び1日に100人程度の人々が東京と横浜を馬車で往復できるようになった。


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馬車が行きかう街なので、馬車道。まさに馬車道の原点を、この毎年開催される馬車道まつりで再確認しよう!というお祭りなのだと思う。



その模様を写真でどこまで再現できるかだが、試みてみたいと思う。


朝早く行ったら、人力車が3台。

時代屋さんの人力車のようだった。


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”時代屋”は浅草に人力車を復活させ四半世紀超にわたり、普及・発展させてきた人力車の老舗である。今日の馬車道まつりで、まさに日本を代表する人力車老舗として大役を担った。


お祭りでは、希望者に、この人力車に乗ってもらい、車夫が人力車を引っ張って馬車道通りを往復で走り、人力車体験をしてもらおう、という試みである。3組単位で人力車は走る。希望者はかなりの長蛇の列で大人気でした。


もうみんなそれぞれの想いで人力車の試乗体験楽しまれたようですよ。


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ここは、その時代屋さんのスタート地点なのだ。神奈川県立歴史博物館の真横あたりだ。まだこの時間はスタートする前の待機時間である。



ハイカラさんたちもいよいよ準備開始である。


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馬車道通りにあるホテルルートイン馬車道の1Fフロア。

このスペースにいつもは馬車のモニュメントが飾ってあるんですね。でも今日は馬車がありませんでした。きっと今日のお祭りのために駆り出されているんだと思います。普段はここに格納されていますよ。


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まず最初にお客さんを乗せない状態で馬車が通りを走る。これが結構ショッキングなんだな。馬を間近に見るのも久しぶりだし、馬が歩くときの蹄の音、カッチャカッチャという感じで甲高い音でちょっと興奮しますね。なんか優雅な感じがしますね~。


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そしていよいよお客さんを乗せて、お祭り始まり始まり、である。乗合馬車のほうである。ここで気づいたのだが、馬の目のところには目隠しがされているんだな。たぶん目隠しをしないと群衆などで驚いて馬が暴れちゃうからだと思う。馬には目隠しをして、ただただ歩いてもらうことに集中してもらう、ということであろうか。。。


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人力車も、乗合馬車と同時に同時進行である。時代屋さんの人力車のスタート地点は、ここ神奈川県立歴史博物館の真横。時代衣装を着た女性スタッフが、人力車が発車すると「いってらっしゃ~い!」、戻ってくると「お帰りなさ~い!」と声をかけ労う。そしてお客さんの希望によりスマホでの記念撮影も快く応じてくれる。


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撮影のお願いも快く笑顔で応じてくれます!


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馬車道まつりには、こんな試みもありました。馬の上に乗れる催しです。もう子供たちを中心に試しに馬に乗ってみたいとどんどん順番制で乗れます。


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でも、これ、あとでお客さんの話し声が漏れ聞こえてきて驚いたのだが、この馬はロボットだったそう。(笑)本物の馬ではない。自分も驚きました。もう姿格好、雰囲気、もう絶対馬の本物。でもロボット言われれば目の動きとかワンパターンで、体の動きもワンパターンだ。しかしこれがロボットと聞いて、本当に驚きました。


すぐ隣には、本物の馬が囲われていました。


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まさにお祭りに華やかさを添えていたハイカラさんたち。

もう素敵でございました。


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横濱スカーフ親善大使の女性にも撮影のお願いをしたところ快く笑顔で応じていただきました。


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そして鹿鳴館時代の淑女の衣装を身に着けたモデルの方々、素敵でございました。


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そして撮影のお願いには、快く最高の笑顔で応じてくれました!

ありがとうございます!!!


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そして人力車のほうでは、横濱スカーフ親善大使の女性が人力車に乗ります。これは完全にメディアへの撮影用になります。もうプロのメディアの方々、そして我々一般人も混ざって、ではみなさん行きますよ~5秒間の撮影タイムです、ということでいっせいにシャッターで撮影です。


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ずっと立って見ているのは大変ですので、この人力車のスタートの地点を真横で見るところのベンチで座りながら、すっと長時間、1日中ホケ~としてこの風景を眺めていましたです。なんと!そのベンチは大戸屋の前のベンチでした。(笑)


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当時の軍服みたいな服装の男性モデルもいて、これまた素敵でした。


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夕方ごろ、人力車サービスも終了。スタッフ集まってご苦労さんでした。


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そして今回の時代屋さん人力車サービスの車夫さん、スタッフ集まって、みんなで集合写真。もうメディア向けの撮影タイムになります。私のような一般人カメラマンも交えてハイ、チーズ!


ご苦労様でした!


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車道と交わる弁天通り沿いでもグルメフェスが開催されていました。弁天通り「関内フード&ハイカラフェスタ」街をあげて盛り上がっている横浜、これが好きなんです。美味しそうでした・・・。


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馬車道まつり、というのはこんな感じのお祭りでした。


インスタグラムのyokohama.meiji_romanticさん、横濱今昔写真 | 丸ニ浪漫書店さんのお写真と説明文をお借りて、馬車道の今昔写真と馬車道という街のご紹介。


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今から120年ほど前の明治後期に撮影された写真です。関内地区の西部、赤レンガの舗装で足元が彩られ、見上げるとレトロな建物が建ち並ぶ、ノスタルジックな雰囲気が魅力的な馬車道通り。


平日は会社帰りの食事やお酒を楽しむサラリーマン、週末は景色を楽しむ観光客で常に賑わっています。歴史は古く、通りが整備されたのは横浜港の開港からまもない明治元年(1868)。完成当初は、関内地区の入り口である吉田橋から開港場への連絡道として用いられ、開港場を利用する外国人が馬車を利用していたのを日本人が珍しがったことから、いつしか「馬車道」と呼ばれるようになりました。


やがて人通りの多さから商店街として発展。今も飲食店を中心としたお店が軒を連ねているほか、明治後期から昭和初期にかけて建てられた建築もいくつか現存しており、豊かな近代横浜の情景を残している貴重なエリアとなっています。











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I LOVE YOKOHAMA 馬車道 [街歩き]

I LOVE YOKOHAMAの連載で、横浜のいろいろなスポット、それこそ人気観光スポットから、さらにはディープな世界までいろいろ訪れたが、文句なし最高にNo.1なのが”馬車道”である。


もう自分ははじめて訪れたとき、その”馬車道通り”を見た瞬間、もうひと目惚れ。これはいい~。これは素敵!と完璧にメロメロに惚れてしまった。


自分の感性に合う街というのは、その街の景観、通りの景観が自分の視界に入って来るや否やピンと直感で感じるものである。自分のアンテナにビビッとくるかんじで、これは素敵なところだな、と思ってしまった。


自分の中では、横浜のスポットで”馬車道”が最高である。

馬車道に住んでみたいです。(笑)


馬車道は初めて訪れて直感なんだけど、いかにも明治の文明開化の”ハイカラさんが通る”の世界そのまんまなんですよね。そういう雰囲気が漂っている。


これは素敵な雰囲気だ。海、クルーズの横浜もいいけど、こういう文明開化の”ハイカラさんが通る”の世界も素敵だな~と思いました。


もう自分のストライクゾーンど真ん中のドンピシャでした。


その後いろいろ調べていくうちに、さらに馬車道の歴史を勉強していくにつれて、まさに先入観なしに最初に自分が直感で感じたイメージがぴったし大正解であったことがわかった。


やはり自分の勘は鋭かった。


ふつうは、横浜のひとつのスポットに対して取材は1回、せいぜい不足分を補うためにもう1回行くくらいだ。でも馬車道は、行っても行ってもあとになって、あれ~あそこもあったんだ~という感じで何回も繰り返し行くことになった。


累計で5回は訪れていると思う。(笑)

最高記録である。


でも別に大したことではない。東横線~みなとみらい線で電車1本で近いんだから。


おかげですっかりマイタウンのような感じになってきた。


今日日記を書くうえでネットで調べたら、馬車道のオフィシャルウエブページがちゃんとあるんですね。(笑)もうそのページには記念碑、歴史、そしてスポットなど詳しく書いてある。観光の前にこのページで確認することをお薦めする。そうすると行ったり来たりの無駄な取材はなくなるであろう。自分は全然知らなかったです。いま気づきました。(笑)



馬車道オフィシャルサイト




馬車道というのは、関内なんですよ。2004年にみなとみらい線が開通する前までは、関内駅からアクセスするところだった。でもみなとみらい線で、ちゃんと馬車道という風に独立して扱ってくれてから、馬車道駅としてアクセスできる。


馬車道として魅力あるのは、馬車道通り、馬車道商店街のことである。


この通りに出るには、馬車道駅か関内駅かのどちらかからアクセスする。

馬車道通りの片方の先端が馬車道駅で、もう反対の片方の先端が関内駅。

馬車道駅と関内駅を結ぶ直線の通りが馬車道通りであり、馬車道商店街なのだ。



馬車道は、地理的には関内、そして伊勢佐木町ともう連なっている。

馬車道の隣は関内だし、馬車道の隣は伊勢佐木町である。


関内も伊勢佐木町ももう取材済み。もうこの3エリアは完全に地続き、繋がっているんだな~と歩いていて実感した。


これから馬車道を紹介していく上で、馬車道の歴史について説明していきたいと思う。


これはいままで横浜を勉強してきた中で、もっとも実感することなのだけど、横浜ってじつは”関内”が、いちばんのキーポイントなんじゃないか、ということだ。すべてはここから始まった・・・というような感じ。横浜は関内から始まったといえるのではないか。。。


いまの我々の感覚だと、関内って横浜スタジアムがあるところ、自分的にはラーメン二郎関内店があるところ。。そういうイメージで、確かに市営横浜線とかJR京浜東北線では関内という駅はある。


でも関内という街があるかというとそうでもないんだよね。なんかつかみどころのないエリアが関内というところだ。


ところが横浜を語るうえでもっとも大切なのは、関内なのだ。横浜は、関内からすべてがスタートしたといえる。


ペリー来航で江戸幕府は横浜を開港するときに、外国人と日本人を接触させたくないために、わざと東海道の神奈川宿から外れたわずか100戸に過ぎない横浜村を選んだ。そこに外国人居留地を作って、そこに外国人を住まわせた。そして日本人がそこのエリアに簡単に入り込めないように関所を作って隔離した。その外国人居留地のあったエリアを関内、そしてそれ以外のエリアを関外と言ったのだ。だから関内は町の名前ではない。


そしてその後外国の文化がどんどん日本に流入してくる。そうするとその関内は外国人文化の源泉としてどんどん発展していく。そこに日本人が興味を持って、どんどん外国文化を取り込んでいく。


すべては関内がスタートなんだと自分は思う。


関内については、別途、I LOVE YOKOHAMAで取り上げるので、そのときにまた語りたいと思う。現在の関内のエリアを、いろいろ散策してきました。いまの関内を歩いて、開港時の関内をいま想う・・・お楽しみに!


さて、馬車道の歴史についてである。



横浜は1859年、横浜港の開港以来、異国から人や物、情報、文化が集まり、常に時代を先駆け、近代日本の成長を牽引する地として発展してきた。


そして関内における馬車道とその周辺にはいまでも開港時から残る歴史的建造物や異国情緒漂う風景が多い。


ところで普段何気なく、”関内”と言っているが、じつは関内という町名は存在しない。

画像にある赤い部分を関内。その左の青い部分を関外と言っていたそうだ。


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1859年、江戸幕府は外国との自由貿易を許可し、神奈川をはじめ、長崎や函館を開港する。当時、神奈川の中心だった 神奈川宿近辺を開港予定地としていたが、神奈川宿は東海道に位置し、人々の往来が多く、日本人と外国人との接触を恐れた幕府は、神奈川の横にあった浜、横浜村を開港地にした。


画像は開港前の1854年の横浜村の図である。


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浜が横に伸びていることから横浜と言われるようになった説もある。

面積はもちろん横浜のほうが大きいが、長崎の出島を思わせる雰囲気もある。


上部、中央が開港当時の横浜である。


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中央右側が日本人街。

その右側が鉄道 桜木町駅になるところである。


中央の左側が各国の居留地の山下

川から左が現在の中区山手である。


居留地に住み切れない外国人のために土地を広げて山手とした。


湾を挟んで手前 下の方に東海道が走り、その右側に神奈川宿が描かれている。


開港された横浜港には、開港場と呼ばれる外国人の住居や交易場、商店街が作られ、左の黄色っぽいところが外国人街、右の白っぽいところが日本人街と分かれていた。


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開港場に入るには、絵に描かれているように橋を渡るしかなく、それぞれの橋のたもとには関所が置かれ、日本人の開港場への入場を厳しく制限していた。


こちらは1861年に描かれた 開港 間もない横浜港の全景である。


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これをアップしてみると、谷戸橋のふもとに関所が描かれている。


橋が架かる川は元々なく外国人と日本人との接触を恐れた幕府が掘削して川を作り、橋を架けたのだそうだ。その上の橋は西ノ橋 また右上の方をアップすると太田橋との表記があり、後にこれが吉田橋となる。


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この道が開港場へと渡るメインの橋、および関所となっていた。


現在では川は埋め立てられ、地下に首都高横羽線が、その上にはマリナード地下街、さらにその上に一般車道と歩道が通っていて、吉田橋関門跡の碑が置かれている。


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この関所の海側を関内、内陸側を関外と言っていたのが、関内の由来なのである。


幕末期 日本と外国を結んでいた吉田橋。そんな吉田橋から関内に入るとそこには馬車道が延び、外国人の乗る馬車が行き交っていた。


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1859年の開港から7年後の1866年に豚肉料理屋から出火。関内地区の2/3が焼ける大火があった。この大火をきっかけに幕府と外国行使団との間で居留地再建計画が立案され、馬車道や日本大通り、海岸通りなどの広い道路が整備。


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さらに下水道に石造りの洋館 公園など一気に防火対策も進められていく。


この広い一本道を外国人が馬車で行き来していたことから馬車道と呼ばれるようになったそうである。


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そして日本と外国を繋ぐ道 馬車道からさまざまな西洋文明が日本に入ってきて、まさにこの馬車道から日本の文明開化が始まったと言ってもよいのかもしれない。


景観作りのための街路樹の植樹やガスの街路灯、もちろん日本で初めて現れた景観である。


ガス灯は”横浜の父”とも言われ、幕末から明治にかけて活躍した高島嘉右衛門により日本で初めてのガス会社 横浜瓦斯会社を設立。明治5年 馬車道で点火された。


当時は東京から多くの人が見物に来て毎晩お祭り騒ぎのような賑わいだったそうだ。


その東京では横浜から遅れること2年 明治7年に銀座にガス灯がともることになる。


外国人が馬車を使うことから、この通りが馬車道と呼ばれるようになった。その当時、その馬車という乗り物が珍しくて仕方がなかった日本人。その馬車道で外国人が乗っている馬車をものめずらしげに見物していたのだそうだ。



それだけではない。乗合馬車も馬車道発祥である。


明治2年に外国人経営のランガン商会が関内の居留地から築地の居留地を結ぶ路線を開設した。東京と横浜を結ぶ新たな交通手段として大人気となった。


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明治4年には日本人商人が設立した乗合馬車事業 成駒屋が営業を開始する。馬車道から日本橋を片道4時間で結び1日に100人程度の人々が東京と横浜を馬車で往復できるようになった。


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幕末の1854年 ペリーの2回目の来航まで100戸ほどしかなかった漁村が1859年の横浜開港を経てわずか20年足らずでここまで発展したわけである。


横浜の原点って、じつは関内にある、ということがよくおわかりになると思う。そして吉田橋から開港場(外国人居留地)の間を通る道が、外国人が使っていた馬車が通る道、それが馬車道で、馬車道はまさに文明開化の先頭にあったのである。


では、やっと本編。


現在の馬車道通りを歩いてみよう。

みなとみらい線の馬車道駅で降ります。


みなとみらい線の馬車道駅の標識がとても素敵です。


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(c)Find Your Yokohama Facebook


本物のレンガを職人が手作業で積み上げた駅の壁面など、横浜には赤い場面が数多くあります。このレンガ造りの駅の壁面と標識が赤でシンクロしていてなかなか素敵なのです。


みなとみらい線の馬車道駅は、みなとみらい駅に続く規模の大きさだと思います。ここにはストリートピアノがあってなかなかいいのです。通りかかると大抵だれか弾いています。


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馬車道駅を地上に出ると、もうそこは馬車道通りです。建物の建造物に歴史を感じるのと、ストリートの両側に植樹で緑が豊富なこと。なんか素敵観が漂います。もう第1印象でいいな~とビビッときましたです。


近代化するに伴って人口過密が予想される都市の景観的魅力を向上させるために発達したと言われる街路樹。そんな日本における街路樹の始まりこそが実はこの馬車道なのです。1867年(慶応3年)頃、馬車道では美しい景観づくりのために、各商店により柳と松が植えられたのが近代街路樹の先駆けとなったのだそうです。


いまではストリートの両側に街路樹の植樹って街の景観つくりとしては当然の策ですが、その発祥はこの馬車道通りだったのです。


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ガス灯。まさに横浜を代表するものですね。文明開化そのものです。ガス灯は横浜が日本で最初なのです。景観作りのための街路樹の植樹やガスの街路灯、もちろん日本で初めて現れた景観。


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ガス灯は”横浜の父”とも言われ、幕末から明治にかけて活躍した高島嘉右衛門により日本で初めてのガス会社 横浜瓦斯会社を設立明治5年 馬車道で点火されました。


当時は東京から多くの人が見物に来て毎晩お祭り騒ぎのような賑わいだったそうです。


南蛮渡来といえばガスも明治維新以降に導入されたインフラ。国内初のガス灯は明治5年に高島嘉右衛門のガス会社「日本ガス社中」により、ここ馬車道に灯されました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本の職人により製作されたと言われています。こちらの記念碑及びガス灯は、関内ホール新築完成を祝って、当時の型をベースに復元したものになります。ちなみに壁面のレリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道が描かれていて、こちらも見どころだそうです。


このストリートの両側に植樹があって、そこに一定間隔でこのガス灯が並んでいるんですよね。このガス灯がいちばんこのストリートが素敵だな~と思ったところでしょうか。


そしてこういういかにも明治の頃に作られたという木製の古いベンチがこれまた一定間隔で設置されているんですよね。


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馬の給水場のレプリカです。神奈川県立歴史博物館の前と、あとで説明する馬車道十番館の入り口脇との2か所に残されています。


神奈川県立歴史博物館の前の馬の給水場


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馬車道十番館の入り口脇の馬の給水場


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こういう馬の飾りもストリートの一定間隔に設置されているんですよね。これまた素敵なのです。


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馬車道で最古参の建造物といえば本町通りから馬車道に入ってすぐの場所に立つ元横浜正金銀行です。


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ドイツバロック調の重厚な石造りの外観が印象的です。


東京日本橋の日本銀行本店と並ぶ明治期に建てられた銀行建築の最高傑作と言われています。設計を手掛けたのは建築家の妻木頼黄。辰野金吾 片山東熊と並ぶ明治建築家の巨頭の一人で内務省や大蔵省関連の設計を多く手がけた建築家です。


大正2年に完成した横浜新港ふ頭の赤レンガ倉庫も妻木の設計作品です。明治13年に開設された貿易決済と外国為替に特化した横浜正金銀行。戦後 GHQにより解体された後は、東京銀行となりました。


横浜正金銀行は日銀総裁への登竜門だったといいます。

現在は神奈川県立歴史博物館となっています。



1904年に横浜正金銀行本店として建てられ、現在は神奈川県が運営する博物館として生まれ変わった神奈川県立歴史博物館。博物館開館時に国の重要文化財、史跡に指定された同建物は、関東大震災でドーム部分は消失したそうですが、1967年、博物館として開館されると同時に消失していたドームを復刻再建したものだそうです。


歴史博物館はせっかくですから、中を見学させていただきました。自分が入った門のところは正門ではありませんでしたが、いきなりこのレッドカーペットです。


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中はとても歴史ある感じの内装で歴史の重みを感じます。


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こちらが正門から入ったところですね。売店やロビー、受付です。


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歴史博物館の構造としては、レギュラーで展示している展示会と期間限定の展示会のふたつがあります。期間限定の展示会では、このときは足柄の仏像という展示をやっていました。


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自分は、レギュラーのほうの展示を拝見しました。いわゆる横浜に限らず、神奈川県全域にかかわる歴史の貴重な資料や遺産が展示されておりました。いわゆるまさに中世から近世にかけての神奈川県の総合的な歴史博物館です。


撮影禁止です。(笑)


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源頼朝像ありました。まさに鎌倉時代にも熱くスポットを当てています。


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この神奈川歴史博物館では、カフェがあるんですね。

自分はこういうスポットに注目するのがとても好きです。


とても歴史ある古風な感じの喫茶店という装いでした。


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テーブルクロスには、関東大震災とあります。横浜は関東大震災と横浜大空襲で泣かされてきた街ですからね。関東大震災の震源地って、じつは東京ではなく、神奈川県の直下だったそうですよ。


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こちらは旧川崎銀行横浜支店です。


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関東大震災前年の大正11年 川崎銀行横浜支店として建築されました。平成元年の改築時に低層階の外壁を残したまま上層階を建造。現在は損保ジャパン横浜馬車道ビルとなっています。


越渓は銀行建築を多く手掛けた矢部又吉。川崎銀行東京本店。その他数多くの支店を手掛けています。


1922年に建設された、ネオルネッサンス建築の建造物。当時は川崎銀行横浜支店として建てられたが、1989年に建物の一部が残される形で改築された。現代の建築様式と当時のネオルネッサンス様式が見事に混ざり合ったそのヴィジュアルと、歴史的価値により、横浜市歴史的建造物第一号として認定されています。




この建物の9Fに入っている瀬里奈ステーキドームというのが、じつは抑えておかないといけないグルメスポットらしいです。


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ぜひ行ってみたかったのですが、とにかく大人気の混みようで、予約も大変らしいし、なんといってもお値段がすごく高いです。高級ディナーですね。


ポイントはお客さんの目の前で、コックが鉄板上でそのステーキの調理をするところを一部始終ショーとしてお見せするところに目玉があるとか。。


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こんな感じだそうです。(笑)


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とにかく予約も大変だし、ディナーの予算だと1万円近くするみたいなので、また今度ですね。(笑)



