文(ふみ)の便り [雑感]
平安・鎌倉時代から江戸時代に至るまで日本の古来から、文(ふみ)というのは特別なコミュニケーション手段で、対面で語り合う以上になんか特別の意思伝達ができるものだったに違いない。
よく恋文(こいぶみ)というのは、男女間でお手紙というあくまで文面でやりとりをすることで、お互い想像を膨らませていって、相手の方はどんな方なんだろう、その文面からさらに激しく相手に想いを寄せるようになって、恋心が燃え上がる。そして長い間、文のやりとりをして、そうしてとうとう念願の対面となる。
昔の日本の恋人同士は、まず最初は文(ふみ)でやりとりをすることが常だったらしい。想像の中でその文の文章の中から、相手への想いがどんどんエスカレートしていく。文というのは、そういう前哨戦的な役割をはたしているものなのだ。だから男女間のお付き合いは、まず文のやりとりから始まる。
文(ふみ)、お手紙というのは、ある意味、自分を脚色できるところもあるのではないか。
人間誰でも他人に対して自分をよく見せたいという気持ちはあるものだ。自分の姿を知られない状態で、文の中で、その言葉の綴りの中だけで自分の心の移ろい、美しさ、純情さ、そして架空想像上のよりよく見せたい自分を相手に表現できる手段でもある。
ある意味、文ほど自分の心の真の姿が出てしまうものもないのではないか。
対面での会話が苦手な人でも、文のやりとり、文通だと自分を出せる人はこの世の中たくさんいるだろう。
文、お手紙で書くということは、リアルな対話以上に、なんか感情的にグッとくるような重いものがある。また文章での疎通はかなり重い、相手への正式な通達みたいな側面もあるのではないか。
ライセンスの世界では、”レター”や”訴状”という形式に則った文面が相手への公式な意思表示になる。決して長文ではないが、まさにオフィシャルな公式の文調でピリっとくる緊張感が漂う。この書面のやりとりからバトルが始まるのだ。(笑)
文章は重いのだ。
いまの軽い時代では、お手紙は重い、としか思われないだろう。スマホのLINEで気軽にワンショットの吹き出しでやりとりをしたり、スマホのテレビ電話でお話しするいまの時代。
お手紙は重すぎて勘弁、というくらいにしか思われていないだろう。
家族で長年に渡って一緒に暮らしている間柄だと、お手紙でやりとりをすることなどほとんどない。家族ほど自分をよく知っている者はいないし、普段日常会話でなにげなくやりとりしている家族。
その家族から手紙をもらうということはほとんどないに違いない。
両親の実家から独り立ちして上京してから、オヤジから手紙をもらったことは、自分の記憶では2回ある。1回は、上京したての頃、ホームシックにかかってしまい、毎晩寮の公衆電話から実家に電話を入れて親の声を聞いていた精神不安定だった頃。オヤジが励ましの言葉とそんなことで、これからの長い社会人生活どうする?やっていけるのか?という叱咤激励の手紙だった。その手紙は紛失してしまって、いまは手元に残っていない。
あとの1回は、自分が大病を患ってしまい、長い間北海道の実家で静養して、そして東京に戻って来て復職したときだ。会社に復職したものの、3年間も不在にしていれば自分の復帰場所も存在しないのはあたりまえだ。
結局早期退職となった。42歳の時である。まさに人生での厄年1回目である。そして1年間は失業保険で暮らしていく。会社都合での退職なので保険給付も長期間で手厚かった。
生活をダウンサイジングする必要があった。高級マンションからもっと手頃なマンションに引っ越し。その引っ越しした自分の新しい住居に、両親が偵察ということで来てくれたのだ。
そして、その帰りに両親を駅まで送るときに、自分が普段愛用しているお寿司屋さんでオヤジ、オフクロにお寿司を御馳走したのだった。
それが大層嬉しかったらしく、その後、オヤジからお手紙をもらった。お手紙の1番の目的は、妹夫妻やオヤジ、オフクロの近影の写真を贈るというものだったが、そこにオヤジのいろいろな想いが綴られていた。
自分がオヤジ、オフクロにお寿司を御馳走したことをそんなに嬉しく思ってくれていたとは思いもよらず、自分は驚きだったが、「帰りにお寿司を御馳走になり、有難う。就職以来何回目かなと思いながらも少しは成長したかなと、ママと話しながら帰りました。」
確かに社会人になって両親が何回か上京して食事をともにしたこともあったが、自分が御馳走したことってそんなになかったっけ?(笑)
まさに無職の時代。これから新しい第2の人生を歩むべく、その第一弾としての引っ越し。これから職探し。そんな人生苦境の時期に、両親が陣中見舞いに来てくれた。
手紙の中には、「四十過ぎの高齢者(特に無資格者)には厳しい事と推察しています。」・・・が頑張れ!という激励であった。
3年間北海道の実家で静養していたときは、毎月1回北大病院で診察を受けていた。オヤジが車で送迎してくれて、診察のときもオヤジ同伴である。
オヤジは大層嘆き悲しんでいた。こんな病気になってしまい、もう普通には働けない体になってしまったんだぞ。お前これからどうやって生きていくんだ?お父さん、お母さんのほうが早く死んでしまうんだぞ!その後、お前どうやって生きていくんだ?