東京藝術大学 馬車道校舎


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宮殿のような4本の支柱に印象的なルスティカ積みのこの建物は、元は安田銀行横浜支店として1929年に建設されたもの。その後、名称変更され、富士銀行横浜支店となり、現在の東京藝術大学の馬車道校舎となったのが2005年。2003年には横浜市認定歴史建造物に認定されている。


もういまやこの歴史的建造物は、東京藝術大学の馬車道校舎なんですね!なんと、素敵なことでしょう!こういう環境では美術、音楽などの芸術も心が弾むというものです。




馬車道大津ビル


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強烈な個性を持つ県立歴史博物館の斜め向かいに建つシンプルな4階建てのビルです。派手な装飾もなく控えめな存在ですが、その端麗な姿はとても印象的。「外観にアール・デコ独特のデザインをもつ、昭和初期の中規模オフィスビル。隣接する富士銀行や歴史博物館等とともに馬車道の歴史的景観を形成している」との理由で横浜市歴史的建造物に認定されました。


地下には写真展や絵画展、コンサートなどが開催できる「馬車道大津ギャラリー」があります。


日本の写真界を切り開いた“開祖”を讃える碑「下岡蓮杖 顕彰碑」


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絵師だったという経歴を持つ写真師、下岡蓮杖。日本に写真師、写真家という職業を確立したという功績から、日本写真界の開祖と呼ばれています。彼が馬車道で開業した写真館が大繁盛したことが、日本に写真というものが根付くきっかけの一つとなったのは間違いない。


数多くの弟子を育て、その技術反映にも尽力したその業績に敬意を表し、彼の写真館のあった近くにこの碑が建立されたとのこと。一風変わった砲弾型の碑の上に当時の写真機を模したオブジェが特徴的です。


日本で初めて写真家という職業を確立した下岡蓮杖の写真館がここにあったんですね。馬車道は日本職業写真家の発祥の地でもあるのです。



アイスクリームも馬車道発祥なのです


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アイスクリームを初めて売り出したのもこの馬車道にあったお店、だって知ってました? 明治2年に町田房造さんという方が「あいすくりん」と名付けて売り出したのが始まりなのです。


日本人がアイスクリームを製造販売したのも明治2年 ここ馬車道からでした。幕府が米国へ派遣した使節団の一員であった町田房蔵が馬車道に氷水屋を開業します。


牛乳、卵、砂糖のみのシンプルな材料で作られ、アイスクリンとして販売されたそうです。その当時の販売価格が1個8,000円だったそうで庶民にはとうてい手がでない代物でほとんど外国人相手の商品だったようです。昭和51年に日本アイスクリーム協会によりアイスクリーム発祥の地として馬車道に太陽の母子像が寄贈されました。常磐町のスターバックスの前の歩道に設置してあります。


馬車道はアイスクリームの発祥の地。その馬車道で初めて発売されたアイスクリームが「アイスクリン」だったそうです。それで、じゃいまの時代、馬車道でその元祖アイスクリームが食べれないのか、もちろん急いで調べてみました。でもないんですね~。(笑)スマホのネット情報では、赤レンガ倉庫の中に馬車道アイスクリンを食べさせてくれるお店が入っているという情報をキャッチしたので、さっそくこの日、赤レンガ倉庫まで行ってきましたよ。


でもありませんでした。おかしいな~と思い、再度ネットで確認すると、もうすでに閉業になっていました。(笑)いま現在では、馬車道アイスクリンというのは、お店では食べられないものなんですね。



でもネット販売、通販ではあるみたいです。


これが馬車道アイスクリンです。


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いつか食べてみたいと思います。


向かいにはスターバックスが入っていました。


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そして2Fには、ディスクユニオンが・・・(笑)


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そして関内ホールです。


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馬車道に位置する横浜市市民文化会館。大ホール(1102席)、小ホール(264席)などを備え、コンサートや寄席、映画祭などの各種イベントが開催されます。


むかしは、ここは横浜宝塚劇場といわれていた劇場でした。

 

客席数は1440席。市民からは”よこほう”と呼ばれ、親しまれました。阪急電鉄グループの総帥の小林一三が昭和9年に現在の清水建設である清水組の土地を購入し昭和10年に竣工します。当時、かけそば1杯が10銭の時代に入場料は1階席50銭。2階席1円でした。


かけそば1杯が、400円くらいとすると1階席がおよそ2,000円、2階席が4,000円と高価なものであったにもかかわらず市民からは好評をを得ました。当時の映画館は劇場を兼ねたものでした。映画のみならず横浜で初の宝塚歌劇団の公演として星組による舞踏も開催されました。


東宝の若手俳優陣が昭和13年に上演した”お化け大会”は劇場始まって以来の空前の客入りで1日3回回して6,000人の観客が、公演を楽しんだといいます。


映画ブームの終焉により昭和44年に閉館します。

現在は横浜市市民文化会館 関内ホールとなっています。


関内ホールの前の広場では、ストリートライブなどがおこなわれていました。


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リッチモンドホテル横浜馬車道


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馬車道通りを挟んで、横浜宝塚劇場のはす向かいにあったのは横浜東宝会館 昭和31年に開館しました。小林一三設計。地上4階、地下1階の建物の中には当初4つその後5つのスクリーンが入っていました。 いまで言うシネコンプレックスの先駆けだったわけですね。平成13年に閉館し、現在はリッチモンドホテル横浜馬車道となっています。




生香園


生香園 本館


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生香園 新館


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横浜・馬車道にある周富輝オーナーシェフの中華料理店。新館・本館があり、広東料理をベースにした、あっさり味の独自の中華が約250品。


周富輝


横浜で生まれ、横浜で育った生粋のハマっ子。

19歳の時、父の経営する『生香園』で修行を始める。

現在は、周本家の味を父から受け継ぎ、

馬車道にある本館・新館の2店のオーナーシェフを努める。

「新しい料理を100考えても、その中の3つぐらいしか店には出せないんだ」

という 厳しい料理哲学のもと“富輝流おいしい中華”を作り続けている。

テレビの料理番組や雑誌でも活躍し、店を訪れた人には気さくに声をかける庶民派。

兄はおなじみの周富徳。


生香園といえば、自分の世代では、お兄さんの周富徳のほうでした。2014年に亡くなられていたんですね。全然知らなかったです。


周 富徳(1943年3月11日 - 2014年4月8日)は、広東料理の料理人・実業家。神奈川県横浜市中区山下町の横浜中華街出身。愛称は「炎の料理人」


周 富徳さんは、それはそれはテレビでも有名な方で、日本でも著名な中華料理人でございました。中華大好きな自分はよく存じ上げておりました。いまは生香園は、弟さんの周富輝さんが継がれているんですね。


生香園といえば、周富徳さん、周富輝さんのお店なのです。四大中華料理の中でも広東料理ですね。


生香園は本館も新館も、この馬車道通りに面したところにあるのです。


新館は、このお店の外観から、昔、前職時代に、職場のグループの飲み会をこの新館でやったような記憶がある。確かあのとき、周さんのお店って言っていたので・・・。生香園がまさか馬車道にあったとは、あのときはまったくそんなこともつゆ知らず。


せっかく馬車道に来たのですから、この生香園で腹ごしらえをします。本館のほうです。


店内はこんな感じで、周富徳さん、周富輝さんの写真がいっぱい飾ってありました。


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やっぱり天下の周さんのお店、生香園。高いよな~。すごく高かったです。下の3品を頼みましたが、6,000円~8,000円くらいしたと思います。お腹ペコペコだったので、メインディッシュとしては中華丼にしたのですが。。。


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馬車道といえば、どうしても避けては通れないグルメどころがあります。

それが馬車道十番館です。


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馬車道十番館は、西洋菓子の販売、喫茶室、レストラン、英国風酒場の4つの顔を持ったところなのです。とにかく建築がとても素敵ですし、レストランなんかかなりゴージャスな造りですよ。


まさに、横浜と共に歩む “ 馬車道十番館 ”


館内に保存された開化期の文明の香りを伝える数々の資料と併せて古き良き時代を偲ぶそんな横浜馬車道ならではのスポットなのです。ここはぜひ寄らないといけない、と思っていました。



幕末から明治にかけて活躍した横浜の実業家、易学家の高島嘉右衛門の住居は、この馬車道常磐町のレストラン馬車道十番館があるところだったそうです。


横浜開港のころ海岸沿いに建てられた外国の商館は一番館、二番館・・・と呼ばれていました。この建物は昭和42年に関内、いや日本に現在の四角いカツレツを広めた勝烈庵の総本店として建築されました。明治期の西欧風建築を模したものです。


そうレストラン馬車道十番館は勝烈庵の系列店なのです。


勝烈庵は現在も馬車道総本店、相鉄ジョイナスなどで営業されていて多くの浜っ子のファンを獲得しています。


この馬車道十番館はぜひレストランで食事したかったのですが、ここも予約が大変。ディナーだと予算も大変そうなので、ここに併設している喫茶室でよし、としました。


なかなか素敵です。さすが横浜の歴史と共に歩んできているだけはあります。


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西洋菓子を売っているコーナーもあります。


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今度はレストランでぜひ体験してみますね。


時計なんかのインテリアもクラシックで素敵なんですよね~。


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馬車道は発祥の地というのが多いです。街路樹、ガス灯、アイスクリーム、乗合馬車、そして職業写真家。歴史的な建造物。そして馬車の通る街。こういう文明開化の横浜の香りがとても色濃く残っているのです。


これは、最初なんの知識も持たず、初心者状態で初めて馬車道に来て、この馬車道通りに触れたときに、自分はすぐに直感でこの異国情緒溢れるハイカラな空気を感じ取りました、です。


それだけ街が放つオーラがただならぬものがあったです。

ピンと来ました。


そうしてその後です。事後になりますが、いろいろ勉強していくと、そういうことだったんだな、ということがわかってきました。


横浜・馬車道。とても素敵だと思います。


馬車道通りでは、ウエディングの記念撮影をしている場面にも遭遇しました。

ロケーション的にとても合っていると思います。


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I LOVE YOKOHAMA 横浜野毛のディープな世界 [街歩き]

児玉麻里・児玉桃ピアノ・デュオ・リサイタルのあと、お昼ごはんを食べたいと思い、野毛のすみれ横浜店に繰り出したいと思っていた。リサイタルは、神奈川県立音楽堂で、JR桜木町駅をそのまま紅葉坂の交差点を昇ったところにある。一方で野毛も桜木町駅から歩いて行けるのだ。


だったらそのまま桜木町駅経由で、神奈川県立音楽堂から野毛まで行ってしまえ、と考えた。もうコンサートに行く前から、この予定でいた。


桜木町駅から野毛に行くには、「野毛ちかみち」という地下道が整備されている。


これにはいろいろ経緯がある。


東横線から、そのままみなとみらい線を新設するときに、東横線の横浜~桜木町間の路線を廃止してしまう計画に対して、そこに住んでいる住民から大反対が起こったのだ。


1987年6月11日の神奈川新聞1面に東急のみなとみらい線直通運転計画がスクープされたんだが、その路線計画を見る限り横浜~桜木町間の廃止は、すでに決まっていたのだ。


それで沿線住民が怒ったのだ!


横浜市のみなとみらい計画によって、なぜ私たちが不便にならなければならないのか?そんな思いを持った沿線住民はこの計画に対して猛反発。


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東急直通に伴う最初の地元説明会は、横浜市当局への「糾弾の場」と化した。


既にそこに住んでいる人からするれば当然の物言いである。結局 東急東横線桜木町駅廃止に伴う補償として、桜木町駅と野毛地区を結ぶ地下道「野毛ちかみち」や桜木町駅前歩道橋が整備され、また野毛町地区の地域振興策として野毛本通りのモール化、横浜にぎわい座の開設などがおこなわれた。


それだけの補償がおこなわれるということは、桜木町駅の廃止って、かなり大きな問題だったのである。


”野毛ちかみち”ってこのときにできたのだ。桜木町駅からそのまま地下道を歩いて行って、地上に出たところが野毛のエリアにでる、という・・・


桜木町駅改札をすぐに出たところに、この野毛ちかみちに入るための入り口があるんだな。


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そしてエスカレーターで下っていくと、もうそこは”野毛ちかみち”の地下道だ。


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確かにこれは便利。変に地上の道路を歩いて行って、横断歩道であるとか、信号待ちとか、そういう行き方をするよりは、もうこの”野毛ちかみち”の地下道で障害なくスムースに歩いて行った方が、そういう煩わしさもいっさいなく便利だ。


自分は、すみれ横浜店に行くときは、いつも桜木町駅からこの”野毛ちかみち”の地下道を使って野毛まで行く。なので、この日は、神奈川県立音楽堂でコンサートを楽しんだ後、そのままいったん桜木町駅まで戻り、そこから野毛ちかみちで野毛まで行ってしまえ、と考えたのだ。


素晴らしいコンサートの後の、すみれ横浜店の味噌ラーメンは最高であった。


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すみれ横浜店、ほんとうにひさしぶり。


看板の味噌ラーメンを食したが、もうここは、自分が1995年頃に夢中になっていた頃のラー博のすみれの味、本家本元の北海道札幌の中の島本店の味噌味とはもう完全にぜんぜん違う独立した道を歩んでいますね。(笑)


もう味噌ラーメンとしては最高に美味しい。スープの味噌味ももう最高に美味しい。でも自分が夢中になっていた1995年頃のラー博のすみれの味、いまの本家本元の北海道札幌の中の島本店の味噌味とはもう完全にぜんぜん違う味なんだよね。


もう本家とはぜんぜん違う道、唯我独尊の独立した方向性に行こうとしているのか。。でも味噌ラーメン、スープの味噌味としては、これはこれで最高に美味しいので、もうこれは変に本家本元に追随していくよりは、すみれ横浜店で独立して我が道を行く、というほうがいいと思う。


それだけ、すみれ横浜店の味噌味も美味しい。開店当時と比べると、味噌がだいぶこなれてきた、熟成してきた、という感じで、とてもしょっぱい感じでそれがいい。そして正統派の味噌味という感じで、これはこれで最高の味噌ラーメンなのではないか、と思います。


いわゆる本家本元のあるいはいわゆる中の島本店のパンチの効いた味噌味とはちょっと違うんだよね。もっとストレートで純粋で素直なアプローチの味噌味で、ストレートに美味しいという・・・


すみれの味噌ラーメンについては、昔から知っているだけに、お店の人からすると、うるさいお客さん、面倒くさいお客さん、と思うかもしれないけど(笑)自分の率直な舌からするとそんな印象です。


コンサートにすみれ横浜店。

目的は達成した。


でもせっかく野毛にいるのだから、夜まで待って、野毛のあの夜な夜なの呑兵衛界隈の街並みでも歩いてみる?もうここまで来たら行っちゃいましょうよ!ということになった。


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野毛という街は、ほんとうに昼間はどのお店もシャッターが下りていて、し~ん・・・静まり返って、死んでいるようだ。ところが夜になると一斉にシャッターが開き開店。一気に活気づき、元気を取り戻す。


野毛は夜からの街なのだ。


野毛は、ちょっとディープな飲み屋街なのだ。



横浜といえば、みなとみらい、山下公園とか、横浜山手西洋館、港のみえる丘公園、海の見えるお洒落な街というイメージが強いと思うが、野毛も立派な横浜である。まさにハマの下町なのである。こういうまったく正反対のイメージが両存するのも横浜の魅力であり、横浜が広いということであろう。


横浜は、日本最大の人口を擁する市なのである。観光地としても有名なエリアだが、開港以前の歴史をいまに伝える道、戦争の傷跡、アメリカが息づく場所、路地裏の名店...といった知られざる"ディープヨコハマ"も数多く存在するのだ。



横浜野毛、呑兵衛の聖地、ひばり伝説が生まれた場所、最古のジャズ喫茶、ルーツは戦後の闇市、ゆったり大岡川クルーズ、昭和の名残?名物ママの店・・・


観光客であふれるみなとみらい地区から線路を挟んですぐ、600店ものの小さな飲食店が軒を連ねる呑兵衛(のんべえ)の聖地、横浜野毛。知らぬ客同士が肩を寄せ合い、笑顔で酒を酌み交わす、どこか懐かしい昭和の風景が広がる。


この町は、いち早く海外の文化を取り入れながら、音楽・芸能の街として発展してきた。現存する日本最古のジャズ喫茶も、ここで産声を上げているのである。昭和の歌姫・美空ひばりの伝説も生まれた街でもある。


JR桜木町駅を降りて野毛ちかみちを通ってすぐの場所にある野毛。老舗の料理店をはじめ、600~800店近い飲食店が立ち並ぶ、横浜市内でも屈指の繁華街である。



雑多でオヤジの街としての印象が強く、何となく近寄りがたいと思っている人も多いはず。しかし、一歩野毛の路地に足を踏み込めば、フレンドリーな街の雰囲気に魅了され、病みつきになる。


昭和レトロ溢れる野毛には、安くて美味しい居酒屋がたくさんあるのだ。オヤジの街というイメージだが、最近は若い女性にも人気だそうだ。カップルや女性同士でも入りやすいお店も増えている。


一杯のはずが、はしご酒になってしまうような、たまらない街なのである。


昼間の野毛は、まさに庶民の町や下町という表現がぴったりな場所。昼間の野毛をぶらぶら歩くと、普段は観光客も人通りも多いとは言えない。飲み屋さん街なので、みんなお店が閉まっているのだ。


ところが日没を迎え夜になると様相が一変する。夜になると、野毛という街は一気に活気づく。600~800軒もの飲み屋さんがいっせいに開店して、まさに呑兵衛の聖地と化す。焼き鳥の香ばしい匂いが漂う街内はネオンに輝き、賑やかな大衆酒場街となる。



野毛は元々近くで働く港湾労働者の盛り場として発展してきた。戦後の「闇市」を経て、平成のはじめ頃まで地域の一大繁華街であったが、2004年の東急東横線・桜木町駅廃止の影響で寂れた時期もあった。


今では若い世代を中心とした飲食店が多数進出して、すっかり活気を取り戻した。客層も「オジサン」中心から、カップルや家族連れで訪問する人が増えている傾向がある。


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現在の野毛の飲食店街は、桜木町駅から日ノ出町駅へ到る野毛大通り(平戸桜木道路)と野毛坂下から都橋へ到る野毛本通りが交わる地点までのエリアを中心に形成されている。


横浜で中華料理といえば中華街が思い浮かぶが、値段、質、量のコストパフォーマンスを考えると、じつは野毛のほうに軍配が上がるのだそうだ。


「野毛はどこまでも裏町であるべきだと思っているので、あえてきれいにしないほうがいいんじゃないかな。まちには、きれいごとだけではすまない、気兼ねなくホンネを吐き出せるような場所も必要でしょう。駅の反対側のみなとみらいはきれいで便利だけれど、タテマエばかりで居心地がわるいと感じるひともいて、野毛はそういうひとたちのためのホンネのまちなんです。」


まさに野毛という飲み屋さん街エリアは、このひと言で言い表されるであろう。


あえて綺麗にしない...横浜・野毛に“場末の空気”が漂うワケは、これである。


オシャレなYOKOHAMAもいいけど、こういう横浜もいいんじゃない???


野毛には600~800軒ほどの飲食店が営業している。

そのうち酒類を提供している「居酒屋」が占める割合は相当な数に及ぶ。


立ち飲みスタイルのお店から、奥が深い大衆酒場、女性に人気のビストロ、得体の知れない不思議なお店まで、様々なタイプの居酒屋がひしめいているのだ。


野毛にある居酒屋の特徴は、とにかく安くてボリュームたっぷりなことにある。ハイボールが一杯50円で飲めるお店もあるし、本格的な一品料理が驚くほどの安さで食べられるお店もある。


そして、何といっても距離感がたまらない。たまたま居合わせた隣の席の人と意気投合したり、初めて訪れたのに親切に接してくれる店主の人情は、この街の居心地の良さを実感する。


一杯飲んで帰るつもりが、気が付いたら数件ハシゴしていた…なんてことは野毛では当たり前のことなのだそうだ(笑)。


このディープな街では、飲み歩きするたびに新たな発見があるのだ。


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児玉麻里・児玉桃ピアノ・デュオ・リサイタルを聴いてきて、お昼ごはんにすみれ横浜店の味噌ラーメンを食し、そして夜には、呑兵衛の聖地 野毛で、夜な夜な飲み屋界隈を彷徨う。


1日の中で、これだけ天と地の落差のある楽しみ方はあるだろうか?(笑)

あまりのギャップに自分が壊れてしまいそうであった。


自分は下戸なので、お酒があまり飲めないし、酒のみの世界、酒場の流儀もあまり良く知らないけど、初心者のつもりで、いろいろ教えてもらいながら、酒場をいろいろ彷徨うのはとてもいい勉強になる。


吞めないけど、この世界は最高に大好きだ!やっぱり自分は日本人。ビールやワインウイスキーより日本酒が好きだし、こっちの雰囲気のほうがいい。なんといってもあの居酒屋の雰囲気が大好きだ。


吉田類さんの酒場放浪記や、倉本康子さんのおんな酒場放浪記もかならず毎週観ている。大のお気に入り番組だ。あの番組を見ると世の中の喧騒を忘れてホッとするというか楽しくなる。やっぱり日本の酒場は最高である。


呑めないけど好き!というアンバランスなギャップを抱え、いままで生きてきたのだ。(笑)


お酒のみの方にいろいろ教えてもらいながら、あの独特の雰囲気を味わいたい。

そんな気持ちはいつも持っている。


今回、野毛界隈を彷徨ってみて感じたことは、高級フレンチ・イタリアンに1人で入るよりも、こういう飲み屋界隈で1人で静かに飲んでいるほうがよっぽど難しいと感じることだ。(笑)


フレンチやレストランに1人で入るほうが、よっぽど楽です。


当初のI LOVE YOKOHAMA連載の予定では、夜な夜な野毛界隈を彷徨う。そしてメジャーな居酒屋に1人で入って1人で飲んでいる。そのうち、隣の見ず知らずの方と仲良くなり、いつのまにか、その方々と朝方まで飲み明かしている・・・野毛だったらそれも可能のような気がして・・・


でも実際夜の野毛界隈を彷徨ってみると、こりゃ難しいな~と思い、委縮した。


こりゃ無理だ!という感じで。(笑)


それで自分が抱いた印象は、高級なフレンチやイタリアンのレストランに1人で入るほうが、よっぽど簡単だよな~。という印象だった。


そしてなによりも食べ物がうまそうなんだよね~。焼き鳥、ホルモン、刺し盛、イカ丸焼き・・・絶対こっちのほうがウマいだろう!もうこういう食べもんは最高に美味しく見えてしまう。フレンチやイタリアンだと食べ物が美味しそう~とは思わないけど、居酒屋の一品はウマソ~、クイテ~って絶対なる。もうここが自分の本能とは?の問いの回答なのだろう。


まさに、横浜野毛はとてもとてもディープな世界なのだ。


夜な夜な界隈してきて、そのディープな世界をご紹介できれば、と思っている。


すみれ横浜店で味噌ラーメンを食べた後、夜まで待って、お店が開き始め野毛が活気づいたところで、いろいろ野毛界隈を歩き回ってみた。その様子をランダムだけど、写真で紹介していきたい。



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これはバルとあるから、スペイン風バルのことなのかな、と思いました。魚貝バルとあります。


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いい感じで、みんな出来上がってんな~~~。


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なんと!カラオケもありました。いかにも昭和のカラオケという感じです。


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まさにサラリーマンがハシゴ酒、飲み歩く酒屋の細道通りという感じです。


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野毛の飲み屋街。


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昔自分が若かった頃は、養老の滝はもうとても大きな飲み屋のチェーン店でした。あの当時はすごい羽振り聞かせていた。いまどうなのかな。落ち着いてきたかな?東急池上線沿いの池上の街に短期間だけど、住んでいたことがあって、そのときはよく養老の滝、晩御飯代わりに使っていました。(笑)


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もう飲み屋が連なっているんですよね。まさしく飲み屋街です。


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牛煮込み食いて~!


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ステーキのレッドコングというすごい体育会系のお店もありました。


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野毛一番街はもうスタンダードに有名なお店ですよね。繁盛していました。


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この末広さんが凄いです!まだ開店前ということだったんですが、もうこの大行列!

桜木町周辺のサラリーマンなどが毎晩楽しみに訪れる野毛にある人気焼き鳥店「野毛末広」。創業1950(昭和25年)の老舗店として知られている名店中の名店なのです。これだけの行列なのもわかるわ。


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野毛のたべもの横丁です。


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まさにディープな雰囲気。。。


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韓国の酒屋さんもあるんです。マッコリとか飲んでいるのかな?


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野毛ホルモンセンターって。(笑)ホルモンセンター。そうりゃぁうまいに決まっているだろ!


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大阪の伝統名物、串カツのお店です。


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こりゃ、なんだかスゴクね。(笑)


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なんかここだけ浮いているというか、洋風な酒屋さんです、


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もつやき、ビフテキからなんでもあるドリームランドです。


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・・・もうどうでございました???(笑)


まさに横浜野毛のディープな世界を堪能できたのではないか、と思います。

これも横浜の立派な顔なんですね。こういうのも横浜なんです。


この横浜野毛のディープな世界。とても好きになりました。いつかここで祝杯をあげてみたいものです。


ディープな横浜野毛に乾杯~~~!





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I LOVE YOKOHAMA パシフィコ横浜 [街歩き]

パシフィコ横浜なんて、ふつうに展示会場じゃん、と思う方も多いかもしれない。いや実際その通りである。


でも自分の場合、パシフィコ横浜には大変な想い出があり、これはぜひI LOVE YOKOHAMAに入れておきたいと思ったのである。


絶対忘れもしない2011年3月11日14時46分。東日本大震災の日。


あの日本中を大パニックに陥れた大震災。のちには福島第一原発の問題、計画停電・・・日本を未曾有の大混乱に陥れた大地震である。


みなさんは、あのとき、どこにいましたか?東京中が大パニックになって大勢の人が帰宅難民と化したあの日。どのように過ごして家まで帰りましたか?


この日のことは、もう12年経過したわけだが、いまだに鮮明に覚えている。


自分は当時、知財部に在籍にしていたので、新子安の本社HQに勤務していた。

その日、そのときは、ふつうにオフィスで仕事をしていた。


そうすると、地震が・・・しかも縦揺れだ。かなり大きな縦揺れで、しかもなかなか収まらない。気持ち悪いな~と思った瞬間、ドドドドド~~~というすごい大揺れで、大地震が発生。もうお仕事中のオフィスは、キャ~~~というすごい悲鳴が発生した。


地震のときは、よく机の下に隠れなさい、という教えがあるが、いざ大地震が発生すると、そんなこともできないくらいあっという間だし呆気にとられるものである。


ここまでの大揺れの大地震は、自分の人生の中でも経験したことがないくらい大きな地震だった。


もう職場のオフィスは大パニック。

すぐに仕事中止である。


社内の公式連絡を待った。幸い、職場の棚が崩れ落ちるとか、オフィスの被害はなかったように思う。けが人もいなかった。


自分は、瞬時に自宅のオーディオ機器のことが心配で心配でならなかった。これだけデカい地震だとオーディオ機器もラックから放り出されて倒壊しているのではないか、とか、CDラックも全部倒れて、中のCDが全部放り出されて、部屋中CD散乱でぐちゃぐちゃ状態じゃないかと心配した。


もうここから心配で心配で鬱状態に入ってしまった。


会社としても、状況確認もふくめ時間がかかるのだろう。

なかなか公式アナウンスがなかった。


もう職場では、みんな集まって外を眺めていたような…ラジオを持ってきて、ラジオのニュースを聞いて現状確認。それでもそのときはまだ正確な情報がつかめていなかった。


そうして、ようやく社内の公式アナウンス。仕事は急遽中止で、そのまま速攻で帰宅してください、ということだった。


瞬時に電車動いているの?と思ったが、自分はこのまま職場に残っているのが嫌だったので、すぐに帰宅することを選んだ。電車が動いていない、という可能性は大きいのだが、な~に、そのうち動き出すようになるさ、という安易な気持ちだった。


とにかく電車が動いていないので、同僚は、そのまま会社のオフィスでその日は一晩過ごした人も多かったようだった。自分は駅で待っていればそのうち動く、という安易な気持ちだった。


最寄り駅のJRの新子安駅に到着。案の定、もうたくさんの人でごった返している。大混雑だ。

やっぱり動いていないか~。


もうその大混雑の中、自分はひたすらそこで待っていた。

何時間待っていたであろうか?気が遠くなるほど待った。


駅のアナウンスでは、ここのJR京浜東北線だけではなく、もう東京、首都圏全部の電車が止まっている状態だという。復帰の見通しはまったく立っておらず、大地震でレールが曲がっていたりしていないか、そのレールの正常性を確認するために駅員が、レールの上をずっと歩いていき確認しているという。


その電車の走行区間のレールの上を、駅員がテクテク歩いて、曲がっていないか、異常をきたしていないか、を確認。すごいマニュアルな作業だ。それを東京都内、神奈川県内、首都圏の全部の電車交通網でそういうマニュアル点検をやっているのだ。


大都会に大地震が起こると、まさに交通機関が全部マヒして、首都圏内に大量の帰宅難民が発生する。これは以前から関東圏ではよく言われていたことで、自分の会社でも大地震が起きたときに帰宅難民にならないように、なるべく歩いて帰る練習をしましょう!というプロモートをしていた。


自分はどこかで他人事であった。まぁ、確かにそうなったら帰宅難民になっちゃうな、と思ったものの、なかなか会社からの帰りを歩いて帰る、というのはなかなかできないことだ。


もう新子安駅で立ち往生である。あたりも暗くなってきた。あのまま職場で一晩過ごした方がよかったかな、と後悔した。


携帯スマホで親に安否の電話をしようと思ったが、もう携帯は音信不通でまったく使えず。地震災害時のときは、携帯はまったく使い物にならないんだな~ということがよくわかった。


そのときである。新子安駅からの推薦で横浜駅まで歩きましょう!という提案がなされた。このまま新子安駅で止まっていても、いつになるからちが明かない。夜も暮れていく。まずは横浜駅まで歩きましょう!ということになった。


おそらくだが、新子安駅はほんとうに小さな駅だから、ここではたくさんの人を宿泊させられないし、このまま寒空で外に居続けるというのも酷過ぎて無理だ。横浜駅だったら、キャパが大きい駅だから、たくさんの人を屋内の収納できる。


とにかく3月の冬の時期だったから、外にそのまま待たせるよりは、駅の校舎の中で待ってもらった方が人道的にぜんぜんいい。そういう鉄道会社の判断だったのではないか。


ということで、新子安駅から横浜駅まで歩くことになった。新子安~横浜間って結構な距離在りますよ。電車で2本乗り換えますが、距離的にもけっこうな距離在る。


でも変に小さな駅目指しても意味がなくて、ここら辺で大きな駅ということになると、もう横浜駅しかない。横浜駅だったら、キャパが大きいから、たくさんの帰宅難民を屋内で宿泊させられる。そしていろいろな路線が入り組んでいるから、帰宅もしやすくなるであろう。。。そういう判断だったのだろう。


そういうことで、我々はいよいよ恐れに恐れていた帰宅難民と化して、新子安駅から横浜駅までテクテク歩くことになったのだ。もう陽が落ちて暗くなっているときだった。


自分はまず近くのコンビニでお金を下ろそうと思った。

コンビニのATMもやられていたら、もう終わりだな、と思った。

恐る恐るやってみたところ、お金は無事降ろせた。コンビニ銀行系ATMは被害はなかったようだ。


このときの自分の安堵の気持ちはどんなに莫大なものだったか!


お金が降ろせた瞬間、助かった~~~!と思った。

1万円ほど降ろして、すぐにペットボトルの水とパンを買った。


腹ごしらえと水分の補給はもう一大事である。


そうして、いよいよ新子安駅~横浜駅まで、みんなで集団歩行である。

これはなにも我々だけでない。もう関東中のみんなが同じことを同じタイミングでやっていた。


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べつに怖くもなんともなかった。みんなが歩いていく方向をただついていって歩くだけだから。もう集団で同じ方向に向かって歩くだけだから、ぜんぜん怖くなかった。なんか妙に心強かったように思った。周りはもう真っ暗である。


もう頭の中は無だったな。はやく腹いっぱい美味しいものを食べたい。。熱いお風呂に入りたいかな。でもメンタリー的にそんなに暗くならずに、いっしょに歩いている人もなんかおしゃべりしながら明るかったので、そんなに悲壮感はなかった。赤信号みんなで渡れば怖くない。まさにあの感覚である。


でも歩いた。かなり歩いた。相当の距離歩いたな。

まっ新子安~横浜間であるから、当然と言えば当然であろう。


そうして横浜駅に到着。なんか横浜駅に着くと、もう自宅まで近いので、なんかいますぐでも帰れそうな気がした。でもそうは問屋は降ろさない。


結局、この横浜駅で電車がう動き出すのを待つことになった。横浜駅は広大な駅舎なので、もうあらゆる方面からの人を格納するために、いろいろな方面から人が集まり、駅構内は大パニックになっていた。


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自分は、地震発生から余裕がなくて、地震の状況をよくわかっていないまま、ちゃんとニュースを聞くこともないまま、無我夢中で過ごしていたのだが、これだけのたくさんの人々が集まると、話す声が自分に漏れ聞こえてくる。


「震源地 宮城県沖だってよ。」

「マグニチュード9.0  日本周辺における観測史上最大なんだってさ。」


自分はひぇぇえええ~~~。と思いながらもオフィスで感じたあのドドドドド~~~というあのすごい揺れは、もうそれくらいあっても不思議なことじゃないな、と思った。


そしてそのとき思ったことは、家の中もうめちゃめちゃだろうな~。オーディオラックも倒壊で倒れてオーディオ機器も破損、CDラック倒壊、床一面にCDが散乱しているだろう。あ~~~なんてこっちゃ!


もう鬱状態が最高MAXになった。


地震が発生して、とにかく現状況をよく理解しないまま、無我夢中で新子安から横浜まで歩いてきたので、この他人が話している声を漏れ聞いて初めて事の重大さを認識した。


駅員さんの立場からすれば横浜駅に入ってしまえばあとは安心。ご自身の路線が動き出すまで、この横浜駅内でお待ちになってください。


とくに横浜駅で宿泊できるように毛布を配布するとか、そんな配慮はなかったように思う。なにせ3月の冬だ。駅校舎の中とはいえ、とても寒い。そうすると駅側から、ここでは外の寒気が入り込んできますので、地下のPORTAまで降りてそこで待ってください。ここですと地下ですから、外の寒気が入り込んでくることもなく、いまのところより暖がとれると思います。


ということで、我々は、横浜駅から地下のPORTAに移動した。


もう横浜駅内はこんな感じである。

通路の両端に毛布などを敷いて、そこに座り込んで休むしかないのだ。

あるいは寝てしまう人もいる。


横浜駅構内は、まさにこんな図式の修羅場と化した。

いたるところで、こういう光景が見られた。

横浜駅はまさに地獄図だった。


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自分は毛布とかないので、もう地べたに座るしかなかった。立って待っているのはもう無理。いつ鉄道再開されるのかわからないから、汚いけどもう地べたに座って待っているしかない。


ところがこれが冷たいんだな~。(笑)そして寒いこと、寒いこと。地下街PORTAでもやはり寒かった。もうじっと30分もそこで座っていると、もうシンシンと冷えてくる。3月の真冬はキツイです。ほんとうにシンシンと冷えてくるので、座って、しゃがみこんでずっと待っているのはもう不可能。


立って歩いたり、疲れたら座ったりの繰り返しで、こりゃ地獄だな、と思いました。


自販機はもうドリンクはぜんぶ売り切れ。1本もない。完全に全部売り切れ。

まさに異常事態、緊急事態であった。


自分は喉がカラカラの状態で過ごすしかなかった。

パンだけじゃ足りない。お腹もすいてきた。


そしてトイレももう長蛇の列。これはほんとうに困った。

もう完全に都市機能がマヒしているといってよかった。


自分は、ここで公衆電話を探した。携帯電話は相変わらず不通。地震災害の時ほど、携帯ネットワークの使い物にならないことよ!こういうときこそ、公衆電話がすごく役立つのだ。


いまもう携帯の普及で、公衆電話をなくそう、という動きがあるけど、とんでもない。こういう災害時は、携帯はまったく役に立たないのですよ。公衆電話がよっぽど役に立つのです。公衆電話をなくす、というのは災害時のリスク管理からして非常に危険だと思います。


緑の公衆電話のところには大変な長蛇の行列ができていた。

みんな親族に安否の報告をするためであろう。


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自分も北海道の両親に電話するために、この公衆電話の長い行列に並んだ。

そうしてようやく自分の番がきて、親に電話をする。


そのときの親のほんとうに喜んだこと!喜んだこと!

オヤジもおフクロもほんとうにテレビの報道で心配していたんだぞ。携帯にかけてもつながらないし、もしや?と思ってほんとうに心配していたんだぞ。ほんとうによかった。ケガはないか?


オヤジもおフクロも元気だったころの話だ。


携帯電話、携帯ネットワークの災害時の通話性能の対応は大至急改善する内容だと思う。



そうこうしているうちに、また駅員の方がいらして、ここ地下街PORTAでも寒いので、ここから近くのパシフィコ横浜のほうにみなさん移動していただきます。列に並んで先頭について歩いて移動してください。パシフィコ横浜では、暖房が効いているうえに、毛布の配給もあるという。


いまのこの横浜駅にいるよりは、ずっとマシであろう、という判断である。


我々は、みんなで行列でパシフィコ横浜に移動することになった。


現在パシフィコ横浜というと、横浜というよりは、みなとみらいの駅に直結だろう。だから横浜駅からは結構歩くと思う。


もう寒い夜の中、みんなで行列をつくって歩きましたよ~。

ず~っと歩いていきました。


そうして、パシフィコ横浜に到着。おそらく展示ホールの中だと思う。


その中は暖房が効いていた。助かった~と思った。

つぎつぎにパシフィコ横浜にみんな流れてくる。


そうして拡声器アナウンスで、現在も各鉄道会社で各々人のマニュアル作業で、線路の異常がないか確認中です。まだ再開という情報は入ってきていません。みなさんをいったん横浜駅に入れましたが、横浜駅は外気が流れ込むので、横浜駅に居るよりはこのパシフィコ横浜で暖房入りで過ごしていただく方がよいと感じました。


各自毛布も用意しています。


ここで最悪は一晩を過ごしていただいても構わない臨戦状態でおります。


・・・とのことだった。


新子安駅の駅員さんの判断も正しければ、横浜駅の駅員さんの判断も正しい。最終的には、ここパシフィコ横浜で毛布付きで休んでもらう方が一番ベストであろう。ここなら寝ることも可能だ。


この写真は、そのときに自分のカメラで撮影したまさにリアルタイムのそのときの写真だ。

自分はこの写真を見ると胸がキュンとする。


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ということで、自分にとってパシフィコ横浜というのは、まさにこの東日本大震災のときのこの瞬間が一番メモリアルなのである。(笑)


自分にも毛布が配給されたが、こんな中で眠れないよな~という感じである。一応横にはなったけど、とても眠れる感じではない。そうすると夜中の0時過ぎくらいになると、徐々に各路線でチェックが終了し、再開というニュースが飛び込んでくる。そうするとその路線の人は、喜んで出ていくのである。


いいな~と自分は眺めていたが、


ついに東横線も再開という報がアナウンスされた。23時あたりだったと思う。もう自分は飛び起きて、パシフィコ横浜を出る。そしてテクテクと夜道を横浜駅にほうに向かって歩くのだ。


横浜駅で東横線に乗るときは、もう大興奮だったな~。

あんなに毎日乗りなれている東横線。いつもと変わらないいたって普通の東横線だ。なにか事件でもあったの?というような平気な顔をしている。


そうして自分の駅で降りた。


もうここからが鬱の最大ボルテージマックスである。


部屋の中ぐちゃぐちゃだろうな・・・オーディオ機器壊れているだろうな・・・部屋中にCDが散乱しているだろうな・・・オーディオラック、CDラックと倒壊状態だろうな。。


もう部屋の鍵を開けるときはドキドキで大変だった。


恐る恐る部屋の電気をつけると・・


呆気ないほどなにも起きていなかった。CDが3~4枚床に落ちているくらいで、あとはないもなく平常そのもの。恐る恐るオーディオを火入れして鳴らしてもふつうに音楽が聴ける。なにも問題ない。



あんなドドドドド~~~というすごい地震だったのに。。。自分は改めて、うちのマンションの耐震構造はすごいものがあるんだ、と驚いてしまった。もう大家さんに感謝である。


大地震が発生してからずっとモヤモヤでいた自宅の様子がなんでもないことがわかって、いままでの今日1日の苦労が全部吹っ飛んだ感じがした。



ほんとうによかったである。


その日はほんとうに疲れたので、すぐにそのまま熟睡。


そして翌朝起きて、テレビのニュースを見て、初めてこの大地震が大変なことになっていることがわかった。地震当日はとにかく自分のことで精一杯だったので、ようやく翌日になって、宮城県の大津波、そして福島第一原発事故の問題。もう大変な大惨事になっていることが理解できたのだ。


翌日になってなにが起きているのかようやく認識できたのだ。



地震そのものは、東北地方太平洋沖地震と命名され、およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害も加えることで東日本大震災と命名されることになった。


まさに日本を揺るがし、世界中に大ショッキングなニュースとなって広まった大災害である。


その後、計画停電などの電力不足、そして自粛ムードの蔓延などで、じつはこの年の2011年はベルリンに音楽鑑賞旅行に行く予定を立てていたのだが、それも自粛しないといけないのか、というような雰囲気に陥れられたこともある。


なんとか、その苦難を乗り越えて、無事ベルリンに音楽鑑賞旅行に行けたのである。


長い前振りであったが、自分はパシフィコ横浜というとその苦難を思い出す。

自分にとってパシフィコ横浜はそこが原点であった。


いまこうやって幸せな日々を取り戻し、ようやく平穏な気持ちでパシフィコ横浜と向かい会える。新たな気持ちで、明るい気持ちでパシフィコ横浜を紹介したいのである。




みなとみらい線のみなとみらい駅。

やっぱりひときわ大都会ですね。みなとみらい線の中で最大限の駅ではないでしょうか。


ここには、クイーンズスクエア横浜が直結でつながっています。クイーンズスクエア横浜は、3棟のオフィスタワーのほか、グルメ&ショッピング専門店街を備えたみなとみらい東急スクエア、横浜ベイホテル東急、横浜みなとみらいホールなど多彩な施設が集結した大複合施設のことです。


やはり東急なんですね。(笑)


みなとみらい駅の最大の特徴といえば、このクイーンズスクエア横浜に直結する大エスカレータです。自分はここがみなとみらい駅のいちばんの特徴だと思っています。


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クイーンズスクエアYOKOHAMA、やっぱりお洒落ですよね~。


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横浜ベイホテル東急。一度泊まってみたいものです。


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いまちょうどクイーンズスクエア横浜クリスマス2023を開催しているみたいです。


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今年のクリスマスツリーをはじめとしたイルミネーションは、「クイーンズスクエア横浜クリスマス2023 IMAGINARY Christmas」と称し、12月15日(金)公開の映画『屋根裏のラジャー』とコラボレーションした、ファンタジックな世界観のある空間で、訪れた皆様をお迎えいたします・・・とのことだそうです。


素敵ですね~~~。




パシフィコ横浜は、このクイーンズスクエア横浜に直結しています。


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「パシフィコ横浜」は横浜港に面し、国際会議場・展示場とヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルが一体となった大規模複合コンベンション施設です。大小合わせて50の会議室を備えた会議センター、世界最大級5000席の国際会議場である国立大ホール、展示面積2万平方メートルの展示ホールを合わせて、毎年1100件以上のイベント催事が開催されています。


まさに横浜最大のイベントホールですね。


自分にとって、展示ホールというと、やっぱり幕張メッセですね。CETEAC(昔はエレショーと言っていました。)とか自分の仕事に関するイベントは、どうしても幕張メッセで開催されることが多いですね。やはり日本のイベントホールとしては幕張メッセが最大なのではないでしょうか。


仕事で幕張メッセにはほんとうによく通っていました。


でも幕張は遠いですよね。もう電車で行くのがひと苦労です。遠すぎます。


自分としては、こちらのパシフィコ横浜でやってくれるとすごい助かるんだけどなぁといつも思っています。


会議センターとインターコンチネンタルホテル


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国立大ホールとインターコンチネンタル


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そしてちょっと離れたところに展示ホール。

東日本大震災のときに自分がお世話になったのはここですね。


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展示ホールはここから入ります。


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いかにも展示ホールという感じの風情が拡がっています。


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ただ、パシフィコ横浜の外観を紹介してそれでお終いであれば、簡単ですが、それでは味気ないので、ちょうどそのときにやっているイベントに入ってみたいと思っていました。


パシフィコ横浜では、11/15(水)~11/17(金)に向けて『EdgeTech+ 2023 オートモーティブ ソフトウエア エキスポ』というのが開催されるんですね。ソフトウエア開発会社がSDV(Software Defined Vehicle)の開発を加速する最新のソリューションを展示する。


今年から開催される新しい展示会なんですよ。

自動車ショーというと、ジャパン・モビリティ・ショーなどに代表されるように、EV、自動運転ふくめ従来の自動車産業に添ったテーマでの出展が通常なんですが、SDVに特化した、車のソフトウエア開発という点からの展示というのは、この今回のExpoが初めてで、自分は大変興味を持ちました。


自動運転技術、電気自動車、カーシェアリング、インターネットと接続された自動車のデータ活用などが進む中、ソフトウエア開発領域の重要性が高まっていて、今年から新しく開始される特別企画である「オートモーティブ ソフトウエア エキスポ」では、自動車開発におけるソフトウエア技術に焦点を当て、関連の技術、製品、情報を紹介する・・・というものだそうです。


これはぜひ行ってみたいな~~~と思っていましたが平日だし、おそらく自分の会社の人がかならず行っていると思うので、まっ無理して自分が行くこともないかな、と思い、思いとどまりました。


でも大変興味深いところだと思います。


代わりに自分がパシフィコ横浜の展示会で行ったのは、


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ふるさとチョイス 大感謝祭~国内最大級のふるさと納税イベント


というものでした。

なんかこっちのほうが自分には合っているかな?という感じで。(笑) 


「寄付をいただいた方に直接感謝を伝えたい」


9年前、ある自治体職員さんからの一言で始まったふるさとチョイス大感謝祭

いまでは、感謝を伝えるだけでなく、100以上の自治体や生産者の方々と寄付者の皆さまと“交流”ができる日本最大級のふるさと納税イベントに。全国各地の特産品や伝統工芸など様々なお礼の品を食べて、飲んで、体験して、日本をまるごと楽しめる2日間!