毎回の診察でも、オヤジは北大の主治医の先生に、息子の将来、この病気の場合のその後の人生の生き方について毎回食い入るように相談していた。
自分ははっきり言ってそれが憂鬱だった。
自分にとって、そんなに重い病気、症状だとはまったく思っておらず、全然楽勝で復帰できる。絶対元の生活の戻れるという確信、自信みたいなものがあったので、全然心配していなかったのだ。他の患者さんは、障害者としてその後の人生を歩まれている人も多い中、自分は全然その方々とは違うと思っていた。まったく心配していなかった。自分はせっかくもらったお休みだから、じっくり3年間、会社のことを考えずゆったり楽しみますよ、くらいにしか考えていなかった。
でもオヤジからすると、病気のことを勉強していくにつれてそういうケースを学んでしまうため、息子もそうなってしまう、と深く嘆き悲しんだのだ。そして北大の主治医の先生に、毎回そのことについて真剣に相談するのだった。
それが自分にとって嫌で嫌で堪らなかった。気分が暗くなるからだ。一気に自分も不安になってしまい、そんな気持ちになってしまうからだ。
オヤジからもらった手紙の最後には、そのときに、土曜日が都合が悪く、いまの自由が丘の主治医の先生にご挨拶して面談の機会を逃してしまったのがすごく残念と書いてあった。
そうか~!そんなこともあったな~と思い出した。
病気を甘くみてはいけないが、その後無事今の会社に再就職出来て、第2の人生を再スタートすることができ、まさに人生の幸福度としては最高潮に達したのだ。海外旅行へは行きまくり。(笑)クラシックとオーディオ、そしてグルメ、旅行をメインにした趣味に生きることを自分の人生軸に置いた人生が大成功となり人生を謳歌し続けた。
まったくこんなに人生が好転するとは思ってもいなかった。オヤジが毎日、自分にお前この後どうやって生きていくんだ?と毎回怒られていた毎日を過ごしていた実家静養時代。
自分の子供のことを真剣に心配してくれる親は当然だろう。だからそれも当然だったと自分は思う。でもそういうオヤジの心配をよそに、無事、オヤジを安心させることができて、まっ子供心によかったと思っている。
ほんとうに人生なにがあるかわからない。人生どうなるかわからない、なのである。
オヤジが亡くなったのが2014年である。ライプツィヒ・バッハ・フェスティバル真っ最中のときであった。そしておフクロは、いま施設に居る。
オヤジとオフクロにお寿司を御馳走したお店がいまのおらが街の駅のすぐ傍の栄寿司である。
昭和32年創業で66年の伝統ある寿司店で、自分はいまでこそご無沙汰しているが、その昔はかなり贔屓で通っていたお店である。回転寿司が多いこの時代の中で、このように昔ながらのいかにも日本伝統のお寿司屋さんという雰囲気が好きでよく通っていた。
ご主人は二代目だそうで、お母さん、お嫁さんと思われる女性の方が給仕さんなどお手伝いをしている。やはり地元密着型のお店で常連さんが通うお店だ。
大学のときに取った自動車運転免許だったが、自分のチョンボで免許失効してしまったことがあって、このおらが街の自動車学校にもう1回通い直して再取得したことがあった。それがいまの会社に転職したその頃だったので懐かしい想い出だ。
会社をフレックスで早めに退勤して自動車学校に毎日通う。もちろんいまのこの時代でも取る免許はMT車の自動車運転免許です。車の運転はマニュアル、MTに限ります。あれから自動車運転免許証もグリーン、ブルー、そして3期連続ゴールド免許である。ペーパードライバー強し!です。
でも仕事はカービジネス関連ひと筋です。(笑)
その自動車学校に通っていたとき、授業、演習が終わったら、毎日この栄寿司でお寿司をいただくのが楽しみだったのだ。なんか毎日通っていた記憶がある。それでこのお寿司屋さんを知ったきっかけになった。
それからオヤジ、おフクロをこのお寿司屋さんで御馳走したのだった。
店内はカウンターとテーブルとがある。
このテーブルでオヤジ、オフクロにお寿司を御馳走したのだった。
栄寿司には、もうここ10年くらいご無沙汰で不義理をしていた。超久しぶりに入ったら、なんら変わっていなかった。ご主人もほとんど変わっていない。
ここに来たら、おまかせ寿司。オヤジ、オフクロにもこのおまかせ寿司を御馳走した。
見栄えも美しく、相変わらずの美味でした。
体育会系というよりは、品のある上品なお寿司ですね。
セカンドステージ、セカンドライフという第二の人生をこれから再スタートする。まさに人生2回目の厄年の60歳である。あのときも厄年の42歳であった。これからどんな人生が待っているのか・・・。
そんなときにふっと思い出し、オヤジの手紙を読み返してみた。普段、一緒に居ることが多かった自分のことを一番知っている家族が、こうやって手紙という文章で想いを綴ってくれるのは、これまたなんか一種独特の感覚がある。文を読めば、あ~まさにオヤジそのものだな~と分かるし、相変わらずオヤジらしいなと思うけど、やはり文(ふみ)、手紙が相手に与える独特の感覚は襟を正すというか、折り目正しさを相手に与えるし、重い感覚があり、しみじみと感傷に浸るものである。
オヤジは九州男児そのもので、短腹(短気なこと)ではあるが、よく笑うし、男らしい性格でいい男であった。まさに九州男児という感じであった。息子の自分にとってはよく怒られていたという記憶が圧倒的ではあるが・・・(笑)。
2024-02-21 19:17
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