こういうイベントです。


もう全国のたくさんの市や町がブースを設けて特産品を展示していて、あるときは試食、試飲などをサービスしていました。それはそれは楽しかったです。


入場規制があってあらかじめネットで予約して時間割制なんですね。あなたは12:00~13:00の間です、とかです。もうすごい大人気で、その時間帯になるとこんな大行列でみんな待っています。


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実際の展示会のその模様をお写真で紹介しますね。


ざっくばらんに写真を並べるだけでよし!とさせてください。そのコーナーにどこの県、市なのか、わかるようになっています。ひとつひとつにコメントをつけていくのはなかなか大変です。


もうとにかく大盛況でございました。このたくさんの人だかり。


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それぞれの県、市での展示をご紹介していきますね。


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出た~、我が神奈川県横浜市!


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崎陽軒のシューマイなんかが見えますね。


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ここはあの大谷翔平選手の故郷!大谷選手を全面的に押し出していました。


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大谷翔平選手の握手象です。(笑)


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出ましたね~北海道千歳市。


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千歳ワインをアピールしていました。


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北海道勢がすごい多いような気がしました。


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出た~~~。北海道滝川市。松尾のジンギスカンの名産地です。

もちろんジンギスカンの試食を提供していました。すごい行列でしたです。


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休憩処、茶屋もありました。


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のんこと、能年玲奈さんの故郷の岩手県 久慈市も出ていました。いや、故郷じゃなくて、あまちゃん関係???


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日本列島ダーツというのもやっていました。大行列でした。


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記念撮影用のフォトスポットもありました。


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2日間の展示会でしたが、それはそれは大変盛況だったようです。


これで自分のパシフィコ横浜に対する”負”のイメージも一気に払拭されてよかったと思います。










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I LOVE YOKOHAMA 横浜海岸教会で礼拝 [街歩き]

今日はあいにくの雨の天候だが、I LOVE YOKOHAMAの連載でどうしても撮影をし忘れたスポットがあって、そこを撮影するために、横浜日本通りに出向いた。


開港広場を撮影しようと思ったのだ。


大さん橋と山下公園の通りが交差する角に位置する「開港広場」は、日米和親条約締結の地として有名な場所。日米和親条約調印の地で、石碑が残っている。


1854年(安政元年)3月3日。マシュー・ペリー提督は、現在横浜開港資料館の講堂がある付近の応接所で日本側全権委員との間で日米和親条約を締結した。周辺には、桜の木を有する日本人のための最古のプロテスタント教会である横浜海岸教会や、横浜開港資料館などの歴史的建造物や記念碑もあり、横浜の開港の歴史を感じられる広場である。


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寒村に過ぎなかった横浜村がこのペリー来航によって、外国との玄関口に選ばれ、そして外国文化の流入口となりそののちに世界的な大都会と変身していくそのきっかけになった場所である。


横浜を語るなら、この開港広場を語らないといけない。


そのために、どうしても日米和親条約調印の場だった開港広場を撮影しておかないといけない。


それで雨天決行で今日強行したのだ。


みなとみらい線の日本大通り駅から大さん橋客船ターミナルの方向に向かって歩いていくのだが、その開港広場のすぐ隣にとても素敵な教会を発見した。


横浜海岸教会


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一瞬通り過ぎた瞬間に、自分の感性にビビッとくる感じで、これは素敵な教会だな~と思ってしまった。開港広場を撮影し終わったら、ふたたびこの教会の前に来て、どうしてもこの教会が気になってしまう。


中を見学できないかな、と思い教会のスタッフに聞いてみようと思いました。そうしたら、見学できるとのこと。いま礼拝が始まるところ、とのことであった。


礼拝は、誰でも自由に参加できるみたいなので、だったら礼拝参加してしまう?という感じでピョンピョン拍子に決まっていった。


キリスト教の礼拝に参加するのなんて、何年ぶりだろう。自分は仏教徒なので、キリスト教には縁がないのだが、もちろん子供の頃から歴史で学んで興味はある。


記憶に新しいところでは、ヨーロッパで海外音楽鑑賞旅行に行ったときは、現地の教会を訪問して礼拝を受けたことが何回かある。ドイツ・ベルリンでベルリンイエスキリスト教会。そして同じくドイツ・ライプツィヒで聖トーマス教会と聖ニコライ教会でカンタータ礼拝。この3回が記憶に新しい。


たぶん日本の教会でキリスト教の礼拝に参加したのは初めてだと思う。敬虔なクリスチャンが毎週日曜日の午前中に教会でミサ、礼拝に参加するというのは、とても神聖な体験で、仏教徒である自分はどんな感じなんだろう?礼拝ってどんなことをするのか?神父さんから、どんな説教をいただくのか?そんな興味があった。仏教徒だから、異教徒であるから、そういう教会でそういう礼拝に参加したりしたらいけないのかな?でも参加してみたい。。。そんな気持ちを子供の頃からずっと抱いていたのだ。


ドイツの教会で礼拝を受けたときは、なにせドイツ語なので、よく理解できなく、礼拝とはどういうものなのか、わかったとは言えなかった。ただ礼拝用の音楽と、礼拝のその場の雰囲気は理解できた。


ライプツィヒの聖トーマス教会や聖ニコライ教会での礼拝は、バッハのカンタータを聴くなら、やはりヨーロッパ人の日常の生活に密着している教会での礼拝に参加して、そこで流れるバッハのカンタータを聴かないといけない。そんな追及もしたことがあった。


礼拝を受けることにして、教会の中に入りました。


熱心なクリスチャンのみなさんがどんどん教会に入っていきます。フロントからして、とても綺麗で神聖な感じがします。教会の規模としては小さい方ではないでしょうか。


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そして教会内です。

もうとても素敵な教会内装空間で、自分はため息がでてしまいました。こうやって教会内部を撮影していると、ヨーロッパで旅行しているときに、一生懸命教会内部を撮影していたことを思い出してきます。教会って全世界でどこでも造りは同じですね。構造の原点は同じだと思います。世界共通構造です。自分は撮影しながら、あ~懐かしいな~これがまさに教会だな~と思っていました。


白とブラウンのツートンカラーでとてもシンプルで美しい空間です。


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パイプオルガンは、この前の方にあります。


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パイプのあるオルガンというよりは、電子オルガンなのかもしれません。教会内を見渡したところ、パイプオルガンのパイプみたいなものが見当たらなかったので、おそらく想像にしか過ぎませんが、ふつうの電子オルガンを弾いて、その音をPAで教会内に拡げているのだと思います。(奏者の足元にパイプみたいなものがありますね。それがそうなのかな?よくわからないです。)


大きな教会ですと、背面の後ろの天井にありますね。後ろの天井の高いところにパイプオルガンが設置されていて、そこでオルガンが鳴ると、天から降ってくるように教会内部に教会音楽が流れてきますね。




牧師さんの説教もあるので、基本音響構成は、PAです。教会の後ろの方に、ビンテージのスピーカーが設置されていました。マイクでその音を収音してますね。


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ビンテージスピーカーは背面の天井高いところにもセッティングされていました。


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前方にはBOSEのスピーカーも壁面にセッティングされていました。

サラウンドなんですね。(笑)


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送り出しの機器群ですね。


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ここは牧師さんの控室なのでしょうか?


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ここはよくわからなかったのですが、礼拝が始まる前にこの中で数人の人が打ち合わせをしているような感じだったので、打ち合わせスペース、会議室なのかもしれませんね。


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礼拝に使うのは、この3点です。


聖書と讃美歌と、そして週報です。


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聖書や讃美歌はいいとして、週報というのは、この週の礼拝でおこなう説教の内容をコンパクトに要約をまとめた資料です。教会が作っているパンフレットです。


そして礼拝が始まります。

大体1時間くらいです。


讃美歌を歌います。

そのときは全員起立します。もちろん体調不良の方は座ったままで大丈夫です。


讃美歌はほんとうに美しいですね。

なんかクリスチャンのミサに参加しているんだな~という感覚、実感が溢れてきます。


そして驚くのは、みなさんすごいお上手なんですよね。すごい声のハーモニーが綺麗に重畳されていて、すごい美しい合唱。声量抜群です。(笑)自分はびっくりしました。声の厚みがあって、ハーモニー感がじつに美しいです。すごいレベル高いです。


ベルリンイエスキリスト教会のときは、みんな下手でしたよ。(笑)


自分は初めて礼拝に参加するので、この讃美歌、聖書、そして週報のこの3点セットを駆使して使っていく訳ですが、いま讃美歌の本の何ページなのか、聖書の何ページなのかよくわからなくて戸惑っていたら、後ろの方に親切に教えていただいたりして、恐縮しました。すごい優しいです。礼拝の進行中でよくわからないことがあったら、もう隣の人に聞くのが1番です。


キリスト教の礼拝とは、どういうことをいうのか、それを統括的に書いてみますと、ずばりイエス・キリストさまの教え、それはつまり聖書の教えを牧師さんが参加者のクリスチャンのみなさんに教えていくことなのだと理解しました。


聖書は、ご存じのように、もう分厚い百科事典みたいなものですから、その百科事典を与えて、あとは自分で勉強してねじゃ誰もやりませんよね。(笑)そして聖書は、そのまま読んでも良く理解できないと思います。もちろん日本人用に日本語で書かれている聖書ではありますが、それをただ読んでもわからないと思います。


そのために牧師さんがいるんですね。

牧師さんが、イエス・キリストさまの教え、すなわち聖書に書かれている教えを、かみ砕いて信者のみなさんに前の壇のスピーチで教えてくれるのです。


それが”説教”というものなのです。


聖書に書かれているのは、もうイエス・キリストさまの教えそのものですから、それだけじゃわかりずらいので、教会が独自で作成している今回のミサ、礼拝用の資料が、週報なのだと思いました。


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この週報に、今日のキリストさまの教えを簡単にわかりやすく要約してまとめてあるのです。


この週報を使いながら、そして牧師さんのマイクでの説教を聞きながら、そしてその原点となる聖書の記載箇所を確認しながら、そしてあるときは、途中で全員起立で讃美歌を歌う。


これを何回も繰り返して、イエス・キリストさまの教えの今日のテーマを学んでいく。


それが礼拝なのだと思いました。


たぶん間違いないです。


そうか・・・これが礼拝なのか。。。


聖書は分厚いですから、もうイエス・キリストさまの教えは膨大なのです。それをいっぺんには理解できないから、毎週日曜日の午前中1時間の枠で、今日のテーマという感じで限定して、学んでいく。これを1年間なら1年間、ずっと毎週続けていくのだと思います。そうすることで、塵も積もれば・・・という感じで、膨大なイエス・キリストさまの教えを理解できるようになる。


これが礼拝なのだと思いました。


・イエス・キリストさまの教えを学ぶこと。

・聖書を学ぶこと。

・讃美歌を歌う。


礼拝とはこういうことを言うのです。

自分の今日の体験でよく理解できました。


人生で長年クリスチャンの人は、毎週日曜日に礼拝を受けている訳ですから、人生の長いものさしで、もう聖書、キリストさまの教えはよくわかっているんでしょうね。


そして、最後にイエス・キリストさまにお祈りを捧げる。

ここが1番大事なところかな。


ドイツの教会の礼拝ではそんなことをやっているとはまったくわかりませんでした。(笑)いまようやく理解できました。


今日のテーマは、”イエス・キリストの復活”でした。


十字架にかけられ亡くなられたイエス・キリストさまが復活する。

それはどういうことを意味するのか。


死んだ者が生き返るということがほんとうに起こりえるのか。


キリスト者はただ「死んだ人が蘇る」ことを信じているのではないのです。これだけの理由を持っている十字架にかかって死なれたお方の復活を信じるのです。戸惑いながら信じる者となっていく彼らは私たちの姿でもあるのです。


ここなんですね。”イエス・キリストの復活”というのは、このことを意味するのです。


自分も昔からずっとイエス・キリストの復活は、死んだ人がほんとうに復活したのかな、と思っていたのですが、この意味するところの真実とはここにあったのです。


これを今日の礼拝で学んだのです。


ヨーロッパの音楽祭でオーストリアのザルツブルクでザルツブルク・イースター復活音楽祭というのがありますね。これがイエス・キリストの復活を祝った復活祭なのです。そのための音楽祭なのです。


キリストの復活記念音楽祭(英語のイースター)です。


音楽祭の期間はキリストの復活記念祭(英語のイースター)の前後の10日間ほどで、ザルツブルクの代名詞とも言える夏に開催されるザルツブルク音楽祭に比べて、小規模なのです。


イースター復活祭は、1967年ヘルベルト・フォン・カラヤンにより8月のザルツブルク音楽祭をさらに発展させるために設立されました。毎年、復活祭に行われる音楽祭では45年間ベルリンフィルが演奏していましたが、2013年、クリスティアン・ティーレマンがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンを引き連れ、ザルツブルク復活祭音楽祭の新たな時代をスタートさせ、2022年まで芸術監督を務めました。


この音楽祭の一番の魅力だったのは、この4つの公演全てを、世界的な名指揮者がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮していたという点です。これまでの指揮者は、1967年から1989年まではヘルベルト・フォン・カラヤン、1992年と1993年はゲオルク・ショルティ、1994年から2002年まではクラウディオ・アバド、2003年以降はサイモン・ラトルが指揮、ならびに芸術監督をつとめています。


このことからも、ザルツブルク復活祭音楽祭は、基本的にベルリン・フィルとその常任指揮者が出演するといえます。さらに、ベルリン・フィルがオーケストラ・ピットに入って演奏する機会はこの音楽祭以外にはほとんどなく、それだけでも貴重といえます。演奏会場は祝祭大劇場。1989年のカラヤンの死後、その存続が危ぶまれたが、その後も毎年開催されています。


それでいまから10年前くらいでしょうかね。このザルツブルクで行われるベルリンフィルによるイースター復活祭は、場所をドイツの温泉保養地のバーデンバーデンに拠点を移しましたね。


いまではイースター復活音楽祭はバーデンバーデン祝祭劇場で行われているのです。


イエス・キリストの復活を祝う復活祭。そのための音楽祭がイースター復活音楽祭で、ベルリンフィルが演奏を担うのです。コンサート・オーケストラであるベルリンフィルが、このときだけはピットに入って演奏するのです。


それもイエス・キリストの復活を祝うためです。


そして、”イエス・キリストの復活”というのは、どういうことを意味するのか。死んだ人がほんとうに復活するのか。そのキリストさまの教え、聖書の意味が、横浜海岸教会で、今日ようやく理解できましたです。(笑)遅すぎですね。(笑)


ベルリンフィルによるイースター復活音楽祭。


そのために音楽の神様は、自分をこの横浜海岸教会に自然と誘い、そして本日のテーマであった”イエス・キリストの復活”の真の意味を授かってくれたのですね。


もう毎度思うことですが、自分には”音楽の神様”がしっかり守ってくれています。

幸せな音楽人生を送れているのは、すべて音楽の神様によるところだと感謝しています。




今日説教を受けていて、ずっと子供の頃から謎に思っていた、疑問に思っていたのだけど調べていなかった謎に、旧約聖書と新約聖書というのがあります。この違いってなんなんだろう?昔から疑問でした。「聖書」には2種類あります。イエスが登場する前の聖書が「旧約聖書」、イエスが登場する聖書が「新約聖書」です。


イエスが登場する前の聖書が「旧約聖書」、イエスが登場する聖書が「新約聖書」です。 旧約聖書は、キリスト教からの呼び方であり、「旧約」とは、古い契約という意味です。 もちろんユダヤ教の側では、聖書は一冊しかありませんし、旧約とも言いません(単に「聖書」と呼ばれます)。


・・・だそうです。


礼拝、ミサのときは、牧師さんが聖書の何ページを開いてください、というのですが、そのとき旧約聖書の何ページ、あるいは新約聖書の何ページとかで分けて言う場合があり、そこで昔からの謎がぶり返しました。(笑)


今日のミサ、礼拝の式順を記載していきますね。


2023年11月12日(日) 10:30~ 横浜海岸教会 礼拝


司式 石井進一

奏楽 片岡雅子


前奏

招詞    詞編107 編1~3節

讃美歌  204(1,2)

詞編交読 詞編33編12~22節 (讃美歌後ろ P.34)

讃美歌 204(3,4)

聖書朗読 ルカによる福音書23章56b~24章12節 (新約 P.159)

祈り

讃美歌 316

説教 「恋の墓-イエス・キリストの復活-」

祈り 上山修平

讃美歌 325

信仰の告白 使徒信条

献金

主の祈り

讃美歌 25

祝祷

後奏



礼拝では、終わったら信者のみなさんから献金をしてもらいます。これは信者のみなさんの心遣い程度で構いません。これは礼儀ですね。この教会では封筒に入れて、それを係の人が回収するという感じでした。


ベルリンイエスキリスト教会では、係の人が大きなザルを持っていて、そのザルの中にみんな現金を投げ入れていく、という感じでしたよ。


ドイツの教会で礼拝を受けたときは、大きな特徴がありました。それは教会の構造、規模にもよると思うのですが、高いところに牧師さんが説教する小さなエリアが設置されているんですね。メインの説教は、前の壇の牧師さんがやるのですが、途中から、その天の高いところからの牧師さんの説教に交代するのです。そしてまた元に戻ってくるみたいな。ライプツィヒの聖トーマス教会や、聖ニコライ教会のカンタータ礼拝ではそうでした。


ベルリンイエスキリスト教会は、小さな教会なので、そういう天の高いところの場所もないし、そういう説教はなかったです。教会の規模と構造に寄るんですね、きっと。


礼拝の後のスピーチでは、今日の礼拝で、今回初めてこの教会の礼拝に参加された方が名前を呼ばれ紹介され、その場で立ってみんなの拍手を受ける、という儀式もありました。今日は9名いました。わざわざ東京からいらっしゃっている方もいました。


自分も紹介され、その場で立って拍手を受けました。


これがキリスト教の礼拝か~と思うと、これなら毎週日曜日受けてもいいな~と思いましたが、と同時に自分は根っからの仏教徒。キリスト教とのハイブリッド信仰って許されるのかな?と思いました。(笑)


帰りに教会の方、牧師さんにも質問してみましたが、みんな笑っていましたが、ここにいる方々はみんな仏教徒ですよ。(笑)


なんか、ホッとしました。(笑)


また今日の牧師さんの説教で再確認したことがありました。それは教会の礼拝のライブ配信がすごく普及していることです。これは以前にアムスの同期友人から聞いていて知っている話でした。当時聞いた話では、アメリカでは、教会の礼拝を自宅で聴きたいというニーズが多くてそれ用の教会における配信設備、専用アプリなどの自宅でのPCなどでの受信環境設備などの需要と供給が多いことでした。信者の中では体が不自由な方も多くて、そういう方は教会には行けないので、自宅で礼拝を聴きたい、そういうニーズがあるそうです。アムス同期友人から聞いたときは、実際アメリカからのそういう受注が多いとのことだったので、かなり昔の話で、いまや欧州、日本を初め礼拝のライブ配信はあたりまえのように普及しているんですね。日本で普及していることが再確認できました。


とても理にかなった需要ですよね。


最後に、音楽の神様に必然と誘われた日本キリスト教会 横浜海岸教会について、紹介します。


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慶応3年(1868年)11月に、横浜外国人居留地167番にJ.H.バラの依頼によって横浜在住の外国人のための礼拝所・日本人のための英語教場として、石造りの小会堂が建設されたのが始まりという歴史ある教会が、横浜海岸教会。明治5年2月2日(1872年3月10日)、横浜公会として設立した日本で最初のプロテスタント教会です。


明治8年7月10日に日本基督横浜海岸教会として大会堂が建てられましたが、関東大震災で倒壊。

現在の建物は、昭和8年、雪野元吉の設計。

雪野元吉は、名古屋生まれの横浜育ちで、宮内省内匠寮勤務の後、独立し、新京忠霊塔などを設計しています。

終戦直後に外地で病没しているため、現存する唯一の雪野元吉設計の建物がこの横浜海岸教会となっています。


塔屋には明治8年、アメリカで鋳造の鐘(鐘の側面にThe Meneely Bell Foundery, West Troy, N.Y. 1875の銘があります)が下がっています。


第二次世界大戦の空襲では、当時の渡辺連平牧師が、会堂の屋根にのぼって焼夷弾による建物の延焼を食い止め、会堂を守ったのだとか。


こうした先人たちの努力もあって往時の建物がランドマークとして残されています。


毎週日曜の10:30~『主日礼拝』が行なわれ、希望があれば参加も可能。

12月24日には『クリスマス讃美礼拝』もあります。


12月24日のクリスマス讃美礼拝、いいですね~。ぜひ参加したいと思いましたが、今年のクリスマスイブは姫路にいるんですよね。(笑)ぜひ来年参加したいと思います。


やはりクリスマスイブは、教会で過ごすのがいいですね。


この教会では、礼拝の始まる前に、鐘の音が鳴り響くのがとても素敵なんですよね。そしてもらったパンフレットの中に、この鐘がとても有名なのだ、ということがわかり、ぜひ写真を撮りたいと思ったのですが、教会内を見渡しても見つかりませんでした。


この横浜海岸教会の鐘について、とても興味深い記事を見つけました。




礼拝開始告げる鐘の音

横浜海岸教会のチャーチ・ベル文化


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カーン、カーン、カーン。毎週日曜の朝、横浜海岸教会から高らかに鳴り響く鐘の音-。礼拝開始を告げるその音は、汽笛と共に異国情緒溢れる港町・横浜の「音風景」となっている。   


「鐘を所有し、今でも人の手で鳴らし続けている教会はこの辺りでも珍しいのでは。『以前から鐘の音が聞こえて気になっていた』と訪れる人も多い」と、上山修平牧師は話す。創立110周年までは創立年数回を、以降は聖書の巻数に合わせて、午前9時からの子どもの礼拝前に27回(新約の巻数)、10時30分からの大人の礼拝前に66回(旧約39巻+新約27巻)鳴らしているという。


鐘は旧教会堂が建てられた1875年にアメリカ人から寄付されたことは分かっているが、贈り主については共立女学校(当時)の女性宣教師・プライン夫人など諸説あり、特定するに至っていないという。関東大震災では倒壊した廃墟から掘り出され、戦争下では武器生産の資源が不足する中、軍から鐘の供出を迫られるという危機もあった。しかし当時の牧師が「アメリカからの愛の贈り物を鉄砲の弾にして返すことはできない」と抵抗し、加賀町警察署に留置されても鐘を守り抜いたと伝えられている。


保全と安全性の観点から現在は一般公開していないが、今回特別に鐘のある塔へ上らせてもらった=写真。「まだ周りに建物が何もなかった時代は、遠くまで鐘の音が届いていたのでしょうね」と上山さん。今は一体どの辺りまで鐘の音が聞こえているのだろうか-。


情報引用元


神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報誌

タウンニュース


礼拝開始告げる鐘の音 横浜海岸教会のチャーチ・ベル文化



・・・そうだったんですね。そんな貴重な鐘の音が聞けて、とても幸せでした。


いやぁ~~~キリスト教のミサ、礼拝いいですね~。

やっと理解できました。


牧師さんの説教を受けて、礼拝の意味がこの歳になってようやく理解出来て、これだったら、毎週の日曜日にミサを受けてもいいな、と思いました。毎週日曜日の午前中に受けると、なんか体や精神が清められるような気がして、その次の一週間がよく過ごせそうです。


やっぱりここ横浜海岸教会がいいです。

この教会とても素敵です。


なんといっても、開港広場の隣にあるのがいいです。

横浜をここまでの大都市に発展させた原因となった日米和親条約締結の場となった開港広場のすぐ隣にあるのですから。


最高のロケーションだと思います。とても素敵だと思います。



日本で最初のプロテスタント教会。

由緒ある教会で申し分ないです。


自分はそれまで、まったくこの教会の存在を知らなかったです。

今日行くまでまったく知らず。そもそもの今日の目的は開港広場の写真撮影でしたから。

I LOVE YOKOHAMA連載のテーマの中にもまったく入っていませんでした。


そのときに前を偶然通りかかり、ビビッと自分のアンテナ、感性に響いてきて吸い寄せられるように入ってしまいました。そうしたら、礼拝に参加できて、しかも今日のテーマがイエス・キリストの復活。まさにベルリンフィル。ベルリンフィルのイースター復活音楽祭。


まさに自分に縁があったんですね。


音楽の神様が自然と引き寄せてくださったと思うようにしましょう。(笑)


Facebookページ、フォローしておきました。


ただ一点後悔していることがあって、この日は誰にも会うことはないだろう、と思い、もうひどい格好、服装でした。(笑)もうすっかり秋が深まっているこの頃、みんな秋物、冬物のコートとかジャケットとか着ているのに、自分は真夏専用の半袖のYシャツと半パンツ。そして裸足にサンダル、というすごい格好で(笑)、しかも髪ボサボサもいいところ、いま考えて見ると恥ずかしかったな~と思ってます。まさにこの日に人と会うとはまったく思っていなかったので。


え~、全然寒くないです。(笑)














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I LOVE YOKOHAMA 崎陽軒 [街歩き]

横浜といえば、やはり崎陽軒のシューマイですよね~。自分はそんなにシューマイを毎日食べるというわけではありませんが、関西方面に行くときは、東海道新幹線は、新横浜駅を使うので、そのときはかならず売店で崎陽軒のシューマイ弁当を買って、待合室で待っている間に食べます。


もうお決まりの定番という感じですね。

横浜といえば崎陽軒なのです。それだけイメージが湧く。


逆を言えば、シューマイは普段ほとんど食べないので、シューマイを食べるときは、新幹線に乗るときって決まっています。


崎陽軒というと、やはり駅構内にこういう崎陽軒の売店がありますね。(写真は横浜駅構内にある崎陽軒売店です。)


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ここに崎陽軒シューマイや、シューマイ弁当が売られていますね。


崎陽軒のシューマイ弁当というのは、こんな感じのお弁当です。美味しそうですね。


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昔の崎陽軒シューマイ弁当の復刻版もあります。

1964年に思いを馳せ、当時の内容が再現されたシウマイ弁当。時代を彩った思い出の味を賞味してほしいとして作られています。掛け紙も当時のデザインをモチーフにした懐かしい特別仕様となっています。


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2021年の7月22日~9月5日の期間限定で、「あのときのシューマイ弁当」という名前で売られていました。シューマイ自体は、現在の昔ながらのシューマイを使うみたいですが、現在は5個入ですが、1964年当時は4個入りでした。

シューマイ以外のお惣菜「白蒲鉾」が当時のものに合わせて作られているんですね。幕の内弁当には欠かせない品として、こちらも1964年当時の内容に合わせて選ばれました。


あとは、お弁当を包む包装の印刷でしょうか。これも当時に合わせて、ですね。でも、これは2021年の話でした。いまはもうこの復刻版は売っていません。





崎陽軒のシューマイって、じつは6種類存在することを知ってますか?


崎陽軒では、定番の「昔ながらのシウマイ」を含めた、6種類のシウマイを通年で販売しています。ほかにも「いかシウマイ」や「きのこシウマイ」など、 5つの季節限定シウマイ、おせち限定・通信販売限定のシウマイを広く提供しているのです。



昔ながらのシウマイ


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1928(昭和3)年の発売以来、変わらぬレシピで変わらぬおいしさをお届けします。国産の豚肉と、オホーツク産の干帆立貝柱が出逢って生まれた、豊かな風味が特長の冷めてもおいしい、ひとくちサイズのシウマイです。



これがいちばんスタンダードな崎陽軒シューマイですね。



特製シウマイ


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粗挽きにした干帆立貝柱と豚肉の旨みが詰まった、プレミアムなシウマイ。濃厚かつジューシーで、ふっくらとした食感をお楽しみください。大切な方への気持ちを伝える贈り物や、ご自身へのご褒美、ハレの日などの「特別な日」に寄り添うためのシウマイです。



このほかにも、えびシウマイ、かにシウマイ、黒豚シウマイ、野菜シウマイというのがあります。この6種類が年間を通して販売されているレギュラーな崎陽軒のシューマイです。


これ以外にも、季節限定の崎陽軒シューマイがあります。


桜えびシウマイ、あさりシウマイ、いかシウマイ、きのこシウマイ、金目鯛シウマイ


の5種類です。


ほかにも通販・おせち限定商品というのもありますよ。


もち米シウマイ、かずのこシウマイ


ぜひ、コンプリートしたいものですね。(笑)



シウマイの名脇役として親しまれるかわいい横浜名物に、「ひょうちゃん」があります。


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シウマイと切っても切れない関係の「ひょうちゃん」は、シウマイの箱に入ったしょう油入れ。笑った顔に怒った顔、様々な表情を見せる隠れた横浜名物です。


シューマイ弁当にはかならず入っているしょう油入れですね。たかがしょう油入れでもすごいこだわりがあるんですね。でも天下の崎陽軒シューマイ弁当で、しょう油入れがただのプラスティックだったら、やはり味気ないですよね。(笑)


崎陽軒で売っているのは、シューマイだけではないです。ギョウザ、横濱月餅、菓子、肉まん、あんまん類、オードブルなんかもあります。


手広くやっているんですね。


崎陽軒って、そもそもどんな歴史があるのでしょうか?

それを紹介していきたいと思います。


情報引用元:崎陽軒公式HP




崎陽軒のシューマイ、というのは、「横浜の名物をつくろう」との想いから生まれた商品なのでした。



横浜とともに歩みつづけてきた、崎陽軒のヒストリー


1859年の開港以来、世界の文化を広く受け入れてきた、横浜。

その横浜の地で1908年(明治41年)、崎陽軒創業。

横浜で生まれ育った誇りを胸に、「名物・名所の創造」に挑みつづけています。



初代横浜駅(現在の桜木町駅)で創業。

1908年(明治41年)


4代目横浜駅長であった久保久行は、退職後、知人であった高橋善一(後の東京駅長)の働きによって、妻・久保コト(旧姓野並)の名で、横浜駅構内営業の許可を受けた。当時の横浜駅は現在の桜木町駅である。主な取扱いは、牛乳やサイダーなどの飲み物、餅、寿司などであった。


横浜駅構内に「KY食堂」を開店。

1946年(昭和21年)


横浜大空襲により全てをなくした崎陽軒であったが、株式会社崎陽軒食堂が横浜駅構内食堂の営業許可を受け、「KY食堂」を開店した。店名は「KIYOKEN YOKOHAMA」のイニシャルに由来。和・洋の定食がメインであった。


「点心部」創設。

1989年(平成元年)



中華料理に比べると、やや馴染みが薄い中華菓子。新たに「点心部」を創設し、日本人の口に合う中華菓子の開発を目指すこととなった。これをきっかけに、月餅・中華まんなどの定番商品はもちろん、シウマイの餡を中華まんの生地で包んだ一口サイズの「シウマイまん」など、オリジナルの味の創作に挑戦し続けている。


横浜ならではの食文化・日本の駅弁を世界へ Bento to the World!!海外1号店を台湾(台北駅)にオープン。

2020年(令和2年)



「台湾版シウマイ弁当」「昔ながらのシウマイ」といった崎陽軒の製品を台湾の方に紹介することで、横浜の名物や日本の「駅弁」文化を知ってもらい、観光誘致につなげ横浜を盛り上げることを目的に台湾・台北駅に海外1号店をオープン。



今回、崎陽軒をぜひ紹介したい、と思い、崎陽軒を取材に行こうと思ったのですが、ご存じのように崎陽軒って、もう売店ベースであれば、無数にあるじゃないですか?


崎陽軒は、神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県、静岡県、台湾


などのエリアを網羅しているようです。


やはり関東エリア中心、あっても静岡、台湾なんですね。

関西とか、日本の他の地域にはないものなんですね。


自分は全国どこにでもあるのか、と思っていました。


その関東を中心に数ある崎陽軒のうち、自分は崎陽軒の本店を訪問したいと思いました。

日記で紹介するなら、まず本店を、です。


そして崎陽軒というところは、基本は崎陽軒シューマイを販売するところをいいますが、崎陽軒本店は中華レストランも経営しているんですね。まさしく1946年(昭和21年)のKY食堂というのが、崎陽軒のスタートでもありました。そのKY食堂の流れをそのまま引き継いでいる食堂なのかもしれませんね。



崎陽軒本店は、横浜駅にあります。


横浜駅地下街のPORTAのところにあります。


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まず、崎陽軒の中華レストランに行きます。


開店いの一番に行ったのですが、もうこんな行列。

すごい人気があるところのようでした。それはそうですよね。


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レストランの中はとりわけゴージャスという感でもなく、いたって庶民的で親しみやすい食堂でした。お値段も手ごろです。


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メニューは、麻婆豆腐とか、エビチリとか中華メニューがメインになっていて、それに崎陽軒シューマイが小皿でついてくる、という〇〇シューマイ定食という感じでした。


自分はご存じのように、中華料理屋さんに来た場合は、かならず麻婆豆腐とエビチリを頼むので、まずエビチリ・シューマイ定食と単品で麻婆豆腐を注文しました。


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べつに高級という感じでもなく、極めて庶民的なお味。一般市民が食するふつうの麻婆豆腐であり、エビチリだと思いました。やはりこういう普通なのがいいですね。美味しかったです。



崎陽軒本店は、この崎陽軒中華レストランの横にあるんですね。でもこれは地下PORTAから行った場合ということになります。崎陽軒本店は地上にあるのです。ですのでエスカレーターで上に昇っていかないといけません。


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この地下のところに雰囲気のいいビアレストランがありました。ここはよさげですね。今度入ってみようと思います。


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地上に上がったところが、崎陽軒本店です。

いわゆるシューマイを売っているお店です。


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各駅には崎陽軒売店がありますが、ここが正式に崎陽軒本店になります。本店の割には、意外や小さいというか、慎ましやかなエリアなんだな、と思いました。


外に出てみると、きちんと崎陽軒本店という立派な面構えになっています。


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せっかくですから、ここで崎陽軒のシューマイを買いました。昔ながらのシューマイです。シューマイ弁当ではありません。シューマイのみです。


あまり小さいと数個ぐらいしか入っていないと思い、ちょっと大きめの箱ケースにしました。これがあとで失敗ということがわかってしまいます。(笑)


せっかく買った崎陽軒シューマイ、家に帰ってからではなく、早く食べたいです。崎陽軒本店の向かいには、喫茶コーナーがあります。ここで食べようと思いました。


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さっそく買ってきた崎陽軒シューマイを開封します。


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ひぇぇえええ~~~。すごい数だったんですね。(笑)

これは食べ切れるかな、と思いました。


同時にシューマイって、すごい匂うものなんですね。(笑)

すごい強烈な匂いが漂い、自分は周辺の席の方々に迷惑をかけないか心配になってしまいました。


そうしたら、お店のスタッフがやってきて、


お客様、当店ではシューマイはいただけないことになっていますので、よろしくお願いします。


。。笑笑


一応喫茶コーナーに入っているので、ドリンクは頼んだのですが、シューマイを開封してお店で食べることはできないんですね。


崎陽軒本店の真向かいにあるので、ついついそうしてしまうお客さんも多いのではないでしょうか。


そこで、自分は一度開封してしまいましたが、それをまた閉まって、家に持ち帰って、家で食べることにしました。


崎陽軒のシューマイ。昔ながらのシューマイ。


家で食べましたが、まっこれはまさにシューマイだよな、という感じで美味しかったです。でもシューマイは蒸かした暖かい方が美味しいな、と思いました。


横浜といえば崎陽軒。

「横浜の名物をつくろう」との想いから生まれた崎陽軒のシューマイ。


またいつものごとく、新横浜駅の新幹線のりばの売店で買って、待合室で食べるというサイクルでお世話になろうと思います。













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I LOVE YOKOHAMA 横浜牛鍋 [街歩き]

横浜開港。明治維新、そして文明開化。横浜から海外の新しい西洋文化がどんどん入り込み、日本人の生活に大きな影響を及ぼすようになるが、その大きな変化のひとつに肉食、牛肉を食べる習慣、というのがある。


もちろんいままでの日本はお魚中心の食生活。お肉を食べるなんてとんでもない、という感じであるが、横浜開港とともに、肉を食べる。牛肉を食べるというのが一気に流行るようになった。


牛肉を食べないと文明開化を認めない輩だとという極論まで出た。




1871(明治4)年、明治政府は肉食を事実上許可し、肉食を奨励した。また、翌年には、明治天皇が肉食奨励のため、牛肉を試食したことが新聞で報じられたことも、肉食の広まりに拍車をかけた。


そして、日本独自の料理である「牛鍋」がまたたく間に流行し、文明開化を代表する料理となったのである。


「牛鍋」の発祥については諸説あるが、一般に1862(文久2)年頃、横浜で居酒屋を営んでいた伊勢熊という人物が牛鍋を出したのが最初と言われている。また同じ頃、横浜で牛肉の串焼きを屋台で売り始めた高橋音吉が、1868(明治元)年に牛肉を鉄製の鍋で出す方法を考案した。



牛鍋屋を舞台に文明開化の世相を描いた作品『牛店雑談安愚楽(あぐら)鍋』(1871年刊)によると、牛鍋屋の品書きに「ビイル十八匁、サンパン二十匁、上酒二百三十文」と書かれている。新しい幣制に換算すれば、ビールは約30銭、シャンパン約33銭、上酒約6銭となる。


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『安愚楽鍋』では「牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と書かれ、1874(明治7)年刊の『東京新繁盛記』では、「肉の流行は汽車に乗って命を伝ふるより遥かなり」とあるほど、牛鍋に代表される肉食は新しい食べ物として流行した。1875(明治8)年の東京の牛肉屋は70軒であったが、1877(明治10)年頃までには東京市内で588軒にまで急増した。やがて、牛鍋とビールの組み合わせは横浜や東京の人々に浸透した。


明治後半には家庭でも肉をおかずにするようになる。夏目漱石『吾輩は猫である』では、近所の黒猫、「車屋の黒」の飼い主が、肉屋の注文取りに牛肉一斤(きん)を注文している様子が描かれている。しかし、一般家庭では値段の高い牛肉は特別なごちそうで、車屋のおかみさんは正月のごちそうとして奮発したのだった。「車屋の黒」は飼い主の力の入りようを、「年に一ぺん牛肉をあつらへると思つて、いやに大きな声を出しやあがらあ」と批評している。



横浜、といえば、牛鍋。そして牛鍋屋なのである。



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「(ちょんまげを落とした)散切り頭をポンと叩けば、文明開化の音がする。」


そんな新しい夜明けの時代。

そして先の風刺画のように、散切り頭で、牛鍋をつつく。肉を食べる。牛肉を食す。

これこそが明治の文明開化の新しい市民生活の革新、姿だったのだ。


横浜の土地にもっとも根付いた歴史的な食べ物が「牛鍋」なのである。


今回の横浜シリーズで、この牛鍋を取り上げない訳にはいかない。


牛鍋というのは、どんな料理なのか・・・


牛肉を煮るなべ。牛肉鍋。

牛肉を野菜などと鍋で煮ながら食べる料理。牛肉鍋。明治の文明開化期に、東京周辺で流行するようになった。


その牛鍋のルーツが横浜にあったのだ。


横浜には牛鍋御三家というお店がある。



1.荒井屋

2.じゃのめや

3.太田なわのれん



牛鍋を食するのなら、この御三家を体験しないだとダメであろう。


ところで、牛鍋とすき焼きの違いって何なんだろう?


自分は牛鍋の料理や写真を見ると、どうしても「すき焼き」に見えてしまい、牛鍋とすき焼きの違いってなんなんだろう?と考えてしまった。


さっそくネットで調べてみたら、やはりその定義はちゃんとあった。



すき焼きに似ているが、すき焼きは肉を焼いてから煮るのに対し、牛鍋は最初から具材をたれで煮る。 日本で一般的に牛肉が食べられるようになったのは、長い鎖国が終わった江戸末期以降である。 1859年に開港した横浜では、西洋文化の影響を受け、国内でもいち早く肉食文化が広まった。


すき焼きは、最初は焼いてから煮る、のに対して、牛鍋は、最初から煮る料理。


・・・ということであろうか・・


もう少しネットで検索してみると、横浜牛鍋御三家の荒井屋さんとじゃのめ屋さんが、その違いについて、インタビューで答える、という興味深い記事があったので、引用しておく。


情報引用元:


「牛鍋」と「すき焼き」の違いとは? 横浜の老舗2軒に聞いた




横浜市内には現在、明治創業の牛鍋の老舗が3軒あるようだ。いずれも中区に位置し、店名は「じゃのめや」、「荒井屋」、「太田なわのれん」。


今回の取材の内容「牛鍋とすき焼きの違いを教えてもらいたい」ということを事前に電話で伝えたところ、残念ながら、太田なわのれんは取材NGだったが、じゃのめやと荒井屋は取材に応じでくれるという返事だったため、さっそくお店へ向かった。


じゃのめやの創業は1893(明治26)年。今年で121年になる牛鍋店だ。


じゃのめや代表取締役 山崎義昭さん


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早速、山崎さんに、牛鍋とすき焼きの違いについて質問してみた。


牛鍋とは、「鉄鍋に割り下を入れて、そこへ肉や野菜を入れてグツグツ煮る」というもの。


それに対して、すき焼きとは「鉄鍋に、はじめにざらめ(砂糖)を撒く、そこにお肉を入れ、お醤油をちょっとかけて食べるというもの」とのこと。ざらめと醤油を使って、肉を焼きつけて食べる、というすき焼きの方法は、現在は「関西風すき焼き」と呼ばれている。


「自分の好きなように焼いて食べる、っていうことから”すき焼き”っていう名前になったんじゃないかな。やっぱり関西風のやり方が本来のすき焼きだと思うよ」と山崎さん。


じゃのめやの牛鍋は、はじめに鉄鍋に割り下を入れ、沸騰したところでお肉、つづいて野菜を入れ煮込む、という流れだそう。


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「この関西風すき焼きと牛鍋の『いいとこどり』をしたのが、関東風すき焼きではないか」と山崎さんは指摘する。


関東風すき焼きとは「熱した鉄鍋に牛脂を入れ、はじめに肉を焼き、割り下をジャーッと入れてから肉を食べる。そのあとに、残りの肉と野菜などの具材を入れ煮込む」というものだそう。


日本人は明治時代から牛肉を食べる習慣が始まった。


当時の関東は牛鍋屋が主流であったそう。しかし、関東大震災でお店が燃えてしまったりして、一度に多数のお店がなくなってしまった。



その時に関西からお店を出店する人や料理人が関東に進出してきて、関西風のすき焼きが伝わってきたのではないか、と山崎さんは話してくれた。


「やっぱり、ざらめを使って肉を焼くのは焦げやすくって難しいから、いいとこどりをした関東風のやり方が広がったのかも知れないね。」とのこと。


看板が「すきやき」になっている理由については、関東で、牛鍋屋からすき焼きがはやり始めた時に一度、メニュー名を流行に乗って「すきやき」に変更した時期があったそう。


しかし、「横浜発祥と言われる牛鍋を大事にすべきだ」と、またメニュー名を牛鍋に戻した、という経緯があるそうだ。




では、もう一軒の牛鍋の老舗、荒井屋の見解はどうだろうか。次に荒井屋へ取材に向かった。


創業119年の歴史!荒井屋へ

荒井屋は、じゃのめやから徒歩5分程度のところにある。


出迎えてくれたのは、荒井屋4代目、美人女将の荒井順子さん。


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椅子に座るなり、さっそく牛鍋とすき焼きの違いについて質問すると、「一言でいうと、牛鍋は『グツグツ』煮るもの、すき焼きは『ジュージュー』焼くものです」とのこと。


牛鍋は、一人分の肉や野菜を鉄鍋に入れ、そこに割り下を注ぎ火をつけてグツグツする。


すき焼きは、はじめに肉をジュージュー焼き、その後にネギや野菜などを加えていくというもの。肉を焼く時の味つけが「ざらめ(砂糖)と醤油」の場合には関西風すき焼きと言われ、割り下を使う場合は関東風すき焼き、と言われるということだそう。


なるほど、じゃのめやの山崎さんの説明と全く同じ内容だった。


牛鍋は横浜発祥と言われている。横浜港が開港し、横浜に外国人居留地ができた。


そこで、外国の人々が食べていた牛肉に日本人が興味を持ち、食べ始めるようになったのが、幕末から明治初頭ということらしい。


当時は、食べ慣れていない牛肉のくさ味を消すために、醤油や味噌を使い鍋で煮込むということをやってみたところ、あまりの美味しさに大流行したということのようだ。これが牛鍋の始まりとなる。


山崎さん同様、やはり女将さんも「牛鍋は横浜発祥、すき焼きは関西から流れてきた雰囲気がある」と話していた。


荒井屋には「牛鍋」と「すき焼き」の両方のメニューがある。


その調理法がどう違うのか、実際に見せていただいた。


はじめに牛鍋から。


火をつける前に、肉や野菜、豆腐などの材料が全部鍋に入っている。

ここへ割り下を入れ、火をつける。はじめは強火で煮るのがコツだそう。


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続いて、すき焼き。


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火をつける前に、材料をすべて入れていた牛鍋とは違い、熱した鉄鍋へ一枚ずつ肉を入れて焼いていく。荒井屋のすき焼きは、割り下を使った関東風だ。肉に火が通ってきたら、割り下を注ぐ。


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荒井屋では「牛鍋とすき焼き、半々くらいの注文数」とのことで、確かに甲乙つけがたい美味しさだ。


「普通の家庭で食べている『すき焼き』とは、みんな牛鍋なんじゃないかしら」と女将さんは言っていたが、同様のことを、じゃのめやの山崎さんも言っていた。


<まとめ>


「牛鍋」

牛肉と野菜を一緒に鉄鍋に入れ、そこに割り下を流し入れた後、火をつけて『グツグツ』煮るもの。


「すき焼き」

はじめに肉を鉄鍋で一枚ずつ『ジュージュー』焼き、その後に野菜を加えていくというもの。すき焼きには、関東風と関西風の2種類がある。


関東風は、割り下を使用するのに対し、関西風は割り下を使用せず、ざらめ(砂糖)と醤油を使って味付けする、というもの。



・・・どうもこういうことらしいんだな・・(笑)


すき焼きはじゅうじゅう焼いてから煮るもの。最初は牛肉と鍋は別盛。それに対し、牛鍋は最初から鍋の中に牛肉が入っていて、最初から煮るもの。すき焼きというのは、関西から流れがきたものではないか。関東はもともとは牛鍋がルーツである。


こういう風に自分の中で結論付けました。


よっしゃ!!!


これは自分もぜひ横浜の牛鍋、横浜牛鍋御三家の牛鍋を堪能しよう!実行である。


本来ならば、牛鍋御三家をぜんぶ堪能したいところであるが、ちょっと予算的に大変なので、荒井屋さんにすることにした。


荒井屋さんは、本店は、伊勢佐木町にある。

さっそく行ってきました。


荒井屋さんは、今年の10月で創業128周年の、まさに牛鍋の歴史とともに歩んできた名門中の名門、牛鍋の老舗である。


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(以下、荒井屋公式HPより抜粋)


明治28年


安政6年(1859年)、横浜港が開港。

これを契機に西洋の食文化、肉食文化が流入。

ここで牛鍋の歴史が幕を開けます。


初めは、数軒しかなかった牛鍋屋。


政府の牛肉奨励もあり、明治10年ごろには高級料理店でも牛鍋が扱われるようになりました。そして明治28年、文明開化が進んだ頃、劇場が立ち並ぶ庶民の歓楽街・伊勢佐木町と呼ばれる界隈に、牛鍋屋「荒井屋」が誕生。


当時、横浜へ物見遊山にきた人々がご当地の名物を食べようと荒井屋を訪れ、旨い牛鍋に頬を緩ませたといいます。


荒井屋のおこり


荒井屋初代・荒井庄兵衛は、東京・板橋周辺の農家の生まれ。兄弟が多く末の方で、分けてもらえる田畑もありませんでした。そこで一発発起して一旗あげようと横浜へ。


回船問題での丁稚奉公から身を起こし、奉公先で出会った妻とともに明治28年、牛鍋店「荒井屋」を興しました。横浜開港時にはまだ食牛の習慣が一般的でなかったものの、明治5年に明治天皇が自ら牛肉を食されたことで一気にブームになりました。まずは高級料理店で扱われるように。


続いて牛肉のなかでも扱いにくい部位や不揃いな形の部位(いわゆる落とし肉)を使った廉価な牛肉料理を提供する庶民的な牛鍋屋が流行。荒井屋もそのような大衆店のひとつでした。


開花のお味


牛肉をより多くの人に手軽に食べてもらおうと、開業後も庄兵衛は知恵を絞りました。

そこで考案したキャッチフレーズが、


「開花したお味は路面電車のお値段で」

落とし肉を使った牛めし・牛そばと、路面電車の初乗り運賃と同額の四銭で。

それは庶民の心を掴み、お手軽なメニューとして評判になったのです。


横浜に路面電車が開通したのが明治37年。開業より約9年後のことでした。


二代目・登良吉


荒井屋の二代目を継いだのは長女・花の婿である登良吉(とらきち)。

戸塚の農家の出で実直且つ、人一倍の商売熱心。


毎朝一番に市場に出かけたため、安くて良い品には片っ端から」荒井屋」の印が押され、他の客を悔しがらせたといいます。


大正12年(1923年)に関東大震災にみまわれ、荒井屋も倒壊・焼失という被害を受けたものの登良吉は、ただちに復旧させ、さらに昭和初期には本店を大増築させたのです。



商売繁盛の秘訣


荒井屋では大正から昭和初期にかけてこれまで炭火コンロを廃し、当時はまだ珍しかった電気コンロをいち早く導入。大正14年にはラジオ放送が開始されるなど、家庭用電化製品が徐々に広まりつつありましたが、まだまだ電気製品は贅沢品。そういった時代での新しい試みは、新聞記事にもなるほどの注目ぶりでした。


他にも登良吉は、お客様を喜ばせるアイデアと次々に考案。ある時には店の庭にモーターを使って滝を出現させ、来店客を驚かせたこともあったとか。それを暑い時期の滋養強壮にんと牛肉を食べにきた人々に少しでも涼んでもらおうという、登良吉の粋な計らいであったといいます。荒井屋持ち前のサービス精神と工夫、さらには伊勢佐木町の降盛もあり、大衆牛鍋店として盛業を続けていきました。


激動の昭和時代


昭和20年(1945年)5月29日。朝からよく晴れた日でした。空に大量の焼夷弾が舞うと、横浜の街は一面火の海に。荒井屋の運命を狂わせたのは横浜大空襲でした。二代目・花は子を背負い命からがら大岡川に飛び込み、伊勢佐木町が燃えるのを川の中から見ていたといいます。店は塵灰と化し、町内会長として人々の避難誘導にあたっていた登良吉は行方不明のまま帰らぬ人となりました。


再建への道のり


横浜大空襲後、花は次男や三男、従業員とともにのれんを守り抜こうと、荒井屋の再建に尽力しました。焼野原の中、すいとん屋として出直し、昭和24年には長男、精一がシベリアから復員して三代目を継ぎ荒井屋の牛鍋は復活を遂げたのです。昭和25年に店を建て替え、その後、三代目女将・愛子とともに現在の本店を完成させました。


昭和30年代からは横浜市新庁舎や横浜駅地下街への出店など、高度成長とともに、隆盛を極めたのでした。



・・・・・・


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荒井屋さんは、やはり明治から伝わる老舗という感じで、とても雰囲気がある素晴らしいお店でした。なんといっても清潔感溢れていて、和空間の佇まいの美しさ、というか、そういう空間の美意識が整っている素晴らしい店内でございました。


お店のHPで荒井屋の歴史を全文拝読させていただきましたが、それはそれは苦難を乗り越え、最大の危機、横浜大空襲では、全部お店を焼失してしまう中、見事復興して、その後もいろいろ苦労なされて現状のいまがある。


老舗を守り抜いていくことの大変さ、ずっと続けていくことの大変さ、というのは我々凡人にはわかりませんね。


さっそく、念願の牛鍋をいただく。



メニュー、お品書きは期間限定のコースなど、いろいろコースはあるのですが、やはり2名以上でないとダメなのものが多く、自分が頼む場合はスタンダードにセットメニューの「牛鍋とお食事」にすることにしました。


「牛鍋とお食事」

(名代『牛鍋』/ご飯/お椀/香の物/デザート)


牛鍋とごはん、お味噌汁がついているシンプルなものです。


まさに、名代「牛鍋」です!


牛肉は、荒井屋さんの牛鍋はA5の最高級ランクを使用しています。いろいろランク付けで選べるようですが、自分はせっかくのこの機会、ぜひ奮発しようと思い、最高級の”特選霜降り”にしました。9,350円!!!


やってきました!


これが荒井屋さんの牛鍋。

牛肉が最初から鍋に入っています。ここからただ煮るだけなんですね。


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いい色に変わってきました~。


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溶き卵につけて食します。


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甘い~~~。なんて美味しいのでしょう!

とにかく甘くてとろけるようです。こんなに美味しい牛肉を食べたのは、今半さんのすき焼き以来だと思います。


反面、牛鍋とすき焼きの味の違いは?というとそこまで意識できるほど自分には違いは感じませんでした。牛鍋とすき焼きの違いについて、もちろん事前にネットで調べて理解済みだったので、牛鍋を食したときに、今半さんのすき焼きとどう違うのだろう?ということを意識して食べていたつもりなんですが、正直なところ、そんなに大きな違いはないように自分は思いました。


どちらも最高に甘くて極致の美味しさです。

差をつけるのは難しいと思います。


すき焼きは、今半さんなど、高級なすき焼きはいままで何度も経験ありますが、牛鍋を食べたのは、今回が初めての経験でした。


牛鍋って、こういう食べ物だったんですね。


いやぁ~、横浜といえば、牛鍋。しかとここに経験しました。


荒井屋さんは、馬車道の万国橋のほうにも支店を出されています。(もちろん支店は、ほかにそごう横浜店があります。)


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横浜シリーズの取材で赤レンガ倉庫など行く途中に、偶然発見して、最初はここが荒井屋さんの本店なのかな、と思い、そのままスルスルと入ってしまいそうでしたが、踏みとどまり、家でネットで調べたところ、本店は伊勢佐木町だということがわかり、今回は、ぜひ本店で。。。と思いました。


やはりそのお店の最初の一発目は、本店に伺うのが礼儀のような気がします。

万国橋店のほうもぜひ近いうち、伺いたいと思います。




別の日の取材で、伊勢佐木町の取材で、伊勢佐木町のイセザキモールを歩いていたら、偶然、じゃのめやさんも発見しました。


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同じ伊勢佐木町にあったんですね。なぜかシャッターが閉まっていました。ネットで調べてみると営業時間中になっているのですが、現物ではシャッターが下りている。よく理解できませんでした。(笑)


ぜひこのいい機会に、じゃのめやさんも経験しておきたかったです。

・・・というか、横浜牛鍋御三家はいずれ全部制覇しておきたいと思っています。













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I LOVE YOKOHAMA 横浜中華街 [街歩き]

中国料理店だけでも200店以上、その他の飲食店やお土産屋さん、アミューズメントなどあわせて約600店がひしめく、世界最大級のチャイナタウン、横浜中華街。


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横浜中華街、神戸南京町、長崎新地中華街は日本三大中華街と言われているが、その中でも横浜中華街は最大の規模なのである!


約600店がひしめく!日本最大であり、東アジア最大の中華街である。


横浜!といえば、横浜中華街は、3本の指に入る有名観光スポットなのではないでしょうか?

横浜の代名詞的なスポットだと思います。


一歩足を踏み入れれば、天津甘栗を売る威勢の良い声や、華やかな点心食べ放題の看板などが押し寄せてきて、目移りしそう。中華まんを食べ歩いたり、有名店で食事をしたり、スイーツを食べたり・・・。


横浜中華街は楽しいよね~。ここに来るといつも楽しい気分になります。

みなとみらい線ができる前は、中華街へは、関内や石川町からアクセスしていました。


ところがいまやみなとみらい線ができてからは、もう駅直結で地下通路をずっと歩いていき、地上出口に出ると、もうそこはすぐに中華街です。今回は初めて、そのことに気づきました。(遅すぎ。。笑笑)


いまだに、関内、石川町からアクセスしていた人だったので。

ほんとうに便利な世の中になったものです。


そんなに頻繁ではないけれど、横浜中華街はよく行っていたものです。とくにここ!というお気に入りのお店がある訳でもなく、なにせ、あれだけ集中してたくさんの中華のお店がある訳ですから、その中で、この1軒!って選ぶのは難しいですよね。


だから長年通っていても、結局ここが自分の馴染みの行きつけのお店というのはなかなかできませんでした。というか、そういう行為自体が所詮無理。あまりにお店が多すぎる!どのお店もみんな同じに見えます。お店が覚えられない。このお店がいい!って決められないし、覚えられない・・そんな感じです。


そして、ブタまん、肉まんを買って、それを食べ歩きしながら・・・というのが常でしたね。

ブタまん、肉まんも、中華街に来たらかならず買う必須アイテムです。


大好評の横浜シリーズで横浜を語るなら、とうぜん、この横浜中華街も紹介しておかないといけません。




その前に、横浜中華街の成り立ち、歴史について、ちょっとお勉強しましょうね。いかなる経緯があって、これだけの600近い中華のお店が立ち並ぶような街に変貌を遂げていったのか?



1858年、日米修好通商条約が締結さたことにより、日本は貿易の要である港を5つ開港することに決めた。翌年の1859年に横浜港が開港すると世界中から様々な世界中の人が横浜を訪れるようになった。


そして、港と同時期に作られた外国人居留地には、外国の商人たちが住む商館が作られ、次第に欧米や中国の文化が持ち込まれる外国人街になっていった。


これこそが、横浜中華街の始まりであった。


ペリー来航で、日本の開港を求められて、江戸幕府は、その日米修好通商条約では函館をいれて全部で5港の開港を決めました。 北から順に見ていくと、北海道の函館 、日本海側の新潟 、江戸に近い横浜 、京都・大阪に近い神戸 、九州の長崎の5つです。


そして、江戸に近い横浜を開港する場所に選んだ理由。寒村に過ぎなかった横浜村を開港する場所として選んだ理由としては、外国人をあまり日本人と接触させたくなかった、そして、それまでの日本の交通の要であった東海道のど真ん中に位置する街を避けたいがために、その東海道のラインから離れた場所の横浜を選んだと言います。でもこれがきっかけで、ほんとうに寂しい寂れた寒村に過ぎなかった横浜村が、その後外国の異文化が一気に国内に流れ込むゲートとして栄えていき、いまの大都会、港ヨコハマ、横浜が出来上がっていくんですね。


外国人と日本人を接触させたくなかった江戸幕府は、外国人が住む地域を限定して隔離しました。

それが、”外国人居留地”といわれているエリアなのです。


いまの関内にありました。いまの横浜スタジアムのあるあたりかな。これは関内の紹介のときに、改めて説明しますが、当時は、関内エリアの外側は、川、堀で囲まれていたらしく、そこに橋がかかっていて関所みたいになっていたそうです。つまり関内にある外国人居留地に日本人が簡単に入ってこれないように、外国人と日本人との交流を恐れた江戸幕府はそうやって関所をつくって、外国人居留地を隔離していたんですね。


その川を境に内側を関内、その外側を関外といいます。


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”外国人居留地”のあったエリアは、この関内になります。


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関外という地名はいま存在しませんね、街の名前としては関内だけが存在する感じです。


このあたりは、またI LOVE YOKOHAMAの関内のところで、もっと詳しく説明しますね。


この関内にあった、”外国人居留地”は、外国の商人たちが住む商館が作られ、次第に欧米や中国の文化が持ち込まれる外国人街になっていった、ということなのです。



この関内にあった外国人居留地。


いまの横浜中華街と比べると、欧米人の住む区画もあったし、飲食店もほとんどなかった。その後、横浜港は生糸、つまり蚕(かいこ)の糸の輸出が盛んになり、世界的な生糸貿易港として知られるようになったが、開港初期はとある問題も抱えていた。


それが通訳の不在である。


当時の日本は、まだ西洋との関りが少なく、英語が話される人がまだまだ少なかった。これは欧米人も同じことで、通訳の為にとある国の人たちが重宝されることになった。


それが中国人だったのである。


中国は日本より早くから西洋との関りがあったから、英語などの欧米の言語を話せる人が多かったとされているのだ。


また漢字文化のおかげで、日本人とも筆談なら会話できるため、日本人と欧米人との間に入って、通訳の仲介をしていた。


また当時来日していた中国人は、イギリスの占領下であった香港出身者が多く、それで英語が話せる人が多かったのではと思われている。


その後、1868年には横浜の華僑人口が、約1000人を超え、1871年には日清修好条規が締結。


このまま日本と中国の間で、友好な関係が築かれると思った矢先、1894年に日清戦争が勃発するなど華僑の人は、世界の情勢に振り回されることが多かった。


そして大きな転機となったのは、1923年に発生した関東大震災。

神奈川にあった外国人街も膨大な被害を受け、とくに地震に慣れていなかった欧米人の多くが帰国してしまった。ただし、日本と同じく地震に慣れている華僑の人は、日本に留まり、外国人の復興に貢献。


この頃から飲食店の数も徐々に増え始め、横浜中華街の基礎ができてくる。


ここから横浜中華街はどんどん発展していく訳だけど、1939年に勃発した第二次世界大戦の折、空襲により、日本各地が爆撃され、横浜がある神奈川も甚大な被害を受けた。


1945年に終戦を迎えると、すぐに復興が開始。

特に中国は、戦勝国である連合国に加盟していたため、中華街には優先的に物資は配給されていた。


華僑の人たちは、復興のため、自治体を立ち上げ、配給物資の小麦粉などを使って、ドーナッツを販売したり、米軍基地で働く中国人から仕入れた生活物資を市場に卸すなりして、物資不足の戦後復興に貢献したのだった。


いわゆる闇市というのも形成されていった。


ただし、食糧難や物資不足は、1950年以降に解消され始め、近隣住民の客足が減ってくると今度は在日米軍や外国人船員向けのバーやキャバレー、飲食店がたくさん出来てくる。


中華料理店も1921年には9軒だけだったのが、戦後には20軒以上に増加。


つまり繁華街としてのベースは、戦後復興のときに作られたのだ。


今度こそ、横浜中華街は順調に発展していく・・・と思われた矢先に、1953年に朝鮮戦争が休戦すると、在日米軍基地も次第に縮小されていき、米軍頼りだった中華街の客足も一気に減少。


またまた苦しい状況に追いやられていく。


客足が減った当時の中華街は、「外国人船員が多くて治安が悪そう」「街灯などの整備が行き届いておらず暗くてどんよりした雰囲気」など、マイナスイメージが多く、近隣住民も寄り付かない街になってしまった。


そこで現状に危機感を抱いた横浜市と商工会議所は、中華街を含む周辺地域の復興計画を1953年に開始した。


①中華街周辺地域の道路拡幅

②シンボルになる建築物の建設

③服屋さ日用品店の品質向上

④老舗中華料理屋の宣伝

⑤大衆向け中華料理屋の低料金化


①で道路や街灯を整備し、②、③、④で、繁華街としての魅力を確立。

⑤で近隣住民の使用頻度が高くなるよう調整と、かなり練られた計画となった。


また1956年には。中華街の店主60人程が集まって中華街発展会協同組合も結成。

観光地としての魅力を上げるために、中国式の建築物である牌楼に着目した。


これらの計画は数十年かけ、日本の戦後復興とほぼ同時期に進められていった。


特に1960年以降は、市民の暮らしにも余裕が出始め、新幹線や東名高速が開通したともあって、各地の観光客が増加していった。


中華料理店の数は1921年の9軒から、1987年には141軒と約14倍に増えた。

そんな横浜中華街は、2020年で、約500m四方の中に500軒以上のお店がある東アジア最大の中華街として知られている。


神戸や長崎の中華街と合わせて、「日本三大中華街」と言われていようになった。



・・・なるほど、こういう歴史があったんですね。こういう史実をきちんと知った上で訪問するとずいぶん味わい方が違ってきますね。


では、いよいよひさしぶりの横浜中華街。いろいろ楽しんでいきたいと思います。


ときは、2023年8月19日。この日も雲ひとつない快晴の日で、汗ダクダクの猛暑日でした。世間は夏休みのときに行ってきたのかな・・・ひさしぶりに横浜中華街を体感して、そしてもちろんどこかのお店に入って、思う存分腹いっぱい中華料理を食べて、そして思いっきり横浜中華街について語ろう!と思いました。


この日は、ちょうど、血糖値検査の日で、幸いにも結果はかなり良く、やった~~~という感じで、もう今日はご褒美ということで、お腹ペコペコで臨んだので、食べ応えのある中華料理を腹いっぱい食うぞ~という感じでやる気満々で臨みました。



みなとみらい線の終点、元町・中華街で下車します。


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今回の横浜シリーズで初めて、終点の元町・中華街の駅を利用したのですが、なんか思っていたより全然小振りで小さい駅ですよね。(笑)拍子抜けという感じです。でも行先の標識など文字も大きくすごい分かりやすい。さすが出来たばかりの新しい駅だと思いました。




この中華街行の方面に行くともう地下通路がずっと続いているんですね。その通路をひたすら歩くだけです。迷うことはありません。また、たくさんの人が同じ方面に歩いていて、その人たちは、おそらくみんな中華街に行く人たちなので、その人たちといっしょに歩いていけばいいのです。


地下通路の壁には中華街のポスターが貼られていて、否が応でもそれなりに雰囲気が漂ってきました。


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そして地上出口を出たところ。そこはもうすでに中華街の入り口です。大きな門が出迎えてくれます。


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中華街のシンボルともいえる門「牌楼」(パイロウ)です。


この中華街の門、「牌楼」(パイロウ)は、全部で10基あるのです。

みなさん、知ってましたか?中華街の門が10つもあるということを!


東西南北にある4基

東:朝陽門

南:朱雀門

西:延平門

北:玄武門


その他の6基の門

天長門

地久門


市場通り門2基

西陽門

善隣門


です。


まずは中華街の外周にあたる4基。関内ツウのかたには言わずとしれた、東の「朝陽門」、南の「朱雀門」、西の「延平門」、北の「玄武門」です。


この4基は、横浜中華街発展会協同組合の理事長(当時。2012年に退任)であった萬珍楼社長の林兼正さんが、中国文化を発信するツールとしして、中国人の暮らしに根付いている「風水」を活用できないかと考えて生まれたものなのだそうです。林兼正さんの著書「横浜中華街 街づくりはたたかいだ」(発行:神奈川新聞社)の一節にこうあります。


華人の建築士の知恵も借りて思いついたのが、中華街の東南西北に、風水思想でそれぞれの方角を表す色と神獣を配した門を設けて街を守るとともに、中国の伝統文化を紹介し、観光資源として活用することでした。


風水思想のベースとなっている五行説では、それぞれの方角を表す色と聖獣が決められています。東は「青」、「青龍」。南は「朱(赤)」、「朱雀」。西は「白」、「白虎」、北は「玄(黒)」、玄武です。東南西北を守る4基の門を改めて見てみると、その豪華絢爛な姿にはこれらがモチーフとしてしっかりととり入れられています。



東の「朝陽門」は、10基の中で最も大きな門です。

元町・中華街の通路から地上出口に出たところに現れる門「牌楼」(パイロウ)は、この「朝陽門」なのです。いちばんデカい門なのです。


中華街の門ってどれもカラフルなので、実をあまり気にしたことがなかったのですが…確かにしっかり「青」の門ですね。そして「朝陽門」の文字の下には東を守る聖獣である「青龍」がずらり。日の出を迎える門ではありますが、夜の姿も厳かで猛々しい雰囲気を醸し出しています。


豪華絢爛、あでやかな姿でわたしたちを迎えてくれる中華街の10基の門。今日も、聖獣たちが街全体を守り、邪気を取り払ってくれているのです。



ここからは、ざっくばらんに中華街の通りを歩いていった順番に写真をアップしていきますね。


もうこの日は、雲ひとつない快晴の日。汗ダクダクの日で、しかも夏休みということもあって、もう大変な人だかりでございました。客層は、もうすごい若いです。若い人しかいない、という感じです。ある程度の年配の人には、この混雑、熱気ムンムンの雰囲気はちょっとキツイんじゃないでしょうかね?


外国人多かったな~。もうインバウンド復活ということもあって、とくに中華アジア系の外国人多かった~。そういう人たちばかり、という感じです。外国人にとっての横浜って、まさに中華街のことなんでしょうね。



ブタまんの江戸清。


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もう、ここはいつもすごい大行列です。

TVで有名なブタまん専門店  ジューシーな中身が最高!


店先にはいつも大勢の人だかり。土日の昼時には行列ができるほど人気の店である。なんといっても人気は店頭のセイロで蒸しあがるホカホカのブタまん。カニ・エビなど海鮮をふんだんに使ったジューシーなブタまんは一度は食べてみたい味。中華まんは、季節のものを含めると15種類以上あるそうだ。


さすがにここに並ぶ勇気はありませんでした。(笑)自分は、ブタまん、肉まんは、こんな有名店ではなく、もっと小さなお店で外の店頭販売で直接蒸しているところで買うことのほうが多いです。



焼き小籠包が人気の上海小籠包専門店 鵬天閣


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ここの大行列は、ちょっとハンパない感じで、驚きました。

この日自分がいちばん驚いた大行列でした。


そこまでして食べたいのか!


小籠包も中華料理では十八番ですよね~。食べるとおつゆがぴ~っと出るのが大変です。小籠包もいちばん人気です。ここもこれだけの大行列ができるほどの有名店なのです。


中華街大通り沿いにある、しょっちゅう行列ができている上海小籠包専門店。食べ歩きに人気の焼き小籠包は、白色の豚肉と薄緑色の海鮮の2種類で、焼き立てのカリッとした食感の皮の中に、ジューシーな餡の味わいが広がります。 2階はレストランになっており、こちらでも焼き小籠包をいただけるので、並ぶ時間がもったいないという方はレストランでいただくのもOK。




華福飯店


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手頃な価格でいろんな料理をバイキング形式で食べられる中華料理店のようです。食べ放題を売りにしていました。




自分がこの日、あとで日記にすることを意識して、その土地勘などを学びながら歩いていたのですが、横浜中華街って、基本は縦に大きなメインの通りがあって、その左右両側に枝道のように中に入っていくエリアがある・・・そんなエリアのように感じました。


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台湾美食520 王府井


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大通りに「王府井」の看板メニューである小籠包や台湾ソウルフードの胡椒餅や炸鶏排、市場通り側に「台湾美食520」の代表格である豆花・仏草・芋園等「台湾の美味しい」を楽しめるお店があります。


この写真は大通りのほう。台湾料理ですね。ここも大変な人気、行列店でした。




香港飲茶専門店  西遊記


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今話題の「叉焼メロンパン」が横浜中華街で食べられます! 本場中国のシェフが一から作り上げる飲茶・点心はまさに絶品!


・・・「叉焼メロンパン」ってそんなにいま話題なんですか???(笑)ぜんぜん知らなかったです。それが横浜中華街で食べられる、ということで、話題沸騰なのだそうです。


1Fエントランスでは香港名物叉焼メロンパンの焼きたてと肉まん等のお土産品を販売。レストランでは本格的な香港飲茶や広東料理などで楽しいひと時を過ごせます。2Fは吹き抜けになっており窓から中華街大通りと市場通りの賑わいが望めます。



重慶飯店


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1959年創業、横浜中華街を代表する中華四川料理「重慶飯店」。

1959年以来、四川料理独特の「麻、辣、酸、甜、苦、香、鹹」の七つの味を巧みに操り、“一菜一格 百菜百味”の理念伝統を大切にしながらも、革新的なお料理を提供いたします。


ここは有名ですね。本格的で、しかも高級な四川料理のお店だと思います。

中華街に来たときは、いつかは入ってみたい、挑戦してみたい、といつも思うのですが、なにせ高級なので、お値段が高いのでは?という危惧があって、いつも思いきれません。いつかは挑戦してみたいお店です。


いまお話したのは、本館のことです。この写真は新館のほうですかね?1Fが売店みたいになっています。本館のほうは、もうすごいゴージャスで絢爛豪華なレストランなのです。




横浜といえば、シューマイの崎陽軒ですが、この中華街にもありました。


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もう横浜エリアに関わらず、どこにでもありますよね。崎陽軒については、この横浜シリーズで単独の日記で扱うつもりですので、お楽しみに!




横浜博覧館というのが開催されていました。2013年、横浜中華街に「食」「遊」「買」の全てを満喫できるスポットだそうです。


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縦に走るメイン通りを東の朝陽門から入って、市場通り門の善隣門に出たところです。


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さて、せっかく中華街に来たので、自分もお腹ペコペコ、どこかで食べたいと思うのですが、毎度のことながら、中華街はあまりに店が多くて、どこがいいのか、どこに入ればいいのか、見当もつかない、という感じです。


香港路という小さい枝道のほうを入っていきました。


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そうすると、ちょっとビビッとくるお店がありました。

男性スタッフがお店の前で呼子のように宣伝していて、四川料理、四川麻婆豆腐はいかが~と言っているのではないですか!もうご存じのように、赤坂四川飯店で、本格的四川料理を愛し続けてきた自分にとって、中華料理の中でも四川料理は目がありません。そうして、あの四川麻婆豆腐が無性に食べたくなってしまいました。


なんか。そのまま男性スタッフの勧誘に誘われるままに、スルスルと入ってしまいました。


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店内は、中規模でこじんまりとしていますが、いかにも中華料理屋さんという感じです。


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メニューも豊富。


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自分は迷わず、一番食べたかった四川麻婆豆腐を頼みました。


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美味しかったな~。いかにも四川麻婆豆腐というあの感じのテイストで、ちょっと食べると、すぐにギブしたくなる辛さ(笑)。でもそこがいいんですよね。美味しかったです。



牛もつのマーラー和え、というものを頼んでみました。”マーラー”という言葉に反応してしまいました。(笑)

でもこれはイマイチだったな~。



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日本で食べる中華料理といえば、日本人向けに辛さを抑えて調理したものが多数派ですが、今グルメ通の間では本格四川料理の痺れるような辛さを取り入れたメニューがメインのようです。麻婆豆腐や担々麺に代表される四川料理の多くは「麻辣(マーラー)」という味付けをベースに作られています。麻辣(マーラー)は、唐辛子の辛さである「辣味(ラーウェイ)」と、花椒(ホワジャオ)の痺れるような辛さである「麻味(マーウェイ)」という2種類の辛みをメインに構成されており、食べた途端に汗をかくような刺激的な味わいが特徴なのです。


だからマーラーといえば、中華料理、四川料理では、麻辣(マーラー)の意味であって、痺れるように辛い、という意味なのです。けっして、クラシックの作曲家のマーラーじゃないです。(笑)


でもメニューでは、カタカナでマーラー和え、とか書いてあるもんだから、クラシックのマーラーと関係あるように、どうしても思ってしまうんですね~。アホですね~。(笑)



牛もつのマーラー和えというのは、あくまで牛のもつを辛く調味したそういうザーサイみたいな感じで、そんなに大したものではない、というか高い割にはいまひとつ美味しくないな、と思いました。1,380円もしました。(泣)


”マーラー”という言葉に引っ掛かった自分がアホでした。



そして中華を食べるときは、自分は、かならず麻婆豆腐とエビチリを頼みます。

もう王道メニューのエビチリ。これはとても美味しかったです。


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そして、今回、小籠包もいただきました。口に含んだら、ピュ~でアツアツでしたが、楽しみました。美味しかったです。


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この4品を頼みました。ダイエットの為ご飯類、糖質類は制限しました。この4品だけでも6,000円くらいは行きましたので、中華料理を食べるのもなかなか高価なものですね。


でもひさしぶりに横浜中華街にやってきて、この独特の雰囲気を味わえて、楽しかったです。この数多あるお店の中で、自分の行きつけのお店、お気に入りのお店というのは発掘することはできるのでしょうか?


いつもこの無数にあるお店の羅列状態を見て、もうその時点で嫌になっちゃうというか、諦めてしまう・・・そんな感じの横浜中華街。


なかなかこの百花繚乱の中で、自分のお気に入りをピンポイントで見つける、というのは難しいことなのかもしれません。


いや、ありました。

横浜中華街で、ぜひここは1回は行っておきたい中華料理屋さんがあります。


それは


萬珍樓


です。


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まさに、横浜中華街ができあがった最初の時代、明治の頃からずっと支えてきた名店中の名店です。中華料理というと、やはり四川料理か広東料理のどちらかだと思うのですが、ここは広東料理です。広州広東料理です。


まさに横浜中華街の名店中の名店と言われるところです。最高級のお店なので、お高いと思います。ここは一度は行ってみたいお店ではあります。



幕末に日本が開国し、安政6(1859)年に港が開かれると、横浜には中国から大勢の人々が訪れるようになりました。やがて、清国領事館が開設され、明治6(1873)年には、関帝廟も建立。横浜中華街が大きな一歩を踏み出したこの頃、萬珍樓も産声をあげました。



その後、横浜中華街は大震災と戦争、二度の大きな災厄に見舞われましたが、華僑の団結力とバイタリティーで迅速に復興が進められ、更なる発展を遂げて、現在の中華街が完成。萬珍樓も昭和21(1946)年8月、有限公司萬珍樓として、再スタートを切りました。



明治、大正、昭和、平成、そして令和。時代とともに、街の様子やお客様も変わっていきました。萬珍樓はいつの時代でも、その時々のお客様に喜んでいただける中国料理を追求し続けています。創業以来変わることのない、おもてなしの心とともに…。



ここは、まさに横浜中華街の重鎮といっていいお店ですので、ぜひ近いうち体験してみますね。



ちなみに、横浜中華街が東アジアで最大規模のチャイナタウンであることはわかりました。じゃあ当然の疑問で、世界一の規模のチャイナタウン、中華街ってどこなの?という疑問が湧きますね。


中華街には、アジア地区には、シンガポール、インドネシアに大きな中華街あるし、またアメリカではカルフォニア州のサンフランシスコのチャイナタウンは昔から有名ですね。


世界一のチャイナタウン、中華街といえば、昔はこのサンフランシスコの中華街のことを言っているのが通例だと思います。自分の子供の時代から、アメリカのチャイナタウンと言えばサンフランシスコでした。


サンフランシスコのチャイナタウン


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でも最近になって、カナダのバンクーバーのチャイナタウンがそれを上回るという話もあるらしいです。


中華街とは中国本土を離れ海外に居住する中国人街の事です。現在の世界最大の中華街がカナダのバンクーバーにある中華街というのがもっぱらの話です。


それまでは世界最大と称されてきた米国のサンフランシスコや横浜の中華街を遥かに凌ぐ大きさらしいです。サンフランシスコは古い中華街で、現在は中国系よりもベトナム系の店舗の方が増え、中国系はどんどん減少傾向にあります。カナダのバンクーバーに世界最大の中華街が出来たのは香港が中国に返還される事が決まった頃からです。


カナダはお金さえ出せば幾らでも移民を受け入れる政策がありましたので、多くの香港の実業家たちがカナダの永住権を取得し、中華街を大規模に開発したからです。現在のバンクーバーは急増する中国からの移民の最大の拠点となっている関係上、中華街も世界最大規模になったという訳です。


バンクーバーのチャイナタウン、中華街は、唐人街と言われるところですね。


でも現地の華人に対する人種差別や治安の問題で、バンクーバーの唐人街はどんどん寂れていく、街全体が錆びしていく一方だそう。いまではバンクーバーのリッチモンドのほうが中華街、チャイナタウンとしては、発展して大きいようである。リッチモンドは、バンクーバーの南に位置する街で、人口の50%が華人が占めるのだそうで、治安がいいことで有名。中華街、チャイナタウンを形成する建築物様式も、昔からの中華的な建築物ではなく、洗練された近代的な建築物の中華街、チャイナタウンなのだそうだ。


いまではアメリカのチャイナタウンといえば、サンフランシスコではなく、カナダのバンクーバーらしい。それもバンクーバー南部のリッチモンドのほうのチャイナタウン、中華街である。



カナダ・バンクーバーのチャイナタウン


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写真は唐人街なのか、リッチモンドなのかは不明。リッチモンドのチャイナタウンは今風で近代的らしいので、おそらく写真は唐人街のほうだと思います。



ちなみに、自分が住んでいたイギリス、ロンドンにもチャイナタウンありましたよ。ここにはよく通ってましたです。そして甘辛スープ(たぶんいまで言うところのを酸辣湯スープ)よく飲んでいたものです。















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I LOVE YOKOHAMA ロープウエイ(YOKOHAMA AIR CABIN) [街歩き]

大切なお知らせがあります。



『地球の歩き方 横浜市』制作決定!


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10月18日に『地球の歩き方 横浜市』の制作発表がありました。日本で最も発行タイトルが多い海外旅行ガイドブック『地球の歩き方』は、創刊以降初の国内版ガイドブックを2020(令和2)年に発行しましたが、観光情報だけでなく歴史や文化など読み物としての人気も高く、地元の方にも高い支持を得ています。


『地球の歩き方 横浜市』は、地球の歩き方制作上初となる市民参加型アンケートを行い、市民の皆様からの「横浜愛」を集めながら紙面を作成します。地元の人だから知っている小ネタや横浜への深い愛など、皆様の思いをアンケートにお寄せください。今回は、アンケート企画のひとつである「表紙にしたい風景」の写真をご紹介します。ぜひこちらのコメント欄でも横浜のおすすめスポットを教えてください。


●アンケートフォーム(締切:11月15日(水))




なんと!あの地球の歩き方で、ついに「横浜市」が登場するらしいですよ!(笑)

これはもう最高にうれしい~じゃありませんか!


よくぞ!取り上げてくれた!という感じです。


旅のプロフェッショナルである「地球の歩き方」さんが、横浜を取り上げてくれるなんて、最高にうれしいです。どんな観光スポットを取り上げてくれるのか、どんな横浜あるあるをピックアップしてくれるのか、はたしてグルメは・・・どんな本になるか、ほんとうに楽しみ!


自分は絶対買いたいと思います。


今回の制作は、いままでと違って制作史上初となる市民参加型アンケートをおこなって、市民の皆様からの「横浜愛」を集めながら紙面を作成します、とのこと。


上のアンケートフォームから7問のアンケートに答えて応募すれば、抽選で60名の方にプレゼントを贈呈したい、とのことでした。


ぜひ、有志のみなさん、横浜愛溢れるコミュニティのみなさんも、奮ってアンケートに参加お願いします。そのまま「地球の歩き方」に採用されますよ。(笑)


ご自身の横浜愛をどんどん編集部にぶつけてあげてください。


ちなみに、自分は、「地球の歩き方」は、海外旅行をするとき専門で買っていましたが、「地球の歩き方」ってじつは国内版もあるんですね。知らなかったです。コロナ禍の2020年からリリースしたそうです。


国内版って、どんなところを紹介しているか、ちょっと調べてみました。


日本

四国

愛知

札幌・小樽 札幌10区・北広島・登別・余市・ニセコ・積丹

東京

埼玉

千葉

北海道

沖縄 本島周辺の島々・八重山諸島・宮古諸島

京都

東京 多摩地域 高尾・御岳・奥多摩と全30市町村


11の地域の本を出しているんですね。ここに神奈川がないのは不思議な感じです。神奈川で言えば、横浜や鎌倉なんて絶好の観光スポットだと思うのですが・・・


これからなんですね、きっと。


横浜はすごい人気の観光スポットがめちゃくちゃあるところなので、いままで出ていなかったのが不思議なくらいです。ようやく満を持して登場!という感じでしょうか。


楽しみにしていましょう。


そういえば、うちに地球の歩き方あったよな~。2011年~2016年のもっとも盛んにヨーロッパに海外音楽鑑賞旅行に行っていた時期・・・ありました、ありました。みんな、2011~2016年版でした。(笑)



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地球の歩き方は、毎年、最新情報にアップデートしてリリースされるので、海外旅行をするときは、かならずその年の最新号を買うようにするのは当然の常識ではありますね。




今回は、JR桜木町駅前と新港地区の運河パークをむすぶ観光型ロープウエイ、YOKOHAMA AIR CABINに挑戦しようと思いました。なんかロープウエイのゴンドラの中から眺める横浜湾、みなとみらい21エリアの風景が、絶景なのでは、素敵と思ったからです。


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日本初、世界最先端の都市型循環式ロープウェイYOKOHAMA AIR CABINは、JR桜木町駅前と新港地区の運河パークとを結び、街を高所から楽しみながら移動できる観光振興施設として、新たな横浜・みなとみらいの魅力を創出します。さらに世界的な照明デザイナー石井幹子氏に駅舎やキャビンの演出照明計画の監修をお願いするなど、安全かつ快適に、そして楽しい施設づくりを行っています。


全キャビンバリアフリー対応、空気の自然循環による換気システム、さらに最新式バッテリーによる冷房システムや各種安全監視システム、フルカラーLEDによる演出照明など様々な分野で泉陽独自のノウハウと技術を結集した最先端の機能を備えています。


「桜木町駅」はJR桜木町駅を出た目の前にあり、YOKOHAMA AIR CABINで新港地区の「運河パーク駅」に渡ると、よこはまコスモワールドやワールドポーターズ、ハンマーヘッド、赤レンガ倉庫など、みなとみらいを代表する観光スポットに空からの景色を楽しみながら楽に移動できます。駅舎は人に優しいバリアフリー構造で、夜になると駅舎内部はライトアップや映像による演出が行われ、昼とはまた違った表情でお客様をお迎えいたします。



自分は、2023年8月17日に実行しました。ごたぶんにもれず、この日も雲一つない快晴。36度を超えるうだるような酷暑。真夏真っ盛りという感じの日でした。


自分は、新港地区の運河パークのほうから、乗ろうと思いました。馬車道で下車して、そこから歩いて行ったのですが、初めてなので、運河パーク駅、なかなかたどり着かなかったです。(笑)蝉がミ~ン、ミ~ンと鳴く猛暑の中、迷いに迷って汗ダクダクになりながら、かなり歩いて、人に何回も聞いて場所がわかりました。


ここです。ここです。


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横浜ワールドポーターズの側面の横に運河パーク駅があります。建物には、道路面、歩道からは建物名の表示が見えず、反対側にあるので、道路を歩いているだけでは、ここが運河パーク駅の建物だ、ということがわからないでしょう。


YOKOHAMA AIR CABIN 運河パーク駅



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運河パーク駅と横浜ワールドポーターズは、このように渡り廊下ができていて、ここから移動できます。地上の横断歩道は、ちょうどよい位置にないので、この渡り廊下で運河パーク駅に入るのがベストだと思います。


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運河パーク駅内は、中は広くて綺麗な新しい建物という感じがします。


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ここでチケットを買います。自販でも人によるマニュアルでもどちらでもいけます。1人、1,000円。往復で、1,800円は結構な値段だと思います。


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自分は、往復を買いました。運河パーク駅から発車して、桜木町駅まで行って、また運河パーク駅に戻ってくる予定です。


2Fに発着乗り場があります。朝一だった、ということもありましょうか、ここ運河パーク駅には乗車する人は、私1人しかいませんでした。なんか、人気ないのかな~、閑古鳥で、儲かっていないのかな~とか心配してしまいました。(笑)


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ここで、いよいよキャビンに乗ります。キャビン内は、まっこれくらいだろうな、という適切スペース。定員は8人乗りですね。そのグループの人数に応じて、その区切りで乗り込みます。3人なら3人、4人なら4人。自分のように1人なら1人のみです。相乗りというのは基本やりません。


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四方を透明の防犯プラスティックガラスと思われるもので囲まれ、外気の暗騒音は完全にシールド、遮断されます。動くモーター音だけがする、という感じでしょうか。全方位透明ですので、見晴らしは四方を絶景で囲まれるという最高のシチュエーション。まさに横浜湾、みなとみらい21エリアの絶景を真横に見ながらずっと進んでいく感じでした。進むスピードはとてもゆっくりです。



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これは確かに絶景ですね~。お天気も雲ひとつない快晴の天気でしたので、格段の気持ちのよさがありました。10分くらいで到着、という感じでしょうか・・あっという間に感じました。


まっチケットは高いけど、それだけの価値はあると思います。コスモクロック21は、方向的に右後ろにありましたので、行はあまり見えませんでした。最後の写真は背面をう振り返って撮影したものです。



行の運河パーク駅では、私1人しかいなくスイスイで乗車できましたが、終点の桜木町に到着して、往復で帰ろうとして発着場に行ったところ、この大行列でした。(笑)


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やっぱり行で、馬車道から運河パーク駅まで歩く人はいないんですね。みんなJR桜木町駅から下車して、そのままAIR CABINに乗るというスムーズな流れなので、桜木町駅のほうが乗車するときは大混雑なんでしょう。


そういうことか、と思いました。

儲かっていてよかったです。(笑)


帰りの運河パーク駅行もキャビン内は、私1人のみ。完全貸し切り状態で、四方を絶景に囲まれて気持ちよかったです。コスモクロック21が前方に見えます。


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日本初といわれる世界最先端の都市型循環式ロープウェイYOKOHAMA AIR CABIN、ここに確かに体験いたしました。1度は体験したい、と思っていたので、満足です。








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I LOVE YOKOHAMA みなとみらい21 [街歩き]

横浜といえば・・・横浜の観光スポットといえば・・・1番しっくりくる代表的な景色が、みなとみらい21のよこはまコスモワールドの大観覧車コスモクロック21の入ったショットではないだろうか。


自分は絶対、横浜!といえば、この風景を無意識に思い出してしまう。

だから今回の横浜シリーズでは、このみなとみらい21が、もっともボルテージマックスで最高の写真を撮らないといけない緊張した日だったのだ。


2023年8月18日。夏休み真っ最中。この日も36度を超える酷暑の日。雲ひとつない晴天の日だった。絶好の写真日和だった。そしてうだるような暑さ。もう汗でびっしょりで、かばんの中にペットボトルの水、4~5本を忍ばせ、とにかく歩いたのなんの。振り返ってみればシリーズで1番距離を歩いた日だったかもしれない。


もう自分にとっては、「横浜=灼熱の太陽の酷暑の真夏日」という方程式が頭の中にこびりついている。




横浜みなとみらい21は、神奈川県横浜市の西区と中区にまたがり、横浜港に面している再開発地域である。また、1983年(昭和58年)度から現在にかけて整備が進められている計画都市である。都市景観100選受賞地区。



1989年(平成元年)の横浜博覧会以降、当該地区の開発が本格化し、首都圏の新都心として、さいたま新都心(さいたま市)と幕張新都心(千葉市)に並び重点的に整備された。当地区全域は、横浜市における都心(ツインコア)の一つである横浜都心に指定されている。


2000年以降に急速に都市開発が進んだ。2023年現在では横浜とは別の自治体成化が確立しつつあり、様々な公共施設が点在し東京に次ぐ首都化が進んでいる。


「みなとみらい21」という名称は、「みなと横浜」をイメージしつつ、「未来への発展を目指す21世紀の横浜にふさわしい」名称として、1981年、一般公募された約2300点のなかから選出された。




その「みなとみらい21」の代表的な顔である大観覧車コスモクロック21。



1989年(平成元年)に開催された横浜博覧会の出展施設「コスモワールド子供共和国」内のアトラクションとして建造された。当初は現在地よりも北西側の日本丸メモリアルパーク隣接エリア(対岸のみなとみらい23街区)に設置されており、本来は博覧会期間内のみの運営予定であったが、会場内で最も人気が高かったことから博覧会終了後も運営されることとなり、その後は観覧車の周辺に遊戯施設も設置し、都市型遊園地「よこはまコスモワールド」の一部として組み込まれる形となった。


しかし、みなとみらい地区の発展が顕著になり観覧車の周辺も超高層ビル(クイーンズスクエア横浜)の建築が行われることになったため、1998年(平成10年)に一度営業を終了し解体され、現在の場所へ移築される形で1999年(平成11年)から再び運営されている。



観覧車部分の外周直径は100mで、ゴンドラおよび支柱の総数は60であり、乗車定員480人は日本最大級である。


1989年(平成元年)の建造当時は台座を含めた全高は107.5mであり、観覧車のちょうど中央部分に巨大なデジタル時計(シチズン時計)を設置しただけでなく、支柱部(回転輪)にネオン管のイルミネーションも設置し、光により「60」の秒数および分数を刻む構造となっていたことから、「世界最大の観覧車」および「世界最大の時計」としてギネス・ワールド・レコーズに掲載されたこともある。



その後は日本各地で巨大観覧車の造営が相次いだことから、1999年(平成11年)の移築時には台座を嵩上げして全高は112.5メートルとなった。


同時にイルミネーション部分もリニューアルされ、毎時15分ごとに回転輪(ネオン管)を利用した打ち上げ花火のような演出が追加となり、夜にはライトアップも実施されるようになった(春はグリーン・夏はブルー・秋はゴールド・冬はピンクというように、四季によってライトアップされる色も変わる)。



この大観覧車コスモクロック21。じつは自分は、乗ったことがある。

当時つきあっていた彼女が、最近みなとみらいにできた大観覧車に乗ってみたい、という強いリクエストがあって、デートにこの大観覧車に彼女と乗ったのである。あれはヨーロッパに行く前だから、1994年より以前の話だ。


そうすると、いまの場所にあるコスモクロック21ではなくて、移転前の1998年より以前の場所にあったときのコスモクロック21に乗ったことになる。


これが、1993年4月3日撮影の日本丸メモリアルパーク隣接エリアにあった頃のコスモクロック21である。


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たぶんこのときである。この移転前のこの場所にあったコスモクロック21に彼女と乗ったのだ。


観覧車は、とてもゆっくり動いて、まるで止まっているかのようで、動いているとは感じられないくらいゆっくりだった。昼間に乗った。ゴンドラから見る横浜湾の景色は絶景であった。



さて、ここからが本番である。


横浜といえば、このコスモクロック21が入った風景を撮影する、ということで、どこから撮影すればいいのか、かなり悩んだ。あまり土地勘がないし、SNSのサイトでは、みなさん本当によくご存じのようで、いろいろなベストポイントから撮影されていて、とても魅力的な写真ばかりだ。


どこから撮影しているのだろう?


いつもそういう疑問があった。

ネットでも調べてみるのだが、もう有名スポットなので、たくさんの候補がある。その地図を見てもいまひとつピンとこないので、もうこれは現場に行って、うろうろしてスポットを自分なりに探し出すしかないな、と思った。


自分の場合は、みなとみらい線の馬車道からアクセスして、このあたりから歩いて、コスモクロック21の近くまで歩いていろいろ撮影スポットを探そうと考えた。


馬車道駅から横浜湾に向かって歩いて行ったところの途中にある万国橋。


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この橋の上から見るショットが自分にとってのこの撮影日での最高のスポットであった。この万国橋はやはり有名なスポットみたいで、自分と同じように、たくさんの撮影をしている人で賑わっていた。超有名スポットなんですね。


これが自分のこの日の最高のショット、撮影である。

この写真がすべてのリファレンスである。


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ここからいろいろ歩いてみて、いろいろな撮影スポットを探ってみる。

まず、日本丸メモリアルパーク、横浜みなと博物館のほうから撮影したいと思いその方面に歩いて行った。これが結構な距離歩くんだな。もう足が悪い自分にとってヘトヘトになりました。


まず、これはネットに掲載されていた、あるホテルの前の遊歩道からの撮影。次の日記で紹介するゴンドラ、YOKOHAMA AIRA CABINが通っているシーンも入ってきて、これはすごい魅力的だとは思いましたが。


う~ん・・・自分的にはコスモクロック21が斜めに見える感じで、イマイチかも?


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そして、日本丸メモリアルパーク、横浜みなと博物館のほうからアクセスして近づいて撮影したショット。これはなかなか気に入ってます。このアングルが一番コスモクロック21に近づけたシーンではありました。


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そして、またまた逆戻りで、もとの万国橋のほうに戻って、横浜ワールドポーターズの屋上から眺めてみようと。。。これはネットでの推薦でした。



横浜ワールドポーターズは、「いろんな世界がここにある」というコンセプトのもと1999年にオープン。ファッション、インテリア、雑貨など個性的な約150のショップ、レストランをはじめ、シネマやアミューズメントも併設され、一日中お楽しみいただける施設となっている。


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いつも赤レンガ倉庫に歩いて行く途中に左側に見える建物で、なんなんだろう?いつか入ってみたい、とずっと思っていましたが、今回ようやく念願叶いました。もう巨大なショッピングモールという感じで、もう毎度ながら、こういうところに入ると、あまりに広大ないろいろなものが販売されているので、頭が瞬時には整理できませんね。いつものことです。


ここの1Fには、ちょっとしたフードコートというか、いろいろな食事処が集中して入っていて、いろいろな国の料理が食べられるちょっとした楽しい場所ではありました。四角を囲む形で、いろいろな食事処が入っていて、そこでご飯を買って、そして真ん中にテーブル。椅子が集中してあって、そこで食べるのです。


お昼ごはんはここで食べたです。もうすごい劇混みでした。外国人の多いこと、多いこと!横浜ワールドポーターズは有名観光スポットなんですね。


関西うどんのぶっかけうどんを食べたんじゃないかな。美味しかったです。


その横浜ワールドポーターズの屋上から見えるコスモクロック21のショットです。


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写真だとどうしても遠景に撮れてしまうので、このくらいの至近距離に見えますが、実際の肉眼はもっと目の前にどか~んとそびえ立つという感じで、かなり迫力があって怖かったです。ここもコスモクロック21を間近に見えるスポッとしてはいいところだと思います。



自分の今回の最大のミッションは、夜になったときのコスモクロック21のライトアップ、イルミネーションを撮影することでした。


これが最高の瞬間だと期待していました。


いまお昼の12時です。そうすると夜のライトアップはおそらく夕方18時頃。

いまから6時間どこかで待っていないといけません。


どこで6時間待つか、場所探しです。

もちろんベンチなどの座れる場所でないといけません。


まず、すごい酷暑の日だったので、冷房の効いた横浜ワールドポーターズの1Fのベンチで待つことにしました。ところがここは冷房が効きすぎて、1時間もしないうちに寒すぎて具合が悪くなってしまいました。


こりゃダメだ、と思い、外で待つことにしました。


万国橋に行く途中に、ホテルの前の遊歩道のようなところに腰掛けるベンチがあったことを思い出し、ここで6時間待っていようと思いました。


ここです!


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植樹のある素敵なホテル前の遊歩道で、ここは最高に素敵だな、と思いました。前に川が流れていて、コスモクロック21も横から眺めることができるし、ここから見える風景がなんともオシャレで素敵なのです。


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じつは、このホテル前の遊歩道のベンチ。

隠れた大スポットなのではないのでしょうか?

植樹の緑が豊富で、清掃も行き届いていて、清潔感溢れる場所。


この日は雲ひとつない晴天の日だったのですが、ここでのんびりホケ~としていると、もう時を忘れるくらい素敵な場所です。


本を持ってきて、このベンチで読書をしながら、ふっと目を上げると、コスモクロック21が見える絶景。

もうここは最高のスポットではないか!と自分では自負しています。


有名なスポットなのかは、知りません。

自分が探して必然に見つけた場所です。


大晴天の日。このベンチで、ただなにもせずにホケ~としているだけで、ここで6時間過ごしましたです。いろいろな人が歩いたり、目の前に見える風景をただただず~と眺めているだけ。そして昼間からだんだん陽が落ちてきて夕暮れになってきて、ビル内の部屋に照明がつき始めて、そして完全に夜に堕ちる。その移り変わりの6時間を、ただひたすらこの絶景のベンチで過ごしたのです。


おそらくいままでの人生の中で最高に素敵な時間だったのではないか、と思います。

こんな贅沢で豊かな時間を過ごしたことはいままでなかったでしょう。


途中、目の前の川で船が通ります。もう何回もいろいろな船が通っていきます。


優雅だな~~~。


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そしてだんだん暗くなってきます。


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・・・そして、18時45分くらいからでしょうか。ついにコスモクロック21のイルミネーションのライトアップが始まりました。このときの大感動は一生忘れないです。もうすごい衝撃、興奮でした。


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うぉぉおおお~という感じです。あたりの景色は、だんだん闇に堕ちていきます。完全に落ちるまで、ただひたすらこのベンチから見える風景、コスモクロック21を斜め横から見える絶景を眺めていました。


ライトアップが始まった18時45分頃は、もうかなり暗かったと思いますが、遊園地のジェットコースターはまだまだ稼働していて乗っている客さんのキャ~という絶叫が聞こえていました。ずいぶん遅くまで営業しているんだな、危ないよなとも思いました。



そして待ちに待った念願のコスモクロック21のライトアップが本格的に始まります。


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観覧車の内円周から外円周に向かって放射的に広がる感じで、イルミネーションが綺麗です。

もううぉぉぉおおお~~~という感じです。



あまりに壮大でスペクタルで大感動です。

まるで花火を見ているかのような美しさと感動です。


夢にまで見た、そうしてどうしても観たかったコスモクロック21のライトアップ。

もう最高だと思いました。


これが隣接するビル群の部屋の照明を相まってじつに百万ドルの夜景なんですね。

これこそ、みなとみらい21の最高の絶景スポットだと思いました。


このときを待っていたのです。


コスモクロック21のライトアップには規則があります。ライトアップ、イルミネーションの仕方にルールがあります。1つのパターンがあって、15分間隔でそれを繰り返します。


最初は、内円周から外円周に向かって放射的に広がる感じで、いろいろな派手な色がたくさんお目見えして華々しいです。それは最初の5分間ですね。残りの10分になると、ずっと緑一色で固定になります。


その15分間をずっと繰り返すのです。


写真撮影のタイミングとしては、このいろいろな色が現れる、そして放射的に模様が動的に変わる最初の5分間が勝負なのではないでしょうか・・・


この絶景スポットであるベンチから、コスモクロック21を斜めに見る絶景をずっと観ていて、そのライトアップのルールに気づきました。


さあ、そして最後の仕上げです。



自分の中で、フォーマルに最高の場所である万国橋のほうに移ります。

このベンチから万国橋は、ほんの目と鼻の先です。


夜の万国橋では、この絶景のコスモクロック21のライトアップを撮影したい観光客(外国人多かった!)や人で大勢賑わっていました。万国橋は、まさに最高の撮影スポットなのでしょう。ここは有名な誰でも知っているところだと思います。


これが今回の最終目的。コスモクロック21のライトアップを含んだみなとみらい21の夜景です。


まさにこれこそが、百万ドルの夜景だと思います!


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ミッションコンプリートしました。

このときこそ、胸をなでおろした、というか肩の荷が下りた気持ちでいっぱいでありました。

終わったな・・・という・・





さて、時を元に戻して、日本丸メモリアルパークもこの同じ日に行きました。

コスモクロック21の近くにあるので、ぜひ寄らないといけないスポットでした。


ここで観るべきものは、帆船日本丸と、横浜みなと博物館です。


まず、横浜みなと博物館。


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横浜みなと博物館は横浜港をテーマにした博物館です。

「歴史と暮らしのなかの横浜港」をメインテーマに、横浜港に関する調査・研究、資料・図書の収集・保存、展示・公開、教育活動を通して、一人でも多くの人が、より横浜港を知り、考え、楽しむことができる博物館をめざしています。


館内には、横浜港の歴史や役割を紹介する常設展示、アンクルトリスの広告デザインや船の絵で知られる柳原良平の作品を常設で展示する「柳原良平アートミュージアム」や、海事関係図書・雑誌等が閲覧できる専門図書室ライブラリーがあります。



ここは、絶対お勧めですね。横浜港のすべてが入っていると思います。模型、パネル展示などかなり歴史的価値ある資料展示です。


ここにすべてが展示されていると思います。それこそ幕末のペリー来航から始まって、寒村に過ぎなかった横浜村だった頃、そして江戸時代から埋め立てることで、いま現在の横浜エリアが形成されていること、関東大震災、横浜大空襲、そして第二次世界大戦敗戦で米軍から接収されたこと。(接収=米軍に施設などを取り上げられて、米軍の管理下に置かれること。)・・・現在に至る港ヨコハマのすべての歴史がここに展示されていると言っていいでしょう。


自分は入館料を払って、まずこの展示室のところに入った瞬間、男性の説明員が館内を見て回る前に、最初の導入の説明をしてくれました。床には大きな大きな横浜エリアの地図があり、それを指しながらいろいろ横浜の成り立ちの歴史を説明してくれるのです。


その男性スタッフが自分にいの一番に語ったこと。


「横浜はもともと海だったんですよ。ここは昔から海だったんです。そこをどんどん埋め立てて、いまの横浜が成り立っているのです。江戸時代からずっと海だった場所を埋め立てて、いまの横浜エリアの繁華街がその上に栄えて成り立っているのです。」


冒頭にいの一番のそう言われました。


横浜=海


だったのです。


自分の横浜に対する基本認識ができた瞬間でした。


とても後悔しているのは、とにかく歩き回って、この日は、ほんとうに横浜シリーズの中で1番歩いた日なので、もう足が限界でした。で、この大きな展示室のパネルをじっくり読んで見て回れなかったことです。あまりに疲れていたので、サラッと流すように見て回るだけにしました。


これはいまでも後悔しています。

もっとじっくり1枚1枚の展示を丁寧に見て回りたかったです。


この横浜みなと博物館は、とてもお勧めスポットで、ここに横浜のすべてが入っていると思います。


ぜひ訪れてみてください。


そして、自分がぜひ観たかったのは、帆船日本丸です。


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日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています。船の生活を体験する海洋教室やすべての帆をひろげる総帆展帆などを行い、帆船のすばらしさ、楽しさを伝えています。


近代的なビル群の立ち並ぶみなとみらい21地区の中心に、今は静かに都市の発展を見つめる日本丸。そのおだやかな様子からは想像できない、様々な歴史を背負っています。



こ~れが、また素敵なんですよ!ある意味、この日本丸を観たかった、といえるほど自分にはツボのスポットでした。SNSの投稿では、この日本丸が帆を広げて、海を公開している姿もあるので、ときどき動かしているんですね。(笑)


普段は、このメモリアルパークのこの場所で止まって、展示されているのです。中も展示されていて見学できるみたいです。あまりに疲れていたので、中を見学するのはまた今度にしました。


やっぱり船ってすごい興奮します。豪華客船クルーズのときも言いましたが、自分の人生は、飛行機、電車、車で生きてきた人生なので、船はほんとうに馴染みがないんですね。


すごい自分の人生にはない経験で、船を間近で見るたびに、すごい興奮と恐怖感さえ感じます。

すごい怖いです。船が怖いです。


みなとみらい21を語るならコスモクロック21も大事だけど、この日本丸メモリアルパークの帆船日本丸もぜひ観ておかないといけないスポットだと思います。


じつは、帆船日本丸で楽しみしていたことがありました。

それは日本丸の夜のライトアップです。


これを観たいがために、昼間コスモクロック21を観に、このエリアから近づき、そしてまた横浜ワールドポーターズ、万国橋のほうに戻り、コスモクロック21のライトアップを楽しんだ後に、またこの日本丸のライトアップを観たいがために、このメモリアルパークに戻ってきたのです。もう行ったり来たりで、この間の距離かなりあるんですが、もう相当足が限界に来ていました。


足を引きずって、メモリアルパークに戻って来て、日本丸のライトアップです。残念ながら、船の上のほうの照明しかつかないそうで、船全体の照明がつくのは、ある限られた日ののみなんだそうです。


きっとクルーズ入港と同じで、Web HPなんかで、その日が公開されて、みんなその日に合わせて撮影に来ているんですね。


とりあえず、自分の場合は、船の上だけのライトアップですが、こんな日本丸のライトアップです。バックにコスモクロック21が入るような構図にして。。。


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船全体がライトアップされた場合は、ネットで探してみたんですが、ありませんでした。SNSのコミュニティサイトではそういう投稿があって、いいな~自分も撮影したいな~と思ったのですが。。。普段は、日本丸の夜のライトアップというと、今回みたいに船の一番上のランプだけを点灯させるものが多いようです。


いつか、またチャレンジするために、来てみたいです。



今回の横浜シリーズで最大のボルテージマックスの大事な日であった、みなとみらい21の訪問。

無事すべてのミッションをコンプリートして、いい写真を撮影することができました。


この夜の日本丸の前のベンチで、へたりこむように座って休んでいたのですが、この日のできごとが走馬灯のように頭を駆け巡り、よく頑張ったな~自分と褒めてあげました。


そしてベンチからそびえ立つ夜の日本丸を見上げて、相変わらず巨大で怖い感じがするのですが、なんともいえない充実感に満たされていたのでした。


もう体はヘトヘトで限界でした。

















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